日野 強

必死で越えたカラコルム峠 〜中央アジア横断の先駆け〜

シルクロードへの秘密の旅

古代の中国からローマ帝国まで貴重な絹織物を運ぶ通路となった中央アジア一帯を、「シルクロード(絹の道)」といいます。
シルクロードは、アジアとヨーロッパをつなぐ重要な地域として、古くから商業や文化が栄えていましたが、日本から中国経由でシルクロードに行くためには、ゴビ砂漠、タクラマカン砂漠などの広大な砂漠や、天山山脈、崑崙山脈などのけわしい山脈を越えなくてはなりません。このため、日本人でこの地域を探検したり、調査した人はほとんどいませんでした。
日本人によるシルクロード探検の先駆けのひとりとなったのが、日野強です。
日野強は、1866年(慶応元年)、今の愛媛県小松町で生まれました。
勉強することと人にものを教えることがすきな強は、愛媛県立師範学校を卒業すると、しばらく小学校の先生をしていましたが、1886年(明治19年)士官学校に入学、1889年(明治22年)にここを卒業して、陸軍軍人となりました。軍人といっても、日野強が活躍したのは、海外の調査活動です。当時、日本、清(中国)、ロシアの利益が複雑にからみあった朝鮮半島、中国東北地域、中国本土の動きを探るのがおもな仕事でした。
この間日野は、中国語がよくでき、しかも、中国の内部事情をよく知っている人として、軍隊での評判が高くなりました。そしてついに、1906年(明治39年)7月、軍の参謀本部から、天山山脈にかこまれたイリ地方を中心に、清国の新彊省(今の新彊ウイグル自治区)を視察するよう秘密の命令を受けました。
新彊というのは、シルクロードのうち、中国側の東半分のことです。シルクロードの西半分はすでにロシアの領土となっており、日野の調査は、新彊のくわしい地形などにくわえて、国境地帯での清とロシアの動きを探ることが大きな目的だったのです。

決死のゴビ砂漠横断

命令を受けた日野強は、すぐに新彊について調べはじめましたが、日本には参考となるような資料はほとんどなく、新彊旅行の経験者もいませんでした。このため、中国で詳しい計画を練ることにし、9月7日に東京を出発、9月20日に清国の首都北京に到着しました。
北京で、新彊探検の経験をもつ西本願寺の堀賢雄らから情報を収集すると、近郊の保定で上原多市という24歳の青年とおちあい、10月16日、いよいよ中国内陸部に旅だちました。
上原は、原尚之と名前を変え、弁髪というそのころの中国人と同じ髪型をして、完全に中国人になりきって保定にもぐりこんでいました。このため、目的をかくして調査をおこなう日野にはつごうがよかったのです。日野は、上原を中国人の青年といつわって、旅行にいっしょにつれていくことにしました。
また自分も、旅行中は「熙強」と名前を変え、中国人の旅行者になりすますことにしました。
とちゅう、河南省の陝州で西本願寺の大谷光瑞に会いました。シルクロード探検の先駆けのひとり大谷は、日野に貴重な助言をしてくれただけでなく、写真機と時計を貸してくれました。また、新彊奥地の都市カシガルに駐在するイギリスの外交官ジョージ・マカートニへの紹介状も書いてくれました。
中国本土最後の大都市、甘粛省の蘭州で馬車を準備すると、12月18日にはここを出発しました。元旦は東楽城というさびしい村でむかえたのでした。
1月11日からは、昼と夜を入れかえ、昼休んで夜進むことにしました。
それは、
1. 夜は人も馬ものどがかわきにくいので、貴重な水が節約できる
2. 夜の砂漠は風が弱い
3. 夜は汗をかきにくい
などの理由からで、大谷をはじめ、いろいろな人たちから教わった砂漠旅行の知恵のひとつです。
18日には安西の町に着きました。ここは中国本土の西の端。安西を越えるといよいよ新彊省、ゴビ砂漠を横断しなくてはなりません。
砂漠といっても、ゴビは砂だらけの土地ではありません。むしろ黄土(レス)

や小石だらけのほこりっぽい道が多く、水もなかなかありません。たまたま水があっても、多くは、塩などがまじったにがい水で、ひどいときは、馬も飲みたがらないこともありました。
日中でも温度が零度を超えることがない冬のゴビで、砂漠にはめずらしい吹雪にもあいました。
死んだロバが5頭、路上にそのままになっていたのにはほんとうにおどろき、また、砂漠のきびしさを実感しました。
それだけに、1月31日、ぶじゴビ砂漠を横断して、ハミの町に到着したときには安心しました。
「広い大海原を横断して同じ眺めにあきた人が港に着いたときの喜びも、このときの自分の快感にはおよばないだろう。」
これがそのときの日野のきもちでした。
新彊の入り口ハミは、おいしいメロンで有名な町です。
しかし、季節は冬。しかも新彊の調査ははじまったばかり。ハミにいつまでもゆっくりしているわけにはいきません。2月4日には、つぎの目的地のトルファンへと出発しました。
2月14日からは、昼進むことにしました。ゴビ砂漠の難所はもう通過してしまいましたし、やはりなんといっても昼の旅のほうが陽気だからです。馬にムチをあてながら、日野は勇ましいきもちになりました。
まわり全体を大山脈に囲まれているのに、トルファンだけは、低く盆地になっています。近くのアイディン湖は海面下154メートルの低地というふしぎな地形のところで、新彊の交通の中心です。2月17日に到着すると、20日には、あわただしく新彊の政治の中心ウルムチめざして出発しました。

天山山脈で日本人に会う

トルファンからウルムチに行くには、天山山脈を越えなくてはなりません。この山脈は古代からシルクロードのなかでも道がけわしいところとして知られ、いちばん高いポベータ峰は7,439メートルもあります。日本を出発するときから、日野は、天山越えをゴビ砂漠横断とならぶきびしいものと予想して、困難を覚悟していました。
しかしふしぎなことに、天山山脈には、進んでも進んでも坂らしい坂がありません。トルファン出発いらい、平地を歩くのと同じ感じなのに、いつのまにか深い山のなかにはいりこんでいるスケールの大きさに、島国日本との違いをひしひしと感じるのでした。
そしてこの天山山脈のまっただなかで、2月24日、日野は、日本人林出賢次郎と会ったのです。
林出はその当時24歳。日野に先立って、1905年(明治38年)から新彊にもぐりこんでおり、このときは、ウルムチを出発して北京へもどるとちゅうでした。
それまでもなんどか敵におそわれた経験のある林出は、日野の一行のそばをいそいで通ったのですが、通り過ぎてから、あやしい男があとを追ってくるのに気づきました。
男は、林出に追いつくと、「リクグンショウサ、ヒノ、オメニカカリタシ」と書いた紙をだまってさしだします。これをみてさっきの一行が日野強たちだと気がついた林出は、借りていた馬を返すとすぐに引き返し、日野におちあったのでした。
このとき林出を追いかけたのは、保定から同行していた上原多市でした。また、上原がもっていった紙にカタカナだけで「会いたい」という意味のことを書いたのは、まんいちこれが人違いだったとき、漢字で書くと、内容が中国人にも簡単にわかってしまうからです。
日本をはるかにはなれた天山の山のなかではじめて会った日野強と林出はすくになかよくなり、のちに林出は、日野強の次女と結婚しました。
林出といっしょになった日野は、2月25日、ウルムチへ到着しました。
林出賢次郎のおかげで、日野強のウルムチ滞在はひじょうに充実したものとなりました。清国側の役人やロシアの代表と会って話をすることができたのです。

こで新彊をめぐる当時の国際情勢をみてみましょう。
19世紀のなかごろから20世紀のはじめにかけて、ロシアは、南へと領土を拡張し、各国とぶつかっていました。このうち、中国東北部や朝鮮半島での日本との対立は、日露戦争となって爆発しましたが、中央アジアでは、清国の力が弱くなったのにつけこんでイリ地区を不法に占領して、国際的な非難をあびていました。ロシアにたいする反発のきもちから、清の役人は日野には好意的で、馬車を用意してくれたり、道案内する人を紹介してくれたり、かれの調査旅行をいろいろ助けてくれました。
日野が調査旅行をおこなったころ、清の中央政府は、ロシアから新彊を防衛するためイリ将軍という軍隊の最高司令官を任命していましたが、日野はウルムチで会った将軍、長庚にたいへん気に入られました。
その反対がロシア領事のクロトコフです。
日野がロシア領事館を訪問すると、いじわるく、
「あなたの旅行は、日本のためですか。清国のためですか。」
ときいてきました。
日野は平然と
「自分はぶらぶら旅行したいだけです。」
とこたえましたが、クロトコフは満足しません。
「もっとくわしく教えてください。国境の町タルバガタイへも行く予定ですか。」
「ええ。」
「あそこは荒れ果てたさびしいところで、見るものはなにもありませんよ。」
「ご忠告ありがとうございます。でも、さびしいところというのは、それなりの趣がありますからね。」
といった、探りあいがつづきました。
そして、日野がタルバガタイからロシアを通ってイリに行きたいとたのんだのにたいしても、
「絶対にだめです。」というばかりでした。
日野はこのウルムチの町に3月24日まで滞在しましたが、出発のときには、清国の役人がみな見送りにきてくれました。また、タルバガタイまでぶじ旅行ができるようにと、中国本土から乗ってきた二輪馬車

のかわりに、より便利なロシア式の四輪馬車を用意してくれました。

めざすイリに到着

ウルムチを出ると、30日には、いちめんに葦のはえている湿地帯にさしかかりました。ここは、トラなどの猛獣があらわれる危険地帯です。4月にはいると、道はますます悪くなり、雪解け水がたまった泥のために、前進がむずかしくなりました。ひざまで泥に埋まってしまって、3時間かかってもほとんど進めないこともありました。ようやくタルバガタイについたのは、4月15日のことです。
ここに21日まで滞在し、付近の調査をおこなったり、ロシア領事のソコフをたずねたりしましたが、ロシア領土通行の許可はついにもらえませんでした。このため、日野はウルムチから来たときの道をとちゅうまで引き返してイリにむかうことにしました。今度も苦しい行進でした。
5月だというのに、とちゅうのセリム湖はまだ氷でおおわれています。
ところがセリム湖をすぎて急な坂を越えると、スモモの花が満開の林にさしかかりました。峠を越えるとすぐに冬が春に変わってしまうというシルクロードの自然のふしぎさに、日野はあらためておどろき、感動するのでした。
5月11日、めざすイリ地方に足を踏み入れ、13日には町の中心に到着しました。思えば前の年の9月に日本を出発してから8か月かかっています。
現在のイーニン市を中心とするイリ地方は、シルクロードの本道からははずれていますが、水が豊富で、新彊のなかでもゆたかな地域として知られています。
イリ到着と同時に清国の役所にあいさつに行き、さっそく周囲の調査をはじめました。  
ウルムチで別れたイリ将軍の長庚にも、また会うことができました。
日野の一行がたいへん気に入っていた長庚に、「イリの若者を教育するのに力になってほしい。」とたのまれ、日野は、ここまでいっしょにきた上原をイリに残すことにしました。そのかわりに、長庚は、トクタというイリの役人とイリ産の名馬をいっしょにつれていけるよう手配してくれました。シルクロードのことばと地理にくわしいトクタがいてくれたことは、旅行の後半たいへん役に立ちました。日野はインドを通って中国までトクタをつれていき、長江(揚子江)河口の大都市、上海で別れました。

5月30日のイリ出発のときは、見送りもはなばなしく、護衛や通訳つきの大旅行となりました。

世界の屋根を行く

イリを出ると、カラシャールまでは、二度目の天山越えです。しかし今度は、地理も、ことばも、食糧も、なんの不安もありません。長庚の手配で、通過する土地の遊牧民が案内をかってでてくれ、かえって、かれらと別れるときのみやげものに苦労するくらいでした。
カラシャールからは、クチャ、アクスなどの古くからの都市を通って、天山山脈の南のタクラマカン砂漠ぞいの道を、一路カシガルをめざしました。この道は、天山南路といってシルクロードの中心地帯。仏教の遺蹟もたくさんあります。
天山南路を通るとき、日野の調査旅行は、6月から8月といちばんあつい時期にさしかかったため、カやアブなどの虫と、飲料水の不足に悩まされました。昼はとても馬車に乗っていられません。このため6月28日からは、ふただび、昼休んで朝夕のすずしい時間帯や夜に行進することにしました。
カシガル近くのマラバシという小さな町では、到着するとすぐ、現地の役人が、
「これがなによりの宝です。」
といって、40キロも上流の川からくんできた水を飲ませてくれました。そのおいしいことといったらありません。
こうして、8月8日、天山南路の終点カシガルに着きました。
新彊のはて、パミール高原の入り口カシガルは、清・ロシア・インド三国の国境地帯。ここには、清国とロシアのほかに、当時インドを植民地としていたイギリスの役人もいます。カシガルに着くとすぐ、日野は三国の役人をつぎつぎに訪問しました。
11日には、日本の家族などにインド経由で手紙を出し、また、中国本土で別れた大谷光瑞に、ぶじカシガルに着いたお礼の電報を打ちました。
カシガルにはじまるパミール高原は、「世界の屋根」といわれる高山地帯で、平均の海抜でさえ、富士山を超える4,000メートルもあります。カシガルからインドへ行くには、どうしてもカラコルム山脈を越えなくてはなりませんが、この山脈には、世界で2番目に高いK2(チョゴリ)峰(8,611メートル)などの高い山が連なっています。日野も、今度こそは簡単に越えられないぞと覚悟しました。
さて、カラコルム

山脈を越えるのには、当時から、K2峰をはさんで西と東に二つの通路が知られていました。日野は、はじめ、大谷光瑞がインドから新彊にはいるときに通過した、西側のギルギット経由の道を通ることを計画していたのですが、インド総督からその許可がおりません。しかたなく、東側のカラコルム峠を越えることにしました。カラコルム峠は海抜5,575メートル。日本人がまだだれも通ったことがないけわしいところです。
8月24日にカシガルを出ると、ヤルカンド(莎車)へむかい、ここで、カラコルム越えの準備をしました。
カラコルムを越えるためり注意はいくつかあります。
まず、空気がうすくけわしい山道を通る1か月半の旅行となるため、荷物は必要な最少のものに減らさなくてはなりません。もし最初になにか準備を忘れても、とちゅうに人がほとんど住んでいないため、不足したものを買いたすことはできません。
馬は、とちゅうで動けなくなったり、死んでしまったりすることを予想して、最初から必要な頭数の2割ぐらい多く準備します。馬のえさはかさばって運べないので、とちゅうの雑草を食べさせることにします。
燃料は、道ばたの木か馬の糞を燃やします。
また、水は、川からくむか、山のなかの氷をとかして飲むかしなくてはなりません。
カラコルム越えのために日野が準備した馬は12頭。この馬のせわをする人やガイドをふくめると、当時としても、とても規模の大きなものになりました。こうして、9月15日、ヤルカンドを出発しました。

ついにインドへ

21日には、カラコルム山脈最初の嶺アッコラムにさしかかりました。坂が急なため、とても馬に乗ったままでは通ることができません。馬からおりて、荷物を予備の馬に分散させ、2時間かかってようやく通過しました。坂を越えると、今度は川をさかのぼって進みましたが、その川の深さは、馬の腹までくるほどもあります。
22日に清国側の最後の集落を通過すると、23日からは完全に人のいない山道です。  
28日からは、あまりの高さに空気がうすくなり、おかゆが煮えなくなりました。
29日からは、高山病防止のため、人も馬も、食事を半分に減らすことにしました。しかし、空腹なはずなのに食欲がでません。
10月1日、人も馬も苦しさに鼻血を出しながら、カラコルム峠を越えました。峠のうえは風が強く、雪も氷もまったくありません。
ところが峠を越えてインド領にはいると、清国とはうって変わって氷河におおわれた世界です。馬からおりて、すべらないように杖をついて一歩一歩進みましたが、最後はまったく動けなくなってしまいました。ガイドに背負われて氷河を越え、ようやくのことでカラコルム道のインド側の終点レーの町にたどり着いたのは、12日のことです。
到着すると、日本軍の稲垣騎兵中佐から、「ふもとのスリナガルでお会いしたいので、レーに着いたら連絡して欲しい。」という手紙がとどいていました。きびしかった調査旅行も終了に近づき、日本人と連絡ができる地域にはいったのです。カラコルム越えのために雇ったガイドや馬を中国に帰らせると、日野は、10月15日、さっそくスリナガルにむかいました。
とちゅうには、イギリス人がつくったキャンプ用のバンガロー(山小屋)があり、もう旅にこまることはありません。27日、スリナガルに到着しました。

474日ぶりの日本

スリナガルで、探検家として知られるイギリス人の駐在官ヤングハズバンドにあいさつすると、むかえにきた稲垣といっしょにインド各地を見学しながら、カルカッタにむかいました。11月23日にカルカッタ港を出発して、とちゅう、シンガポールや上海にたちより、神戸港に着いたのは12月24日。翌25日、東京にもどり、到着の報告をおこないました。
1906年(明治39年)9月7日に出発していらい474日の旅です。
長かった調査旅行をふりかえって、日野はつぎのような意味の漢詩(中国語の詩)をつくりました。

 天山の南北 仙人が住むという地域をたずねた
 崑崙を越え 仏の門をたたいた
 それでもまだふつうの人間だということには、自分でも大笑い
 大亀の背中に乗って故郷にたどり着いた

日野は、調査旅行の内容をまとめて「伊犂紀行」というくわしい本を書きました。このため、多くの人が日野の成果を利用できるようになりました。日本とは、風土、気候、生活習慣などすべてがちがう新彊で、苦しいこと、めずらしいことの連続でしたが、日野は、シルクロード探検・調査の先駆けの役割をりっぱはたしたのです。
新彊に出発したときの日野の軍人としてのくらいは少佐でしたが、調査の成果を認められて、「伊犂紀行」出版後、中佐に昇進しました。
しかし、1913年(大正2年)に大佐に昇進すると同時に軍隊をしりぞき、中国の青島で事業をしたり、宗教活動に身を投じたりして、1920年(大正9年)12月23日、54歳で一生を終えました。

この原稿は、日野強「伊犂紀行」芙蓉書房(1973年)、金子民雄「中央アジアに入った日本人」中央公論社(1992年)を参考にまとめました。

人物評伝扉