| エルヴェシウス『精神論』 投稿者:如月 投稿日:2008/04/19(Sat) 20:03 No.5431 | |
|
カッシーラーの『啓蒙主義の哲学』がふくんでいる問題点を具体的に考えていくため、エルヴェシウス『精神論』〜第一講第一章「諸原理の説明」の試訳をアップ致しました。ご参照ください↓。
http://www.furugosho.com/precurseurs/helvetius/esprit1-1.htm
訳のなかには不備も多々あるかとおもいますが、最後のパラグラフのなかの
「こうした困難を取り除くため、以下の章で、われわれのすべての誤った判断および誤謬は、われわれのうちに感じる能力しか仮定しない二つの原因に関係することを、またそれゆえ、そうした能力なしでも説明できること以外は何も説明しない判断力をわれわれのうちに認めることは無意味であり、不条理ですらあるであろうことを私は示そう。」
という文章は、訳しながら自分でも意味がよくわかりませんでした。ここまでの部分で、エルヴェシウスは人間の判断等はすべて感覚に一元化できるとして、それ以外のものを否定しているわけですから、そうした全体の流れからすると、この部分は、「われわれのうちに感じる能力以外のものを仮定する」とか「われわれのうちに感じる能力を仮定しない」とかであればなんとか流れとしての意味がとれるのですが、「われわれのうちに感じる能力しか仮定しないから誤謬が生じる」という内容だと、全体の流れと矛盾しているようにおもうのです。ですからこれは、私の訳が間違っているのかもしれないのですが、原文は、私には上のようにしか解しようがありません。どなたか、このあたりのことどう考えたらよいかご教示頂ければ幸いです。 ご参考までに、すぐ下に、原文を掲げておきます。
Pour lever cette difficulte, je vais, dans les chapitres suivants, montrer que tous nos faux jugements et nos erreurs se rapportent a deux causes qui ne supposent en nous que la faculte de sentir ; qu' il seroit, par consequent, inutile et meme absurde d' admettre en nous une faculte de juger qui n' expliqueroit rien qu' on ne puisse expliquer sans elle. |
| オリジナル・テクスト 如月 - 2008/04/19(Sat) 20:25 No.5433 | |
|
| ああ、難しい… 如月 - 2008/04/20(Sun) 00:01 No.5435 | |
|
|
上掲のフランス語原文「se rapportent a deux causes qui ne supposent en nous que la faculte de sentir」 は、私にはどうしても「われわれのうちに感じる能力しか仮定しない二つの原因に関係する」としか解釈できないので、結局、自分の日本語を読み込む自分の能力、もしくは日本語の表現力の方に誤りがあるという結論に達しました。
それはどういうことかというと、引用した部分の前後をもう一度読むと、エルヴェシウスは、「精神」から記憶と判断力を排除し、感覚(身体的感受性)一元論で精神作用全体を説明したいわけです。ただそのときに「誤謬」をどう考えるかという問題が生じてきて、もし記憶や判断力の存在を認めるならば、そうした誤謬は記憶違いとか判断ミスと見なすことができるわけですが、彼の場合はそれらの存在を認めないわけだから、誤謬を記憶違いとか判断ミスとしてかたづけることはできない。そこで続く章で、それは「情念」や「無知」のせいであるという議論を行うわけですが、この「二つの原因」を設定しても、感覚一元論はゆるがないということ、すなわち、情念や無知は感覚一元論内部の問題であるということを、この引用部分でエルヴェシウスは言いたいのではないでしょうか。それであれば、フランス語の原文はなんとか理解できます。 ですから今度は、日本語の訳文をこの解釈に見合ったように手直ししなくてはいけませんね。 |
| ああ、難しい、難しい… 如月 - 2008/04/20(Sun) 07:40 No.5437 | |
|
|
まあ要するに、「se rapportent a deux causes qui ne supposent en nous que la faculte de sentir」というフレーズでエルヴェシウスが言いたいのは、「われわれのうちに感じる能力しか仮定しない(場合に想定できる/場合に生じる)二つの原因に関係する」もしくは、、「われわれのうちに感じる能力しか仮定<させ>ない二つの原因に関係する」というようなことだったのですね。
ということで、とりあえず応急措置をしておきました。まあ、全体の流れを考えながら、あとでまた見直すかも知れませんが…。
|
| コンディヤックとエルヴェシウスの比較 如月 - 2008/04/20(Sun) 21:12 No.5438 | |
|
| 『精神論』の二重性 如月 - 2008/04/20(Sun) 21:48 No.5439 | |
|
|
『精神論』第一講第1章で、全体の文脈からいってちょっとわかりづらいのは、中程の次のパラグラフではないでしょうか(<古代の教父たちによって論議され、>は、検閲を恐れてエルヴェシウスが削除したフレーズ)。
「この主題にはいる前のすべての吟味において、おそらく人は、これら二つの能力は霊的もしくは物質的実体の変様ではないかと私に問うであろう。哲学者たちによってかつて論争され、<古代の教父たちによって論議され、>われわれの時代に再提起されているこの設問は、私の作品の企図には必ずしも関係しない。「精神」に関して私が言いたいことは、この仮説の双方に同程度に一致する。この主題に関して、私は単に次のことを観察する。もし教会がこの点についてわれわれの信念を確定しておらず、人が理性の光によってのみ思考原理の認識に達する必要があったならば、人は、この類のいかなる見解も証明が疑わしいと確信することを禁じ得なかったであろう。また人は理性をあれこれ吟味し、難点を均衡させ、最大の真実らしさによって証明し、その結果、仮の判断にしか達しないであろうと。他の無数の問題同様、確率計算のたすけによってしか人はこの問題を解くことができないであろう。それゆえ私はこれ以上この設問に留まらず、自分の主題へとすすみ、次のように言いたい。身体的感受性と記憶、あるいはより正確に言えば、感受性のみがわれわれのすべての観念を生み出すと。実際のところ、記憶は身体的感受性の器官の一つでしかありえない。われわれのうちなる感じる原理は、必然的に想起する原理でなくてはならない。なぜなら、すぐに証明するように、「想起する se ressouvenir」とはまさしく「感じる sentir」ことに他ならないのであるから。」
森村敏己さんも少しふれておられますが、エルヴェシウスはここで、精神とは霊的実体か物質的実体かという議論を回避することを宣言しているのですね。ただ、回避するということは即否定ではないわけで、エルヴェシウスとしては、精神の物質性に含みをもたせたということではないでしょうか。 またここでは、いずれにしてもこの問題は蓋然性のなかでしかこたえがだせないということも述べられていますが、経験論=帰納の立場に立つかぎりこれは必然ともいえ、これはエルヴェシウスなりの方法宣言ともいえるような気がします(そういえば、エルヴェシウスの文章には事実をはっきり断定しない条件文がとても多いのです)。この方法も、つきつめていくと事実問題に関して断定的な言い方をするキリスト教信仰(教会)と衝突するのですが、このパラグラフでは表面的には教会を立て、精神がどのような実体であるかは(教会)の断言的な議論に委ねることにして、自分はここで、もっと違う側面から精神の問題を考えるのだと身をかわすわけです。 このあたりはやはり、この本が書かれた社会性・時代性を念頭において読んでいく必要があるようにおもいます。 『精神論』という著作がちょっと読みにくいというのは、いろいろな部分にこの二重性がしかけてあって、テクストの表面的な意味とそこに籠められたエルヴェシウスの真の意図を同時に読み取っていくという操作を強いられる箇所がとても多いからだともいえるでしょう(訳がまずいせいもあるとはおもいますが…)。 |
| 目次と第2章をアップ 如月 - 2008/04/26(Sat) 00:01 No.5445 | |
|
|
すでにお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、『精神論』の全体構成がわかるよう、とりあえず目次を翻訳し、また第一講第2章の試訳をアップ致しました。現在は、第1章も第2章も目次から移動するようになっています↓。 http://www.furugosho.com/precurseurs/helvetius/esprit0.htm 第3章もあとちょっとのところまできているのですが、このところ忙しくてそのあとちよっとが少しも進みません。 すでに訳した部分に関しても、書きたいことはいろいろありますが、それはまたあらためて…。 それにしても、この第2章は、いい悪いは別にしてほんとうに変わってますね(笑)。 |
| 第3章をアップ 如月 - 2008/05/05(Mon) 09:21 No.5477 | |
|
|
『精神論』第一講第三章「無知について」をアップしました。
http://www.furugosho.com/precurseurs/helvetius/esprit1-3.htm ここでは、エルヴェシウスは「贅沢」を題材に、無知による誤りについており、「おもうに、異なった二つの側面から贅沢に関する問題を提起して、なにごとかを述べることは無益である。私は贅沢は国家にとって真に有害だとも有益だとも決定するつもりは少しもない。この道徳上の問題を厳密に解決するためには、私が提起した対象とは異なる細部に立ち入る必要があろう。この例によって、私は単に、複雑でかつ人が情念から離れて判断する問題においては、無知のため、すなわち、ある対象に関して彼が見ている側面はこの同じ対象について人が見るべき全側面であると想像するのでないとしたら、人はけして誤らないと証明しようとしただけである」としていますが、私はこれがエルヴェシウスの真意であるかどうかは疑わしいとおもうんですね。 つまり、ここでは、贅沢は有益だとする説と有害だとする哲学者たちの説がとりあえずは併記されているものの、読んでいる印象としては、エルヴェシウスの考え方は哲学者たちの説に近いのではないでしょうか。そして彼は、哲学者たちの口を借りて、あまりにも贅沢に傾いているフランスの国政批判を行おうとしたのではないでしょうか? ただ、ここで自分は哲学者たちの説に賛成だとすると、やはり検閲が恐いわけですね。ですから建前上はあくまでも哲学者たちの説も一つの側面からする限定された見解に過ぎないと予防線をはっている。 このあたりが『精神論』を読む難しさではないとおもいます。それと、議論そのものは、『精神論』ほんらいの狙いからするといささか脱線気味ですしね(笑)。
訳語についてちょっと説明しておきますと、「lux」という言葉は通常「奢侈」と訳されますが、「奢侈」だと現代の語感からすると抽象的で少し弱いかなという気がしましたので、あえて「贅沢」でとおしてみました。 それと「nation」という言葉は通常「国民」と訳されるわけですが、近代的な国民国家が成立するのがフランス革命以降であり、エルヴェシウスの国家概念は近代的国家概念と異なるとおもわれましたので、「民族」という訳語をあててみました。 |
| やっぱり難しい… 如月 - 2008/05/05(Mon) 09:57 No.5478 | |
|
|
ところで、直前に引用した文章ですが、オリジナル・テクストでは次のようになっており、この「Il est inutile de dire que(以下のように言うことは無益である)」のqueが何を受けているか私にはよくわかりませんでした。少なくとも、すぐ後ろの「je ne pretends point decider si le luxe est reellement nuisible ou utile aux etats(私は贅沢は国家にとって真に有害だとも有益だとも決定するつもりは少しもない)」というフレーズとはおもわれなかったので、曖昧に訳してあるのですが…。
Il est, je pense, inutile de dire qu' en presentant la question du luxe sous deux aspects differents, je ne pretends point decider si le luxe est reellement nuisible ou utile aux etats
|
| 両方にかかる? 如月 - 2008/05/05(Mon) 10:06 No.5479 | |
|
|
あ、そうか。 文法上は、このqueはおそらくsi以下のフレーズ(贅沢は国家にとって真に有害か有益かどうか)を受けていて、このsi以下のフレーズは、「il est inutile que」と「je ne pretends point decider」の両方にかかってくるんですね。 ここのところ、それでいいかどうか、もうちょっと考えてみます。 |
| ヒュームの奢侈観と社会観 如月 - 2008/05/22(Thu) 20:12 No.5530 | |
|
|