045908
網上戯論
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祝復活!! 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2005/08/31(Wed) 19:08 No.822  
おめでとうございまする。


ありがとうございます。 如月 - 2005/09/01(Thu) 01:12 No.824  

小太郎さん、どうもありがとうございます。
サーバー復旧の件、実は小太郎さんの掲示板で最初に知りました(^^;)。
また、どうぞよろしくお願い致します。


『義経』〜景時の論理とは? 投稿者:如月 投稿日:2005/08/07(Sun) 21:25 No.820  
今日の大河ドラマ『義経』、出かけていて最後の方しかみれませんでしたけど、梶原景時の論理、もっともなようでちょっと破綻してましたね。
というのは、死んだら所領がどうなるかということなんですけど、自分の所領を子孫に安定的に伝えるために武士たちは(ある程度計算づくで)命を投げ出すわけでしょう。そこのところの景時の言葉、ドラマとしてはもっともなんだけど、武士の論理としては如何なものかと少し違和感をおぼえました。
その点は、景時のセリフを逆にした佐藤継信の言葉も同じ。
セリフのやりとりがドラマとして自然に流れているから、なんとなく聞いているとそのまま聞きながしそうになるんですが、この辺、芝居優先で、歴史ドラマとしてはやはりおかしいですね。
(身の安全を中心にして考えたら、そもそも頼朝の旗揚げがおかしなことになる。だってあれはやはり無謀でしかないでしょ。)


来て 見て 聞いて 噺して 遊ぶ 投稿者:如月 投稿日:2005/08/07(Sun) 13:58 No.818  
8月20日(土)・21日(日)、矢来能楽堂(新宿区)で、能を鍵概念にして、さまざまな伝統文化に気軽に親しもうといういう企画「NIPPON CHAT! CHAT! CHAT!」が開催されるそうです。
主要な企画は、
@小笠原流礼法、親子体験教室
Aのうのうきっず(親子で学ぶ能楽体験教室)
Bのうのうコンサート(能と雅楽のコンサート)
(以上20日)
C小笠原流礼法、淑女のための礼法教室
Dこども落語体験教室
Eのうのう高座(納涼落語会)
(以上21日)
夏休みに親子で伝統芸能に親しむ機会として、ちょっと外出予定に加えてみてはいかがでしょうか。私は、20日は予定があり伺えそうにありまえんが、21日、落語を聞きにでかけてみようなかと思っております。アットホームな感じのする矢来の能楽堂で聞く落語というのも、ちょっとおもしろいかも♪

「NIPPON CHAT! CHAT! CHAT!」のくわしいスケジュール等は、↓URLにアクセスを!
http://www.kanze.com/koza/knownoh-summer2005.html


クレンペラー 投稿者: 投稿日:2005/08/02(Tue) 23:43 No.807   <Home>
如月さん、クレンペラーのVPO演奏集、クレンペラーBOX出たようです。
http://www.hmv.co.jp/news/index.asp?category=1&genre=700&style=0

に紹介があります。


まずは、つつましく…。 如月 - 2005/08/03(Wed) 01:03 No.809  

酒井さん、おしらせありがとうございます。同CD集、渋谷のHMVでみかけ、モーツァルト「ジュピター交響曲」のさわりも聴きましたが、予算の関係で、つつましく、廉価版で出ていたカラヤン指揮のベートーヴェン「トリプル・コンチェルト」を購入して帰ってきました(^_^)。
クレンペラーのCD集を購入するのは、少し先になりそうです。


トリプルコンチェルト  - 2005/08/03(Wed) 23:06 No.813   <Home>

カラヤンですと
アンネ=ゾフィー・ムター(ヴァイオリン)
ヨー・ヨー・マ(チェロA)
マーク・ゼルツァー(ピアノA)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
ですか?良いですね。
シュナイダーハン、アンダ、フルニエ、指揮;フィリチャイ
なんて言うのもありますが。


『落日の交響楽』 如月 - 2005/08/04(Thu) 00:48 No.815  

いえいえ、私が購入したのは、一番ミーハーな、オイストラフ(Vn)、ロストロポーヴィッチ(Vc)、リヒテル(Pf)盤です。これと、セル指揮のブラームスのダブル・コンチェルト(ソリストはオイストラフ(Vn)、ロストロポーヴィッチ(Vc))が組で¥1,300というのは、いかにも安い。安心して購入できました。
また、今日は神保町の古賀書店をのぞいて、『ベートーヴェン』(ブークーレシュリエフ、白水社)、『ベートーヴェンを求めて』(吉田秀和、白水社)、『落日の交響楽』(西村弘治、共同通信社)を求めてきました。何を隠そう、最近私はベートーヴェンづいているのです(^_^)。
このうち、『落日の交響楽』は私が20代のころの愛読書。誰かに貸したまま戻ってこなかったものをたまたま発見したので、迷わず購入しました。西村弘治さんは、私の音楽観の根幹をつくった評論家なのです。


クレンペラーの「運命」 如月 - 2005/08/06(Sat) 01:57 No.816  

 以下、『ベートーヴェンを求めて』(白水社、1984年)から、吉田秀和さんのクレンペラーによるベートーヴェン第五交響曲の演奏評を抜き書きしてみます(この著作は、いわゆる演奏評の本ではないのですけれど)。

   *    *    *

 「クレンペラーのテンポは総じて遅めであるが、表現のうえでの焦点は、この場合、第19小節から21小節にいたる、譜例2の中のcという記号をつけたあの部分であって(変ホ、ハ、ト音)、ここで彼は一段と速度をおとす。その結果、この冒頭の主題の全体が、非常に緊張した状態の出現を告げるものではあっても、それは断言的な性格ではなくて、むしろ、一つの疑問の形で投げ出されたもの、<運命>という言葉を採用するとすれば、ここで<戸を叩いている運命>は、何かを宣告するのではなくて、質問を投げかけにやって来たのであるかのように演奏される。これは第一楽章の性格の全体に影を投げかけている。クレンペラーできくと、私たちは、緊張に緊張を重ね、いわば肉弾相打つ至近戦を演じているかのように響いてくるのが普通のこの第一楽章の中に、躊躇というか、逡巡というか、かつてきいたことのないようなかげりをきいて驚く。展開部の後半に入って、全体の運動が大きくゆるめられ、喘ぐような二分音符の和音の交替に入る直前の、第179小節および第190小節の低音の弦の動きにつけられたまったく意表をつくディミヌエンド。れはスコアに書きこんでないものであることはもちろん、ほかにどんな指揮者のものできいたことがあるか、私にはまったく思い出せない。もう一つ、クレンペラーは、終楽章の提示部を反復しているが、これもまったく珍しいことである。
 一体に、この交響曲には、クレッシェンドは多数あり、また、フォルテ(強音)のつぎに突然ピアノ(弱音)がくることも珍しくないが、音が小さくなるほうのディミヌエンドはごく少ししかない。
 しかし、クレンペラーのゆるやかなテンポと相俟って、思いがけぬところにディミヌエンドを置く手法の、最も見事な成果は、終楽章の再現部に入る直前、再びスケルツォが、亡霊の行進のようにピアニッシモの、スタッカートで、突如投入された時の、その音楽の見事さで、これほどに表現的なピアニッシモは、ほかにめったにきかれるものではない。特にクレンペラーでは、テンポが私たちが普通なれているのに比べて、よほど遅めなので、このピアニッシモは私たちの奥底まで、腹の底までしみわたる。
 ここに、テンポこそ私の好みとややちがうけれど、風格のうえからいえば、現代きかれる最も巨匠的な演奏による『第五交響曲』の一つがある。」(上掲書、185〜7頁)


そのトリプル・コンチェルトは Ulala - 2005/08/06(Sat) 22:30 No.817  

みなさま、ご無沙汰しております。
そして、暑中お見舞い申し上げます。

如月さんがお買い求めになった「トリプル・コンチェルト」は、私も持っております♪
ジャケットは、彼ら4人が一堂に介している写真ですか?
ずっと以前ですが、友人のバイオリン弾きの家でピアニストの岩崎叔さんに、お目にかかったことがあります。
その時に岩崎さんは、トリプル・コンチェルトは演奏していて楽しいのよ〜、と、おっしゃいました。
演奏なさるかたが、そうおっしゃるのですから、実感のこもった言葉として印象に残っております。

私は最近Vanitas vanitatum,Roma 1650という、安かったのでついでに買ったCDに、はまってしまいました。
Tragicommediaと書いてありますから悲喜劇として作られた作品なのでしょうが、素朴な雅歌という感じで、実にゆったりとした気分になれます。
1650年の作品ようです。

その時一緒に入手したのはティボーとコルトーの組み合わせで、ヴァイオリン・ソナタばかり、フランクとフォーレとドビュッシーが入っているものです。
目的はフランクだったのですが、やはりフォーレもドビュッシーも続けて聴いてしまいます。
それから園田高弘さんでベートーヴェンのソナタ9、19、20、25番の入っている版です。これは私が目下第19番を練習しているので購入いたしました。

クレンベラーは、私も、ちょっとおあずけにいたしました。



小生の方がミーハーです。  - 2005/08/07(Sun) 19:56 No.819   <Home>

如月さん、オイストラフ、ロストロ爺、リヒテル、ゴールデンコンビですね。
小生の方がよほどミーハーでした、スミマセン。
この2曲、個性がぶつかると上手くいかないとか?
小生の好みは、
シュナイダーハン、アンダ、フルニエ、指揮;フィリチャイ
ですが、お聴きになったCDは如何でしたか?
カラヤン指揮ではお聴きの盤が小生は好きです。
自分が持っている、ムター、マ、ゼルツァーは軽いです。
評者はよく、若手をよくまとめている、と評していますが、
カラヤンの個性で鳴っている、感じがします。
それにしても暑いですね、みなさん、ご自愛下さい。


ベートーヴェンを導くもの 如月 - 2005/08/07(Sun) 23:33 No.821  

トリプル・コンチェルトは、曲そのものがややアクロバット的なうえに、これまで聴きくらべをしたことがないので、カラヤン、オイストラフ、ロストロポーヴィッチ、リヒテルの盤が、相対的にいっていいのか悪いのか、よくはわかりません。ただ、これだけ聴いている分には、スリリングですごく満足できる演奏ではありますね。

さて、先日購入した吉田秀和さんの『ベートーヴェンを求めて』(白水社、1984年)、次の第三交響曲のスケッチ(構想)の分析なんかは、とてもおもしろいと思いました。

「第一スケッチから最終の完成形にいたるまで五通りの楽想に、すべて共通するのは、半音階で上行ないし下行するなめらかで目立たないが、しかし、きわめて微妙な表情をもつ動きである。と同時に、第一スケッチからのち、ベートーヴェンがこの主題楽想にある長さを与えようとして、さかんに反復したり何かして引きのばしをやっているのが目につく。だが、初めのうちの引きのばし方では、あまり<意味>のある音楽にならない。それにも、彼は気がついている。だからこそ、彼は何度でも書き直してやまないのである。私は、ここでは大きなスケッチ4個しか示さないが、実はこの楽想については、ほかにもまだいろいろな変種が試みられたのである。
 ということは、ベートーヴェンは、ここでしっかりした主題がこなければならぬ必然性を感じ、その性格も第二スケッチで大体つかんでしまったのだが、しかし、最終的に正しい解決であるような、そういう楽想には、なかなかぶつかれないのである。
 これを見ていると、いかにベートーヴェンが霊感で創作する芸術家でないかがわかる。というのが、これまでの通説である。だが、そう簡単にいいきれるだろうか?それならば、なぜ彼は何かを探すことができたのか?なぜ彼はなかなか満足できないのか?
 それは、彼の中に何かがあって、彼を導き、しかもまた、彼に「これである」という合図を、なかなか、送らないからである。彼は、本能的に、あるいは前意識の中で何かを感じ、知っているのだが、それがはっきりした意識の中に上がってこない。だが、彼は知っている、何でなければならないかを。
 要するに、彼は、求めるから知るのではなくて、知っているからこそ、求めるのである。」(同書、209〜211頁)


『言葉と物』を読む 投稿者:如月 投稿日:2005/08/01(Mon) 09:30 No.800  
昨日は、ふうふう言いながら、フーコーの『言葉と物』(渡辺一民、佐々木明訳、新潮社、1974年刊)を読み終えました。
この本、実は30代、40代にも読んでいて、今回が三読目です。最初に読んだときは、フーコー独自の発想がどこからくるのかさっぱりわからなかったため、頭に筋肉注射をされているようで、とにかく難しくて読むのに時間がかかり、二度目(1996年4月)は、最初の読みにくさが嘘のようにすらすらと納得しながら読め、今回は、最初読んだときに自分がなぜ『言葉と物』につっかえたのか、また二度目はなぜすらすら読めたのかなど、ちょっと客観視しながら読みました。少し時間を置いて、特定の本を何度か読むとおもしろいですね。
『言葉と物』の場合、たまたまちょうど10年おきぐらいに読んでいるので、なんか自分発見の旅をしているようです。
感想等はおいおい。


ハイデガーを用いたハイデガーの相対化 如月 - 2005/08/01(Mon) 10:35 No.801  

今回の読みのなかで、まず気になっていたのは、東浩紀氏が指摘する「その第九章は、『存在と時間』の隠れた注釈として読解可能なことが知られている」(『存在論的、郵便的ーージャック・デリダについて』、新潮社、1998年、258頁)という点ですね。これは、東氏に指摘されるまで私はまったく気がつかなかった観点ですから。
実際に『言葉と物』第九章「人間とその分身」〜「起源の後退と回帰」を読んでみましょう。
「人間は、十九世紀のはじめに、この歴史性との相関関係において、あのすべての物、すなわち、自身に巻きつき、みずからの並列をとおし、しかもその固有の諸法則にしたがって、自身の起源の近づきがたい同一性を指示する、あのすべての物との相関関係において、成立したのであった。とはいえ、人間がみずからの起源と関係をもつのは、物の場合とおなじような様態にもとづいてではない。つまり、実際のところ、人間は、すでにつくられている歴史性と結びついてはじめて姿を見せたのにほかならない。それはけっして、物の時間をとおして姿を隠したまま素描される、あの起源と同時期のものではない。人間がみずからを生物として規定しようとこころみるとき、人間が人間固有のはじまりを発見するのは、それ自体人間以前に登場していた生命を下地としてにすぎない。人間が労働する存在としてみずからをとらえなおそうとこころみるとき、人間が労働のもっとも初歩的な諸形態をあきらかにするのは、すでに制度化され、社会によってすでに制御されている、人間の時間と空間との内部においてにすぎない。そして人間が実際に構成されているあらゆる言語の手前で話す主体としてのみずからの本質を規定しようとこころみるとき、彼が見いだすのは、いかなるときにもすでに展開されている言語の可能性にほかならず、そこから出発してすべての言語と言語それ自体が可能となった、口ごもり、すなわち最初の語、ではない。人間がみずからにとって起源としての価値をもつものを思考することができるのは、つねにすでにはじめられたものを下地としてなのである。」(『言葉と物』、350〜1頁)この箇所がハイデガーへの「隠れた言及」であるということは、最後にでてくる「つねにすでに」というハイデガー的用語から推定できるわけです(『言葉と物』のなかで、「つねにすでに」が用いられるのはこの一箇所だけ)。
ただし、この最後のフレーズ、フーコーの原文では
C'est toujours sur un fond de deja commence que l'homme peut penser ce qui vaut pour lui comme origine.
となっており、それからすると訳文は、「つねに、すでにはじめられたものを下地としてなのである」の方が、フーコーのテクストに忠実であるかもしれず、「つねにすでに」という用語だけからのハイデガーへの隠れた言及という私の推測はやや無理気味かもしれません。
ここでもう一度東浩紀氏の記述に戻って、彼による『言葉と物』の要約をみてみましょう。それ自体、非常によくできていると思いますから。
「彼(フーコー)は66年の『言葉と物』において、ルネサンス、古典主義時代、近代の三つの時代におけるエピステーメーの変遷をきわめて簡潔に描き出した。ルネサンス的知は言葉(=語mot)と物(chose)とを同じ空間に配置する。それゆえそこでは、語についての考察と物についての考察、例えば「蛇」の語源的探究と蛇の解剖学的特徴とが併置されて記述されることになる。対して古典主義時代は、語の世界と物の世界、表象の秩序と自然の秩序、メタレヴェルとオブジェクトレヴェルの二位相を峻別する。つまりそこでは「蛇」という語は蛇という物の透明な表象と見なされ、語源的探究と解剖学的特徴とは記述のうえで厳密に区別される。古典主義的知は、表象の秩序と自然の秩序とを別々に整理する。そして最後に近代、18世紀以降の西欧世界では再び二位相の峻別が揺らぐ。そこではもはや、表象の秩序の自律性、メタレヴェルのメタレヴェル性は自明と見なされない。したがって近代的知は、語の領域と物の領域の整理に別々に携わることができない。かわりにその知は、語/物(思考形式/思考対象)の二重性を産出する特殊な存在者、「経験的=超越論的二重体」としての「人間」の分析に向かう。すでに明らかなように、以上の「考古学的」記述は前期ハイデガーとまったく同じ論理展開で進められている。近代的知は、メタ/オブジェクトのレヴェル分けそのものの産出構造について探究する。このフーコーの主張は私たちの術語で表現すれば、近代的知が、総じて否定神学システムを扱うことを意味する。18世紀末には一方で批判哲学が、クラインの壺構造を純粋な形態で、すなわち「人間」として検討する知として登場する。そして他方で文献学・生物学・経済学が、クラインの壺構造を唯物論的に探究する知として、その構造の具体的現れの場所(言語・生命・労働)にしたがい配分され登場する。
 私たちは『言葉と物』と『存在と時間』とのこのパースペクティヴの類似性から、つぎの二つの帰結を引き出すことができる。一方でフーコーの認識は、前期ハイデガーの仕事、前述した否定神学的「超」の発見を歴史的に相対化するものだと思われる。ハイデガー自身が29年の『カントと形而上学の問題』で詳述したように、存在−存在者−現存在(メタ−オブジェクト−クラインの管)というクラインの壺的構造は、ある意味ですでにカントに潜在していた。それゆえ『存在と時間』の重要性は厳密には、新種の「超」の発見にではなく、形而上学的「超」の背後につねにすでに機能していた、別種の「超」の再発見にこそ求められねばならないことになる。
 しかし他方で『存在と時間』と『言葉と物』の類似性は逆に、つまりそこで、フーコーがハイデガー自身を用いてハイデガーの相対化を試みていたことをも示唆するように思われる。」(『存在論的、郵便的』256〜8頁)


起源とは… 如月 - 2005/08/01(Mon) 11:26 No.802  

『言葉と物』の引用、続けます。
すぐ上で引用した箇所の次のフレーズからです。
「したがって起源とは、人間にとって、はじまりーーそこから出発してその後の獲得物がつみかさねられていくような、いわゆる歴史の夜明けではまったくない。起源とは、それよりずっとさきに、人間一般が、あるいはどのようなものであれ任意の人間が、労働や生命や言語というすでにはじめられているものとみずからを連接させる、その仕方にほかならない。だからそれは、そこで人間が、数千年来手をくわえられてきた世界にたいしてまったく素朴に労働し、はじまったばかりのはかない唯一無二のみずからの実存の新鮮さのなかで、有機体の最初の形式までさかのぼる生命を生き、どのような記憶よりも古い語でいまだかつて語られなかった文(たとえ数世代がそれを繰りかえしてきたにせよ)をつくる、あの折り目のなかに求められるべきであろう。そうした意味で、起源にあるもののレベルは、たぶん人間にとって、もっとも自分に近いものであるはずだ。つまりそれこそ、人間が無邪気にもつねにはじめてと思いこんで巡歴し、そのうえに彼のやっと開いたばかりの眼が、彼の視線とおなじように若い諸形象ーーそれらがつねに彼とおなじように若いからというのではなく、彼とおなじ尺度もおなじ基礎ももたぬ時間に属するという逆の理由から、人間とおなじように年齢をもちえぬ、そうした諸形象ーーを発見する、あの表層なのである。けれども、われわれの実存の全長にわたってそれに沿い、けっしてそれに欠けることのない(とりわけ死の瞬間においてさえも欠けることなく反対にむきだしのものとしてあばきだされる)起源にあるもののこの厚みのない表層は、誕生の直接のあらわれではない。それは、労働と生命と言語が形成しその固有の歴史のなかに付託した、あれらの複雑な媒介によってみたされているのである。こうして、そのたんなる接触において、すなわち、対象物をはじめて手にするやいなや、いかに単純な欲求でも顕示するやいなや、さして意味もない語を飛翔させるやいなや、人間がそれと知ることなく甦らせるのは、起源にあるものをほとんど無限に支配する時間にかかわるすべての仲介物にほかならない。それと知ることなくと言ったが、それは何らかのやり方で知られなければなるまい。そうやって、人々はたがいにコミュニケーションのうちにはいりこみ、理解というもののすでに結ばれている網目のなかにおのれを見いだすこととなるからである。が、いずれにせよ、こうした知は制限され間接的で部分的なものだ。この知は、労働と生命と言語が、そこではまさに話し実存し仕事している人々自身にみずからの真実(そしてその固有の起源)を隠している、膨大な影の領域にすっかりかこまれているからである。」(『言葉と物』、351〜2頁)


思考の任務 如月 - 2005/08/01(Mon) 14:27 No.803  

よく読むと、上掲の引用の少し先にも「つねにすでに」という言い回しが出てきますね。まあ「つねにすでに」にそでほどこだわるべきではないのかもしれませんが。
「起源にあるものの直接性のなかで告示されるのは、したがって、人間は、人間をその固有の実存と同時期のものとするような起源から引きはなされているという一事であろう。時間のなかで生れ、もちろんそこで死んでいくあらゆる物のなかで、人間は、いかなる起源からも引きはなされ、すでにそこにあるわけだ。かくして、物が(人間のうえに張りだしている物さえも)そのはじまりを見いだすのは、人間のうちになのであって、人間こそ、持続の何らかの瞬間に刻印された傷痕というよりはむしろ、そこから出発して時間一般が再構成され、持続が流れ、物がそれ固有のときに出現することのできる、そのような入口にほかならない。経験的領域で、物がつねに人間にたいして後退し、その原点において補捉しえぬとすれば、人間も、基本的には、この物の後退との関係において後退しつつあり、物が、起源についての経験の直接性にたいして、その堅固な先住性の重みをくわえることができるのも、まさしくそれゆえなのである。
 そのとき、ひとつの任務が思考にあたえられる。物の起源に異議を申したて、しかも、それにもとづいて時間の可能性が構成される様態を再発見しながら、物の起源をーーこの場合の起源とは、そこから出発してすべてが誕生することのできる、起源もはじまりもない起源のことだーー基礎づけるために異議を申し立てる任務である。このような任務は、そこから時間の由来する裂け目が時間継起も歴史もなく出現するように、時間に属するすべてのもの、時間のなかで形成されたすべてのもの、時間の可動的な本領に宿るすべてのものが、疑問に付せられることを含意している。そのとき時間は、それでも時間を逃れられぬあの思考のなかで、その思考がけっして起源と同時期のものでない以上、中断されるであろう。けれどもこの中断は、起源と思考とのあの相互関係を転倒させる力を持つにちがいない。起源と思考との相互関係はそれ自身のまわりを一回転し、起源は思考がなおつねにあらたに思考しなければならぬものとなるから、つねにより間近い、だがけっして到来しない切迫のうちに思考にたいして約束されるであろう。そのとき起源は、立ちもどりつつあるもの、思考の赴く反復、つねにすでにはじまっているものの回帰、どんな時代にも輝いてきた光の接近となるだろう。こうして、三たび、起源は時間をつらぬいてその横顔を見せる。L'origine est alors ce qui est en train de revenir, la repetition vers laquelle va la pensee, le retour de ce qui a toujours deja commence, la proximite d'une lumiere qui de tous temps a eclaire.けれどもこのたびは、それは、未来のなかへの後退であり、思考を可能にすることを止めなかったものを目指しての鳩の足どりですすみ、前方、つねに後退していく地平線上に、思考がそこからきた光、思考がそこから豊かにあらわれる光を見張るようにという、思考が受けとりみずからに課する緊急命令にほかならない。」(『言葉と物』、353〜4頁)


「つねにすでに」(prosperoさんの解説から) 如月 - 2005/08/01(Mon) 14:35 No.804  

以前、この掲示板でみなさんと一緒にハイデガー『存在と時間』を読んだときの過去ログ、基本的にすべて消えてしまいましたが、未整理ながら、「マイ・ドキュメント」のなかに書き込みの一部が残っておりましたので、そのなかから、以下、「つねにすでに」についてのprosperoさんの解説を再掲しておきたいと思います。

   *    *    *

「つねにすでに」は"je schon"あるいは"immer schon"="always already"です。変な言いまわしですが、これはおそらく「アプリオリ」というもののハイデガー的な言い換えだと思います。世界や現存在の構造に関わることが「つねにすでに」という仕方で語られていたように思います。
 例えば、「存在の探求として、現象学的解釈は、つねにすでに(je schon)現存在に属して、存在者とのいかなる交渉に際しても<生き生きと>はたらいている存在了解を、独自にかつ自覚的に遂行することである」(原著S. 67)。または、「われわれは配慮的交渉という存在の仕方にわざわざ身を投じるまでもない。日常的現存在はつねにすでに(schon immer)そうした仕方で<存在して>いるからである」(同上)。伝統的な言いまわしだと、この「つねにすでに」のところに、「アプリオリに」と代入しても十分に通じると思います。ただここにハイデガー特有の語感が現れているようです。それというのも、「アプリオリ」は論理的な構造を指すのが普通なのに(カントは明らかにそうです)、ハイデガーが「つねにすでに」に寵めようとしているのは、やはり「時間」だということになりそうだからです。アプリオリという哲学上の基本概念をこんなふうに換骨奪胎して、自分の「存在と時間」という問題のために鋳造しなおしているのではないかと思うと、なかなか考えさせられます。


「すでにはじめられたもの」 如月 - 2005/08/03(Wed) 00:58 No.808  

今、『言葉と物』の第九章を読み返しているところですが、私が上掲の引用箇所にひっかかるのは、「つねにすでに」もさることながら、「起源」という概念に対するフーコーのアプローチゆえにですね。
自分の文章の引用で恐縮ですが、先日の日本18世紀学会の報告の参考資料のなかで、次のようなことを述べました。

   *    *    *

資料D:言語(社会)の起源をめぐるコンディヤックとルソーの食い違い

 コンディヤックが記す言語および社会の起源は、次のように非常に簡潔なものである。
 「彼ら(大洪水後に生まれた二人の子供)が一緒に生活するようになると、これら初歩的な魂の働きを訓練し発揮する機会が多くなった。というのは、彼らが相互に交渉しあうことによって、あれこれの情念の叫び声といくつかの知覚とが結びつくようになったからである。すなわちそれらの叫び声は、それぞれに対応する知覚の自然的な記号となっていったのである。(中略)この瞬間(自然的記号によって他人の苦しみを理解した瞬間)から、彼はその苦しんでいる人を助けてやりたいと思うようになり、自分に可能な範囲でこの衝動に従うようになった。このようにして彼らは、唯一の本能に従って互いに助けを求め合い、与え合ったのである。」(『人間認識起源論』、古茂田宏氏訳、下巻17頁、岩波文庫)
 これに対しルソーは次のように問う。
 「私はここで、すべて私の意見を完全に確認し、恐らく最初の観念を私に与えてくれた、コンディヤック師のこの問題についての研究をここに引用するか、くり返すかするだけにとどめておいてよいだろう。しかしこの哲学者が、記号設定の起源について自分に提示した問題点を解決するその仕方を見ると、彼は私が疑問にしていること、すなわち言語の発明者たちのあいだにすでに一種の社会が成立していたことを仮定していたことがわかるので、私は、彼の考察を参考にしながらも、同じ困難な問題を私の主題に適するような明るみにさらすために、私自身の考察をそれにつけ加えなければならないと思う。」(『人間不平等起源論』、本田喜代治氏、平岡昇氏訳、59頁、岩波文庫)
 ルソーが新たに提出する問題は次の二つである。@人間間にいかにして言語が必要となりえたか、Aいかにして言語が確立されたか。
 しかしこれに対し、コンディヤックの思想を詳細に研究した山口裕之氏は、まず幼児による一般的な言語習得プロセスを検討して「言語を習得するとは記号を契機として観念を探究することである。つまり幼児は、自ら形成した観念に記号をあてがうことを教えられるのではなく、記号を先に教えられ、それが示す観念を探すことで言語を習得する」(『コンディヤックの思想ーー哲学と科学のはざまで』242頁)とし、さらに、「コンディヤックの言う分析とは、既に成立し流布している記号ないし観念のうち、共通理解が成立していると思われるものを出発点として、共通理解が成立していないと思われるものについて理解を図ろうとする営みなのである」(前掲書、283頁)と、結論づける。つまり、山口氏にしたがえば、コンディヤックの考える人間は徹底して経験に生きる社会内存在なのであり(幼児はすでに言語を習得しているその親から言語を学ぶのであり、親も同様である。人間にとってこれ以外の言語習得プロセスは想定できない。これは循環論法ではなく、事実の問題である)、ルソーが指摘するような社会の外(社会形成以前)についての問題は、コンディヤックからすれば、解答不能もしくは問うことそのものが無意味といわざるをえないということになろう。
 コンディヤック思想のもつ、人間をなによりもまず具体的な社会内存在としてとらえるという方向性は、一ノ瀬正樹氏によれば、次のように、ロックにおいてすでに見出されるものであった。
 「確かに感覚や知覚はロック経験論の鍵をなす概念だが、それはあくまでも言語教育などを支える社会制度を背景にして具体的状況下で生じる、当人の人格に帰属する行為なのであり、実践としての感覚経験や知覚経験にほかならない。(中略)ロックの議論は、知識以外の通常の財物の所有権もまた、自然法認識という究極的な知識との対応においてこそ確立していく、とする考えを強力に指し示している。その点でやはり、人格と知識の概念は真に融合していくのである。」(『人格知識論の生成ーージョン・ロックの瞬間』、13〜4頁)
 一ノ瀬氏によるロック思想の分析は、コンディヤック(やマブリ)が、ロックから何を学び取ったかを考えるうえで示唆的である。

   *    *    *

この文章のなかの「社会内存在」という概念は、もちろんハイデガーを意識しているわけですが、今だったら、『言葉と物』の上掲箇所をも資料のなかに付け加えたい感じです。


たまには私の方から… 投稿者:如月 投稿日:2005/07/31(Sun) 21:10 No.797  
今日の大河ドラマ『義経』、私としては特にコメントなしです。
ただ、今日の時点で鎌倉政権から阻害された義経と北条が組んだらけっこうおもしろかったんではないかと思いました。でも、この段階で北条には(義経にも)、それだけの力はないんですね。まあ、この辺は釈由美子が好きさんのご専門だから、私としてはこれ以上つっこみませんけど(笑)。
もっとも、頼朝にも、側近とか親衛隊といった存在はないんですね。その意味では頼朝の周囲は、義経以上に寒々としている。

え〜、小掲示板は中世史を専門としておられない方もアクセスしてらっしゃいますので、たまには私の方から問題(質問)を出してみます。

さて、本日放送の時点(元暦元年=1184年10月)で、鎌倉幕府は成立していたといえるでしょうか?また本日放送分は、果たして「平安時代」のできごとなのか「鎌倉時代」のできごとなのか?そして、その根拠は?


鎌倉から幕末まで 後鳥羽院 - 2005/08/01(Mon) 21:11 No.805  

ズブの素人ですが・・・。
「言葉と物」ではないけれど、「幕府」というような物は、言葉の関数だから、定義次第でどのようにもなる、とおもいます。
古い話になりますが、むかし、カダフィ大佐がクーデタで権力をぶんどったとき、はじめ諸外国はなかなか承認せず、世界の枢軸国がだんだん承認しはじめると、いつの間にか、正統な権力者になりました。すると、大佐を元首とする国家は、クーデタ時に遡及されて正統性が認められるようになる。
頼朝の権力も、これと似たようなものかな、とおもいます。刑法の用語でいえば、権力なんて、結果無価値的なものですから。
1180年、石橋山の合戦に敗れて落ち延び、千葉氏や上総氏を従えて鎌倉に入ったときをもって、実質的な「幕府」は成立した、と考えるのも一説かもしれません。また、1185年、後白河院から院宣を受けたとき、とするのも一説かもしれません。1192年、朝廷から征夷大将軍に任ぜられたとき、とするのも、まことにつまらぬけれども、形式的にはもっともな説かもしれません。
1192年の形式的な「幕府」をどこまで遡及させるか、「幕府」の定義によるような気がしますが、私などは、1180年でもいいんじゃないか、という気がしていますので、元暦元年には鎌倉幕府は成立しており、よって、時代は古臭い「平安時代」ではなく、「鎌倉時代」の出来事である、と考えてみたくなります。
平家はまだ厳と存在するから変じゃないか、という異論もありますが、数年後に滅亡する平家などは捨象してよい、と言ってみたい気がします。
といいますか、頼朝を征夷大将軍に任じた「朝廷」の正統性を保証するものは、そもそも何でしょうか? 釈由美子が好きさんが、別の文脈で仰っていましたが、それは、詰まるところ、ただの「共同幻想」にすぎません。

最近、私は江戸末期の本を読み漁っているのですが、以前は「大政奉還」という言葉には何の疑問もなかったものの、よく考えてみると、この言葉は変ですね。
京都の朝廷は、慶喜の征夷大将軍の任を解く、といえば、法理的には済むものです。しかし、朝廷はいつも狡猾ですから、こういう表現をうまく取り入れたのですね。


もうちょっと意地悪く 如月 - 2005/08/03(Wed) 01:14 No.810  

あれま!?
私は後鳥羽院さんを「ズブの素人」などとちっとも思ってませんし、上掲の質問も、後鳥羽院さんを想定してのことじゃないんですよ。

ところで、後鳥羽院さんの回答は、さすがというか、私の考えとほぼ同じです。
ただ、時代区分については、私はもうちょっと意地悪に考えておりまして、結局、「平安時代」だ、「鎌倉時代」だといっても実体があるわけじゃなし、元暦元年十月が平安時代か鎌倉時代か、むりに区分しようとすることがそもそもナンセンスなんだという風に、ちょっと乱暴な考え方をしております(笑)。


日付変更線と歴史時間 後鳥羽院 - 2005/08/03(Wed) 22:51 No.812  

いえいえ、買いかぶりですよ。
時代区分は、日付変更線のようなものですね。
ロンドンのグリニッジを起点にすれば、太陽の位置と地球の自転などの物理条件から、日付変更線は太平洋上にくる、というだけで、起点などどこでもよいわけです。
「平安時代」や「鎌倉時代」なども恣意的な区分で、権力主体からみた名称にすぎないですね。
鎌倉の御家人に、君は鎌倉時代の人なんだね、と尋ねたら、たぶん理解されないでしょうし、あるいは、定家卿に、あなたは平安時代から鎌倉時代への過渡期に生きたんだってね、と言ったら、紅旗征戎非吾事のことか?と、頓珍漢な答えが返ってくるでしょうね。
直線を一本引いて、数字を点々と打ち、出来事の前後関係を認識する、という歴史時間は、いつごろ発生したのでしょうね。西欧の近世でしょうか。すくなくとも、「平安時代」や「鎌倉時代」の人間が、こういう歴史時間をもっていたとは思えないですね。


18世紀学会報告のその後 投稿者:如月 投稿日:2005/07/26(Tue) 00:48 No.791  
いくつになっても師はありがたきもの。

本日、大学時代の恩師N先生を訪問し、去る6月11日に日本18世紀学会で発表した小論「マブリ初期政治思想におけるノミナリスムとレアリスムの相剋」をチェックしていただきました。同発表を来年発行される日本18世紀学会の年報に投稿する資格があるとのことで、このため、小論の見直し、書き直し(スタイル変更)が必要なのです。
先生には、訳を細かくチェックしていただいたほか、全体構想についてもざっくばらんなご意見をうかがってきました。
これでなんとかいけそうです。

なお、6月11日に配布した発表原稿および参考資料、手元にまだ残部がありますので、ご興味をおもちの方には送らせていただきたく存じます。まずは、メールにてお送り先等、ご連絡頂戴できれば幸いです。


information 如月 - 2005/07/26(Tue) 10:43 No.792  

小論についてのインフォメーションもアップいたしました↓。
http://www.furugosho.com/information/mably.htm
合わせて、ご参照ください。


ズレ 如月 - 2005/07/26(Tue) 10:53 No.793  

読み返してみると、報告趣旨は、論考をとりまとめる前に、方向性を示す予告として日本18世紀学会に提出したもので、実際の発表とは内容的にズレがあるのですが、あらためて書き直すのも面倒なので、とりあえずそのままにしておくことにしました。


今日の『義経』 投稿者:如月 投稿日:2005/07/24(Sun) 21:33 No.787  
今日の大河ドラマ『義経』、義経はヒーローではなく、結局時代のなかの小さな駒にすぎなかったんだという描き方だったので、逆説的かもしれませんが、私はよかったと思いました。
このところこのドラマにはずっとしらけとおしでしたが(そもそも、ドラマの前提とされている源氏と平氏は宿敵だという「歴史観」がおかしいと思うので、源平の合戦の場面およびその背景説明に、私はついていけないのです)、今日の調子を維持できれば、意外とおもしろく終わるかもしれないという気がしてきました。
それと今日は土御門(源)通親の使者が出てきたので、通親も出てくるかと、つい期待してしまいました。策士・通親が登場すると、朝廷側のドラマもさらに盛り上がるかもしれませんね。まあ、描き方が難しそうですけど(笑)。
ちなみに、通親は、鎌倉時代に内大臣にまでのぼる、この時代を代表する貴族の一人で、道元の父とされる人です。
道元の思想も、時代を超越したものととらえるだけでなく、私なんかは、まずこの時代の思想としてとらえてみたいんですね。すると、出自からいって、当時の朝廷貴族の考え方を代表する、非常に絶妙のシチュエーションにいるとは思うんです。法然のように、社会階層を超えて時代全体を代表する思想家とは違うかもしれませんが、逆に、時代のなかのある部分は非常に強く反映していると思うんです。道元思想のもつこうした時代性、階層性が明らかになることで、はじめてその思想の普遍性ということもいえてくるんじゃないかと、私なんかは、まあ思うわけです。

ところで、今日の『義経』のなかの一番の疑問は、常盤が一条邸で死去し、義経がその遺骸に接していること(しかも検非違使の装束を着て)ですね。これ、ちゃんと時代風俗考証してるんですかねえ?
(普通に考えると、家のなかで死者がでるとその家が穢れる。また、死者を見たり接触したりすると、その人が穢れる。検非違使は警察的な役割だけでなく、浄めの役割もになっていたので、その判官が死穢と接触するのは如何なものか…。)


山田雄司さんのサイトが移転 投稿者:如月 投稿日:2005/07/23(Sat) 00:32 No.778  
三重大学人文学部・山田雄司さんのサイトが下記のURLに移転されました。みなさん、お気に入りの訂正お願いいたします。
http://onryo.syuriken.jp/


テスト 後鳥羽院 - 2005/07/23(Sat) 11:40 No.780  

サイトにある「日本史常識テスト」をやってみましたが、
最初の征夷大将軍が大伴弟麻呂とは知りませんでした。
こんなレベルだと、入学させてもらえませんね(笑)。


さびしいかもねむ…。 如月 - 2005/07/23(Sat) 12:17 No.781  

その問題は、私も解けませぬ。
ただし、「承久の乱で佐渡に流された人物は誰か」が正解率0というのは、ちとさびしいかもねむ…。


「預」 投稿者:如月 投稿日:2005/07/21(Thu) 01:26 No.772  
 フーコーの『言葉と物』をちょっとさぼって、玉井力さんの『平安時代の貴族と天皇』(岩波書店、2000年)を読んでいたら、次の箇所、とてもおもしろかったので、抜き書きしておきます。院政期関係の文書のなかでも「年預」という言葉がよく出てくるのですが、これまで、これはなんとなくマネージャー的な存在かなというぐらいで、語義についてあまり深く考えたことがなかったんですね。これは一般研究者にとっては周知のことなのかも知れませんが、「預」=「預かる・預ける」ではないというのは、私にとって、とても示唆的です。

 「「預」の初見はいつごろのことであろうか。これが一定の官職の呼称として史料上にあらわれるのは、それほど古いことではない。管見の及ぶかぎりでは、天長六年(829)十月の「(紫野)院預」、承和元年(834)七月の「穀倉院預人」、承和十二年十一月の「鴨河悲田預僧賢儀」等が早い例のようである。(中略)
 では「預」の特質はどこにあるのであろうか。ここで「預」の語義について少し考えてみよう。「預」の語に対して、前述のような意味(朝廷内の組織である「所」のみならず、諸院、諸庄、社寺の機構などに置かれ、別当とともにーー物資調達をも含めてーー総括的事務責任者であったということ;如月註記)を付すのは、日本で発生した用法である。この語は本来的には、与・予に通じて用いられ、「やすんずる」「およぶ」「かかわる」「参与する」等々の意味を持った。今問題としている語意は、この「かかわる」「参与する」が転じたものと思われる。日本的に変化した「預」が、いつごろから使用されはじめたのかはさらに検討すべきことと思われるが、これが一般に多用されるに至ったのは、八世紀も後半以後である。
 日本の律令制が、中国のそれを移植したものであったことを考えれば、中国にない「預」が律令制官職用語として採用されるはずはない。これに近い意味をもつ律令制官職用語を求めるならば「領」である。この語もまた「受ける」の意味を有しているが、それと同時に「頭(かしら)」ないしは「長」として「統べ治める」というニュアンスを含んでいる。これに対して「預」の方は、委託し、引き受けるという関係しかあらわさず、その引き受け方までは限定しない。
 八世紀の造東大寺司配下にあった勢田庄領・猪名部枚虫が、本来は大舎人という事務官人的な職にあった者で、食料から必要物資に至るまで全て司より給され、時には造東大寺司の雑使にもあてられる存在であったのに対して、十世紀の東寺領丹波国多紀郡河内郷一条四桃本里内の庄園においては、庄預・多紀良時が擬郡司を兼ね「奸開庄内、為治田売却人々」する存在であった。これは「領」と「預」の両者の性格の相違を物語るものと言えよう。
 弘仁十四年(823)二月の公営田設置についての官奏では、
択村里幹領者、各為正長、量其所堪、令預一町以上、縁田之事、惣委任之
といった形で使用され、内容的には、これを全面的に踏襲した元慶官田では、
一営田預人事
…宜不問土人浪人、択取力田之輩、差為正長、令預其事
とされている。
 また、「預」の字が「請」「負」に通じて用いられ「預作」=「負作」=「請作」として平安初期以後の史料にしばしば使用されることは周知の通りである。請作が十世紀以降の農地経営の基本的な方式としてきわめて重要な位置づけを与えられていることは言うまでもない。
 このようにみてくると、「預」の語には請け負い的側面がきわめて強いように思われる。官職名としての「預」の出現も、その「官職」が律令官職用語ではとらえきれない新しい側面を帯びてきていたためではなかろうか。」(玉井力氏、上掲書163〜5頁)


除目からみた権力構造の変化 如月 - 2005/07/22(Fri) 09:29 No.775  

 続いて、玉井さんの主張する除目からみた権力構造の変化についての叙述を抜き出してみます。
 「今、除目に焦点を据えて言うならば、蔵人方の強化は、外記方の機能の縮小または形骸化を伴うものであった。
 八世紀の除目の具体相については不明な点が多く、今後の課題とせねばならないが、奏任官の任命にあたっては太政官で合議し銓擬して決定案を奏上するのが原則的なあり方であった。とすれば九世紀以降における外記方の機能の蔵人方への集中は、太政官合議の機能に大きな制約を加えたものと言えよう。事実、平安中期の史料でみるかぎり、要職の決定は実質的にはほとんど天皇や摂関のもとで行われており、除目の場での合議に委ねられるのは天皇や摂関が判断を保留し、諮問した場合、または顕官挙や臨時除目の受領挙等ごく限られた場合となっている。いわゆる摂関政治や院政下における恣意的な人事を可能とするような体制は、蔵人所の機能強化と太政官合議機能の後退という傾向を伴いながら形を整えていったと言ってよい。
 ところで、蔵人所の強化に重要な意味を持った九世紀中葉以降という時期は、藤原良房・基経父子の執政期間にほぼ一致する。とすれば、蔵人所の充実も彼らの主導のもとに行われたと言ってよい。
 彼らは貴族による合議を基本とする政治体制を志向したのではなく、むしろ太政官の機能を後退させ、権力の天皇(またはその代理者たる摂関)への集中をおしすすめる方向をとったと言わねばなるまい。従来言われているように、具体的な政権争いの局面においては基経と宇多天皇、もしくは藤原氏と反摂関勢力との対立関係が存在したことは事実であろう。しかし、天皇または摂政の機能の相対的増大化という点においては、貞観から寛平・延喜にかけての時期(859-923)は継起的関係にあると言えよう。摂関勢力はまず天皇への権力集中を押しすすめ、これを代行する形で自らの力を伸張していったと思われる。以上は除目というごくせまい範囲の事柄からの分析結果である。更に視野を広め、九・十世紀の権力中枢部の構造を分析することは今後の課題とせねばならない。」(玉井力氏、上掲書290〜1頁)


受領挙の形骸化と権力構造の変化 如月 - 2005/07/23(Sat) 13:02 No.782  

 玉井さんの著作、論証部分を省略して結論だけ引用するのは手抜きというそしりを免れませんが、続いて、受領挙の変遷についての結論部を引用しておきます。

 「奏任官としての受領は、令制においては、太政官で銓擬ーー実質上の決定ーーされるものであった。しかるに「受領挙」(九・十世紀)においては複数の人物が推挙され、その決定は天皇(またはその代行者たる摂関)にゆだねられることになる。いわば勅任に近い形となるわけである。言いかえれば、太政官の機能が天皇の側に吸収されたということになる。これは組織としての太政官機能の大きな後退である。令制本来の系譜をひく受領補任の方式は、恒例除目の挙が成立した後は、わずかに臨時除目の挙として、やはり実質的決定権を天皇に吸収された形で命脈を保ってゆくこととなる。ただしこの場合はかなり有効性の高い挙として存続する。
 しかし、この制度は個々の公卿にとっては無益なものではなかった。公卿個人の主張を任官に反映させる場は減少したわけではない。臨時除目の際には従来通り合議の中で自分の意見を出すことができたし、恒例除目の際には天皇に直接具申することができた。平安時代には受領からの貢物が、院や摂関のみならず、一般の公卿にも多くもたらされている。そしてそれは、一般的に公卿の受領人事への関与に原因を持つとされている。もちろんこの説明は正しいわけであるが、より具体的には「挙」の持つ特質ーー公卿による推挙と、それへの見返りとしての受領の奉仕という結合関係ーーがその原因の正体であったと言えよう。
 さて、ところで「挙」が正常に機能したとすれば、必然的に公文勘済の旧吏や新叙巡に当たる人が受領有資格者として、多く推挙されることとなる。とすれば、それはおのずから一つの昇進コースを作り出すことになろうし、有資格者達には一つの既得権的な意識をうえつけることになろう。すなわち、巡第一者であることが補任申請の正当な条件として意識されるようになる。そして、このような人々が滞りなく、公平に受領となってゆくことこそ、「理」に叶った除目のあり方と考えられるようになる。
 しかるに十一世紀以降ともなると、「理」に叶わない例が増加してゆく。当然のことながら、貴族達の日記にも「無理」に対する不満が書きつけられるようになるわけであるが、実はこの時期こそが、制度面で「挙」が形骸化し、半身不随となった時なのである。言うまでもなく受領の大部分は恒例除目において任命されると思われるが、天皇(その代行者たる摂関)や院は、その「受領挙」を実効のない儀式に封じ込めることによって、自由裁量の余地を大幅に拡大したと言えよう。これが彼らの専制的な権力の形成に少なからず寄与したであろうことは言うまでもない。
 そして、こういった時期に、貴族達に常に想起されるのが「延喜、天暦御宇」なのである。これは十世紀初頭の頃において、「受領挙」をも含めた受領補任がその「理」通りに運営されていたことをあらわすものであろう。
 日本の古代国家の権力の中枢部に専制的傾向と貴族合議制的傾向が共存することについては多くの指摘があり、また、その本質をいかにとらえるかについての論争も行われている。この論争に正面から取り組み、平安期の国家の特質を考えるには、あまりにも力不足と言わざるをえないのであるが、受領補任というせまい範囲の分析から得られた結果は、専制的傾向が貴族合議的傾向を蚕食してゆく経過を示しているようである。
 恒例除目の受領挙の成立及び形骸化は、それぞれの段階における両傾向の力関係を物語っていると言えよう。対貴族関係において独自の政策をとった宇多朝(887-897年)においてそれが成立し、摂関権力の最も強力となった道長政権下に無力化し、院政期にひきつがれてゆくことも偶然の結果ではなかったのである。」(玉井力氏、上掲書330〜2頁)


玉井説の私的要約 如月 - 2005/07/23(Sat) 14:49 No.783  

要するに、玉井さんは、平安時代中期に起こった政治構造変化を、一般的に考えられるように、天皇専制から貴族政治への移行とはとらえておらず、むしろ天皇専制が強化される方向で変化したとしており、受領挙の変化からこうした推移が伺えるというのですね。
玉井さんの場合、摂関政治の位置づけもこうした方向からなされており、貴族の代表としての摂関が天皇を抑圧したというかたちで単純な貴族政治が実現したのが摂関政治ではなく、一端天皇に権力を集中させたうえで、その天皇大権を蚕食していったのが摂関政治だというわけです。
この見方は、とてもユニークだと思いますし、これは、後の院政政権論等にもつながってきますね。


ほおずき市 投稿者: 投稿日:2005/07/17(Sun) 05:23 No.764   <Home>
ほおずき市もアップしました。HP”新着情報”にリンクしてあります。お暇な時にご覧下さい。


Re: ほおずき市 後鳥羽院 - 2005/07/17(Sun) 15:39 No.767  

朝顔市と酸漿市は、昔、なんどか行きました。
懐かしいですね。
酸漿の変種は寡聞にして知りませんが、アッと驚くような朝顔の変種はございましたか。
つぎは、浅草のカーニバルの写真を期待しておりますね。


珍種  - 2005/07/17(Sun) 19:48 No.769   <Home>

後鳥羽院様、レスありがとうございます。
朝顔の珍種、ありませんでしたね。
というより、今年の朝顔市は雨が降らないうちに、見ようと必死でした。
小生が鶯谷駅に着いた後、雨が本格的になりました。
もっとも、朝顔市、最近は屋台の風情を楽しむイベントになっているようです。
そういえば、古来、朝顔を歌った歌?余り聞かないですね。
古くは昼顔といったのかな?
朝顔が普及したのは、江戸時代のようですね。


朝顔の古歌 如月 - 2005/07/23(Sat) 14:53 No.784  

朝顔の和歌、平安中期には、たとえば次のようなものがありますね。

 朝顔をなに儚しと思ひけむ ひとをも花はさこそ見るらめ 藤原道信


キャベツのように華麗な花たち 如月 - 2005/07/24(Sun) 16:25 No.786  

新たな園芸植物の育種(一般にいう「品種改良」のこと、ただし私にはそれらは少しも「改良」と思われないので、原則としてその用語は用いない)に関するアメリカと日本の違いについて、『園芸世界』8月号(改良園)におもしろい記事がでていましたから、引用しておきます。

「米国様式の特徴として、大輪、広弁、強い波状弁、整形、濃厚で強烈な色彩などを連ねることができます。また放っておいても育つような強健さも特徴です。(中略)
 このような特徴を生み出した背景には、そもそもアメリカが西欧文化を基盤としつつも多民族の国であり、明確で普遍的な美でないと人々に訴える力を持たないということが大きいのでしょう。花が大きく、色が濃厚鮮明で、のたうつような波状弁、言わばこれでもか、これでもかと迫ってくるハリウッド映画のような説得力がなければ、見向きもされないのです。そこでは日本のように、言わなくても分かるようなことはありません。余白を自らのイメージで補い、余情を味わっている余裕はありません。目の前に、現実に百パーセント提示されてこそ、はじめてそこに美的価値が見いだされます。こうして生み出された園芸植物は、強い美的説得力、普遍性を身につけており、米国のみではなく世界を席巻するのです。次々と発表される品種は、息をのむような美しさです。
 さて、このような米国の園芸文化では、育種において本来西欧の美意識である「理想形への収束」がそのまま引き継がれ、強く働いています。日本の園芸文化ですと、花型の変化の追求と言うことがあります。その極端な例が変化アサガオですが、日本ではどんな園芸植物でも、正規の花型からの逸脱といった傾向が多かれ少なかれ必ず見られます。いっぽう西欧はこれとは全く逆で、単一種内はおろか、種を超えて、いくつかの理想型に統一、収束させようとする強い傾向があります。そのひとつのあらわれが、古典主義様式にみる円環状整形花の追求であり、オーリキュラやチューリップ、カーネーション、ピンク、ヒヤシンスなど、種を超えてみな同様な花型の追求が行われたことはこれまで見て来た通りですが、結局この流れは現在に至るまで受け継がれているわけです。
 ここに来て、アメリカで育種が進んだ園芸植物も、種を超えて同じような形を整えることが傾向として強く見られるようになってきました。それには二つの理想型があるようです。
 その一つは、八重咲きにおけるキャベツ状花です。この典型はバラですが、ベゴニア、インパティエンス、ツバキなど、みな育種が進むほどキャベツ状を呈するようになって来ているように感じます。(中略)
 ここで感ずるのは、このような育種が進むにつれ、元の植物の持ち味が薄れつつあるということです。一見みな豪華ですばらしく華やかですが、どれをみてもキャベツのような八重咲きか、カトレアのような波状弁ばかりでは、本来のよい持ち味が失せてしまうような気がします。かえってつまらないのではないでしょうか。
 それぞれの植物の持ち味を最大限に追求し、形の変化を重んじた、江戸以来の日本園芸の美意識を解する私からみると、このあたりにアメリカ園芸の、アメリカ様式の孕む問題点が潜んでいる気がします。」(原一男氏、「身近な園芸の哲学ーー園芸の本質を探る」第41回)


古歌  - 2005/07/25(Mon) 23:56 No.790   <Home>

如月さん、ありがとうございます。
さすがですね。
小生は俳句で朝顔、今、いろいろ探しています。
こちらは多いですね。
品種改良といえば、ソメイヨシノもそうですよね。


猫の夢 投稿者:後鳥羽院 投稿日:2005/07/16(Sat) 15:08 No.761  
昨日は、異常な炎天下、竹橋の国立近美に、『小林古径』展をみにいってきました。観客の大半は爺さん婆さんでしたが、古径の人気の高さにおどろきました。西洋絵画に食傷気味の私には、大変新鮮でした。
山種美術館所蔵の「猫」(昭和21年)は絶品かと思われました。エジプトの猫のミイラの影響があるかもしれない、と解説にありましたが、誠に神々しい猫です。

東京都の某知事は、都立大を潰したい意向のようですが、フランス語をめぐる茶番劇、面白く眺めています。某知事は何が言いたいのか、よくわからないのですが、裁判を起こしたフランス人も、よくわかりません。
あの裁判は、訴えの利益がない、あるいは、原告適格性がない、というような理由で、おそらく「却下」(いわゆる門前払い)になると思いますが、私が裁判官でしたら、馬鹿馬鹿しくて判決文なんか書く気になれず、ル・モンドでも読んで時間を潰すところですね。

もうすこし涼しくなって、佳い夢を見たい今日この頃です。


信長の柩 後鳥羽院 - 2005/07/16(Sat) 20:33 No.762  

『信長の柩』を読んでみました。
著者の加藤廣さんは、実業界で活躍し、企業の栄枯盛衰を見てきて、75歳で作家に転じた人のようですが、加藤さんの仮説はちょっと無理かなあ、という印象を受けました。
本能寺の変は、信長の遺骸がどうなったのか、肝心要のことがわからず、謎が多いようですが。

古径の「猫」には、桔梗の花が書き込まれているのですが、桔梗といえば日向守の紋で、そう思って猫の顔を見ると、なんだか光秀のように見えてきます。


世界という散文の解読 如月 - 2005/07/17(Sun) 18:05 No.768  

現在『言葉と物』(フーコー)再読中ですので、あまりRESできませんがどうぞ宜しく♪現在第8章「労働、生命、言語」を読んでますから、今日、明日とまじめに読めば明日中には読了するでしょう。
書きたいことはいろいろありますけど、このなかの第二章「世界という散文」を読むと、私なんかはすぐこれを院政期理解(密教的世界観の解明)につなげたくなってしまうんですね(笑)。


読書  - 2005/07/17(Sun) 22:52 No.770   <Home>

ハイデッガー『存在と時間(上・下)』ちくま学芸文庫を、読んでいる最中です。ようやく半分ぐらい…。


ハイデッガー『存在と時間』読了  - 2005/07/23(Sat) 08:19 No.779   <Home>

ざっと、通読しての感想は、「大した事ない」の一言。この程度なら、道元の方が、ずっと上であろう。

「山も時なり、海も時なり。時にあらざれば山海あるべからず、山海の而今に時あらずとすべからず。時もし壊すれば山海も壊す、時もし不壊なれば山海も不壊なり。この道理に明星出現す、如来出現す、眼睛出現す、拈華出現す。これ時なり、時にあらざれば不恁麼なり。」(『正法眼蔵』有時の巻より)


またまたリンクの追加です。 投稿者:如月 投稿日:2005/07/16(Sat) 13:10 No.760  
続いては、阿哈馬江(Ahmadjan)さんのホームページをリンク集に追加しました↓。
http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/index.html
メインコンテンツは日本の親王・諸王。まだ工事中が多いのが残念ですが、完成のあかつきには壮大なサイトになるものと予想されます。
(阿哈馬江さん、輔仁親王の項もよろしく♪)


内親王 後鳥羽院 - 2005/07/17(Sun) 15:12 No.765  

阿哈馬江さま。
清子内親王が普通の国民と結婚するとき、内親王というポストが問題になるかと思われますが、宮内庁において、内親王廃止(褫奪)の具体的手続きはどのようになされるものなのでしょうか。
また、夫の戸籍への編入は、具体的にはどのようになされるものなのでしょうか。
つまり、皇室典範と民法の親族編との間にある乖離は、具体的に、どのように架橋されるものなのでしょうか。


返信遅くなりまして申し訳ありません 阿哈馬江 - 2005/08/02(Tue) 21:00 No.806   <Home>

如月さま、こちらでははじめまして。
後鳥羽院さま、はじめまして。
 『日本の親王・諸王』の帳主、阿哈馬江でございます。このたびは、リンクを張ってくださり、ありがとうございました。気づいておりませんでした(私、あまりインターネットを利用いたしませんので)。ともかく、御礼を申し上げるのが大変に遅くなってしまい、申し訳ありませんでした。
 後鳥羽院さま、『皇室制度史料』をはじめとする文献の関係箇所を見れば、どのような手続きを踏むかについては、ある程度は分かるのですが、それが具体的にどのようなカタチで行われるのかについてまでは、私にも分かりません。結構、『皇統譜』と戸籍に所定の記載がなされるだけ、というお役所的な問題に過ぎないのかも知れません。
 なお、私の知人(女性)で外国人と結婚した人がありますが、彼女は別に日本国籍を放棄したワケではありませんので、両親から独立して新たに戸籍が作成され、そこの隅の方に配偶者として外国人男性の名前が書かれておりました。


どうぞよろしく。 如月 - 2005/08/03(Wed) 01:22 No.811  

阿哈馬江さん、こちらでははじめまして♪
実は、小太郎さんの掲示板にアクセスして、あわててこちらに飛んで参りました(笑)。リンクに際して、メールをとも思ったのですが、貴サイトにメールに関する注意書きがあり、私のPC操作能力をもってしては対応不能と判断して、「えい、ままよ!」と勝手にリンクしたしだいです。悪しからず&今後とも、どうぞよろしくお願い致します。


新しいリンク♪ 投稿者:如月 投稿日:2005/07/16(Sat) 00:35 No.758  
歴史関係のリンクに斎宮歴史博物館を追加しました↓。
http://www.museum.pref.mie.jp/saiku/
同博物館は、三重県立のテーマ博物館で、三重県明和町に残る斎宮(さいくう)跡を保存し紹介する史跡博物館であると同時に、斎宮周辺の歴史を中心にして展覧会を開催しています。
7月23日(土)〜8月28日(日)は「祓川」をテーマにした企画展が開催されます。
中京地方〜伊勢方面に行かれる際は、ぜひお立ち寄りを♪


Re: 新しいリンク♪ 後鳥羽院 - 2005/07/16(Sat) 20:36 No.763  

後鳥羽の時の斎宮は潔子という人ですか。
はじめて知りました。


訓読みについて 後鳥羽院 - 2005/07/17(Sun) 15:25 No.766  

榎村寛之さま。
はじめまして。後鳥羽院と申します。

女性の名は、男と同じ様に、どう読むかはともかく、訓読み以外はありえまい、と思う者ですが、貴館が訓読みを採用している根拠について、ご教示願えれば有り難く思います。
角田文衛さんの説に依拠されているのでしょうか。


『アートシアター新宿文化 消えた劇場』 投稿者:如月 投稿日:2005/07/11(Mon) 13:31 No.751  
 葛井欣士郎氏の『アートシアター新宿文化ーー消えた劇場』(創隆社、1986年)を読んだ。1962年から77年まで、新宿・伊勢丹横にあった映画館兼劇場の歴史を、開館時から74年まで支配人を勤めた葛井氏が回顧的にまとめた著作だ。
 私事になるが、私が東北地方から東京の大学をめざした理由の一つが映画を自由にみたいということで、新宿文化では、1974年の5月、ブニュエルの『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』を初日にみている。この本を読むと、新宿文化は翌年、東宝系の洋画封切館に業態転換したのであり(そしてビル建て替えのため77年に建物が取り壊された)、ぎりぎり最後の段階で新宿文化に飛び込んだということになる。ただし、ブニュエル映画は現在でも私のベスト・ピクチュアの一つに入るほど記憶が鮮明だが、映画館の印象はほとんどない。
 葛井氏のこの本を読むと、「劇場は濃いグレーで統一され、正面入口の扉は黒いスモークの特殊ガラスがはめこまれ、その上には黒いバックに金文字でART・THEATREのプレート、ウインドーには黒い油絵のキャンバスに大きく引伸しトリミングされたスチールが二枚、場内もグレイ・ブルーの壁に、黒レザーの扉、金茶色の絨毯、すべてが無彩色に統一され、周囲の街の色彩から鮮やかに孤立して人目をひくには充分であった」とある。またその設計思想は、「この種の映画館は、芸術的に優れた映画の上映が目的であるから、観客動員のため劇場を麗々しく飾り立てる必要はなく映画自体が観客を集めてくれる。そこで私は最大限に劇場装飾を機能的にして映画を純粋な立場で鑑賞して頂こうと考えた。つまり、観客の注意の妨げとなる館内の装飾は一切避け、色彩もグレイ・スケール(灰色階調)で統一し、映画自体のもつ色彩をよりハイ・キーに感じさせるような配慮をしてみた」ということである。映画館の印象が鮮明ではないというのもむべなるかなと、自分でなっとくした。
 さて本題にはいろう。この小さな劇場で、『野いちご』(ベルイマン)、『僕の村は戦場だった』(タルコフスキー)、『去年マリエンバートで』(レネ)、『8 1/2』(フェリーニ)といった興行的に困難な傑作が次々に封切られていったのだ。
 また63年から、新宿文化は、映画終了後の時間を利用して舞台公演をも取り上げ、これが演劇界、さらには日本映画界を刺激し、新宿文化が企画し新宿文化で上映するための映画が次々に生まれてくる。
 要するにこれは、60年代、70年代の日本の先鋭的映画・舞台公演と企画がどのようにして行われていたかを証言するすぐれた文化史の本なのだ!
 そしてこの文化史は、新宿という街と表裏一体でもあり、新宿という特異な街の歴史でもある。新宿文化を核の一つとして、新宿の街に同時多発的にさまざまな運動が生まれ、それが新宿の顔をつくってきたのである。
 その頂点は1968年〜69年にかけてであろう。
 「新宿地下広場ではベ平連のフォーク集会が五千名以上の人の輪を集め、プロテスト・ソングの大合唱、地下広場をゆるがす若者のエネルギーはすさまじい勢いで拡がり、別の輪を生み、討論の場をつくり、迫りくる70年、繁栄の中の隔絶感と危機感ーー「だまってはいられない」という已むに已まれぬ衝動は、怒れる若者たちにいくつかの「スピーカーズ・コーナー」をつくらせていった。ある人は「いまの日本を動かしていくエネルギーみたいなものを感ずる町、新宿」といい、またある人は「新宿こそ、政治のゆきとどかぬ、アナーキーな町、いちばん魂を解放された人が多いから面白いのだ」と、新宿を表現した。レコードでも扇ひろ子の「新宿ブルース」のほか、「新宿育ち」「新宿エトランゼ」「雨の新宿」「新宿無情」「新宿ぐらし」等、TVも新宿コマ劇場前広場での生中継「なにかおもしろいことないか」で集まった群集による大ハプニング、大騒動をおこして以来、「新宿この空の下」等と、すべての目がこの街に集中されている感があった。それは爆発寸前のエネルギーがこの一点、新宿に集まって渦巻き、奔流のようにぶつかり合い、飛沫をたたきつけているような状況であった。」
 「このころは演劇のプロデュースよりも映画の企画という未知の対象に心奪われていたせいもあるが、日夜変貌し、うねり、波うつ時代の動きに巻きこまれ引きずられ、ただ茫然とこの街を見つめて時を過ごしていた。どの映画よりも、どの演劇よりも強烈、迫真のドラマが日夜この街で展開していたからである。新宿という巨大な舞台で何千、何万という大群衆によって演じられる大ドラマ、大スペクタクル、作りものの血ではない本物の人間の血が流れ、怒りの声が私の魂をゆさぶった。沸騰する巨大なエネルギーの街、爆発する前衛空間、ここ新宿文化で私は劇場支配人でもプロデューサーでも観客でもなく、出を待つ登場人物になりたいという決意を強めていったようである。」
 しかし新宿文化は単に受け身だったわけではない。新宿という街のエネルギーを正面から受けとめ、それを全国へ拡大していく拠点となっていく。九月、『真情あふるる軽率さ』公演で、蜷川幸雄が演出家として衝撃的にデビューする。
 「ちょうど劇場をとり巻く観客の長蛇の列のように、舞台の上に人の列が延々と続いている。青年たちがその群集の前でひたすら喋る言葉の洪水、激しい挑発、そして無惨な圧殺、機動隊の銃弾に倒れてゆく群集、若者たち。それは当時の状況を写してあまりにも生々しく鮮烈で、連日超満員の反響を呼び、観客のどよめきと悲鳴が場内に異様な熱気と昂奮をたぎらせた。ラスト・シーン、ロビーの扉から役者の扮する機動隊の群れが場内に乱入すると、観客は虚構と現実の間を超えて、悲愴な叫びが場内一杯響き渡るのであった。」
 一転して70年の挫折感が、新宿文化が主導してきた先鋭的表現をにぶらせ、それに追い打ちをかけるように、オイル・ショック、ドル・ショックという経済の行き詰まりが、新宿文化の母体となっていた三和興業の経営を行き詰まらせる。74年末、葛井氏は新宿文化を去り、新宿文化も興業形態を変える。アヴァンギャルド・シアターはその役割を終えたのだ。
 しかし、新宿文化が切り開いたみちは、その後、明確な主張をもって興行的に難しい作品に挑戦するミニ映画館、ミニ劇場の興隆を呼び、現在につながっている。
 これはやはり、日本の戦後文化史に欠くことができない一ページを記した、貴重な著述といえるだろう。

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