026101
網上戯論
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芭蕉、如月さんの山形に入る 投稿者:かぐら川 投稿日:2008/07/03(Thu) 21:34 No.5652   <Home>
余談?ですが、芭蕉一行は、奥羽行脚で山形入りしたのは7月で、まるまる一か月、現在の山形県で過ごすことになります。
日々、曾良の手控え帳を追いながら芭蕉の旅に同行しています。
お暇な折に、お寄りください。


めずらしや山をいで羽の初茄子 如月 - 2008/07/04(Fri) 08:41 No.5654  

私は『奥の細道』の舞台となる出羽・庄内(山形県の日本海側の地域)の出身なものですから、『奥の細道』を読むと、芭蕉は庄内を訪問するのが目的でこの奥州旅行をおもいついたのではないかとおもえてくるんですね(笑)。
かぐら川さんもすでにお気づきのように、この旅では、他の地域はすべて「通過」していますが、庄内だけ「逗留」しています。それも梅雨明けの一番いい季節に庄内入りするように、タイミングを合わせてあるんですね。
ですから、もしかすると庄内・酒田あたりに芭蕉の大パトロンがいて、その人が芭蕉にこの旅行をすすめまた資金援助したのではないかと想像したりもしています。


大分行き 投稿者:如月 投稿日:2008/06/19(Thu) 23:29 No.5614  
日本18世紀学会の大会を聴講するため、明日の夕方、大分に向かいます。九州地方は大雨だというので、天気が心配です(地元の人からすれば、これはとても深刻な問題だとはおもいますが…)。


大分から戻りました 如月 - 2008/06/22(Sun) 21:58 No.5626  

ただ今大分から戻って参りました。
お天気にはめぐまれませんでしたが、遊びに行ったわけではなし、雨で移動に差し障りが出るというほどではありませんでしたから、九州近県の災害をおもえばまずは順調な九州行だったとおもいます。

学会を聴講しての成果も、事前に予想していた以上のものがあり、なかでも、山田高誌さんの報告「18世紀後半にみられるナポリの喜劇オペラの”高まり”とそれを支えた人々」の実証の見事さには圧倒されました。
個人的には、エルヴェシウスの文章のなかでわかなかった術語をそれぞれの専門家に教えていただき、とてもためになりました。
また、代表幹事の小田部胤久さんと少しおはなしができ、こちらもとても有意義でした。

時間ができたら、その辺のところ、もう少しくわしく書いてみたいとおもっています。


「耶馬渓変奏曲」 如月 - 2008/06/23(Mon) 22:22 No.5627  

ところで今回の大分行き、私にとっては実質二回目の九州行なのですが、前回の行き先もやはり大分で、私は、九州というと大分しか知りません。
では前回なぜ大分に行ったかというと、当時開館したばかりの大分市美術館が、2000年に四谷シモンの人形展を開催してくれたからで↓、大分市美術館にはその後も所蔵作品を借りたりいろいろお世話になっているので、今回は、学会に出席する前に、ぜひ美術館を再訪しようと決めておりました。

http://www.simon-yotsuya.net/exposition/pyg_4.htm

数年ぶりの大分市美術館はなにかとてもなつかしい感じで、でも当時は出来たてだった建物や庭が、少し時間が経つことで周囲になじんできている感じでした。

ところで、大分市美術館は豊後生まれの画家・田能村竹田の作品の収集に非常に力をいれているのですが、その竹田と頼山陽の交流のなかから生まれた地元の「耶馬渓」の画の思想的背景が、今回の18世紀学会大会のなかで小特集として紹介されるとのことで、大分市美術館の学芸員・岡村暢哉さんとはとても話がはずみました。
高橋博巳さん(金城学院大学)、古賀道夫さん(大分県立芸術会館)、宣承慧さん(ソンスンヘ、韓国国立中央博物館)の学会報告も興味深いもので、なかでも中国(宋)、朝鮮、日本を比較し、竹田・山陽の作品のなかに朱子学の理念を読み込むという宣さんの報告の発想はスケール雄大で、懇親会で宣さんと少しお話しさせていただきました。要するに、常に外敵に脅かされ相対的な視線から逃れることのできなかった宋文化および朱子学は、中国文化および思想のなかで、中国の独自性を色濃く打ち出している面と普遍性の両面をもっているわけで、それが江戸時代末期の日本のなかでどのように受容されたか、また朝鮮の場合は、どのような時代的・社会的背景のもとにそれを受け入れたのか、非常に興味深いというような感想を韓国における日本美術の専門家・宣さんに伝えることができ、とてもおもしろかったです(ちなみに、宣さんによれば、その国難とは豊臣秀吉の出兵だという)。


唯物論の立場から人間をみていくと… 如月 - 2008/06/23(Mon) 23:55 No.5629  

私の現在の研究対象ということで、宣さんの質問にこたえてエルヴェシウスの思想のついても少し説明させていただいたのですが、キリスト教の枠をはずして、唯物論的な立場から人間や社会を考察するというエルヴェシウスの思想は、なんとなく孔子などの中国思想をおもわせなくもないということでも、意見が一致して、これまたおもしろかったです。


ミニ・コンサート 如月 - 2008/06/24(Tue) 21:37 No.5633  

18世紀学会の大会が他の学会大会とものすごく異なるところ、そして私は、それはこの学会のとてもいいところだとおもっていますが、それは、初日の報告が終わったところで、18世紀音楽のミニ・コンサートがあるところです。これはおそらく、18世紀という時代を頭の中だけで理解するのではなく、当時の音楽をとおし、感覚でも18世紀を把握しようということからくる運営方針なのですね。ことしはスペインの楽器ビウエラと5コースギターの演奏および声楽がそれにあてられました。
ところが今回はこのコンサートがちょっとしたハプニングに見舞われてしまいました。というのは、道路が渋滞したためにビウエラとギターを演奏する小川伊作さんが定刻までに会場に到着できなかったのです。仮に後から見えられても、調弦などの準備がありますから、小川さんが演奏できるかどうかは流動的ということで、急遽プログラムの順番を変更してソプラノ来栖由美子さん他によるイタリアのカンタータ(マリーニ、カリッシミ、ストロッツィ)からコンサート開幕。カンタータのプログラムの最後の方で遅れていた小川さんも到着し、そのまま演奏できるとのことで、休む間もなく珍しいビウエラの演奏(ミラン、ナルヴァエス、ムダーラ)を披露していただきました。ビウエラというのは、リュートがギターに変わっていく転換期に出現した楽器で、見るのも演奏を聴くのもこれがはじめてです。
ただコンサートの予定が大幅に変更されたため、後半のプログラムは小川さんも来栖さんも準備した曲を削られ、すべての曲が聴けなかったのは残念でした。というのも、小川さんの演奏するスペインの素朴な変奏曲がとても興味深かったからです。


金羊毛騎士団  如月 - 2008/06/26(Thu) 20:57 No.5636  

大分市美術館に立ち寄ったこともあって、一日目の最初の方の報告は失礼して、私は午後の岩崎周一さんによる「18世紀ハプスブルク君主国における金羊毛騎士団」から、学会報告を聴かせていただきました。この岩崎さんの報告は、「ハプスブルク」「金羊毛騎士団」の二つの魅力的なキーワードが入っており、事前にぜひとも聴きたいとおもっていた報告の一つです。
報告は、「ハプスブルク帝国」という不思議な性格をもった君主国のなかで、ハプスブルク家と家臣団の紐帯を築くためにブルゴーニュ起源の金羊毛騎士団が果たした役割とその実体を時系列にそって具体的に明らかにしながら、「権力の行使は、つねに象徴上の実践を必要とする。儀式やシンボルを必要としない政体はない」(リン・ハント)、「後光のない玉座は永続きしない」(アルブレヒト大公)といった提言にそって、汎ヨーロッパ的な「威光」を有していた金羊毛騎士団は、ハプスブルク王権にとって自らの権威と正統性を顕示し表象するイメージ戦略を展開する上での格好の素材であったと位置づけ、金羊毛騎士団はハプスブルク家の君主が臣下に与えうる最高の名誉となったのみならず、対外的な意義をも獲得して、ハプスブルク君主国の存立を支える「後光」の一部になったとするもので、これ自体非常に興味深いものでした。
この岩崎報告のテーマは、ヨーロッパの君主たちがなぜオペラを庇護したかという今回の大会の共通テーマとも深いところで通ずるものですし、目を日本中世史に転ずれば、強力な権力を掌中にした北条氏が、なぜ「将軍」の権威を必要としたのか、また鎌倉幕府にとつて「御家人」制度とはなんだったのかの問題にも通ずるおもしろい視点だとおもいます。フランスやイギリスの場合、国民国家としての性格を近世の早い段階で明らかにし、国民統合の中心としての王権という概念が打ち出されてくるので、ハプスブルク君主国のように、自己の権威・権力の基盤を常に意識的に創出しようというベクトルはやや弱いのですね。
ところでこの岩崎さんの報告を聴きながら驚いたのは、金羊毛騎士団が守護聖人アンドレにちなんだ日に総会を行い、宗教行事の他、入団指揮(式?)や団員に対する査問や裁判を開催するというくだり。
直前に読んだばかりのエルヴェシウス『精神論』の第二講第二十章に、フランスにおける宮廷同様、ドイツでは「Chapitres」が重んじられるとあり、このChapitres(英語で言えばChapters)というのは「章」ではありえないし、いったいなんのことだろうと悩んでいたところへ、この総会が「chapitre(ドイツ語ではKapitel)」と呼ばれているという説明があったので、エルヴェシウスはこの金羊毛騎士団の「総会」に言及していたのだと、いっぺんで謎が氷解したのです。
報告終了後の質疑応答で、岩崎さんにそのことの御礼を申し上げ、金羊毛騎士団の総会についてさらに詳しく教えていただきました。また、その後懇親会等でも親しく話させていただいて、なかなか聴くことがない、ハプスブルク帝国の王権論についてさまざまな事を教えていただき、大変勉強になりました。そのなかでは、最近の近世史の研究動向としては「絶対王政」という概念自体、疑問視され死語となりつつあるといったことや、細かくみていったときのドイツとオーストリアの社会科学のアプローチや方法論の違いの話なども、とてもおもしろかったです。総体的にいえば、王権概念を騎士団との紐帯といったやや抽象的な面からとらえるといった研究自体、ドイツ・オーストリアの社会科学のなかでは非常に新しいものなのですね。
いずれにしても、岩崎報告を聴講できたのは、私にとってとても大きな収穫でした。18世紀学会というのは、地域、分野を問わずさまざまな報告が行われるので、意外な報告から予想外の大きな収穫が得られるのです。


踊りの才知(エスプリ) 如月 - 2008/06/27(Fri) 22:53 No.5638  

すぐ上に、岩崎周一さんの報告「18世紀ハプスブルク君主国における金羊毛騎士団」によってエルヴェシウス『精神論』のなかの不明箇所が解決したことを書きましたが、実は翌日の浜中康子さんの共通論題報告「18世紀の舞台芸術における舞踊」からも、同じように『精神論』のなかの不明箇所解決のヒントを得ました。
浜中さんの報告は、オペラをはじめとする17〜18世紀のフランス舞台芸術における舞踊の役割を明らかにすると同時に、実際にそれを復元して再現するという実践的なものだったのですが、おもしろいことにこれが、『精神論』の第二講〜第一章「一般的観念」のなかの不明箇所にピタリと照準が合っていたのです。
というのは、『精神論』の第二講以下では、エルヴェシウスは作品の主題となっているespritを「才知」ととらえ直し、その面から、具体的な個々のesprit(才知・精神)をみていくのですね。そのときまず最初にあげられるのが踊りの才知なのですが、エルヴェシウスにとっては非常に身近で具体的なものであったはずのこの話題が、私にはさっぱりわからない。続く演劇の話とのつながり具合からいって(ちなみに「ル・クヴルール」というのは、チレーアのオペラ『アドリアーナ・ル・クヴルール』の主人公ともなっている実在の大女優)、エルヴェシウスが言及している「マルセル」なる人物は実在の踊りの名人だとおもわれたのですが、あまりにもありふれた「マルセル」という名前からは、この人物を調べる手がかりがおもいつかないうえに、脚の曲げ方や伸ばし方などの所作の話がやはりよくわからない。
ところが、浜中さんの報告のなかでは、その所作が言及されただけでなく、それは実際にこういうことなのだと、具体的な動作でわれわれに教えてくれるのですね。おかげで、不明の部分がすっきり解決しました。
報告終了後、浜中さんと少しお話しさせていただいて、「マルセル」というのは、18世紀のフランス古典舞踊を学んでいる人間であれば誰でも知っている踊り手・振り付け師であったということ(おそらくこの人物は「フランソワ・マルセル」という人物)、また私が一般的な所作として「歩調を合わせる」というくらいに考えていた「emboiter ses pas」という表現のなかの「emboiter」というのは、それ自体が所作の一種で、この表現はアンボワテの歩調をとるといった意味になるということを教えていただきました。
金羊毛騎士団の「総会」もそうですが、こういう具体的なことはいくら一般的辞書をひいてもさっぱりわからないので、ほんとうに大助かりでした。


「マルセル」 如月 - 2008/06/28(Sat) 09:06 No.5640  

エルヴェシウスのいう「マルセル」というのは、「Dance Research」という本で取り上げられている人物のことだとおもわれます↓。

http://www.jstor.org/pss/1290632


懇親会にて 如月 - 2008/06/29(Sun) 08:48 No.5641  

ところで、歴史の学会大会と異なり、18世紀学会は規模も比較的こじんまりとしているので、会員の同定が容易で、懇親会でもいろいろな方と話しやすいのですが、今回の懇親会でははじめて水田洋さんにご挨拶させて頂きました。事前に水田さんのお仕事をもっとよく知っていたら(恐くて)話しなんかはしなかったかもしれないし(笑)、逆にもっと気の利いたことを話していたかもしれませんね。でも、今エルヴェシウスを読んでいるというと励まされました。
また代表幹事の小田部胤久さんとは、最初に会場に着いたとき、懇親会のときなど、少しだけお話をしましたが、その短い会話のなかでは、私が、エルヴェシウスを読みながらカントに収斂しない18世紀思想のあり方を考えているという意味のことを言ったのに対し、即座に「カントの方が少し変なんですよ」というお返事を頂いたのが、短いけど強く印象に残りました。


エルヴェシウスと水田さん かぐら川 - 2008/07/03(Thu) 21:24 No.5651   <Home>

エルヴェシウス、ご恵送いただき有り難うございます。いっしょにルソーを読んでいた友人を亡くしてからは18世紀からは遠ざかっていますが、拾い読みをさせていただて、久しぶりのフランスの知の世界に興奮しました。
ところで、きのう古書店で水田さんの「空想より科学へ」の訳本――かつて共産党宣言の訳とともに講談社文庫にあったもの――をみつけ、索引で「エルヴェシウス」を探したのでした。(ちなみに、一か所登場します。)

如月さんのエルヴェシウスが、私のルソーへの帰り道になるような気がしています。いずれまた。


才知・才覚 如月 - 2008/07/04(Fri) 08:31 No.5653  

かぐら川さん、どうぞ宜しくお願い致します。
お手許にコピーをお送りしてから気づいた誤りは、小サイトの方で(こっそり)訂正してあります(笑)。
たとえば、序文のなかでは「エスプリ」の訳語をすべて「精神」でとおしたのですが、一箇所「才覚」とした方がいいかなとおもった箇所がありましたので、そのように訂正しました。
そういえば、肝腎の「エスプリ」の訳語も、「精神」はともかく、その社会的な働きを述べている使用には、当初「才知」という訳語をあてていましたが、この言葉だと適用範囲が少し狭いような気がしますし、それとこの言葉のなかの「知」という響きがエルヴェシウスの主張全体から少し離れているような気がしてきて、「才覚」に改めました。でも、訳した部分全体を眺めると、ここは「才知」の方がいいかなとおもえる部分もあって、微妙ですね。自分の才知・才覚のなさをおもいしらされてます。

ルソーとの関係でいえば、『エーミール』は、『精神論』の唯物論的思想傾向、無宗教的思想傾向への反論を意識した作品のようですので、それを意識しながら読むというのもおもしろいとおもいます。


映画に描かれた哲学者 投稿者:野枝 投稿日:2008/06/15(Sun) 12:57 No.5605  
続きです・・・

 付属のDVDには映画全編が収められています。
そこでは、ほとんどデリタが語っているそうです。

  ご参考まででした。


自分の画像をさらす 如月 - 2008/06/19(Thu) 23:26 No.5613  

哲学者として登場した頃のデリダは、イメージが固定することをおそれて自分の写真を公開することも嫌っていたことをおもうと、映画に登場するというのは、隔世の感がありますね。
こうして自分の画像をさらすということには、デリダなりの戦略性があるのだとおもいますけど。


『デリダ、異境から』  - 2008/06/29(Sun) 20:22 No.5644   <Home>

映画、『デリダ、異境から』を観ましたが、自説や、哲学上の重要な問題について、精緻な議論を展開しているのかと思いきや、残念ながら、この映画では、そういう場面は、ほとんど無いですね。


ズレ 如月 - 2008/07/04(Fri) 08:49 No.5655  

デリダの重要概念は「differance」ー「difference」のように話し言葉には適用しにくいものが多いですし、もともと自分の思想の概説や要約を嫌う人ですから、この映像も、その辺の「ズレ」を意識しながら観ないといけないのかもしれませんね。


言葉を撮る 投稿者:野枝 投稿日:2008/06/15(Sun) 12:49 No.5604  
今日の読売新聞の文化面に、
ジャック・デリタが出演した出演した唯一の映画『デリタ、異郷から』をめぐって、デリタとエジプト人女性監督・詩人のファティが執筆した書物の紹介があります。


Re: 言葉を撮る 如月 - 2008/06/19(Thu) 23:23 No.5612  

野枝さん、ご案内ありがとうございます。


野沢協さんを訪問 投稿者:如月 投稿日:2008/06/15(Sun) 12:00 No.5602  
エルヴェシウス『精神論』の訳がとりあえず一段落したということで、先週は、翻訳した第一講をプリントアウトして、野沢協さんを訪問してきました。この前、野沢さんを訪問したのは、18世紀学会でマブリについての発表を行った直後ですから、4年振りの訪問になります。澁澤龍彦さんより2歳年下の78歳ですが、とてもお元気そうでした。この日はたまたま神奈川近代文学館での澁澤龍彦展の最終日だったこともあり、澁澤さんのことや二人の共通の師である平岡昇さんのことなども少し話題になりました。

ところで、まもなく、野沢さんも監修しておられる『啓蒙のユートピア』(法政大学出版局)の第二巻が刊行され、そのなかでマブリの『フォシオン対談』が紹介されるそうです。日本では最初のマブリの正式な翻訳であり、また野沢さんが解説を書いておられるということで、とても楽しみです。


『精神論』の「前書き」等をアップ 投稿者:如月 投稿日:2008/05/25(Sun) 19:45 No.5535  
エルヴェシウス『精神論』の「前書き」をアップ致しました↓。

http://www.furugosho.com/precurseurs/helvetius/esprit0-1.htm

内容的にいって、これは出版弾圧を意識した抗議文という感じがしますね。

一方、エルヴェシウスの贅沢論(『精神論』第一講第3章)と比較できるよう、勢力尚雅氏が論文「道徳感覚派とカント」(『カント哲学のアクチュアリティー 哲学の原点を求めて』<坂部恵・佐藤康邦編、ナカニシヤ出版、2008年>)のなかで述べているヒュームの奢侈観と社会観を抜き出してまとめたページを新設しました。ご参照ください↓。

http://www.furugosho.com/precurseurs/hume-luxury.htm

ヒュームはエルヴェシウスだけでなくカントにも強く影響しているわけですが、そのエルヴェシウスとカントの道徳学説が正反対なところがとてもおもしろいです。


第一講第4章「言葉の誤用」をアップ 如月 - 2008/06/01(Sun) 12:33 No.5544  

エルヴェシウス『精神論』第一講第4章「言葉の誤用について」をアップ致しました↓。これで第一講本文の訳はとりあえず完結しました。

http://www.furugosho.com/precurseurs/helvetius/esprit1-4.htm


『砂男』公演、終了 投稿者:如月 投稿日:2008/05/12(Mon) 00:59 No.5505  
みなさん、昨日は『砂男』公演にお越し頂きありがとうございました。
昨日の公演は、来場者数こそ神奈川近代文学館での四谷シモン講演会に及びませんでしたが、内容的にはものすごい成功だったと自負しております。
ただ、私のなかでその感想がまだうまくまとまっていなということと、私が書いても客観性を欠くという二つの理由から、昨晩おみえになった四方田犬彦さんから、今朝、「 舞台の不思議な余韻は今でも続いています」というメールを頂いたことを紹介して、とりあえずの報告とさせて頂きます。
さてうってかわって今日は、昨晩の公演のために東京に来られたダニエラ・シャローム・ヴァガータさんから、明日から神保町のギャラリーメスタージャ(千代田区西神田2-3-5千栄ビル1階、TEL=03-6666-5500)ではじまる四谷シモンの人形とデッサンの展覧会の準備をぜひみせて欲しいというご依頼があったので、午後1時からヴァガータさんをご案内し、その後、四谷シモンとともに、国立近代美術館で開催されている「花と人形」展の最終日の展示にすべりこんで、ヴァガータさんに同館所蔵の四谷シモン作品『解剖学の少年』をお見せし、それから一転新宿へ移動して唐組の赤テントを訪問して唐十郎さんに挨拶し、またまた一転して紀伊国屋画廊に行き、四谷シモンの古い友人浜いさをさんの人形展を訪問するというかなりハードなスケジュールとなりました。
それでもヴァガータさんは四谷シモンとそれを取り巻く状況がものすごくよくわかったと、とても喜んで京都に帰られました。
ヴァガータさんは日本語がほとんどできないので、後から考えたら、自分でも信じられないことに、5時間ほどずっと外国語を話していたことになります。ただ話といってもずっと難しい話をしていたわけではなく、フェリーニ映画がとても好きでフェリーニを尊敬しているというヴァガータさんに合わせてフェリーニ映画の話をしたり、途中で四谷シモンがイタリア映画『刑事』のテーマ・ソングを歌い出したりと、和気藹々と、けっこう楽しく過ごすことができました。四谷シモンとヴァガータさんは、ともにフェリーニの『カビリアの夜』を見ていて(私は未見)、あのシーンがよかったこのシーンが良かったと、うまく波長も合ったようです。ちなみにヴァガータさんが最も好きなフェリーニ映画は『8 2/1』で私は『甘い生活』。それについての細かい議論は次回合うときまで持ち越しとなりました。


カネヴァッチ好みの映画 如月 - 2008/05/13(Tue) 00:26 No.5507  

今日は、ギャラリーメスタージャで開かれている四谷シモンの人形とデッサン展の初日に表敬訪問したくださったカネヴァッチさん、リベイラさんおよびローマ大学の学生さん達と飲み直し。『砂男』公演も無事終わって、リラックスした雰囲気のなかでいろいろな会話を楽しみました。
カネヴァッチさんに好きな映画監督はと伺ったところ、新しい人ではデイヴッド・リンチ、古いところでは、ブニュエルを別格としてアントニオー二、パゾリーニそしてなんとビリー・ワイルダーとのこと。
さらに、アントニオー二とパゾリーニの違いを伺ったところ、パゾリーニは詩的な感じ、アントニオー二はこれぞまさしく映画という感じがするところが大好きだとのことでした。
それから、ブラジルを第二の拠点とするカネヴァッチさんに敬意を表して、私はグラウベル・ローシャの『アントニオ・ダス・モルテス』が大好きだと言ったら、にやっと笑って握手を求められ、一緒に、「マタド〜ル、マタド〜ル、ディ、カンガセ〜イロ」と『アントニオ・ダス・モルテス』のなかの劇中歌を熱唱してしまいました♪


カネヴァッチさんの著作 如月 - 2008/05/13(Tue) 09:17 No.5509  

ところで、カネヴァッチさん、リベイロさん、そしてローマ大学の学生さん×6人の一行は、昨日画廊に来る前に、今回の『砂男』公演をサポートしてくれた御礼にイタリア文化会館を訪問し、カネヴァッチさんの著作『Una stupita fatticita(しびれるような事実性)』の日本語訳出版にいい感触を得たようです。四谷シモンに対し、日本語訳が出たときにはぜひ序文を書いて欲しいとの要請がありました。『Una stupita fatticita』は、ギャラリーメスタージャの四谷シモン展開催期間中、同ギャラリーで四千円で販売しております(カネヴァッチさんのサイン入り)。

また、今回のメスタージャの展覧会では、『砂男』の公演に使用された白いドレスを着た少女の人形も展示・販売されています。


Re: 『砂男』公演、終了 あかねこ - 2008/05/15(Thu) 15:45 No.5516  

『砂男』公演御成功おめでとうございました。
刺激的な毎日ですね。
シモン先生の個展も31日迄ですね。雑司ヶ谷で開催中の父の個展が日延べとなり25日過ぎまで忙しくなってしまいましたが、月末には伺えそうです。
そして・・17日の文楽楽屋ツアーの件ですが、3時15分までに国立劇場裏「伝統芸能情報館」前にお集まり下さい。参加費は楽屋見舞代500〜1000円程(参加者の人数で頭割りです)とチケット代御願いしますね。


明日の予定など 如月 - 2008/05/17(Sat) 00:06 No.5519  

あかねこさま、ご案内ありがとうございます。
其れでは明日、楽屋見舞代とチケット代をもって国立劇場に伺います。ただ明日は、ギャラリーメスタージャでの四谷シモン展のオープニング・パーティーがありますから、道行きは見ずに、途中で失礼するようになるとおもいます。悪しからず。


カネヴァッチさんらが帰国 如月 - 2008/05/17(Sat) 00:30 No.5520  

ローマ大学のマッシモ・カネヴァッチさんら一行は、本日(16日)昼、無事ローマに向けて旅立ちました。
それに先立ち、昨晩(15日)、一行とコーディネイターのロディオンさんらがエコール・ド・シモンを見学&表敬訪問され、エコール・ド・シモンで別れの小宴がありました。
今回の『砂男』公演は、実はイタリア文化会館からも後援を頂いており、公演にはイタリア文化会館の代表としてダニエレ・ペンナッキーナさん(哲学専攻)らが来場されたのですが、カネヴァッチさんらと原宿駅で待ち合わせていたところ、ちょうどそこへ、まったくの偶然でイタリア文化会館関係者がとおりかかり、連絡を受けたペンナッキーナさんも、それならこれからみんなと合流して自分もエコール・ド・シモンを見てみたいとおっしゃって、結局、とても晴れがましくてにぎやかな見学会となりました。
エコール・ド・シモンが午後9時にはねてからの小宴では、陽気なカネヴァッチさん一行が次から次へとイタリアの歌を披露(私は、そのなかのパルティザン戦士の恋人への別れの歌がとても気に入ってしまいました)、まけじと、シェイラ・リベイロさんとブラジルからきたカネヴァッチさんのサンパウロでの弟子フラヴィアさんが、本場のサンバを披露するなど、エコール・ド・シモンが歌と踊りの場に一転しました。
ペンナッキーナさんは、今回の『砂男』公演ではじめて四谷シモンの作品をご覧になったのですが、すでにすっかり四谷シモンのファンになってしまわれたようで、カタログのなかの男の人形をみて、この作品はフランシス・ベーコン風だと、四谷シモンといろいろ話していました。
今日の出発がなかったら、宴会は果てしなく続いたかもしれません。
一行は、「今度はかならずローマで会いましょう!」の言葉を残して去っていきました。


ヴァガータさんの印象記も好評 如月 - 2008/05/17(Sat) 00:45 No.5521  

また、カネヴァッチさんら一行の動きとは別に、昨年の六本木クロッシング展ではじめて四谷シモンの人形を見てすっかり気に入ってしまったという京都大学イタリア文学科の教師ダニエラ・シャローム・ヴァガータさんは、神奈川近代文学館での澁澤龍彦展と四谷シモン講演を聴き、また『砂男』公演を見、それらをまとめた印象記をすでに書き上げてボローニャに送り、ボローニャの関係者からとてもいい反響を得ているそうです。
こちらも、ヴァガータさんの記事が載ったボローニャ大学のメンバーを中心とした雑誌が刊行されしだい、またご案内致します。


最終日間に合いました。 あかねこ - 2008/06/01(Sun) 21:58 No.5545  

昨日、雨の中ギャラリーメスタージャに行って参りました。
神保町の裏道・・カルチエラタンの香りのする素敵な空間。
久しぶりに拝見するシモン先生のお人形のボリューム感に圧倒されました。先日文楽で御一緒した友人も何日か前に訪問した様でしたが、実物のお人形を間近に拝見できて、とても刺激的だったようです。

さて、九月文楽のお誘いをシモン先生公式HPの管理人さま宛送信しておきました。第一部は襲名興行ですので、出足が早いかと思います。ご覧の節はお早めに御検討下さいませ。


ありがとうございます。 如月 - 2008/06/19(Thu) 23:31 No.5615  

あかねこさん、ご来廊どうもありがとうございました。
文楽の方は日程調整中ですので、決まりしだい、ご連絡致します。どうぞよろしくお願いします。


九月文楽 あかねこ - 2008/06/21(Sat) 16:34 No.5618  

既に一部、土日祝日で売り切れの日もあるそです。
只今、観賞可能な日を問い合わせております。
回答頂き次第、こちらに御連絡いたします。


今日現在・・ あかねこ - 2008/06/21(Sat) 17:18 No.5619  

早速に回答頂きました。今日現在土日祝日の残券状況は以下の通りです。二枚御入り用でしたら、一部は13日のみです。
宜しく御検討下さい。
 6日(土) 2部=14枚
 7日(日) 1部=1枚、2部=8枚
13日(土) 1部=5枚、2部=9枚
14日(日) 2部=21枚
15日(月) 2部=10枚
20日(土) 2部=15枚
21日(日) 1部=1枚、2部=26枚


13日 如月 - 2008/06/23(Mon) 22:27 No.5628  

あかねこさま
それでは13日の第一部を3枚お願いできますでしょうか?


了解です。 あかねこ - 2008/06/24(Tue) 13:23 No.5632  

如月さま

早速・・13日の第一部を3枚、手配いたしました。
まだ3枚は残券ありましたので、大丈夫とのことでした。

どうぞ、御期待下さい。チケットは8月中ごろにお送り致します。

また当日は終演後、先日同様楽屋見学もできます。
お付添できますので、是非参りましょう。





ありがとうございます。 如月 - 2008/06/24(Tue) 23:25 No.5634  

あかねこさん、いろいろとご手配頂き、どうもありがとうございます。


18世紀学会プログラム 投稿者:如月 投稿日:2008/05/01(Thu) 08:10 No.5463  
日本18世紀学会大分大会のプログラムもできているようです。
ご参照ください↓。

http://wwwsoc.nii.ac.jp/jsecs/30Programnew.htm

かなりゴチャゴチャしたプログラムですけど(笑)、私など、このゴチャゴチャしたところが18世紀的だとおもうわけですね。


カネヴァッチさんの来日スケジュール 投稿者:如月 投稿日:2008/04/26(Sat) 11:40 No.5449  
ローマ大学の文化人類学の教授マッシモ・カネヴァッチさんの来日(5月7日)が間近にせまり、カネヴァッチさんとの連絡も慌ただしくなってきました。

すでに何度かお伝えしたように、カネヴァッチさんは四谷シモンの作品をパリのアル・サンピエール美術館で見てとても気に入り、それまで彼があたためていたホフマンの『砂男』の視覚化を四谷シモンの人形をイメージしながら実現したのですが、東京に来るにあたっては、その『砂男』をぜひ四谷シモンの目の前で公演したいと張り切っておられます。
カネヴァッチさんが監修する『砂男』では、カネヴァッチ夫人のシェイラ・リベイロさんが人形に嫉妬する女性クララを演じ・踊るのですが、シェイラさんの舞台姿は、これまでも四谷シモンの人形を意識してメークされていました。来日公演では、できれば四谷シモンの人形をステージの側において、それとコラボレートしながら幻想世界を出現させたいというのがカネヴァッチさんの強い希望ですが、公演が夜(19:30開演)のため、公演後の搬出をどうするかがとても難しく、人形を展示できるかどうかはまだ未定です。
現在決まっている公演の詳細は次のとおりですので、みなさんぜひご来場ください。
日時:5月10日(土)、19:30開演(19:00開場)
開場:スーパーデラックス(東京都港区西麻布3-1-25-B1、TEL=03-5412-0515)
料金:\2,000
http://www.super-deluxe.com/

なお、カネヴァッチさんの来日のもう一つの目的は、すでにお知らせしたとおり5月8日(木)から24日(土)まで武蔵野美術大学図書館(東京都小平市小川町1-736、TEL=042-342-6003)で開催される『ヤング、アグレッシヴ ロシア現代美術における挑発的スピリット』展の解説で、5月9日(金)16:30から、武蔵野美術大学図書館1階の第10講義室で講演が行われます(入場無料、通訳付き、聴講自由)。カネヴァッチさん自身の言葉では、講演のテーマは「"BODY-CORPSE. eXtreme youth cultures for eXterminated arts"」とのこと。この講演では、単に展覧会と作品について語るだけでなく、身体性のことなど、カネヴァッチさんが考えている現代美術に関するさまざまな基本概念も一緒に提示したいと書いてきています。講演の方もとても興味深いですね。
http://www.musabi.ac.jp/library/muse/tenrankai/index.html

また、5月12日(月)〜31日(土)には、西神田のギャラリーメスタージャで四谷シモンの近作人形とデッサンを展示・販売する小展覧会が開かれます。
会場のギャラリーメスタージャは地下鉄神保町駅とJR水道橋駅の中間あたり(神保町寄り)にある画廊です(東京都千代田区西神田2-3-5、千栄ビル1階、TEL=03-6666-5500)。
近くに通られたら、ぜひ覗いてみてください。
5月17日(土)の17:00からはオープニング・パーティーも予定されています。
http://www.gallerymestalla.co.jp/


二重、三重の複雑さ 如月 - 2008/04/27(Sun) 00:13 No.5452  

今日(26日)の夕方、渋谷のポスターハリスギャラリー(http://posterharis.com)で開催されている仲村寿幸さんの『擬似的ダリの風景』展のオープニングにいったところ、偶然、ドイツ文学者でベルメールのことも専門的に研究しておられる宮川尚理さんにお会いし、『砂男』のこともいろいろ伺いましたので、私の間違いをこっそりなおしておきました。
宮川さんの記憶では、『砂男』のクララは人形に嫉妬する女性とのことで、とすると、カネヴァッチさんの企画というのは、人間のイメージを四谷シモンの人形から得たということになります。これもまた複雑でおもしろいですね。


初顔合わせ 如月 - 2008/04/29(Tue) 09:42 No.5456  

5月10日の『砂男』公演で、四谷シモンの人形を舞台の横に展示するという問題はほぼ解決しました。
実は、カネヴァッチさんより一足先に夫人のシェイラ・リベイロさん(ブラジル系の混血)が日本に来ており、今回の企画をすすめているロディオンさん(ロシア人)を交え、今日の昼、四谷シモンと私の四人で初顔合わせすることになっています。自分のイメージづくりのため、事前に四谷作品を確認したいというリベイロさんの強い希望で、人形とリベイロさんの初顔合わせも行う予定ですので、楽しみです。


cinque, dieci... 如月 - 2008/04/29(Tue) 09:48 No.5457  

リベイロさんと会ったとき、(ポルトガル語は無理だから)イタリア語がすぐにでてくるよう、今朝は『フィガロの結婚』(これも18世紀オペラ!)を聴いています。
ですから、少なくとも5(cinque)とか12(dieci)とかはすぐに言えそうです(笑)。


玉葱か蝋燭か、それが問題だ 如月 - 2008/04/30(Wed) 00:45 No.5460  

今日の初顔合わせは、とてもうまくいきました。
言葉の方は、シェイラさん本人にきいてみたら、ブラジル人とフランス系カナダ人の混血とのことで、私と彼女はフランス語と英語を交えてうまく互いの意志を疎通させることができたようにおもいます。一方、ロディオンさんは日本語がとても上手で、私とシェイラさんが会話している間は、四谷シモンに企画について説明するという感じ、また私と四谷シモンが意思確認しているときは、シェイラさんとロディオンさんが情報交換するという感じで、誰も会話からあぶれることなくスムーズに打ち合わせをすることができました。
気が付いたら、四人の会話は、正午から午後六時まで続いていて、サンパウロからパリ経由で東京に着いたシェイラさんが疲れていなかったら、会話はもっと続いていたことでしょう。
飛び交った話題の豊富さは、とても簡単には書き切れません。シェイラさんは、四谷シモンの人形の宗教性、西洋性について疑問をもっていたらしく、それをストレートにぶつけてきたのですが、そのことが宗教論および宗教と身体性の問題に転じていくという感じで、しまいには、お茶の水のニコライ堂まで一緒にみることになりました。で、ニコライ堂をみているとそれはそれでまたおもしろく、ロシア教会独特の屋根の形を四谷シモンは玉葱だと言い、ロディオンさんは基部を含めて蝋燭だと主張し、二人の議論を私がシェイラさんに説明するという感じです。
『砂男』公演そのものについても、シェイラさんから、あっと驚くようなアイデアがいろいろでてきたのですが、それは公演まで秘密にしておきます。シェイラさんがクララを演じるのか、人形を演じるのかという疑問も、彼女から直接きいて氷解しました。
くわしいことは追って。


Short introduction for Simon's lecture  如月 - 2008/05/01(Thu) 09:04 No.5464  

このところ、外国の方に四谷シモンの作品や活動について説明することが多かったので、拙いながら、5月5日に神奈川近代文学館で四谷シモンが行う講演&朗読「澁澤さんと人形」のためのガイダンスを英訳しました。おひまな折にでもどうぞ↓。

http://www.simon-yotsuya.net/peuple/2-disorganizations.htm


お忙しそうですね あかねこ - 2008/05/02(Fri) 15:26 No.5467  

如月さま

素晴しい出会いと交流の日々ですね。
神田でのシモン先生の個展に是非出掛けてみたいと存じます。
さて、17日の文楽鑑賞に先立って、3時20分頃より
バックステージツアーを行う予定です。宜しかったら
御参加下さい。


海外からの聴講者 如月 - 2008/05/05(Mon) 08:38 No.5476  

あかねこさん、神田メスタージャの個展にはぜひ♪
それと、文楽のバックステージツアーというのもおもしろそうですね。
今のところ当日は他に予定がないので参加させていただきたいとおもっています。

さて、今日はいよいよ四谷シモンの神奈川近代文学館での講演日となりました。カネヴァッチ夫人のシェイラさんが「日本語はわからないけどおもしろそうなので行きたい」と言ってきています。それと、京都大学でイタリア文学を教えておられるダニエラ・シャローム・ヴァガータさんからも、同じく、日本語はよくわからないながら講演に来場したいという連絡がきています。
いったいどのような講演になりますやら。


初対面 如月 - 2008/05/10(Sat) 09:30 No.5499  

昨晩は、念願かなってようやくカネヴァッチさんとお会いしました。ただ、今日の公演があるからというので、カネヴァッチさん、リベイロさんと話しができたのは1時間程度です。カネヴァッチさんとは、これまで、時によっては一日に数度もメールをやりとりし互いの考え方を確認しているので、挨拶をするというより、カネヴァッチさんの文章のなかの不明点の確認など、今日の準備のための実質的な話であっという間にその1時間が過ぎてしまいました。事前にリベイロさんから、今日の舞台の重要な場面でシューマンの音楽がつかわれるときいていたのですが、カネヴァッチさんに確認しところ、その曲は私が予想していたとおりの曲でした。話しができた時間は短かったけれど、波長はばっちり合っている感じです。
それでも、カネヴァッチさんの東京公演を応援しようとは、ローマ大学から10人ほどの学生がついてきたのにはびっくりです。
一方四谷シモンはというと、初対面のカネヴァッチさんがとても気に入り、カネヴァッチさんと別れた後も、今回のコーディネイター、ロディオンさんを誘ってお気に入りのバー・ナジャに行って飲み直したりしたりしました。ナジャのママによれば、「シモンは大事な本番の前の日は必ず飲む」とのことですので、飲みながら今日の本番へ向けてのテンションを高めていたのでしょう。


澁澤龍彦回顧展がスタート 投稿者:如月 投稿日:2008/04/26(Sat) 00:25 No.5446  
明日(26日)から、神奈川近代文学館(横浜市、港の見える丘公園内)で『澁澤龍彦生誕80年回顧展 ここちよいサロン』がはじまります(6月8日まで)。

http://www.kanabun.or.jp/

今日はその内覧会でしたので、一足お先に展覧会を見学させて頂きました。去年行われた『澁澤龍彦幻想美術館展』もユニークなおもしろい展覧会でしたが、今回の展覧会はより正攻法で、澁澤龍彦の活動の全貌を明らかにするという意欲が感じられ、とてもいい展覧会になっていたと思います。
エントランスでは、今回の展覧会を監修した高橋睦郎さんが澁澤龍彦について語る映像が流れていましたが、そのなかで、「澁澤さんはイノセントな人だった。ただ、普通この<イノセント>という言葉は<無垢>と訳されるが、それよりも私は<無染(むぜん)>つまり何にも染まっていないという意味でこの言葉をつかいたい」といった主旨のことを述べていたのが印象的でした。

会期中はいろいろな企画が予定されていますが、5月5日は、午後2時から四谷シモンの講演と朗読『澁澤さんと人形』があります。連休中ですので、横浜見物をかねてぜひどうぞ。文学館からは中華街や元町商店街もとても近いです。

(おととしの暮、私はここの会議室で親鸞論を発表いたしましたので、個人的にもちょっとなつかしかったです。)


徒然なるままに… 如月 - 2008/04/26(Sat) 00:51 No.5447  

講演についての打ち合わせもあったので、四谷シモンともめずらしくちょっとつっこんで話したのですが、澁澤さんが紹介したのは、「サドの思想」であって「サディズム」ではないというのはとても重要なポイントでしょうね。これは世の中でとても誤解されているとおもうんですが…。
それと、この「サドの思想」ということになると、やはり私は、エルヴェシウスととても近いんじゃないかともおもうわけです。
それはどういうことかというと、これはエルヴェシウスのスレッドに書いてもよかったんですが、エルヴェシウスの『精神論』が読みづらい、わかりづらいのは、『精神論』というタイトルでありながら、中味は『無精神論』だからなんですね。要するに、今まで訳した部分でもエルヴェシウスは精神の能力から記憶と判断力を排除し、感覚一元論で精神を説明しようとしているんですが(正統哲学的に考えると、これは、デカルトの「我思う、故に我あり」を「我感ず、故に我あり」と読み替えたということになるんじゃないかとおもいますけど)、つきつめていくと、この「感覚」というのは、人間だけがもっているのではなく、動物とも共通するということになり、人間と動物の明確な違いが否定されてしまうわけです。このあたりが18世紀にはあまりも過激におもわれて、結局『精神論』は発禁になってしまいます。で、この人間に特別な精神的はたらきなど何もなく、人間の行動はある意味でオートマットに決まっていくということをさらにつきつめて、それを恋愛に適応していくと、そこには性行為しか残らなくなってしまうわけです。で、この性行為は、精神的歯止めのようなものがなにもないから、ひたすら快楽を求めてどんどんエスカレートしていく。その極限の表現を追求したのがサドの作品で、だからそれは基本的にはものすごく幻想的なものなわけですね。それを実行したら痛くて耐えられないし(笑)、時には死にいたることもある。サドは、なにもそうした実行をすすめているのではないわけです。
だからサドも澁澤も、もっと18世紀に即して考える必要があるんじゃないかと、まあ、この辺が澁澤龍彦という人を考えるときのポイントになるかな、と、今日はとりとめもなく考えていました。


「アンジェニュ」 如月 - 2008/04/26(Sat) 07:57 No.5448  

高橋さんの言う「イノセント」をもう少し18世紀的に言うと、ヴォルテールの「アンジェニュ(ingenu)」かな。直訳すれば「生まれたまま」。でもこの場合も、この言葉を「無染」と訳すというアイデアは、とても魅力的ですね。


シュールな18世紀 如月 - 2008/04/27(Sun) 20:49 No.5454  

昨日(26日)、上のスレッドに書いた宮川さんとサドと澁澤のこと(澁澤のサド解釈)についても少し話したのですが、宮川さんが読むと澁澤龍彦のサド解釈というのはものすごくシュールレアリスム寄りに読めるというのですね。で、私は澁澤のサド解釈というのは、やはりサドを18世紀の文脈のなかで読み込もうとしたものじゃないかと考えるわけですから、そこでいろいろ議論したんですけど、考えてみると、18世紀思想というのがシュールレアリスムに通じる側面をものすごくもっているのであって、宮川さんの読みも私の考えも、結局は同じところにいきつくんじゃないかなという気がしてきました。
これは、ルソーとかカントとか、そういう方向性から18世紀に接近するとちょっとわかりにくいんですが、ディドロ、なかでも『運命論者ジャックとその主人』なんかはものすごくシュールな小説だとおもうんです。で、周知のように、ディドロは『百科全書』の責任編集者であって、やはり18世紀思想のまんなかに位置している。『運命論者ジャック』じゃなくてまあ『ラモーの甥』(この本は澁澤龍彦の師・平岡昇が訳していて、今回の澁澤展には平岡から澁澤に宛てた葉書<澁澤訳『大股開き』への礼状>も含まれている)あたりを例にあげてもいいんですが、こういう本を書いた人が、18世紀思想のどまんなかに位置しているといのは、やはりとても大事なことであり、18世紀というのは理性の世紀だけでは片付かない面をもっているんじゃないかとおもうわけですね。


新記録! 如月 - 2008/05/05(Mon) 22:43 No.5480  

おかげさまで、本日の神奈川近代文学館での四谷シモン講演会は早々と満席となり、モニター室で聴講された方がでたばかりでなく、やむなく入場をお断りした方もあり、神奈川近代文学館での講演の最高記録となったそうです。ご来場くださったみなさん、どうもありがとうございました。またご来場頂けなかった方は、ほんとうに申し訳ありませんでした。
私の方はというと、ブラジルからおみえになったシェイラ・リベイロさんだけでなく、京都(イタリア)からおみえになったダニエラ・シャローム・ヴァガータさんへの対応の関係もあり、お見えになった方とゆっくりお話しすることができなかった事、お詫びしたします。
それでも、ロシア人のロディオンさんをはじめ外国からのお客さんは、戦後の日本の文化状況が具体的にとてもよく理解できたと、今日の講演と展覧会をとても気に入ってくれたようです(ロシアと澁澤龍彦はなんの関係もないようですが、澁澤さんの最初のサド選集は、マヤコフスキーの詩集をはじめソビエト関係の出版を行っていた彰考書院から出ているのですね。それとイタリア人ヴァガータさんは、若い頃の澁澤さんが好んでTassoと署名していたのを目ざとく発見していました。タッソーはイタリアを代表する大詩人ですから)。
講演終了後、あたらめてみんなで会場をまわり、記念撮影をして、それから中華街に繰り出して、遅くまで歓談しました(サンパウロにもローマにも中華街はないのだそうです)。
乾杯はとりあえず「チンチン」「サルーテ」とイタリア語で切り出したのですが、それからポルトガル語(ブラジル)ではどう言うのとか、ロシアではどうなるのとかきいたりして、全員ができる共通言語がまったくなかったにもかかわらず、ものすごくもりあがりました。
さあ、次は西麻布スーパーデラックス(最寄駅は六本木)での『砂男』公演です。


ヴァガータさんの関心 如月 - 2008/05/05(Mon) 23:02 No.5482  

ちなみに、シェイラさん、ロディオンさんとは、このあいだ一度話しているので、今日は、私はもっぱらヴァガータさんの話し相手となり、澁澤のサド翻訳が日本においてどのような意味をもったのか、サドに対するアプローチの二つの方向性などについて説明し、意見交換しました。
ヴァガータさんは、先日行われた六本木クロッシング展で四谷シモンの作品をはじめて見、それで、その作品にすっかり惚れ込んだのだそうです。


ペテロとパウロの対決 如月 - 2008/05/06(Tue) 09:26 No.5483  

ブラジルで田中泯さんに師事したことがあるというシェイラさんと日本の現代アートに関心を抱くロディオンさんは、もともと暗黒舞踏と土方巽さんに非常に興味をもっていたのですが、その土方さんが四谷シモンはもとよりのこと、澁澤龍彦さん(ヴァガータさんは、この名前をとても覚えにくいという)ととても親しく、澁澤さんを非常に尊敬していたというと、身を乗り出すようににしていろいろきいてくるのですが、今回の澁澤展では、澁澤さんが葬儀委員長をつとめた土方さんの葬儀の様子をおさめた映像を上映しており、二人はそれを身を乗り出してみていました。
また、今回の澁澤展のポスターは細江英公さんが撮影した写真をつかっていますが、その細江さんが、澁澤さんだけでなく、土方さん、四谷シモンを(そして三島さんを)写した写真家であると説明すると、また大きくうなづくという感じでした。

(5月9日〜31日まで、南青山の画廊「ときのわすれもの(http://www.tokinowasuremono.com/)」で細江英公さんの写真展が開催されます。)

一方、澁澤展の三島由紀夫コーナーでは、ヴァガータさんからこの三島さんの手紙は何に関するものかという質問があり、イタリアの小説家ダヌンツィオ(ヴィスコンティの映画『イノセント』の原作者)の『聖セバスティアンの殉教』の翻訳を出版したときに、三島さんから澁澤さんに宛てて出された出版社を紹介してもらったことへの礼状だと説明すると、こちらはこちらで、今回の展覧会とイタリア文化とのつながりに納得するという感じです。

中華街では、初対面のシェイラさんとヴァガータさんがイタリア語で直接話したり、ヴァガータさんとロディオンさんがイタリアとロシアの文化的つながりについて英語で話したりと、とにかくさまざまな話題が飛び交いました。ヴァガータさんとロディオンさんの話のなかでは、ヴィスコンティ映画『山猫』の原作者ランペドゥーサの夫人はロシア人だったというエピソードが出てきたりして、これは私も初耳だったので興味深かったです。で、みんながロディオンさんにロシアのどこの出身かときくと、ロシアの南部で生まれたが育ったのは聖ペテルスブルクだというので、「じゃあ、サンピエトロで育ったということじゃない」と言うと、なるほどおもしろいということになり、まけずにシェイラさんが私だって「聖パウロ(サンパウロ)」の出身だというので、今度はみんなで、ペテロ(ピエトロ)とパウロは別人じゃないかとやりかえすなど、これはこれでとてもおもしろかったですね。


Re: 澁澤龍彦回顧展がスタート 野枝 - 2008/05/27(Tue) 22:16 No.5539  

5月27日付の読売新聞の文化面に『澁澤龍彦 知られざる一面』が載っています。この中で「澁澤さんが明るく屈託がない人で、『異端』にだけ関心があったのではなく、善にも悪にも公平に光を当てる姿勢が、そう見えただけ」と語っている高橋睦郎さんの言葉がとても印象的です。


善と悪 如月 - 2008/05/29(Thu) 23:14 No.5542  

野枝さん、書き込みありがとうございます。ご紹介頂いた記事、さっそく読んでみました↓。

http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20080527bk02.htm

「モン・サン・ミッシェルは江ノ島みたい」というのは、おかしいですね。
善と悪はともかく、たとえばサドというと、すぐにサディズムおよびセクシュアリティに結び付けて考える人が多いのは事実ですが、澁澤さんが読み込んだサドの思想はもっと複雑だったのではないかと私はおもいます。今、私がエルヴェシウスの『精神論』を読んでいるのも、おそらくこの著作はサドの思想形成に強い影響を与えたからではないかとおもっているからというのが理由の一つですが、これなど、善・悪と決めつけるのはとても難しい作品ですね。


エルヴェシウス『精神論』 投稿者:如月 投稿日:2008/04/19(Sat) 20:03 No.5431  
カッシーラーの『啓蒙主義の哲学』がふくんでいる問題点を具体的に考えていくため、エルヴェシウス『精神論』〜第一講第一章「諸原理の説明」の試訳をアップ致しました。ご参照ください↓。

http://www.furugosho.com/precurseurs/helvetius/esprit1-1.htm

訳のなかには不備も多々あるかとおもいますが、最後のパラグラフのなかの

「こうした困難を取り除くため、以下の章で、われわれのすべての誤った判断および誤謬は、われわれのうちに感じる能力しか仮定しない二つの原因に関係することを、またそれゆえ、そうした能力なしでも説明できること以外は何も説明しない判断力をわれわれのうちに認めることは無意味であり、不条理ですらあるであろうことを私は示そう。」

という文章は、訳しながら自分でも意味がよくわかりませんでした。ここまでの部分で、エルヴェシウスは人間の判断等はすべて感覚に一元化できるとして、それ以外のものを否定しているわけですから、そうした全体の流れからすると、この部分は、「われわれのうちに感じる能力以外のものを仮定する」とか「われわれのうちに感じる能力を仮定しない」とかであればなんとか流れとしての意味がとれるのですが、「われわれのうちに感じる能力しか仮定しないから誤謬が生じる」という内容だと、全体の流れと矛盾しているようにおもうのです。ですからこれは、私の訳が間違っているのかもしれないのですが、原文は、私には上のようにしか解しようがありません。どなたか、このあたりのことどう考えたらよいかご教示頂ければ幸いです。
ご参考までに、すぐ下に、原文を掲げておきます。

Pour lever cette difficulte, je vais, dans les chapitres suivants, montrer que tous nos faux jugements et nos erreurs se rapportent a deux causes qui ne supposent en nous que la faculte de sentir ; qu' il seroit, par consequent, inutile et meme absurde d' admettre en nous une faculte de juger qui n' expliqueroit rien qu' on ne puisse expliquer sans elle.


オリジナル・テクスト 如月 - 2008/04/19(Sat) 20:25 No.5433  

フランス語のオリジナル・テクスト全体は、こちら↓で読むことが可能です。

http://visualiseur.bnf.fr/Visualiseur?Destination=Gallica&O=NUMM-88614


ああ、難しい… 如月 - 2008/04/20(Sun) 00:01 No.5435  

上掲のフランス語原文「se rapportent a deux causes qui ne supposent en nous que la faculte de sentir」 は、私にはどうしても「われわれのうちに感じる能力しか仮定しない二つの原因に関係する」としか解釈できないので、結局、自分の日本語を読み込む自分の能力、もしくは日本語の表現力の方に誤りがあるという結論に達しました。

それはどういうことかというと、引用した部分の前後をもう一度読むと、エルヴェシウスは、「精神」から記憶と判断力を排除し、感覚(身体的感受性)一元論で精神作用全体を説明したいわけです。ただそのときに「誤謬」をどう考えるかという問題が生じてきて、もし記憶や判断力の存在を認めるならば、そうした誤謬は記憶違いとか判断ミスと見なすことができるわけですが、彼の場合はそれらの存在を認めないわけだから、誤謬を記憶違いとか判断ミスとしてかたづけることはできない。そこで続く章で、それは「情念」や「無知」のせいであるという議論を行うわけですが、この「二つの原因」を設定しても、感覚一元論はゆるがないということ、すなわち、情念や無知は感覚一元論内部の問題であるということを、この引用部分でエルヴェシウスは言いたいのではないでしょうか。それであれば、フランス語の原文はなんとか理解できます。
ですから今度は、日本語の訳文をこの解釈に見合ったように手直ししなくてはいけませんね。


ああ、難しい、難しい… 如月 - 2008/04/20(Sun) 07:40 No.5437  

まあ要するに、「se rapportent a deux causes qui ne supposent en nous que la faculte de sentir」というフレーズでエルヴェシウスが言いたいのは、「われわれのうちに感じる能力しか仮定しない(場合に想定できる/場合に生じる)二つの原因に関係する」もしくは、、「われわれのうちに感じる能力しか仮定<させ>ない二つの原因に関係する」というようなことだったのですね。

ということで、とりあえず応急措置をしておきました。まあ、全体の流れを考えながら、あとでまた見直すかも知れませんが…。



コンディヤックとエルヴェシウスの比較 如月 - 2008/04/20(Sun) 21:12 No.5438  

『精神論』を読むための参考として、エルヴェシウスの研究者・森村敏己氏によるコンディヤックとエルヴェシウスの比較のページを新設しました。

http://www.furugosho.com/precurseurs/helvetius/morimura-hc.htm


『精神論』の二重性 如月 - 2008/04/20(Sun) 21:48 No.5439  

『精神論』第一講第1章で、全体の文脈からいってちょっとわかりづらいのは、中程の次のパラグラフではないでしょうか(<古代の教父たちによって論議され、>は、検閲を恐れてエルヴェシウスが削除したフレーズ)。

「この主題にはいる前のすべての吟味において、おそらく人は、これら二つの能力は霊的もしくは物質的実体の変様ではないかと私に問うであろう。哲学者たちによってかつて論争され、<古代の教父たちによって論議され、>われわれの時代に再提起されているこの設問は、私の作品の企図には必ずしも関係しない。「精神」に関して私が言いたいことは、この仮説の双方に同程度に一致する。この主題に関して、私は単に次のことを観察する。もし教会がこの点についてわれわれの信念を確定しておらず、人が理性の光によってのみ思考原理の認識に達する必要があったならば、人は、この類のいかなる見解も証明が疑わしいと確信することを禁じ得なかったであろう。また人は理性をあれこれ吟味し、難点を均衡させ、最大の真実らしさによって証明し、その結果、仮の判断にしか達しないであろうと。他の無数の問題同様、確率計算のたすけによってしか人はこの問題を解くことができないであろう。それゆえ私はこれ以上この設問に留まらず、自分の主題へとすすみ、次のように言いたい。身体的感受性と記憶、あるいはより正確に言えば、感受性のみがわれわれのすべての観念を生み出すと。実際のところ、記憶は身体的感受性の器官の一つでしかありえない。われわれのうちなる感じる原理は、必然的に想起する原理でなくてはならない。なぜなら、すぐに証明するように、「想起する se ressouvenir」とはまさしく「感じる sentir」ことに他ならないのであるから。」

森村敏己さんも少しふれておられますが、エルヴェシウスはここで、精神とは霊的実体か物質的実体かという議論を回避することを宣言しているのですね。ただ、回避するということは即否定ではないわけで、エルヴェシウスとしては、精神の物質性に含みをもたせたということではないでしょうか。
またここでは、いずれにしてもこの問題は蓋然性のなかでしかこたえがだせないということも述べられていますが、経験論=帰納の立場に立つかぎりこれは必然ともいえ、これはエルヴェシウスなりの方法宣言ともいえるような気がします(そういえば、エルヴェシウスの文章には事実をはっきり断定しない条件文がとても多いのです)。この方法も、つきつめていくと事実問題に関して断定的な言い方をするキリスト教信仰(教会)と衝突するのですが、このパラグラフでは表面的には教会を立て、精神がどのような実体であるかは(教会)の断言的な議論に委ねることにして、自分はここで、もっと違う側面から精神の問題を考えるのだと身をかわすわけです。
このあたりはやはり、この本が書かれた社会性・時代性を念頭において読んでいく必要があるようにおもいます。
『精神論』という著作がちょっと読みにくいというのは、いろいろな部分にこの二重性がしかけてあって、テクストの表面的な意味とそこに籠められたエルヴェシウスの真の意図を同時に読み取っていくという操作を強いられる箇所がとても多いからだともいえるでしょう(訳がまずいせいもあるとはおもいますが…)。


目次と第2章をアップ 如月 - 2008/04/26(Sat) 00:01 No.5445  

すでにお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、『精神論』の全体構成がわかるよう、とりあえず目次を翻訳し、また第一講第2章の試訳をアップ致しました。現在は、第1章も第2章も目次から移動するようになっています↓。
http://www.furugosho.com/precurseurs/helvetius/esprit0.htm
第3章もあとちょっとのところまできているのですが、このところ忙しくてそのあとちよっとが少しも進みません。
すでに訳した部分に関しても、書きたいことはいろいろありますが、それはまたあらためて…。
それにしても、この第2章は、いい悪いは別にしてほんとうに変わってますね(笑)。


第3章をアップ 如月 - 2008/05/05(Mon) 09:21 No.5477  

『精神論』第一講第三章「無知について」をアップしました。

http://www.furugosho.com/precurseurs/helvetius/esprit1-3.htm

ここでは、エルヴェシウスは「贅沢」を題材に、無知による誤りについており、「おもうに、異なった二つの側面から贅沢に関する問題を提起して、なにごとかを述べることは無益である。私は贅沢は国家にとって真に有害だとも有益だとも決定するつもりは少しもない。この道徳上の問題を厳密に解決するためには、私が提起した対象とは異なる細部に立ち入る必要があろう。この例によって、私は単に、複雑でかつ人が情念から離れて判断する問題においては、無知のため、すなわち、ある対象に関して彼が見ている側面はこの同じ対象について人が見るべき全側面であると想像するのでないとしたら、人はけして誤らないと証明しようとしただけである」としていますが、私はこれがエルヴェシウスの真意であるかどうかは疑わしいとおもうんですね。
つまり、ここでは、贅沢は有益だとする説と有害だとする哲学者たちの説がとりあえずは併記されているものの、読んでいる印象としては、エルヴェシウスの考え方は哲学者たちの説に近いのではないでしょうか。そして彼は、哲学者たちの口を借りて、あまりにも贅沢に傾いているフランスの国政批判を行おうとしたのではないでしょうか?
ただ、ここで自分は哲学者たちの説に賛成だとすると、やはり検閲が恐いわけですね。ですから建前上はあくまでも哲学者たちの説も一つの側面からする限定された見解に過ぎないと予防線をはっている。
このあたりが『精神論』を読む難しさではないとおもいます。それと、議論そのものは、『精神論』ほんらいの狙いからするといささか脱線気味ですしね(笑)。

訳語についてちょっと説明しておきますと、「lux」という言葉は通常「奢侈」と訳されますが、「奢侈」だと現代の語感からすると抽象的で少し弱いかなという気がしましたので、あえて「贅沢」でとおしてみました。
それと「nation」という言葉は通常「国民」と訳されるわけですが、近代的な国民国家が成立するのがフランス革命以降であり、エルヴェシウスの国家概念は近代的国家概念と異なるとおもわれましたので、「民族」という訳語をあててみました。


やっぱり難しい… 如月 - 2008/05/05(Mon) 09:57 No.5478  

ところで、直前に引用した文章ですが、オリジナル・テクストでは次のようになっており、この「Il est inutile de dire que(以下のように言うことは無益である)」のqueが何を受けているか私にはよくわかりませんでした。少なくとも、すぐ後ろの「je ne pretends point decider si le luxe est reellement nuisible ou utile aux etats(私は贅沢は国家にとって真に有害だとも有益だとも決定するつもりは少しもない)」というフレーズとはおもわれなかったので、曖昧に訳してあるのですが…。

Il est, je pense, inutile de dire qu' en presentant la question du luxe sous deux aspects differents, je ne pretends point decider si le luxe est reellement nuisible ou utile aux etats


両方にかかる? 如月 - 2008/05/05(Mon) 10:06 No.5479  

あ、そうか。
文法上は、このqueはおそらくsi以下のフレーズ(贅沢は国家にとって真に有害か有益かどうか)を受けていて、このsi以下のフレーズは、「il est inutile que」と「je ne pretends point decider」の両方にかかってくるんですね。
ここのところ、それでいいかどうか、もうちょっと考えてみます。


ヒュームの奢侈観と社会観 如月 - 2008/05/22(Thu) 20:12 No.5530  

エルヴェシウスの奢侈論と比較できるよう、論集『カント哲学のアクチュアリティー 哲学の原点を求めて』(坂部恵・佐藤康邦編、ナカニシヤ出版、2008年)に収載の勢力尚雅さんの論文「道徳感覚学派とカント」から、ヒュームの奢侈観、社会観に関わる部分を吹き出し「ヒュームの奢侈観と社会観」としてまとめてみました↓。

http://www.furugosho.com/precurseurs/hume-luxury.htm


青木画廊でカラヤンCDの原画など展示 投稿者:如月 投稿日:2008/04/13(Sun) 23:25 No.5418  
銀座の青木画廊↓でヨルク・シュマイサー銅版画展が始まりました。「ヴェニス追想」「変化」など、新作・旧作約40点の銅版画が展示されています。
私はシュマイサーさんの作品、今回はじめてみたのですが、紫禁城をテーマにした作品は、なんとカラヤンの『トゥーランドット』のCDのカバーに使われているのですね。おなじみのCDのカバーの原画をおもわぬところでみて、とてもびっくりしました。
その他の作品も、繊細で不思議な雰囲気をかもしだしています。
同展は4月23日(水)まで開催。

http://www.aokigallery.jp/


Re: 久しぶりにカキコ|・ *)ノ なまこ@こたつ猫 - 2008/04/19(Sat) 13:28 No.5429   <Home>

(*。-_-。)ノこんにちは。。
ようやく結核が治癒しかかっている状況です。。
最近、少し情緒不安定気味ですが、じたばた頑張っています。。


ようこそ♪ 如月 - 2008/04/19(Sat) 20:31 No.5434  

如月も小学生の頃小児結核をやったことがあります。結核って、傍目からは症状がわかりにくいから大変なんですよね。
じたばたでもなんでも、弘夢くんがこうして書き込みしてくれるのはとてもうれしいです。
体調がいいときは、ぜひまた遊びにきてください。


18世紀を観る視点 投稿者:如月 投稿日:2008/04/09(Wed) 23:59 No.5406  
下方に書いたカッシーラー(1874-1945)とハイデガー(1889-1976)の18世紀評価、私なりにすこし整理してみます。

二人の生年を比較してみればわかるとおり、哲学者としてはカッシーラーの方が一世代上ですが、どちらも第一次世界大戦後に本格的な思想活動を展開しています。まあ、ドイツのワイマール共和国時代に思想的なルーツをもつ哲学者といってもいいでしょう(ちなみにヴィトゲンシュタインは1889-1851)。
学者としてはもちろんカッシーラーの方が先輩で、1910年に『認識問題』を発表、その後1916年に『実体概念と関数概念』、1920年に『カントの生涯と学説』などを発表しています。そして1927年に、カッシーラーの『シンボル形式の哲学』とハイデガーの『存在と時間』が前後して刊行されるわけですね(LWの『論理哲学論考』は1921年刊)。

この時点で、カッシーラーとハイデガーのカントに対する評価の食い違いというのは、具体的なカントのテクストに対する読みの違いというより、カントが代表すると考えられる近代主義をどのように評価するかという、近代評価の違いではないかと今の私にはおもわれます。
つまり、カッシーラーもハイデガーも、デカルトに発するヨーロッパ近代の思想潮流を統合したのがカントであると認めたうえで、そのようにカントが統合した近代主義そのものをどのように評価するかという点で、見解が根本からわかれているのではないでしょうか。
このあたり、ユダヤ人であるカッシーラーとドイツ民族であるハイデガーの民族的な立場の違いも微妙にからんでいるようにおもいますが、カッシーラーの立場というのは、基本的に人類の進歩・前進を肯定し、その肯定的な歴史観のもとにルネサンスからカントにいたる「知の歴史」を構築しようというものだったのではないでしょうか。そこでは、こうした前進的な知の歴史の肯定がそのままカントに対する高い評価に結びつき、またそれゆえ、カント哲学というのは、ドイツの民族的なものを超えた汎ヨーロッパ的なものと位置づけられるわけですね(『啓蒙主義の哲学』1932年)。こうしたカッシーラーの哲学的立場は、ほぼそのままワイマール共和国の政治・文化的立場と合致したものといえるのではないでしょうか。
ところが遅れてやってきたハイデガーは、ドイツの戦後をそのように楽観的にはみないわけです。第一次大戦によって、ヨーロッパの「知の歴史」は根本的に終わってしまったのではないか。それはなぜなのか。するとそこからでてくるのはデカルト以降の近代主義の達成に対する根本的な疑問であり、そうした近代主義を統合したと位置づけられているカント哲学に対する痛烈な批判なわけです。たとえばハイデガー哲学の重要な概念である「現存在 Dasain」について考えてみても、通常、この現存在という概念は人間のことなのだと説明されるわけですが、にもかかわらずハイデガーがあえて「現存在」という言葉にこだわった理由を考えてみると、彼としてはどうしても「人間」という言葉をつかいたくなかった、「<人間>の知の歴史」を語ることを拒否したかったという忌避感があるのではないでしょうか。こうしたハイデガーの『存在と時間』は、そもそも新たな哲学史を意図して書かれ、その意図が途中で放棄されてしまったものであるという見方は、最近かなり有力なようにおもいます。管見の限りでは、木田元さんがこの説を強く主張していますね。
ただ続く時代にハイデガーがナチに接近していったために彼のモラルが問題視され、ハイデガーが本来いだいていた近代批判というのは、かなり評価が難しくなっているわけです。カッシーラーの思想が時代や社会の制約を受けていたのと同様に、超時代的であることを意図していたハイデガーの思想も、時代の制約を受けているということですね。しかしナチ的にいえば、カントに代表されるドイツ哲学から普遍性を払拭し、ドイツ哲学の特殊性・優位だけを強調したいわけです。まあそれがナチ的な「近代批判」ですね。それはカッシーラー的な哲学史(諸哲学の位置づけ)とも対立するけれど、ハイデガーとも一致はしない。この点からすれば、ハイデガーはナチを「誤読」してしまったのだとおもいます。

ただ、実証的な18世紀思想研究という見地からすると、ハイデガーにはみるべきものがほとんどありません。彼の近代批判は、理念先行という面も強いのではないでしょうか。
ですから、18世紀思想研究という面に限定するとカッシーラーの方に分があるといわざるを得ないでしょうし、彼の『啓蒙主義の哲学』は、彼が亡命したアメリカを中心に、その後長いあいだこの分野での基本的文献とされてきたわけです。

ここでちょっと細かいことをいうと、カントが知っていた(フランス)18世紀思想というのはどのようなものだったのか、はたして彼はそれを過不足なく把握していたのか、私はちょっと疑問におもいます。彼は代表的な著作からフランス18世紀思想界を概観していたのではないでしょうか。だから、彼の意識としては18世紀思想を統合しえたともおもいますが、18世紀思想界というのはもっと複雑で、一つの思想によって統合できるような性質のものではないと私はおもうのですね。また当時の出版事情を考えた場合にも、フランスでは秘密出版や地下文書が盛んに出回っており、重要な思想が、人と人との個別の接触をとおして流布していくということがかなり多かったという事実があるわけですね。これは、さほど特殊な著作を例にあげなくても、たとえばディドロの『ラモーの甥』は、ディドロの生前にはその存在がまったく知られておらず、たまたまゲーテが筆写本を入手し1805年に独訳して刊行したためにディドロの代表作の一つとして知られるようになったという経緯があります。ですから、この著作など、カントはまったく読んでいないわけです。

さて、フーコー(1926-84)の『言葉と物』(1966年)は、さまざまな角度からの読みが可能な複雑な本ですが、『啓蒙主義の哲学』の成果をはじめて本格的に解体した著作ということができるのではないでしょうか。そのフーコーの思想の根本にあるのは近代主義批判ですね。フーコーは、近代を準備した基盤として18世紀を描くのではなく、19世紀以降の思想とはまったく異質のものとして18世紀思想を描きだしている。いわば、連続ではなく断絶の歴史ですね。その根本的見取り図を、フーコーはたとえばハイデガーから導きだしているのではないかと、私はおもうのです。つまり、ハイデガーが『存在と時間』で行おうとしてできなかった批判的近代哲学史を肉付けしたのが『言葉と物』ではないかということですね。

かなり大雑把ですけど、私はいま、こんな風に考えています。

ところで、この18世紀という時代を近代につながるものというより、まっすぐに近代にはつながらないものとしてみるという見方ですけど、実はわが澁澤龍彦の18世紀観というのも、本質的にはそうした18世紀観だったのではないでしょうか。彼がサド侯爵の著作に見いだしたものは、単にセクシャリティの問題というより、近代主義、進歩史観に風穴をあける要素だったのではないかと私はおもっています。


ディドロの著作活動 如月 - 2008/04/12(Sat) 00:31 No.5412  

ディドロの著作活動について少し捕捉しておきます。
『百科全書』の編集にかかわる前、また『百科全書』の編集をはじめたころ、彼はさかんな執筆・出版活動を行っていますが、『百科全書』が出版禁止措置を受けた1759年頃から、いろいろな著作を執筆するものの、ほとんどの場合、それを出版しなくなるのですね。
『ラモーの甥』はその代表的な例で、この著作は1761年頃に書き始められていると推測されるのですが、生前ディドロは、この作品についてまったく言及しませんでしたし、その作品の存在を知る人もいませんでした。上にもちょっと書いたように、この作品が世に知られることになったのは、たまたまゲーテがその筆写稿の一部を入手し、非常な感銘を受けてドイツ語に訳して出版したためで、オリジナルのフランス語版は、このドイツ語訳よりも後に出版されます。ですからこの作品は、カントを飛び越えて、ヘーゲルに強いインパクトを与えているのですね。
ところで、この『ラモーの甥』をディドロがなぜ出版しなかったのかを私なりに考えてみると、この小説は、18世紀のフランスを代表する有名な作曲家ラモーの甥であるジャン=フランソワ・ラモーを主人公としているわけですが、世間のいかなる型にもまったくあてはまらず非常に魅力のある人物であったこの人物(一種の無頼漢)を描写しているうちに、それが実在したラモーの甥を超えてある典型のような人物になってしまったのですね。このため、これをラモーの甥の活写として発表すると、まず、実際のラモーの甥はディドロが描いたような人物ではなかったという非難がおこるおそれがあります。またこの作品には、ラモーの甥以外にも、大ラモー他、実在する人物についてのさまざまな言及があり、その大半が当の人物の悪口ですから(笑)、もしこれを公刊すると、ディドロはさまざまな論争に巻き込まれるおそれがあります。ですから、トラブルはご免だという意識がディドロのなかには強くあったのではないでしょうか。
でもそれなら、登場人物を全部偽名にして、抽象的な作品に仕上げてしまえばいいわけですが、ディドロはそれもいやだったのでしょう。
そうすると、この作品は発表のしようがないわけです。
この作品の後に書かれた『ダランベールの夢』は、ディドロとともに『百科全書』を編集したダランベールが文字通りの主人公で、そのほか、ダランベールの愛人レスピナス嬢、医師ボルドゥーが登場します。できあがった作品の原稿をダランベールらに回覧すると、レスピナス嬢が、自分がこんな風に描かれるのはいやだといってディドロに抗議し、結局、この作品もお蔵入りになってしまうのですね。
これなんかも、実在する人物を登場させれば絶対トラブルが生じるとわかっているはずなのにディドロは実在人物しか登場させない。だからこの作品も、最初から刊行する気はなかったのだと私はおもいます。
ですから、こうしたディドロの思想は、原稿を見せてもらった友人達には伝わるのですが、一般には広まらないわけですね。でもディドロはそれでいいと判断していたのでしょう。
こうした点を考えると、世間では、ディドロは『百科全書』の編集者として評価されているけれど、ディドロのほんとうの思想は別のところに秘められていて、それをディドロは知人にしかあかさない。場合によっては知人にすらあかさない。こういうタイプの思想の影響を評価するのは、ものすごく難しいのではないかと私にはおもわれるのです。

(ちなみに日本では、『ラモーの甥』は、澁澤龍彦、出口裕弘らのの旧制浦和高校時代のフランス語・フランス文学の師・平岡昇が岩波文庫に翻訳しています。
平岡氏については↓参照。
http://www.furugosho.com/shibusawa/sade.htm


存在論的、百科全書的 如月 - 2008/04/13(Sun) 23:30 No.5419  

ディドロの著作活動、なんとなくソクラテスに似ているかなとおもったりしながら上の記事を書いたのですが(ディドロはプラトンの対話篇をかなり読んでいる)、ちょっと視点をずらしてみると、デリダのエクリチュール戦略なんかと似てなくもないですね。


武蔵美図書館でロシア現代アート展 投稿者:如月 投稿日:2008/04/09(Wed) 22:38 No.5405  
武蔵野美術大学美術資料図書館(小平市)は、5月8日(木)〜24日(土)まで、「ヤング、アグレッシヴ ロシア現代美術における挑発するスピリット」展を開催します。
下方のスレッドにも書きましたが、ローマ大学の文化人類学教授マッシモ・カネヴァッチさんはこの展覧会開催にあわせて来日する予定のようです。
展覧会についての詳細は、↓でご確認ください。

http://www.musabi.ac.jp/library/muse/tenrankai/index.html


早稲田大学で歴史学研究会大会 投稿者:如月 投稿日:2008/04/03(Thu) 20:18 No.5392  
歴史学研究会の大会が5月17日(土)18日(日)の両日、早稲田大学早稲田キャンパスを会場に開催されます。
17日は全体会で、「新自由主義の時代と現代歴史学の課題ーーその同時代史的検証」というシンポジウムが開催されます。
18日は時代・地域別の分科会で、日本中世史部門では、鎌倉佐保さんの「荘園制の成立と武門支配の統合」および永井英治さんの「南北朝〜室町期の権力と紛争解決」の二報告が予定されています。

会場整理費は両日共通で、一般1800円・会員1500円・学生(修士課程まで)1000円で、誰でも聴講可能です。また会場には書籍コーナーも設けられ、歴史の新刊書が割引価格で購入できます。
大会についてのくわしいことは、歴史学研究会のサイト↓をご参照ください。

http://wwwsoc.nii.ac.jp/rekiken/


Re: 早稲田大学で歴史学研究会大会 あかねこ - 2008/04/04(Fri) 11:02 No.5395  

如月さま
その節は失礼致しました。
メール差し上げなければと思いつつ日が経ってしまいました。
5月17日(土)は四時から文楽二部のチケット申し込んでありますので・・御予定下さいませ。
来週あたりチケットお送りできるかと思います。
宜しくどうぞ。


楽しみにしてます。 如月 - 2008/04/04(Fri) 22:37 No.5396  

あかねこさん、こんにちは。
五月の演目は『心中宵庚申』ですね↓。
久しぶりの文楽見物ですのでとても楽しみにしております。

http://www.ntj.jac.go.jp/performance/1873.html


『鎌倉三代記』 如月 - 2008/04/04(Fri) 23:00 No.5397  

さて文楽の話題を日本史に戻してみますと、五月の文楽公演、私は夜の部の公演を鑑賞予定ですが、昼の部は『鎌倉三代記』が上演されます。
この『鎌倉三代記』、北条時政と頼家の対立がテーマの芝居で、頼家派の武将・三浦之助が時政の娘であり自身の許嫁でもある時姫に時政殺害を命じる物語ですが、実はこれは大阪冬の陣が隠された真のテーマであり、江戸時代の観客は、時政=家康、頼家=秀頼と読み替えて鑑賞していたようです。
江戸芝居特有のこうした二重性を実見するのも文楽や歌舞伎を鑑賞する楽しみの一つかもしれないですね(江戸人の鎌倉時代に対するイメージは、意外にこうしてつくられていったのかも…)。

それと、この『鎌倉三代記』の初演が天明元年(1781年)なんですが、この年代がすぐ下のスレッドでとりあげたグルックの歌劇『オルフェオとエウリデイーチェ』の初演とほぼ同じ時期だというのも18世紀学的には興味深いですね。

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- KENT & MakiMaki -
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