027778
網上戯論
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3Pすげぇぇww興奮しっ 投稿者:フランケン 投稿日:2009/07/04(Sat) 10:33 No.7859  
3Pまじヤベぇwあまりの気持ちよさに何回もイってしまって俺失神してたwww
気がついたら朝で、部屋に俺しかいねぇのwwあの女どもパネぇよwww
http://krieh.com/ai/1vwn7vq/


『精神論』試訳のコピーについて 投稿者:如月 投稿日:2009/06/22(Mon) 21:53 No.7731  
日本18世紀学会大会↓に合わせ、エルヴェシウス『精神論』第一講&第二講の試訳のコピー(A4判×約150枚)を作成しましたが、部数に余裕がありますので、希望される方に1,500円(コピー代+送料)で送らせて頂きます。ご希望の方はメールで如月までご連絡ください。如月のメールアドレスは次のとおりです(@を半角に変えてください)。
simonpgm@@pj8.so-net.ne.jp


学会大会から戻りました。 投稿者:如月 投稿日:2009/06/21(Sun) 23:59 No.7725  
本日夕方、日本18世紀学会の大会から戻りました。
今回の大会では、『精神論』のことをいろいろな会員に知って頂くことを、学会参加の大きな目的としておりましたが、おかげさまで、おおむね好感をもって受け入れて頂けたようにおもいます。

また、水田洋さんと親しくお話しさせて頂いたのも私としては大きな収穫で、特に本日の昼は、学食で向かい合って弁当を食べながら、いろいろなお話しを伺うことができました。

報告と質疑応答では、王寺賢太さんと逸見龍生さんのフランス国家論をめぐるやりとりがスリリングでおもしろかったです。


試訳が完成 投稿者:如月 投稿日:2009/06/09(Tue) 21:47 No.7591  
このところ、今月の20日、21日に多摩美術大学を会場に行われる日本18世紀学会の大会をめざして、『精神論』第一講&第二講の訳の完成を急いでおりましたが、ようやくなんか訳を開通させることすができました。不明の点や見直ししなくてはいけない点はまだいろいろ残っているのですが、それも今日明日で見切りをつけないと、コピーと製本が間に合わないので、まずは現状でよしとすることにしました。とはいえ、訳註もいれて560枚ほどの分量になりましたので、手入れもほどほどにしないと、物理的にコピーが間に合わないという感じです。
まずはこれをもって大会に参加し、いろいろな方のご意見を伺ってみたいとおもっています。

なお、今回の日本18世紀学会大会の概要はこちら↓。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jsecs/information/LatestNews070509.html
共通テーマは「帝国」で、中国のゲストの発表もあるというのでとても楽しみにしています。


Le Gobien 如月 - 2009/06/09(Tue) 23:56 No.7592  

イエズス会のJobien神父という人名がどういう人かさっきまでわからなかったのですが、ふとおもいついて綴りを変えて検索しているうちに、Charles Le Gobienでヒットしました。
こういう細かい点は、わかってみるとなんともないのですが、ずっと不明だったのでうれしいですね。


初期段階のミス 如月 - 2009/06/10(Wed) 09:36 No.7594  

このJobienという人は、私が使っている近代版のテクストに二箇所でてきて、二箇所ともJobienなのですね。またいつも参照している英訳でも同じところはJobienになっているんです。
これはおそらく、エルヴェシウスが曖昧な記憶で書いて、手稿段階でLe GobienをJobienとしてしまったか、その手稿が読みにくくて、Le Gobienのことを知らない植字工がJobienとしてしまったか、いずれにしても初期段階でJobienになってしまい、その後訂正されなかったのだとおもいます。


Charles Le Gobien  - 2009/06/10(Wed) 19:12 No.7597   <Home>

南国移住徒然日記:フーラオの演説
http://cocoguam.seesaa.net/article/108130381.html

「このスピーチは、当時のフランス人神父 Charles Le Gobien によって記録されたものである。」(上記サイトより、参考までに…)


ル・ゴビアンのこと 如月 - 2009/06/10(Wed) 23:03 No.7599  

佐々木さん、どうもありがとうございます。
私が『精神論』のル・ゴビアンの項につけた註は、ほとんどウィキペディアの引き写しですが、以下のようなものです。
ル・ゴビアンは、17世紀から18世紀にかけて東洋の情報をヨーロッパに伝えたかなり重要な人物のようですね。

     *     *     *

シャルル・ル・ゴビアンはイエズス会の著作家、一六五三年〜一七〇八年。中国伝道団の代理人として珍しい資料を探し求め、『中国における宗教の進歩についての手紙(Lettres sur les progrez de la religion a la Chine)』(一六九七年)、『キリスト教を優遇する中国皇帝の勅令の話、中国人が孔子ならびに故人によせる名誉についての説明付き(Histoire de l'edit de l'empereur de la Chine en faveur de la religion chrrtienne avec un eclaircissement sur les honneurs que les Chinois rendent a Confucius et aux morts)』(一六九八年)を続けて公刊。さらに『キリスト教に新たに帰依したマリアナ諸島の話(Histoire des Isles Mariannes nouvellement converties a la religion chretienne)』(一七〇〇年)を発表した。これらの出版は、その後『教化的で珍しい手紙』シリーズ(第二講第十九章訳註6参照)として継続された。


いえいえ、どう致しまして…  - 2009/06/11(Thu) 20:37 No.7603   <Home>

「フーラオの演説」、善い演説ですが、ヴォルテールなどにも、通低する精神が有るように思えます。参考までに、『ヴォルテール 哲学書簡 哲学辞典』、中公クラシックス、83pから引用します。

「そして、どの世紀にもざらにいるあの政治家や征服者のたぐいは、普通は名の通った悪人でしかないのだ。まさにわれわれが尊敬の念を持たなければならないのは、暴力によって奴隷をつくる連中ではなく、真理の力で人びとの心を支配する人物にたいしてなのであり、また世界を醜くゆがめる者ではなく、世界をよく知る者にたいしてなのである。」(ヴォルテール)


メモ(『痴愚神礼讃』53章より) 投稿者:如月 投稿日:2009/05/29(Fri) 11:04 No.7450  
Num Deus potuerit suppositare mulierem, num Diabolum, num asinum, num cucurbitam, num silicem? Tum quemadmodum cucurbita fuerit concionatura, editura miracula, figenda cruci?


Re: メモ(『痴愚神礼讃』53章より) 如月 - 2009/05/29(Fri) 11:11 No.7451  

A ces questions aujourd'hui rebattues, les grands theologiens, les illumines comme ils disent, preferent et jugent plus dignes d'eux d'autres qui les excitent davantage : s'il y a eu un instant precis dans la generation divine; s'il y a eu plusieurs filiations dans le Christ; si l'on peut soutenir cette proposition que Dieu le Pere hait son Fils; <si Dieu aurait pu venir sous la forme d'une femme, d'un diable, d'un ane, d'une citrouille ou d'un caillou; si la citrouille aurait preche, fait des miracles, ete crucifiee.> Qu'aurait consacre saint Pierre, s'il eut celebre tandis que le corps du Christ pendait sur la croix?

もっとも、こうした問題はもう論じ尽くされましたね。大神学者たち、つまりみずから見神家と称する人々は、さらに興奮感激させられるもっと別な問題のほうが好ましいし、そのほうが自分らにふさわしいと考えております。つまり、神の創造行為には、きまった正確な瞬間があったかどうか?キリストには、いくつもの血統があったかどうか?「父なる神は、その子を憎みたもう」という命題は主張できるかどうか?<神は、女なり悪魔なり驢馬なり南瓜なり小石なりの形をとって現われ出られたものかどうか?だがもしそうだとしたら、南瓜が説教をしたり、奇跡を行ったり、十字架にかけられたりするものかどうか?>もしキリストの体が十字架にかかっているあいだに、聖ペテロがミサを誦えたとしたら、いったいなにを奉献したことになるのか?
(渡辺一夫・二宮敬氏訳、中央公論社)


Re: メモ(『精神論』原註より) 如月 - 2009/05/30(Sat) 00:38 No.7458  

Utrum Deus potuerit suppositare mulierem, vel diabolum, vel asinum, vel silicem, vel cucurbitam : et si suppositasset cucurbitam, quemadmodum fuerit concionatura, editura miracula, et quonammodo fuisset fixa cruci.


『ヘロドトスのための弁明』 如月 - 2009/05/31(Sun) 08:57 No.7489  

『精神論』第二講第十九章の原註Dに、ラテン語でアンリ・エティエンヌの『ヘロドトスのための弁明(Apologia pro Herodoto)』(1566年)からの引用が載っていたのですが↑、グーグルとウィキペディアの検索機能をいろいろつかって、これはエラスムス『痴愚神礼讃』(1511年)をほぼそのまま流用したものだとわかりました。グーグル、ウィキはほんとうに便利ですね。同じくウィキによれば、アンリ・エティエンヌは16世紀の出版業者で、『ヘロドトスのための弁明』は、ラテン語訳のヘロドトス作品集を刊行する際に、その序文としてつけられたものということだそうです。


『精神論』の文脈 如月 - 2009/05/31(Sun) 09:02 No.7490  

アンリ・エティエンヌ(エラスムス)の文章が、『精神論』のなかでどのように使われているかというと、以下のような感じです。

     *   *   *

「無知な世紀の単純さのなかで、対象は、啓発された世紀にひとがそれらを考察する側面とは非常に異なった側面で現れる。われわれの先祖には教訓的だった情念の悲劇が、現在、われわれには醜聞に満ちたものにおもわれる。無知な世紀にひとが神学の学校で取り扱ったほとんどすべての微細な疑問点もこれと同じであろう。今日、規定どおりの論争以上に下品におもわれるものは何もないであろう。すなわち、聖餅(ホスティア)において神は着衣であるか裸であるか、もし神が全能ならば彼は罪を犯す能力をもつか、神は女性、悪魔、ろば、岩、かぼちゃの性質をもちえたか、またさらに突飛な無数の疑問点である(原註D)。」


エラスムス(1466-1536)の後…  - 2009/06/07(Sun) 00:02 No.7558   <Home>

ベーコン(1561-1626)について、ヴォルテール(1694-1778)が、高く評価している部分が有ります。参考までに、以下に引用します。

「…彼らの言う「本質」とか「真空への恐怖」とか「実体的形相」とか、無知であるためにありがたがってしまっただけでなく、宗教とのばかげた結びつきが神聖なものであるかのようにしてしまったわけのわからないさまざさまの言葉によって、人間の理性をだめにし続けないようにと、彼は自分の手に及ぶあらゆることを行った」(『ヴォルテール 哲学書簡 哲学辞典』、中公クラシックス、86pより)

いわゆる神学(スコラ的なもの)に対する批判ですね。


第二講が開通 投稿者:如月 投稿日:2009/05/26(Tue) 09:42 No.7370  
たった今『精神論』第二講の本文の訳が開通しました。まだ原註の訳と訳文の見直しが少し残っているのですが、目標としている六月初めにはなんとか第二講を訳了させることができそうです。


四谷シモンが美術解剖学会で講演 投稿者:如月 投稿日:2009/04/30(Thu) 07:27 No.6970  
7月18日(土)、東京芸術大学を会場に開催される美術解剖学会第16回大会で、四谷シモンが『人形は人形だ』(仮題)という内容の講演を行うことになりました。
同大会の詳細は次のページをご参照ください↓。
http://www.geidai.ac.jp/soc/saa/event.html
講演会は同学会会員外の方も聴講可能です(大会参加費3,000円)。
同大会についての問い合わせ、参加申し込みは、直接美術解剖学会へお願い致します。


『美女の骨格』 如月 - 2009/05/26(Tue) 17:52 No.7376  

七月に四谷シモンが講演を行う予定の美術解剖学会の理事・宮永美知代さん(東京芸術大学助教)が、このほど青春出版社から『美女の骨格 名画に隠された秘密』という本を出されました。この本を推薦している養老猛司さんによれば、「人間の真の美しさは、骨格にあるのだろうか。だから解剖学は面白い」とのことで、美術解剖学のわかりやすい入門書になっています。美術と解剖学がどのように繋がっているのか興味のある方はぜひ。


メモ 投稿者:如月 投稿日:2009/04/28(Tue) 00:30 No.6936  
XVMT. dens &icirc; & on conclut &agrave; la manutention des R&eacute;colets dans I.fttrk. ies &eacute;glifes dont M. le Vifiteur les a exclus : apr&egrave;s quoi on L*Q*Arti~tomoe fur 1e c°rps de M. Favre qu'on dit avoir jou&eacute; plu- c&icirc;e- ataqtu fleurs r&ocirc;les incompatibles dans cette trag&eacute;die de la Cochin- it Prov&icirc;/t- chine ; de Suifle de nation , de Protonotaire Apoftolique, tafr* de Secr&eacute;taire de la Vifite , & de Provifiteur ( l'incompatibilit&eacute; eft admirable.) Enfin de Procureur des Mifl&iuml;ons &eacute;trang&egrave;res de Paris en Cour de Rome , o&ugrave; il fe troure pr&eacute;fen- tement , & del&agrave; on tire deux concluf&icirc;ons contre lui , la premi&egrave;re que les Actes de la Vifite qu'il a remis &agrave; la Propagande foient d&eacute;clar&eacute;s de nulle autorit&eacute; , la f&eacute;conde qu'ayant condamn&eacute; un livre du P&egrave;re Philipe, il foit lui - m&ecirc;me condamn&eacute; par les loix &c.

R&eacute;poufe &agrave; On a r&eacute;pondu &agrave; ces &eacute;crits , que les Actes de la Vifite eet Article, &eacute;toient en due & bonne forme, re&ccedil;us & reconnus pour vrais par la Propagande ; & que fi le P&egrave;re Molina n'&eacute;toit pas content de la condamnation du livre du P&egrave;re Philipe , il n'avoit qu'&agrave; le produire <S&ccedil; le faire examiner, que M. Favre s'en tiendroit volontiers au jugement qu'on en porte- roit &agrave; Rome.

Ce livre eft intitul&eacute; Injb-ti&iuml;&iuml;ion fur les Sacrenmis } mais il n>a rjen de bon que le titre ; car tout le refte eft un ramas d'abfurdit&eacute;s & d'hiftoires ridicules , plus propres &agrave; faire du Livre, douter des mift&egrave;res de notre Religion qu'&agrave; inftruire les N&eacute;ophites , foit que cela provienne du peu de lumi&egrave;re de l'auteur, ou qu'il n'eft point en &eacute;tat d'&eacute;crire en langue Co- chinchine , foit qu'il n'eft point th&eacute;ologien ou qu'il a eu en vue de foutenir la faufle doctrine de M. Alexandre fur la reb&acirc;tifation &c.

Pour prouver l'excellence du Bat&ecirc;me, il raconte que plu- J&icirc;surs Docteurs nous ont apris, qtf autrefois dans le Royaume d'Arm&eacute;nie , il y eut un Roi qui avait beaucoup de haine contre les cln-&eacute;- tiens : c'ejl pourquoi il perf&eacute;cuta. lu Religion dans tous les lieux, &pound;wu mani&egrave;re bien cruelle , // nt&eacute;vitoit que Dieu teut alors ptaii, cepadant Dieu hifi&ugrave;mait bon qui ouvrit le cxur &agrave; St. foui foto- l&eacute; le convertir lorfqidl perf&eacute;cutoit les chr&eacute;tiens , ouvrit aulj&icirc; le cxur XVII f. &agrave; ce Roi pour qu'il connut la fainte Religion. AinQ il arriva que Le iras. le Roi tenant confeil dans le Palais avec les Mandarins pour &acirc;&eacute;ll- J?'4/- , b&eacute;rer du moyen d'abolir enti&egrave;rement la Religion dans le Royaume j /&#8222; pointe le Roi & les Mandarins fitrent aujfit&ocirc;t tous chang&eacute;s en cochons ; de la con- tout le monde acourut au cris de ces cochons , fans favoir quelle damnation pouvait &ecirc;tre la caufe d'une chofe aujf&icirc; extraordinaire ; alors il y Ltvre- eut un chr&eacute;tif7i nomm&eacute; Gr&eacute;goire qui avait &eacute;t&eacute; mis &agrave; la. quejlion le jorir de devant qui acourut au bruit , &pound;=? qui reprocha au Roi fa cruaut&eacute; envers la Religion : au difcours que ]tt Gr&eacute;goire les cochons s'arr&ecirc;t&egrave;rent , & f&ecirc;tant tus , ils lev&egrave;rent le mufeau en haut pour &eacute;couter Gr&eacute;goire, lequel interrogea tous ces cochons en ces termes, d&eacute;formais &ecirc;tes-vous r&eacute;foliis de -vous corriger ? A cette demande tous les codions frent un coup de t&ecirc;te comme s'ils avaient dit ot&ugrave; : Gr&eacute;goire reprit ainfi la Parole, fi vous &ecirc;tes r&eacute;foln de vous corriger , fi vous vous repentez de vos p&eacute;ch&eacute;s & que vous vouliez &ecirc;tre b/i- tif&eacute;s pour obferver la Religion parfaitement , le Seigneur vous regardera dans fa mif&eacute;ricorde $ fmon vous ferez malheureux dans ce inonde & dans l'autre. Tous les cochons fraperent de la t&ecirc;te , &#8222;.&laquo; . frent la r&eacute;v&eacute;rence & cri&egrave;rent comme s'ils avoietiti voulu dire yfils rlAkides le defiroient ainfi tr&egrave;s-fort} Gr&eacute;goire voyant les cochons hwnbles raportcet de cette forte prit de feau & batifa toits ces cochons, & il a*-- ^MS ce riva fur le champ im grand miracle , car &agrave; tnefure qu'il batifoit lvre' chaque cochon., aujfit&egrave;t il fe changeait en perfomie plus belle qu'auparavant.


さらばBMG 投稿者:如月 投稿日:2009/03/23(Mon) 20:29 No.6690  
先日タワーレコードに行ったら、BMGさよならセールとかいうのを開催していて、BMG(RCAやHMレーベル)の音楽ソフトの販売権がソニーに代わるというので、既存の音源はどうなるのだろうとちょっとびっくりしています。ただ考えてみると、RCAレーベルには私の気になる演奏家があまりいないのですね。CBS(旧コロンビア、現ソニー)には好きな演奏家が多いのですけれど。例えば指揮者でいうと、ワルター、セル、バーンスタインというCBS系は好きだけれど、トスカニーニ、ライナーというRCA系は今ひとつ。
タワーレコードのセールでは、ヴァントのブラームス交響曲全集が\1,200と安かったので購入しました。この人のブルックナーやベートーヴェンも廃盤なんでしょうか?まあ、典型的ドイツ人ヴァントがRCAと組んだというのも不思議な感じですが、彼はDGやEMIが好きじゃなかったのですね(だからずっとメジャーになれなかったのだろうけれど)。
で、今はミュンシュのベルリオーズを聴いています。この人の\1,000シリーズもっと欲しかったのですが、こちらも全部廃盤なんでしょうか?


大きな影響なし? 如月 - 2009/04/18(Sat) 14:56 No.6879  

このあいだタワーレコードに行ったところ、3月とほぼ同じ内容のBMGさよならセールを継続してました。
日本での発売権が移動しても、当面は企画等に大きな影響なしということのようですね。


Re: さらばBMG  - 2009/07/03(Fri) 13:28 No.7846   <Home>

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エコール・ド・シモン人形展 投稿者:如月 投稿日:2009/03/16(Mon) 23:14 No.6446  
われらは人形で人形使いは天さ。
それは比喩ではなくて現実なんだ。
この席で一くさり演技をすませば、
一つずつ無の手箱に入れられるのさ。
  オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』(小川亮作訳、岩波文庫)より

毎年三月恒例の「エコール・ド・シモン人形展」が3月24日(火)まで、新宿の紀伊國屋画廊で開催中です。四谷シモンは「少年の人形」など3点の新作を発表しています。
新宿にお出かけの際はぜひ紀伊國屋画廊にお立ち寄り下さい。

【紀伊國屋画廊】
新宿区新宿3-17-7 紀伊國屋書店4階
TEL=03-3354-7401


サイトの紹介です(参考までに) 投稿者: 投稿日:2009/03/05(Thu) 20:05 No.6153   <Home>
ゾロアスター教の聖典を初訳したフランス人 その@
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/289654a5a9d4978bfdd5979402b5f1c2
ゾロアスター教の聖典を初訳したフランス人 そのA
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/bc31d3f8f441ac7879a3108b0ba7b511
ゾロアスター教の聖典を初訳したフランス人 そのB
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/7f50bff655a196935625d98eb7928d61
ゾロアスター教の聖典を初訳したフランス人 そのC
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/5ca73928810d1eea079fcd266f37972f
ゾロアスター教の聖典を初訳したフランス人 そのD
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/11bade50c550d35d9a1e5e09d7644318


ありがとうございます、情報確認しました。 如月 - 2009/03/05(Thu) 23:02 No.6155  

佐々木さん、ありがとうございます。
Abraham Hyacinthe Anquetil-Duperronですね。
ウィキペディアで情報確認致しました。
それにしてもこの人の名前はちょっと変わってますね。
Abrahamということはユダヤ系でしょうか?だいいちこの「Abraham」を仏語でどう読んだらいいかわかりません。
で、次の「Hyacinthe」は、ヒアキュントスですから、普通にはちょっと考えられない命名ですね。


いえいえ、こちらこそ  - 2009/03/07(Sat) 00:46 No.6159   <Home>

如月さんからは、後藤末雄の『中国思想のフランス西漸』などの有益な書籍を、紹介して頂いていますので、こちらこそ、有り難く思っております。洋の東西の、思想・哲学的交流は、普通、思われているより、はるかに古いのかも知れません。

最近、見つけた、河内保二さんのサイトから、もう一つ、参考までに引用(下記URL参照のこと)。
http://kawauchi.la.coocan.jp/bukyoeikyo.htm

「…ギリシア人のミリンダ(メナンドロス)王は、紀元前2世紀の後半、この西北インドを支配した。王であるとともに偉大な哲人であった彼は次々とイャhの哲学者を論破していく。仏教の思想を論破するため当時の仏教教団の指導者の一人であったナーガセーナ長老と対論を始めた。ナーガセーナ長老はインドの仏教界の中で唯一ミリンダ王と対論することが可能であるだろうと思われるインド随一の哲人であった。」

「長時間にわたりナーガセーナ長老と対論を交わしたミリンダ王は、その後仏教徒になった。」

それから、ご存じかも知れませんが、『ウィキペディア(Wikipedia)』の他に、『Yahoo!百科事典』も、無料で利用できます(下記URL参照)。
http://100.yahoo.co.jp/

最後に、仏語の件は、不勉強なもので、お役に立てず残念です。


世間では・・ 投稿者:Me Muero 投稿日:2009/02/26(Thu) 18:15 No.6106  
映画「おくりびと」なんて観てないでしょうね如月さんは
如月さんの生地がたくさん映っているようですが


de profundis 如月 - 2009/02/26(Thu) 18:42 No.6107  

む、む、そうなんです。映画『おくりびと』の舞台設定が山形県酒田市ときいて、ものすごく観てみたいとおもっていたところでした(笑)。


生コメ 如月 - 2009/02/27(Fri) 08:42 No.6110  

昨日、たまたまNHKを観てたら、中沢新一さんが『おくりびと』について生でコメントしてましたけど、いつもの中沢さんより微妙にテンションが高かったような気がします。


クロースアップ現代 Me Muero - 2009/02/28(Sat) 00:21 No.6118  

中沢先生の御話は難しくて理解できませんでした(笑)
中沢氏は羽黒山の修験道の歴史についての著作もあるようですね


縄文時代から通底する思想 如月 - 2009/03/16(Mon) 23:18 No.6447  

去年、四谷で開催された多摩美のシンポジウムには羽黒山の山伏もいらしてました。
中沢さんがテレビで語られたことは、縄文式土器と岡本太郎をテーマにしたこのシンポの基調講演とだいたい同じ内容と感じました。


Re: 世間では・・  - 2009/07/03(Fri) 09:03 No.7840   <Home>

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今度はルーミー 投稿者:如月 投稿日:2009/02/25(Wed) 09:43 No.6067  
サァディー(1210頃-1292頃)の『ゴレスターン(薔薇園)』に続いて、ルーミー(1207-73)の『語録』(井筒俊彦訳)を読みはじめました。ルーミー、サァディーといったペルシアの大詩人が、ほぼ同じ時代に出現するというのは、非常に興味深い現象ですね。

ちなみに、ルーミーというのは「ローマ」のことで、イスラーム世界へのモンゴル襲来を避けて、ルーミーが小アジアのセルジューク・トルコに庇護を求めたため、東ローマ圏で活動したということでこの呼び名(ローマの人)があるようです。
井筒さんの解説は、ルーミーの文体を暗に道元(1200-1253)と比較しているようにおもわれるのですが、ルーミー自体は晩年に踊る宗教の始祖となったとのことで、一遍(1239-89)とも似てますね。


談話・其の39 如月 - 2009/02/26(Thu) 18:47 No.6108  

井筒さんが訳された『ルーミー語録』の一端(談話・其の39)は、「伊斯蘭文化のホームページ」サイト↓で読むことができます。

http://www2.dokidoki.ne.jp/racket/rumi_gor.html


人間行為の責任の所在 如月 - 2009/02/27(Fri) 20:34 No.6115  

『ルーミー語録』(井筒俊彦著作集第11巻、中央公論社、1993年、)のなかに、行為の創造者(責任の所在)についてのおもしろい談話がありましたので、抜き出しておきます。

「ムータズィラの神学者たち(合理主義的神学の一派)は、行為の創造者は人間だと主張する(イスラーム神学の有名なテーゼ。人間の行為については人間自身が責任を取るべきであって、神の創造に帰すべきではない。人間の行為を神が創造するものとすると、人間のなす一切の悪業が神の責任になってしまうという考え)。つまり、人間がどんなことをしても、その行為の創造者は人間自身である、という。この考えは間違っている。なぜかというに、およそ人間から出てくる行為は、人間に備わった道具、すなわち理性とか精神とか能力とか四肢とか、を通じて間接的になされるものであるか、あるいはまた全然道具なしに直接なされるものか、いずれか一方でなければならない。もし道具を使ってなされるものであれば、人間は行為の創造者ではあり得ない。なぜなら、それらの道具を一つにまとめることは人間のよくなし得ることではないからである。だから、自分ではどうにもできない道具の働きを借りなければできないような行為に対して人間が創造者である道理がない。さればといって、全然そんな道具を使わずに行為の創造者となることももちろんできない。道具がなければどんな行為も出てくるはずがないことは明らかだからである。とすれば、人間の行為の創造者は、どこから見ても神であって人間ではないと結論せざるを得ない。
 善にせよ悪にせよ、およそ何らかの行為が人間から出てくる場合、人間が意図的に、ちゃんと目的を意識してそれをするということは確かである。だがしかし、その行為に一体なんの意味があるのかということは、人間が、自分で意識している程度のものではない。その行為をすることにどんな意味があり、自分にとってどれほどの価値と効果があるのかーーその効果といえば、たかだかその行為が自分から出てきたという程度のことにすぎない。ところが、その行為の全体的な効用、つまりそこから本当にどんな結果が生じてくるであろうかということは、ただ神のみが知り給う。」(『ルーミー語録』其の54、上掲書352-3頁)


人間と自由意志 如月 - 2009/03/01(Sun) 19:47 No.6124  

続いて、自由意志について。

「誰かが質問した。「神が『わしは今から地上にわが経綸の代表者(アダムを指す)を設置しようと思う』と告げ給うた時、天使らは『地上に悪を働き、流血の災いを惹き起すような者を汝はわざわざ作り給うのか。我らがこうして汝の讃美を声高らかに唱え、汝を聖なるかな聖なるかなと讃えまつっておりますのに』と抗議した(コーラン2章28節)と申します。またアダムが出現してもいないあの時、天使らは、アダムの子孫が地上に悪を働き、流血の災いを惹き起すであろうと、どうやって事前に判断できたのでございましょうか」と。
 師は答えて言われた。
 この問題については、二つの違った説明の仕方が提出されている。一つは伝承的説明、他は理論的説明。
 伝承的説明によれば、天使たちは神のもとにある予定帳を読んで、或る一群のものどもがやがて世に現われて、これこれのことをするだろうということを知り、それでああ言ったのだ、という。
 もう一つの説明によると、天使たちは理性を働かせて次のごとき推理を行った、と考える。すなわち、今言ったものどもは地から生じてくる。とすれば、必ず動物でなければならない。動物であるからには、どうしてもこういうことにならざるを得ない。いかに内面にかのものを持っているにしても、つまり言葉(前の談話で問題となった内的言語、すなわちロゴス、知性)を持っているにしても、とにかく動物性を有する限りにおいて、悪をなし血を流すことは避けがたい。これは人間性に必然的に付随する属性なのだから。と、こういう考え方である。
 しかし、これとは全然別の説き方をする人々もある。それによると、そもそも天使とは純粋知性であり純粋善であるが、いかなることをするにせよ全く自由意志なるものを持たない。ちょうどお前がたの夢の中で何かする場合、自由意志を持たないのと同じようなものだ。自由意志ですることではないから、何をしても非難されることもない。夢の中で神はないと言い張ろうが、神は絶対に唯一だと主張しようが、姦通しようが、他人に非難されることはない。目覚めている時の天使のあり方は正にその通りである。
 ところが人間はこれと反対だ。自由意志というものがある。貪心があり欲念がある。そこで一切のものを己れのために意欲する。全てを我がものにしようとして、平気で血を流す。これが動物性というものだ。この点で天使のあり方は人間のあり方の正反対である。
 だから天使らがあんなことを言ったと(コーランが)伝えているのは正しいのである。」(『ルーミー語録』〜談話其の55、上掲書357-8頁)


Re: 今度はルーミー  - 2009/07/03(Fri) 17:58 No.7853   <Home>

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悪の枝あるいは悪の系譜 投稿者:後鳥羽院 投稿日:2009/02/08(Sun) 12:46 No.5929  
http://www.chuko.co.jp/new/2009/01/101981.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5
マルブランシュの本が出たのですね。


薔薇の園より悪い枝へ 如月 - 2009/02/08(Sun) 23:01 No.5931  

情報ありがとうございます。さっそく書店に行ってみます。
当方、エルヴェシウスが『精神論』で引用しているので、後嵯峨院(1220-1272)とほぼ同時代人であるペルシアの詩人サァディー(1210頃-1292頃)の『ゴレスターン(薔薇園)』(正嘉二年頃)を読んでいたため、マルブランシュの本が出ていたことも全然きづきませんでした。
『ゴレスターン』は、時代的にみて『徒然草』みたいな作品かとおもってたら、むしろ『今昔物語』のような感じですね。


神の肌あるいは宇宙の皮膚 後鳥羽院 - 2009/02/12(Thu) 20:40 No.5942  

『ものはなぜ見えるのか』は、購入したものの、最近は、
こういう本が読みづらくなりました。
すべてはわかっている、とも言えるし、なにもわかって
いない、ともいえる・・・。
etendueですが、オーストラリアの山林火災の記事
で、s'etendreという表現が使われていました。

ニコラ・マルブランシュは1638年に生まれ、1715年に没し
た。フランス絶対王政の頂点、ルイ十四世と生没年を同じく
する。絶対王政が、没落していく旧勢力と、勃興してくる
新勢力の均衡の上になりたつ政治体制であるとする教科書
的説明を受け入れるならば、まさしくマルブランシュ哲学
は、思想上の絶対王政と呼ぶに相応しいかもしれない。(206頁)

面白い現象ですね。


空間の謎・時間の謎 如月 - 2009/03/23(Mon) 01:23 No.6685  

17世紀から18世紀にかけての哲学論争をテーマにした本ということになると、少し以前(2006年)刊ですが、ライプニッツとニュートン(クラーク)の論争を主題にした内井惣七さんの『空間の謎・時間の謎』(中公新書)もありますね。
ところで、ウィキの日本版でライプニッツやマールブランシュの項を引くと、昔情報が何もなかったころに私が投稿した文章がそのまま残っていて、ちょっと冷や汗ものですね。


Re: 悪の枝あるいは悪の系譜  - 2009/07/03(Fri) 15:43 No.7850   <Home>

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ルソーとエルヴェシウスの「自尊心」 投稿者:如月 投稿日:2009/01/27(Tue) 23:47 No.5902  
山本周次さんの『ルソーの政治思想ーーコスモロジーへの旅』のなかに、ルソーとエルヴェシウスにおける「自己愛」ならびに「自尊心」についての考え方(用語)の違いの分析がありましたので、それにもとづき、『精神論』第一講第4章に註を追加しました↓。
http://www.furugosho.com/precurseurs/helvetius/esprit1-4.htm
また、これと比較しやすいように、ルソー『人間不平等起源論』(抜き書き)のページを増補しました↓。
http://www.furugosho.com/precurseurs/rousseau/inegalite.htm

要点を簡単にまとめておくと、『人間不平等起源論』において、ルソーは「amour-propre」と「amoure de soi-meme」を明確に区別すべきことを述べ、「amour-propre」は「自尊心」、「amoure de soi-meme」は「自己愛」とするのですが、エルヴェシウスは 「amour propre」と「amoure de soi」は同義で、どちらも一種の「自己愛」だとするのですね。
このことをすこし考えてみたのですが、エルヴェシウスは「orgueil」を「自尊心」に相当するものと考えているので、「自己愛」と「自尊心」を区分しているのはルソーもエルヴェシウスも同じで、これは用語の違いではないかというとりあえずの結論に至りました。「orgeuil」に関していうと、フランス語の「orgeuil」は、「傲慢さ」と「自尊心」の両義がありますが、ルソーはこれを「傲慢さ」と狭くとらえているのに対し、エルヴェシウスは「他者を意識した称賛への愛」(『精神論』第三講第13章)ともっと広くとらえているのですね。
ちなみに『精神論』の英訳では、「orgeuil」は「pride」と置き換えられています。


自由の捉え方の相違 如月 - 2009/01/28(Wed) 00:10 No.5903  

なお、『人間不平等起源論』のなかで、ルソーは「人間は自由な行為者」であるとしていますが、エルヴェシウスは基本的に人間の自由意志を認めませんから、「自己愛」と「自尊心」の区分より、こちらの方が二人の考えの大きな違いだとおもいます。
つまり、一見自由に見える人間の行為も、詳しく探ってみればなんらかの原因があってそれに規定されているのだから、人間はけして自由とはいえないというのがエルヴェシウスの考えですね。そしてこの決定論を擁護するため、エルヴェシウスは未だ知られていない原因や潜在的な原因に言及することになるのですが、ここまでいくと、これはもはや「経験論」とは言えないだろうと私はおもっています。
ただ、こうした議論のすすめ方は、ライプニッツとわりとよく似ていて、それぞれ独自にロックの『人間知性論』を突き詰めていった先で、二人とも微小知覚のような問題に突き当たったのかなともおもっています。
そもそも、モナドロジーの認識論は、物体、動物、人間の認識に本質的違いを設けないところで、エルヴェシウス的な唯物論による認識論と非常に近いところがありますね。どちらも原子論的なレベルで認識をとらえていると言ったらいいでしょうか。


Re: ルソーとエルヴェシウスの「自尊心」 いっちゃん - 2009/01/29(Thu) 09:04 No.5907   <Home>

如月さんこんにちは。


このスレッドの如月さんの書き込みをきちんと咀嚼できていないのですが(じっくり読んで理解したいとは思っています)、ちょいとご報告を。

昨日梅本克己を読んだのですが(時代錯誤もはなはなだしい?)、梅本がエルヴェシウスについて言及していたので、拙ブログにてその部分引用して紹介しています。
http://d.hatena.ne.jp/icchan0000/

梅本のエルヴェシウス理解と、如月さんのこの書き込みとの間には、ちょいと距離があるように思えるのですが、それがどういう点なのかなーと考えたいのですが、ちょいとドタバタしてまして考えがまとまりません。

取り急ぎご報告だけでもと思いまして。まぁご参考にはならんとは思いますが、一応ね。


自由と選択、そして理性 如月 - 2009/01/30(Fri) 09:35 No.5910  

いっちゃん、書き込みありがとうございます。いっちゃんに教えていただくまで、私は梅本克己(1912年生)という思想家を、その名前すら知りませんでした。梅本と比較されている丸山真男(1914年生)の思想も私は不勉強ですので、このあたりなんともコメントできないのですが、私の守備範囲から彼に近い世代の研究者をあげると石母田正(1912年生)、家永三郎(1913年生)ということになりますね。私には、石母田、家永ともに、マルクス主義の立場から親鸞や浄土思想を評価しているようにおもわれますので、全体の構図はなんとなくそれでおさえておくということにして、梅本は、そのなかから「主体性」の問題をクローズ・アップさせてきたということでしょうか。

さて、いっちゃんのブログの記事に対する基本的な考えは、ブログの方に書かせていただきましたので、ここでは少し方向を変えて書いてみます。

いっちゃんが梅本克己に言及しているとして挙げていた4サイトにちらちらとアクセスしてみましたが、ここでは、そのなかから『ララビアータ』の記事「回帰する問い」↓を取り上げてみます。というのは、私は『ララビアータ』ブログの執筆者・田島正樹さんの著作『スピノザという暗号』(青弓社)を既に読んでおり、それは非常におもしろいスピノザ論だったということを、ブログにアクセスしてみて気づいたからです。
http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/50444598.html

まずは田島さんの記事の引用。
「ある世代が命がけで提起する問題というものがある。だがそれも、その世代で解決されるとは限らない。(中略)「戦後主体性論争」というものも、そうしたものの一つではないだろうか?「主体性論争」と言っても今ではわかる人は少ないが、五十年代に梅本克己、丸山真男、武谷三男などを巻き込んで争われた、主としてマルクス主義内部の論争である。一方で、自然史的必然とされた共産主義革命が、他方では、個々人に自由な決断を迫る倫理的価値を持つことはいかにして可能か、という梅本克己の問題提起は、「正統的マルクス主義者」には大きな反撥をかったものである。(中略)それは、一方ではイデオロギーや意識を、社会的・経済的存在(下部構造)に基礎づけ得るとする唯物史観とどこか抵触するものをはらんでいたし、また他方では、近世哲学以来の難問、自由意志論や心身問題とも連関する奥行きを持っていた。」(田島氏)
「やがて解決は思わぬ所からやってきた。まず、「何ゆえ何ものかが存在し、無ではないのか?」というライプニッツの問いを考えていたとき、自由は選択の問題ではなく、創造の問題だという観念がやってきた。そこから、この有名な問いが自由をめぐる問いであることに気づいたのである。もし自由が選択の問題ならば、理性的であればあるほど、どちらかより良い方を選択せざるを得ず、より自由ではなくなってしまうだろう。自由を、可能性そのものの創造と考えて初めて、この難問は解ける。」(田島氏)

さて、田島さんの解決とは異なりますが、次のような問いをたてるとき、エルヴェシウスも前提としてライプニッツと似たようなことを考えていたのではないでしょうか。
「ひとは言うであろう。ひとは、幸福を知覚するあらゆるところにそれを追求するのが必然ではないだろうか、すくなくともわれわれを幸福にするためにもちいる手段の選択に関して、われわれは自由ではないだろうかと。然り、と私はこたえる。しかしそうすると、「自由」は「啓発(eclaire)」の同義語にほかならず、ひとはこの二つの概念を混同しているだけでしかない。ある人間が訴訟手続きや判例を知っている度合いに応じて、彼は、多少とも有能な弁護士によってその訴訟を導かれるであろう。その弁護士はより良い側あるいはさほど良くない側につくであろう。しかしいずれの側につくとしても、幸福への欲望は、彼の利害、趣味、情念、そして結局は彼が幸福とみなしているものにもっともかなっているとおもわれる側を選択することをつねに強制するであろう。」(『精神論』第一講第4章)
この問題に対するエルヴェシウスのこたえは、個々の主体には自由意志は存しないが、複数の主体が同時に動くとき、(それを第三者的に観ると)結果的にそこに自由(偶然)が生じるというものだとおもいます。このこたえが正当かどうか、今きちんと考える余裕がないのですが、少なくともこうした問いは、人間の主体性や自由意志を認める立場からは出てきようがないのではないでしょうか。つまり、エルヴェシウスは、「自由が理性ののっぺりとした体系から自然に流出するものとして、すんなり説明がつく」とは考えていないとおもいます。そのあたりを、『精神論』で執拗に追求しているのですね。

これを信仰の問題に転じたらエルヴェシウスはおこるかもしれないけれど(笑)、自分で信仰を選ぶことはできない。信仰というものがあるとすると、それは彼方からやってくる。そう考えればこの問題は親鸞にも繋がってくる(ーーちょっと、強引かな?)。
ところで、私は、梅本の同世代である石母田や家永の親鸞理解に疑問をもっていますが、それは、二人の主張が、(法然や親鸞に触発されて)武士たちが自分たちのイデオロギーとして「主体的に」浄土信仰を選択したように読めるからなのですね。そうではなくて、浄土信仰というのは、本質的には阿弥陀の側からの働き掛けによって、それを選ぶようにと有無を言わさず強制されるものなのではないか。だから、法然にしても親鸞にしても、自分が浄土信仰に入ることができたのは「有り難いこと」と捉えていたのではないか。とすれば、これはそもそも人間が布教することはできないとおもいます。

と、このあたりまで考えてくると、田島さんが上記の文章に続けて出してくる事例がものすごく腑に落ちるのですね。というのは、この先で田島さんは、アダムの原罪とか、アル・カイーダの自爆テロとか、イサクの犠牲とか、通常の考えられる「理性」をもっては肯定できない(選択できない)難題ばかりだしてくる。そこで、なぜ彼がそういう事例を持ち出すのかをさらに考えていくと、結局、ぎりぎりの瞬間に、一般的な理性観をもってしては肯定できない行為の遂行を決断せざるを得ないときに自由が発現すると田島さんは考えているのではないでしょうか。そしてそれが、「可能的経験を超出することによって、理性を組み直し、結果的に再びそれを可能的経験の中へと回収するダイナミズム」が自由なのだという彼の言葉の意味ではないでしょうか。

これは、「(君が何か行為をしようとするときには、)君の意志の格率が、常に同時に、普遍的な法則定立の原理として妥当しうるように行為しなさい」という命題を倫理の根本法則とする思想とは、まったく異なる方向の考え方ではないかというあたりまでが、今の私の読みです。

梅本克己の問題からは、おそらく完全にそれてしまったかもしれませんね。


Re: ルソーとエルヴェシウスの「自尊心」 いっちゃん - 2009/01/30(Fri) 12:37 No.5911   <Home>

如月さん、拙ブログへのコメントとこちらでのご説明、ありがとうございます。

ちょっと一度や二度読んだだけではボクの能力では理解できないので(^^;じっくり考えてまたお話させてもらいたいと思います。

拙ブログのほうもコメントのお返事はしばらく考えた後、とさせてください。

というのもちょっとドタバタした日々が続いていて精神的な余裕を欠いておりまして・・(^^;

すいません。またきます。取り急ぎ御礼をば。


ごゆるりと(笑) 如月 - 2009/01/30(Fri) 23:04 No.5913  

あんまり難しいRESをつけられると、私も困っちゃいますから、ごゆっくりどうぞ(なるべくこたえやすいものをね!)。
さて私の方はその間、『精神論』第二講第4章の原註を訳していることにします。


Re: ルソーとエルヴェシウスの「自尊心」 いっちゃん - 2009/02/20(Fri) 01:19 No.6024   <Home>

何度か如月さんの一連の書き込みを読み返しました。

そして得た結論は、何かコメントを言うには、ボクの知識と理解力は貧弱すぎるということでした(笑)


なので、少しだけ、自分自身の書き込みに関する補足をさせてください。

>梅本のエルヴェシウス理解と、如月さんのこの書き込みとの間には、ちょいと距離があるように思える

この「距離感」の直接の原因は、梅本が「人間を「物質の奴隷にした」唯物論者たちが、もっとも勇敢に人間の自由のために闘ってきた」と言っているのに対し、如月さんが「エルヴェシウスは基本的に人間の自由意志を認めません」と書いているところでした。

「人間の自由」と「人間の自由意志」、これを混同していたようです。


では、梅本の言う「人間の自由」とは何か。無論彼は(主観的には)唯物論者であり、より端的にはマルキストなので、その思想的文脈の中での「人間の自由」とはどのようなものなのか。


それを知るためには何より梅本の著作を読むしかないのですが、なんせこちらに素養がなくて、殆ど理解できない(涙)。

なのでとりあえず科学的社会主義の基礎文献たる『空想から科学へ』『ドイツ・イデオロギー』なんぞに手を出しているところです。あぁ。道は遠く曲がりくねっている。


一方で、フランス革命前後のヨーロッパ思想界における「自由」という概念、これも無論一様ではないでしょうが、それはそれとしてきちんと概略だけでも押さえたい。

そう思って、まずはフランス革命に関する基礎的な知識を得たいと思っているところです。「自由・平等・博愛」の「自由」を巡る18世紀を中心とした思想史を学ぶことによって、如月さんのエルヴェシウス読解も、ボクなりに読めるようになるのではと今は期待しています。


今のボクの問題意識としてはそんな感じです。如月さんのおかげで、ボクとしては、学ぶべき対象がけっこうくっきりしてきたので、それはかなりの進歩だなと、自己満足ですが浸っております。ありがとうございます。



そして最後に、宗教(信仰)における主体性の問題、これはボク自身考え続けていることで、やはり何事かをコメントするだけのものはないのですけれども、一点だけ。

やはり不勉強なので、家永先生も石母田先生も読んでないのでアレなんですが、

親鸞や法然自身における信仰の彼岸性というか非自律性、それと、同時代の武士たちがそれを曲解(?)して主体的なものとして観念したことは、両立しうるんじゃないでしょうか。

如月さんの中世日本史への取り組みを知っている人たちからしたら、んなこたぁお前に言われんでもわかっとるということなんでしょうけども。

俗な理解ですが、キルケゴールが同時代の他の人たちの信仰に見た独善性と同じようなものが、親鸞と同時代の武士たちにもあったのではないでしょうか。

社会内倫理的な信仰と、社会的倫理を超越したところにのみある信仰の混在、それはいつの時代もあることなのかな?と思いました。

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