Does everyone know Louisville would be a cool place 投稿者:
Teepethicieds
投稿日:2010/02/09(Tue) 10:36 No.22158 <Home >
I was looking at this site and have found it to be really helpful. I would really appreciate any assistance.
種村薫さんが逝去 投稿者:如月 投稿日:2010/02/02(Tue) 08:47 No.22082
種村季弘未亡人・薫さんが亡くなられたそうです。 なぜか今朝、薫さんが出てくる夢を見ました。
スープの石 投稿者:
弘夢@なまこ
投稿日:2010/01/23(Sat) 17:58 No.21947
飢えた旅人(僧侶とも)が集落にたどり着き、民家に食事を求めて立ち寄ったが、食べさせるものはないと断られてしまった。 一計を案じた旅人は、路傍の石を拾うともう一度民家にかけ合った。 「煮るとスープができる不思議な石を持っているのです。鍋と水だけでも貸してください」 興味を持った家人は旅人を招き入れた。 旅人は石を煮始めると「この石はもう古くなっているので濃いスープになりません。塩を加えるとよりおいしくなるのですが」と説明した。 家人は塩を持ってくる。 旅人は同じようにして、小麦と野菜と肉を持ってこさせた。 できあがったスープは見事な味に仕上がっていて、何も知らない家人は感激してしまった。 旅人はスープのできる石を家人に預けると、また旅立っていった。 これ、実は・・物事を始めるのに協力を仰いで共に事をなすための比喩話なんだそうだけどw 実際に、東欧の地方料理でも石の入ったスープが郷土料理であるそうですね。 思い出しついでにもひとつ・・・小学校の頃高学年の頃だったかなぁ 国語の教科書に載っていた、第二次世界大戦中のことを題材に書かれた物語で「パンの石」?・・・タイトルはっきり覚えてない(ノ_・、) ひとつのことをやり遂げるためには、強い意志を持って確たる信念の基に臨みなさい的なたとえだったんだと思うんだけど・・・どなたかご存じの方居たら、教えてください。。 ここだったら、ご存じの方が居そうな気がするので、カキコしました。。
Re: スープの石
佐々木 寛
- 2010/01/25(Mon) 20:23 No.22011
大雪ですね。 如月 - 2010/02/01(Mon) 22:59 No.22078
弘夢くん、こんばんは。ものすごい雪ですね。弘夢くんが住んでいるとこからもこの雪見えるでしょうか? さて、石の話ですが、いい調べてみたんですが私にはわかりませんでした。そういう民話や比喩とは別に、石を入れて料理をつくるという話そのものもどこかで聞いたことがあるような気がするのですが、おもいだせません。ごめんなさい。 ところで、雪はいいけれど、寒さで風邪などひきませんように。そして具合のいいときにはときどき足跡つけてください。
一切れのパン いっちゃん - 2010/02/05(Fri) 02:22 No.22108
アンティオクスとミゾン 投稿者:如月 投稿日:2010/01/23(Sat) 12:46 No.21938
たった今、エルヴェシウス『精神論』第三話第六章「情念の力について」の訳が終わりました。 この章はきいたこともない人名が大量に登場して、ほんとうに厳しかったです。エルヴェシウスには、あれも知っている、これも知っていると自分の知識をひけらかすところがあって、そういうところはほんとうに訳しにくいのですね。 この章では、結局、ローマ帝政時代のアンティオクスという哲学者(おそらくストア派)とシェーヌのミゾンという哲学者が誰のことなのか、わかりませんでした。
四谷シモンが長塚圭史さんと対談 投稿者:如月 投稿日:2010/01/08(Fri) 23:09 No.21746
昨年末、千駄ヶ谷のエコール・ド・シモンで、劇団阿佐ヶ谷スパイダースをひきいる劇作家・演出家の長塚圭史さんと四谷シモンの対談がありました。 この対談は、本年1月21日から2月14日まで、下北沢の本多劇場で新作戯曲『アンチクロックワイズ・ワンダーランド』を公演する長塚さんからのアプローチで急遽実現したものです。 『アンチクロックワイズ・ワンダーランド』は、文化庁に派遣されて先日までロンドンに留学していた長塚さんの久しぶりの新作戯曲で、登場人物のひとりが人形作家であり人形が大きくクローズアップされています。 長塚さんは、四谷シモンの活動を念頭におきながらこの戯曲を書き上げたといいますが、対談では、冒頭でまず四谷シモンも長塚さんも外苑中学校の出身とわかり、かつ長塚さんは小さい頃から人形と遊ぶのが好きで、人形と遊びながらいつしか物語をつむぎだしていたといった思出話が語られ、和気藹々とすすみました。 今回の対談は、『アンチクロックワイズ・ワンダーランド』の公演プログラムに掲載予定です。
阿佐ヶ谷スパイダースのサイト 如月 - 2010/01/08(Fri) 23:12 No.21747
『週刊文春』のクローズアップ 如月 - 2010/01/08(Fri) 23:15 No.21748
『アンチクロックワイズ・ワンダーランド』という作品についてですが、現在発売中の『週刊文春』1月14日号「クローズアップ」のページに、どのようなことを考えながらこの戯曲をつくったのかという長塚圭史さんへのインタビュー記事が掲載されています。 こちらもぜひお読みください。
下世話な事ですが 通行人 - 2010/02/02(Tue) 15:49 No.22085
長塚氏は 有名な俳優の長塚京三氏の御子息ですね。 京三氏はパリ第4大学(ソルボンヌ)を卒業しておりますね?確か・・ いつぞやテレビで、見事なフランス語を披露しておられました。 長塚圭史氏が、最近結婚した女優の常盤貴子は、永年のファンでした。(笑)
謹賀新年 投稿者:如月 投稿日:2010/01/03(Sun) 11:58 No.21703
明けましておめでとうございます。 新年、みなさんはどのようなことを計画しておられるでしょうか? 私は、来年の完訳をめざし、エルヴェシウス『精神論』(1758年)の翻訳を可能なかぎりすすめることがことし最大の目標です。 またその前に、明日、某大学の留学生センターで、留学生の方を対象にちょっとしたお話をすることになっています。 この話の枕では澁澤龍彦さんの訳業についてふれ、ある国の文化や文学作品を別の国に移しいれることはどのような意味をもつ行為なのか語ってみたいとおもっています。それは具体的にどういうことかというと、澁澤さんメインワークはヨーロッパ文化の本流からすると異端としかおもわれないサド侯爵の著作の翻訳なわけですが、そうした異端的な著作が翻訳されることで、たてまえ的なものにとどまらないヨーロッパ文化の真の姿が理解されるようになったのではないかと私は考えるからです(すでに何度か書いたように、実は私の『精神論』の翻訳も巨視的には澁澤さんの影響下にあるもので、18世紀末にサド侯爵のような思想家が登場してくる背景を少しでも明らかにしたいという狙いをもっています)。 明日の話のメインである芸術論に関しては、そうした澁澤さんの仕事が、次にどのような豊穣な芸術活動を生み出したかという観点から述べる予定です。 要は、さまざまな国からの若い留学生たちに、現代日本の優れたところだけでなく欠陥をも鋭く見つめ、それをも自分の国に伝えて欲しいと話すつもりです。現在、明日の講演の最終準備を行っていますが、私の意図が彼らにどのように受け止められるか、今から楽しみにしています。 本年もどうぞよろしくお願いいたします。
Re: 謹賀新年
佐々木 寛
- 2010/01/03(Sun) 23:16 No.21707 <Home >
小講演から戻りました。 如月 - 2010/01/04(Mon) 15:08 No.21716
ただ今某大学の小講演から戻りました。 パワーポイントなるものがうまく作動するかどうか、最後まで不安だったのですが、画像の操作はことのほかうまくいきました。 聴講生の反応は、アジア系のひとたちは前の方にすわって一生懸命話をきいてくれたのですがけっこう無反応で、ドイツ、北欧などから来た留学生たちからは、男女を問わす活発で鋭い質問がでました。う〜む、これも地域差ですかね。 それでも、とても得がたい体験でした。
賀正 筆綾丸 - 2010/01/04(Mon) 21:58 No.21720
Re: 小講演から戻りました。
佐々木 寛
- 2010/01/04(Mon) 22:31 No.21721 <Home >
「聴講生の反応は、アジア系のひとたちは前の方にすわって一生懸命話をきいてくれたのですがけっこう無反応で、ドイツ、北欧などから来た留学生たちからは、男女を問わす活発で鋭い質問がでました。う〜む、これも地域差ですかね。それでも、とても得がたい体験でした。」(如月さん投稿より) 何か、面白そうですね。どんな内容だったのか、ちょっと興味があります。
学生さんたちの反応の違いについて 如月 - 2010/01/05(Tue) 09:10 No.21725
筆綾丸さん、明けましておめでとうございます。 佐々木寛さん、こんにちは。 今回の小講演は、そもそも与えられたテーマが「日本の美術」についてで、しかもあまり教科書的ではないものということでしたから、「日本の現代美術の一段面――澁澤龍彦と四谷シモン」という内容で行いました。澁澤さんに関しても、一般論的な切り口は避からはいることは避けて、なぜ私が澁澤さんにこだわるのかということから話をはじめました。 その冒頭、留学生のみなさんがどのようなことに関心をもっておられるか興味がありましたし、それによって話方を変えなくてはならないかとも思いましたから、まず、三島由紀夫を知っているかときいてみたのですが、知っている学生さんは、ヨーロッパ系の数人のみでした。で、みんなが三島を知っていれば、三島・澁澤を相対的に位置づけることができたのですが、ほとんどの人が三島も知らないというので、あとはひたすら澁澤に即して語りました。 留学生のみなさんは、国籍を問わず、とても一生懸命に話をきいてくれましたが、澁澤を語るということは、即日本におけるサド侯爵の作品の受容を語るこということであり、セクシュアリティがからんでくるので、ヨーロッパ系の学生さんとアジア系の学生さんたちで反応がわかれたのではないかという気がします。アジア系の学生さんたちのなかには、国立大学で行われる講演のなかに、サド侯爵やサド裁判がでてくることそのものにとまどってどう受けとめたらいいか、考えあぐねていた人も多かったのではないでしょうか。私は、それならそれで良かったのではないかともおもっています。
Re: 学生さんたちの反応の違いについて
佐々木 寛
- 2010/01/05(Tue) 21:34 No.21728 <Home >
そうですか、どうも…。 如月さんの、その小講演に行って見たかったですね(でも遠いし…)。
謹賀新年 投稿者:
酒井健一
投稿日:2010/01/02(Sat) 02:33 No.21692 <Home >
みなさん、ご無沙汰しております。 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。 とはいえ、元旦は(2日になりましたが)”一年の計は元旦にあり”とブログを立ち上げました。 「時節のご挨拶」「散歩写真」「こんな本を読みました」の三つのカテゴリーでブログを始めようと思います。 よろしく願いします。 ブログはhttp://kenbousha.blog.so-net.ne.jp/
おめでとうございます。 如月 - 2010/01/03(Sun) 11:41 No.21702
酒井さん、明けましておめでとうございます。 本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
フィシャン:哲学的コミュニケーションの戦略 投稿者:如月 投稿日:2009/12/24(Thu) 00:48 No.21650
『人間知性新論』におけるライプニッツの言説の戦略性を、、工作舎版『ライプニッツ著作集』第5巻に挿入された栞のミシェル・フィシャンの文章「哲学的コミュニケーションの戦略」から抜き出しておきます。 * * * 「存在するあらゆる事物は「個体的実体」(すなわち「モナド」)、単純で非延長的で非物体的な『一』である(「物理的モナド」の発明は18世紀の最も重大な誤解のひとつであろう)。それらの本質は一における外的多の「表象」ないし表現にある。かくして各々は、事物の一般的秩序のなかで自分に割り当てられた個別的視点に従って全宇宙を「表出する」。(中略)各モナドはある意味で他のあらゆるものから絶対的に独立でありうると同時に、モナド間の関係の協和が神の予定した普遍的調和を実現するような関係に従って他のあらゆるものと対応しうるのである。 哲学的コミュニケーションは、ライプニッツにとってこうした根本的考え方を実践することであった。つまり、哲学者がテクストの内で自分の思想について与える表現は同時に自分が伝達するつもりのテーゼの実験となる、一種の応用形而上学であった。言説の内で形成され明示される思考はみな他の諸思想に「対応」しており、それは多様な「視点」によって多重化され変異する反響を他の思考の内に見出すのを予想する。『新論』のような著作は、このようにこうした実践のとりわけ成功した行使と読むことができる。ライプニッツはそこで彼の形而上学の最も深遠で最も難解な教説を直接的には明かしていない。たとえ観念の起源の問題が「哲学における予備的なものではなく、それをうまく解ければ非常に進歩したに違いない」としても、彼はロックの視点に身をおくことを受け入れ、ロックとともに観念の起源について論じている。だが、この対話の射程を(われわれのあらゆる認識は外部に由来するという)ロックのテーゼへの正面からの反対と、(われわれは自分自身の内に生得的認識をもつという)ライプニッツのアンチテーゼの定式とに還元するとすれば、それは間違いであろう。ライプニッツにとって問題なのはむしろ、概念の外的起源を認めることが、なぜ錯覚として理解されうるのかを示すことによって、ロックの命題を統合することである。それは、より判明で表現的で調和的な表象への移行によって超出されうる依存性と受動性という錯覚なのである。ロック自身は反省を、外感に付け加わることになる認識の第二の起源として認めその道を示している。ところで、そうした反省を掘り下げてその力をより決定的な仕方で調べれば、精神はアリストテレスやスコラ派のタブラ・ラサではなく、われわれの内に、何よりもわれわれの知らないうちに、外部に由来するものに関してあらゆる受容性から真に独立した認識があることをわれわれは発見する。ライプニッツがこの道を引き出しうるのは、ロックとのこの対話で公表に同意するものよりもずっと先まで行く説明を彼が手もとにもっているからである。というのも、彼がロックに対してわれわれが生得的概念についてもつ確実性を対立させるのは(論敵に反論するにはそれだけで十分であろうが)、彼がよりいっそう根源的に、精神に生じるあらゆることは精神の本質の自発的結果であるという意味で、われわれの全認識が生得的だと考えるからである。ただそうした説明を直接的に伝達したのでは、相手の視点をあまりに傷つけてしまうので、論争における有利な力関係の確立を可能にするはずの迂回作戦は成功しないだろう。論争における有利な力関係がライプニッツのテーゼに有利な解決の交渉を可能にするのだ。この種のテクストや他の多くのテクストにおいて、ここに哲学的コミュニケーションの戦略そのものがある。哲学的コミュニケーションがある意味で実際的なアプローチに属しており、そうした場面では好機や有用性という背景的考察が支配的であるが、他の次元では次のような形而上学的確信からそうしたアプローチは生じるのだ。すなわち、多様な視点が宇宙の調和的秩序によって解明され、哲学にはまさに調和を最も叡知的な仕方で表現して調和を増大させるべき任務があり、哲学は部分的で一部削除されたーー哲学がその補完性を示すところのーー諸々のアプローチの対応づけを自分自身の内に確立することによってさらによく調和に到達する、という確信である。」(工作舎版『ライプニッツ著作集』第5巻栞、岡部英男氏訳)
如月さん くまげん7くん 通行人さんへ 投稿者:
佐々木 寛
投稿日:2009/12/16(Wed) 23:13 No.21329 <Home >
ところで、下記のスレッドの議論を、私のブログなどにも転載したいと思っているのですが、構いませんか? 「ライプニッツのホッブス批判」 「経験こそが概念から生み出されるものです。」 「ライプニッツの『人間知性新論』」
私は異存はありません。 如月 - 2009/12/17(Thu) 21:54 No.21420
佐々木さん、こんにちは。 自分の書き込みが転載されることに、私は異存はありません。私の場合、まあ、書き込みの大半が引用で、オリジナリティーに乏しいのですが…。 ただ「ライプニッツ『人間知性新論』」のスレッドの言語論に関しては、言葉たらずの点がありますので、それを補ってからにして頂けるとありがたいです。
Re: 如月さん くまげん7くん 通行人さんへ
くまげん 7
- 2009/12/18(Fri) 23:04 No.21511
転載の件
佐々木 寛
- 2009/12/19(Sat) 11:30 No.21573 <Home >
如月さん 転載の件、了承して頂き、ありがとうございます。 くまげん7くん どうも、ありがとう。 「ただ「ライプニッツ『人間知性新論』」のスレッドの言語論に関しては、言葉たらずの点がありますので、それを補ってからにして頂けるとありがたいです。」(如月さん投稿より) それでは、来年の1月中旬以降、今から1ヶ月ぐらい経ってから、転載しようと思います。通行人さんからの返事は無いようですので、通行人さんの投稿は除きます。
制御不能 如月 - 2009/12/20(Sun) 23:29 No.21618
「ライプニッツ『人間知性新論』」のスレッドの言語論、先ほど補足を投稿しておきました。 ところで、週末にこの掲示板からかなりの過去ログが消えてしまいました。私が消したのではなく、かってに消えたのです。 以上のように、この掲示板、私にもコントロールできないところがありますから、コピーされるのであればお早めに。
Re: 制御不能
佐々木 寛
- 2009/12/21(Mon) 09:57 No.21627 <Home >
無料で、「ログの保存が無制限」の、レンタル掲示板があります。検討してみては…(実は、私自身、検討しているところです)。 無料レンタル掲示板 - FC2掲示板 -http://bbs.fc2.com/
半身不随 如月 - 2009/12/21(Mon) 22:27 No.21635
掲示板のことは私も考えていないわけではないのですが、数カ月前に長い間使っていたPCのOSが作動しなくなり、同時にこのホームページを更新するためのデータがまったくとりだせなくなったので、更新やネタの追加はおろか、新たな掲示板を貼ることもできなくなり、私のサイトでは、現在、この掲示板だけが半身不随のままかろうじて生存しているのです…。
そうですか…。
佐々木 寛
- 2009/12/24(Thu) 22:14 No.21656 <Home >
私のPCは、OSをバージョンアップしてから(今は、ウインドウズXP-sp3)、調子が、まあまあで、この分だと、あと5年ぐらいは、このまま使えそうです。
ヨーロッパの「意識」の危機 投稿者:如月 投稿日:2009/12/13(Sun) 12:15 No.20989
ロックやライプニッツの時代は、ヨーロッパ思想界に近代的な「意識(concience)」という概念が生まれはじめた時期であり、それがロックの『人間知性論』やライプニッツの『人間知性新論』に独自の用語法を生じさせています。そのことからくる問題点を、福島清紀さんが工作舎版『人間知性新論』の訳者あとがきのなかで『「人間知性新論」再考への一視点――コスト訳の介在』としてまとめていまので、以下にその主要部分を抜き出しておきます。なお、この「意識(conscience)」という概念と用語の問題については、工作舎版『人間知性新論』第2部27章につけられた詳細な訳注(ライプニッツ著作集第四巻、282-283頁)もご参照ください。 * * * 「ライプニッツが『人間知性論』(1690)の思想内容に深く接したのは、ピエール・コスト(1668-1747)の仏訳初版(1700)を通してである。しかも、哲学の分野ではラテン語が共通語の地位をフランス語に譲りつつある状況のなかで、ライプニッツはロック哲学に対する批評をフランス語で書くのが賢明と考え、コスト訳に依拠して『知性新論』を執筆した。実際、アカデミー版ライプニッツ著作集に関するかぎり、フィラレートの発言の大部分はコスト訳の抜粋である。このようにライプニッツと『知性論』との間にはコスト訳が介在しており、そのことが、『知性新論』に独特の性格を刻印している。 (中略) 『知性論』のコスト訳はロック自身の校閲を経たものであり、版を重ね、権威ある翻訳として読まれた。たとえば、コンディヤック『人間認識起源論』(1746)には『知性論』からの数多くの引用が見られるが、『知性新論』と同様、それらの引用はコスト訳に依拠したものである。英語を解さぬコンディヤックが『知性論』に対する応答の書を著わそうとすれば、仏訳の存在意義はいかばかりであったか、想像に難くない。 (中略) イギリスのロック、フランスからの亡命者コスト、ドイツのライプニッツ。彼らは確かに17世紀末西欧の思想空間を共有していた。だが、そうした同時代的連関網は各々の営為を個別に方向づけていた思想的ベクトルと交錯している。例をあげよう。 コストが『知性論』の仏訳に際して遭遇した障害のひとつに、ロックの革新的な用語法がある。ロックは『知性論』第2部27章9節で、人間が人格的に同一であるゆえんを「意識(consciousness)」に帰した。英語には17世紀前半からconsciencesとconsciousnessの二つの言葉があり、後者のconsciousnessは、とくにカドワースやロックによって反省的な知覚を意味する認識論的術語として用いられるようになる。そうした背景をもつ上述箇所のconsciousnessをコストはcon-scienceと仏訳した。すでにルイ・ドゥ・ラ・フォルジュやマルブランシュがフランス語のconscienceの新しい用法を示してはいたが、この言葉は「良心」という道徳的意味を色濃く帯びていたからであろう。コストはイタリック体とハイフンを用いて言葉の新しい用法を強調し、さらには長い脚注で訳語の選定について釈明するなど、最大限の工夫を施した。 『知性論』でのconsciousnessの初出箇所は、実はここではなく、第1部4章20節である。この語は第2部1章11節、19節でも使われているが、19節のconsciousnessの定義を含めて、コストはいずれの場合もconscienceを当てることはせず、<persuasion ou l’on est interieurement>や<sentiment interieure>等の迂言法を用いて困難を巧みに避けていた。しかし、パルマンティエによれば、第2部27章はもはや妥協を許さない。そこではconsciousnessは、人格性という回避できない新たなカテゴリーの基礎として現れているからである。第2部27章のconsciousnessを前にしたコストの困惑もそこにあった。 では、ライプニッツの場合はどうか。「三十年戦争」がもたらした物心両面にわたるドイツの後進的状況という不利な条件を背負いながらも、ライプニッツは先行諸思想を貪欲に吸収する。カドワースやロックが先鞭をつけたconsciousnessの哲学的用法と、consciousness相当するフランス語のconscienceの新しい用法は、ライプニッツにとって決して疎遠なものではなかった。『形而上学叙説』(1686)はconscienceという術語を用いてはいないが、ライプニッツのアルノー宛書簡は「思考」や「記憶」などとの関連でconscienceへの言及を含んでいる。 ライプニッツはロックの使うconsciousness(コスト訳のcon-science)を、『知性新論』の該当箇所でイタリック体もハイフンも使わずに conscienceと表記し、そのあとに英語のconsciousness自分の造語consciositeを併記して付け加えている。ところが、ライプニッツが「序文」以外の修正作業を委ねたアカデミー・フランセーズの会員アルフォンス・デ・ヴィニョルは、このライプニッツの造語に噛みついた。ヴィニョルは、少なくとも 自国で使われる術語としてonsciositeを認めるフランス人は皆無だろうと指摘する。ヴィニョルの感覚では、conscienceというフランス語でさえconsciousnessに対応するものではなかった。ライプニッツは造語のconsciositek使用をやめてconscienceを使うようにはなるが、『知性新論』では時としてconsciositeを使い、もっとぎこちないconscienciositeという別形も使う。ヴィニョルから不適切との指摘を受けたにもかかわらず、またフランス語のconscienceの新しい用法に精通していたにもかかわらず、ライプニッツは固体存在の内的作用の析出において、ある意味で独自の発想法を貫いたのである。 『知性新論』には「意識」をめぐるそうした交錯が読み取れる。けれどもこれはほんの一断面にすぎない。『知性論』にコスト訳と『知性新論』を重ねてみると、『知性論』で使われているmindについても興味深い問題が潜んでいる。 (中略) コストによるmindの訳語選択を規定していた基礎についてさらに言えば、想定可能と思われるのはデカルトの用語法である。Espritはラテン語ではmens、ameはanimaであった。デカルトはanimaの両義性――栄養を摂取するための原理と思考するための原理――を避けて、思考するものをとくにmenss呼ぶことを好んだが、mensを、animaの部分ではなく、思考するところのanima全体とみなしてもいる。かくてmens(esprit)とanima(ame)は同義語となる。デカルトにおいてmensは本来の意味の「実体」である神とは区別された被造物ではあるが、やはり「実体」である。ところで、ライプニッツが『知性新論』でコスト訳に倣ってespritとameを使う場合、ameは必ずしも人間の「魂」ではなく、人間の「魂」を指すのは「理性的魂(ame raisonable)」であり、これは「精神(esprit)」と互換的に使われる。それにライプニッツにおいてameもespritも「実体」である。しかしロックがmindと呼ぶ思考する能力は「実体」ではない。実体的魂にはsoulとかspiritが当てられる。『知性論』では「実体」の自存性は「観念」の背後に色褪せている。ロックはthinking thingというデカルト的表現を執拗に使うけれども、それは、実体論的立場から非実体的なmindとその「作用(operations)」の立場への移行を行うためであった。そうした方向性をもつmindをコストが仏訳したとき、一種の意味変容が生じ、ライプニッツは言わば<デカルト化>されたロック哲学と相対したのではないか(この事情はコンディヤックも同じ:如月註記)。 このようにライプニッツはコスト訳をあるいは踏襲し、あるいはコスト訳を変更して独自の語句を使う。『知性論』の英語の語句をコストが仏訳した段階で、意味が不可避的にずれてしまっている場合があり、その語句を、ドイツ語を母語とするライプニッツが読むわけである。コスト訳によってロック哲学はライプニッツには以前にもまして身近なものになったであろうが、思想伝達と他者理解に何らかの偏りが生じたとしても不思議ではない。しかしながら、コスト訳を媒介とした思想伝達と他者理解にバイアスがあるにしても、否むしろバイアスがあるからこそ、近代西欧哲学の根幹に関わるゆたかな問題群が『知性新論』に胚胎したと言えるのではないか。ライプニッツが精髄を挙げて試みたロック哲学との想像上の対話『知性新論』は、今日のわれわれが再考すべき問題を幾重にも孕んだ書である。」(工作舎、ライプニッツ著作集第五巻、360-363頁)
ロック『人間知性論』第2巻27章9節 如月 - 2009/12/13(Sun) 12:51 No.20990
「上に述べたことを前置きして、人物[ないし人格人]同一性がどこに存するかを見いだすため、人物[ないし人格人]とはなにを表わすかを考察しなければならない。私の考えるところでは、人物とは、理知と省察とをもち、自分自身を自分自身と考えることのできる、思考する知能ある存有者、違う時間と場所で同じな思考する事物であり、こうしたことは、思考と分離できない、私には思考に本質的と思われる、意識によってなされる。というのも、だれしも自分が知覚することを知覚せずに知覚することはできないからである。[たとえば]私がなにかの事物を見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触れたり、思索したり、意志したりするとき、私たちはそうすることを知っている。だから、このように知ることはいつも、私たちの現在の感覚と知覚にかんしており、これによって、すべての人はその人自身にとって自分[ないし自我]と呼ぶものである。というのも、この場合、同じ自分が引き続いて同じ実体にあるか異なる実体にあるかは考えない。なぜなら、意識がいつも思考に同伴し、この意識がすべての人をその人が自分と呼ぶものにさせ、これによってその人自身を他のすべての思考する事物と区別するから、この意識にだけ人物同一性すなわち理知的な存有者の同じなことは存するのである。また、この意識を彼方へ、ある過去の行動あるいは思想へ及ぼせるかぎり、それだけ遠くその人物の同一性は達する。当時あったのは今と同じ自分であり、あの行動がなされたのは、今それを省察するこの現在の自分と同じ自分によってなのである。」(ロック『人間知性論』第2巻27章9節、大槻春彦訳、岩波文庫『人間知性論』2、312-313頁)
ライプニッツ『人間知性新論』第2部第27章 如月 - 2009/12/13(Sun) 14:17 No.20991
フィラレート「人格という語が含意しているのは、理性を用いることができ反省のできる、思考する理知的存在者です。この存在者は自己自身を同一なるものとして、異なった時間に異なった場所で思考する同じものとして考えることができます。そうしたことは、その存在者が自分自身の活動についてもつ感覚によってもっぱら為されます。そしてこの認識は、私たちの現在の感覚や表象を常に伴っています。すでに再三指摘したように、それらが十分に際立っているとすればです。そしてまさにこれによって、各人は自分自身にとって彼が自分自身と呼ぶところのものなのです。この場合、同じ自我が同じ実体の内に持続しているのか、それとも種々の実体の内に持続しているのかは考察されません。なぜなら、思考には常に意識consciousnessつまり意識性が伴い、この意識が、各人を各人が自分自身と名づけるものたらしめ、これによって各人は他のいかなる思考する事物からも区別されるので、人格的同一性、あるいは理性的存在者を常に同一たらしめるものもまた、そこに存するからです。そして、この意識がすでに過ぎ去った行為とか思考にまで及ぶ限り、その分だけこの人格の同一性も広がります。現在の自我はかつてのそれと同じものなのです。」 テオフィル「意識性ないし自我の感覚が道徳的同一性つまり人格的同一性のあかしである、という意見には私も賛成です。そして、動物の魂の不断性を人間の魂の不死性から私が区別するのは、まさにそこにおいてです。双方とも自然学的・実在的同一性を保ってはいますが、人間に関して言えば、魂が私たち自身にとって明らかな道徳的同一性をも保って同一の人格を構成し、したがって賞罰を感得しうるということ、これが神の摂理の諸規則に適合した事態なのです。見た目にも明らかなこの同一性は実在的同一性がなくとも保存されうる、とあなたは主張しているように思えます。神の絶対的な力をもってすればおそらくそういう事態もありうるだろうとは思いますが、事物の秩序に従えば、自から同一と感じる人格自身にとって明らかな同一性は、反省もしくは自我の感覚を伴う近接的な各々の移行において、実在的同一性を前提しています。内的で直接的な表象は自然的には欺きえないからです。もし人間が機械でしかありえず、しかもそれでいて意識性をもちうるとしたら、あなたの言う通りにちがいありません。しかし、少なくとも自然的にはそういう事例はありえない。私としてはそう主張します。人格的同一性や自我でさえ私たちの内には留まらないとか、揺り籃の中にいたときに行なったことはいっさい覚えていないという口実で、私は当時の私ではないと言い張るつもりもありません。道徳的同一性を自分自身で見出すには、たとえ何らかの飛躍とか忘れられた期間が混入していようとも、ある状態とそれに近接した状態もしくは少し隔たってさえいる状態との間に、意識性の媒介的な連結があれば十分なのです。かくして、もし病気が意識性の連結の連続性を遮断するに至り、その結果、自分がどうして現在の状態になったか分らなくなったとしても、もっと以前の事柄を覚えていれば、他人の証言が私の記憶の空白を埋めてくれるでしょう。ある期間中に、意図的に何か悪事をしでかしたのに、この病気のせいで少し後にはそれを忘れてしまっていたとしても、そうした証言に基づいて私が罰せられることさえありうるでしょう。そして、もし私が過去のすべての事柄を忘れてしまい、自分の名前はおろか、読み書きまで再び教えてもらわなければならなくなったとしても、以前の状態における過去の私の生活を他人から教えてもらうことはやはり可能でしょう。これはちょうど、私を二つの人格に分割して私を私自身の相続人にする必要なしに、自分の諸権利を守ってきたのと同じです。同一人格を形作る道徳的同一性を維持するにはそれで十分なのです。もし他の人々が共謀して私を欺こうと企てれば、(何らかの幻覚とか夢とか病気によって、夢見たことが私の身に起こったと思い込み、自分自身で自分を欺くことさえありうるように)見かけというものは偽りになる。それは確かです。しかし、他人報告に基づいて心証的には真理を確信しうる場合があります。そして、私たちの交流という結びつきが道徳性の主要点を成す神のもとにおいては、誤謬はありえないでしょう。自我について言えば、それを自我の現われや意識性と区別した方がよいと思います。自我は実在的で自然学的な同一性を形作り、自我の現われは、真理に伴われれば人格的同一性をそれに結びつけます。ですから、人格的同一性は記憶以上の拡がりはもたないと言いたいのではないし、ましてや、自我ないし自然学的同一性がそれに依存するなどとも私は言いません。実在的で人格的な同一性は、現在の直接的な反省によって、事実に関する事柄について最も確実に証明されます。この同一性は普通、期間をおいた記憶や他の人々から寄せられる一致した証言によって十分に証明されるのです。しかし、たとえ神が常ならぬやり方で実在的同一性を変えてしまったとしても、その人間が同一性の現われを保存しさえすれば、つまり内的な現われ(すなわち意識の現われ)も、他の人々に見えるものに存するような外的な現われも保存しさえすれば、人格的には同一のままでしょう。かくして、意識は人格的同一性を構成する唯一の手段ではなく、他人の報告とか他のしるしでさえそれを補いうるのです。ところが、そうしたさまざまな現われの間に矛盾が見出されると困難が生じます。意識は、忘却の状態にあるのと同じように沈黙することもありうるのですが、もし意識が他の現われに対立する事柄をきわめて明晰に語るならば、私たちは決定に困り、私たちの記憶違いか、外的な現われに何らかの欺瞞があるという二つの可能性の間で、時には宙ぶらりんのようになってしまうでしょう。」(工作舎版ライプニッツ著作集第四巻『人間知性新論』第2部第27章より、282-286頁)
ロビネ:『知性新論』の現代性 如月 - 2009/12/20(Sun) 23:25 No.21617
以上のように複雑なライプニッツにおける「意識」の問題をどうとらえたらいいかを、工作舎版『ライプニッツ著作集』第5巻に挿入された栞のアンドレ・ロビネの文章「『人間知性新論』の現代性」から抜き出しておきます。 * * * 「『知性新論』は、物体―実体ないし物体―現象の理論の維持について議論する場ではなかった。けれども、このテクストの解釈のために、私はこの問題がしばしば提起されることを指摘しておく。しかもそれは、ベルリンの宮廷で交わされた会話の話題であった。ライプニッツはその会話のなかで、内的感覚の理論、および動力学によって把握された現象に還元される物体の理論を展開した。一方、形而上学は、モナド、精神へと転換された実体に関わる。物体は、モナドや精神にとって心的総合物である。それは確かに単なる現われというわけではないが、表現の第二質量を構成するものでしかない。 特にここに言う表現は、「劇場的な」表象作用である。つまり、モナドの意識に達するもの、あるいは、モナドにとって無意識のままであるものは、すべて知覚領野において編制されているということである。そうした意識にライプニッツは心理学的位置づけを与える。『知性新論』までは、フランス語はconscienceという言葉を道徳的・宗教的意味でしか用いていない。心理学的意味をもつconsciousnessをコストが翻訳するときに直面した困難は、そこに由来する。ライプニッツはいくつかの造語を試みるが、結局、新しい意味のconscienceを採用する。しかしこの意識はもはやデカルトの一様に明晰な意識ではない。錯然としたものの領域が、意識表象下の微小表象を狙いとする考察とともに心理学的な地位を占め、意識の生活に伴う世界の環境とともに形而上学的な地位を占める。この環境は「われわれの内で、われわれなしに、われわれの意に反して」意識の生活に伴う。そのことをマルブランシュが言っていたし、メルロー=ポンティは自著のなかでコギトに関して繰り返すであろう。意識はすべての実在的なものだけでなく、すべての可能なものにも囲まれているのである。あたかも意識は、われわれの相互表出の総体を秩序づけるひとつの普遍的精神によって保持される発出の貯蔵所であるかのように。」(工作舎版『ライプニッツ著作集』第5巻栞、福島清紀氏訳)
突然すいません 投稿者:よし 投稿日:2009/12/07(Mon) 15:06 No.20629
イギリスのデカルト批判を論じるという課題があるのですがどのように書いたら良いかわからないのでお答えいただけないでしょうか?
主語と述語 如月 - 2009/12/08(Tue) 00:00 No.20645
おこたえになるとはおもいませんが、昔、次のように考えたことがあります。それは、デカルトの 「Je pense donc je suis.」 という命題を、経験論者は 「Je pense donc je peux pencer.」 という方向にとらえようとしたのではないかと。 またこれに対してライプニッツならば、 「Je pense donc je suis en pensant.」 という方向に問題の所在を変えようとするのではないかと。 いずれにしても、デカルトやライプニッツでは、 「我思うゆえに我あり」という命題は、「我」の<ある・なし>つまり主語の方に比重がかかっているとおもうのですが、経験論的にとらえると、「我」は、つねに透明な「我」ではなくてなんらかの属性を帯びた「我」としてたち現れるわけで、そのたち表れ、つまり述語の方から「我」に迫ろうとしたんじゃないでしょうか。 ただ、これは同じ命題をラテン語で考えるともっとおもしろくて、ラテン語という言語は、動詞の活用形のなかに(英語の三人称のように)主語概念が含まれているので、動詞の活用形を出せばそれとは別に主語をたてる必要はないわけですね。だから、 「Je pence donc je suis.」は 「Cogito ergo sum.」 と転換されるわけですが、このラテン語の命題だけ読むと、それは、「Cogito.」という命題のなかにはすでに一人称単数形の主語概念、つまり「我」が入ってるんだと誤読できないかとおもうわけです。 まあ、もっとまともなこたえは、ネットならばウィキとかいろいろなところにキーワードを打ち込めば出てくるのではないかとおもいます。
Re: 突然すいません
くまげん 7
- 2009/12/08(Tue) 03:29 No.20650
デカルトを批判するのか? イギリス経験論がデカルトを含む合理論(理屈が合えば それが経験を経て無くても真理あるいは事実として考える。 方法的な考え方)に対する批判をまとめるのか? お尋ねになられていることが不明瞭です。 普通におっしゃられていることをままに受け取れば 経験論がいかに合理論を批判したかをまとめればよろしいの ではないですか? コギト エルゴ スムは方法的懐疑によって見出された 観察する私です。だから、デカルトは疑えないものとして 延長を持つもの(計れるもの)という定義を持ち出すわけ です。物心二元論といわれがちですが、どうもデカルトの 原稿を読むとそう単純でもないようです。 方法的(演繹的)であるためには他者と自己の間で誤差 のないものがなければならずそのために要請された概念で あると考えた方がよいと思います。 ですから、デカルトもコギトを持ち出す前にコモンセンス (共通感覚)に触れております。
17世紀の認識論の地平 如月 - 2009/12/08(Tue) 09:15 No.20670
う〜む、くまげん7さんも書いておられるとおり、結局、「イギリスのデカルト批判を論じる」とかいう課題は、一見ものすごくまともそうに見えて、かなりナンセンスなものということになるでしょうかね。 「常識的」に、合理論(デカルト)と経験論(ロック派)の主張のポイントをおさえて、それを要領よく比較すればいいんでしょうけど、きちんとこたえようとすると、合理論とは何か、経験論とは何かということ自体難しいし、それを対立的にとらえるということもある知的価値観を前提としたものになるとおもうんです。 デカルトはさておき、そのあたりを、ロックの研究者・一ノ瀬正樹さんは次のように問題提起していて、私にはとてもおもしろいんですけれど。 「知識を主題にした哲学は一般に認識論と呼ばれ、近世哲学の大きな柱の一つをなしてきた。そして、この近世認識論の発端をなすとされているのが、17世紀のイギリスの哲学者ジョン・ロックである。ロックは、生まれたばかりの人間の心を白紙にたとえ、すべての知識は経験に由来するとした。このような原構図のもとに、近世認識論は、いわばデカルト的に純粋かつ抽象的に取り出される主観が客観とどのようにかかわるとき認識が成立するのか、という問いをめぐってさまざまな議論を提示してきたと、そう一般的かつステレオ・タイプ的にまとめられる。(中略) しかしながら、こうした記述は大きな倒錯を犯している。少なくとも、私にはそう思われる。というのも、右のようなまとめ方は、「経験」ということを没人格的な感覚や知覚とほぼ同一視してしまうきわめて特殊な見方、恐らくはカントに起源する見方、を最初に受け入れたうえで、その見方を機軸にして近世認識論全体を、つまりその特殊な見方が発生する以前の哲学までをも、総括しようとするものだからである。後から生じた考え方がそれ以前の考え方にも備わっていたかのように勝手に見なしたうえで、以前の哲学を跡づけるというのは、倒錯以外のなにものでもないだろう。哲学や思想は、まずはそれ自身において学ばれねばなるまい。そして実際、私は、没人格知識の概念に貫かれた流れとして描かれる近世認識論のまさに発端のところに、いわゆる近世認識論とは異質の着想の生成を見るのである。」(『人格知識論の生成』東京大学出版会、1997年、10頁) 【参照】http://www.furugosho.com/nomadologie/ichinose1.htm
独断を排する 如月 - 2009/12/08(Tue) 22:39 No.20713
議論が「倒錯」しているかどうか、きちんと判断する能力は私にはありませんが、一ノ瀬さんのロック論と比較できるよう、以下に浜林正夫さんのロック『人間悟性論』の分析も引用しておきます。 * * * 「ロックの認識論的思索が、1671年の数名の友人との会話から生まれたことは、すでに述べた。それは1685年の「草稿C」(=『人間悟性論』の草稿;如月註記)にまでいたるのであるが、これまで述べてきたかぎりでのロックの議論をもう一度まとめておくと、次のように整理することができる。 (1)人間は生まれつきは「白紙」であって、先天的知識というようなものはない。 (2)知識は感覚と経験から得られるが、それはまず感覚そのものを観念化して単純観念が得られ、理性によってこれを結びつけて複合観念が得られるということである。 (3)外界の事物の本質を知ることはできないが、その第一性質である延長と結合については知りうる。事物については感覚で知りうる程度で日常生活には十分である。 (4)数学の公理のような自明の真理は直覚によって得られる。 (5)第一原因としての神の存在を疑うことはできず、道徳とは人間相互の同意にもとづく規則や、神の法と、人間の行為との関係である。 (6)信仰は蓋然的な知識にたいする同意である。 (7)感覚と経験以外に反省にもとづく知識もあり、それは内面的感覚ともいうべきものである。 (8)人びとのあいだに真理をめぐって多くの論争があるが、それは事実についての争いではなく、言葉の不正確な使い方による論争である。 『人間悟性論』以前にロックが以上のような認識にまで到達していたとすれば、『人間悟性論』はこれをさらにどのように発展させたのであろうか。 『人間悟性論』の第一巻は生得観念の批判であって、これはすでに「草稿B」でかなり詳細に展開され、「草稿C」でほとんど完成稿にいたっていたものである。したがって第一巻に関するかぎり、『人間悟性論』では説明が具体的になっているということ以外に、とくに新しい点はない。こういうロックの生得観念批判がだれに向けられたものであったかという問題については、さまざまな説がある。ロック自身は「草稿A」および「草稿B」ではデカルトとシャーベリーのハーバートの名前をあげているが、『人間悟性論』ではデカルトは第二巻まで登場しない。デカルトは既成の知識をすべて疑い、疑いきれないところに「自我」を発見し、そこから神や道徳律の存在を自明の真理としていったのだが、ロックはそれさえも疑って、先天的にはいかなる知識もないとしたのである。(中略)独断を排するというのがロックの一貫した立場であり、それはピューリタン革命でみられたようなイデオロギーとイデオロギーのぶつかりあいを終わらせ、理性に訴えながら新しい秩序をつくりあげようとするロックの姿勢のあらわれであったとみることができるであろう。 イデオロギーと独断を排したうえで、ロックは経験にもとづく知識の構築に向かう。それが第二巻のテーマであって、その基本点はすでに「草稿A」の段階からあきらかとなっていた。(中略) 空間についてのロックの積極的な定義はかなりあいまいであるが、彼がくりかえし強調しているのは、空間は物体のような個体性(solidity)をもたないということである。デカルトが物体の唯一の属性は延長であるとしたのにたいし、ロックは物体の本質的性質は個体性にあるというのであるから、それをもたない空間は物体ではないということになる。空間は物体ではなく、物体間の、あるいは同じ物体の部分間の、距離であり、さらに長さや幅や厚さを加えて考えれば、広がりである。ロックがデカルトと違って、物体の固定性にこだわるのは、無限空間を考えるからであって、もしデカルトのように物体をたんなる延長としてとらえるなら、無限空間もまた物体ということになり、こういうとらえ方は無神論におちいる危険性があると考えられたのであった。」(『ロック』<イギリス思想叢書4>、研究社出版、1996年、173-177頁)
ロックの実体観念の二面性 如月 - 2009/12/10(Thu) 00:38 No.20787
続いては三浦永光さんのロック論から、ロックの実体論(実体認識)の問題点について述べた部分を引用しておきます。 * * * 「ロックの二元論的実体論について注目すべき点をいくつかのべてみたい。 第一に、ロックの実体論が経験論の立場から論じられていることである。物理的実体が想定されるのは、心が外界から「感官の経験と観察」を通して受け取る諸性質の観念のゆえであり、物体的実体はつねに一緒に観察される諸性質をまとめて保持する支えとして考想されたものである。スコラ哲学者は彼らが感覚を介することなく得られると説く「実体的形相」によって実体を説明するのに対して、ロックは「実体的形相」がいかなる経験にももとづかない空虚な説明にすぎないとして退ける。精神的実体に関しても同様である。それは私たちが内省によって「実地経験(experiment)される私たち自身の心の諸作用」(思考する、理解する、意志する、疑うなど)から出発して、それらの作用の統一的主体として想定されたものである。このようにロックの実体論は観念の現象主義的把握とに結びついた経験論にもとづいている。 第二に、しかしながら実体の想定自体は経験的知覚を越えた認識である。基体としての実体の観念は一個の単純観念でもなければ、複数の単純観念の複合でもない。 「実体はつねに延長、形、固性、運動、思考、その他の観察可能な諸観念とは別の(besides)何物かとして想定される。私たちはそれが何かを知らないけれども」。 実体を「想定する」のは、感覚や内省とは異なる心の独自な、能動的な機能、すなわち理性だと考えるべきであろう。心は単純観念を受け取るさいには「受動的」だと言われていたが、それらの単純観念を意味のある統一体へと秩序づける「実体」という観念を形成するさいには積極的に働いているからである。ジョン・ヨルトンは「可感的諸性質への付加物としての実体、実在的本質の場所としての実体というロックの観念は感覚の単純観念から導きだすことはできず、理性の仮説である」とのべているが、この言葉はロックの実体観念をめぐって彼の経験論と理性の役割とがどのような関係にあるかを的確に示している。 したがって、ロックの実体観念は奇妙な二面性をもっている。彼は一方では、感覚と経験が精神や物質という実体の「存在」を確信させるとのべつつ、他方でそれらの実体の「本性」が何であるかは人間には知り得ないと言う。より正確に言えば、すでに見たように、実体の「存在」の認識は経験による単純観念の知覚ばかりでなく、それらの観念の統一と「支え」を「想定」する理性の働きにもとづいている。他方、実体の「本性」に関する不可知論は、再び彼の経験論を、そして経験論のみを根拠としている。ロックは言う。 「しかし本来の源泉[感覚と内省]から受け取ったこれらの[単純]観念を越えては、私たちの[認識の]諸機能は及ばないだろう。たとえ私たちがこれらの観念の本性、原因、様式をさらに探求しても、[精神の]思考の本性について知覚するよりも明確に[物体の]延長の本性を知覚することはない」。 精神や物体の本性に関する人間の無知は、人間の知識の源泉が感覚と内省に限定されていることに由来するのである。ロックの言う実体観念の存在の明晰さとその本性の不明瞭さはともに彼の経験論あるいは現象主義的な「観念」理解から来ているといえるであろう。」(三浦永光氏『ジョン・ロックの市民的世界 人権・知性・自然観』、未来社、1997年、39-341頁)
デカルトとの類似と相違 如月 - 2009/12/10(Thu) 00:54 No.20789
上に引用したような実体論から、三浦永光さんは、デカルトの実体論とロックの実体論の影響と類似を指摘しています。 * * * 「ところで、右に見た限りでのロックの精神・物体の二元論はデカルトの実体論に極めて類似している。デカルトはあの有名な「私は思考する。ゆえに私は存在する」という認識から、思考を本性とする精神を発見し、続いて精神と物体との区別を立てる。彼は言う。 「しかし事物の最高の類については、私はただ二つしか知らない。すなわち、一つは知的な、あるいは思考的な事物の類である。言い換えると、精神もしくは思考する実体に属する事物の類である。他は、物質的な事物の類、あるいは延長ある実体に、いいかえれば物体に属する事物の類である」 デカルトによれば、精神は身体から全く独立した本性に属するものであり、「たとえ身体が全く無くても、精神はそれが本来あるところのものであることをやめない」。身体が消滅しても、精神は消滅せず、不死である。また物体は他のものによって動かされるが、自らは運動しない。これに対して精神は思考し知覚する働きと、意志によって行動する自由をもつ。このように見ると、ロックとデカルトの親近性は明白であろう。 ただし実体に関しては、両者の間に共通点とともに相違がある。デカルトは「実体とは、存在するために自己自身のほかに何物をも必要としないで存在している事物である」と定義し、この定義に厳密に適合するのは神のみだという。しかし、すべての被造物は存在するために神という他者を必要とするということを度外視するならば、被造物のうちで実体と呼べるものは精神と物体の二種だけだという。ロックも次のように言う。 「私たちは三種の実体についてだけ観念をもつ。1、神。2、有限な知能あるもの。3、物体」。ここでもロックとデカルトは一致している。しかしながら、実体の定義に関しては、両者は異なっている。先に見たとおり、ロックの言う「実体」は、心が受け取った一定数の単純観念を結合する「支え」、「基体」として想定されたものである。しかもその「実体」が何であるかは人間には知りえないとされる。これに対してデカルトにおいては、思考するものは、存在するために物質的なものに依存せず、自存するという意味で実体であり、物体も精神をもたず、精神から独立的に、延長という属性だけで存在しうるという意味で実体なのである。したがってデカルトにおいては、人間は実体について明晰判明な観念をもつことができるのである。実体を理性の知的な洞察によって確実に認識できるとするデカルトと、あくまで経験の基礎から離れず、実体をたんに「想定」するにとどまるロックとの相違が見出されよう。 ロックの「実体」観念は、その「基体」の不明瞭さのゆえに、それが支えるべき一定数の単純観念を堅固に支え続けることができるかどうかについて不安定さをはらんでいる。 (中略) ともあれ、ロックもデカルトも精神と物体を相互に異質で独立した二種の実体と捉えている点で一致している。ロックは精神・物質の二元論に関してデカルトの強い影響下にあることは疑いない。しかし彼の二元論は、彼の実体観念の危うさのゆえに、デカルトの二元論ほど強固なものではないことも明らかになったと思われる。」(三浦永光氏、前掲書、342-344頁)
多様な思想的可能性の中での模索 如月 - 2009/12/10(Thu) 09:27 No.20805
以上の実体論をふまえて、ロックが精神と人間の関係をどのようにとらえているかについての三浦さんの結論もご紹介しておきます。ロックの思想のなかの「生命的合一」を重視するという点では、三浦さんの見解は、ロックの知識論は「人格知識論」であるとする一ノ瀬正樹さんのロック論の方向と似てなくもないですね。 * * * 「人間における精神と身体の関係に関するロックの見解を要約しよう。ロックは精神と身体の関係について、明確な二元論に立つスコラ哲学およびデカルトに一定の理解と同情を示しながらも、精神の働き(感覚、思考、意志)が身体との一体性において活動すること、精神と身体が相互依存の関係にあることを主張した。彼は人間を精神と身体との「生命的合一」と規定することによって、人間の本質を精神のみに求めるデカルトとの間に一線を画したのである。ロックはまた彼自身の経験論への強い確信のゆえに、経験論の一つの帰結としての不可知論ないし懐疑論へ傾斜しているが、彼はこの懐疑論の中で「思考する物質」の可能性という、明確な二元論と真っ向から対立する見解にも一定の共感を示したのである。 このように見ると、ロックの精神と身体の関係に対する態度は(1)両者の相互依存と異質性(二元論)、(2)両者の区別と同時に、両者の一体性と相互依存、(3)思考を物質の一性質と見る見方、という具合に、かなりの振幅をもって揺れ動いていることが明らかになる。ロックの個々の発言の中に相互の矛盾を見つけることはたやすい。しかしそれらの矛盾を論理的欠陥あるいは首尾一貫性の欠如として批判するにとどまるのではなく、17世紀から18世紀への時代の変化と共に、世界と人間に対する人々の理解も大きく変わりまた多様化しようとする中で、一人の個人が経験した思想的揺れ動き、および多様な思想的可能性の中での模索の試みとして捉えることが重要であろう。」(三浦永光氏、前掲書、354-355頁)
確実性の問題 如月 - 2009/12/12(Sat) 13:51 No.20941
17世紀のヨーロッパ哲学あるいは知識界の課題はいろいろあったとおもいますが、私は、その最大のものはヴィトゲンシュタインの言葉を利用させてもらえば「確実性の問題」だったとおもっています。 これはどういうことかというと、ヨーロッパの精神界から神がしだいに姿を消していくなかで、存在論にしても、物理学のような科学にしても、確実性の根拠をなににもとめるかということですね。ヨーロッパの精神史あるいは思想史をみわたしたとき、17世紀に注目される哲学者が数多く出現しているというのは、そういう精神界の状況と無縁ではないようにおもいます。 と、ここまで書きながらふとおもったのは、日本では、平安末から鎌倉時代中期にかけて、後世に強い影響を与えた宗教家が数多く出現しているということですね。 17世紀のヨーロッパにしても中世初期の日本にしても、社会が大きく変動し、ひとびとの価値観が急速に変わっていくなかで、そうした社会の変動に応じた新たな価値観を提示する思想家が社会的に強く求められたと指摘することは、それほど「倒錯」した考え方ではないとおもいます。 で、デカルトもロックもライプニッツも、あるいはスピノザも、ヨーロッパ社会や思想のそうした大転換期に、転換期にみあった思想を提示しようとしてでてきた思想家ではなかったかということが、17世紀思想を考えるうえでの私の大前提ですね。そして、そこで解決しなければならなかった思想的急務は「確実性の問題」だったのであろうというのが、私の大雑把なみとおしなわけです。 さて、この確実性の問題に、最初に明確な解答を提示したのがデカルトであり、その解答の核は「我思う、ゆえに我あり」という命題に集約されるといってしまうこともさほど倒錯的ではないのではないでしょうか。 ただ問題は、この「我思う、ゆえに我あり」という命題もしくは概念を明晰判明であると認めたとしても、その明晰性をどのように普遍化・一般化していくかという時点でいろいろな問題が生じてしまうということですね。 それとまたデカルト自身、この命題から出発して、身体論、情念論、運動論、宇宙論などさまざまな問題を解決しようとするわけですが、その具体的な局面では、「我思う、ゆえに我あり」と同じような明晰性・確実性を提示することができない。もともと、「我思う、ゆえに我あり」の明晰性・確実性は、一種の直観主義的な要素(自然の光)に負っている部分が多く、本来的に、その確実性を普遍化することが非常に難しいということはあるとおもいます(今、とりとめもなく考えているのは、それをストレートに普遍化しようとしたのがスピノザかなということです)。 そこで、デカルトが行った問題提起をふまえたうえで、デカルトが考えていたような確実性の問題に別の角度、あるいは別の方法論からアプローチし、その確実性をより普遍的なものにしようと試みたのがロックではないかということです。たしかに、ロックはデカルト思想をいろいろなところで批判していますが、反面、デカルトの問題意識を引き継いでいる部分、デカルトから影響を受けている部分もかなり多いのですね。それと、ロックの社会や法に対する関心が、ロックに、直観主義に甘んじることを許さなかったということもあるとおもいます。ただしこの点に関し、彼の社会や法に対する関心のなかでおもしろいとおもうのは、ロックの思想のなかには、自然法の存在を肯定しそれを論証しようとしている部分がありますが、自然法という考え方自体、純然たる経験論とは合致しないものなわけです。 まあ、ロックの思想の捉え方はいろいろあるとおもいますが、いずれにしても、デカルトの成果を真正面から否定しようとしていたばかりでないのではないかというのが、私のおぼろげな理解です。 ですから、いわゆる合理論と経験論の対立ということに関しても、それらが完全に相容れないものであって、17世紀に、それぞれがデカルトとロックを代表として正面から激突したといったような見解は、デカルトとロックの思想の具体的な局面をとらえたものというより、あらかじめできあがっている対立図式を17世紀思想にあてはめただけという感じがして、私はとりません。また、そうした図式的で硬直した見方から生じる不整合や問題点をそれぞれの研究視覚から取り上げているのが、一ノ瀬さん、浜林さん、三浦さんの指摘ではないでしょうか。 それと、下方のスレッドで延々ととりあげたライプニッツとロックの思想的相違、さらにはライプニッツとデカルトの相違も、「確実性」の追及という大枠のなかでとらえるべきではないかと、私はおもいます。 ついでながら、私見によれば、18世紀というのは、この確実性の追究という問題意識が急速に薄れる時代なのですね。そのことはまず、18世紀社会、なかでもフランスには突出した「哲学者」が登場しないというかたちで出てきます。ヴォルテールだルソーだといっても、彼らはデカルトが「哲学者」であったのと同じような意味で「哲学者」であったとはいえないとおもいます(この点に関し、最近は、ヴォルテールらは「フィロゾーフ」だったのだとして、歴史的用語としての「フィロゾーフ」と「哲学者」という概念を区分するような考え方が主流になりつつありますが、私自身は、まだその辺の考え方の整理ができていないので、暫定的な措置として、18世紀のphilosopheにも未だに「哲学者」という訳語をあてています)。17世紀に確実性の問題がいろいろと議論され煮詰まったなかで、議論がいったん棚上げされたのが18世紀といえるでしょうか。それと、18世紀の知的関心が、社会や生命などの具体的な問題に向かっていき、そうすると、絶対的な確実性を追究するというより、蓋然的な事実真理に甘んじて議論をすすめるということが多くなったということもあるとおもいます。まあ、そうした方向性をもった思想の最大の成果が『百科全書』ということになるでしょうか。
近代ヨーロッパについて
佐々木 寛
- 2009/12/13(Sun) 22:24 No.20998 <Home >
西洋から東洋への影響だけでなく、逆に、東洋から西洋への影響も、もっと研究されて当然だと考えています。ちなみに、ベーコン、ロックあたりから、仏教の影響を受けているように思えます。
伊勢丹相模原店でエコール・ド・シモン人形展 投稿者:如月 投稿日:2009/11/30(Mon) 00:25 No.20083
12月16日(水)〜24日(木)までのクリスマス期間、伊勢丹相模原店で「エコール・ド・シモン人形展」が開催されます。 この展覧会は、質の高い美術品を見たい、普段見られないような珍しい作品を見たいという顧客の要望にこたえて開催される展示即売会で、同店のクリスマス関連のメインイヴェントに位置づけられています。 会場は伊勢丹相模原店本館6階のアートギャラリーで、連日10:00から19:00まで開かれ、最終日の24日のみ17:00終了です。 また、四谷シモンの新作版画(シルクスクリーン)も発表・販売されます。 なお、会期中の12月20日(日)には、国立近代美術館工芸課長の金子賢治さんをお迎えして、14:00から四谷シモンとのギャラリートークが開催される予定です。 【伊勢丹 相模原店】http://www.isetan.co.jp/icm2/jsp/store/sagamihara/
日英の工芸観の違い 如月 - 2009/12/20(Sun) 23:51 No.21619
伊勢丹相模原店での四谷シモンと国立近代美術館・金子賢治さんのギャラリートーク、立ち見が出るほどの盛況で、本日、ぶじ終了いたしました。 金子さんのお話のなかでは、数年前に国立近代美術館と大英博物館が協力して大英博物館で日本の工芸展を開催した際、近代美術館は日本において人形は工芸(craft)であると主張したのに対し、大英博物館が人形は工芸(craft)ではないと主張して意見が平行線になり、結局、人形の展示が行われなかったというエピソードをおもしろく拝聴しました。
シモーヌ・ヴェイユ生誕100年記念の会 投稿者:如月 投稿日:2009/11/30(Mon) 00:22 No.20082
バリトンの鎌田直純さんから12月5日(土)にカリタス女子短期大学・大教室で行われる〈シモーヌ・ヴェイユ生誕100年記念の会〉のご案内を頂きましたので、転記紹介させて頂きます。 このコンサートは、今年7月の《新作歌曲の会》で初演された、金田潮兒氏作曲の「救われたヴェネツィア」をさらに内容充実させた作品の改訂初演です。原作は、近代フランスで重要な思想家シモーヌ・ヴェイユの未完の劇作で、20世紀を代表する、いまなお現代の思想に影響の強いヴェイユの原作が、研究家稲葉延子氏の翻案台本によって音楽化されたものです。 第一部は、稲葉延子氏のシモーヌ・ヴェイユに関する講演、第二部がコンサートとなっています。またコンサートの後はフランス文化などについて自由に話ができるお茶会が予定されています。記念の会の詳細は下記のとおりです(要:事前申し込み)。 2009年12月5日(土)14:00〜16:00〈シモーヌ・ヴェイユ生誕100年記念の会〉 参加費:2,000円 第1部:講演 稲葉延子 第2部:コンサート 劇音楽「救われたヴェネツィア」 カリタス女子短期大学(東急田園都市線あざみ野駅下車) 225-0011 神奈川県横浜市青葉区あざみ野 2-29-1 TEL 045-901-5133 FAX 045-901-5066
ライプニッツのデカルト批判ーー松田毅氏『ライプニッツの認識論』から 投稿者:如月 投稿日:2009/11/29(Sun) 00:54 No.20013
ライプニッツの問題意識、当掲示板ではここまで、ロックに代表される「経験論」との違いに大きな焦点をあてていろいろと書き込みをしてきましたが、ライプニッツはデカルトの思想をも強く批判しており、デカルト批判という点でロックと共鳴している部分も多いとおもいます。つまり、ライプニッツの思想は、ロックの経験論を批判し、それにこたえるかたちでデカルトの思想を修正して擁護したというような単純なものではないのですね(それだったらマルブランシュの方が新デカルト派に近いと言えるでしょう)。まあ、その二者択一的に論じることができない点がライプニッツの思想をわかりにくくしているともいえるでしょうが。 そこで、このスレッドでは、松田毅さんの『ライプニッツの認識論 懐疑主義との対決』(創文社、2003年)から、ライプニッツのデカルト批判の要点を抜き出してみます。 * * * 「ライプニッツのデカルト方法論への批判の特徴は『デカルトの原理の一般的部分への注解』(1692年)から取り出せる。われわれの考察の主題に直結する『哲学原理』第一部の注解は、方法的懐疑に始まり、心身二元論や神の存在証明の主要論点を覆い、(延長などの)単純性質に関する議論まで論じた、まさに全面対決と呼ぶにふさわしいものであるが、その中から特に考察の鍵となる明晰判明の規則の注解の考察から始めよう。 そこでまず驚かされるのは、この余りにも有名な規則が、デカルト本人よりもよい基準を与えない限り、役に立たないと断定される点である。この規則について、当のデカルトは「明晰判明に知られたものだけに同意するなら、我々はけっして誤ることがない」としたうえで、明晰な認識の基準として「あたかも、直観している目の前に現れる物が、十分に強くはっきりと目を刺激する場合に、これを我々は明晰に見る」ように、認識が注意している精神に現前し、明示されることを挙げていた。しかし、ライプニッツはこれに満足できない。またデカルトは、判明な認識の基準としては、認識が明晰であるとともに、他のすべてのものから分離、峻別されて、自らのうちに、明晰なもの以外の何も含まないことを持ち出す。さらに続く箇所では、苦痛の感覚的認識は、幼児の場合でもきわめて明晰であるが、その原因が余すことなく明晰に知られてはいないので、必ずしも判明ではないと付け加える一方、それと対照的に、幾何学的直観の対象が、「永遠真理」の例として判明な認識対象であることを言明する。 (中略) デカルトは「明証的なものだけを真なるものとして承認し、必要な限り、問題を分割し、順序に従って進み、完全に枚挙せよ」と言うが、これだけでは実効性のある規則とするには不十分であるとライプニッツは『序説』を批判する。なぜなら、まず第一に、我々にとって明晰かつ判明なものが真であるとは限らない。また第二に、分割の規則が十分に説明されていないので、問題の全体がむしろバラバラになる可能性がある。さらに第三に、分析された要素の結合順序が十分明らかではない。最後に、すべての問題を枚挙するためには、その要素の組み合わせが妥当か否かを区別する技術が必要である。――第一点はデカルトも明らかに警戒していた。その目に映るデカルトの規則は、このように基準の十分な根拠を欠いたものであった。中でも最も基本的な第一の規則は「主観的」に見えたのである。 (中略) ライプニッツは、論証に際して、公理や命題の構成概念の定義以外の何も不当に前提としない内容の妥当性と、三段論法だけでなく、算術や代数――デカルトの「普遍数学」の理念――、訴訟の論理や蓋然性推理まで持ち出し、「形式の力」に従う論証・推理形式の妥当性を直観に対置する。前者は概念の十分な内容分析――理想的には原始概念に至るーーを要求し、後者は、すべての命題を同一性命題に帰着させることを標榜する。つまり、論証の原型は、所与の命題を構成概念の記号と同値の記号との置換により同一性命題か、その矛盾命題へと有限の手続きで還元することなのである。(中略)ここでは、認識や判断の誤りは、デカルトのように、有限な知性とそれを踏み越えようとする意志の葛藤の問題ではなく、諸規則の誤用=一種の計算間違いに他ならない。確かに方法論の根底に据えられた論理規則の形式性と客観性は理性の直観と明瞭な対照を見せていると言ってよいだろう。」(同書165-170頁)
「真理の直観の不可能性」 如月 - 2009/11/29(Sun) 01:05 No.20018
以上につきましては、三つ下のスレッド「ライプニッツのホッブス批判」のなかの「真理の直観の不可能性」という書き込みなどもご参照ください。
「モナドロジックな方法論」 如月 - 2009/11/29(Sun) 09:50 No.20037
「ライプニッツが無意識の微小表象と知覚表象や統覚ないし反省とを区別し、コギトの命題を必然真理ではなく、事実真理の第一と見なす点には注目しておかなくてはならない。デカルトではコギトの命題は、懐疑論を退け、学問の不動の基礎となる「アルキメデスの点」=必然真理であったから、この違いは決定的なのである。またこの問題は、自我や表象の哲学的心理学にとどまるものではない。ライプニッツの理想では、必然真理は、同一律ないし矛盾律を基礎に論理・数学の記号により構成される関係や構造として表現されるが、それは、記号の置換や変形操作により、よく知られた即物的な言い方で言えば、計算のように紙の上に書くことができるものである。このような論理主義的方法論の形成の動機こそが、「観念」をホッブスやロックなどに見られる個別的な心像的意味としてよりも論理的意味として把握し、心理的用語である明晰・判明な直観に代わり、論理の用語である規則に従う論証・推論の無矛盾性を、その真理基準として採用するように促したのだった。 こうして明証の論理的基準の考察は、両者の必然真理把握の相違をも露にする。つまり、必然真理はそれを否定すると矛盾が生じるという点では『原理』第一部七項のデカルトとライプニッツの間に必然性そのものの把握に違いはないが、両者は、例えば、2+2=4が必然的に真であること自体が必然的に真かどうかでは見解を異にする。これは上述の永遠真理創造説に関連し、必然真理としての「永遠真理」の論理的必然性の様相をめぐる議論と関わる。様相論理学で必然性を表す操作子として、□を用いるならば、デカルトが、◇□(2+2=4)と考えるのに対し、ライプニッツが、□□(2+2=4)とする争点である。デカルトの神は2+2=4が成立しない世界を創造し得ただろうが、ライプニッツの神はそうではない。 例えば、現代では非ユークリッド幾何学などの存在を考えると、デカルトの観点が有効に思われるが、矛盾律の場合、事態は紛糾する。ライプニッツが矛盾律と一体とした排中律の場合は、直観主義や多値論理が現実にそれを制限しても整合的体系を構成できる点を考えるなら、必然的に妥当とは言えないが、矛盾律には問題が残るだろう。(中略)問題は、デカルトでは神概念の独自性、「存在の一義性」を否認する無限性に関連するが、ライプニッツの場合は、論理の原理の正当化問題として、第13節で見るように、ピュロニズムの反駁との連関で議論され、矛盾律の必然性の否認は自己論駁以外の何ものでもないとされるだろう。 次節で見るように、ライプニッツは自然学批判の文脈では、デカルトの運動把握や幾何学主義とも呼べる自然学の理論上の問題だけでなく、公共の実験や経験重視の姿勢という方法論上の問題提起もする。それは事実真理の原理の把握、帰納法への関心に由来するが、デカルト批判の核心は一貫して変わらない。つまり、論証の基本となる論理形式にせよ、論証の内容を構成する経験科学の原理にせよ、誰もが承認できる確実なものへの分析過程ないし手続きそのものを衆人の目にさらし出し、かつその正当性を批判的論議の対象にしようとライプニッツは望むーーそれは認識の規範に関わる。方法論の議論を同一律や矛盾律から始め、概念分析の完遂を阻む人間的限界から充足根拠律を導入する際にも、その意図は正当な方法論的原理自体を批判的かつ公共的に発見し、それを互いに共有することにあったと言えるーーそれを私はモナドロジックな方法論と呼びたい。」(同書176-178頁)
世界の自律性 如月 - 2009/11/29(Sun) 11:08 No.20042
神における論理原則の必然性の問題は、神学では奇跡を認めるかどうかにかかわってきて、当時としては非常に大きな問題ですね。 これに関しライプニッツは一貫して神の力よりも神の叡智を優先させ、神は能力的には可能だとしても自分の叡智に矛盾したことは行わない、また自分が創造した世界の欠陥の認識につながる奇跡も生じさせないと主張します。 このため世界は、神がいちいち介入しなくても、論理原則や自然法則のとおりに動いていくというのが、ライプニッツの法則観、ひいては自然観ということになるとおもいます。これは17世紀においては、ライプニッツの思想の大きな特徴ではないでしょうか。 ですからこの後段の部分だけを取り上げると、ライプニッツの自然観というのは、世界の自律性を強調する18世紀の唯物論に非常に近いとも言えるのですね。
「記号のダイナミズム」 如月 - 2009/11/29(Sun) 12:05 No.20047
「モナドロジックな方法論が言語哲学的背景をもつことは以上の考察からもうかがえる。後続の議論のために、この点について少し付言しておきたい。パリ時代のノートには『原理』に関する最初の注解が含まれ、そこにも言語哲学的観点からのデカルトの直観主義への批判が見られるが、ライプニッツの眼には、人間における判明な認識を直観の用語で語ることは、僭越にも人間に不可能なことを押し付けるものと映ったに違いないことが指摘される。また記号の観点から見て、デカルトのコギトに含まれる直観する自我の存在論上の位置も相対化されるだろう。デカルトは「考えるもの」だけでなく、考えられるものの存在も第一の事実真理として言明すべきであった、とライプニッツは指摘し、自我の存在を決定的とは見なさないが、「モナド」の自我は、あくまで感覚する身体と不可分の一元的存在なのである。しかも静的で独我論的相貌の強いデカルト的自我とは対照的に、それは自己実現の欲求によって動き、自らの視点から他のモナドや「世界を表現する」相互的存在でもある。そのために、感覚的に与えられる言語や記号はモナドには不可欠の表現媒体であった。ここには意思疎通の問題が同時に提起されているが、この意味の人間=モナドは、その欲求ないしコナトゥスに応じて、時間・空間的な発展を約束されている。 したがって、ここからもう一度、方法論上の議論を見直すならば、感覚する身体を通して与えられる事実真理の原理獲得や根拠づけの問題系もモナド共同体の歴史的発展――言語や記号はそれに本質的に貢献するーーの枠組みに収めることができるはずである。モナドロジックな方法論は、モナドを反省行為により必然真理に関係させるだけでなく、同時に他者と世界とに媒介する記号のダイナミズムに根底からつき動かされているが、「仮説演繹法」など、仮説の形成と検証、蓋然性推理などまでを方法論の視野に納めると、われわれがここでベラヴァルから借りてきた「直観主義」対「形式主義」という着想の地平を超えてしまうのである。」(同書178-179頁)
Re: ライプニッツのデカルト批判ーー松田毅氏『ライプニッツの認識論』から
佐々木 寛
- 2009/12/02(Wed) 21:39 No.20346 <Home >
「このため世界は、神がいちいち介入しなくても、論理原則や自然法則のとおりに動いていくというのが、ライプニッツの法則観、ひいては自然観ということになるとおもいます。これは17世紀においては、ライプニッツの思想の大きな特徴ではないでしょうか。 ですからこの後段の部分だけを取り上げると、ライプニッツの自然観というのは、世界の自律性を強調する18世紀の唯物論に非常に近いとも言えるのですね。」(如月さんの投稿より) 直ぐ下のスレッドの投稿19411で、ライプニッツの立場は仏教の唯識に近いと述べましたが、そうだとすれば、原理的に、唯物論とは両立しません。
井上龍介氏『ライプニッツ<試論>』を読む 投稿者:如月 投稿日:2009/11/22(Sun) 16:24 No.19386
井上龍介さんの『ライプニッツ<試論>』(晃洋書房、1999年)を読み終えましたが、以下のような記述、特に興味深く読みました。 ☆ ☆ ☆ 「ライプニッツは経験の間主観的承認について、「ひとびとは自分たち自身が、互いにこの問題にかかわる重要な現象なのだ」と言う。権威および公衆の証言は経験の一致を証明する大きな力となる。私の体験した或る現象が私の生の「全経過」(tota series)と一致しているだけではまだ不十分である。同一の現象が多数の他者たちによって、「それは自分たちの現象とも整合している」と承認されるとき、私の体験は高度のリアリティを獲得するであろう。しかし、翻って見てみれば、他者たちの経験の間に成立する類同性の相互承認は、はたして形而上学的な厳格さに耐えることがらなのであろうか。それはむしろ、自然的な、あるいは、哲学的な<信仰/信念>に類することがらなのではないか。というのもライプニッツの哲学構想においては、それぞれの単純実体の、どこまでも個別的で相互に閉ざされた表象世界が、実際に相互に一致しているか否かということは、ただ神だけが知解する超越的な事実なのであるから。つまりわれわれは、形而上学的厳格さをもって言えば、それぞれが、他者なき世界という独我論的状況を生きている。そしてわれわれの手許に残された手がかりは、他者の形象を通して伝達される他者の言明という、これまた経験的な事実のみである。それどころか、<私>にとっての<他者>、すなわち、他の個体的実体が現実に存在しているのかどうか、ということの証明さえもが、この現象世界における<私>の経験に基づいて行われるしかなく、論理的循環を免れえないのだ。つまり、<彼らは存在するから存在する>と言い募るよりないのである。」(同書、60-61頁) 「デカルトにあっても、ライプニッツにおいても、現実と夢想とを区別する思弁的徴標は、感覚形象に対応する実体性が承認されうるか否か、にかかっている。しかしながら、感覚の実存をもって感覚の彼岸にあるものの存在を論証しようとすることは、この論証がどのように巧妙な思弁的迂回路を経由しようとも、所詮は僭越な企てにすぎないのではないか。それでもデカルトは、<われわれが明晰かつ判明に知覚するものはすべて真である>という、人間知性すなわち「自然の光」(lumen naturae)に対する信仰箇条を梃子にして、感覚的世界から幾何学的延長実体を隔てる扉をこじ開けようとした。他方でライプニッツは、意外にも、というべきか、現象的実在性に関する人間の知性の限界を承認する。そのために彼は、いわば道徳的確実性を精錬し、神の誠実という秘薬を施して形而上学的確実性を抽出するという、デカルト流の認識の錬金術を採用しなかった。また彼は、人間の「生」(vita)の体験について経験主義的態度を保持すること、つまり実際的で実用的な観点にとどまり続けること、を選択した。すなわち、「物体が与えられていることは、いかなる議論によっても、確実に論証されることは不可能である」。したがって、 『この生の全体が一場の夢にすぎず、可視的世界は幻影にすぎぬと言われようとも、この夢にせよ幻影にせよ、われわれが理性を正しく用いるとき、それらによって決して欺かれないのであれば、私としては、それらがじゅうぶんに実在的だと言うだろう。』 この言明は、先に指摘された知解可能性と実在性との互換的関係(等値関係)を指し示している。ライプニッツにとっては、日常生活や科学的試行の現場で、現象が整合的に理解さえすれば、形而上学的見地において現象的実在性が虚構と見なされても一向に差し支えないのである。彼には、もはやソリプシズムを怖れる理由がない。つまり現象の背後になんらかの実体性を前提しなくても、現象が知性的構造を保存しているかぎり、実地に必要なだけの現象的実在性は確保されうるのであるから。」(同書、66-67頁) 「空にかかる虹が、無数の微細な水滴を透過した光のスペクトルの合成的形象であるように、また、一般に匂いや味、熱の知覚がやはり無数の微細な知覚の集合的効果であるように、知覚者が一つの単純実体の資格で世界を観察するとき、彼は空間的形象の媒介によって変様した知覚を、すなわち現象を、自分を取り巻く現実の形姿として認識するのである。(中略)日常的な知覚の風景には無限に多数の微小知覚が含まれていると想定されるが、われわれが<それに気づく>、<それをはっきりと意識する>、というタイプの知覚は、そうした普段は見すごされているサブリミナルな表象の一群が惹き起こす、一種のプロミネンス=突出的事象、であるとは考えられないであろうか。こうした考え方は、すでにエレア派のゼノンが、一粒の籾の落下、あるいはその千分の一の籾の落下によって発生するはずの音について、有名なプロタゴラスに質問したと報告されている、その古代の記事のなかに見出されるのであるが。ともあれ、ライプニッツは色や匂いの表層的知覚を、無限に多数であるからこそ識閾に達しない、極微の形態と運動の表象へと、さらには微分的力の基層的知覚へと、還元するのである。音、味、熱、重さなどについても同様の事情にある。識別不能なほど多数で、微小で、そしてサブリミナルな知覚表象の連続的継起の過程で、記憶を介して、また知覚そのものの屈折や重層化、知覚の地層の或る種の褶曲を介して、われわれの現実的知覚は滑らかな連続性の外観をもつ可視的/可感的諸性質へと変貌する。こうして、有限な観察者から見た宇宙は、質量一般として均等にされ、量として測定可能な、物質的充満の現前――それは常に滑らかな感覚を触発しつつあるーーにほかならないであろう。この、第二次的で派生的な純然たる質量の国を支配する原理は、物質相互の強制運動と受動性とであって、物体が生命ある存在者の自発的活動を忌避しつつ自己の圏域に自足している証として、「物理―機械的法則」(les loix physico-mecaniques)が堅持されるわけである。」(同書、82-83頁)
Re: 井上龍介氏『ライプニッツ<試論>』を読む
佐々木 寛
- 2009/11/22(Sun) 19:58 No.19411 <Home >
「ライプニッツにとっては、日常生活や科学的試行の現場で、現象が整合的に理解さえすれば、形而上学的見地において現象的実在性が虚構と見なされても一向に差し支えないのである。彼には、もはやソリプシズムを怖れる理由がない。つまり現象の背後になんらかの実体性を前提しなくても、現象が知性的構造を保存しているかぎり、実地に必要なだけの現象的実在性は確保されうるのであるから。」(如月さんの引用より) これは、仏教の唯識的立場に近いと思いますね。
Re: 井上龍介氏『ライプニッツ<試論>』を読む
佐々木 寛
- 2009/12/02(Wed) 21:19 No.20345 <Home >
「物理―機械的法則」(如月さんの引用より) というより、「センスデータ(感覚与件)―論理的構造」の方が適切に思える。
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