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『なんでも鑑定団』にも登場 如月 - 2011/02/22(Tue) 09:01 No.34073
本日(2月22日)の20時54分からテレビ東京系で放送される番組『開運!なんでも鑑定団』で四谷シモンの人形が取り上げられる予定です。ご興味のある方はご覧ください。
Re: 謹賀新年 いっちゃん - 2011/01/01(Sat) 23:48 No.32807 <Home >
如月さん、あけましておめでとうございます。謹呈いただいたベルメールへの旅、先ほど読了いたしました。一気読みでした。とても面白かったです。衝動的にツイッターで言及と引用をしてしまいましたwちょっと引用多すぎたかなと反省ですが、いたるところに考えさせられたりうなづかされたりする文章があって。ご恵贈たまわり本当にありがとうございました。
Re: 謹賀新年 いっちゃん - 2011/01/01(Sat) 23:50 No.32808 <Home >
URL欄に拙ツイッターのページを記載しておきましたので、もしご確認の上、引用が多すぎるとお感じでしたら、ご指摘下さい。即削除いたします。
謹賀新年
佐々木 寛
- 2011/01/02(Sun) 15:50 No.32811 <Home >
如月さん、はじめ、いっちゃんさん、他の皆さん、 明けまして、おめでとうございます♪
明けましておめでとうございます 如月 - 2011/01/03(Mon) 23:11 No.32816
いっちゃん、明けましておめでとうございます。 『ベルメールへの旅』年頭の一冊に選んで頂き、また紹介を書いて頂きどうもありがとうございます。 佐々木寛さん、明けましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願い致します。
Re: 『ベルメールへの旅』のご案内
佐々木 寛
- 2010/11/28(Sun) 20:33 No.31578 <Home >
如月さんの、メルアドが書かれていないようですが…。 ところで、上の番号順に並んでいる言葉を見ていたら、今年の「新語・流行語大賞 2010」の、ノミネート語を連想しました(下記、URL参照のこと)。http://singo.jiyu.co.jp/nominate/nominate2010.html 1「@Pad」 2「(クロス)カップリング」 : 1にある。@Padなどでも読めるように、如月さんの『ベルメールへの旅』を電子書籍化してみては、どうでしょうか? 実を言うと、私自身、自分の哲学の論文を電子書籍化しようと、今現在、加筆、再編集中で、鋭意努力している最中です。 ちなみに、私の予想では、「新語・流行語大賞 2010」は、複合語に成るのではないかと考えています。 13の「ゲゲゲの〜」と、 32の「ルーピー」と、 38の「‥ぜよ!」で、 「ゲゲゲのルーピーぜよ!」、…シュールだ(笑)。
ご指摘、ありがとうございます。 如月 - 2010/11/28(Sun) 22:50 No.31582
佐々木さん、こんばんは。 ご指摘ありがとうございます。 さっそくメルアドを付け足しました。 このところ健忘症が激しくて困ります。
カトヴィツェのこと 如月 - 2010/11/29(Mon) 00:09 No.31588
『ベルメールへの旅』のなかから、ハンス・ベルメールが生まれた町カトヴィツェ(ドイツ名=カトヴィツ)に行ってはじめて気がついたことを簡単に紹介しておきます。 * * * カトヴィツェは、現在ポーランドのシロンスク(シレジア)県の県庁所在地で、このシロンスク県は、より広いシレジア地方の一部です。シレジア地方は、現在、シロンスク、オボーレ、低シロンスクの三つの県にわかれています。 ところで、ご承知の方もいるとおもいますが、このシレジア地方は、複数の国が領有を主張する複雑な地方で、ボヘミア領、オーストリア領(ハプスブルク家領)、プロイセン領(ホーエンツォレルン家領)と、次々にさまざまな国に属しています。またこの領有関係は、1748年にオーストリア継承戦争の結果プロイセン領となってから第二次世界大戦終了まで比較的安定した状態が続き、第二次世界大戦後、全シレジア地方がポーランド領となります。 このため、ウィキペディアをはじめとするベルメールの伝記では、ベルメールは、現在ポーランド領となっているカトヴィッツに生まれたと簡単に記してあることがおおいのですね。実は、今回カトヴィツェを訪問するまで、私もそう単純に思っていました。これはどういうことかというと、「ベルメールはカトヴィツでドイツ人として生まれ、1938年にドイツ人としてフランスに移住した。その後、ベルメールが生まれたカトヴィツの町そのものはポーランド領になった」という理解です。 ところが、この理解が間違っている可能性が高いことが、今回のカトヴィツェ訪問でわかったのです。 それはつまり、第一次世界大戦後の1922年(=ベルメール20歳の年)に、カトヴィツを中心とする上シレジア地方の一部は、他のシレジア地方から切り離されてポーランド領に編入されたという事実からくる問題で、この点から推測すると、私は、1922年にベルメールはいったんポーランド国籍となった可能性が高いのではないかとおもっています。ベルメールは、翌1923年にベルリン工科大学に入学していますが、これ以降のベルメールの意識のなかには、この国境(国籍)変更の問題もなんらかの影響を及ぼしているのではないでしょうか。 このあたり、くわしくは、『ベルメールへの旅』をお読み頂ければ幸いです。
『ベルメールへの旅』を読んで
佐々木 寛
- 2010/12/16(Thu) 20:42 No.32350 <Home >
私は、ベルメールや四谷シモンさんの人形について、詳しくは知りませんが、この度のポーランドでの展覧会、盛況だったようで、何よりです。如月さんが、ポーランドのパーティー会場で『津軽海峡冬景色』を歌ったり、その後、ポーランド人、フランス人の歌合戦のようになった場面は、面白く読ませて頂きました(笑)。 それから、ポーランドは旧共産圏ですから、当時の過酷な国内情勢というものも、現地の方々から聞かれたのではないかと思いますが、機会が有りましたら、その辺りも、知りたいところです。
『バルト海峡冬景色』 如月 - 2010/12/17(Fri) 09:24 No.32382
佐々木寛さん、感想どうもありがとうございます。 『津軽海峡冬景色』に関していえば、私は歌える曲のレパートリーが少ないものですから、とっさにおもいついてあの曲を歌ったということですね。まあ、『バルト海峡冬景色』という感じで、居合わせたポーランドの人たちに曲想をわかってもらえるんじゃないかとおもったんですけど…。 共産政権からの解放ということでいうと、たとえばワルシャワのオープンマーケットを歩いている人たちの雰囲気に、抑圧から解放されてよかったという雰囲気を強く感じました。でもそれと裏腹に、ワルシャワの町は、メインストリートに廃墟のようなビルがあったりものすごく殺伐としているのも事実なんですね。全体的に、すべてはこれからはじまるという気配でした。
Re: 共産政権からの解放
佐々木 寛
- 2010/12/18(Sat) 20:21 No.32445 <Home >
Re: 細江英公さんが文化功労者に
佐々木 寛
- 2010/10/31(Sun) 23:53 No.30307 <Home >
「ガゼータ」 如月 - 2010/10/07(Thu) 00:48 No.29450
今日、ポーランドの新聞「ガゼータ」のコピーを新宿の紀伊国屋書店に置いてきましたから、もしかすると五階の澁澤特集の一画に貼りだしてくれるかもしれません。
さんざんだったモスクワ空港 如月 - 2010/10/07(Thu) 23:18 No.29484
ポーランドと日本には直行便の飛行機がなく、四谷シモンと私は、往復ともにアエロフロート機を利用し、モスクワで乗り継いでのフライトだったのですが、モスクワの空港は、ちょっと最悪でした。 日本からワルシャワに向かう時は、降りるとすぐに到着ターミナルで靴まで脱がされるかなり厳重なボディチェックがあり、まずこれで相当時間をとられたのですが、そのターミナルからワルシャワ行きのターミナルへのバス移動がスムーズでなく、これにもかなり時間をとられました。しかもやっと到着した別のターミナルの入り口で、もう一度同じボディチェックがあって、次々に到着する乗り継ぎ客をさばききれないのですね。この時点でワルシャワ行きの飛行機の出発時間を過ぎてしまい、いったいどうなるのやらと見ていると、「ワルシャワ行きの人はこちら」と別の入り口を案内され、そこで優先的にボディチェックを受けてようやく乗り継ぎの飛行機に乗り込みました。 帰りは帰りで、乗り継ぎ便のつごうで、モスクワ空港で3時間半も待たされるというのに、空港の軽食屋や土産物店のサービスが非常に悪いのですね。 ユーロが使えるというのでカフェテリアのようにオープン形式になっているビール店にはいったのですが、メニューはもってこないし、やっとメニューをもらってこれが欲しいといってもそんなものはだせないとことわられるし、ようやくのことで、ロシアのビールを出してもらいました。 * * * そんなこんなで、26日は、現地時間の午後8時少し前にワルシャワに到着しました。東京とワルシャワには8時間の時差がありますから、約16時間の旅ということになります。
クロニカの告知ページ 如月 - 2010/10/07(Thu) 23:25 No.29485
ワルシャワのおいしい店 如月 - 2010/10/10(Sun) 23:24 No.29565
ワルシャワでの四谷シモンと私のおすすめは、イェロゾリムスキ通りという中央駅から伸びる大通りに面したテラス方式のレストラン、スフインクスとこの通りと交差する新世界通り(クラクフ郊外通り)という繁華街にあるバティダというカフェです。 どちらも、行きと帰りに2回立ち寄りました。 スフインクスで食べたのは、キノコ、チキン、ズッキーニ、赤ピーマンなどを岩塩で炒めてレタスに載せたサラダ。これは600円ほどの値段でビールも200円ほどです。 一方バティダはフランス風ケーキの店で、おそらくワルシャワでは飛び切りの高級店ですが、とてもしゃれています。サンドイッチも、食パンやロールパンではなくフランスパンにはさんであるのがこの店のこだわり。ちなみに、ポーランド滞在中にフランスパンが出てきたのはこの店だけでした。 ※ ※ ※ 【スフィンクスのサイト】http://www.sphinx.pl/ 【バティダのサイト】http://www.batida.com.pl/pl/
展覧会の紹介 如月 - 2010/10/19(Tue) 13:07 No.29864
ポーランドで四谷シモンの展覧会がどのように紹介されているかは、展覧会のポーランド語タイトル「Simon Yotsuya i przyjaciele, czyli Bellmer w Japonii(四谷シモンと友人たち、または日本におけるベルメール)」をコピーしてサーチ・エンジンで検索して頂くと確認できます。かなりいろいろのサイトで、展覧会を紹介してくれているようです。
展覧会の動画 如月 - 2010/10/26(Tue) 14:45 No.30229
とまどっているのは… 如月 - 2010/10/27(Wed) 22:51 No.30288
↑で紹介した動画を見ると、四谷シモンがちょっととまどったような表情をしているところが私にはおもしろいのですが、これは10月1日にビトム市のギャラリー・クロニカで行われた公開ディスカッションの光景です。ポーランド人の司会者スワヴェクさんからの質問を一生懸命きいているところですね。 動画には、このほか、カトヴィツェのシレジア美術館でのオープニングの光景などがうまく混ぜ合わされています。
ポーランドの展覧会の画像 如月 - 2010/11/02(Tue) 01:06 No.30313
日本大使の観覧 如月 - 2010/11/09(Tue) 10:01 No.30569
今回の展覧会、日本大使館からの賛助(honorable partnership)を頂いていたのですが、ポーランドから入った最新の連絡によれば、会期中に日本大使も展覧会を観てくださったようです。
ご来場、ありがとうございました。 如月 - 2010/11/14(Sun) 00:49 No.30817
本日の渋谷ポスターハリスギャラリーでの「ポーランド展/滞在ルポ」、宇野亜喜良さんをはじめいろいろな人が来て下さり、楽しくにぎやかに終了しました。 会場だけでは話がつきずに、みんな、二次会、三次会までなだれ込むという思いがけない展開でした。 来週はいよいよ展覧会編ですので、どうぞお楽しみに♪
ポーランド放送のサイト 如月 - 2010/11/15(Mon) 23:39 No.30925
「ポーランド滞在ルポ」がにぎやかに終了 如月 - 2010/11/22(Mon) 08:37 No.31232
ポースターハリスギャラリーでの「ポーランド展/滞在ルポ」第二回、1972年に行われ今回のポーランド展でもその一部を再現・紹介している「10人の写真家による被写体四谷シモン展」の企画者・鶴本晶三さん、この展覧会に出展した10人の写真家の1人・宮崎皓一さん、四谷シモンの状況劇場以来の友人・大月雄二郎さんらがかけつけてくれて、第一回以上ににぎやかなものになりました。また岡山、名古屋など、遠方からのお客様も来てくださいました。 私としても、ベルメールとカトヴィツェの町の関係についてのこれまで知られていなかった事実などを報告できて、まずまずの内容だったとおもっています。 ご来場いただいたみなさん、どうもありがとうございました。
Re: 出発
佐々木 寛
- 2010/09/26(Sun) 10:58 No.29012 <Home >
Re: 出発 如月 - 2010/10/09(Sat) 10:50 No.29527
滞在先のホテル 如月 - 2010/09/13(Mon) 00:18 No.28494
ポーランド、シロンスク県での四谷シモン展の主催団体アルス・カメラリスから連絡があり、カトヴィツェ市での四谷シモンの滞在先がモノポール・ホテルに決まりました。 ヨーロッパの伝統を感じさせるクラシックで重厚なホテルです。 ワルシャワは第二次世界大戦で大きな被害を受けて、こういう古い建物があまり残っていないのですが、カトヴィツェは地方都市なので、こうした建物が残っているようです。 ホテルのサイト↓にアクセスして、カトヴィツェの雰囲気をお楽しみください。http://www.en.hotel-monopol-katowice.com/index.html
ごめんなさい。 如月 - 2010/07/07(Wed) 00:00 No.24635
小太郎さん、こんにちは。 18世紀学会の件、すみませんでした。 『精神論』のことがあるので、なんとかして生きたかったのですが、四谷シモンに海外(ヨーロッパ)での展覧会の話が舞い込み、その対応に追われて動きがとれませんでした。 今日も一日その交渉に明け暮れしましたが、習慣や貨幣価値の違う国とのやりとりは、ほんとうに難しいです。 先日までは交渉も順調にすすんでいたのですが、ここへきて急に、開催が危ぶまれる感じになってきました。
いえいえ。 鈴木小太郎 - 2010/07/15(Thu) 00:09 No.25073
私には全くなじみのない分野でしたが発表はどれも面白く、結局、最後の討論会まで聴講してしまいました。 新潟に来られる際には、是非ご連絡ください。 車の運転もだいぶ慣れたので、どこでもご案内できますよ。
ポーランドでの展覧会 如月 - 2010/07/18(Sun) 09:44 No.25189
それはとても残念なことをしました(発表も車も)。 私の方は、先週ポーランドから四谷シモンの展覧会を企画している担当者が来日し、打ち合わせ等で大わらわでした。 四谷シモンは、ハンス・ベルメールの影響を受けて球体関節人形をつくりはじめたのですが、そのベルメールが生まれたカトヴィッツェ(現在ポーランド領)の町で展覧会が実現しそうです。 ポーランドは、18世紀にヨーロッパ最大の政治問題の一つとなった国で、四谷シモンとは別に、私もとても興味をもっています。http://www.furugosho.com/precurseurs/mably/pologne.htm
瓢箪から中沢新一さん 如月 - 2010/03/12(Fri) 23:20 No.22418
11日の「日経新聞」のアート面の記事、お読み頂けたでしょうか。 記者の方から、事前に11日に記事掲載とは伺っていたのですが、あまり扱いが大きく、びっくりしてしまいました。一部地域ではモノクロ紙面になっているそうですが、全国に配布されているそうです。 そのせいか、昨日のオープニング・パーティーは例年にない盛り上がりでした。 パーティー終了後、なじみのナジャに二次会に行ったのですが、たまたまそこに、先客でせりか書房のFさんがおり、四谷シモンとFさんが、中沢新一さんの話をしていたところ、当の中沢さんがひょっこり顔を出したのにはみんなびっくり。 聞けば中沢さんは、近くの別の店で知り合いと飲んでおり、誰かそこに呼べる客はないかとナジャにハンティングに来て、四谷シモンと鉢合わせた由。 それから誘われて中沢さんのなじみの店に移動し、中沢さんのお客さんである密教研究者を紹介して頂いて、終電近くまで、みんなで和気藹々と雑談しました。
岩上安身氏の論評
佐々木 寛
- 2010/03/14(Sun) 09:43 No.22424 <Home >
ありがとうございます 如月 - 2010/03/14(Sun) 20:11 No.22427
ロディオンさん 如月 - 2010/02/21(Sun) 23:20 No.22296
先ほど電話で話をしたら、ロディオンさんも寺島さんの受賞をとても喜んでいました。3月11日のエコール・ド・シモン人形展の初日は、彼も紀伊国屋画廊に来てくれるそうです。
まもなく放送! 如月 - 2010/02/10(Wed) 00:03 No.22167
第2回『不思議惑星キン・ザ・ザ』は、まもなく放送です。
Re: スープの石
佐々木 寛
- 2010/01/25(Mon) 20:23 No.22011
大雪ですね。 如月 - 2010/02/01(Mon) 22:59 No.22078
弘夢くん、こんばんは。ものすごい雪ですね。弘夢くんが住んでいるとこからもこの雪見えるでしょうか? さて、石の話ですが、調べてみたんですが私にはわかりませんでした。そういう民話や比喩とは別に、石を入れて料理をつくるという話そのものもどこかで聞いたことがあるような気がするのですが、おもいだせません。ごめんなさい。 ところで、雪はいいけれど、寒さで風邪などひきませんように。そして具合のいいときにはときどき足跡つけてください。
一切れのパン いっちゃん - 2010/02/05(Fri) 02:22 No.22108
Re: スープの石
弘夢@なまこ
- 2010/02/10(Wed) 03:06 No.22169
いっちゃんさん、有難う御座います。。 まさしく、この物語です。。 ずっと、心の奥底に忘れずに残っていたお話でした。。 DLして、いくつかの『お話』ファイルに入れておきます。。 因みに、ぼくの実家の方は近年に無い大雪で2mくらい積もって、おかげで人工降雪期使わなくてもスキー場が良好だと村挙げて喜んで居ますw
Re: 井上龍介氏『ライプニッツ<試論>』を読む
佐々木 寛
- 2009/12/02(Wed) 21:19 No.20345 <Home >
「物理―機械的法則」(如月さんの引用より) というより、「センスデータ(感覚与件)―論理的構造」の方が適切に思える。
共可能性と選択 如月 - 2009/11/14(Sat) 23:59 No.18374
増永さんの『ライプニッツ』からの第二の引用文のなかに出てくる「共可能性」ならびに「選択」について、どのような概念か疑問におもわれた方もいるかもしれませんから、少しおぎなっておきます。 * * * 「スピノザとの会見の翌日(1676年12月2日)、すでにライプニッツは一つの重要な着想を書き留めている。それは必然論との対決へ向けて、彼に確かな手がかりを与えることになった「両立性」(compatibilite)あるいは「共可能性」(compossibilite)の観念である。スピノザのように、すべて可能なものは存在すると考えるならば、存在の理由は不必要であり、可能性だけでじゅうぶんであろう。或る可能者が決して存在しないということは、起こりえないからである。そのようにあらゆる存在者の存在が必然的と見なされるとき、「敬虔なひとびとが信奉するような神」、つまり自由に選択し創造する神、は想定されえない。しかし、仮に、必ずしもすべての可能者が相互に両立的であるわけではない、とすれば、或る種の両立的な可能者だけが、他の可能者よりも優先して存在せしめられる、ということが、したがってまた現実的存在者の存在は偶然的であることが、立証されるであろう。」(井上龍介氏『ライプニッツ<試論>』、晃洋書房書、1999年、2-3頁)
Re: カントとライプニッツ
佐々木 寛
- 2009/11/15(Sun) 22:52 No.18510 <Home >
「なお、「概念から経験が生み出される」という考え方についての、「哲学的に経験というものは、感覚・知覚を基礎にして知的活動までを含む体験の自覚されたもの」という定義からなる批判については、少なくともライプニッツに関する限り、「無意識」即ち「自覚されざる体験」を重視することによって、経験外もしくは経験以前の認識(aperception)の余地を残していると愚考します。」(如月さん投稿より) 「概念から経験が生み出される」(くまげん7君投稿より)と言った場合ですが、普通、概念というのは、「犬」「猫」「山」「線」「面」等のように、言葉によって、“自覚的”に表記されるものでしょう。無意識を否定しませんし、無意識は、広義の意識に含まれるものだと考えますが、たとえば、“自覚的”に表記される或る内容を持った「山」の概念から、山を見る経験や山を登る経験(「山」の経験)が、どのように生み出されると言えるのか? 私には見当も付きません。 要するに、経験の集合の方が大きく、その中に概念の集合が含まれているのに、「概念から経験が生み出される」と言って、概念側から経験を説明しようとするから、一般性が無いのだと考えます。あくまでも、概念は、言葉を習得する過程で、言語経験によって得られるものだと考えます(好意的に解釈した場合の、特殊な例として、言語経験により習得した既存の概念を基に、新たな概念を生み出し、それを基に何らかの実験をする場合には、限定的ですが、「概念から経験が生み出される」という言説も意味が通じます)。
Re: カントとライプニッツ 如月 - 2009/11/16(Mon) 08:56 No.18560
う〜む、私は心配性らしいので、このあたりはかなり難しいですね。 カントはいざ知らず、スピノザあたりだったら、「概念から経験が生み出される」とは言えないでしょうかね。 それと、佐々木さんも指摘しておられますが、たとえば言語習得以前の生まれたばかりの赤ん坊が親に抱かれて山に登る場合、山に登ることを経験すると言えるかということにもなるでしょうし、またより一般的に、あるモノについての概念をもたないひとがそれを見せられた場合(たとえばUSBメモリーを知らないひとがそれを見せられた場合)、物理的にはその物体を見てるんでしょうが、その物体を見たという認識経験が生じるか疑問であるということは言えるんじゃないでしょうか。
「私は心配性らしい」、やはり、そうですか(笑)
佐々木 寛
- 2009/11/16(Mon) 22:04 No.18624 <Home >
子供について考えた場合、大人に比べ、まだ、言葉も習得段階ですし、経験の蓄積も少ないことは、確かでしょう。 ただ、少ないながらも、それまでの経験や言葉を使い、類推し、どのようなものか、見当を付ける場合もあるのではないでしょうか。赤ちゃんでは無理でしょうが…。
ライプニッツの函数論について 通行人 - 2009/11/17(Tue) 00:18 No.18633
ちょっと書きたいことがあったのですが、 高等数学の数式が出てくるので、止めにいたします。
スピノザが死んだ年 如月 - 2009/11/14(Sat) 23:20 No.18370
この対話が書かれた1677年は、ちょうどスピノザが死んだ年ですね。ちなみに、その前年ロンドンからの帰路に、ライプニッツはスピノザと会い、対談しています。
記号がかかわるもの 如月 - 2009/11/15(Sun) 09:15 No.18428
ライプニッツの記号ならびに表出の考え方について、増永洋三氏の『ライプニッツ』〜「人類の知的遺産36」(講談社、1981年)から補足しておきます。 * * * 「観念の明証は、たとえ観念が単純であっても、ライプニッツにおいては、絶対的なものの不可謬の直感ではない。従ってそれは真理の基準を我々に提供しない。単純観念の真理は、この観念の表わす実在と恒常的な規則立った或る関係を保つことである。しかしこの関係は直感可能ではない。何故ならば絶対項が我々の達し得ぬところにあるのであるから。従ってかかる関係への信憑を、諸観念の整合性が合理的信憑たらしめるのである。このことは、我々にとって真理は観念にではなく、観念の関係に存する、ということにほかならない。それによって我々は、被造物としての我々の観点の制限から抜け出る。勿論我々は神と同一の観点はもち得ない。しかし我々は神の観念間に成り立つ関係としての真理にまで高まり得るのである。神が我々に真理を示す時、我々は我々の悟性のうちにある真理を獲得する。というのは、神の諸観念と我々の諸観念との間に、完全性と範囲に関して無限の差異があるとはいえ、両者は同一の関係において合致することは常に真であるから、それ故この関係のうちにこそ我々は真理をおかなければならないのである。 ところで記号が表示する観念とそれらの観念の関係とが表わすものは何か。広義の観念は、感覚、イマージュ、概念を包含する。このうち、イマージュは感覚を類似によって表現する。しかし、概念がイマージュあるいは感覚を表現するのは類似によってではない。円の概念は知覚される円に類似しない。経験主義者たちは、観念とイマージュを同一のものである、と仮定することによって思い違いをしている。イマージュが概念を構成するどころか、反対に概念がイマージュにその意味を与えるのである。我々は言葉又はその他の記号なしに考えることは出来ないが、それは補助手段にすぎない。 それでは何故記号的思惟が、事物にではなく、我々が事物の代りにおいた記号にかかわりながら、その実り豊かさを少しも失わないのであろうか。それは、記号的思惟が、特殊な内容の把握にとどまることなく、宇宙と我々の理性を同時に秩序づける形而上学的メカニスムの一般法則にかかわるからである。記号的思惟はその形式的構成によって、物理学的と形而上学的とを問わず、一切の可能的経験の枠を構成するのである。「この世の人間には、諸存在の総体がどのような根拠によって、純粋な存在と無から生み出されるかを示す、事物のかくされた系列に達し得る望みはないけれども、しかし、観念の分析が真理の証明にとって必要とされるところへまでおし進められれば、それで十分である」。表出の理論は、実体間の相互表出にその存在論的基礎を有する。実体の各々は、それらの位置によって決定された系列の法則に従って自発的にそのはたらきを展開する。実在的因果性に対して、表出の教説はイデアルな因果性をおきかえるのである。」(同書26-7頁) * * * 引用文の冒頭の「観念の明証は、たとえ観念が単純であっても、ライプニッツにおいては、絶対的なものの不可謬の直感ではない。従ってそれは真理の基準を我々に提供しない」という部分は、デカルト批判、さらには経験論批判につながる部分ですね。具体的な事象に関する観念をその対象もしくは内実としてとらえることは、ライプニッツの思想のなかでは不可能と考えられており、これは一方で代数的発想であると同時に、認識論的には、無意識を前提とした不可知論に支えられているわけですね。
記号と内実の並行関係 如月 - 2009/11/15(Sun) 10:22 No.18436
ところで、記号とその内実あるいはそれが指し示すものがけして交わることがなくまた互いに浸透し合うこともなくどこまでも並行関係を保ちながら真理のあり方を開示するとなると、これは予定調和説のミニチュア版ですね。というか、予定調和説の提起者からすると、記号とその内実は、けして浸透し合ってはいけないということになるかともおもいます。 ライプニッツの場合、これがそっくりそのまま認識論の論理と入れ子構造になっているのですね。
Re: ライプニッツのホッブス批判
佐々木 寛
- 2009/11/15(Sun) 22:57 No.18511 <Home >
「というのも、記号[の選定]自体は恣意的であっても、その記号の用い方や記号同士の結合には恣意的でないものがあるからです。つまり、記号と事物との間の一種の相応(proportio)と、同一の事物を表わしている異なった記号同士の関係(relation)は恣意的ではないのです。そしてこの相応や関係が真理の基礎なのです。このために、どの記号を用いようとも、常に同じもの、等価値なもの、相応的に対応するものが出現してくるのです。」(如月さんの引用より抜粋) 言葉や記号の意味が、一般化するためには、暗黙にでも、それが規約として認められなければならないし、そうでなければ、まったく誰にも通じない恣意的なものに、とどまるでしょう。如月さんが、引用した上記の部分は、ライプニッツが、コンディヤックに先立ち、記号の重要性を指摘していたと言える部分でしょうね(コンディヤックが知っていたか、どうかは別ですが…)。 「引用文の冒頭の「観念の明証は、たとえ観念が単純であっても、ライプニッツにおいては、絶対的なものの不可謬の直感ではない。従ってそれは真理の基準を我々に提供しない」という部分は、デカルト批判、さらには経験論批判につながる部分ですね。」(如月さん投稿より) それは、どうでしょうか…。取り敢えず、いま、如月さんの掲示板の中だけの引用や投稿文から受け取れるところでは、こういう解釈も可能だと考えます。 少し前の、「(如月さんの引用より抜粋)」からの再掲ですが、「つまり、記号と事物との間の一種の相応(proportio)と、同一の事物を表わしている異なった記号同士の関係(relation)は恣意的ではないのです。そしてこの相応や関係が真理の基礎なのです。」というのが、ライプニッツの立場ですね。 ですから、これは要するに、「絶対的なものの不可謬の直感」など必要なく(それは真理の基準を我々に提供しない)、「記号と事物との間の一種の相応(proportio)と、同一の事物を表わしている異なった記号同士の関係(relation)」こそが、“真理の基礎”なのだという解釈の方が、整合的で妥当だと、私には思われます。また、そうでない場合は、ライプニッツの考えに、矛盾があると考えざるを得ません。
真理の直観の不可能性 如月 - 2009/11/16(Mon) 00:25 No.18520
矛盾かどうかはわかりませんが、ライプニッツ的に考えれば、「絶対的なものの不可謬の直感」は、「不必要」なのではなく「不可能」なのです。なぜならそれは、人間の悟性には記号としてしか表出されないからです。したがって絶対的なものの直感が可能とするデカルトへの批判につながっていくのですね。ですから、増田さんが指摘しているのは、「不可能であるところの観念の明証を真理の基準にはできない」ということだとおもいます。 ちなみに、ライプニッツにとって重要なのは、言葉や記号の意味が一般化するかどうかということではないとおもいます。彼が黷ノ提示・表出されているという代数的な考え方ですね。仮に「意味」といっても、その「意味」そのものが結局は記号であり、「意味」による把握はトートロジーでしかないとライプニッツは考えるのではないでしょうか。つまり、A=Bが保証されるのはB=Aだからであり、これは結局A=Aにいきついてしまいます。ゆえにライプニッツは「A=A」というトートロジーの論理を非常に重視しています。
トートロジー
佐々木 寛
- 2009/11/16(Mon) 19:14 No.18609 <Home >
同語反復(トートロジー)と言うと、マイナスのイメージが付き纏いますが、それを言葉および論理の規約と考えた場合、非常に重要な意味を有することは間違いないでしょう。
Re: 経験こそが概念から生み出されるものです。
佐々木 寛
- 2009/11/02(Mon) 19:16 No.17311 <Home >
こんにちは、くまげん7君 「経験こそが概念から生み出されるものです。」(くまげん7君の投稿より) 経験こそが、概念から生み出されるものという、くまげん7君の説は、「概念から経験が生み出された」と言い換えることができると考えます。ところで、広辞苑によると、哲学的に経験というのは、「感覚・知覚を基礎にして知的活動までを含む体験の自覚されたもの」と有ります。 「面はわれわれが最初に認識するものの見かけです。」(くまげん7君の投稿より) 上記の引用で言う、「最初に認識する」や、「ものの見かけ」というのは、どういうことなのか? 普通、ものの見かけというのは、ものの外見のことで、見るという感覚から得られるものです。また、「面」というのは、常識的に言って、広がりのある平らなもののことでしょうが、広がりとか、平らというのも、経験的なものでしょう。そして、それらが、「最初に認識」されるとすれば、これは、経験論以外の何ものでもないことになります。 ですから、「概念から経験が生み出される」という、最初の引用とは、正反対の意味になると考えます。くまげん7君は、自分で自分の言っていることが、理解できているのか、はなはだ疑問です。
Re: 経験こそが概念から生み出されるものです。 通行人 - 2009/11/07(Sat) 10:27 No.17724
《面はわれわれが最初に認識するものの『見かけ』です。》 と書かれて居る様に、我々は最初に幾何学的平面ではなく立方体を経験するのですが、その立方体の裏や底を『概念』を使つて想像して眼前にあるのが立方体だと認識するしかありません。
みなさん、ありがとうございます。 如月 - 2009/11/07(Sat) 12:06 No.17738
「経験知」についての補足 如月 - 2009/11/07(Sat) 17:52 No.17753
それと、カントのことはきちんと勉強していないのでよくわかりませんが、私が「経験」と「経験知」を分けた方がいいのではないかと思うのは、経験という概念を無制限に拡大していくと、たとえば「Cogito ergo sum」という命題も、cogito(私は考える)という自己の経験もしくは体験に基づくものであり、経験による自己存在の確認だとなりかねないからです。 もちろん、これをも経験だと言い切ってもいいのですが、そうするとほとんどありとあらゆる「知」が経験的知だということになって、経験的知という概念そのものが空虚化・無意味化してしまうのではないでしょうか。だから、人間のほとんどの知は経験によって明白になるもしくは体得されるものだとしても、「経験知」と呼べるものはその一部であるとした方がいいのではないかというのが、今、私が考えているアイデアです。もっとも、すると今度はいったいどのようなものが「経験知」なのかということになって、これはこれで難しいんですけど、まあ、身体的な技術なんかはそれに入るんじゃないかとおもっています。
数の概念もちょっとやっかいですね 如月 - 2009/11/07(Sat) 18:15 No.17756 <Home >
ついでにもう一つ私が感じている疑問を記しておきますと、たとえば、数の概念の把握が経験的なものか直感的なものかよくわかりませんが、大きな数の概念の把握を経験に帰することができるのかということですね。 たとえば、「十」の概念であれば、あるものを1、2、3…と数えていった結果把握した経験による概念だといってもいいとおもいますし、「百」もそうかも知れません。でも、「万」とか「億」を、こぁ第に判断されるようになるのです。感覚印象を、それを惹き起したものと比較することをわれわれに教えてくれるのは、ただ経験だけであり、感覚印象は事物と本質的に類似しているようなものは何ももっていないので、純粋な約束事のように思われる感覚と事物の類比について教えてくれるのも経験です。」(下記リンク先の、如月さんのサイトより引用) ディドロとモリヌークス問題http://www.furugosho.com/precurseurs/diderot/molyneux.htm
Re: 経験こそが概念から生み出されるものです。 くまげん 7 - 2009/11/21(Sat) 12:40 No.19213
ものすごい遅いレスで申しわけありません。 まず、あまりにも話をあいまいに考えすぎです。 概念=定義とすれば、それが経験に先立たないのは明らかです。なぜなら、定義とはことばでされるものであり、私的では なく社会的なものだからです。 一方で経験とは個人的で肉体を通じて得られる「現象」を 様々の方法で「記憶した結果」です。 したことであっても覚えていなければ経験ではないのです。 そのひっかかりを如月さんは「経験」と「経験知」という言い方で表していますが、それは体験=経験としてしまっているか らです。体験は経験ではありません。 そう考えれば「経験=経験知」であることがわかります。 ならば、経験がどうして記憶できるのかということを説明 しようとしたのがカントの「純粋理性批判」なのです。 それは「人間が予め(先験的・アプリオリ)認識する形式 をもっているから」と仮定しました。だから、その認識する 形式を越えた概念(超越論)はもともと意味がないという結論 をもってきたんです。 ところが、なぜ、超越論はされてしまうのかについてカントは「馬鹿だから」みたいな答えしかしてません。それを超越論的批判が哲学の仕事だってカントは言うんです。 実は概念は定義である。定義はことばであると最初に書きました。認識の構造は超越的ではないのですが、ことばの構造が 超越的だからこそ超越論が生まれてくるのです。 (経験してもいないことを在るものとして語れるのはことばの形式のせいなのです。)
概念と経験 如月 - 2009/11/22(Sun) 10:30 No.19351
くまげん7さん、ようこそ。先日来、概念と経験との関係がどうもすっきり腑に落ちないので、自分なりに以下のようにまとめてみました。まだ整理の途中ですので、不十分なところがあるかもしれませんが…。くまげん7さんの新しいコメントにつきましては、もう少し考えます(特にコトバとのかかわりのあたり)。 @ものさし、電話、TV、PC、USBメモリースティック これらに関しては、そうした道具的存在物およびその概念や観念がわれわれの周りにわれわれがそれらを知覚する以前からわれわれと独立して存在し、その概念(機能)を知ることによってわれわれはそうした道具的存在物をそれと認識し、経験・使用する。 A山、海、砂漠 @と同様、これらの概念や観念もわれわれの周りにわれわれがそれらを知覚する以前からわれわれと独立して存在するが、場合によっては、山中に生まれたり、海辺に育ったりして、明確にそれと知覚する以前にわれわれはそれを体感・知覚することがありうる。その場合、概念形成は体感後に、体感をとおして行われると考えられる。またその際、たとえば山の概念を明確に形成するためには、山以外の場所を体感・経験し、それを相対化することが有効と考えられる。 ただしたとえば山中に生まれ育ったのではない場合、はじめに遠くから山を見るなどして概念が先に形成され、後から実際に山を知る(体感する)ということはありうる。この場合は@と同じ。 B空間、時間 これらは、山中に生まれ育った人にとっての山の概念形成と似ているが、われわれがそれから離れて相対化することができないことから、明確な概念形成は困難である。あるいは、考え方によっては、空間や時間の概念のなかにはつねにわれわれの実存が含まれていると見なすことができるかもしれない。 C痛み、空腹 これらの身体的概念は、体感・経験が先に生じ、その体感・経験を反省・分析することによって概念が形成される。これらは実存的な概念ではあるが、相対化・客観化も可能。 D線、円 これらの幾何学的概念や観念に関しては、線的なるもの、円的なるものが知覚・経験されることがあっても、厳密な意味での線そのものや円そのものが経験されることはありえない。これらは概念や関係としてしか存在しない。
概念と定義 如月 - 2009/11/22(Sun) 10:39 No.19353
それと、先日来、「概念=定義」という定義は、私もどうもまずいんじゃないかとおもっていますが、その問題は別に検討してみたいとおもっています。 どこがどうまずいかというと、私のぼんやりとした感じでは、定義の一般的なフォルムとしては、「AをBとする(呼ぶ)」というものがあるとおもうんですが、この場合、AとBの関係は「=」で結べるようなものではなく、恣意的なものではないかという気がするからですね。 でもまあ、この疑問は、ある意味で形式的なものですから、あとでちょっと考えればいいかなともおもってるんですが…。
「覚えていなければ経験ではない」 如月 - 2009/11/22(Sun) 16:58 No.19392
え〜と、それから、「したことであっても覚えていなければ経験ではない」というくまげん7さんの言い方は、私にはとても興味深いです。ライプニッツが『新人間知性論』のなかでロック(フィラレート)にぶつけている大きな論点の一つはそれだとおもうのですね。上方のスレッドで引用している井上龍介さんの用語を利用させてもらえば、「サブリミナル」を認識論的にどうとらえるかということになるでしょうか。 つまり、人間の知性形成における「経験」の重要性はライプニッツも充分承認しているのですが、サブリミナルというか無意識という概念を導入すると経験論は破綻するだろうというのがライプニッツの見通しですね。また、それと同時に「個」の実存もかなりあやうくなると私はおもいます。 ライプニッツの認識論とは、そういうギリギリのところにたった認識論ではないでしょうか。
16447の投稿より抜粋し再掲
佐々木 寛
- 2009/11/23(Mon) 09:48 No.19498 <Home >
「たとえば、睡眠中にもわれわれは周囲の音を聞いており、大きな音がすると目を覚ますのはそうした睡眠中の知覚(表象)だとライプニッツは言います。いずれにしても、ライプニッツは、日常、膨大な表象のほんの一部だけが「意識的表象」としてわれわれに現前しているとするわけですね。エルヴェシウスには、ここまで精緻な無意識論はありませんが、無意識についての基本的な考え方は同じであると考えられます。」(如月さん投稿より) ですから、「たとえば、睡眠中にもわれわれは周囲の音を聞いており、大きな音がすると目を覚ますのはそうした睡眠中の知覚(表象)だとライプニッツは言います。」というのは、要するに、睡眠中でも(無意識に)知覚が働いていることを、大きな音がすると目を覚ますという、“経験”から、その存在(無意識)が考えられたということなのです。ちなみに、バートランド・ラッセル流に言えば、大きな音は、センス・データ(sense-data:感覚与件)として、得られるものですね。(私の投稿より) 上記は、16447の投稿より抜粋し再掲したものです。広義の意識に含まれる無意識と、いわゆる狭義の意識とは、全く無関係に存在しているものではないことは、「睡眠中でも(無意識に)知覚が働いていることを、大きな音がすると目を覚ますという、“経験”から、その存在(無意識)が考えられたということ」からも、明白でしょう。
Re: 経験こそが概念から生み出されるものです。 くまげん7 - 2009/11/28(Sat) 16:12 No.19989
如月さん。 道具も山も川も概念です。ですから、この概念(社会的恣意性)がなければ、山も川も存在しません。 わたしを離れてわたしが知覚できるものは「存在しない」 のです。 いや、わたしが死んでも、わたしが見ているあの山は存在 するはずだ。これまでと同じように…。と考えるのは実はある 手続き上の間違いをしています。 「わたしが見ているあの山」はわたしの経験です。 これまでと同じようにという歴史性は、誰の経験でしょう? …これは社会(ことば=言説)の経験です。 実は外部世界=宇宙の普遍を語ろうとして、ことばの普遍を この文章は語っているだけなのです。 経験とは社会的なものなのです。それに対して体験とは、 個人と世界が別れるあいまいな領域に属するものです。 何も考えなくても車を運転して目的地に着くことがあり ますね。これは行為の自動化(刺激と反応が適切に結びつき 思考を意識せずに行われる状態)のためです。ここでは、 私は運転と合一しているし、車の外の情報とも合一しています。むしろ、私なんてことも考えていません。 夢はそれとは別にわれわれが象徴系の混乱を常に抑圧して いることを実感できます。母が恋人だったり、牛だったり するのは「意味」があります。それを外からの刺激に単純に 結びつけることはできません。刺激が何に結びつくかは規定 できないのです。
expression 如月 - 2009/11/28(Sat) 22:20 No.20008
くまげん7さん、こんにちは。 とりあえずライプニッツについての現在の私の読解とからめながらお返事させて頂きます。 まず、「何も考えなくても車を運転して目的地に着く」という比喩は、ライプニッツもとても喜びそうですね。 ただ、「概念(社会的恣意性)がなければ、山も川も存在しません。わたしを離れてわたしが知覚できるものは「存在しない」のです」というところは、もう少し言葉を補って説明して頂けるとありがたいです。 というのは、少なくともライプニッツの認識論・存在論は、それとは少し異なるタイプのもののような気がするのですね。 ライプニッツ的に考えれば、「山や川、また道具的存在物が存在するかどうかというのは、認識上の問題というより、それらの事物が「充足理由律」を満たしているかどうかの問題で、それが満たされていれば、われわれの認識にかかわりなく事物は「(外界に)存在する」ということになるでしょうし、同時にそれらはモナド内に観念として存在し、その内界と外界が「予定調和」しているのだということになるとおもいます。 また、もう少し厳密にいうと、「(外界に)存在する」という風に一般的にいわれる現象は、モナド内部の観念の表出(expression)だということになるのですね。 で、これを要約すると、くまげん7さんの命題「概念がなければ、山も川も存在しません。わたしを離れてわたしが知覚できるものは「存在しない」のです」となりそうで、どうもやはり少し違う気がするのです。 これは、ライプニッツの場合、モナドが複数であり、かつ共通の概念を共有しているからかなともおもいます。こう考えると、ライプニッツの哲学は一見モナド中心の独我論のようでありながら、モナドの複数性というところで、社会性という視覚をもちうるようにもおもうんですね。その概念や観念の社会性を保証しているのがコトバということになるのでしょうか…。 それと、「経験」と「体験」という概念をくまげん7さんのように明確に二分してしまうことには、私はあまり賛成ではありません。 このスレッドのなかで、「経験」という言葉があまりにも曖昧で恣意的に使われているように感じたので、上方の書き込みのなかで「体験」という言葉を使ってみたのですが、少なくともフランス語と英語ではどちらも「experience」ですから、これをあまり厳密に考えると、それはそれで不都合が生じるようにもおもいます。 いずれにしても、「経験知」という概念は、ライプニッツの認識論のなかでは極めて居心地がわるいのです。
経験と計算能力 如月 - 2009/11/28(Sat) 22:33 No.20009
佐々木さんの書き込みは難しくて、私にはどうおこたえしたらいいかよくわからないのですが、少なくとも直前の書き込みに関して言えば、「“経験”から、無意識なりあることの存在を知る」ということを私は否定しませんし、おそらくライプニッツも否定しないとおもいます。 ただ、われわれの「知」というのは、そうした経験から得られるものがすべてではないと私はおもうのですね。 たとえば計算能力を考えると、「1+1=2」とか「10+15=25」のようなものであれば、指を折ったり、モノで代用するなりして数えた実体験からそうした実感や解答を導きだすことができるかもしれませんが、たとえば「258,568+609,359」のような計算は、直接的な経験知や体験ではなく、経験知の応用によって解答を導き出すのではないでしょうか。それと、この「258,568」なり「609,359」といった数の概念(私はそれを適当に書いただけですが)も、われわれがこれらの数を経験したことがあるからその概念を把握しているとは言えないのではないでしょうか。 私が考えているのは、その程度の単純な疑問です。
顕微鏡とexperience 如月 - 2009/11/28(Sat) 23:49 No.20011
くまげん7さん、佐々木さん。 それとライプニッツの知識論にとって見逃せないのは、彼はスワンメルダムやレーウェンフックらの生物学者と直接・間接の交流があるということです。ライプニッツの時代は、顕微鏡の精度があがって、細胞や精虫などの新しい発見が次々に行われていますが、顕微鏡による視覚の問題は、直接的には微小知覚の問題、つまりある事物を拡大したらどのように見えるのか、そこで展開している現象はわれわれの通常の視覚下の現象とはまったく様相を異にしているのではないか、とすると現象の本質とはどこにあるのか、どのようにしたらそれを確定できるのか(もし顕微鏡の精度がさらにあがれば、事物はさらに別様に見えるのではないか)という論点につながっていきます。ですから、ライプニッツの場合、顕微鏡による知覚は、彼の知識論・認識論形成に大きな影響を及ぼしているのです。 また同時に、この顕微鏡による視覚の問題は、より広く、われわれのexperienceとは何なのかという論点を引き起こすとも言えるでしょう。つまり、顕微鏡という「道具」を用いて事物を観るというexperienceは、明らかに、直接的なexperience physique(身体的経験、体験)ではないが、これもまたexperienceであることは否定できないという論点ですね。 私は、この問題意識は、ライプニッツとエルヴェシウスなどの18世紀の唯物論者に共通する意識だと考えていますし、おそらくコンディヤックもこうした問題意識を共有していたのではないでしょうか。
必然的真理の潜在的認識が生得的 如月 - 2009/11/30(Mon) 22:52 No.20166
ご参考までに、ライプニッツ『人間知性新論』のなかの生得概念に関する議論の一部を以下に引用しておきます。 * * * テオフィル「自然の光と呼ばれるものは、判明な認識を前提としており、事物の本性の考察はたいてい、私たちの精神の本性の認識と、外部に探す必要のないあの生得観念の認識にほかなりません。かくして私は、検証するにはそういう考察しか必要としない真理を、生得的と呼んでいます。生得的概念が精神のなかに暗に含まれていると言われるとき、そのことは精神がそれらの概念を認識する能力をもつことだけを意味すべきだ、とする反論には、私はすでに答えました。そうした生得的概念を自己の内に見出す能力と、それらについて然るべく思考するときはそれらを認める態勢を精神はもっていることを、指摘しておいたのですから。」 フィラレート「そうすると、それら一般的準則を初めて提示された人々はまったく新しいことは何ひとつ学ばない、とあなたは主張しているようです。でも彼らは最初に名を学び、次に、真理や、真理が依存している諸観念さえも学ぶことは明らかです。」 テオフィル「ここでは名称が問題なのではありません。名称はある程度恣意的ですが、観念や真理は自然的です。しかし、これらの観念や真理に関してあなたは、私たちにきわめて縁遠い学説を私たちのものとみなしています。なぜかというと、生得的な観念や真理を、それらの源泉に注意を払うか、経験によってそれらを検証するかして学ぶということを、私は認めているからです。あなたの話題にするケースでは、まるで私たちは新しいものを何ひとつ学ばないかのようですが、以上のようなわけで、そう考えてはいません。また私は、人が学ぶすべてのものは生得的でないという命題も認めません。数についての真理は私たちの内にありますが、それでも人はそれらの真理をやはり学ぶのです。論証的理性によって学ぶときはそうした真理をそれらの源泉から引き出すことによって学び(これは数が生得的であることを示しています)、あるいは、通俗的算術家がするように、実例のなかで経験的に知ることによって学ぶのです。通俗的算術家は、理由を知らないために、真理の規則を単に伝統によって学ぶだけですし、せいぜい、それらの規則を数える前に、適切と判断する範囲の経験によってそうした規則の正しさを証明するにすぎません。(以下省略)」 フィラレート「しかし、人々が使っている名辞や言葉のみならず、観念もまた外部から私たちにやってくることはありうるのではないでしょうか。」 テオフィル「そうなると、私たち自身が私たちの外部にあるのでなければならなくなります。なぜなら、知的観念ないし反省的観念は、私たちの精神から引き出されるからです。もし私たち自身が存在者でなく、私たちの内に存在を見出すのでもないとしたら、私たちはいかにして存在の観念をもちうるのか、知りたいものです。」 フィラレート「しかし、私の友人の一人が次のように言って挑戦したら、あなたは何と答えますか。『もし誰かが、それを構成する観念が生得的である命題を見つけて私に挙げてくれるなら、私にとってこれほど嬉しいことはないでしょう』、と。」 テオフィル「私ならその彼に、算術的命題と幾何学的命題を挙げます。これらの命題はすべてそうした本性をもっています。必然的真理については、そうでない命題は見つかりますまい。」 フィラレート「それは、多くの人々にとって奇妙に思えるでしょう。最も難解で深遠な知識が生得的だ、などと言えましょうか。」 テオフィル「それらの知識の現実的認識が生得的なのではなくて、潜在的認識と呼べるものが生得的なのです。ちょうど、大理石の石理の描く形が、加工によって発見される前に、大理石のなかにあるようなものです。」 フィラレート「しかし、外部からやって来る概念を受けとりそれに同意を与えているのに、子供たちは、生得的で自分たちの精神の一部をなしていると想定される概念についてはいかなる認識ももたない、などということが可能でしょうか。そうした概念が消し難い文字で精神に刻まれていて、基礎として役立つと言われているのにです。もしそういうことが可能ならば、自然は無駄な骨折りをしたことになる。あるいは少なくとも、自然はそれらの文字を下手なやり方で刻み込んだことになる。他の事物はよく見える眼が、それらの文字を読み取れないわけですから。」 テオフィル「私たちの内部にあるものの意識表象は、注意と秩序に依存します。ところで、注意は生活の必要によって導かれていますから、子供たちが感覚的概念により多くの注意を払うのは、可能であるばかりか適合したことでさえあるのです。それでも自然は私たちに生得的認識を刻むのに少しも無駄な骨折りをしたのではないことが、これから分かります。生得的認識なくしては、論証的諸学における必然的真理の現実的認識や事実の理由に達するためのいかなる手段もないし、私たちは動物に優るものを何ひとつもたないことになるからです。」(『人間知性新論』第一部第1章、工作舎『ライプニッツ著作集』第四巻、75-78頁)
生得的原理が即座に明証的とは限らない 如月 - 2009/12/01(Tue) 09:05 No.20198
フィラレート「いかなる義務も法の観念を伴っているし、法を定めた立法者や賞罰なくしては、法が知られたり想定されたりすることはありえません。」 テオフィル「立法者がいなくとも自然的な賞罰はあります。たとえば、不節制は病気によって罰せられる。けれども、不節制が即座にすべての人に害を及ぼすわけではない。だから、いかなる罪にも必ず罰を与え、いかなる善行にも必ず報奨を与える神がいないとしたら、ぜがひでも従わなければならぬ掟などないも同然であることは認めます。」 フィラレート「すると、神の観念や来世の観念も生得的でなければなりません。」 テオフィル「私が説明してきたような意味では、その通りです。」 フィラレート「しかし、それらの観念はすべての人間の精神に自然的に刻み込まれているどころではなく、事物を多少なりとも厳密に検討することを生業としている多くの学識者たちの精神にさえ、さほど明晰判明には現れません。ましてや、いかなる人にも知られているなんて、とんでもないことです。」 テオフィル「知られていないものは生得的でないとする想定を、私は幾度となく反駁してきましたが、またその同じ想定に逆戻りですね。生得的なものであるからといって、即座に明晰かつ判明に知られるわけではありません。生得的なものに気づくには、しばしば注意と秩序が大いに必要です。学識者がそれを常になし遂げているとはかぎらない。すべての人となればなおさらです。」 フィラレート「しかし、もし人々が生得的なものを知らずにいたり疑ったりできるなら、生得的諸原理について私たちに語ってその必然性を分らせようとしても無駄です。それらの原理は、事物の真理と確実性を私たちに教えるのに役立ちうる、と主張されていますが、少しも役には立ちません。ですから私たちは、それらの原理があっても、私たちの内にそれらがないのと同じく不確実な状態に留まるでしょう。」 テオフィル「すべての生得的原理を疑いうるとはかぎりません。自同的なものや矛盾律については、あなたもそのことに同意し、疑いえない諸原理があることを認めました。その際あなたは、それらの原理が生得的だと認めてはいませんが。しかし、生得的であるもの、そしてそれら生得的原理と必然的に結びついているものがすべて同様に、疑う余地なく即座に明証的であることにはなりません。」(『人間知性新論』第一部第2章、工作舎『ライプニッツ著作集』第四巻、90-91頁) フィラレート「慣習や教育や私たちが交わる人々の一般的意見は、生得的と想定されるこれら道徳の諸原理を曖昧にしうると言われてきました。しかし、もしこの反論が正しいとすれば、普遍的同意に基づくとされている論拠は無に帰してしまいます。多くの人々の推論はこうなってしまいます。良識ある人々が認める諸原理は生得的である。私たちと私たちの仲間は良識ある者たちである。ゆえに、私たちの諸原理は生得的である。何と愉快な推論の仕方でしょうか。無謬性へのまさに近道です。」 テオフィル「私はと言えば、普遍的同意を、主要な論拠としてではなく確認として使っています。なぜなら、理性の自然な光と考えられた生得的原理は、あなた自身が疑いえないものと認める直接的原理に含まれているので、幾何学と同様にその刻印をもっているからです。しかし、本能や他のいくつかの自然的習態を慣習と区別することの方がもっと難しいのは認めます。それでも、たいていは区別できると思います。」(『人間知性新論』第一部第2章、工作舎『ライプニッツ著作集』第四巻、93頁)
Re: また繰り返しになる部分も有りますが…。
佐々木 寛
- 2009/12/05(Sat) 21:15 No.20530
「ただ、われわれの「知」というのは、そうした経験から得られるものがすべてではないと私はおもうのですね。たとえば計算能力を考えると、「1+1=2」とか「10+15=25」のようなものであれば、指を折ったり、モノで代用するなりして数えた実体験からそうした実感や解答を導きだすことができるかもしれませんが、たとえば「258,568+609,359」のような計算は、直接的な経験知や体験ではなく、経験知の応用によって解答を導き出すのではないでしょうか。それと、この「258,568」なり「609,359」といった数の概念(私はそれを適当に書いただけですが)も、われわれがこれらの数を経験したことがあるからその概念を把握しているとは言えないのではないでしょうか。」(如月さん投稿より) 応用や類推などというのは、しばしば我々が、経験していることです。当然、経験知の応用というのは経験の範囲内でしょう。右手の指を一つ二つと曲げながら、1・2・3・4・5(ここで右手の指が全て曲げられる)・6(ここから曲げた指を伸ばして)・7・8・9と数えるのは、1ずつ加えて行くということでしょう。そして、9の次が、10で位(桁)が一つ上がり、そこで左手の指を一つだけ曲げる。それから、また右手で、11・12・13・14・15・16・17・18・19と数えられるならば、後は原理的に、この繰り返しで、100まで数えられますし、その後も、左手の指の代わりに別のものを位(桁)が一つ上がった目印(めじるし)として一つずつ用意すれば、原理的に無限に、この操作を繰り返すことが可能だと考えられます。 それから、インド記数法を基にしたアラビア数字による数値、「258,568」と「609,359」の加算は、簡単な、一桁同士の足し算から二桁同士の足し算へと、我々が習い覚えたように、六桁同士の足し算も、算術の計算規約に基づいて可能でしょうし、数や算術自体、後天的に習得した経験を多くの人が持っているのではないでしょうか。少なくとも私は、数の数え方などを父親などから教わった経験を持っています。数や言葉を教わると、それに付随して暗黙の内に、論理の規約である同一律や矛盾律も教わることになります。 子供の頃には、簡単に教えて貰ったり自分でも考えると思いますが、「山」や「犬」という言葉を教わり、その意味内容として、概念があります。たとえば、山とは、平らな平野などから高くなっている部分であり、犬とは、四本足の生き物でワンワンと鳴くものであるなどが、その言葉の意味内容であり、その簡単な概念ですね(ちなみに、犬という言葉と、その概念〔=意味内容〕を教えられた後で、実物の犬を見たり触れたりする経験をしたということもあるでしょうが、この場合、限定的ですが、犬の実際経験以前に犬の概念があることになります。ただし、厳密に言えば、その概念は言語経験により、得られたものに他なりません)。さらに進むと、何度か述べたように、「線」という〔言葉〕は、「幅の無い長さ」という意味〔線の概念〕であるなどになります。 また、ある具体的な数を経験したことが無いから、数の概念を把握しているとは言えないというのは、たとえば、アフリカなどに存在するバオバブという樹木を実際に見た経験が無いから、樹木の概念は把握できないし、経験から樹木の知識を得ることはできないと言っているのに近いように思えます。常識的に言って、バオバブ以外の身近にある松や杉などの樹木を観察する経験は持てますので、樹木に関する相応の知識や概念は持てるでしょうし、新種が確認されたら、既知の樹木の種類に加えるか、分類上、新たな種類を付け加えれば良いだけの事だと考えます(ほとんど問題ないでしょう)。 「テオフィル「それらの知識の現実的認識が生得的なのではなくて、潜在的認識と呼べるものが生得的なのです。ちょうど、大理石の石理の描く形 ばねばならぬことを排除しはしない」。だが学ぶことにおいて我々は、数学的命題の真理がそれらを習得する個々の経験には依拠しないことを知るのである。この意味でライプニッツはあらゆる必然的な数学的命題、あらゆる普遍的な道徳的命題を本有的と名づけるのである。かかる霊魂説を基礎としてライプニッツは心理学の基礎的理説を展開する。それはデカルトとロックの意識心理学とは決定的な点で最も鋭い対立をなす。彼は心理学的考察を、ロックやデカルトのように、観念の意識所与性に、即ち観念が意識的知覚に与えられてあることに限定しない。むしろ彼は、丁度我々が物体現象から物理的構造や力を推し測るように、我々の意識の所与性からこれらの根柢にある心的過程や力を正当に推論することが出来ることを強調する。我々の意識現象の世界の背後に、それを制約する無意識的な魂の生が存在すること、かかる無意識なるものの方法的発見と探求こそライプニッツに特有の心理学的業績である。」(増永洋三氏、『人類の知的遺産36ライプニッツ』、講談社、1981年、192-3頁) ちなみに、この解説のなかで増永さんが「本有的」という術後をあてている形容詞は、工作舎版のライプニッツ著作集で「生得的」という訳語をあてている形容詞と同じもの(inne,inate)です。
ようやく回線がつながる 如月 - 2009/09/03(Thu) 22:53 No.13042
本日ようやくフレッツの回線がつながり、ネットにアクセスできるようになりました。 新居の方はまだほとんど片付いていないので、部屋を整理しながらぼちぼちネットの方も再開していこうとおもっております。
Re: 澁澤さんの遺影に誓う いっちゃん - 2009/08/07(Fri) 01:41 No.10868 <Home >
如月さん、お暑うございますが、お元気ですか?(^^ 『精神論』出版されるんですか?!うわーすごい(^^ 絶対買います〜。詳細が明らかになったら教えてくださいね〜。
にらめっこ 如月 - 2009/08/07(Fri) 23:10 No.10935
出版のことは、翻訳が完成するまでになんとか目処がつけばいいだろうとおもっておりましたので、まだ半分も訳し終えていない段階で内諾を頂けるというのはほんとうに夢のようです。 そうした事情ですので、先方には、訳が完成するまであと2 年はかかるので待って欲しいとお伝えし、了承して頂いております。 そんなこともあって、せっかく拙訳を出版してくださるという出版社の期待に背かぬよう、あちこち訳を訂正したり、それよりなにより、猶予期間に間に合うよう、毎日せっせとフランス語とにらめっこしております。
気が遠く… 如月 - 2009/07/24(Fri) 10:27 No.9663
今朝は『精神論』第三講の冒頭を訳しています。訳の方はようやく調子がでてきましたが、やはり古いPCがまったく作動しないので、これまで訳した原稿を再入力しなくてはならないかもしれません。幸い、第二講まではプリント・アウトしたばかりなのでデータとしては完全に残っているのですが、なにせ原稿用紙500枚以上あるので、その量を考えるとちょっと気が遠くなります。
メール機能は移管 如月 - 2009/07/26(Sun) 00:37 No.9774
その後、メールの機能は、無事新PCに移管することができました。 データの方はあいかわらず取り出せないまま(PCが開かないまま)ですが、今は少し気をとりなおして第三講を訳しています。
苦戦気味 如月 - 2009/07/20(Mon) 09:42 No.9161
『精神論』の第二講で、エルヴェシウスは、文化人類学的さらにはポストコロニアル的な議論のすすめ方をしており、その一面を拡大するとサドなどにもつながる要素が出てくるとおもうんですが、第三講では、内容も用いる概念もがらっとかわるんですね。このため頭がなかなか切り替わらなくて、翻訳の方もちょっと苦戦気味です。
調子が出たとおもったら… 如月 - 2009/07/22(Wed) 00:41 No.9457
訳の方はやっと少し調子がでてきました…とおもったら、打ち込んだばかりの訳を自分で消してしまったのでちょっと落ち込んでますけど(笑)。 それと、エルヴェシウスの伝記が借りられそうなので、全体としては一歩前進です。
Re: 悪質メールにご用心
佐々木 寛
- 2009/07/12(Sun) 09:38 No.8342 <Home >
私のところにも、同じようなメールが、最近、二通ほど届きました。取り敢えず、悪質メールの証拠として、保存していますが、そもそも、登録などしていませんので、支払い等に応じるつもりは、まったく有りません。新手の「振り込め」詐欺ではないでしょうか?
パーセルの時代 如月 - 2009/07/05(Sun) 10:14 No.7877
モンテヴェルディをはじめとする音楽家がたくさん入っているのはエルヴェシウスが言及しているからではなくて私の趣味からですが(その割にき記事が充実していない)、ならべて見ると、パーセルが思いかげない歴史的位置にいるのだなとおもいました。
18世紀農民の衣食住 如月 - 2008/11/27(Thu) 10:23 No.5797
18世紀当時の農民の年収100フランないし日給8ソルが、現在で言うとどのくらいの価値をもつ金額なのか(当時の物価は?)ということも興味深い問題ですが、ではその収入で衣食住などの必要にどのように支払っていたか、買い物は具体的にどのように行っていたかなども考えてみるとおもしろい問題ですね。 仮にかってに推測してみると、家賃なんかは領主(大家)から天引きでしょうか?この場合も、日給から毎日引かれていたのか、ある程度まとめて支払っていたのか、ちょっと疑問。天引きだと取りっぱぐれはないですけど、仕事をしてない日は回収できないから、やはりある程度まとめて支払いでしょうか? 衣服は、定期市で古着を買うなんていうのがいい線じゃないでしょうか?少し大きな町であれば、もしかしたら古着屋や衣料品店があったかもしれませんね。それとおそらくは行商(移動商人)がいたとおもいます。 食の方は、パリはともかく地方の町にパン屋があったんでしょうか?それとも毎日自分で焼いていたんでしょうか?これに関しても、イタリアのピザやパスタのようなものであれば、ある程度自宅で手打ちでつくれたんじゃないかとおもうんですが、フランスパンのようなものはかなり難しいんじゃないですかね?でも、フランス料理にはピザとかパスタのようなものがないから、やはり別のものを主食として食べてたんだろうとおもうんです。 まあ、エルヴェシウスの文章が変に具体的だから、こんないろいろなことを考えてしまいますね。おそらく、同じような史料が『鎌倉遺文』なんかにのってたら、この程度の断片でも第一級の史料で、ここから民衆の生活をさまざまに組み立てていたとおもいます。
18世紀農民の結婚 如月 - 2008/11/29(Sat) 23:33 No.5807
エルヴェシウスの註は、もう一つおもしろい事実を指摘しているとおもうんですが、皆さんお気づきでしょうか?それは、 「結婚後最初の年には、子供の世話と授乳に完全にかかりきりになって、妻はなにも稼ぐことができない」 という部分なんですが、この表現を素直に受けとると、当時の農民の結婚は大半がいわゆる「できちゃった結婚」ということになってしまうんですね。当時の一般的な結婚って、そんなもんだったんでしょうか…。
二つの必然性のからみあい 如月 - 2008/11/12(Wed) 23:27 No.5779
エルヴェシウスの自由意志論については、『精神論』第一講第四章「言葉の誤用について」もご参照ください↓。http://www.furugosho.com/precurseurs/helvetius/esprit1-4.htm ここでエルヴェシウスは訴訟を例にあげているのですが、訴訟の原告(もしくは被告)としては、可能な限り最良の弁護士を選ぶ必然性があるわけです。 しかし一方でこの弁護士も自分の意志をもっているので、依頼を受けるかどうかには弁護士の側の必然性もからんでくる。 その結果、ある訴訟をある弁護士が引き受けるということは必然性の連続で決まるのだけれども、意志をもつ主体が二つあるために、外見上は偶然(自由)に決まったようにみえるというわけですね。
ライプニッツであれば… 如月 - 2008/11/13(Thu) 10:26 No.5781
このあたりの自由の問題、ライプニッツであれば、予定調和で一刀両断にするところなんですけど、世界から神を排除したいエルヴェシウスとしては、そうしたライプニッツ的な考え方は受け入れがたいというところでしょうね。 もっとも、『単子論』などの予定調和の考え方を説明したライプニッツの晩年の著作は、十八世紀のなかばまであまり読まれてないんです。
個々の人間の違い、人間と動物の違い 如月 - 2008/11/15(Sat) 09:30 No.5784
ニコルの著作は読んだことがないので、彼の考えは、エルヴェシウスの説明以上にはよくわからないのですが、少なくともエルヴェシウスによれば、ニコルの立場というのは、神がさまざまな人間に先天的な差異を与えたというものであり、おそらく、人間と動物にも大きな差異を与えた(人間は「精神」をもっているが動物はもっていない)というものなのでしょう。 これに対しエルヴェシウスは、個々の人間には身体的相違があるし、また人間と動物の身体的・構造的相違はさらに大きいが、それはあくまでも程度問題であり、したがってある人間やある種の動物が、ある種の能力をまったくもたないということはないということですね(そこから教育の可能性・重要性の問題が生じてくる)。 これを別の面からいうと、人間と動物のあいだに、見かけ上の構造意外に決定的な相違はないという