川喜田 二郎

鳥葬の国を訪ねて 〜ネパールの民俗学的探検〜

自由に歩きまわる楽しさ

「大陸は広いですからね。日本と違い、すこし歩けば海に突きあたるということがありません。それにいろいろな民族がたくさんいます。大陸を探検すると、ことばも習慣もぜんぜん違うところでくらす度胸や適応力ができますよ。」
と語るのは、ヒマラヤのふもと、ネパールを5回探検し、日本ネパール協会会長をつとめる川喜田二郎です。
川喜田二郎は1920年(大正9年)、三重県津市に生まれ、京都で育ちました。
二郎が山登りがすきになったきっかけは、京都府師範学校付属小学校(今の京都教育大学付属小学校)5年生ぐらいのときにおこなった植物採集です。遠足をしたりして比叡山など京都近くの山に登り、植物を採集するうちに、しぜんに山のなかを歩くようになっていました。
1932年(昭和7年)に京都府立第一中学校(今の洛北高校)に入学すると、クラブ活動は迷わず山岳部を選びました。
第一中学校の山岳部にはいい先輩が多く、地図の読みかた、道がないヤブのなかの歩きかた、たき火のしかたなどを手とり足とり教えてくれました。
山岳部ではヤブをかき分けて進むことを「ジャンジャン」といっていましたが、ジャンジャンを覚えた二郎は、道がないところを自由に歩きまわる楽しさを知ったのでした。また、家が近かったので、中学5年のときから、18歳年長の大先輩、今西錦司といっしょに山歩きするようになりました。
中学時代から、京都の北の丹波高原を中心に山歩きの練習をしましたが、丹波高原は、標高はそれほど高くないのに奥が深く、練習に最適の山でした。
1937年(昭和12年)に第一中学校を卒業すると第三高等学校理科に進学しましたが、そのころからスキーを本格的に習いはじめ、力がつけばつくほど自由に山を動けるという喜びを知りました。
そして1940年(昭和15年)には海外に足をのばし、中国東北部と、朝鮮半島の白頭山(2,744メートル)を取りまく外輪山の一角を探検しました。

戦争の影のもとで

しかしこの時期には日本と中国の戦争がしだいに激しくなり、山登りもしにくくなってきました。二郎も、高校の山岳部を飛び出してアジア研究会をつくるなど、なんのために山に登るのか悩みました。
それでも、だれも登ったことのない山に登りたい、だれも足をふみ入れたことのない土地を探検したいという二郎の開拓者精神はやみません。1941年(昭和16年)、第三高等学校を卒業して京都帝国大学(今の京都大学)に入学すると、今西錦司をひっぱりだし、梅棹忠夫、吉良竜夫ら大学のなかまといっしょに、カロリン諸島の調査に出発しました。日本の第二次世界大戦参戦を前に、山に登りたくても登れないふんまんをミクロネシアの島にぶつけたのです。
カロリン諸島に出発するとき、二郎たちは、もしかすると調査中に世の中が変わって、ついでにニューギニアの山が探検できるのではないかという希望をいだいていましたが、その希望は現地でくずれ、実際には、ポナペ島という小さな島の住民の生活を調査することに終わりました。しかしこのポナペ島で、のちの大きな学問的探検の訓練をすることができました。
そして、ポナペ島から帰る船のなかで、次の目標として、中国東北部の山脈、大興安嶺の北部を縦断しようと決心しました。
京都に帰ってから、なかまうちで話が決まると、二郎は、
「目標は?ルートはガン河(甘河)ですか、ゲン河(根河)ですか?」
と身をのりだしました。
 当時大興安嶺の北部はまだ正確な地図ができておらず、今西を中心とするメンバーは、地図をつくりながら動・植物、地質、住民の生活などの調査をおこない、あわせて、探検の欲求も満足させるという欲ばった計画をたてたのです。
探検は、翌1942年(昭和17年)、本隊、支隊、補給隊の3つに分かれておこなわれ、二郎は、航空写真も地図もまったくない空白地域を調査する支隊のリーダーに選ばれました。
3つの隊が場所を決めて途中で落ちあうといっても、なにしろ地図のない地域の探検ですからたいへんです。分かれるときに、会う場所の緯度と経度と会う日にちを決めたものの、そこに行ってみなければ、会う場所

が森のなかなのか、谷の底なのかもわかりません。地図のない地域を突破して、なかまとの約束の場所に到達するみこみがついたとき、二郎はうれしさのあまりご飯を食べすぎ、せっかく食べたごちそうを吐いてしまいました。それでも、
「口なおしだ。ようかんをくれ。」
といってみんなをびっくりさせたのでした。
大興安嶺を探検しながらも、参加者のこころは、次はヒマラヤに行きたいという思いと、戦争でだんだん山に登れなくなるという悩みの入り交じった複雑なきもちでした。そして、大興安嶺から帰ると、もうこうした大がかりな探検はできなくなり、なかまもちりぢりになってしまったのです。
戦争が激しくなった1943年(昭和18年)、二郎は京都帝国大学文学部史学科地理学教室を卒業しました。卒業論文のテーマは、大興安嶺探検でも部分的に取り組んだ「東北アジアの開拓問題」でした。
それは、中国東北地区、シベリア、北海道の開拓地を比較しながら、土地が肥えていれば作物がたくさんとれるので、せまい面積でも農業は成り立つが、収穫の少ないやせ地では畜産をする必要があり、収穫が少なくなればなるほど畜産の要素がつよくなって、最後は遊牧になるという仮説でした。
戦後は、遺伝学の木原均に招かれ、研究員として、鳥取県の大山のふもとで農業にかんする研究をおこないました。大山のふもとのやせた開拓地は、二郎が卒業論文に書いた仮説を実験するのにもってこいの土地です。研究員といっても、実際には農場の管理人をしながら、仮説の有効性に自信をもちました。

あこがれのヒマラヤへ行く

 1953年(昭和28年)、大阪市立大学につとめていた二郎に、ようやくあこがれのヒマラヤに行くチャンスがおとずれました。第1回目のマナスル(8,156メートル)登山隊に、科学班の一人として参加してほしいという声がかかったのです。このときの登山隊は、13人の登山班と2人の科学班で編成されており、二郎は、植物学者の中尾佐助とともに、科学班のメンバーとしてヒマラヤに行くことになりました。
二郎と中尾の科学班は、海抜5,200メートルの峠を3つ越え、雨季で流れのはげしい川を渡り、目もくらむような断がいの道を歩きまわって、多くの調査をおこないました。
出発ぎりぎりまで、結婚や子どもの誕生に追われた二郎は、今回の探検調査では自分でほとんど準備ができませんでした。そのため、人のたてた計画にあわせて調査を進めればよかったのですが、あまり楽しいと思えませんでした。戦前の大興安嶺探検の経験から、たとえ失敗しても、自分で計画をたてて探検することのおもしろさを知っていたからです。
また出発するまでは、調査だけでなく、自分でもマナスルに登りたいとひそかに思っていましたが、科学班に指名されたからには、だれも知らない「知識の山」を相手にしてやるぞと、自分を奮いたたせたのでした。
3月18日の夜東京を出発した二郎らの一行は、インドのカルカッタからパトナ経由でネパールの首都カトマンズへと飛行機で飛び、カトマンズの郊外で、まっすぐマナスルをめざす登山班と別れて西へ進みました。科学班は、まずマナスルの南にあるアンナプルナ山(8,091メートル)のふもとをひとまわりして、ネパールの人たちの生活や植物を数多く調査し、西北側からマナスル登山班のベースキャンプをめざすことにしたのです。登山班と落ちあうのは、5月下旬か6月上旬とうちあわせました。
ここからは、二郎、中尾、通訳の3人旅です。二郎の調査はネパールの地理を調べることとネパールの人たちの生活習慣を調べる民族学的調査が大きな目的の一つですから、現地の人たちにいろいろ細かい話をきかなくてはなりません。ところが、通訳が知ったかぶりをして、二郎がネパールの人たちになにかきこうとすると、自分で説明をはじめて、なかなか現地の人に質問してくれません。二郎の調査はまず、通訳の訓練からはじめなくてはなりませんでした。
民族学調査のこつは、物知りのふりをしてはやのみこみしないことです。いくらベテランになっても、少年のように素朴に質問をして、場合によっては、知っていることでも、なんにも知らないのと同じきもちできくのが、よい野外の調査なのです。
調査をはじめたころの二郎は、なかなかネパールの人たちに溶けこめませんでした。
ところが、アンナプルナ山のふもとのポコラの町で、たのまれて学校の行事に出席し、簡単なあいさつをすると、町の人たちの二郎たちにたいする態度ががらっと変わり、急に親しげになってきました。また二郎といっしょに学校の式に参列したのは、二郎たちがこれからめざしていく地域に住んでいるタカリー族のリーダーの1人で、式のあと、奥地のタカリー族への紹介状を書いてくれました。
ネパールとひと口にいっても、民族はなかなか複雑です。タカリー族の住む地域を越えてヒマラヤ山脈の北側にまわり、中国との国境に近づくと、今度はチベット人の住む地域になります。ふさふさと長い毛のはえたヤク(ヒマラヤ独特の牛の一種)に荷物をのせ、谷を越えて、アンナプルナの北に行くと景色はいっぺんで変わり、高原と砂漠の茶色の世界。そこでは、人々の考えかたや行動も、すべて変わってきます。
チベット人の住む地域で、サングダ村というふしぎなところにたちよりました。この村には、夏村と冬村のふたつの集落があり、住民は半年ごとに引っ越します。春から秋にかけて、人々はペリンという夏村に住み農業をおこないますが、冬になるとペリンは雪で閉ざされてしまうので、雪の少ないコーという冬村に移るのです。
このようなふたご集落のサングダ村のさらに奥には、トゥジェ・ラ(5,300メートル)という峠があり、そこから西に、外国人がほとんど行ったことのないトルボ地方(中央チベットのことばではドルボというのが標準の発音ですが、現地の住民はトルボと発音しています)が、広がっています。二郎と中尾は、トルボを遠くからながめ、なんと魅力のある神秘的なところだろうと思いながら道をひきかえしました。
途中、聖地ムクチナートで、死んだ少女

の肉を鳥に食べさせるチベット式の葬式「鳥葬」がおこなわれるのを知りましたが、いくら調査といっても、人が死んで悲しんでいるのをおもしろそうに見物するのはよくないと判断し、遠くから双眼鏡で観察しただけでした。
5月30日、西にマナスルが見えてきました。6月2日に登山班と会うと、登山班は7,750メートル地点までは登ったものの、ついにマナスル頂上を征服できなかったことがわかりました。
6月8日、登山班と科学班はふたたび左右ふた手に分かれました。登山班は一路帰国を急ぎ、科学班は、今度は一つの村にじっくり腰をすえ、チベット人の生活を調査するのです。めざすはツムジェという小さな村。また谷を越え、ネパールの奥地へ踏み込んでいきます。
6月14日、ツムジェ村につきました。民家の物置を借りて、まず1カ月半住むための部屋をつくりました。机といすをつくり、机のうえにビニールのテーブルクロスと空きビンを利用した花生けを置きます。窓にはガラスのかわりにビニールです。
ツムジェ村では、人々の年齢、家系、財産、宗教行事など、時間がゆるすかぎりいろいろのことを調べました。その結果、ネパールのチベット人地区では、兄弟が同じ女性を奥さんにしていることが多いと確かめられました。これは、きびしい自然のなかで、一家のうちでもいちばん力のある男が財産を管理して一族全体を守っていくための知恵なのです。

鳥葬を撮影する

最初になんにも知らないときにはなんとも思っていなかったことでも、すこし知るとおもしろくなって、もっとよく知りたいと思うことがよくあります。ネパールから帰った二郎は、しだいに、今回行けなかったトゥジェ・ラ峠の西、トルボ地方に住むチベット人たちの生活をくわしく知りたいと思うようになりました。
そうした二郎のもとに、1956年(昭和31年)秋、京都大学探検部の曽根原悳夫と、その友人で同志社大学学生の小方全弘がたずねてきました。二郎といっしょにヒマラヤを探検したいのでつれていってくれというのです。翌年、計画の実現にむけて動きだすと、メンバーはしだいにふえ、最終的には、二郎を隊長に8人で探検をおこなうことになりました。
1958年(昭和33年)6月10日、二郎は飛行機で羽田を出発しましたが、この飛行機では、偶然、ネパールのとなりの国ブータンに植物採集に行く中尾佐助といつしょでした。
ネパールでの調査と登山の許可をもらって、二郎がポコラの町に到着したのは7月4日。5年前はじめてポコラに着いたとき、二郎は、町をとりまくあこがれの山々の景色にただ感動していました。しかし今度は違います。
「丘のうえにリンゴ園がつくれるかな。特産のミカンは売れるかな。」
とポコラの観光開発について考えていました。それだけ、冷静にネパールの国を見ることができるようになったのです。
しかし今回は、田植えのいそがしい季節とぶつかったため、探検隊の荷物を運ぶ人たちがなかなか集まりません。しかも運び賃が高く、若い隊員たちは交渉に苦労しました。
また今回の隊員たちは、学校も専門の分野もみな違う人ばかりだったので、チームワークをうまくつくりだせるか心配でしたが、隊長の二郎をふくめて、隊員同志が自由に思ったことをいい、重要なことはみんなでとことん話しあったので、共同作業もうまくいきました。
それでも、タカリー族の住むトゥクチェからトルボ地方のツァルカ村まで行くのに、ふつう1週間の道のりを2週間もかかりました。雨、雪、霧など天候のせいもありますが、橋が流されてしまって、自分たちで新しくかけなおすのに3日も必要だったのです。


この橋をつくるのにつかれて、完成した次の日の朝にゆっくり渡ろうとしていたとき、あとからネパールの役人がやってきました。しかし役人たちは、
「あなたたちにとても感謝しています。」
といって、さきに渡ろうとしません。橋をかけた人よりさきに別の人がその橋を渡るのは礼儀に反しているからです。
このように苦労しながら、8月4日、ようやくツァルカ村が見えるところまで到着しました。
村の近くにそびえる高さ6,000メートルくらいの山で足ならしをすると、9月8日、小方隊員をリーダーとする登山班は、トルボ地方のさらに西、カンジロバ・ヒマールへ出発しました。このときの登山班は時間が足りず、めざすカンジロバ・ヒマールへは登れませんでしたが、野生の大麦を2種類発見するという大きな学問的成果をあげました。
いっぽう二郎たちが残ったツァルカ村では、9月9日、村のおばあさんがなくなり、鳥葬されることになりました。5年前からくわしく知りたいと思っていた鳥葬を観察するよい機会です。二郎は、おばあさんの親せきにたのんで遠くから写真を写してもいいという許可をもらい、鳥葬のようすを、世界ではじめてくわしく撮影しました。
鳥葬は死んだ人のすべての肉を鳥に食べさせ、天に運んでもらう神聖な儀式です。このため、鳥が食べやすいように死体を細かくすることが、このときわかりました。
こうしてツァルカ村の人たちの生活のしかたを調査しているうちに出発の日が近づきました。
最初のころは二郎たちがすることをただめずらしがっていた人たちも、毎日会っているうちに、二郎たちをまねて、朝は顔を洗うようになってきました。なかには、最初きもち悪がっていた石けんをほしがる女性もいます。
また、二郎たちはツァルカ村の人と交換して道具を集めるために、いろいろおみやげを準備していましたが、村の人たちは、首飾りやガラス玉などより、生活に実際役立つものを喜びます。なかでもいちばん喜ばれたのは、意外なことに、タバコの空きカンと、透明なポリエチレンの袋でした。
こうしてかずかずの

成果とともに、二郎は10月24日、ツァルカ村をあとにしました。

調査から協力へ

その後も二郎は、1963年から1964年(昭和38年〜39年)、1974年から1975年(昭和49年〜50年)、1985年(昭和60年)と3回ネパールを調査しました。
1963年から1964年(昭和38年〜39年)の調査では、これまでの2回とは逆に、アンナプルナ山の南西側のふもとにあるマガール族の村に行きました。そして、ヒマラヤ山脈の南側の人たちの生活を北側のチベット人たちの生活と比較できたので、それぞれの生活がよりよくわかるようになりました。またこのとき、タコーラ地方のシャンという村に立ち寄ったときには、シャンの人たちが二郎のことを覚えていてくれて、うれしく思いました。
こうして、ネパールの人たちと親しく接して話をするうちに、二郎はしだいに、
「自分はこの人たちを静かに観察するだけでいいのだろうか。」
というきもちになってきました。
二郎のような民族学、文化人類学の調査には二つの方法があります。
ひとつは、なるべく土地の人となじんで、土地の人に外からやってきたということを意識させずに、目立たず、抵抗感がないように観察する方法です。
もうひとつは、アメリカのシカゴ大学のソル=タックスなどが唱える、調査をする相手の人たちとの積極的なやり取りのなかからなまなましい情報をえる「アクション・リサーチ」という方法です。
実際のネパールの人たちとの接触をとおして、二郎は、このふたつの方法をあわせて調査するのが、いっそう深い調査方法だと思うようになりました。
住民の福祉に役に立ちたい、しかもヒマラヤの貴重な環境をまもりたい、と考えて技術協力していると、ただ観察しているだけではわからない住民の立場がずっとよく見えてきます。だれも登ったことがない高い山に登りたいという若いころのあこがれから出発して、自分でヒマラヤを探検しているうちに、二郎はヒマラヤがほんとうにすきになり、だまって見ているだけではものたりなくなってしまったのです。
そこで、1963年から1964年(昭和38年〜39年)の民族学調査をきっかけに、アンナプルナ山のふもとの地域

の山村の活性化と環境保全を期待して、二郎は技術協力を企てました。その努力は、同志の人々とともに、今もつづいています。
こうした二郎の態度と努力が認められて、1984年(昭和59年)、アジアのノーベル平和賞といわれるフィリピンのマグサイサイ賞を受賞、また1987年(昭和62年)には、ネパールの国からビキャット・トリシャクティ・パッタ勲章という名誉ある勲章をもらいました。そして、二郎は現在も日本ネパール協会会長をつとめ、ネパールの役に立つにはどうすればいいか、ネパールをこれまでと同じように戦争のない平和な国にするにはどうすればいいかを考えています。
最後にもう一度、二郎の話をきいてみましょう。
「探検や調査をするときに人間同志がわかりあうのは、ことばによるだけではありません。手まねや身ぶりは世界共通ですよ。それと、異民族との接触では、相手を信頼して受け入れることがたいせつです。そうすると、相手もよくつきあってくれます。世界じゅうどこへ行っても、日本的でないからけしからんといわないで、なんでも見てやろう、聞いてやろう、学んでやろうという態度が重要です。どこへ行っても相手をすなおに受け入れることができるようになれば、最後には、人間だけでなく、山や川、草や木もその人を受け入れてくれますよ。」


この原稿は、川喜田二郎「ネパール王国探検記――日本人世界の屋根を行く」光文社(1957年)、今西錦司編「大興安嶺探検」朝日文庫(1991年)、川喜田二郎「鳥葬の国――秘境ヒマラヤ探検記」講談社学術文庫(1992年)と本人へのインタビューをもとにまとめました。 

人物評伝扉