早田文蔵

広がるダーウィン進化論への疑問 〜台湾の植物分類学のパイオニア

植物への強い興味

 ひとが探検や調査をするようになるきっかけはいろいろあります。
 「こんな狭いところになぜたくさんの種類の植物が育っているのだろう。」
 この疑問が、早田文蔵が台湾と東南アジア各地の本格的な調査をおこなうことになったきっかけでした。
早田文蔵は、1874年(明治7年)12月、新潟県加茂町(今の加茂市)に生まれました。文蔵が6歳のとき、手広く鋳物問屋をやっていた父の新吉が亡くなり、それからは、祖父母と母のハツによって育てられました。
1887年(明治20年)に、加茂小学校から長岡中学校に進学しましたが、文蔵は、ころころすでに植物に強い関心をもつようになっており、学校での勉強のあいまに、熱心に植物採集や観察をおこないました。
しかし、1889年(明治22年)から翌年にかけて、文蔵を育ててくれた祖父母もあいついで亡くなり、長岡中学校を約2年で退学しなければなりませんでした。そしてこのときから、学校へ行って勉強したくてもできない、苦しい日々がつづきました。
中学校を退学した文蔵は、父や祖父のかわりに、おとくいの商店に注文をとりに行ったりして家のしごとを手伝いましたが、町のお祭りでみんなが遊んでいるときにこっそり蔵のなかで勉強するなどの努力をつづけ、勉強のおくれをとりもどしました。
この間も植物学への興味を捨てなかった文蔵は、1892年(明治25年)、自分の力だけで東京植物学会に入会し、わからないことや納得できないことがあると学会につぎつぎと質問を送り、疑問を解決しました。
1895年(明治28年)には、上京して郁文館中学校にとちゅうから編入学しましたが、翌1896年(明治29年)母のハツが亡くなり、もう故郷の新潟には帰らず東京で生活していく決意を固めたのでした。
東京へ出てからの学校の費用は文蔵のおじがめんどうをみてくれました。しかしおじからのお金の仕送りがおくれることもあり、そのようなときには、ご飯だけを炊いて、それにしょうゆをかけて食べるというような苦しい生活でした。
しかし下宿の人たちがたいへん親切で、のちに文蔵が桂公爵記念賞を受賞したときには、自分のことのようによろこんでくれました。
「下宿の人たちとのおつきあいは、ずっとあとまでつづいていたように思います。」
文蔵の長女幸子さんは、のちに語っています。
郁文館中学校卒業のときには、学校から、「品行方正(おこないが良い)」「学術優等(勉強の成績が良い)」「身体強健(体がじょうぶ)」と表彰されました。後年になって中学時代のことを思い出した文蔵は、家族に向かって、
「自分はこんなに昔からやせていて体もじょうぶでないのに、学校ではオマケをしてくださった。」
と、にがわらいしながらいっていました。

はじめて台湾にわたる

1897年(明治30年)、中学を卒業した文蔵は、工学博士川上浩二郎の世話ではじめて台湾にわたり、現地の植物を自分の目で観察しました。この台湾での調査が、文蔵の生涯にわたる研究の方向を決定したのです。
台湾は、当時の日本と中国(清国)がおこなった日清戦争(1894年〜1895年)の結果、1895年(明治28年)から日本の植民地になっており、日本人によって、植物だけでなく、いろいろな面での調査、研究がはじめられていました。
鹿児島県屋久島の南のトカラ海峡には、温帯の植物と熱帯の植物を分ける渡瀬線とよばれる大きな境界線(フロラの滝)があり、日本の植物とそれより南の台湾の植物は種類がたいへんちがいます。それまで日本の植物しか観察したことのなかった文蔵のまえに、急に新しい世界が開けてきたのでした。
その年の秋、文蔵は旧制第一高等学校予科に入学しました。おくれて中学を出たため、クラスでもいちばんの年輩者の一人でした。
日曜や祝日にはかならず、胴乱という植物を入れる金属製の入れものを下げて郊外を散歩していたので、たちまち「スパチール早田」のあだ名をつけられてしまいました。スパチールというのは、ドイツ語で散歩のことです。
「スパチ―ル早田」は、いつも、ルーペ(虫めがね)とナイフを麻のひもで結んで、上着のボタンの穴から、左胸のポケットに入れてもち歩いていました。
1898年(明治31年)の夏休みのことです。文蔵は、栃木県の日光から、山を越え福島県の会津地方の友人八田吉平をたずねました。当時会津には汽車も通っていませんでしたから、とちゅう、尾瀬沼の植物を調査しながら、山を越えていったのです。
会津地方で落ちあった文蔵と八田は、いっしょに磐梯山、吾妻山に登り、高原の植物を調査しました。中吾妻山の頂上に近い密林で二人は大きな雷とすごいにわか雨にあいましたが、おどろいてあわてる八田に、文蔵は、
「水の流れる谷にそって下れば里に出るから心配ない。」
とはげまして、落ち着いて先に進んでいくのでした。
また文蔵は、調査旅行中、胴乱のほかに、いつも重さ

6キロほどもありそうなふろしき包みを背負っていましたが、旅館に着くとすぐにそれを広げて、実験室用の大きな顕微鏡と解剖用具をとりだし、旅館を実験室にして研究をはじめました。そして、その日採集した植物を整理して記録し、そのうちめずらしいものはていねいに写生したり、顕微鏡で拡大して観察します。その日採集した植物の研究が終わらないうちは、ぜったいにくつろがないのでした。
この旅行をきっかけに、文蔵と八田はたいへん親しくなり、朝の4時に出発して夜の8時まで、一日70キロもの距離を歩いて、寄宿舎の近くの東京の春の植物をみてまわったこともありました。
 
台湾の植物研究にうちこむ

1900年(明治33年)、文蔵は、東京帝国大学(今の東京大学)理科植物学科に入学しました。大学に入学してからも文蔵の観察好きはかわらず、休暇を利用しては各地の植物をみてまわりました。
ある夏休みには、あまり遠くに採集旅行にでかけたため、新学期に1か月もおくれて出席したこともありました。当時は今とちがって、秋に学年がかわって進級するしくみでしたから、秋の新学期に1か月おくれるというのは、今でいえば、4月に学校を全部休んで5月から登校するような、たいへんなことだったのです。
1903年(明治36年)、文蔵は、「日本大戟科植物(葉がほこの刃の形をした植物)考」を卒業論文として大学を卒業し、すぐに大学院に入学しました。そして翌年9月には、東京帝国大学助手となりました。
1905年(明治38年)5月、文蔵は、当時の台湾の最高機関である台湾総督府から、台湾の植物を調査するよう依頼をうけました。そして、このときから1924年(大正13年)までの約19年間、台湾の植物研究にうちこみました。
しかし、当時の台湾は治安もあまりよくなく、奥地のふかい山に植物採集にでかけるときは、危険を避けるために、台湾総督府から派遣された警官が銃をもって護衛につくこともありました。
「自分は仏教の法華経の信者なので、こわくてお経の文句をとなえながら奥地を調査した。台湾の風土病であるマラリアにかかって、生命の危険にさらされたことも何べんあったかわからない。」
と家族に話すことがよくありました。
台湾の植物調査は、そのくらい命がけのしごとだったのです。
この間、1908年(明治41年)には、東京帝国大学講師となりました。

ダーウィンの影響と反発

台湾の植物をもっとよく知りたいと思った文蔵は、1909年(明治42年)からあくる年にかけて、自分の費用でイギリス、ベルギー、フランス、ドイツ、ロシアなどヨーロッパ各国をまわり、植物学の勉強をおこないました。ヨーロッパの大きな植物園には、世界じゅうの植物の標本がそろっており、アジアのいろいろな植物を比較したり、まとめて調べるには、日本や台湾にいるより、こうした大植物園に行くほうが効率がよく便利だったのです。
このうちイギリスでは、世界的に有名な王立のキュー植物園で、アジアのいろいろな地域から集められた植物の押し葉を調べました。キュー植物園は1759年につくられ、長い歴史と伝統をもっています。また、めずらしい植物の収集だけでなく、標本館、図書館、博物館などがそろっていました。
この植物園は、「動物や植物が、共通の祖先から、現在のようなさまざまの種類にわかれてきた」という「進化論」で有名な自然科学者チャールズ・ダーウィン(1809年〜1882年)ともゆかりがある場所です。たんに勉強ばかりしていた学者ではなく、実際に南アメリカのガラパゴス諸島やオーストラリアなどを探検、調査して、進化論を発表した大科学者ダーウィンと関係の深い植物園を訪れたことは、その後の文蔵の研究活動に影響をあたえずにはいませんでした。
またベルギーでは、万国植物会議に出席しました。
帰国後、1911年(明治44年)に「台湾植物図譜」の第1巻を出版し、そのつぎの年には、自分で台湾奥地の植物を調査しました。
この調査の結果、まだ知られていない植物があまりにも多いことにおどろいた文蔵は、「台湾植物図譜」をさらに書き足す必要があると感じると同時に、しだいに、台湾とふかい関係をもつアジア大陸の植物を自分の目で観察して、台湾の植物とくらべたいと思うようになりました。
1917年(大正6年)5月、文蔵は、台湾総督府の援助で、東南アジアの植物を調査することになりました。これが第1回インドシナ旅行です。
このときは、まず香港をへて、当時フランスの植民地だったベトナムのハイフォンに上陸しました。ここからタムダオ山を越え、トンキン地方南部を通って、鉄道で中国の雲南地方まで行き、雲南から引き返して、8月に日本へ帰りました。
インドシナ半島は、三歩も歩かないうちに20種類もの植物を採集することができるほど植物の種類が豊富です。しかも、それぞれの植物がおたがいにほかの植物の生育のじゃまをしないで、思うぞんぶん生育しているのを自分の目で確認した文蔵は、ダーウィンが主張して、世界じゅうの植物学者の常識になっていた進化論に、疑問をもつようになりました。
つまり、ある種類の生物が子孫をつくって生き残るために、まわりの自然をはじめ、他の生物や自分と同じ種類の生物と競争するという「生存競争」の考えや、一つの種類の生物のなかでも、環境によくあった特徴をもつものが子孫を残し、その特徴を子孫につたえていくので、時間がたつと、その種類全体が環境によくあったものに変化していくという「自然淘汰」の考えが、あまりにも単純すぎるのではないかと思うようになったのです。
いっぽう、台湾の植物調査の結果をまとめた「台湾植物図譜」第3巻で、文蔵は1920年(大正9年)桂公爵記念賞を受賞し、植物学者としての地位も高くなってきました。
 
メコン川を下る

進化論に疑問をもつようになり、東南アジアの植物をもっと観察して疑問を解決したいと考えた文蔵は、1921年(大正10年)5月、台湾総督府の援助をえて、第2回目のインドシナ調査に出発しました。
今回は、はじめにベトナムのサイゴン(今のホーチミン市)に上陸し、ランビアン高原で植物を採集してから、7月ごろタイの首都バンコクへ向かいました。バンコクからはタイを北に旅行し、ランパンで、鹿児島県出身の田中盛之助の出迎えを受けました。ランパンまでは、ハノイ大学のラグランジュ教授といっしょでしたが、ここで教授とわかれ、田中といっしょにさらに北に向かい、チェンマイに着きました。そして、雨季の旅行を避けて、チェンマイに2、3か月滞在しました。
チェンマイでは、最初の20日間ほどを田中の経営する写真館に滞在し、のちに田中の紹介で、この地方の総督ボーワラディ殿下の別荘にうつりました。この別荘は山の中腹にあり、毎日植物の採集ができます。文蔵はベッドくらいの大きさの標本乾燥機をもってきており、田中らに木炭を運ばせて、標本づくりに熱中しました。
標本をつくりながらも、文蔵は、はやくタイからラオスに行きたいと思っていましたが、5月から10月までの雨季は、メコン川の水かさが増えて危険なため、なかなか出発できません。雨季も終わりに近づいた10月、タイ北部にある国境に近い町、チェンライに向けて、馬で旅立ちました。
文蔵は植物採集以外のことにはまったく関心がなく、チェンマイでは毎日漬物だけを食べて、びっくりされてしまいました。田中によれば、
「出発前の先生は、骨と皮のようにやせておられた。」
といいます。
チェンマイを旅立つときには英語のわかるインド人を連れていきましたが、このインド人は、フランスが支配していたラオスに入ることをゆるされず、文蔵は国境の町チェンコンから、一人でラオスに入ったのでした。文蔵はフランス語はよく話せましたが、ラオスのことばは話せず、心細い旅となりました。
ラオスではまずフエイサイに行き、そこから、さらに東にある古い都市ルアンプラバンに向かいました。ルアンプラバンでは、文蔵を気の毒に思ったフランス人の知事が、サイゴンまで現地の人を案内につけてくれました。そして、メコン川を船で下りながら、各地で植物を採集し、サイゴンにもどりました。
メコン川は、長さ4,200キロ、流域面積(その川に水が流れこむ地域の広さ)800,000平方キロの、アジアで有数の大きな川です。日本でいちばん長い信濃川が長さ367キロ、また、日本でいちばん流域面積の広い利根川が16,840平方キロですから、そのスケールの大きさは比べものになりません。みなもとはチベット高原ですが、中国を抜けてラオスに入ってからは、流れも広くゆるやかになり、ラオス、タイ、カンボジア、ベトナムをうるおして南シナ海にそそぐ、インドシナ半島の恵みのもとです。
文蔵は、このメコン川を下った最初の日本人になったのでした。
文蔵がようやく日本に帰ったのは翌年の3月のことです。この第2回目のインドシナ旅行で文蔵が採集した植物の標本は約1万点で、そのうち775点は、パリの博物館にも保存されています。

心臓発作でたおれる

このあと、文蔵は3回目のインドシナ調査旅行やブラジル旅行を計画しましたが、体の調子が悪く、ついに、旅行することをあきらめなくてはならなくなりました。
その後の文蔵は、研究室に閉じこもって植物の違いを研究することに専念し、植物の分類学で大きな成果をあげました。そして1922年(大正11年)には、東京帝国大学教授となり、1924年(大正13年)からは、同大学付属植物園長を兼ねることになりました。
インドシナから帰ってからの文蔵は、生物学で常識のように考えられていたダーウィンの進化論とそれにもとづく植物の分類方法にたいする疑問が大きくなるばかりでしたが、その独創的な考え方は日本ではほとんど理解されず、むしろヨーロッパなど外国で注目されるようになりました。そして1930年(昭和5年)にイギリスのケンブリッジで開かれることが決まっていた第4回万国植物学会の副会長に推薦されましたが、この学会に出席するため研究成果をまとめているうちに、1929年(昭和4年)9月心臓発作でたおれ、もはや海外へ行くことはできなくなってしまいました。
発作後も、文蔵は新しい植物分類に関する論文をまとめていましたが、1934年(昭和9年)1月13日、心臓病のために亡くなりました。学者としては若すぎる59歳の死でした。
文蔵は植物学者として、野や山に出て自分の目で植物を観察することが大好きでしたが、自分が探検家だというつもりも、大冒険をおこなったというつもりも、ほとんどありませんでした。だから、日本人としてはじめてメコン川を下ったり、台湾の奥地を調査しているのに、旅行記を発表しなかったのです。
自分が知らないもの、わからないことへの興味が文蔵を台湾へ、ヨーロッパへ、インドシナへと駆りたてましたが、逆に最後は、同じことを研究室のなかでもできるのではないかという気持ちになりました。
文蔵にとって、足で歩く「外への旅」も、顕微鏡を使った研究室での「内への旅」も、未知のわからないものを探求するという点では同じことだったのかもしれません。

この原稿は、山田幸男「故早田文蔵先生小伝」(「植物学雑誌」1934年)、八田吉平「盟友理学博士早田文蔵君追悼」(「植物研究雑誌」1960年)、津山尚「早田文蔵先生のタイ国及び旧仏領印度支那旅行」(「植物研究雑誌」1960年)と早田文蔵の長女・秋山幸子さんの手稿を参考にまとめました。
なお、荒俣宏「大東亜科学綺譚」(ちくま文庫、1996年)に、早田文蔵の後を襲って東京帝国大学教授・東京帝国大学附属植物園長となった中井猛之進(歌人・推理作家中井英夫の
実父)の小伝「まぼろしの大東亜博物館」が納められており、同じ時代の日本植物学会の様子を知ることができる著作として一読をお薦めしたい。「まぼろしの大東亜博物館」には、中
井とライバル関係にあった植物学者として、早田文蔵の名前が一度だけ登場する。(「まぼろしの大東亜博物館」の存在は、金子拓さんのご教示により知りました。)

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