045908
網上戯論
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朝顔市 投稿者: 投稿日:2005/07/10(Sun) 01:58 No.749   <Home>
お元気ですか?ご無沙汰しています。
今年も朝顔市、行ってきました。ほおずき市も昨日行きました。
今年の朝顔市、雨模様で人出も少なかったですね。
写真もデジカメで撮りました。
小生のHPにリンクしてあります。よかったらご覧下さい。
デジカメですが、広角が欲しく、リコーGX8買いました。
それを使っています。


Re: 朝顔市 如月 - 2005/07/10(Sun) 23:54 No.750  

酒井さんは、ほんとうに活動的ですね。
ウェブ上の写真集、しばし楽しませて頂きました。


モ・クシュラ! 投稿者:如月 投稿日:2005/07/08(Fri) 11:49 No.746  
昨日、新宿にでかけ、ちょっと時間がありましたのでふらっと映画館に入りました。観たのはクリント・イーストウッド監督・主演の『ミリオンダラー・ベイビー』。予備知識はなにもなしに観たのですが、これがとてもおもしろかったです。
一見、ものすごい現代的テーマを扱っているようで、その実、この映画、とても古典的ですね。
考えてみると、能や歌舞伎は、『ミリオンダラー・ベイビー』と同じようなテーマを繰り返し繰り返し扱ってきたわけです。
つまり、現代のわれわれが観ると、能や歌舞伎の舞台は、まず「われわれと直接関係のない古い昔の出来事」として、いわばかっこ付きでたち現れますが、これらの芸能が成立した同時代には、むしろ現代劇として、身の回りにおこりうるなまなましい生と死のドラマとして受けとめられていたわけですね。『ミリオンダラー・ベイビー』は、ふとそんなことを考えさせます。なんというか、夢幻能のような作品といっていいのではないでしょうか。

ということで、この作品、中世史関係者にも絶対のお薦めです♪


続映 如月 - 2005/07/16(Sat) 01:33 No.759  

『ミリオンダラー・ベイビー』、丸の内ピカデリー2、シネマスクエアとうきゅう、渋谷パレス、池袋東急などで続映してますね。
如月にだまされたと思ってぜひどうぞ。
もしだまされたとしても、アカデミー賞受賞作ですから、お友達と話すとき、「観たよ」という話題にはなるのでは…、


今日の義経 投稿者:後鳥羽院 投稿日:2005/07/03(Sun) 23:19 No.735  
一の谷の矢合わせは2月7日、とか言ってましたが、静御前お手植えのおだまきの花が咲いていました。いくら旧暦でも、おだまきの花期じゃないですね。静御前の有名な歌に合わせたにしても、安直でお粗末すぎます。私の好きな花ではあるんですが、NHKは一体、何を考えているのでしょうね。どうもよくわからない放送局です。はやく最終回にならないかなあ(笑)。


しずのオダマキ、掘り返し 如月 - 2005/07/04(Mon) 00:07 No.736  

反戦主義の義経像への疑問とか、大河ドラマへの疑問を数え上げるときりがないのですが、あのオダマキには私も別の角度から疑問を感じました。
というのは、私は日本固有種であるミヤマオダマキをヴェランダで栽培しているのですが、あのようにたけたかくはならないのです。静が植えたのは西洋オダマキだったのではないでしょうか?
ちなみに、以前、鎌倉のシーンで義経が摘んだオキナグサも、私には日本固有種ではなく、花の色から言って西洋オキナグサにみえました。
「ハイカラ」なドラマですから、おそらくそれでよいのでしょう…。

(ちなみに、オダマキもオキナグサも、キンポウゲ科の宿根草で、非常に深く根をはりますから、静のような植え方では、おそらく枯れてしまいます。)


映画『BLACK』の紹介 投稿者: 投稿日:2005/07/01(Fri) 21:31 No.729   <Home>
如月様、突然の書き込み申し訳ございません。
日本で一人でも多くの方に知っていただきたいと思う映画に出会いまして、こちらで紹介させていただきます。
今年の2月にインドで公開されたサンジャイ・リーラー・バンサーリ監督の『BLACK』というヒンディ映画です。
ストーリーは、「奇跡の人その後」といった内容なのですが、映像も音楽もすばらしく、涙なしには観ることの出来ない、ピユアな映画です。特に子役の演技が天才的です。ヒンディー映画には珍しく、ミュージカルシーンが一切ありません。
英語が苦手なので、字幕が所々理解できないので、日本でなんとか公開してもらいたいものです。

オフシャルサイト
http://www.black-thefilm.com/main.htm

ビデオクリップ
http://www.applauseent.tv/black_promo.html

内容が不適切と思われる場合は、破棄して下さい。


Re: 映画『BLACK』の紹介  - 2005/07/01(Fri) 21:33 No.730   <Home>

>英語が苦手なので、字幕が所々理解できないので、日本でなんとか公開してもらいたいものです。

日本語になっていませんでした。


ご紹介ありがとうございます。 如月 - 2005/07/02(Sat) 10:00 No.731  

S口さん、こんにちは。
「アジアは一つなり。」
見る機会の少ないヒンディ映画のご紹介、どうもありがとうございます。こうした映画が正式に公開され、多くの人が見れるようになるといいですね。


Re: 映画『BLACK』の紹介  - 2005/07/03(Sun) 01:18 No.733   <Home>

>如月様
本当に変な書き込みで申し訳ありません。
今回の映画は良質であると思われましたので、書き込みさせていただきました。
私はこの映画を初めて観たとき、その衝撃で、涙がわけもわからずに出てきて、鳥肌が立ちました。
一生の中で、このような体験をすることって、なかなかないですよね。


Re: 映画『BLACK』の紹介  - 2005/07/07(Thu) 23:31 No.745   <Home>

追加情報です。
別にこの店のまわし者ではないのですが....。
日本語字幕バージョンも発売されたようでして。
Windows対応のようです。(ちなみに私のはMacなので対応不可。涙。そうとう悔しいです。)

サイトは↓から
http://www.tirakita.com/Movie_VCD_DVD2/DVD/dvd_308.shtml


『金葉集成立史小考』 投稿者:如月 投稿日:2005/06/30(Thu) 11:35 No.726  
待てば海路の日和あり。

さて、大変お待たせいたしましたが、小論『金葉集成立史小考ーー輔仁親王鎮魂の視角から』を掲載した再興中世前期勉強会会報『段かづら』第5号が発行されました。
小論が依拠する位相につきましては下記のページに掲載しておりますが、この機会に小論をお読みいただき、またご批判を頂戴できれば幸いです。
http://www.furugosho.com/information/kinyoshu.htm

なお、メール等でご連絡いただければ『段かづら』をお送りできますが、私の手元にもまだ小部数しかないため、↑ページから直接事務局にお問い合わせいただければ幸甚です。


Re: 『金葉集成立史小考』 岩錆 - 2005/07/05(Tue) 00:03 No.739   <Home>

今日『段かづら』事務局から送って頂いたのが、届きました。
楽しみ、楽しみです。


クリスティー調♪ 如月 - 2005/07/05(Tue) 12:59 No.740  

岩錆さん、こんにちは。
『段かづら』、わざわざ事務局にご請求くださったのですね。ありがとうございます。
私の金葉集成立史論は、アガサ・クリスティー調で書きましたので(笑)、結論だけでなく、推理のプロセスもお楽しみいただければ幸いです。


初のRES 如月 - 2005/07/07(Thu) 00:06 No.744  

『金葉集成立史小考』、三重大学人文学部・山田雄司さんから非常に丁寧なRESをいただきました↓。
http://www1.ezbbs.net/27/yonnoji/
こうしてRESをつけていただけると、やはり非常にうれしいです♪


小論に対する批判的意見(賀茂社に関して) 如月 - 2005/07/09(Sat) 00:49 No.747  

好意的批評だけ取り上げるのは片手落ちでしょうから、本日封書にて頂戴した小論に対する批判的見解もご紹介しておきたいと思います。

「賀茂社に輔仁親王の霊がまつられるというようなことは絶対にありません。怨霊と御霊は別のものであり、御霊神といわゆる「神」はそもそも祭り方が違うのです(例えば北野天満宮は「宮寺」の範疇で理解されるもので、むしろ祇園に近く、賀茂氏の氏神に起因して王権を守護する賀茂社とは全く性格が異なるのです)。この時代に今の「神道」のような統一的民族宗教まがいの言説があり、その概念を拡大することで色々なモノを神として祭れる、ということはまずあり得ません。御霊神が賀茂社のような氏神に包摂されることがあるというなら、それを実証しなければならないでしょう。」(某歴史博物館学芸員E氏)

Eさん、どうもありがとうございました。ご教示、大変勉強になりました。ちなみに、Eさんが批判されているのは、小論の次のような記述です。
「なお、大治元年に生まれた恂子内親王(後に統子と改名。保元三年(1158)後白河の皇后に擬せられ、平治元年(1159)に上西門院となる)は、誕生の翌年、異例の若さで賀茂斎院に卜定されている。長承元年(1132)に恂子内親王が病気で退下した後を引き継ぐのはその姉禧子内親王。姉の禧子内親王をさておき、恂子内親王が先に斎院に卜定されたという順序にも恣意性が感じられるが、恂子内親王、禧子内親王の斎院卜定のポイントは、璋子から生まれた女子であるということではないだろうか。しかし禧子内親王も体調が万全ではなく、二カ月で斎院を退下する。その後は輔仁親王の女子怡子内親王が引き継ぎ、平治元年まで斎院を勤めている(註21)。してみると、『金葉集』撰進後、輔仁親王の霊は斎院が奉仕する賀茂社にまつられたということであろうか。五味文彦氏が指摘している「白河院の祇園祭への積極的関与は、天治元年(1124)にいたって新たな段階をむかえる。まず御霊会において、「内・院・新院殿上人殊蒙仰、令騎馬長七十余人」とあるように、内・院を始めとする諸所殿上人に馬長の騎進が命ぜられた」(「馬長と馬上」、『院政期社会の研究』所収、山川出版社、1984年)といった事実も、以上のような『金葉集』編纂のプロセスと合わせて再考してみたくなる。」
この辺は、小論のウイーク・ポイントであり、Eさんのご指摘の方向であらためたいと思います。

また、Eさんからは、あわせて次のようなご指摘も頂戴しました。
「御霊の件は、寧ろ、輔仁の系統を王権祭祀に関わらせることに意義があったと考えることができます。」
丁寧なご指摘にあらためて御礼もうしあげます。

なお、この件につきましては、小論紹介ページ↓の系図もご参照ください。
http://www.furugosho.com/information/kinyoshu.htm


Re: 『金葉集成立史小考』  - 2005/07/09(Sat) 20:07 No.748   <Home>

研究の励みにもなるでしょうから、学会の会員同士、他の会員の研究を批評するというのは好いものですね。というより、それが普通なのでしょうが…。
ちなみに、数年前、私も或る哲学の学会の会員でした。当時、その哲学学会の委員の先生方、十名ぐらいに、先日、出版した哲学の論文と、ほぼ同様のものを、批評を請う丁重な手紙とともに送ったのですが、その全員に、完全に無視されました(会員同士、研究を批評するというのは、当然のことだと思うのですが、無視するというのは、どういうことなのか、いまだに理解できません)。


Re: 『金葉集成立史小考』 いーです - 2005/07/13(Wed) 13:21 No.755  

 某博物館のEです(^^;)。-ちなみに昨年「百人一首の世界」という天を恐れぬ展覧会を開いた東海地方の博物館です-
掲示ありがとうこざいました。如月さんは本名で送られたので、最初は誰かわからなかったのですよぅ。
 院政下の斎王の位置づけ、特に白河院を巡る斎王の政治的役割については、郁芳門院を始め、それ以前の常識で割り切れないものが多いのです。それは院政と称される王権が、どのような形で王族を権力の中に位置づけていたか、という問題でもあります。特に斎王以下の女性皇族の位置づけは、女院の問題をはじめ、まだ議論すべき問題が多いのです。その意味で如月さんの示唆した方向は、衰亡した王家の分流を王権祭祀の中に取り込むことで、院権力の充実を図るものだった、とも理解できるわけです。そこには勅撰和歌集の編纂という文化事業を政治目的(怨霊鎮護は立派な政治です)で行う、という、何でも政治目的に利用していく院政期の胃の腑のしたたかさ、とシンクロする意識がうかがえるのかもしれません。
 いずれにしても私の指摘は瑕瑾であり、研究の方向性は極めて興味深いものと考えているのです。


衰亡した王家の分流 如月 - 2005/07/14(Thu) 01:01 No.756  

いーですさん、書き込みありがとうございます。
院政期の斎王や女院のこと、わからないことだらけですので、これからもどうぞいろいろおおしえください。
ところで、「衰亡した王家の分流」の取り込みですが、小論の範囲を逸脱するので「金葉集成立史小考」には書きませんでしたけど、輔仁親王の叔父行宗の娘は崇徳に仕え重仁親王を生んでいますね。また有仁の養女(実父は藤原経実)懿子は親王時代の後白河妃となり後の二条を生んでいます。
ですから、輔仁親王一族の末裔が、実際に鳥羽・待賢門院系の皇統に入り込んでいるともいえるのです。
ただこの辺のことになるとあまりにも複雑で、私の手には負えません…。


イギリスの人形展 投稿者:如月 投稿日:2005/06/29(Wed) 15:18 No.724  
四谷シモンが参加した『人びとと人形展 Guys n dolls』(イギリス、ブライトン・ミュージアム・アンド・ギャラリー)が先日終了しましたが、イギリスでは、『タイムズ』『ガーディアン』などの代表的新聞もこの展覧会を取り上げ、大好評だったようです。同展覧会の紹介ページを新設いたしましたので↓、みなさん、ぜひのぞいてみてください♪
http://www.simon-yotsuya.net/exposition/brighton.htm

(この展覧会の名前、もっといい訳ないでしょうかね?アイデアありましたら、ご提案ください。)


 後鳥羽院 - 2005/06/29(Wed) 21:49 No.725  

新聞記事を見ますと、nの両肩に’がくっついているのですね。こういう記号表現に、英語圏でどんな「意味」が込められているのか、わからないですね。
また、guys をランダムハウスで調べてみますと、貶下的な使用ですが、「人形」の意味があって、さらに、奇抜な服装の人、という意味もあるのですね。佐々木道誉ではありませんが、バサラ、といったところでしょうか。
guys≒dollsか、guys∈dollsか、guys⊇dollsか、guys∝dollsか、「’n ’」のニュアンスがつかめないのですが、「ヒトとヒトガタ」展、なんていうのは、どうでしょう?
英単語がフランス語のように雌雄が明確であればいいのですが、guysは♂でdollsは♀のような感じがしますので、そうすると、「ヒトとひと」展、とでもなりましょうか。あるいは意訳して、「人ひとつ」展
、「ひとつ人」展・・・うーん、あんまり面白くないなあ。


パリの人形展ページを更新 如月 - 2005/07/03(Sun) 13:02 No.734  

'n'はしょせん訳しようがないからしかたないようにも思うんですが、やはりguysが難しいですね。ほんとは「人びと」なんておとなしい言葉じゃないと思うんです。

ところで、遅まきながら昨年のパリ市立アル・サン・ピエール美術館での『人形 POUPEES』展の様子を、画像つきで更新いたしました↓。
http://www.simon-yotsuya.net/exposition/saint-pierre.htm
パリのシモン人形、どうぞお楽しみください。


Re: イギリスの人形展  - 2005/07/04(Mon) 11:43 No.737  

如月さん、お元気ですか。
ちょっと、気になるんでお伝えします。英語で、n は単純にand の意味でしょう。研究社の馬鹿でかい英和辞典にも’n’=and
の略とあります。Rock 'n'Rollの例も載っていますね。
Guysは「野郎」といったニュアンスではないですか。同じ辞書に、Dolls and Guysでかわい子ちゃんとあります。どうなんでしょう。展覧会の内容を知りませんのこれ以上はわかりませんです。



'n'とandのあいだのdifferance 如月 - 2005/07/06(Wed) 00:44 No.742  

空気男さん、こんにちは&ご教示ありがとうございます。
上に「'n'はしょせん訳しようがない」と書いたので誤解があるかもしれませんが、もしそれが可能であれば、'n'とandのあいだのdifferanceを、日本語に置き換えてみたいという希望はあるのです。ただそれは私の手にはあまりますので、そのことを「訳しようがない」と書いた次第です。
なにかいい智慧はないものでしょうか?


関連して… 投稿者: 投稿日:2005/06/28(Tue) 18:33 No.722   <Home>
> ところで、思想における東西交流ですが、すべてを西高東低で
> 考えなくてはならないということもないんじゃないですか。
< (如月さん投稿から)

ディック・テレシ=著『失われた発見』林大=訳、大月書店、2005年6月発行の本があります(出たばかり)。

数学と科学的知見を中心に、その多くが非西洋起源であることを述べている興味深い本です(いま読んでいる最中ですが…)。


少し、紹介しますね。  - 2005/06/29(Wed) 00:23 No.723   <Home>

ディック・テレシ=著、『失われた発見』、林大=訳、大月書店、2005年、12〜13頁からの抜粋。

ヨーロッパ文明のルーツはアフリカ−アジア文化圏にある。ギリシア人はこのことを知っていて、それについて書いており、青銅時代さらには鉄時代にギリシアにあったエジプト人の植民地のことを語っている。ギリシアの偉大な知性は、たとえば、ピュタゴラス、デモクリトス、さらにはプラトンまでエジプトに旅し、エジプトの思想と知識をもちかえっている(自分の数学の才能はピラミッドの陰で磨かれたと認めるデモクリトス自身の文章が残っている)。ギリシア人は、エジプトに負うところがあることを認めていた。この「古代モデル」によれば、ギリシア人文化は紀元前一五〇〇年ころにエジプト人とフェニキア人による植民地化の結果、興ったのであり、ギリシア人は近東の文化から多くのものを採り入れつづけた。それは古典・ヘレニズム時代のギリシア人の常識だった。古代モデルは、ルネサンスから一九世紀までのヨーロッパ人にも受け入れられていたとバナールは書いている。ヨーロッパ人はエジプトに魅了されていたとバナールは言う。
数世紀の間、ヨーロッパ人は、エジプトが文明のゆりかごだと考えていた。状況が変わりはじめたのは一九世紀のことだ。このころ、キリスト教の護教論者たちがエジプトの汎神論を気にかけ、人種的純血の思想がロック、ヒュームら、イギリスの思想家の間に根を下ろしはじめた。こうして、一九世紀の前半に「アーリア・モデル」が生まれた。この見方は、エジプト人の植民地が存在したことを否定した。さらに、19世紀の終わりころに反ユダヤ主義が高まると、アーリア・モデルの提唱者はフェニキア文化の影響も否定した。

さらに、前掲書、14〜15頁からの抜粋。

伝統的な西洋の歴史家の多くがこう信じている。ギリシア文明が没落した後、独創的な科学はあまりおこなわれなかった。アラビア人はエウクレイデス、プトレマイオス、アポロニオス等の仕事を模写しただけだ。そして、最後にヨーロッパは自らの科学上の遺産をイスラム世界から取り戻したのだと。中世にアラビアの学者たちはギリシア人の写本を捜し求め、ペルシアのジュンディシャプールとイラクのバグダッドに学芸と翻訳の機関を設置した。西洋の歴史家は、この学者たちが中国やインドからも写本を集め、独自の科学を創造したということをあまり認めたがらない。
学問はカイロに広がり、イスラム教徒の帝国がヨーロッパに拡大するにつれて、スペインのコルドバとトレドに広がった。一二世紀にキリスト教徒がトレドを奪還すると、ヨーロッパの学者たちはイスラム教徒の文書に群がった。学者たちはアラビア人の文書なら何にでも興味をもった。ギリシア人の著作の翻訳だけでなく、アラビア人独自の著作や、ほかの文化圏の写本のアラビア語訳にも。古代世界の科学的知見の多く――ギリシア、バビロニア、エジプト、インド、中国のもの――が、スペインを通して西洋世界に伝えられた。一六世紀はじめにダマスカスとパドヴァの間でアラビア語の写本が大量に運ばれていたことを、ジョージ・サリバは突き止めているし、ヨーロッパの図書館で、アラビア語で書かれた、科学に関する文書が次々に再発見されている。また、ルネサンス時代のヨーロッパの学者にアラビア語に通じていた者が少なくなかったことをサリバは文献で裏付けている。
その一例として、パドヴァで学んだコペルニクスがいる。コペルニクスは本当にイスラム天文学者の仕事を借用したとすれば――結論はまだ出ていないが、かりにそうだとすれば――自分が知的な負債を負っていることを認めない理由が十分にあったとサリバは指摘する。オスマン帝国がヨーロッパの戸口まできていたときにイスラムの科学に言及することは得策ではなかったというのだ。


Re: 関連して… 如月 - 2005/06/30(Thu) 11:49 No.727  

佐々木さん、ご紹介ありがとうございます。
ヨーロッパ文明のルーツやエジプト文明の史的位置づけに関しては、話が壮大でコメントしづらいですが、イスラームに関する部分は、井筒俊彦さんがいつも強調されている点とも重なるかと思います。


それでは、もう少し…。  - 2005/06/30(Thu) 12:02 No.728   <Home>

 これまで、「コペルニクス革命」とも言われてきたギリシア以来の天動説から地動説への革新ですが、これからは、「コペルニクス剽窃」と呼ばれるようになるかもしれません。ディック・テレシ=著、『失われた発見』、林大=訳、大月書店、2005年、5〜7頁からの抜粋。

 コペルニクスは、当時利用可能だった数学を用いて、この新しい惑星系像を組み立てることができたのであり、コペルニクス革命は、エウクレイデス〔ユークリッド〕の『原論』やプトレマイオスの『アルマゲスト』のようなギリシアの古典を新たに創造的に応用することによって成し遂げられたと考えられていた。ところが、この考えは、一九五〇年代終わりに崩れはじめた。ブラウン大学のオットー・ノイゲバウアー、ベイルートのアメリカン大学のエドワード・ケネディ、シカゴ大学のノエル・スワードロウ、コロンビア大学のジョージ・サリバが、コペルニクスの数学を再検討した。
 その結果、天文学を革命的に変えるためにコペルニクスは、古代ギリシア人が考えだしたのではない定理を二つ必要としたということがわかった。ノイゲバウアーは、こんな問題を考えた。コペルニクスは、こうした定理を自分で考え出したのか、それとも、ギリシア以外の何らかの文化から借りたのか。一方、ベイルートで研究していたケネディは、アラビア語で書かれた紀元一三五〇年より前の天文学の論文を発見した。この文書ではなじみのない幾何学が述べられていた。ケネディは米国を訪れたときに、それらをノイゲバウアーに見せた。
 ノイゲバウアーは、即座に文書の重要性に気づいた。そこにはコペルニクスによる月の運動のモデルとそっくりな幾何学が述べられていた。ケネディが見つけた文書は、一三七五年に死んだダマスカスの天文学者、イブン・アル・シャーティルが書いたものだった。イブン・アル・シャーティルのさまざまな仕事のなかに、コペルニクスが用いた定理の一つがあった。それは、もともと別のイスラム天文学者、ナシール・アル・ディーン・アル・トゥーシーが考えだしたものだった。コペルニクスより三〇〇年ほど前に生きた人である。
 今ではトゥーシー対と呼ばれているこの定理で、プトレマイオスなど古代ギリシアの天文学者たちを悩ませて以来、何百年もつづいていた問題が解決した。それは、円運動から直線運動がどのように生じうるかということだった。こんなことを思い描いてみよう。大きな球の内側に、その半分の大きさの球があり、小さいほうは大きいほうに一点だけで接している。トゥーシー対の定理によると、大きな球が回転し、小さな球が逆向きに倍の速さで回転すれば、小さな球は大きな球の直径に沿って振動する。天球を適当に配置すれば、どのように周転円が従円のエカントのまわりを一様な速さで運動しうるかが、この定理で説明できる。今や、天球がその中心を通る軸のまわりで一様な速さで運動すると想定することで説明ができた。これでプトレマイオスの体系の落とし穴を避けることができる。大雑把なたとえとしては、車輪を回しながら上下に動く、蒸気機関車のピストンを考えればいい。
 コペルニクスの体系に見いだされるもう一つの定理は、一二五〇年より前にこれを唱えた科学者、ムアイヤド・アル・ディーン・アル・ウルディーにちなんで、ウルディー補題と呼ばれる。これは、長さの等しい二本の線分が、方向がそろっていてもいなくても、ある直線から同じ角度で延び、線分のむこう端が別の直線で結ばれていれば、この二本の直線は平行であるということだ。二本の線分の方向がそろっているなら、四本の線は平行四辺形を形づくる。コペルニクスは著作のなかでウルディー補題の証明を述べていないが、それは、すでにアル・ウルディーが証明を発表していたからだろう。コロンビア大学のジョージ・サリバは、コペルニクスがこの定理の発見者の名を挙げなかったのは、一六世紀のヨーロッパではイスラム教徒の評判がよくなかったからだろうと推測する。
 サリバの言葉を借りれば、ウルディー補題もトゥーシー対も、「[コペルニクスの]天文学に本質的に組み込まれており、これらを取り出して、なおコペルニクスの天文学を無傷のまま残すことは考えられない」。
 ……中略……
 地図の版元は、剽窃者をわなにかけるために地図に架空の島などを挿入することがある。コペルニクスは、発見者の名を挙げないでアル・トゥーシーの定理を借用したのか。動かぬ証拠はないが、コペルニクスの数学は、そうなる必然性のない細かい点でアル・トゥーシーのとそっくりなところがあり、その点で怪しい。どんな幾何学定理にも、それを発見した人が自由に選んだ文字や数字で標識づけされるさまざまな点がある。記号の順序や選択に必然性はない。ドイツの科学史家、ヴィリー・ハルトナーは、コペルニクスが幾何学的な点の表示に用いた記号はアル・トゥーシーの表記法とそっくりだと指摘している。つまり、アル・トゥーシーが「アリフ」の文字で表示した点を、コペルニクスはAで表示しており、さらに、アラビアの「バ」の文字で表示された点はBでという具合に、コペルニクスは、それぞれの点を、その標識として使われたアラビア文字に相当するローマ字で表示している。たんに標識のなかに同じものがあるというわけではない。ほとんどすべて同じなのだ。


ねじり花 投稿者:あかねこ 投稿日:2005/06/23(Thu) 11:27 No.713  
 如月さま、皆様ご無沙汰してます。
毎度突然の脱力系カキコミ脱線ですみませんが・・

 この時季、我が家の周りでは雑草にまじって「ねじり花」が咲きます。ピンと突き出た茎の周りを螺旋状に小さな可憐なピンクの小花が取り巻いて、よくよく見るととても不思議な形状です。

どんな系統に属する植物なんでしょうか?チョッピリ興味が湧きました。

 ところで昨日、神保町すずらん通り路上でうららさんと遭遇!
一年ぶりの再会でした。私は某書店に届け物をした帰り、うららさんは某書店の編集者さんとご一緒・・・本の世界も狭い狭い。この掲示板の本好きさん達ともそれと知らずすれ違っているかも知れませんね。

 今日は歌舞伎座に「盟三五大切」を見に行く予定です。面白かったらまたご報告致します。

では・・お邪魔致しました。


乱れそめにし我ならなくに 如月 - 2005/06/23(Thu) 15:34 No.714  

ねじり花(ネジバナ)、別名モジズリ。我が家のヴェランダでもよく咲いてくれます。「みちのくのしのぶもじずり」って、この花を使うんでしょうか?可憐で、染色には向かないようにも思いますが…。
分類的には、ネジバナはラン科です。花をよくみると、一つ一つはカトレアを小さくしたようなかたちをしてますから、こんどのぞいてやってください♪
「盟三五大切」気にはなっているたですが、今月も歌舞伎座には行けそうにありません。感想、ぜひお聞かせください。


Re: ねじり花 後鳥羽院 - 2005/06/23(Thu) 21:13 No.715  

むかし、ネジバナの右巻きと左巻きと、どっちが多いのだろう、と統計を取ったことがあります。私の仮説は、地球の自転が影響している、というものだったのですが、かぞえているうちに、だんだんわからなくなってやめました(笑)。
去年、佐渡に行き、順徳院の二宮のお墓を詣でたとき、墓前の杉苔の中から、ひともと、季節はずれのネジバナが咲いていたのが、とても印象に残っています。
それにしても、あの花は、なんであんな不自然はフォルムをしてるのでしょうね。ダーウィン進化論では絶対説明できないフォルムのような気がします。


ご無沙汰をば Ulala - 2005/06/24(Fri) 10:02 No.717  

みなさま、ご無沙汰をしております。
先日、すずらん通りにあるイタリアン・コーヒーLAVAZZA使用のカフェで某編集者と語らったのち、通りに出たところでバッタリと、あかねこ様にお会いしたのでした。
みごとに真正面からの遭遇でしたね。どちらかが呼び止めたという形ではなく。

如月さま、「しのぶもぢずり」は、ネジバナではなさそうですよ。
東北地方の染め物に「もぢずり」というのがあって、「しのぶ」は、その染料が「しのぶ草」だからという説と、その地方の旧名が「信夫」だったからという説と、ふたつあるそうです。
いずれにせよ「忍ぶ」というイメージは、東北地方に似合う感じがいたしますね。


ねっこ草 あかねこ - 2005/06/24(Fri) 18:12 No.718  

 早速、皆様にレスつけて頂き、お勉強になりました。
「ネジバナ」が正式名のようですね。その上、蘭科とは!。雑草にしておくのはもったいないと、路傍のネジバナを鉢に移植してよくよく観察いたしました。たしかにカトレアのような花弁で白い花弁も混じっている。巻き方も右、左両方あって、中には螺旋状に巻かず一列に「ブラシ状態」で咲いている花もありました。ついでに「ネジバナ」で検索したら19900件も情報が!綺麗な写真も沢山あって結構皆さん気になる花なんですね。

 移植後の育て方については・・「難しいのか、易しいのか。 特に、ここに住んで下さいと希望するところからは 消えてしまうことが多いです。 結論は移植に弱いです。」とのこと、ちょっとガッカリですが、種で勝手にどんどん殖えるらしいので、期待せずに来年を楽しみにします。

 「しのぶもぢずり」については・・現在の福島県信夫地方で作られていた、乱れ模様の摺り衣(すりごろも)のこと。摺り衣は忍草(しのぶぐさ)の汁を、模様のある石の上にかぶせた布に擦りつけて染める方法で「しのぶずり」などとも言われます。この「しのぶ」は、産地の信夫とも、忍草のことだとも言われます・・という記述がありました。模様が乱れているのが「もじずり」に似ているという事のようです。歌の作者は「河原の左大臣」あの能の「融」の主人公、風流大臣源融ですね!

 万葉時代には「ねっこ草」と言われていたらしく

しばつきの みうらさきなる ねっこ草 あひみずあらば あれ恋ひめやも. 万葉集 14-3508.

のねっこ草はネジバナの事と考えられているそうです。

 うららさまはずずらん通りのカフェでイタリアン珈琲でしたか・・私はスヰートポーズで軽く餃子を頂いてから、和菓子屋の「ささま」に向かうところでした。久しぶりの神保町でしたので、ついつい贔屓のお店をはしごしてました。

 昨夜も歌舞伎に蕎麦・・銀座の夜を楽しんできました。感想はまたそのうち、複雑な内容ですので、もう少し頭の中を整理しないと説明できないのです。





『本の神話学』 投稿者:如月 投稿日:2005/06/22(Wed) 15:12 No.711  
話がいつまでたっても『ベルリン三大歌劇場』に到達しませんが(笑)、こうなればままよ!ということで、脱線ついでに山口昌男さんの『本の神話学』ものぞいておきましょう。

「ここで一言しておくならば、オペラを含む行為が、すべて日常世界からの遮断から成り立っているということは、オペラ劇場ーーもちろんそれも、第二次大戦後に建てられたベルリン国立歌劇場のごときものでなく、例えばウィーン国立歌劇場を頭におこうーーの構造そのものが示しているものだともいえそうである。入口がある。あちらこちらに金モール飾りのついた大げさな旧(脱?)時代的服装をした守衛があちこちに立っている。もちろん、開衿などで入っていけないのは、ここにおいて期待されるのは儀式的・非日常的様式だからだ。(中略)
 オーケストラは、モーツァルトのオペラにおいて、舞台の世界の現実を日常世界の現実から切離す。その予備作業は、オペラハウスの構造においてある程度なし遂げられていることはすでに述べたところである。第二に、オーケストラは聴衆の内的な純粋持続の時間の流れを、舞台の登場人物の内的な体験につきあわせて、進行中の音楽的過程の単一の統合された流れとするという働きを持つとシュッツは説明する。何だか面倒くさそうな言い方だと思うむきもあるかもしれないし、これだから半可通の素人の書くことは始末におえない、やっぱり本職の極り文句の方が気易くつきあえると、投げだしたくなるむきもあろうかと思うが、短気は損気である。オーケストラは、そこで聴衆に、劇中人物が、彼らの内的な世界について彼らの行動、身振り、そして言葉で表現する以上のものを示すのである。つまり、心理ぬきで、「かたち」の運動としてモーツァルトのオペラを見るとき、オーケストラは、舞台世界の諸々の「かたち」のすべてをすっぽり内包する適切な音響空間を提供するというのである。私が弦中心の華麗なべームよりも、ウィーン・フィルを率いた情感作用過多のルドルフ・モラルトよりも、フリッチャイよりも、クレンペラーの剛直さをとるというのは、このモーツァルトのオペラ空間におけるオーケストラの演劇性を知りつくし、音楽そのものにおける還元作用をクレンペラーが知りつくしているからである。クレンペラーは、管の一つ一つの音に至るまで、明確にその位置を与えて、どのようなパッセージにも、人声にも、管にも、弦にも、通奏低音にも、非音楽的音響にも、つねに全体との関係が明確に示される位置を与える。これはまさにマックス・ラインハルトが表現主義的演出において意図したところのものなのだ。劇にも達していないところでは、まず劇ということは必要かもしれないが、モーツァルトのオペラに関していえば、劇を離脱して音と空間の戯れとして捉えなければ話が収まらないのである。
 だがたしかに、『ドン・ジョヴァンニ』の騎士長との決闘の場面は、説明に便利な場である。クレンペラーの盤でも、剣の触れ合う金属の響きが、あたかもオーケストラの部分であるかのごとくに爽快な音をたてる。音の「かたち」として組み込んだものである。この時代の芝居では、剣戟の音または剣舞的華やかさは劇的クライマックス、すなわち劇的エネルギーが流入して噴出する場面だったことは、カローのコンメーディア・デラルテの数多くの銅版画の示すところであり、クレンペラーはそれを見逃していないのである。」(筑摩書房「山口昌男著作集@<知>」、2002年、97頁〜104頁)


朱子学 投稿者:後鳥羽院 投稿日:2005/06/20(Mon) 20:32 No.703  
「・・・王道は道徳による政治、覇道は権力による政治である。朱子学はあくまでも道徳の優越を説き、為政者が徳を修めることが政治の要諦であるとした。これに対して徂徠は『弁道』において、人間社会は単なる個人のよせあつめでなく、それとは別個の一つの全体であって、それを治めるのは徳によるのではなく、「道」によらねばならぬとした。「道」は解釈によって政治の技術ともとれる。要するに徂徠は、社会とは人工的なものであり、それを治めるには技術によらねばならない、という方向の考えをとったのである」(上垣外憲一「雨森芳洲」中公新書152頁〜)

1720年前後の徂徠と芳洲の思想劇ですが、18世紀中葉のフランスの思想界と、何かが似ている感じがして、面白く思いました。
ありえないことですが、徂徠はフランスの書も密かに読んでいたんじゃないか、と思えてきました。
それはともかく、この本はとても面白く読めました。


Re: 朱子学 岩錆 - 2005/06/22(Wed) 00:50 No.705   <Home>

お久しぶりです。

講談社学術文庫にも同じ著者で『雨森芳洲―元禄享保の国際人―』というのが、たまたま文庫内の新刊案内に載ってました。また本屋で探してみます。


渡辺浩さん、後藤末雄さん 如月 - 2005/06/22(Wed) 14:34 No.709  

徂徠はまったく読んでませんから、正面からのRESはできませんけど、先日の18世紀学会大会で都市論をされた渡辺浩さんが、この辺を研究しておられますね。渡辺さんの著作(『近世日本社会と宋学』『東アジアの王権と思想』<いずれも東京大学出版会>)、おもしろそうなものばかりですので、ちょっと読んでみたいです。
18世紀学会の報告は「都市論」ですから、渡辺さんは、それにそって江戸について語りましたが、その背景にあるのは、当然のことながら権力論(王権論)ですね。日本の「おおやけ」というのはpublicということではなく、日本にはpublicに相当する概念がない(都市構造にもpublic空間がない)ということを強調しておられました。
報告が終わってから、中世におけるおおやけ概念(権力が天皇と院に二重化されると同時に仙洞という空間が生まれる)について少しお話しさせていただきましたが、非常に率直な方という印象を得ました。

ところで、思想における東西交流ですが、すべてを西高東低で考えなくてはならないということもないんじゃないですか。
後藤末雄さんに『中国思想のフランス西漸』(平凡社<東洋文庫>、1969年)という著作がありますが、17〜18世紀に、イエズス会の宣教師経由などでフランスに伝わった「中国思想」を、丹念に調べ上げた労作で、マブリについても一章さかれています。後藤さんがこの本のオリジナルを執筆されたのは1933年。頭が下がる思いです。


Re: 朱子学 後鳥羽院 - 2005/06/22(Wed) 21:35 No.712  

岩錆さん。
ほんとにお久しぶりです。
最近、私は、中世を離れて18世紀の江戸に旅しています。
昔から、この時代の江戸に妙に惹かれるものがあります。

如月さん。
みんな興味深そうな本ですね。
おいおい探してみます。


市民的人文主義の終焉 投稿者:如月 投稿日:2005/06/19(Sun) 13:56 No.692  
『クレンペラー:指揮者の本懐』↓の序文にも引用されていますが、1920年代のドイツの精神状態の一面をみごとに表現したものとして、またクレンペラーの活動についての<文学的証言>として、以下に、トーマス・マンの『ファウストゥス博士』第34章の一部を抜き出してみます。(引用は、新潮社トーマス・マン全集第6巻、円子修平訳による)

「19世紀を包括するばかりではなく、中世の終焉、スコラ学派による拘束の粉砕、個人の解放、自由の誕生にまで遡る時代、わたしが、本来、広い意味で、わたしの精神的故郷とみなしていた時代、要するに、市民的人文主義の時代が終ったという感情、ーー弔いの鐘が鳴り、生の異変が起って、世界は新しい、まだ名のない星座のもとに入って行こうとしているという感情、ーー全身を耳にして傾聴することを命じるこの感情は、確かに戦争の終結によって初めて生れたのではなく、すでに1914年、戦争の勃発とともに生れていたのであって、これがその頃わたしのようなものたちが経験した霊撼、運命への怖れの底にあったのである。敗戦による荒廃がこの感情を極端にまで押し進めたのは不思議ではなかった、そして同時に、この感情がドイツのような敗戦国においては戦捷国においてよりも遙かに決定的に人々を支配したことは不思議ではない。戦捷国の平均的な精神状態は、まさしく勝利のゆえに、遙かに保守的だったのである。彼らは、われわれと違って、この戦争を決して深い分断的な歴史の段落とは感じないで、うまい具合に過ぎ去った混乱と考え、これが終った後では生は再び戦前の軌道に戻るものと思っていた。そのためにわたしは彼らを羨ましいと思った。わたしは特にフランスを、勝利によって得られた古典的合理的なものに安住していられるという感情のために、羨ましいと思った。確かにあの頃のわたしには国内に住むよりはライン河の向うで暮す方が遙かに快適で気楽であったろう、すでに言ったように、国内ではさまざまな新しいもの、混乱させるもの、不安にならせるものが次々にわたしの世界観に襲いかかって来て、わたしは、良心のために、それと対決しなければならなかったのである。」(『ファウストゥス博士』359〜60頁)


『デューラーノ木版画ニヨル黙示録』 如月 - 2005/06/19(Sun) 17:38 No.694  

 以下、トーマス・マンによるアードリアーン・レーヴァーキューンの音楽作品『デューラーノ木版画ニヨル黙示録』の全体的描写です。

「『終末は来たれり、終末は来たれり、そは汝の上に目覚めぬ、見よ、終末は来たれり。そはすでに出現して汝を襲えり、汝、この国土の住人よ』この言葉はレーヴァーキューンが彼の作品の中のテスティス、証人、語り手に、接続している異様な和音を基盤にして、純4度と減5度とを組み合わせた妖怪じみた旋律法で述べさせているものであり、4声の対立して動いていく二つの合唱の中で忘れ難い遺り方でこの言葉を繰返すあの大胆にも擬古的なレスポンソリウムのテクストをなしているものでもある、ーーしかしこの言葉はヨハネの黙示録に属しているのではない、これは別の層、すなわちバビロニアの幽囚の予言、エゼキエルの幻想と悲嘆に由来するものなのである。序でに言えば、ネロの時代のパトモスからのあの神秘な書簡はこの幻想と悲嘆に不思議な従属関係を持っている。同様にアルブレヒト・デューラーが大胆にもその木版画の一つの対象にした「書物啖い」は、ほとんど文字どおり、書物が(あるいは、嘆き、呻き、喘ぎが書いてある「書簡」が)従順に食べるものには密の味がするという細部に至るまで、エゼキエルから藉りたものである。同様にまたあの大淫婦、獣に乗った女(この大淫婦を描くのにニュルンベルクのデューラーは持ち帰ったヴェネツィアの高級売笑婦の肖像習作を上機嫌で参考にしている)は、その大部分が、しかも酷似した言い廻しで、すでにエゼキエルによって描かれている。事実、一つの黙示録的文化というものがあって、それが神秘的陶酔にとらえられる人々に、ある程度、あらかじめ確立されている幻影や体験を伝達するのである、ーーかつて誰かが憑依状態の中で見た幻想を後の時代の誰かが憑依状態の中で見るということ、神秘的陶酔は依存し借用し雛型に従って生起するのであるということは、心理的に不思議に思われるかも知れない。しかしこれが実情なのである。そしてわたしがこのことを指摘するのは、アードリアーンはその比類ない合唱曲のテクストをヨハネ黙示録だけから藉りたのではなく、いわば、わたしが言及したあの予言的伝統全体をその作品の中に取り入れたために、この作品は一つの新しい独自な黙示録を創造し、ある意味で終末のあらゆる告知を要約するものになった、という認識との関連においてのことである。『デューラーノ木版画ニヨル黙示録(アポカリュプシス・クム・フィグーリス)』という表題はデューラーへの敬意を表明したものであると同時に、二つの作品に共通の、視覚的具象化、細密画風、幻想的で精緻な細部による空間の濃密な充実という性格を強調しようとするものであった。しかしアードリアーンの巨大なフレスコがニュルンベルクのデューラーの15枚の絵をプログラムどおりに追った、と言うことは出来ない。確かに彼の戦慄的で技巧的な音楽の歌詞は、デューラーにも霊感を与えたあの神秘の書から数多く取られている、しかし彼は、その他にも、詩篇の中の陰鬱な詩句、例えばあの痛切な『わが魂は苦しみに満ち、わが生は地獄に近ければ』や、聖書外典の中で凄まじい強烈さをもって表現されている幻想や告発、さらに、今日では名状し難く深刻な響きを持つエレミアの哀歌の断片、そしてさらに広汎な範囲から、多くの言葉をその作品の中にとり入れることによって(それらすべては、別の世界の出現、清算の時機の到来、シャーマニズム的初期段階の彼岸思想と古代およびキリスト教からダンテに亙って展開される彼岸思想とを幻想的に融合した地獄行という全体的印象を生み出すためのものであった)、音楽的可能性、すなわち合唱、叙唱、アリオーソが活動する可能性を大きくしたのであった。」(『ファウストゥス博士』364〜65頁)


ロ短調ミサ曲 如月 - 2005/06/19(Sun) 18:19 No.695  

クレンペラーが演奏するバッハ「ロ短調ミサ曲」のCDを聴きながら、↑の文章をうちこみました。ひさしぶりに聴くと、これはやはりとてつもない曲ですね。今「クレード」ですけど、もちろん演奏もとてつもない!


Re: 市民的人文主義の終焉 後鳥羽院 - 2005/06/19(Sun) 20:08 No.696  

うーん、トーマス・マンはやはり重厚ですね。
どうなんでしょう、マンはマーラーを想定しながら書いてるような気がするのですが。
さて、『義経』がはじまりました。
檸檬酒(ニンモンチュウ)というリキュールを飲んでいますが、ラベルにある「酔枕夢海」という言葉が気に入りました。まるで後白河法皇のようだな、と。
アシュケナージが指揮している『義経』のテーマ音楽は、レーヴァーキューンの哲学的な音楽とは、ずいぶん違いますね(笑)。


一度聴いてみたい! 如月 - 2005/06/19(Sun) 23:40 No.697  

マーラーは第一次世界大戦前に亡くなってますし、アードリアーンの造形、音楽的にはシェーンベルクを意識しているということになってますけど、どうなんでしょうね…。『デューラーノ木版画ニヨル黙示録』、
一度聴いてみたいという気もします。

ところで、外出して今日の『義経』はワン・パスでした。なんか、回が進むに連れて、だんだんみたくなくなってきました。


世俗的な時代の祭祀的音楽 如月 - 2005/06/20(Mon) 00:11 No.698  

「世俗的な時代の中に祭祀的音楽を甦らせることにはそれなりの危険がある。祭祀的音楽は教会の目的に奉仕したが、それ以前には、すなわち、超地上的な仕事の管理人として司祭が医者であり魔術師でもあった時代には、もっと非文明的な、医学的魔術的な目的にも仕えたのではなかったろうか。これが祭祀の前文化的な野蛮な状態であったことは否定できるであろうかーーそして、後期文化的な、微粒子化する破砕の時流の中で共同体を熱望しつつ行われる祭祀的なものの復興が、祭祀的なものの教会による教化の段階にばかりではなくその原始段階にも属する手段に訴えるものであることは、解ってもらえるであろうか?レーヴァーキューンの『黙示録』がどのように練習しどのように演奏するとしても必ず出会う法外な困難はまさしくこのことと直接に関連している。そこにはいくつかのアンサンブルがあって、それらはシュプレヒコールとして始まり、段階的に、まことに異様な経過をへて、この上なく豊かな声楽になっていく、つまり、これらの合唱はぼかされた囁き声、音節ごとに区切った語り口、歌い語りのあらゆるニュアンスを通って最もポリフォニックな歌唱になる、ーーそしてこれに、単なる騒音、魔術的熱狂的でニグロ風な太鼓とゴングの轟音として始まり、最高の音楽にまで高揚する音響が伴奏するのである。この威嚇的な作品は、最も内密なもの、人間の最も崇高な感動とともに人間の中にひそむ動物をも音楽的に暴露しようとするその衝迫のゆえに、血みどろの野蛮とも冷血の知性ともこもごもに非難の矢を射ち当てられたのであった!」(『ファウストゥス博士』379頁)


戦慄的グリッサンド 如月 - 2005/06/20(Mon) 00:46 No.699  

「わたしは、わたしのヒューマンな不安をいつでも特別に掻き立て、いつでも敵意のある批判の嘲笑と憎悪の対象になった、一つの例を挙げようと思う。しかしそのためにはいささか根本に遡って説き起こさねばならない、誰でも知っているように、音芸術の最初の成果は、自然の音響を変性させ、原初的原人的にはいくつかの音高をすべりわたる咆哮であったに違いない歌唱をただ一つの音高に固定させ、混沌から音組織を奪い取ることであった。確かなこと自明なことであるが、音響の一つの規範的な標準秩序が、わたしたちが音楽と考えるものの前提であり、最初の自己表明であった。音楽の中に、いわば一つの自然主義的な先祖返り、前音楽的な時代の野蛮な残滓として潜んでいるのは、滑音、グリッサンドである、ーーこれは深く文化的な理由から最も細心な注意をもって取り扱わねばならない一つの手段なのだが、わたしはこれにいつでもある反文化的な、いや、反人間的な魔神の声を聞くような気がしたのであった。わたしの脳裏にあるのは、レーヴァーキューンが滑音を、もちろん偏愛したということは出来ないが、しかし際立って頻繁に利用したことである、少なくともこの作品、『黙示録』においてはそうであって、言うまでもなく、黙示録の身の毛もよだつさまざまな光景はこの野性の手段を使うためのこの上なく誘惑的な、そして同時に、最も正統的な機会をなしていたのである。祭壇の四つの声が、馬と騎士と皇帝と教皇と人類の三分の一とを薙ぎ倒す4人の死の天使を解き放てと命ずるところでは、テーマを鳴り響かせるトロンボーンのグリッサンドはいかに恐ろしい効果を挙げることであろう、ーーこの楽器の七つの調整位置つまりポジションを破壊的につき抜けて行くこの疾過は!そして、繰返して指定されているティンパニのグリッサンドから、つまりマシーネン・ティンパニをーーここでは連打の間に操作してーーさまざまな音高に変化させることによって可能になった音ないし響きの効果からいかに恐慌的な音響が湧き起こることであろう。その効果は極度に無気味である。しかしそれにもまして骨髄までも震撼させるのは、グリッサンドの人間の声への適用である、ところで、人間の声は音の秩序、いくつもの音高をつき抜ける咆哮という原始的状態からの解放の最初の対象であった、ーーしたがって、人声のグリッサンドはこの原始状態への復帰であり、『黙示録』の合唱は、第七の封印の解かれる時、太陽が黒く月が血のように赤くなって船が転覆する時、絶叫する人間たちの役割の中でそれを戦慄的に実現するのである。」(『ファウストゥス博士』379〜80頁)


声楽と器楽の音響倒錯 如月 - 2005/06/20(Mon) 09:13 No.700  

「わたしは『黙示録』の声楽パートと器楽のパートとの間にしばしば行われている奇妙な音響倒錯を指摘しようとしたのであった。合唱とオーケストラとはそれぞれ人間的なもの物的なものとしてはっきり対立してはいない。この二つは入り混って融合している、すなわち、合唱は器楽化されオーケストラは声楽化されている、ーーそれは、事実、人間と物との境界がずれてしまったと思われるまでに、またそう思わせることを目的として行われているのである、このことは確かにこの作品の芸術的統一性には役立っている、なぜならそれだけですでにそこにはーー少なくともわたしの感情にとってはーー不安を起こさせるもの、危険なもの、悪意あるものすら感じられるからである。いくつかの例を挙げよう、あの緋色の獣に乗った女、地の王たちがこれと淫を行なったバビロンの淫婦の声は、奇怪にも、優雅きわまるコロラトゥラ・ソプラノにうつされていて、その絢爛たる歌唱はしばしば完全にフルートと同じ効果をあげながらオーケストラの音響と融合する。他方、さまざまに弱音器をつけたトランペットがグロテスクな人声を出し、小さな部分オーケストラの多くにおいて、悪魔の歌、地獄の息子たちの恥ずべき輪舞の歌の伴奏を受持つサキソフォンも同じことをする。アードリアーンの本性の憂鬱に深く根ざした嘲笑的模倣の能力は、ここで、地獄の没趣味な傲岸不遜が表現される多種多様な音楽様式のパロディにおいて創造的になる、すなわち、滑稽化されたフランス印象主義の響き、ブルジョワ・サロン音楽、チャイコフスキー、ミュージック・ホール、ジャズのシンコペーションとリズミカルなとんぼ返りーーそれらすべてが中世騎士の馬上の槍試合のように多彩に煌めきながらぐるぐるとまわる、つまり、真剣に沈鬱に気難かしくラディカルな厳しさをもってこの作品の精神的位階を主張する主要オーケストラの基本表現の上をぐるぐるとまわるのである。」(『ファウストゥス博士』381頁)


小節の区分がほのめかすもの 如月 - 2005/06/20(Mon) 09:28 No.701  

「古い音芸術は、のちに音楽が理解したようなリズムを知らなかった。歌は言葉の法則に従って韻律化されていた。それは小節や楽段に区切られた拍子に従って進行するのではなくて、むしろ、自由な朗誦の精神に従っていた。そしてわれわれの音楽、現代の最も新しい音楽のリズムはどうであろうか?それもまた言葉のアクセントに近づいているのではないであろうか?変化の多い過度の可動性によって解体したのではないであろうか?ベートーヴェンにすでに、来たるべきものを予感させる、あるリズム上の自由を持つ楽節がある。その自由はレーヴァーキューンにおいて、小節の区分そのものは放棄されなていないことを除いて、全的なものになる。そして、小節の区分は放棄されてはいないが、保守性を皮肉にほのめかしながら使われるのである。」(『ファウストゥス博士』382頁)


スタイナーの記述との共鳴 如月 - 2005/06/20(Mon) 12:52 No.702  

マンの抜き書きもあと少しです。
ところで、もちろんいろいろな違いはありますが、マンが文学的に創造したアードリアーン・レーヴァーキューンの『黙示録』から、私はシェーンベルクの『グレの歌』を思い浮かべます。
ただ、『グレの歌』にしろなんにしろ、実際に作曲された音楽作品以上に、『黙示録』は、この時代に作曲されてしかるべきであった音楽を示唆しているのではないでしょうか。そしてこの『黙示録』という曲は、タイトルからして『マルティン・ハイデガー』におけるスタイナーの記述と響き合っているようにも思われます。


非在の実在:『黙示録』の初演 如月 - 2005/06/21(Tue) 00:54 No.704  

『ファウストゥス博士』からの抜き書き、当面、これで最後。最終回は、いよいよアードリアーン・レーヴァーキューンの『黙示録』の初演の記述です。
クレンペラーはかっこに入れられ、ほとんど気づかれないほどさりげなく登場しますが、この非在の音楽が、ここで一気にリアリティーを獲得するのですね。
マンと音楽家というと、ブルーノ・ヴァルターとの親交が非常に有名ですが、『黙示録』を初演するにふさわしい指揮者として、マンにはクレンペラー以外考えられなかったのでしょう。

「この内心の考察を書き記すことによってわたしは野蛮という非難、わたしはこれをいささかも認めるものではなく、ただこれを説明しようと試みているのだが、わたしを深く悲しませるこの非難の動機を明らかにすることに寄与できたであろうか?しかしこの非難はおそらく、むしろ、神学的なものをほとんど裁きと恐怖としか理解しないこの宗教的幻想の作品が含んでいる、幾分かの、氷のように冷たく感じられる大衆的近代性、ーー侮辱的な言葉をあえて使えば、その幾分かの最新式に関連するのであろう。例えばテスティス、残酷な事件の目撃者であり語り手である人、すなわち「我、ヨハネ」、獅子や仔牛や人間や鷲の頭を持った深淵の動物たちの記述者を想起していただきたい、ーーこのパートは伝統に従ってテノールに与えられているが、しかしこの場合にはほとんどカストラート風な高さのテノールが受持つように指示されていて、その冷たく甲高い叫び声は即物的で報告書めいていて、それが伝える破局的な内容と戦慄すべき対照をなしているのである。1926年、フランクフルト・アム・マインの「国際現代音楽協会」祭において、『黙示録』が(クレンペラー指揮のもとに)最初にそして差当っては最後に演奏された時、この極度に難しいパートはエルベという名の宦官タイプのテノール歌手によって実に見事に歌われたが、沁み透るようなその歌唱は、実際、「世の破滅に関する最も新しい告知」のように際立って鮮やかに響いた。」(『ファウストゥス博士』382〜83頁)


パリvs.ベルリン 1920年代 如月 - 2005/06/22(Wed) 01:22 No.707  

1920年代、シュールレアリスムをはじめいろいろな芸術運動が起こるわけですが、私の場合、どうしてもフランスを機軸に考えてしまうので、この新しい運動も、言ってみれば「表現革新」という感じがするのですね(たとえば、コクトーなんかそんな感じ)。でも、ドイツを軸にして同じ運動をとらえると、これはより内在的なものだったのではないかという気が、『ファウストゥス博士』を引用しながら、ひしひしとしてきます。
1920年代、パリでもニョーヨークでもなく、ベルリンこそ、新たな芸術運動の核だったということが、ここへきて、なんかようやく見えてきました。


クレンペラーの本懐 投稿者:如月 投稿日:2005/06/19(Sun) 12:01 No.689  
 クレンペラーのことを書いていると、いつまでたっても『ベルリン三大歌劇場』に行き着かないので(笑)、思い切ってスレッドをかえ、シュテファン・シュトンポア編『クレンペラー:指揮者の本懐』(野口剛夫訳、1998年、春秋社)を紹介してみましょう。
 まずはシュトンポア自身の序文から。

 「オットー・クレンペラーが20世紀の最も重要な指揮者の一人であることは間違いない。どこで活動しても、彼は音楽と劇場の世界に根底から揺さぶるような衝撃を与え、規範を設け、妥協や私心なく作品につくし、忘れ難い演奏をなし遂げたからである。ヨーロッパとアメリカの多くの都市で、その演奏は熱狂的な感動を呼び起こした。また、レコードや放送のために行われた録音は、模範的で魅力ある解釈を伝えている。
 グスタフ・マーラーこそクレンペラーの手本であった。マーラーの音楽とその芸術家として妥協しない徹底した態度からクレンペラーは決定的な影響を受け、その遺産を継承したのである。
 指揮者クレンペラーの活動は20世紀の初頭に始まる。オッフェンバックの<天国と地獄>を演出していたマックス・ラインハルトが、その指揮を弱冠21歳のクレンペラーに任せたのである。翌年にはマーラーの推薦でプラハのドイツ民族劇場と契約を結び、さらにハンブルク、バルメン、シュトラースブルクで活躍、第一次大戦の終わる前年からケルンで、その後ヴィースバーデンで音楽監督となった。また、ベルリン、モスクワ、レニングラード、ニューヨークなどへ客演し、センセーションを巻き起こす。1927年、42歳のクレンペラーはベルリンでクロル歌劇場を創設、指揮にあたる。この劇場は舞台の徹底した刷新などを行ったが、反動勢力の妨害により4年間で閉鎖された。しかし、それにもかかわらずクロル劇場での成果は今日まで影響を及ぼしている。
 1933年からは、ナチスの台頭によりドイツから亡命したオットー・クレンペラーにとって、辛く波乱に富んだ時期となった。ヨーロッパ各国で客演した後、アメリカ合衆国で新しい職務に就いたが、健康の危機にも見舞われる。第二次世界大戦が終わると、一時はブダペスト、そしてベルリンのコーミッシェ・オーパーが重要な活動の舞台となった。1950年代に入ると、チューリヒに居を構え、主たる活動の地はロンドンに移る。そして高齢に至るまで、健康上の障害を克服しつつも驚異的なエネルギーで指揮を続けたのである。彼の指揮する演奏会やオペラはどこでも感動的なメッセージを放ち、熱狂的に迎えられた。オットー・クレンペラーが88歳で死去したのは、1973年7月6日のことである。
 クレンペラーにとって音楽するということは、たんに音の響きや美しさを伝えることだけを意味するのではなかった。彼はどんな演奏でも音楽にひそむ哲学的な側面や、精神的・構造的な内容を示すことができたのだ。
 クレンペラーの芸術活動は60年以上に及ぶが、それは重要な社会上のそして音楽上の発展の時代でもあった。しかし、なによりも特筆されるべきは1920年代であり、この時期、彼が行った古典作品や同時代の作品の上演は、オペラや伝統的な演奏会の営みをマンネリズムと孤立化に陥ることから救ったのだ。「クレンペラーが指揮する演奏会は世界のあるべき姿を示すものであった」と、当時ある音楽批評家は書いている。そのくらい、当時のオペラ上演は、クレンペラーによって指導されたクロル歌劇場から決定的な刺激を受けたのである。彼は、演出家、画家、作曲家を次々とスタッフに起用した。またマーラー、シェーンベルク、エルンスト・ブロッホのような多くの重要な人物とも親しかった。トーマス・マンの『ファウスト博士』第34章では、主人公の作曲家アドリアン・レーヴァーキューンの作品<黙示録>の指揮者として、クレンペラーの名が登場する。この指揮者についてマンがどう考えていたか、文学上の人物を通して示されているともいえよう。(中略)
 ヴィーラント・ヴァーグナーは「クレンペラーの中では、ラチオとエロス、つまり明晰な構想と根源的な舞踏の感覚が、作品の精神を最も純粋に表現しようとする妥協なき熱狂的な意志によって結び合っていた」と、この指揮者を評している。彼と数十年にわたって親交を結んでいた哲学者エルンスト・ブロッホは、クレンペラーの演奏が、作品にきわめて忠実でありながらも創造的に再構築を行い、素晴らしい効果を上げていると賞賛する。「彼はベートーヴェン、バッハ、ブルックナー、ブラームスなどのどれを指揮するときも、作品が持つ形式に忠実だった。ただ作品だけが、それが初めて鳴り響くかのようにそこにあるのだった。しかも、作品が音符だけで完結することなく非常に熟したものとして感じられた」。指揮者ゲンナジ・ロジェストヴェンスキーは、ロンドンでクレンペラーの指揮するベートーヴェンの作品を聴き深い感銘を受け、その演奏を「またとない高みに到達していた」と評している。
 以上、取り上げたのはほんの数例にすぎないが、クレンペラーの芸術活動がもたらした深い影響について、いくらか知ることができよう。


第二の序文 如月 - 2005/06/19(Sun) 12:50 No.690  

 この本の第二の序文(クレンペラーへのオマージュ)は、書いた人の意外性&必然性とともに、シュトンポアによる序文以上に説得力に富むものといえるのではないでしょうか。

 「オーケストラからその最も深いファンタジーを引き出すことにかけては右に出る者がなく、また、ほとんどは愉快で痛烈な無数のエピソードを持つ戦闘的な人物でもあるという複雑なイメージは、オットー・クレンペラーの人間性をかなり矛盾した謎めいたものにしているように思われる。ドイツの偉大で豊かな伝統の最後の相続人であり、彼がその場にいるだけでオーケストラを魅了し支配してしまう巨大で威厳ある外観こそが、彼の本当の姿だったのだろうか。あるいは彼は、高齢においても旺盛な想像力を保ち、若い指揮者の多くが色褪せ、弱々しく、退屈に見えてしまうような自在の表現力を持つ反逆者であったのだろうか。それとも、信仰あつく偉大で威厳のあるジキル博士と、挑発的で嫌味を言うハイド氏が彼の中では結びついていたのだろうか。
 クレンペラーの経歴を最後まで知っている人々にとって、何よりもロンドンは、彼がドイツの偉大な古典の解釈者として豊かな創造を育んだ重要な場所である。そこではクレンペラーは、多くの信奉者を持つが、現代の音楽には背を向けている指揮者というイメージが定着している。しかし、1920年代のベルリンでの活動を、とりわけクロル歌劇場でのあの輝かしい年月を知る者にとって、クレンペラーは、前に述べた音楽のスペクトルとは正反対に、当時の現代音楽にとっての猛烈な革新者であり、不休の闘士であったのだ。
 しばしば苛酷な状況を強いられた亡命生活をする間、彼はもともと持っていた緊張感と好奇心を失ってしまったのだろうか。驚くべきことだが、断固として答えは「否」である。クレンペラーの精神は驚異的な感受性を保っていた。常に必要なものを理解し、新しいものを学び、聴き、支持した。彼の残した文章やインタビューがその生きた証拠でもある。何よりそれらの発現は誠実であり、この音楽家の日常の仕事を私たちに垣間見せてくれる。
 自分が理解していないことやよく知りもしないものをけなす音楽家ほど、イライラさせられるものはない。彼らは、伝統という防壁をつくり、それを議論の余地がない正しいものとする。全人類にとって時代が固定されるべきだと考えているのである。しかし、オットー・クレンペラーの態度はそうではなかった。彼は自分が聴くもの、出会うものについてその有効性を疑うこともたしかにできたが、またこの疑いをドグマにしたり、究極の真理と考えることをも拒んだのである。
 だから私は彼の発言についてもそれらは誠実であると言おう。慢心なくしかるべき資格と鋭い見識を備えたこれら素直な証言は、日々の指揮台での仕事から出発し、広大な世界観のようなものへと発展している。彼がこうして自分の流儀を書き記すとき、この王者であり反逆者でもある人間は背後にかくれ、けわしくそびえ立ってはいるが、不思議なことに親しみやすくもある真理が姿を現すのである。」(ピエール・ブーレーズ)


ブーレーズとクレンペラーの競演 如月 - 2005/06/22(Wed) 01:11 No.706  

ブーレーズは、1960年代にニュー・フィルハーモニア管弦楽団を指揮してベートーヴェンの「運命」を録音していますが↓、
http://www.sonymusicshop.jp/detail.asp?goods=SRCR000002510
かねてから、私は、この録音はクレンペラーによる1968年のベートーヴェンの第七交響曲の録音に対応したものだと考えています。ニュー・フィルハーモニア管弦楽団自体、クレンペラーが音楽監督をつとめているわけですから、ブーレーズに自分のオーケストラを貸して、ベートーヴェンの録音で競演しようともちかけたんじゃないでしょうか。
ブーレーズとの競演なんて、おそらく、クレンペラーの世代ではクレンペラー以外に絶対思いつかない企画だと思います。


『ベルリン三大歌劇場』 投稿者:如月 投稿日:2005/06/15(Wed) 14:50 No.671  
18世紀学会が終わったばかりで頭の中がまだ真空状態ですが、すぐまた18世紀のことを考えるのもためらわれるし、日本中世史もまた同じこと、というわけで、下方に書いた『ベルリン三大歌劇場ーー激動の公演史 1900-45』(菅原透、アルファベータ、2005年)をそろそろと読みはじめました。
本書で取り上げられる三大歌劇場というのは、「クロル・オーパー」「市立オペラ(またはドイチェス・オペルンハウス)」「リンデンオーパー」で、現在クロル・オーパーについての記述を読み終えたところ。
私はもともと指揮者オットー・クレンペラー(1885-1973)が好きですから、クレンペラーが指揮者として活躍し、その名を高からしめたクロル・オーパーの歴史を読むというのは、クレンペラーの活動が何だったのか、なぜあのような演奏スタイルが生まれたのかを知るうえで、とても役立ちます。
また、公演史と銘うつこの本のなかに、ハンス・ベルメールの名前はおそらく出てこないと思いますが、1930年代のベルリンで、とあるアーチストが自分はもはや人形しかつくらないとマニフェストすることの時代背景・社会背景は、本書の内容と深くかかわってくるのではないかと思っています。
ということで、本書の内容、気になる箇所、以下に少しずつ抜き出してみることにしたいと思います。


傷ついた大鷲 如月 - 2005/06/15(Wed) 15:37 No.673  

 クレンペラーをご存知ない方、名前は知っていてもその演奏(録音)を聴いたことがない方も多いと思いますので、以下に、佐藤章さんが書かれた『クレンペラーとの対話』訳者あとがきの一部抜き出しておきます。

 「クレンペラーは直情径行、剛直の人であった。彼はつねに歯に衣を着せずにものを言い、信ずるところをためらわずに実行し、けっして妥協することがなかった。そのために彼はいたるところでトラブルにまきこまれた。ベルリン・クロール・オペラ時代の彼は周囲の反対を押し切って多くの現代作品を演奏し、二十世紀音楽の歴史に大きな足跡を残すことになったが、そのゆえに彼はたえずマネジメントと衝突し、結局そのポリシーが当局の忌諱にふれて、クロール・オペラ閉鎖の時期を早めることになった。その事情はクレンペラー自身が本文にくわしく語っている。
 ユダヤ系であると否とを問わず、ヨーロッパのすべての芸術家にとって、1930-40年代は不幸な時代であった。しかし当時、ベルリンで活躍していた四人の大指揮者ーーワルター、フルトヴェングラー、クライバー、クレンペラーーーのなかで、クレンペラーがとくに苦難の道を歩まなければならなかったのは、この妥協を知らぬはげしい性格のためではなかったろうか。アメリカ亡命時代の彼はもっとも不遇であった。彼は相変わらず新しい音楽を擁護しつづけたが、アメリカではドイツ以上に聴衆も批評家も無理解であった。そのうえ病に倒れたクレンペラーは「狂気」の烙印を押され、再起不能を噂されて、世界の音楽界からは半ば忘れられた存在となった。
 しかし、第二次大戦が終わったのち、クレンペラーは不死鳥のように蘇った。彼は不屈の強靱な意志力によって、政治的圧力や周囲の無理解をはねのけ、精神障害、脳腫瘍、骨折、大火傷など、八回も死の宣告を受けたという肉体的疾患を克服して、そのつど奇蹟的に再起し、ついに最高の巨匠の地位をきわめたのである。
 わたしは1963-4年にロンドンでクレンペラー指揮のフィルハーモニア管弦楽団の演奏をたびたび聴く機会に恵まれたが、これらの演奏会でステージにあらわれるクレンペラーは、年老い傷ついた大鷲を思わせた。半身不随だった彼は、6フィート3インチ(約1メートル90センチ)の巨体をマネジャーに支えられて、杖をつき片足をひきずりながら登場する。右手は握ったままの状態で、指揮棒をもつことすらできない(如月註:おそらく火傷のため)。その姿は痛々しいとしか言いようがなかった。しかしいったん演奏がはじまると、そこにはまぎれもなく今世紀最大の巨匠のひとりがいたのである。傷ついたといっても大鷲が空の王者の威厳を失わないように、クレンペラーもまたあたりをはらう風格をもつ指揮台の王者であった。
 しかし、この王者は、トスカニーニのようにオーケストラに君臨する専制君主ではない。またワルターのようにオーケストラとの融和をはかる立憲君主でもない。指揮台のクレンペラーはオーケストラに対して真理を啓示する冷徹な予言者であったといえようか。彼はけっして自ら興奮したりはしない。大多数の指揮者が大仰な身振りでフォルテを要求するクライマックスの部分でも、彼はほとんど身振りを変えないのである。金管楽器のファンファーレでも、その方角に鋭い一瞥を送るだけで、サインらしいサインを出さないことさえあった。しかしオーケストラからは確実なフォルティッシモをひき出し、感動的なクライマックスを作り上げる。その瞬間に傷ついた大鷲は、空高く飛翔し、その姿が聴衆の心を打つのである。」(ピーター・ヘイワース編『クレンペラーとの対話』、佐藤章訳、白水社、1976年〜訳者あとがき)


 後鳥羽院 - 2005/06/15(Wed) 21:34 No.674  

日経の書評に、題名はうろ覚えですが、『澁澤龍彦との日々』がありました。著者の澁澤龍子さんは、なんで龍彦さんと同じ「龍」なんですか? 偶然ですか?
・・・関係のない話ですみません。


暗黙の必然性 如月 - 2005/06/16(Thu) 11:35 No.676  

澁澤未亡人が龍子(りゅうこ)さんとおっしゃるのは、私が知るかぎり偶然の一致です。龍子さんはもともと編集者ですが、お名前ゆえに澁澤龍彦さんに覚えてもらいやすい、あるいは媒体側にもなんとなくそんなおもいがあって龍子さんを澁澤龍彦さんの担当にしたといった暗黙の必然性はあったかもしれないですね。

ところで、指揮者カルロ・マリア・ジュリーニが亡くなりましたね。端正な指揮で好感のもてる存在でした。


「トリスタンとイゾルデ」ー「と」=・・・ 後鳥羽院 - 2005/06/16(Thu) 22:10 No.677  

龍の分身である虹霓という神話世界のようですね。
あるいは、ヴァーグナーがコジマを口説くとき、私とあなたの出会いは五千年に一度しかないものなのだ、と言ったという話を思い出しました。あるいは、フロイト的な精神分析が可能かもしれませんね。
・・・亀菊とはじめて出合った日のことを思い出しました(笑)。時間よ止まれ、おまえは永遠に・・・。

私は、伝説のジュリーニはもう故人だと勘違いしてました。
『ベルリン三大劇場』、面白そうですね。


主観にあらず、客観にあらず… 如月 - 2005/06/17(Fri) 09:48 No.679  

『ベルリン三大歌劇場』、今、第二部「市立歌劇場」を読み終えたところです。「公演史」と銘打つ本ですから、記述はとても散文的というか事実の羅列のような感じなのですが、そのため逆に、とある時代の雰囲気がダイレクトに伝わってくるような気がします。

ところで、生前のクレンペラーの演奏は、世界的な名声のわりには日本での評価が非常に低かったと思いますが、それは、彼がテンポをほとんど動かさず大半の曲においてその曲の最も遅いテンポの演奏をしたこと、ダイナミック・レンジ(音の強弱の幅)が狭かったことなどによると思います。このことが結果的に、日本の批評家に「鈍長でのっぺらぼう」「うどの大木」といった印象を与えていたのですね。これは、そうした音楽評論が結局は日本的な「芸」という枠組のなかでクラシック音楽をとらえ、音楽批評を「芸」のあるなし、「芸」の巧拙に還元してしまったことからくる構造的な無理解だったのではないでしょうか。クレンペラーがめざしていたのは、一次的には、そうした「芸」の披露としての演奏の否定だったはずですが、そのことはほとんど気づかれていなかったように思います。
つまり、演奏(指揮)行為を主観的ー客観的という基準でわけるとクレンペラーの演奏はあきらかに客観主義的で、かつその究極のようなところがあるのですが、音楽的客観主義のなかに、演奏者の主観を排除して曲そのものの<自然な姿>を伝えるということにあるとすると、クレンペラーはなんというか、曲そのものをも分解してしまうようなところがある。曲そのものの自然な姿に立ち返れば、演奏している曲のすばらしさはおのずと伝わるといった、通常の客観主義の前提になる思い込みがないのですね。
おそらく、クレンペラーは主観主義と客観主義を対立的なものととらえてはおらず、また対立的な主観主義と客観主義をともに否定する。ですから、その演奏の評価がとても難しいんです。
このような特異な演奏家がなぜ生まれてきたのかを、『ベルリン三大歌劇場』は非常に雄弁に語っているように思います。

(ジュリーニは、私も勝手に故人かと思ってました。1960年代に彼の名前を高からしめたEMIの『フィガロの結婚』の録音は、クレンペラーが録音できなくなったために、急遽、彼が代理で指揮したものだったように記憶しています。)


黙示録の時代 如月 - 2005/06/17(Fri) 15:22 No.680  

クレンペラーのことがついつい長くなってしまいましたが、『ベルリン三大歌劇場』という著作は、本来、次のような記述を念頭において読まなくてはならない作品でしょうね。

 「1918年にドイツが経験した精神の危機は、1945年のそれよりもいっそう深刻であった。(中略)1918年の状況も破局的ではあったが、しかしその破局たるや、落ち着いた自然的歴史的背景を残してくれた(ドイツは物質的にはほとんど無傷だった)だけではなく、ヨーロッパ文化の自己破壊やその連続性の事実を反省や感情に課題としてつきつけるといった性格のものであった。国家という枠組が存続し、大学や文壇の慣習も存続していたので、混乱状態についての形而上学的・詩的な論究をおこないえたのである。
 この論究から、西洋の思考や感情の歴史のなかでかつて産み出された他のいかなる書物とも異なる書物の星座が発現してきた。1918年から1927年までのあいだ、わずか9年間に、その分量と様式の極端さから書物以上の書物とも言うべきものが半ダースもドイツに出現してくるのである。エルンスト・ブロッホの『ユートピアの精神』の初版の発行が1918年である。オズワルト・シュペングラーの『西洋の没落』の第一巻も同じ年。カール・バルトによる聖パウロの読解である『ローマ人への手紙』注解の最初の版の発行の日付が1919年。続いて、フランツ・ローゼンツワ゛イクの『救済の星』が1921年に出される。マルティン・ハイデガーの『存在と時間』の出版が1927年。次の六番目の書名がこの星座に属しうるものかどうか、もし属しうるとすればどのようにしてかは、もっとも困難な問題の一つである。その『わが闘争』の二巻本がそれぞれ1925年と1927年に世に出るのである。
 大ざっぱに見て、これらの著作に共通するものは何か。これらはすべて大冊である。これは偶然ではない。それは、これらの著作が(ヘーゲル以後に)全体性へ向かおうとするいやおうない努力、たとえば出発点が特殊な歴史的ないし哲学的レベルに属する場合にさえも、利用可能なすべての洞察の集大成を提供しようとする企てだということを告げているのである。これらの著者たちの執拗な冗長さは、まるでドイツ文化と帝国の覇権がつくりあげた広大な建物が崩壊してしまったあとに、今度は言葉の広大な建物を構築しようと努めているかのようであった。これらは予言的著作であると同時にユートピア的著作であるしーー薄暮のユートピア、歴史の重荷からのnunc dimittis [別離]のユートピアがシュペングラーのもとで顕在化してくるのと同じ程度に、約束のユートピアがブロッホのもとで顕在化してくるーー、すべての真正な予言がそうであるように、失われた理想を回顧し記念する著作なのである。(中略)
 これらの著作は、作為的な意味もふくめて、ある意味で黙示録的である。それらは「この世の終わりをしるしづける最後の出来事」に訴えかけているのだ。」(ジョージ・スタイナー『マルティン・ハイデガー』、生松敬三訳、岩波書店)


澁澤龍子さん 潮音 - 2005/06/18(Sat) 12:42 No.681  

後鳥羽院様 はじめまして
澁澤龍彦氏、龍子さん、共に干支が辰年生まれでいらっしゃるようです。でも、お名前に同じ文字が付いているなんて、本当に不思議なご縁の結びつきですね。
如月様 ご無沙汰しております。
先月末、神奈川近代文学館で開催された三島展での週がわりの基調講演、高橋睦郎さん講演聞きました。会場に龍子さんもいらしてて、びっくりでした。二年半ぶりにお目にかかりました。少しスリムにおなりでしたが、変わらずあたたかいオーラを醸し出されておいででした。


クレンペラー むらじ - 2005/06/18(Sat) 18:13 No.683  

なんとなく、ご無沙汰になってしまいました。
たしかにクレンペラーはちょっと割を食っているような気がしますね。
「エロイカ」を聴いたとき、その悠揚迫らぬ、といった風情の演奏に圧倒されました。
ベートーベンはかく謳うべし、という感じの演奏ですね。
いろんな意味で、たとえばフルトヴェングラーとは対極的な指揮者のように思えます。

>潮音様
はじめまして。時折こちらに出没いたしております、むらじ と申します。
澁澤龍彦氏が亡くなられたときには、偉大な人がどんどんこの世からいなくなっていくなあ、という思いを新たにしたものでした。
これからもよろしくお願い致します。


深い川底のリング 後鳥羽院 - 2005/06/18(Sat) 18:31 No.684  

潮音様。
言葉の人であった澁澤さんらしいですね。
名作『高岳親王航海記』の美しいラストシーンをなんとなく思い浮かべました。一言でいいますと、連環、ということでしょうか。

如月さん。
スタイナーの論考と傷ついた大鷲クレンペラーとが、見事にパラレルな関係になっていますね。深い所でコレスポンドしてるのですね。なるほど・・・とてもよくわかりました。とともに、戦後の日本とは、なにかが本質的に違う、という印象を受けました。


Re: 『ベルリン三大歌劇場』  - 2005/06/19(Sun) 01:32 No.686   <Home>

如月さん、みなさんご無沙汰しています。
クレンペラーといえば、先日、マーラーの7番聴きました。
最近EMIでモーツアルトなどが再リリースされているようです。
もうひとつ、VPOとのウィーン芸術週間のライブ(68年)が、
テスタメントというレーベルから7月に出るようです。
大火傷をしたり、不倫相手?の旦那さんに打ちのめされたり、
凄い人生でしたね、この人。
新譜の情報は下のURLです。

http://www.towerrecords.co.jp/sitemap/CSfCardMain.jsp?GOODS_NO=873852&GOODS_SORT_CD=102


新作オペラ 如月 - 2005/06/19(Sun) 08:59 No.687  

酒井さん、タイミングのよいCDのご紹介ありがとうございます。
先日の学会で小遣いをすっかり使い果たしてしまいましたが(笑)、小遣いがたまったら、すぐに購入せねば♪

『ベルリン三大歌劇場』を読むと、1920年代〜30年代にかけての経済的に厳しい時、ベルリンは必死で三つの歌劇場を維持しようとしているし、市民もよくオペラ・ハウスに出かけてるんですね。
ドイツ帝国の崩壊がドイツにドイツ文化に対する覚醒を呼び起こし、それがオペラの公演にあらわれていたということ、『ベルリン三大歌劇場』を読むと、実感としてよくわかります。
それと、同時代音楽の演奏というと、私はこれまでクレンペラーの専売特許のように考えてたんですが、他の歌劇場でも新作オペラをよく公演している。新作オペラが次々と作曲され、上演されていったというのも、やはり時代特性でしょうね。


日本18世紀学会第27回大会 投稿者:釈由美子が好き 投稿日:2005/06/11(Sat) 21:03 No.665  
>如月さん
御報告、お疲れ様でした♪


お礼 如月 - 2005/06/12(Sun) 21:43 No.666  

先ほど、18世紀学会から帰還致しました。
釈由美子が好きさん、お忙しいなかの聴講どうもありがとうございました。聴衆のなかに知っている顔があるということで、安心して報告を行うことができました。
また、18世紀学会に参加された方で、この掲示板をお読みの方がいらっしゃいましたら、あらためて御礼申し上げます。
にもかかわらず、私の報告が孟スピードで行われたというのは、やはり経験不足ですね。原稿は準備してあったのですが、時間内に全部読み終えられなかったらどうしようという強迫観念から、ものすごい早口になってしまいました。あれでも、本人はゆっくり話しているつもりだったのです(笑)。
報告を終えて、時間ぎりぎりのはずが、司会の逸見さんから、「早く終わったので、質問を受ける時間が十分ある」と告げられたときは、死ぬかと思いました。
質問者の森村敏己さんには、コンディヤックのこと、不勉強のため十分こたえることができなかったこと、猛省しております。
でも、後の懇親会で、スウィフトを研究しておられるTさんから、興味深く聴いたと言って頂けたことは励みになりました。

報告を終えて、わからないことがいろいろ出てきましたので、また勉強のし直しです。今回は短い時間で報告をまとめたので読み残したテクストも多いのですが、マブリだけでなく、ロックやエルヴェシウスのテキストも改めてきちんと読み返したいと思っています。


お疲れ様でした 岩錆 - 2005/06/13(Mon) 23:13 No.669   <Home>

お久しぶりです。
最近はロムばかりで勉強できていません。

どんな風に如月さんが発表されたか見たかったです。


次の目標 如月 - 2005/06/15(Wed) 14:58 No.672  

口頭発表が終わり、これで自分の「権利と義務」を果たしたと少しほっとしているところなのですが、学会の方から、口頭発表者は、発表をもとに、年報に論文を投稿する資格があるとご案内いただき、せっかくの機会ですから論文にも挑戦してみようと思っております。
そのためには、今回の発表をいろいろと見なおさなくてはならないのですが、今はちょっとそういう思考回路にはならないので、少し頭を冷やしてから論文に取り組みたいと思っています(論文の締め切りは秋口ですし)。


Re: 日本18世紀学会第27回大会 きる - 2005/06/18(Sat) 17:48 No.682  

ごぶさたしております。夏痩せをおおいに期待している最中のきるです。

大きな企画のひとまずの終了、「興味深い」というコメントはなによりですね!
少し頭脳転換して、論文投稿に挑戦されるころには、また新たな発見があるやもしれませぬ。がんばってください!


近況 如月 - 2005/06/19(Sun) 09:07 No.688  

きるさんの周辺の変化も伺っております。近日お会いして、互いの近況を語り、また互いに刺激し合いたいと思っております。
だいぶお待たせしている小論「金葉集成立史小考ーー輔仁親王鎮魂の視角から」を掲載した再興中世前期勉強会会報『段かづら』第5号も、来週中には印刷の予定と伺っておりますから、追って、こちらの方もご報告できるかと思います。


ありがとうございます きる - 2005/06/19(Sun) 13:52 No.691  

『段かづら』、楽しみにしております♪


無事、搬入。 投稿者:如月 投稿日:2005/06/11(Sat) 00:02 No.662  
日本18世紀学会全国大会の報告原稿および参考資料、思った以上にスムーズにコピー&綴じ込みが完了し、余勢をかって、本日、会場に搬入致しました。搬入時に会場となる日本大学文理学部百周年記念館国際会議場もちょっと下見させて頂きましたが、すばらしい会場で、気が引き締まる思いです。
さあ、明日の報告がんばらないと!


Re: 無事、搬入。 後鳥羽院 - 2005/06/11(Sat) 09:42 No.663  

頑張ってくださいませ。
陰ながら応援してます。


Re: 無事、搬入。  - 2005/06/11(Sat) 20:09 No.664   <Home>

如月さん及び、他の方々の報告の模様は、ビデオにでも記録する予定は有るのですか?

できれば、そういうビデオを見てみたいですね。


疾風怒濤。 如月 - 2005/06/12(Sun) 21:46 No.667  

みなさん、ご声援ありがとうございました。
まるで、疾風怒濤のような2日間でしたが、ぶじに帰還致しました。

佐々木寛さん、ビデオによる大会の記録はなかったように思います。

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