045908
網上戯論
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同時代人 投稿者:後鳥羽院 投稿日:2005/06/07(Tue) 21:34 No.651  
『三浦梅園』(吉川弘文館人物叢書)を眺めていて、おどろきました。
「三浦家の祖先は相模国三浦の人で、生々源氏鎌倉幕府に仕えていた。それが正治二年(1200)何かの故があって、兄弟三人鶴ヶ岡供奉の途中から官を棄てて遠く豊後国東の地に来て薙髪して法道・法行・法念と称した」(13頁)
梅園の先祖は、あの三浦氏の一族で、法然の門流のようですね。正治二年というと、頼朝の死の翌年ですから、何かあったのでしょうね。
梅園先生の生没年は、1723〜1789年とありますから、この江戸時代の大思想家は、ほぼマブリの同時代人になりますね。
豊後の片田舎に、こういう思想家が突然出現する日本という国は、つくづく妙な国ですね。


どんぴしゃり! 如月 - 2005/06/08(Wed) 00:32 No.652  

梅園は、三浦一族の末裔なんですか!?この一族と法然の縁というのもおもしろそうですね。
ところで梅園の同時代人ですが、マブリもさることながらカント(1724年-1804年)は、もっとどんぴしゃりですね。ヨーロッパの片田舎に生まれというところも、当たってる(笑)。


Re: 同時代人 後鳥羽院 - 2005/06/08(Wed) 20:15 No.653  

「梅園の学問思索が一切のものを疑ってかかるという行き方が、近世哲学の祖と呼ばれるデカルトの取った立場と同じで、西洋ではこれがカントの認識論に発展し、ヘーゲルの弁証法へと移っていったのであった。梅園が弱冠を過ぎて天地の形態を西学に得たといっているが、当時は天文・地理に関するものが中国を通じて輸入され、湯若望(アダム=シャール)の説を知った程度であった。年代からいえば、ちょうどカントと同時代で、カントは梅園の生まれた翌年に生まれている。同じような哲学的な思索が洋の東西でなされたのも不思議である」(69頁)

ユングいうところのシンクロニシティでしょうか。

梅園の高弟脇蘭室が、師の葬儀で「三浦先生ヲ祭ル文」を草したそうですが、この人の先祖は、安養寺殿新田義貞の舎弟脇屋義助とのことです。ほんとかどうかわかりませんが、おどろきました。


三浦梅園と山片蟠桃 慧遠(EON) - 2005/06/10(Fri) 04:36 No.655  

吉川弘文館人物叢書には、1821年没の山片蟠桃は入っているのですか? 三浦梅園と山片蟠桃はの二人は、日本の思想家として私が好きな人物です。三浦梅園については、参考書が有ったはずなんですけど行方不明です。


連環記 後鳥羽院 - 2005/06/10(Fri) 14:37 No.659  

残念ながら、人物叢書シリーズにはないようです。
『三浦梅園』によりますと、梅園先生が最も敬愛していたのは麻田剛立で、この人は豊後の杵築藩を脱藩して大坂に行き、暦学(天文学)の研究で一家を成し、その門人の一人が山片蟠桃なんですね。
麻田剛立は天才的な学者だったようで、ケプラーとは独立にあの惑星の三法則を発見した、という伝説があるようですね。しかし、あの法則を正確に理解するには、ニュートンの微積を知らなければなりませんから、18世紀末の和算では無理なような気がします。伝説は伝説として、こういう天才から学んではじめて、あの「夢の代」のような、おそろしく合理的な宇宙論が展開できたのでしょうね。麻田剛立を敬愛していた梅園先生、やはり恐るべき人です。

湯川秀樹さんが梅園先生について書いたものを読みますと、梅園の反観合一という概念は、世阿弥の離見の見に似ている、とありました。反観合一はヘーゲルのジンテーゼに似ているような似ていないような概念ですが、さすが湯川さん、面白いことをいいますね。

梅園先生の「条理学」は、中国の「易」の思想を取り入れているようですが、やはり中国の「易」から二進法を編み出した(といわれている?)ライプニッツを思い出させますね。

人物叢書には、脇蘭室の門人帆足万里が入っています。
梅園先生の「玄語」に強い影響を受けて、「窮理通」を著したようですが、帆足さん、ちょっと山っ気のある学者ですね。


夢の環 後鳥羽院 - 2005/06/10(Fri) 14:51 No.660  

あ、書き忘れましたが、博物学の木村蒹葭堂(1736−1802)も同時代人ですね。


フランス史からの王権批判 投稿者:如月 投稿日:2005/06/03(Fri) 13:10 No.642  
 続いて今日は、『市民の権利・義務について』の第五の手紙に記されているフランス史に対するマブリ(「私」)の見解を訳しています。
自然状態からする抽象的な批判ではなくて、こうした実証的な歴史的知見こそ王権批判(社会批判)に最も有効だとマブリは考えていたのですね。(この辺が、マブリは慈円に似た発想をする人だと私が考える所以です。)

  Nos peres, comme vous le scavez, ont apporte de Germanie le gouvernement le plus libre que puissent avoir des hommes ; mais a peine furent ils etablis dans les Gaules, que corrompus par leur fortune et les moeurs Romaines, ils perdirent leur ancien genie. Trop ignorans pour rien craindre ou pour rien prevoir, ils se laisserent pousser par les evenemens de revolutions en revolutions ; ils oublierent leurs anciennes lois qui ne leur suffisoient plus, et devinrent, en ne connoissant point d'autre police que celle des fiefs, les tirans les plus impitoyables ou les esclaves les plus vils.
  A force de ne se gouverner que par des coutumes incertaines, toujours subordonnees aux succes de la guerre, et qui ne rapprochoient les hommes que pour les rendre plus malheureux ; on sentit malgre soi la necessite d'avoir quelque regle, et au milieu de l'ignorance profonde ou l'on etoit plonge, les erreurs les plus ridicules devinrent les seuls principes de notre droit public. On se persuada que la societe n'avoit point d'autre origine que celle des fiefs ; et nous voyons deja ou cette premiere sottise peut conduire. On crut ensuite que tous les fiefs avoient ete a leur naissance autant de dons de la part du souverain dont ils relevoient ; autre betise, on en conclut une troisieme, c'est a dire, que tout le Royaume avoit appartenu originairement au Roi, puisque n'ayant point lui-meme de suzerain, tous les seigneurs etoient ses vassaux immediats ou ses arriere vassaux. A de si belles connoissances historiques, on joignit des principes de brigands au lieu de principes de droit. On ne scavoit pas alors que reprendre ses dons c'est voler ; ainsi quelles que fussent les usurpations des Rois, on pensa qu'ils ne faisoient que rentrer en possession de ce qui leur avoit autrefoix apprtenu, et il n'y eut pas moyen de les blamer ; car la nation n'existant pas, personne ne songeoit a ses droits. Avec une doctrine si favorable au pouvoir arbitraire, le prince eut ete despotique, si la brutalite des moeurs publique, la fierte des seigneurs et les prejugez qui accompagnent toujours l'ignorance, n'eussent empeche d'etre consequent.

 私たちの父祖は、ご存じのように、ゲルマニアから人間がもちうる最も自由な政府を携えてきました。しかしガリアに建国するやいなや、自らの富とローマ人の風俗に堕落させられ、古い天性を失いました。何も恐れず、何も予見しないほどあまりにも無知で、革命から革命へとできごとに流されるままでした。彼らはもはや自分たちを満足させない古い法を忘れ、封地政策以外のいかなる政策も知らずに、最も冷酷な暴君か最も下劣な奴隷になりました。
 戦争の成功に常に応じ、またより不幸にするためにしか人間同士を近づけない不確かな慣習によってのみみずからを治めていたために、意に反して、人はなんらかの規則をもつ必要を感じました。そして人が浸っていた深い無知のただなかで、最もばかげた誤りが私たちの公的権利の唯一の原理となりました。社会には封地以外のいかなる起源もないと、人は確信しました。私たちはすでに、この最初の愚行がどこに導きうるのかを検討しています。人は次に、すべての封地はその誕生において、その封地が所属する主権者の側からの恩恵だったのだと信じました。もう一つの愚鈍です。人はここから第三の結論を導きました。すなわち、王国全体は本源的に王に帰属していたと。王自身はいかなる領主ももたないので、すべての荘園領主は王の直接の家臣もしくは陪臣だったからです。こうしたすばらしい歴史的知見に、人は、権利の原則の代わりに追いはぎの原則をつけ足しました。ですから、恩恵を取り返すことは盗みだとも、王による横領とは何であるかも、人は知りませんでした。(王が恩恵を取り返すとき)、王はかつて王に属していたものを再び占有したけだと人は考え、王を非難する手段がありませんでした。なぜなら、国民が存在しないので、国民の権利については誰も想像しなかったのです。恣意的な権力にかくも好都合な学説があるので、民衆の風俗の乱暴さ、荘園領主の高慢さと無知に常にともなう先入見が、もしもその必然性を阻まなかったならば、君主は専制的であったことでしょう。


歴史的議論の評価 如月 - 2005/06/03(Fri) 13:29 No.643  

この議論は、prescription(時効/規定)についての議論とも響き合っていますね。
こうしたマブリの議論のすすめ方は、18世紀には非常に実証的で説得力をもつものだったのではないでしょうか。しかし19世紀になって、マブリのような文献のみに基づく歴史学にかわって、より実証的な歴史学が登場すると、マブリの議論がもっていた説得力が、根底から覆されてしまうのですね。
その辺も、「歴史学者」慈円をどのように評価するのかと同じような問題を含んでいると思います。


フランス史からの王権批判(続き) 如月 - 2005/06/04(Sat) 10:37 No.644  

上に引用した記述の続きは次のとおりです。

  Malgre la philosophie dont notre siecle se pique, mais que nous n'appliquons qu'a des objets frivoles, nous continuons, sans nous en douter, a isonner sur les admirables principes de nos peres. On rapporte tout au Roi comme a la fin unique et universelle de la societe ; on le considere comme le maitre, et non comme le chef de la nation ; c'est lui qu'on sert, et non pas la patrie ; c'est d'abord le bien de la couronne, le bien du fisc qu'on veut faire, et puis, si cela se peut, on songe a celui des sujets. La raison particuliere du Roi est la raison universelle et generale de son royaume, puisque ses ordres justifient tout, et qu'il faut les preferer aux lois les plus sacrees. Quelques anciennes chartes, monumens de la tirannie que la noblesse a autrefoix exercee, et de l'asservissement ou le peuple languissoit ; la morale des Ecclesiastiques presque reduire a quelques pratiques de mortification superstitieuse, monacale et propre a rendre les hommes esclaves, tristes, sauvages, durs et patiens ; les ecrits informes et absurdes de quelques jurisconsultes fiscaux qui ne connoissent point d'autre gouvernement que le despotisme ; des ordonnances ou le prince decide toutes les questions en sa faveur, et declare que dieu seul l'a eleve au dessus de nos tetes pour nous gouverner ; voila les sources impures ou depuis de trois siecles nous puisons notre droit naturel et notre droit public.
  Seroit il possible que nous y eussions trouve quelque verite? Non. On se familliarise avec les plus grandes absurditez. Accoutumez ainsi a regarder le despotisme comme le gouvernment le plus sage, la liberte comme un embarras, et a tout pardonner a un prince qui n'est que mediocrement sot ou mediocrement mechant, nous avons eu cent occasions de nous rendre libres, et il ne nous est pas seulement venu dans la pensee d'en profiter. Quand on a trop meprise ou trop hai le prince pour ne se pas soulever contre lui, on a encore respecte cette puissance qui l'avoit invite a trahir ses devoirs. Aucune bouche n'a prononce le mot de liberte pendant la ligue et pendant la fronde. On s'est remue, on s'est agite sans savoir ce qu'on vouloit, et par consequent sans succes ; et il en a coute bien des travaux, bien des peines, bien du sang, pour rester tel qu'on etoit auparavant.

 私たちの世紀が誇る哲学、ただし私たちはそれを軽佻な対象にしか適用しておりませんが、そうした哲学にもかかわらず、私たちは疑うこともせずに私たちの父祖の賞讃すべき原理の上で推論を続けています。人は、社会の唯一で普遍的な目的であるかのように全てを王に帰します。人は王を主人だと考え、国民の長であるとは考えません。人が仕えるのは王に対してであり、祖国に対してではありません。人がまず第一に果たそうとするのは王冠の利益、国庫の利益であり、それから、もし可能であれば臣下の利益について想像します。王の個人的な理屈が彼の王国の普遍的で一般的な理屈です。なぜなら彼の命令はすべてを正当化し、最も神聖な法よりもその命令を選ばなくてはならないからです。貴族がかつて実行させた暴政の記念物、人民が苦しんだ服従の記念物である古い憲章、迷信的、修道者的で、人間を隷属的、悲惨、野蛮、頑固、受動なものにするにふさわしい苦行の実践にほぼ要約される聖職者の道徳、専制意外のいかなる政府も知らない税務法律家による醜く不条理な著述、君主が好みのままにすべての問題を決定し、われわれを統治させるため神のみが君主をわれわれの頭上に引き上げたと宣言する王令、以上が私たちが三世紀以上も自然権と公的権利を汲み上げてきた濁った源泉です。
 私たちがそこに何らかの真実を見出すことは可能だったでしょうか。いいえ。人は最も大きな不条理に慣れています。このように、専制を最も賢明な政府と見なし、自由を障害と見なし、よく言って愚者か意地悪にすぎない君主にすべてを許すことに慣れ、自由になる好機が数多くあったにもかかわらず、その機会を利用しようという考えは一度も起こりませんでした。君主に対して蜂起しないにはあまりにも君主を軽蔑し、憎んだときにも、人は君主がその義務を裏切るよう誘惑した権力に未だ敬意をはらっていました。カトリック同盟やフロンドの乱の最中、自由という言葉はまったく口にされませんでした(註)。人は、自分が何を望んでいるか知らずに行動し、動き、その結果、成功しませんでした。蜂起以前の状態でいるために、多くの労力、苦しみ、血を代償としたのです。

   *   *   *

 ただし、最後のカトリック同盟とフロンドの乱の記述に関しては、テクスト監修者ルセルクルによる、これらの蜂起においてすでに民主的な理論が提唱されており、マブリの記述は事実に反するという指摘があります。


訂正 如月 - 2005/06/07(Tue) 00:33 No.650  

本日は、自分の訳文の見直しなどしてましたが、このスレッドの冒頭でご紹介した文の第二段落のなかほど、「A de si belles connoissances historiques, on joignit des principes de brigands au lieu de principes de droit. 」という文を、「権利の原則の代わりに追いはぎの原則をつけ足しました」と訳したのは誤りですね。お恥ずかしい。
この文章では、brigandsとdroitが対句ですから、「正義の原則の代わりに追いはぎの原則をつけ足しました」としなくてはいけません。訂正しておきます。


堕落のなかで人間を動かす動機 投稿者:如月 投稿日:2005/06/02(Thu) 14:58 No.639  
下方でご紹介した「パンドラの箱」の少し先の箇所は、とりあえず、次のように訳してみました。

  Jamais je ne lis dans les voyageurs la description de quelque isle deserte dont le ciel est serein et les eaux salubres, qu'il ne me prenne envie d'y aller etablir une Republique, ou tous egaux, tous riches, tous pauvres, tous libres, tous freres, notre premiere loi seroit de ne rien posseder en propre. Nous porterions dans des magasins publics les fruits de nos travaux ; ce seroit la le tresor de l'etat et le patrimoine de chaque citoyen. Tous les ans les peres de famille eliroient des economes chargez de distribuer les choses necessaires aux besoins de chaque particulier, de lui assigner la tache de travail qu'en exigeroit la communaute, et d'entretenir les bonnes moeurs dans l'etat.
  Je scais tout ce que la propriete inspire de gout et d'ardeur pour le travail ; mais si dans notre corruption, nous ne connoissons plus que ce ressort capable de nous mouvoir, ne nous trompons pas jusqu'au point de croire que rien n'y puisse suppleer. Les hommes n'ont ils qu'une passion? L'amour de la gloire et de la consideration, si je scavoit le remuer, ne deviendroit-il pas aussi actif que l'avarice dont il n'auroit aucun des inconveniens? Ce ne seroit point aux inventeurs des arts que je decernerois des recompenses propres a exciter l'emulation ; mais aux Laboureurs dont les champs seroient les plus fertiles, au Berger dont le troupeau seroit le plus sain et le plus fecond ; au chasseur le plus adroit et le plus exerce a supporter les fatigues et les intemperies des saisons ; au tisserant le plus laborieux ; a la femme la plus occupee de ses devoirs domestiques ; au pere le plus attentif a instruire sa famille des devoirs de l'humanite ; et aux enfans les plus dociles aux lecons et les plus empressez a imiter les vertus de leurs peres. Ne voyez vous pas l'espece humaine s'annoblir sous cette legislation, et trouver sans peine un bonheur que notre cupidite, notre orgueil et notre molesse recherchee nous promettent inutilement? Il n'a tenu qu'aux hommes de realiser cette chimere si vantee de l'age d'or. Quelle passion oseroit se montrer dans mon isle? Nous n'aurions point sur nos tetes ce fardeau de lois inutiles dont tous les peuples sont aujourd'huy accablez. Lasse du spectacle fatigant et insense que presente l'Europe, je ne puis permettre a mon imagination de s'occuper de ces agreables reveries, que mon ame ne s'ouvre a de douces esperances.

「旅行家たちの(記録の)なかに、空は澄み水は健康的で、そこに国家を建設しに行きたいと私に思わせないようなとある無人島の記述を読まないことは、まずありません。その国家ではすべてが平等、すべてが富み、すべてが貧しく、すべてが自由、すべてが兄弟であり、私たちの第一の法は固有のものをなにも占有しないということでしょう。私たちは公共倉庫に労働の果実を持ち寄るでしょう。公共倉庫は国家の宝、各市民の財産です。家長たちは、毎年、各個人の要求に応じて必要物を分配し、共同体が必要とする労働を個人に割り当て、国家の良俗を維持する「会計員」を選ぶでしょう。
 私には、所有権が鼓舞する労働への嗜好と熱意のすべてがわかります。しかしもし、堕落なかで私たちを動かすことができる動機をこれしか知らないならば、いかなるものもそれを補うことができないと信じるほどの思い違いはありません。人間はただ一つの情念しかもたないのでしょうか。もし私が栄光と熟慮への愛を刺激することができるなら、その愛は、いかなる不都合もなく貪欲と同じほど活発にならないでしょうか。私が競争心を刺激するにふさわしい報償を授けるのは、技芸の発明家に対してではけしてないでしょう。そうではなくて、その耕地が最も豊穣な農夫、その羊の群が最も健康で最も多産な羊飼い、疲労と天候不順を堪え忍ぶに最も巧みで最も経験に富む狩人、最も勤勉な織工、家庭内の義務に最も専心した女性、家族に人類としての義務を学ばせるのに最も注意深い父親、教えに最も従順で父親の美徳を模倣することに最も熱心な子供たちに対して報償を授けるでしょう。この立法のもとで人類が授爵され、貪欲、傲慢、気取った柔弱さが無益に約束する幸福を苦もなく見出すのがおわかりではありませんか。かくも賞讃される黄金時代の幻想を実現するのは、人間にほかなりません。私の島にいかなる情念があえて出現するでしょう。私たちは頭上に、すべての人民が今日苦しんでいる無益な法の重荷を決して持たないでしょう。ヨーロッパが見せてくれる疲労をさそい正気を逸したスペクタクルにうんざりして、甘い希望に心開き、自分の想像力がこうした理想的な夢想に専心するのを禁じることはできません。」


急いで読んでると、どうもわからないことだらけです。 如月 - 2005/06/02(Thu) 15:39 No.641  

ここは、文法的によくわからないところが2カ所ほどありまして、後鳥羽院さんはじめフランス語に堪能な方のご意見を伺いたいところです。

@「Jamais je ne lis dans les voyageurs la description de quelque isle deserte dont le ciel est serein et les eaux salubres, qu'il ne me prenne envie d'y aller etablir une Republique」
私はこのjamais以下は、「読まないことはけしてない(いつも読んでいる)」という意味だと思うのですが、「読むことはけしてない」かなという気もするのですね。
この箇所、Aldo Maffeyのイタリア語訳では、
Non leggo mai la descrizione di un viaggiatore in un'isola deserta il cui cielo e sereno e le cui acque sono salubi, senza essere preso dal desiderio di andaevi a costituire una repubblica
となっており、これは、「国家を建設しに行きたいと思うことなしに、とある無人島の記述を読むことはけしてありません」というほどの意味だと思うのですね。Maffeyの解釈(訳)は、結論からいうと私の解釈(訳)と同じなのですが、この箇所はちょっと自信がないです。

A「Lasse du spectacle fatigant et insense que presente l'Europe, je ne puis permettre a mon imagination de s'occuper de ces agreables reveries, que mon ame ne s'ouvre a de douces esperances. 」
ここは最後のqueがすっきりしません。上掲のイタリア語訳は、
Stanco dello spettacolo penoso e insensato che ci offre l'Europa, non posso permettere alla mia immaginazione di occuparsi di queste piacevoli fantasticherie senza che il mio spirito si apra a dolci speranze.
とsenza を補ってsans que(〜なしに)のように訳しおり、とりあえずはこのイタリア語訳に従うしかないと思うのですが…。ちなみに、sans queのように訳しても、この挿入句は、すんなり理解できるように日本語の文章構造のなかにはめ込むのがちょっと難しいです。
試訳は「ヨーロッパが見せてくれる疲労をさそい正気を逸したスペクタクルにうんざりして、甘い希望に心開き、自分の想像力がこうした理想的な夢想に専心するのを禁じることはできません」。イタリア語訳に従えば、「心開くことなしに」なんですが、日本語の文章では、それだとかえって意味がわかりにくくなるような気がするのです。


パンドラの墓 後鳥羽院 - 2005/06/04(Sat) 11:39 No.645  

ところどころフランス語がわかる程度の私には、くらくらしてくるような文ですが、@は如月さんの解釈でよろしいのではないでしょうか。
時代的に合うかどうかわかりませんが、たとえばブーゲンビリアの花に名を残しているブガンビルなどを読んでいると、うん、そうだ、こういうところで、人間が一からやり直せるとしたら、こんな世知辛い世の中ではなく理想的な社会を作れるだろう、と空想しているマブリの姿が目に浮かんできます。はじめからやり直しても結果は同じだから、旅行記なんか読んでも無駄な幻想は抱かない、というのではないような気がします。マブリはやはり、ルピュブリックという名の桃源郷の夢を見ている。つまり、いつも読んでいる、と。

Aの「s'ouvre」は、パンドラの箱に引きずられて出てきた修辞表現でしょうから、西洋人にはよくわかっても、日本語に直訳すると、意味がぼやけてしまうような気がします。パンドラの箱の底に残ったものは希望ですから、que 以下は mon imagination・・・reveries を言い換えた同値表現で、que は、つまり、くらいに訳したらどうでしょうか? そして、甘美な希望に我が魂が発くとは、修辞の衣裳を脱がせてしまえば、希望に託す、ということでしょうから、「快い夢を思い描くこと、つまり、(パンドラの箱に残った最後の)希望に託さざるを得ない」というふうに意訳してはどうでしょうか? マブリの本意は離れるかもしれませんが、日本語として意味がとりやすくなるような気がします。


安心しました。 如月 - 2005/06/04(Sat) 15:26 No.647  

たとえいかほど専制君主であったとしても為政者でもあらせられ、しかも離島体験までおもちの院のお墨付きを頂戴し、安心致しました。
仰せのごとく、マブリの時代、無人島体験記は数限りなくあるわけですから、マブリが言っていること(無人島に国家を建設するという夢想)は、ある意味、当たり前のことなのだろうと、私も思います。

さて、小報告の参考資料用翻訳は、あと一息のところまで到着しました。明日中に資料(マブリのテクスト)の翻訳を終えて、資料全体を見直し、それが終わったところで、報告原稿そのものも最終的に見なおそうと思っています。
この調子でいけば、内容はともかく、時間的には大会に十分間に合ってくれると思います。


激動の時代の公演史 投稿者:如月 投稿日:2005/06/02(Thu) 01:14 No.638  
今日、書店で『ベルリン三大歌劇場ーー激動の公演史 1900-45』(菅原透著、アルファベータ)という本を目にしました。パラパラ立ち読みすることしかできませんでしたけど、内容的には絶対お薦めです。ワイマール共和国時代からナチス台頭まで、ベルリンが前衛音楽の拠点だった時代の歴史がこの一冊でわかるはず♪
http://www.alphabeta-cj.co.jp/shin_kin/shin_kin040608.html


脱稿! 投稿者:如月 投稿日:2005/06/01(Wed) 00:44 No.631  
なかなか掲示板に書き込みできなくてごめんなさい。
でも、書き込みをさぼっている間に18世紀学会大会報告の原稿(初稿)がとりあえず脱稿しました。全体は、一応、次のような構成になっています。

序 マブリとその著作
第一節 『精神論』弾圧事件
第二節 ジョン・ロックの思想とその受容
第三節 自然状態からの社会批判
第四節 『精神論』と『市民の権利・義務について』
第五節 『市民の権利・義務について』
結論 歴史学とマブリ

『市民の権利・義務について』の分析に入るまでがちょっと長いかなあとも思うのですが、逆に言えば、ここのところを理解して頂ければ、マブリのテクスト分析そのものはそれほど難しくはないとも思うんです。論旨の方は、当初の予定と異なり、ノミナリスムとレアリスムがあまり相剋してませんが(笑)、そこのところはなんとか了解していただくしかありませんね。それと、長さは抑えめにするように努力したのですが、それでも34枚ほどになってしまいましたから、もしかするとどこかけずらなくてはならないかもしれません。
ということで、ともかく原稿ができましたから、続いて参考資料づくりに取りかかっていますが、マブリからの引用をふやすと自分で訳さなくてはならないので、それに四苦八苦です(笑)。「第三の手紙」まではすでに訳してあるからいいんですけど、問題は「第四の手紙」以降ですね。もし間に合わなかったら、最悪、引用を減らすしかないと腹をくくっています。


さっそくの難問 如月 - 2005/06/01(Wed) 09:16 No.632  

「第四の手紙」を訳しだしたら、さっそくの難問です。

Scavez-vous, me dit Milord en finissant notre promenade, quelle est la principale source de tous les malheurs qui affligent l'humanite? c'est la propriete des biens. Je scais, ajouta t-il, que les premieres societez ont pu l'etablir avec justice ; on la trouve meme toute etablie dans l'etat de nature : car personne ne peut nier que l'homme alors n'eut droit de regarder comme son propre bien la cabanne qu'il avoit elevee et les fruits de l'arbre qu'il avoit cultive. Rien n'empechoit sans doute que des familles en se reunissant en societe pour se preter des forces reciproques, ne conservassent leurs proprietez, ou ne partageassent entre elles les champs qui devoient leur fournir des alimens. Vu meme les desordres que causoient dans l'etat de nature la barbarie des moeurs et le droit que chacun pretendoit exercer sur tout, et faute d'experience pour prevoir les inconveniens sans nombre qui resulteroient de ce partage, il dut paroitre avantageux d'etablir la propriete des biens entre les nouveaux citoyens. Mais nous qui voyons les maux infinis qui sont sortis de cette boite funeste de Pandore, si le moindre rayon d'esperance frappoit notre raison, ne devrions nous pas aspirer a cette heureuse communaute de biens tant louee, tant regretee par les poetes, que Lycurgue avoit etablie a Lacedemone, que Platon vouloit faire revivre dans sa Republique, et qui, graces a la depravation de nos moeurs, ne peut plus etre qu'une chimere dans le monde.

この文章、直接的には次のような意味だと思われるのですが、これだと財産所有の否定から議論をはじめながら、結論は逆に財産共有の否定になってしまうんですね。う〜む、難しい。

「おわかりですか、」散歩を終えながら卿は私に言いました。「人類を苦しめるすべての不幸の主要な源泉が何であるか。それは財貨の所有です。私は承知しております、」彼はつけ足しました。「初期の社会は正義とともに所有を確立することができました。また、自然状態において所有が完全に確立されるということを、人は認めてもおります。なぜなら、人が建てた小屋、人が栽培した樹木の果実を、その時点において人が自分に固有の財産だと見なす権利をもっていたことを誰も否定できないからです。互いの力を提供し合うために社会に結合しながら、家族は固有の所有権を保持していたこと、もしくは、食糧を供給するであろう原野を互いの間で分有することを何も禁じなかったのは疑いありません。自然状態において風俗の野蛮さ、個々人が他の総ての人に行使することを主張した権利が引き起こした無秩序を見て、またこの分有がもたらす数知れぬ不都合を予見する経験の欠如から、新しい市民の間に財貨の所有権を確立することが有益だと見なされたに相違ありません。しかしこの致命的なパンドラの箱から出てきた限りない悪を目のあたりにしているわれわれは、もし希望のほんの僅かな光線が理性を刺激するとしたら、詩人たちによってあれほどまでに賞讃されまた惜しまれ、リュクルゴスがラケダイモンに確立し、プラトンがその国家に再生させようと欲し、われわれの風俗の堕落のためにもはや幻想でしかありえないこうした幸福な財産の共有にあこがれる必要はないでしょう。」


パンドラの箱とは? 如月 - 2005/06/01(Wed) 09:47 No.633  

ちなみに、この部分につけられた監修者Jean-Louis Lecercleの註は次のとおりです。

Il suit Locke pour qui la propriete est fondee sur le travail. Mais la theorie de Locke est beaucoup plus claire. Pour lui dans la nature chacun a un droit limite a ce dont il peut jouir effectivement. Il y a assez de terres pour tout le monde. C'est dans la societe l'invention de la monnaie qui permet d'accumuler les richesses, et donc de constituer de grandes proprietes. locke tire de la la justification du regime de la propriete dans l'Angleterre de son temps. On voit plus mal comment Mably peut accorder son reve d'une societe communiste avec de telles premisses.

でも、この註を読んでも私の疑問は解決しないのですね。
マブリがいう「致命的なパンドラの箱」というのは、財産所有のことなんでしょうか、それとも財産共有のことなんでしょうか?これがよくわからないんです。


開いてしまった蓋はしまらない! 如月 - 2005/06/01(Wed) 15:19 No.635  

いろいろと自問しているうちに、この文章は、結局、財産の所有(社会状態)と財産共有(自然状態)を二項対立状態にある選択肢と読んでしまうから、意味がわからなくなるのではないかと気づきました。マブリが主張するのは、社会状態を克服するものは、自然状態ではなく社会状態のなかからしか出てこないということなのだと思います。だから「パンドラの箱」の比喩が出てくるのですね。マブリは、「さっさと箱の蓋をしめてしまいなさい」とは言わない。
ということで、上掲の文章、次のように訳し直しました。

「おわかりですか、」散歩を終えながら卿は私に言いました。「人類を苦しめるすべての不幸の主要な源泉が何であるか。それは財産所有権です。私は承知しております、」彼はつけ足しました。「初期の社会は正義のうちに所有権を確立することができました。また、自然状態において所有権が完全に確立されるということを、人は認めてもおります。なぜなら、人が建てた小屋、人が栽培した樹木の果実を、その時点において人が自分に固有の財産だと見なす権利をもっていたことを誰も否定できないからです。互いの力を提供し合うために社会に結合しながら、各家族が固有の所有権を保持していたこと、もしくは、食糧を供給するであろう原野を互いの間で分有することを何も禁じなかったのは疑いありません。自然状態において、風俗の野蛮さと、個々人が他の総ての人に行使することを主張する権利は無秩序を引き起こすという見解そのものから、また分有がもたらす数知れぬ不都合を予見する経験の欠如から、新しい市民の間に財貨の所有権を確立することが有益だと見なされたに相違ありません。しかしこの致命的なパンドラの箱から出てきた限りない悪を目のあたりにしているわれわれも、もし希望のほんの僅かな光線が理性を刺激したならば、詩人たちによってあれほどまでに賞讃され惜しまれ、リュクルゴスがラケダイモンに確立し、プラトンがその国家に再生させようと欲し、私たちの風俗の堕落のためにもはや幻想でしかありえないこの幸福な財産の共有にあこがれる必要はないでしょう。」

Vuという単語、最初の訳ではvoir(見る)の過去分詞かなと思ってたのですが、ここはfaute(欠如)と併置してるわけですから名詞としなくてはいけないわけで、辞書をみたら「所見・見解」という訳がありましたので、こちらを採用しました。


Re: 脱稿!  - 2005/06/01(Wed) 19:04 No.636   <Home>

20世紀の現実においても、財産の共有、すなわち共産主義は、幻想でしかなかった。共産党が、一元的に管理するよりは、其々の個人や組織が、多元的に管理した方が、全体におよぶ危険も、遥かに少ないと言えるだろう。


パンドラの箱と分有 慧遠(EON) - 2005/06/10(Fri) 05:04 No.656  

如月さんの訳された文章を見て、私個人が勝手に解釈したところの「パンドラの箱」とは、「《分有がもたらす数知れぬ不都合を予見する経験の欠如》から、新しい市民の間に財貨の所有権を確立することが有益だと見なされたに相違ありません。」という文の中の、《分有がもたらす数知れぬ不都合》ではないのかと思いました。
それでも「しかしこの致命的なパンドラの箱から出てきた限りない悪を目のあたりにしているわれわれも、………………私たちの風俗の堕落のためにもはや幻想でしかありえないこの幸福な財産の共有にあこがれる必要はないでしょう。」と言われるように、この新しい市民の間の分有にもかかわらず、そこでは幻想でしかありえない共有あこがれる必要はないと言われているのではないかと思いました。


『資本論』以前 如月 - 2005/06/10(Fri) 08:42 No.657  

 慧遠さん、ご意見どうもありがとうございます。
 ご指摘のように、パンドラの箱というのは、「分有がもたらす数知れぬ不都合」というか、財産所有権そのものですね。
 ただ、私はご紹介したルセルクルの註は、少なくともマブリに関しては間違っていると考えるようになりまして、ルセルクルは、『市民の権利・義務について』のこの先の記述を単純に財産共有への肯定(共産社会の夢)と解釈するので、ロックと異なりマブリには混乱があるということになるのですが、私はマブリには大きな混乱はないと思います。
 というのは、続く第三段落で「競争心を刺激するにふさわしい報償」が述べられますが、私の考えでは、これが「希望の光線」の具体的記述なのですね。
 ですから逆に、マブリが無人島に建設したいという国家でも、おそらく根本所有権は肯定されているのです。共有されるのは、限度を越えた不当な占有(possession)ですね。マブリの公共倉庫は、収穫物をすべて持ち寄る場所ではなく、収穫した個人が消費する分を引いた余剰を持ち寄る場所なのではないでしょうか。
 マブリの記述にわかりにくいところがあるのは事実で、たとえば羊飼いが飼う羊は彼の財産か国家の財産かということもその一つです。ただよくよく考えてみると、羊の所有権が誰に帰属するかは、マブリ的にはあまり意味をもたないのですね。問題となるのは生産される羊毛や羊肉の所有権(処分権)で、こちらを個人消費用と余剰でわけることができれば、羊毛や羊肉をうみだす「羊の身体」そのものの所有権は個人に帰属するといっても国家に帰属するといっても、さほど違いはないのではないでしょうか。


大丈夫なのかしらん… 如月 - 2005/06/10(Fri) 11:49 No.658  

↑の翻訳中、「分有」は「分割」とした方がいいですね。私は、もともとがプラトニストなものですから(笑)、partagerというと、つい「イデアの分有」を思い浮かべてしまいます。上のマブリの文脈のなかでpartagerを「分有」と訳すと、どうも「共同所有」といった感じになってしまいますが、ここは明確に、原野を「分割」するのですね。

それともう一つ。
直前に羊の所有権についての疑問を提出しましたが、これと関連して、前からちょっと腑に落ちなかった箇所があるのです。
それは「droit de regarder comme son propre bien la cabanne qu'il avoit elevee et les fruits de l'arbre qu'il avoit cultive(人が建てた小屋、人が栽培した樹木の果実を、その時点において人が自分に固有の財産だと見なす権利)」というところの最後の部分で、なぜこれが「人が収穫した果実」ではなく、「人が栽培した樹木の果実」というややこしい表現になっているかということなんです。
で、羊の所有権について考えているうちに、マブリは漠然とではあるけれど、生産手段と生産物を区別して考えていたのではないかと思い至りました。で、おそらく、生産手段は共有というか、本来的に個人の所有対象ではないというのですね。
用語のうえでこのことを示唆しようとしたのが、propriete(所有)とpossession(占有)の区別で、生産手段は「所有物」ではなく、あくまでも「占有物」だというのだと思います。
とすると、続く段落の無人島の国家の記述のなかのne rien posseder en propre(個人ではなにも占有しない)という表現の意味がよくわかるような気がします。

しかし、明日発表だというのに、今ごろこんな基本的なところにひっかかってて、大丈夫なのかしらん…!?


お礼と雑記 投稿者:かぐら川 投稿日:2005/05/25(Wed) 00:23 No.624   <Home>
18世紀学会の報告資料、お送りいただき有り難うございました。

いろいろ刺激をいただいて少し整理しようかと思ったのですが、とても無理なので、とりあえず、お礼をかねてのメモです。

ホッブスの「哲学者と法学徒との対話 」(岩波文庫)もおもしろいなですね。今月にはスミスの「法学講義」も岩波文庫で久々に読めるようになりました。
自然法思想の流れをどういう視点で追っていくかということも、おもしろいところです。

なお、慶応の金山直樹教授が実定法研究の側からフランス「時効」理論を史的にフォローされているようです。
http://www.clb.law.mita.keio.ac.jp/kanayama/

下のスレドの「自然法という考え方が日本にもあるか」という問い(というよりも、問いの立て方)についても、おしゃべりしたいことがあるのですが、あらためて・・・。


Re: お礼と雑記 かぐら川 - 2005/05/25(Wed) 07:44 No.625   <Home>

マブリに先行する「功利主義的な思想」、その「ノミナリスム的な認識論」について少しご説明いただけると有り難いのですが。


自然法把握に関するノミナリスム 如月 - 2005/05/25(Wed) 09:12 No.626  

かぐら川さん、こんにちは。
金山さんの研究情報、ありがとうございます。世の中にはすごいことを研究している方がおられるのですね。ただ当初の予定と異なり、私の今回の報告の中では、時効(prescription)問題の比重はかなり軽くなると思います。
<マブリに先行する「功利主義的な思想」、その「ノミナリスム的な認識論」>という点に関しては、このスレッドの七つほど下の「マブリとエルヴェシウス」というスレッドにアウトラインを記しておきました。

ところで、今回の私の報告は、ご指摘の「自然法思想の流れ」が大きなポイントなのですが、それには、ジョン・ロックの自然法思想に関する次のような視覚が強く影響しています。
「ロックの『統治論』の議論に対しては、急所となる部分でいつも自然法が持ち出されているが、自然法それ自体の体系的な展開がなされていない、という批判が繰り返し加えられてきた。私は、こうした伝統的批判の趣旨を承認する。けれども、それは決して批判として承認するわけではない。ロックは重要な部分で必ず自然法を引き合いに出す。にもかかわらず、確かに、自然法の体系的な展開をほとんど行っていない。しかし、ここから導けるのは、不徹底があるという見方だけではない。定まった形式に体系化できないようなものとして自然法の重大性をつねに積極的に強調していた、という理解の可能性を見逃してはならない。ロックが自然法の内容について語らないのは、自然法とは固定的な内容を語るべきものではないからである。ロックが自然法に訴えるときに眼差しを注いでいた先にあったのは、何が正しいことなのか、何が為すべきことなのか、についての努力探究と同意決定の不断の営み、いわば瞬間的な営みであった。ロックは、そうした営みの重大性を自然法という概念で表現していた。実際、ロックの経験論を真摯に受けとめる限り、ロックが自然法の概念を問答無用の錦の御旗として用いることなどできないことがすぐにわかる。というのも、神や自然法の概念さえわれわれに生得的に与えられているのではなく、あくまでもわれわれの経験や営みのなかでのみ立ち現れてくるものだからである。
(中略)人間の営みが次々と幾重にも重ねられるものである以上、そうした営みにおいて現れてくる人格や所有権の概念も、いわば瞬間ごとに相貌を新たに塗り変えていく、複層的な成り立ちをしていると、そのように見るのが適切であろう。」(一ノ瀬正樹氏『人格知識論の生成ーージョン・ロックの瞬間』、東京大学出版会、1997年、255〜6頁)
私は、マブリは、ロックのこうした自然法の捉え方、つまりそれは固定した内容を語るべきではないということを、かなり忠実に踏襲しているのではないかと考えており、またこうした捉え方自体、一種の「自然法把握に関するノミナリスム」ではないかと思っています。


自然法に関する同意の重要性 如月 - 2005/05/25(Wed) 11:13 No.627  

ジョン・ロックの自然法の捉え方を確認するため、一ノ瀬正樹さんの議論、以下にもう少し引用してみます。

   *    *    *

 政治社会における同意についてはどうだろうか。これも結局は自然法への同意であると捉えられるのだろうか。この点についても、私は、全く紛れがないと考える。成人後の子供たちが父親の統治権に与える暗黙の同意であれ、誓約や宣言によって国家権力に与えられる明示の同意であれ、領土内の土地の所有や享受によって国家権力に与えられる暗黙の同意であれ、それが政治的権力への同意であるという点ですべて同様である。しかるに、ロックは、政治的権力そしてそれに基づく法をどのような性格のものとして押さえていたのか。ロックは、自然状態には三つの欠陥があり、それが自然状態から政治社会への同意に至らしめるとして、三つの欠陥の筆頭を次のように記した。

「自然状態には、共通の同意によって受け入れられ認められていて、善悪の基準となるような、そして人々の間のすべての紛争を裁決する共通の尺度となるような、確立した、一定の、衆知の法が欠けている。というのも、自然法はすべての理性的被造物にとって明白で理解可能なのだけれど、人々は、研究不足のため自然法に無知であるだけでなく、利害関係によってゆがめられているので、自分たちの個々の事例にそれを当てはめるときには、この自然法が自分たちを拘束する法であると認めたがらないからである。」(『統治二論後編第124節』)

ここから読み取れる論点は、まず、自然法それ自体に対しても「同意」の概念が適用可能であるという点である。自然法に対して同意したりしなかったりということが現にありえるのである。しかもここでは、そうした同意は研究に基づくということさえ述べられている。これは、言うまでもなく、努力探究から同意決定へという私が理解してきたロック経験論の基本構成に対応する論立てである。自然法への同意という概念がロック哲学に完璧に馴染むこと、そしてその重大性ゆえにロック哲学の核心に位置すること、がここから強力に推定できるだろう。実際、こうした筋立ては『知性論』の生得説批判の文脈での道徳的知識の捉え方においても照応的に確認されよう、いやむしろそうした捉え方のなかに典型的にすでに色濃く滲み現れていたと言うべきであろう。
 しかしでは、自然法への同意がうまく成立していないということが自然状態の欠陥であり、それを免れるために政治社会に同意するというとき、結局何に同意したことになるのか。自然法に代わるべき、自然法とは別の、一定で衆知の人定法を制定する権力を国家が持つこと、そうした意味での国家権力に同意し、不都合を逃れるということなのだろうか。断じてそうではない。ロックは次のように明言する。

「国内法は、自然法に基礎づけられる限りにおいてのみ正しいのであり、それらは自然法によって規制され、解釈されねばならない。」(『統治二論後編第12節』)

また、こうも言う。

「自然法の義務は、社会において終止することなく、むしろかえって多くの場合、一層厳密となり、人定法によって衆知の刑罰が付加され、それを遵守するよう強制するのである。このように、自然法は、万人に対し、つまり立法者に対しても他の人々に対しても永遠の規則として存在する」(『統治二論後編第135節』)

そうである以上、政治社会への同意とは、自然状態でうまく成立していなかった自然法への同意を新しい形態においてさらに追求し直して形成していこうということであり、その意味において、究極的にはやはり自然法への同意にほかならないのである。ロックが挙げる、裁判官の欠如、執行権力の欠如、という自然状態の第二、第三の欠陥は明らかに第一の欠陥に付随的なものである以上、政治社会への同意は自然法への同意であるという論点こそが、政治社会結成を導く構図の要諦をなしていたと考えてよい。さらに、政治社会への同意は媒体としての貨幣をも含む個人の所有権の維持を目的としたものであり、そしてそうした同意が自然法への同意にほかならないということは、恐らく、貨幣使用への同意が自然法への同意であるというさきに見た論点を、迂回的に裏づけてもいるだろうと思う。
 さて、以上のように、ロックの注目する同意はすべて一貫して自然法への同意であることが確認された。こうした確認から直ちに原理的に出てくるのは、貨幣制度や国家権力への同意はあくまでも自然法への同意、つまりそうした貨幣制度や国家権力が自然法にかなっているという意味での同意であって、貨幣制度や国家権力それ自体に向けた端的な同意ではない、よってそれは差し当たって同意されたにすぎず、そうした制度や権力は原理的に安定していない、という論点である。これらが差し当たっての同意であるというのは、制度や権力のありようはそれの適用や運用のそのつどの次第に応じておのずと変化していく、という点からほぼ必然的に導かれる。同意が制度や権力への端的な同意であるなら、自然な変容を見越して、それを込みにした同意もありえるが、ここでの同意はあくまでも自然法にそのときかなっていると判定される限りにおける同意である。それゆえ、制度や権力が変容したなら、再びそれが自然法にかなっているかどうかを絶えず探究していかなければならない。こうした意味で、制度や権力への同意は、決して固定的で絶対的ではなく、本質的に差し当たってのものにすぎない。
(一ノ瀬正樹氏、前掲書、285〜7頁)


自然法論におけるノミナリスム 如月 - 2005/05/25(Wed) 11:31 No.629  

直前の一ノ瀬さんの議論のポイントは、ロックの自然法論においては、自然法の内容そのもの以上に「同意」という「知」のあり方が問題とされるということですね。ロックのこうした考え方は、私見によれば、自然法論における一種のノミナリスムと見なすことができるのではないかと思います。

また、この議論から、権力に対する抵抗権の正当性が導き出されてくるというのもすぐに読みとれると思いますが、ロックの場合、抵抗権の正当性というのは単なる机上の議論ではなくて、この考え方が名誉革命を正当化していることに注目する必要があるように思います。


阿留辺幾夜宇和 投稿者:如月 投稿日:2005/05/24(Tue) 11:57 No.622  
自然法という考え方が日本にもあるかということ、かつてこの掲示板で後鳥羽院さんと少しお話しして、その時私は「ない」とこたえたように思いますが、ジョン・ロック、あるいはむしろエルヴェシウスの法についての考え方をいろいろ検討しているうちに、たとえば明恵の『阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)』なんかは、日本流の一種の自然法論じゃないかという気がしてきました。
つまり、かつて私は、ヨーロッパ流の自然法思想の背景には「超越者」の概念が存在しなくてはいけないんじゃないかと考えていたんですが、エルヴェシウスなんかは、超越者を前提としない社会秩序のあり方、法のあり方を考えているわけですね(それゆえカトリック陣営から猛反発される)。それをしも「自然」といえるならば、これは、たとえば「阿留辺幾夜宇和」といったときに明恵が探究していたものと、そんなにかけ離れてはいないんじゃないかという気がするのです。
エルヴェシウスまでいかなくても、ロックなんかはやはり一種の行動主義の立場から、法、正義・不正義、善悪ということを考えていたんじゃないでしょうか。で、普通はこうした思考様式を「経験論」というんだと思います。でも、ロックの立場は、けして経験(実体験)が絶対というものではない。ただ、実体験というカセをはずしたとき、いったい何を判断基準・行動基準とすればいいのかとロックは問うているんだと思います。
つまり、Vorhandensein(客観的存在)なんて何も意味をもたない。人間にとって意味をもつのは、つねにZuhandensein(用具的存在)なんだ、そのかぎりにおいて人間はつねにIn-der-Welt-Sein(処世)なんだと。
だから、ロックの場合も、エルヴェシウスほどじゃないけど、超越者もしくは超越的法によって人間行動の善悪が決められるとはけしていわない(この辺、究極的には「自然信仰」のようなものを想定するルソーとは対極的だと思います)。人間の社会的行動、政治的行動は、人間自身がおのれの信義にもとづいて判断していかなくてはならない。で、このぎりぎりのところで行われる判断=行動を、ロックは「天に訴える」と表現するわけです。
この「天に訴える」という考え方は、もしかするとロックの思想の一番おもしろいところじゃないかと思うんですけど、「天に訴える」といっても、実際に訴える場所は人間のなかでしかないと、ロックは十分自覚しているわけですね。
すると次に、こうした思想のあり方は、禅の発想に似てないかと思えてくる(笑)。

ちなみにこれは、自然法爾というようなことじゃなくて、自己の責任において自己の行動を決していくといくということ。それをしてロックは「知性」と呼んでいるんじゃないでしょうか。


唯仏与仏 如月 - 2005/05/24(Tue) 13:21 No.623  

上の文章、「似てる・似てない」というより、「一脈通ずる」といった方が、表現としては適切かもしれないですね。

ところで、浄土系の思想と禅の違いとして、救済のための方法の難易度ということがよく指摘されますが、この発想そのものが浄土思想の枠組のなかから生じてくるもので、禅からみると救済のための方法の難易度は如何というような問題は生じようがないですね。
禅といってもいろいろな立場がありますから、ここでは私の考える道元の思想でそれを代表させることとしますが、すると坐禅というのは(浄土思想の側からみたときのような)救済のための方法ではありませんね。つまり、救済(往生、成仏)に到る方法論がいろいろあるなかで、一方に唱名念仏があり、他方に坐禅があるという位置づけであれば、その難易度を論じることができるでしょうけど、道元禅というのは、そもそも救済(成仏)を最終的な目的としてはいないし、また、目的に到るための方法論としての坐禅をも否定する。
道元が考えているのは、成仏(悟り)はむしろ当然のこととして、次に、悟りが約束された者、もしくは悟った者として、人間の行動はどうあるべきかということだと思うんです。ですから、道元のいう坐禅というのは、仏としての結果、仏としての行動ですね。
つまり、悟り(知)というのは、行動として示されなくてはならない。行動としてあらわれないかぎり、その「知」は「知」ではない。そういう知識論・仏観が道元思想の根底にあるように思うのです。
(その限りにおいて、禅の思想は鎌倉時代の律宗に親和的ですね。)

話をもとに戻せば、こうした知性論=行動論のあり方、私は、ロックの発想と一脈通ずると思うんです。


虚無 投稿者:TS 投稿日:2005/05/24(Tue) 05:40 No.621  
シニシスト、ヒューマニスト、ニヒリスト、マキアヴェリスト、マテリアリスト
、絶望、悲しみ、苦しみ、社会問題。
これらのキーワードに興味ある人たちよ。
HPを見にきてください。
http://www10.plala.or.jp/teruaki5247/neo.html


フランス18世紀と鎌倉時代 投稿者:如月 投稿日:2005/05/22(Sun) 22:25 No.618  
フランス18世紀の社会体制、アンシャン・レジームということで、私自身を含め、この掲示板ではなんとなく平安時代と比較した議論が多かったように思いますが、ふと、鎌倉末期と比較するとおもしろいということに気がつきました。
つまり、18世紀フランスの政治体制はいわゆる絶対王政なのですが、これが強いといえばいうほど、なぜ革命が成功したのか説明するのが非常に難しくなるんですね。
似たようなこと、鎌倉末期にもあるんじゃないでしょうか。幕府もしくはく得宗専制体制が強かったといえばいうほど、なぜ建武中興が成功したのか説明するのが難しくなる。
フランス革命でいうと、ルソーとかモレリといった、ある意味で最初から反体制的だった人の社会批判の影響は無視できないと思いますが、それだけではやはり革命の成功につながらないので、マルゼルブ、エルヴェシウスといったむしろ体制に近い人が反体制的な意見を表明したということの意味が大きいのではないでしょうか。
つまり、鎌倉時代でいうと、有力御家人が反得宗派にまわるということですね。
してみると、ルソーやモレリはいわば朝廷派で、反幕府のイデオロギーを準備したんだけど、実際に動いた人は、必ずしも朝廷派というわけではなくて、とりあえず倒幕に立ち上がったのだといえなくもない。
そうした複数の動きが有機的にからまってくるから、革命や倒幕は成功したのであって、それをイデオロギー的なものだけに帰するのは難しいように思います。


御一新 後鳥羽院 - 2005/05/23(Mon) 20:02 No.620  

得宗専制という学説の提唱者の専制的な権威が、鎌倉末期に逆照射されて、どっちが蜃気楼がわからなくなったのではあるまいか、というのが、私の疑義なんです。あるいは、自然は芸術を模倣する、という表現にならっていえば、歴史は学説を模倣する、ともいえるのではあるまいか、と。得宗家の人々は、そりゃあ買いかぶりすぎだぜ、と草葉の陰で私語してるのではあるまいか。
・・・ブルターニュ地方をぶらぶらしてきて、フランス革命ってえのはどうも気にいらねえ、とちょっと反動的なことを考えています。愚直なブルターニュは、御一新のときの会津藩と同じだな、と(笑)。


1851年のフーコーの振り子 投稿者:後鳥羽院 投稿日:2005/05/22(Sun) 14:29 No.615  
『フランス名句辞典』(大修館)をめくっていたら、ロラン・バルトの言葉が目にとまりました。

La langue,comme performance de tout langage,n'est ni reactionaire,ni progressiste:elle est tout simplement:fasciste;car le fascisme,ce n'est pas d'empecher de dire,c'est d’obliger a dire.

人間は言葉によって自由に思考してるように思っているけれど、ほんとは言葉の奴隷にすぎず、言葉が人間に強いてくる、あの嫌らしさ、あの不快さ、あの忌々しさ・・・というようなことを、バルトはファシストと表現しましたが、さて、この表現は言葉の本質(?)をよく表現してるかどうか・・・。バルトが交通事故で亡くなる少し前の表現でしょうか。

さらに辞典をめくってみると、シモーヌ・ヴェイユの「重力と恩寵」に、こんな表現がありました。

A mesure que je deviens rien,Dieu s'aime a travers moi.

私が無になればなるほど、神は私を介して自らを愛したまう・・・。
1947年のノートとのことなので、ヴェイユが餓死するように死んでいった直前の言葉でしょうか。重力と恩寵について、なにかをピタリと言い当てているような、とても良い表現ですね。

ブルターニュ旅行の帰り、パリの「国立技術博物館」で、「フーコーの振り子」を見てきました。閑散とした空間でモノトーンな調べを奏でている振り子には簡潔な美があり、ウンベルト・エーコの「フーコーの振り子」はうるさすぎる・・・。


言葉が先か、社会が先か…。 如月 - 2005/05/22(Sun) 21:53 No.616  

後鳥羽院さん、こちらの掲示板ではお久しぶりです(笑)
院がひかれたヴェイユの言葉、ドストエフスキーか誰かに似たように表現があったような気がします。キャンバスに余白が多ければ多いほど他者の領域が多く残されているのだというような…。

それはさておき、コンディヤックを読んでいると、あの極度に合理的とされる文章が、究極的には「色即是空」といっているような気がしてくる瞬間があります。「認識(存在)とは言葉次第。言葉を取り去ってしまえば空」と。だから、コンディヤックにしてみれば、言葉がなければ当然社会は存在しえないんだけど、これ、実は起源論のようで起源論じゃないんですね。でも、コンディヤックの論理としては、認識論・言語論はこれで完結してる。
このコンディヤックの議論を実体的にとらえると、ルソーのように、まず社会が成立してからそのあとで一種の約束事として言語が成立するんだという批判が生まれてくるんだと思うんですけど、この時おそらく、ルソーはコンディヤックの考えている「色即是空」の世界観を理解していないのですね。
あるいはこんな風にいうこともできるかもしれない。
つまり、ルソーが人間というとき、それはDas Mannつまり、生物としてのヒトなんだけど、コンディヤックはIn-der-Welt-Seinをみてる。だから、コンディヤックは、言葉以前、社会以前の裸の人間については語れないし語らないんです。

院の書き込みをまたまた私の当座の関心領域にひきつけてしまいましたけれど…。


Je dis je・・・ 後鳥羽院 - 2005/05/23(Mon) 19:44 No.619  

筆綾丸君は元気なのですが、その反動か、私はあまり元気がありません(笑)。
ヴェイユの表現、「カラマーゾフの兄弟」に出てきてもおかしくないですね。

いま話題のレッサーパンダ「風太君」を見ていて、今西説を思い出しました。人間は立つべくして立ったのだ、と。世界中のレッサーパンダが一斉に立ち上がれば、今西説は立証されるのですが(笑)、それともかく、あの風太君、自分は人間に近づいたな、と思っているかもしれませんね。
私はルソーは苦手なのですが、コンディヤック、面白いですね。

「フランス名句辞典」に、

Je dis je en sachant que ce n'est pas moi.

とありました。サミュエル・ベケットの L'Innommable にあるそうです。これは、デカルトのコギトへのパロディのようにも読めますが、とてもコンディヤック的ですね。


1755年と1758年 投稿者:如月 投稿日:2005/05/18(Wed) 10:01 No.607  
予定をちょっと変更して、今、モレリの『自然の法典』(大岩誠氏訳、岩波文庫)を読んでいます。
この作品、ルソーの『人間不平等起源論』と同じく1755年に刊行されており、この両著作とエルヴェシウスの『精神論』(1758年刊)、マブリの『市民の権利・義務について』の間は3年間しかあいていないのですが、実はこの3年間というのが結構重い意味をもつのかなと考えています。
というのは、1756年にフランスがオーストリア、ロシアと組んでプロイセン、イギリスと戦った七年戦争がはじまっており、この戦費調達のための新税創設が、フランスでは大きな国内問題になっているのですね。で、王権と高等法院(パルルマン)のあいだは、新税創設をめぐって非常に険悪になっている(新税創設のための法は、高等法院が登記しないと発効しない)。そうした緊張のなかで、1757年にルイ15世暗殺未遂事件がおこり、王権は世論に対して非常に敏感になっているわけです。『精神論』への弾圧は、こうした政治的流れ全体のなかでのできごとといえるでしょうね。
マブリの『市民の権利・義務について』は、政治的には、民主的というより非常に反王権的なのが特徴です。こうした王権に対する反感は、これがもし55年だったら同じようなかたちで表明されえたのか、逆に『自然の法典』『人間不平等起源論』といった、ある意味で非常にユートピア的な、それゆえ私の分類では観念実在論な政治著作は、58年に書かれ得たか、やはり問題だと思うのです。
つまり、55年の時点では、政治的著作はユートピア的なかたちをとっていたものが、58年にはより具体的な王権批判に変化している、『精神論』に対する弾圧も、そうした反感を強める一因となったといえるのではないかということです。


三つの執筆理由 如月 - 2005/05/18(Wed) 13:47 No.608  

結局、マブリの『市民の権利・義務について』執筆理由としては、次の3点が考えられると思います。

@ユートピア思想・原始共産主義への共感(一般論、従来のマブリへの評価)
A七年戦争を契機とする反王権感情
Bエルヴェシウス『精神論』出版・弾圧へのリアクション(原如月説)

このうち、Bは、さらに二つに細分されます。
a)『精神論』の思想とマブリおよびコンディヤックの思想の相違の明確化
b)『精神論』出版弾圧をとおして明らかになった王権への反発

B−bは、Aと密接不可分のもので、むしろ、AはB−bをとおしてさらに明確化・強化されたといえると思います。かつ、これは@とは必ずしも結びつかないのですね。
B−bの方向の著作としては、マブリの『市民の権利・義務について』のほかにマルゼルブの『出版論』(1758〜9年執筆、1809年刊)をあげることができます。私はこの著作をまだ読んでいないのですが、マルゼルブを研究した木崎喜代治さんによれば、ここでのマルゼルブの論議は、「けっして狭い出版論の枠内にとどまっていることはできないということである。反王権文書や反宗教文書にたいしていかに対処するかという問題への回答は、政治そのもの、宗教そのものにたいしていかなる態度をとるかという問題への回答を前提としている。すなわち、一定の政治理念、一定の宗教思想を前提としている。租税法院におけるマルゼルブの反専制主義闘争や、大臣としてのプロテスタントへの市民権返還運動の検討が、マルゼルブの出版論の理解にとっても不可欠であるゆえんである」(木崎喜代治氏『マルゼルブーーフランス18世紀の一貴族の肖像』、岩波書店、1986年、183頁)とされます。

AがBと結びつくことで構想された政治論が、ロックの思想を核とすることでマブリの『市民の権利・義務について』になったといえるのではないかと、今は考えています。


モレリによる自然状態 如月 - 2005/05/19(Thu) 09:50 No.610  

 ご参考までに、以下、モレリの『自然の法典』から、「自然の手から離れたときの人間の状態と人間を社会的なものにつくりあげるため自然が用いたもの」という一節を引用・紹介しておきます。なんというか、マブリの『市民の権利・義務について』と比較すると、非常に楽天的なんですね。これは、二人の世界観や資質の違いからくるといってもいいんですけど、上にも書いたように、55年と58年の社会情勢の違いによるともいえるのではないかと、私は思うんです。

 「人間には天賦の思想も傾向もない。生まれた最初の瞬間には、すべて<完全な無関心>自己そのものの存在についても全く無関心なのである。このめくらにひとしい感情は動物のそれと毫も違わないのであるが、やがてそれが最初の動機となって、その無関心状態をうち破ってしまう。
 人間をこの麻痺状態から抜け出させる最初の目的とか、それがどういうふうに行われるかについては、ここではくわしくのべないことにしてただ私がいいたいのは、人間の欲望が順をおうて自己保存に注意を向けさせ、この注意をまずむける目的によってこそ人間は最初の思想を導き出すということである。
 自然はわれわれの欲望をたくみにわれわれの力の成育に調和させておいて、さて、人生における他の欲望の数をきめるのだが、いつも欲望は人力の限度を少しこえる程度に定める。自然がこういうような心遣いをする理由は、次に述べるとおりである。
 もしかりに人間がなんの妨げもなく、いつでも満足していたとすれば、生まれたときの無関心な状態に再び落ちこんでしまって、新しい欲望が人間を刺戟しないかぎり、その状態からぬけ出られないはずである。しかも、その欲望を充足するには、粗野な本能よりも高い理性などは必要なく、社会性などはなおさら無用なのである。
 至上の叡智の意図は決して、そういうところにはなかった。人類に一つの完全な知性を与え、これによって、簡単にして精巧な機構を使ってみずから治めさせるにあった。その機構の各部分は用意され、いわば、世にもみごとな組織をすぐつくれるように細工されていた。とるに足らぬ障碍が多少あったが、それとても人間を強く動かして団結させる傾向に少しも逆行しなかった。人間は、ひとりでいると力よわく、かぼそく、傷つきやすく、その欲望とともに欲望を満足させるものから、ほんのしばらく遠ざかっていても感じる不安などが、当然に人間の<求めあう気持>を募らせたのだった。
 では、この原動力の圧力によって何が生まれて来たか。すばらしい二つの結果、すなわちその一つには人間の弱さを慰めあるいは救ってくれるあらゆるものに対する<慈悲あふれる愛情>その二つには自然がこの人間の弱さのかたわらに、それを強めるものとして与えた<理性の発達>である。
 これら豊かな源泉から、社会性の精神とその誘因、才能、一般的な洞察力、つまり、この人間に共通な幸福に直接にか間接にかいずれにせよ関係のあるもろもろの思想、知識がぞくぞくながれ出て来るはずであった。ゆえに、ひとはセネカとともにいうことができる。即ち<何につけても、われわれはいっそうすぐれた幸福なものをつくる。自然は誰の眼にも見えあるいはわれらの身ぢかにあるものなのだ>と。
 はっきりと、この考えに基いて、自然はあらゆる人間に力をわけ与えるについて、人間の各個人ごとに違ったわけ前をやったのだが、自然の恩恵を生じる沃野の所有権は、これを分割すべからざるものとして人類のすべてのものに与え、各人にはただその自由を行使できるだけにとどめた。この世界はゆたかな食卓で、席につくあらゆるひとが十分に食事をとり得るのであって、食事はみなが空腹のときにはみなに供せられ、誰かが満腹していれば、ほかのひとに供せられる。かようにして、誰ひとりとして専制的に食卓の主人たるものはなく、主人だと主張する権利ももっていない。
 この基本となる安定性にこそ、自然は、とかくかわりやすく動きやすい人間の支柱を求め、人間を導き、その諸活動を結びつけるように考えたのである。」(大岩誠氏訳、岩波書店<岩波文庫>、1951年、19〜21頁)


モレリによる道徳と神 如月 - 2005/05/19(Thu) 10:08 No.611  

 モレリは、次のようにも書きます(道徳観の真の継受と進歩。それを立證する仮説)。

「私は次のようにいいたい。それは(1)自然界においては<積極的>あるいは<消極的>いずれにせよ、<善>の観念は他のあらゆる観念、神という観念にすら先行するということ(2)この観念は宇宙の景観よりも迅速にかつ確実に神という観念を、人間たちに与えるものであるということ(3)善業によって神についてその偉大な目的にふさわしい観念をうることができるということ(4)この善のみが、理性のもつ力を完全にし正しい方向に進ませるのだということ(5)人間社会に善業が行われなくなるに従って神についての観念も堕落するということであり、さらに私のいいたいのは(6)<慈悲深い>神という素朴な考えは決して偶像崇拝ではない。偶像崇拝という名称は神が害悪も与えられるとともに善もなし給うという考えによってのみ用いうるものであるということ(7)神が善をなし給うとともに悪をも与え給うと考え、それに基いて理論を構成する道徳は絶対に誤っているということである」(前掲訳書、126頁)


大岩誠さんの解説から 如月 - 2005/05/20(Fri) 09:01 No.612  

『自然の法典』の翻訳者・大岩誠さんは、訳に付せられた解説のなかで、次のようなことを述べています。

「本書が、その著者の生涯も不明であるにかかわらず、社会思想史上、閑却すべからざる存在理由を与えられているのは、すでに世上定評のある通り、その表現せられた思想が『バジリアード』と相連関して89年革命の思想的な原動力の一つとなり、エスピナスのいうようにバブーヴィスムによって実践に移された平等主義、すなわち社会主義主張の典拠となり、ひいては、現代の社会主義革命理論の淵源の一つとなっているからである。しかもこの書は同時代のルソー、マブリイなどと同じように、ある種の道徳論を基調として社会悪改新の方法論を追求している点が注目せられる。これらの18世紀フランスのモラリストのなかで、モルリイはリシュタンベルジェ「18世紀社会主義」に評せられるように『その所説は社会主義の史的発展において前の二者に優っている、というのもその体系が不完全であってそのまま実際に適用することができないとしても、次の世紀の改革者の進むべきみちを示しているからである』従って本書は社会思想または政治思想の歴史に関心をもつものにとって必要な資料とせられるのである。」(前掲訳書、180頁)


ユートピア思想とレアリスム 如月 - 2005/05/20(Fri) 11:12 No.613  

私はマブリはユートピア的思想家ではないと考えていますから、今回の18世紀学会大会での報告も、<マブリとユートピア思想>といった方面からのアプローチでは全くないのですが、考えてみると、ユートピア思想というのはそもそもレアリスム(観念実在論)なのですね。これに対し、ノミナリスムは、観念解体の方向に進むので、ノミナリスムの立場からのユートピアというのは、ちょっと考えられないし、論理矛盾という気がします。
で、私の視覚からちょっと言わせてもらうと、ある思想がユートピア的か非ユートピア的かと問うと、どうしても「政治思想」という枠組からのがれられないのですが、ノミナリスムとレアリスムという対立軸は、この問題をさらに大きな枠組でとらえることを可能にするのではないかということですね。



現状報告 投稿者:如月 投稿日:2005/05/13(Fri) 11:22 No.604  
なかなか新しい書き込みができなくてごめんなさい。

日本18世紀学会大会での研究報告の方は、全体の構想がほぼ固まり、その細かい肉付けとバランス配分をいろいろ考えているところです。
今のところ、ノミナリスムとレアリスムの相剋という全体構想には、当初の予定と変化ありませんが、マブリのprescription概念の分析の方は、ちょっと比重が軽くなるかなという感じです。
まず1750年当時のフランス思想界をロック派(ノミナリスト)と非ロック派(レアリスト)に大雑把に分類し、マブリは基本的にはノミナリストなんだけれども、エルヴェシウス『精神論』問題にどのように対応するかという点をめぐってレアリスムに接近し、しかし結局はノミナリスムを堅持して、エルヴェシウスが到達したのとは別のノミナリスム政治学を提起したーーというような内容を考えています。ですから、ポイントはマブリにおけるロック思想の受容ということですね。これは、従来のマブリ研究のなかではあまり重視されていないんです。
というのは、従来のマブリ研究もしくは18世紀フランス政治思想の研究は、18世紀思想がいかにして革命さらには将来の共産主義社会のための理論を準備・予想したかにポイントがあって、そのなかで、マブリは、ルソー、モレリとともに「ユートピア的共産主義者」三羽烏と位置づけられ、あとは、その大枠のなかで三人の思想がどのように異なっているか、それはなぜかということをめぐって展開しているんですね。
マブリをノミナリスムとレアリスムの対立軸のなかにおくことによって、私は、できればそうした図式をくずしてみたいと思っています。
ですから、これは本来的にはロック思想とユートピア的共産主義という問題圏のなかでの課題でして、今回の報告は、それがマブリの『市民の権利・義務について』のなかでどのようにとらえられているのかを明らかにするということを射程におきたいと思っています。

私の場合、その時考えていることについて、こうして掲示板に書き込んでいると、あとで多少修正するにしても考えをまとめやすいので、なるべく書き込みするようにはしてるんですが、今回の場合、事前にあまり書きすぎるともともとつまらない報告に新鮮味がなくなってしまうような気もしますので(笑)、まあちょっと書き込みをセーブしてはいます。

ということで、自分の考えをまとめるために、今、本棚で眠っていた土橋貴さんの『自由の政治哲学的考察ーーアウグスティヌスからフーコーまで』(明石書店、1992年)をちょっと読んでみようかなと思ってますから、そのなかで気がついたこと、おもしろいと思ったことがありましたら、例によって抜き書きしてみますね。


Re: 現状報告 BunMay - 2005/05/21(Sat) 23:09 No.614  

お久しぶりです。いよいよ来月に学会発表ですね。ここの掲示板で何とか予習をしてから、聴講しようと目論んでいるのですが、初めて聞く名も多く、せめて議論の流れを追っていくだけでもと弱気になっております笑。ただ非学会員の聴講がどうしたらできるのか、ちょっと分からないので、研究室の担当の方に来週聞いてみます。発表の準備頑張ってください。


いらして頂ければ心強い。 如月 - 2005/05/22(Sun) 22:08 No.617  

Bun Mayさん、こんにちは。大勢の人の前での研究報告、知っている顔が一人でも交じっていると安心できます。当日時間がありましたらぜひお越し下さい。
ちなみに、昨年の大会、その時点で私は会員ではなかったのですが、事前にO先生にメールで連絡して聴講させて頂きました(それが今回の報告にまでつながっているのです)。
非常に論点の多い大会ですから、私の報告はともかく、他の方の報告のなかに、Bun Mayさんの研究を刺激するものもあるのではないでしょうか♪


マブリとエルヴェシウス 投稿者:如月 投稿日:2005/05/09(Mon) 11:18 No.594  
 さて、以下、日本18世紀学会での私の報告の要点の一つとなるエルヴェシウス『精神論』発禁事件とマブリの関係を少し探ってみたいと思います。
(下方に書いた当初の予定と異なり、現在私が考えている報告全体の構成からすると、18世紀学会の報告では、この問題についてあまり詳細に言及できないと思います。)

 森村敏己さんの研究『名誉と快楽ーーエルヴェシウスの功利主義』(法政大学出版局、1993年)によって、『精神論』出版以前、マブリがエルヴェシウス家に親しく出入りしていたことはすでに明らかになっており、森村氏は、『精神論』刊行以前にエルヴェシウスがその原稿を回読させた知人のなかにマブリも含まれていたのではないかと推測しておられるようです。
 ところで、『精神論』のなかで展開される思想は、マブリの実弟コンディヤックが『感覚論』で展開した認識論を極限まで押し進めたもので、それによって感覚論が唯物論、無神論にまで行き着いたとされ、このために『精神論』は発禁処分となってしまいます。
 しかしこの発禁はエルヴェシウスもマブリもまったく予想していなかったと考えられ、コンディヤックの思想を継承・発展させたものとして、発禁事件前のマブリは、エルヴェシウスを高く評価していたのではないと思われるのです。
 『精神論』発禁後、次の森村さんの指摘によれば、マブリの姿をエルヴェシウス周辺に見いだすことは困難となり、事実上二人は断交したものとみられます。

「個人的な関係という点では、エルヴェシウスはルソーよりもマブリと親しかった。彼の名前はエルヴェシウスが妻に宛てた書簡の中にいくどか登場し、マブリがしばしばエルヴェシウス邸を訪問していたことがわかる。ただし、『精神論』への弾圧を機にマブリのエルヴェシウスへの態度は急によそよそしくなり、それ以降、彼の名は書簡から消える。マブリの態度は、弾圧を機にエルヴェシウスとの交友を再開したヴォルテール、あるいは急速に親しくなったドルバックとは対照的なものだった。」(森村敏己氏『名誉と快楽ーーエルヴェシウスの功利主義』、209〜10頁)

 森村さんによれば、マブリが登場するエルヴェシウスの書簡は次の7通です(書簡番号およびテクストはCorrespondance generale d'Helvetius ; University of Toronto Press, 1981 et 1984による)。
@205、A242、B255、C258、D266、E307、F357

 以下、これらの手紙にマブリがどのように登場するか確認してみます。

@J'ay vu hier Madame de Vasse qui te fait mille compliments, qui t'aime beaucoup et qui compte aller a Vore au mois d'aoust. Je crains cependant que la lenteur de ses ouvriers ne derange ses projets. L'abbe de Mably te fais mille compliments ; il joue au trictrac avec Madame de Vasse pour te gagner des pieces de douze sols a Vore ou il compte se rendre dans les premiers jour d'aoust. (エルヴェシウス夫人宛、1754年6月末または7月)

AAmene-tu avec toy l'abbe de Mably? Son frere, son eternel frere est-il venu et scait-il quand il pourra nous venir joindre? (エルヴェシウス夫人宛、1755年8月23日または24日)

BAdieu, ma chere amie. Menage-toy, ne te fatigue point trop, aime-moy comme je t'aime Fais molle compliments a Mr l'abbe de Mably et embrasse Mr Guerin. (エルヴェシウス夫人宛、1757年5月初め)

CJ'ay vu Mr l'abbe de Mably. Je me suis acquite de la commission. Il a rougit et a pris ensuite le party de rire. (エルヴェシウス夫人宛、同年6月23日?)

DMde la comtesse et l'abbe Pluquet sont fort sensibles au sentiment que tu as pour eux. L'abbe Pluquet est enchante et l'abbe de Mably me charge de t'assurer de ses respects. (エルヴェシウス夫人宛、同年10月2日)

EMablyへの言及なし。 (エルヴェシウス夫人宛、1758年8月9日)

FL'abbe de Mably est froid comme un coupable et je ne fais pas semblant de m'en appercevoir. (エルヴェシウス夫人宛、同年10月30日)

 管見によれば、Eの書簡にはMablyは登場せず、森村さんによるMarly(地名)とMablyの読み違えの可能性があります。しかしMarlyはマブリの『市民の権利・義務について』の舞台ですから、この地がエルヴェシウスにとっても重要な場所であったことは、注目すべきだと思われます。


マブリとエルヴェシウス:その2 如月 - 2005/05/09(Mon) 11:33 No.595  

 マブリとエルヴェシウスの断交の理由をマブリ側から探ってみると、『精神論』の発禁措置がコンディヤックにまで及ぶ可能性があったためと推測されます。この事件を期に、マブリはエルヴェシウス的な考え方から方向転換し、コンディヤック(ジョン・ロック)流の哲学思想を適用した新たな政治学を模索しはじめ、それが『市民の権利・義務について』執筆につながったのではないかと考えられるのです。

 コンディヤックの思想とエルヴェシウスの思想の連関について、以下、森村敏己さんの『名誉と快楽ーーエルヴェシウスの功利主義』の関連箇所を要約して掲げてみます。
「認識論でのコンディヤックの業績は、ロックの経験論を批判的に継承し、内省という知的・精神的諸機能は感覚の発展にほかならないとして、感覚と内省というふたつの知の源泉を、感覚に一元化したことにある。ロックを継承するという意識は1746年の『人知起源論』からすでに明瞭に現れていた。しかし、この作品ではロックがそれに気づきながらも、十分には展開しなかった言語の重要性が大きなテーマとなっており、すべての精神活動を感覚から演繹するという面では、不十分な点を残していた。1754年の『感覚論』ではこの問題が前面に現れる。よく知られているように、コンディヤックはここで人間と同じ肉体構造をもつ彫像に、嗅覚、聴覚、味覚、視覚、触覚という五つの感覚を次々に与えるというユニークな思考実験によって、この彫像が観念の形成をはじめとして、あらゆる精神機能を獲得してゆく様子を描いて見せた。その際、感覚を精神機能にまで高めるための原動力となっているのは、快苦原理である。(中略)この自由意志論は、先に示した神および自然法の認識と結びつくことで、人間を道徳的存在とする。すなわち、霊魂の不死を知り、現世での徳・悪徳が死後にそれぞれの報いを受けることを知った人間は、熟慮の射程を死後にまで延長することになる。言い換えれば、快苦原理は死後の世界をも包括したものとなる。それにより、人間は感覚に由来する肉体的快苦を越えて、道徳的な快苦を善悪の基準とすることを学ぶのである。そして、死後の賞罰の意識は、善行には死後の報酬としての快楽を結びつけ、悪徳には、逆に死後に待ち受ける苦痛の予感に由来する後悔の念を結びつける。コンディヤックはこうして、霊魂の不死と熟慮による自由という概念を組み合わせることで、徳を求める傾向を人間の中に内在化させることに成功した。と同時に、決定論の回避によって、感覚論をここでもキリスト教の枠の中に閉じ込めたのである。『感覚論』が発表されて四年ののち、エルヴェシウスは『精神論』を公刊する。ここで彼は、「思考する物質」の可能性や霊魂の不死、あるいは決定論に関して、コンディヤックとは逆の態度をとり、感覚論哲学をコンディヤックが恐れていた方向へと導いていくことになる。」(上掲書、18〜25頁)


マブリとエルヴェシウス:その3 如月 - 2005/05/09(Mon) 11:41 No.596  

 これがエルヴェシウスになると、次のようにかわっていきます。

「感覚論を出発点としたエルヴェシウスの論理構成は、きわめて明快である。前章で示したように、彼は『精神論』の第一編で、コンディヤックから学んだ認識論を、霊魂の不死および自由意志の否定に結びつけながら説明し、物質に感受性を、したがって、思考能力を与えておいた。次に第二編では、これを基礎に道徳哲学の問題に入る。
 まずエルヴェシウスは、コンディヤックと同じく、快を求め、苦痛を免れようとする傾向を利害関心と名づけ、この言葉が単に金銭欲ばかりを指すのではないと断ったうえで、「利害関心はわれわれのあらゆる判断を司る」という命題を立てる。(中略)
 ここ(この命題)からエルヴェシウスは、誠実(probite)と才知(esprit)の意味を定義する。まず、個人にとって「誠実」とは、その人間の利害関心にとって有益な行動習慣のことだとされる。一方、「才知」とは、同じく彼にとって役に立つ思想、見解を指す。つまり、個々人は自分に好都合な行動や見解に「誠実」「才知」といった名称を与えて、称賛しているにすぎない。同じ論理は、社会の中の特定集団にも適用される。エルヴェシウスはこうした集団を個別社会とよび、そこに身分、職業、家族などすべての集団を含めているが、やはりここでもその集団にとって有益な行動、見解が、彼らにとっての「誠実」「才知」なのである。最後にエルヴェシウスは社会全体、彼によれば「公共(public)」の次元に話を進める。ここでも当然、公共にとって有益な行動、見解が誠実、才知なのだが、ここにいたって、誠実、才知は「徳」という名称を獲得することになる。「その行動がすべて公共善に向かっている時、人は正義に適っている」のであり、「徳とは、この正義、不正義の選択にかかっている。」したがって、真に誠実であるためには「公共にとっての有益性という羅針盤を頼りに進まねばならない。この有益性こそ、すべての人間の徳の、そしてあらゆる立法の原理」だとされる。公共にとっての有益性(utilite publique)を徳の基準とする見解は、いうまでもなく功利主義の基本原則であり、エルヴェシウスは明示的に自然法を批判してはいないが、先験的な道徳規範の存在は、事実上は否定されている。彼の説明では、徳はどの社会においても公共善を目的としており、その意味ではけっして恣意的ではない。しかし、それを達成する手段は社会によって異なるはずだという。(中略)
 エルヴェシウスは「報酬、刑罰、栄誉、恥辱」を自在に操ることによって、立法者は公共善を実現できるはずだと主張する。
 「ゆえに人々を有徳にできるのは、優れた法だけだということになる。自己愛という感情を利用して、否応なく、他者に対して常に正義を守らざるをえないよう導くのが、立法者の腕の見せどころだ。」
 エルヴェシウスはここで、神が管轄する死後の賞罰にかわって、立法者の自由になる地上での賞罰を道徳の基礎に据えようとしている。事実、彼はこう断言して憚らない。
 「有能な立法者の手腕さえあれば、現世的な利害関心という動機だけで、十分に人々を有徳にできる。…地上での快苦への希望と恐怖は有徳な人間を生み出すうえで有効かつふさわしいものだ。一方、未来への展望の中で考慮される永遠の快苦は、邪まな、しかし目の前にある快楽を犠牲にさせるには、あまりに弱い印象しか与えない。」
 エルヴェシウスが宗教道徳を、公益には貢献しないもの、人間を本来の意味で有徳にはしないものとして排除し、公的有益性という原理に立脚した道徳の世俗化をめざしていることは、誰の目にも明白だった。このため、『精神論』は既存の宗教権威と真っ向から対立する挑発的な作品と見なされた。そして、この挑発に最も敏感に反応したのが、当然ながらカトリック勢力だったのである。」(森村敏己氏、上掲書、41〜4頁)


木村報告との連関性 如月 - 2005/05/09(Mon) 11:55 No.597  

(この辺の問題は、下方でご紹介した18世紀学会での木村覚さんのカントについての報告内容とも微妙にからんでくるんですね。)


マブリとエルヴェシウス:その4(ロックとの連関) 如月 - 2005/05/10(Tue) 09:32 No.599  

エルヴェシウスの主張は非常に極端のようにも思えますが、下方にも引用した『人間知性論』のなかのジョン・ロックの法や賞罰に関する考え方とそんなにかけ離れたものではないのですね(エルヴェシウスは、ロックのいう第三の法に焦点をあてて思想を展開しているといえるのではないでしょうか)。
森村さんは、コンディヤックとエルヴェシウスに限定して両者の思想を比較してますが、一端、両者の思想の出発点ともいえるロックに戻って、なぜこのような違いが出てきたかを考えるのも有意義ではないかと思います。
以下、『人間知性論』の関係箇所、再掲しておきます。

「善悪は、すでに明示しておいたように、快苦にほかならない。あるいは、私たちに快苦を生じたり招来するものにほかならない。してみると、道徳的に善または悪というのは、私たちの有意行動がある法と、すなわち立法者の意志と力能とにもとづいて私たちに善または悪をもたらすような法と、合致するか不一致であるかということにすぎず、この法を遵守したり破ったりすることに立法者の判決によって伴う善悪快苦が、私たちの賞罰と呼ぶものなのである。
 人々が一般に準拠し、自分たちの行動の方正か劣悪かを判定する、こうした道徳規則ないし法には三種あって、三つの違った強制すなわち賞罰を伴うように、私には思われる。というのは、人間の意志を決定する善悪[ないし快苦]のある強制を規則に結びつけずに、人間の自由な行動に対してある規則を立てる、そう想定することはまったく無駄だろうから、私たちはある法を想定する場合、この法に結びつけられたある賞罰も、いつも想定しなければならない。ある知能ある存在者が他人の行動に対してある規則を立てても、かりにもしその行動自身の自然の所産・帰結でないようなある善悪によって、自分の立てた規則への応従を賞し、規則からの逸脱を罰する力能がその知能ある存在者になかったとしたら、規則を立てることは無駄だったろう。なぜなら、それ[すなわち自然の所産・帰結]は自然に好つごうあるいは不つごうなのだから、法がなくともひとりでに作用しただろう。この[賞罰を伴う]ことが、もし私がまちがっていないとすれば、およそ法と本来呼ばれるいっさいの法の真の本性なのである。
 およそ人々が一般に自分たちの行動を準拠させて、行動の方正か不方正かを判断する法は、次の三つであるように私には思われる。一、神法。二、市民法。三、世論ないし世評の法と呼んでよければそうした法。人々は自分の行動がこれらの法の第一に対してもつ関係によってその行動が罪であるか義務であるかを判断し、第二の法によって犯罪か犯罪でないかを判断し、第三の法によって徳か悪徳かを判断する。
 第一、神法と私が言うのは、神が[理知という]自然の光によって人々に広めたもうたにせよ、啓示の声によって広めたもうたにせよ、人々の行動に立てたもうた法という意味である。およそ神がある規則を与えたもうてあり、人々はこの規則によって自分自身を律すべきこと、これを否定するほど獣のような者はだれもいないと、私は思う(以下省略)。
 第二に、市民法すなわち国家が自己に属する者の行動に対して立てる規則はもう一つの規則、すなわち行動が犯罪かどうかを判断するため人々が自分たちの行動を準拠させる規則である(以下省略)。
 第三に、世論ないし世評の法。いったい、徳と悪徳は、どこでも、行動自身の本性で正しい行動または正しくない行動を表わすと称される名まえであり、また、そう想定される名まえである。そして、真実そのように当てはめられるかぎり、徳と悪徳は上述の神法と符合する。けれども、なんと称されようと、これだけは目に見えて明らかだ。すなわち、これら徳と悪徳という名まえは、その当てはめられる個々の事例では、世界中の諸国民・人間社会を通じて、いつもきまってそれぞれの国や社会で好評または悪評にある行動だけに属するとされるのである。(中略)この尺度は、ひそかな暗黙の賛同によって、世界の人々のいろいろな社会・民族・集団のうちに確立され、これによっていろいろな行動が、その場所の判断・格率・風習に従って人々の間に評判あるいは不評を見いだすようになるのである。というのは、人々は政治社会に合一して、自分たちのあらゆる力の処置を公共の手に委ねてしまい、したがって、国法の指図する以上には同市民に対して力を行使できないが、それにもかかわらず、仲間になってくらし交わる者の行動を良いとか悪いとか考え、推奨したり推奨しなかったりする力能はなお把持し、この推奨と嫌忌によって自分たちが徳または悪徳と呼ぼうとするものを自分たちの間に確立するのである。
 人類の大部分はこの風習の法によって、たとえそれだけではないにしても、主として自分を律し、ひいては、交友に好評を続けるようなことを行って、神の法や為政者の法をほとんど顧慮しないものである。神の法を破ったことに伴う処罰をある者は、いや、おそらく大部分の者は、ほとんど真剣に省察しない。神の法を破る者の多くは、法を破りながら、そのように法を破ったことに対していつかは融和し和解するという考えを抱いている。また、国家の法から受けるべき罰については、こうした人は、心ひそかに罪せられない希望をひんぱんにもつ。が、自分が交わって推挙されたく思う交友の風習や意見に背く者は、交友たちに非難され、嫌忌されるという罰をだれひとり免かれない。自分自身の団体に絶えず嫌忌され難詰されても耐え抜くほど強情で無感覚な者は、一万人に一人もいない。絶えまない不評・悪評判の中で自分自身の属する特定社会とともに安んじて生きられる者は、ふしぎな異常体質の者に違いない。」(『人間知性論』第2巻第28章「他の諸関係について」)


マブリとエルヴェシウス:その5(ロックとの連関2) 如月 - 2005/05/10(Tue) 15:42 No.601  

このロックの考え方に対する有力な反論としては、ライプニッツが『人間知性新論』で述べた自然法に関する考え方がありました(前ページ参照)。この思想対立は、自然法の超越性、先験性にかかわるものということができると思います。
それに対して、ロックの側からどのような再反論が可能か、ロックの意図はどのようなところにあるのかは、一ノ瀬正樹さんの『人格知識論の生成ーージョン・ロックの瞬間』(東京大学出版会、1997年)の分析をとおして明らかになったと思います。ロックの思想に関しては、一ノ瀬さん以前に、田中正司さんが『増補 ジョン・ロック研究』(未来社、1975年)のなかで、一ノ瀬さんと同じ方向の解釈を行っており、一ノ瀬さんの研究は、田中さんの研究に依拠したものともいえるのですね。
田中さん、一ノ瀬さんのロック研究をとおして明らかになったことは、ロックは自然法の存在を確信すると同時に、それを定言的に明らかにすることは不可能だと考えていたということですね。ですから結局、ライプニッツが理解不能といった「世論ないし世評」を、ロックは法としてとらえているわけです。
ロックの思想をこのようにとらえると、上述したように、エルヴェシウスの考え方はロックの思想からの完全な逸脱とはいえなくなるのではないでしょうか。コンディヤックがロックの思想を継承したのと別の意味でエルヴェシウスはロックの思想を継承している。
コンディヤックとエルヴェシウスの思想的相違の問題は、このようにロックをも視野に入れて考えるべきではないかと思います。

で、このように考えてくると、このスレッドの冒頭で指摘したマブリとエルヴェシウスの親交の背景がとのような点にあったかが見えてくるのではないでしょうか。
つまり、マブリとエルヴェシウスは、ロックにならって、自然法は不可知であり、存在しうる正しい法というのは、人間の現実的行動によってしか明らかにされないという考え方を共有していたのではないかと、私には思われるのです。


こちらも18世紀♪ 投稿者:如月 投稿日:2005/05/09(Mon) 00:28 No.592  
18世紀学会大会↓にそなえて毎日勉強ばかりしていると思いきや、何をかくそう、このところフジテレビ系で放送中の昼ドラ『危険な関係』にすっかりはまってます♪
http://www.tokai-tv.com/kikenna/
ストーリーは人工的といえばまったくそのとおりなんですけど、あまりにも優等生的でのっぺらぼうな『義経』と比較すると、波瀾万丈&セクシーでこちらの方が断然おもしろい(というか、実を言うとTVドラマはこの2本しか知らない<笑>)。
このドラマ、いちおう舞台を現代日本に置き換えてるんですけど、あの超人工的な人間関係はやはり18世紀のものですね。
原作はもちろんラクロ(1741-1803年)です。


日本18世紀学会全国大会の概要 投稿者:如月 投稿日:2005/05/01(Sun) 14:24 No.571  
日本18世紀学会第27回全国大会(6月11日・12日)のプログラムが明らかになりましたので、ご案内させて頂きます。

全体の概要は、11日自由論題報告5題、12日自由論題報告1題、共通論題報告&討論で、共通論題は「近代都市の胎動」。ちなみに、11日は私も報告させて頂く予定です。

プログラムの詳細は次のとおりです。
【6月11日<土>】
@「18世紀の舞踏資料が語る、宮廷舞踏会の絶対主義的様態」(赤塚健太郎氏)
A「思考において他者の立場をとるーー名誉欲をめぐる初期カント美学の分析」(木村覚氏)
B「筑前唐泊孫太郎ボルネオ漂流記」(岩尾龍太郎氏)
C「マブリの初期政治思想におけるノミナリスムとレアリスムの相剋」(如月)
D「デュ・シャトレ夫人と『プリンキピア』をめぐる謎:ジェンダーはいかにしてテクスト解釈に忍び込むのか」(川島慶子氏)
Eコンサート:ヴァイス「リュート組曲」、バッハ「リュート組曲」(佐藤亜紀子)
【6月12日<日>】
@「ベルナルド・ベロットの景観画再考ーー点景人物の問題を中心に」(金沢文緒氏)
ーー共通論題「近代都市の胎動」(コーディネーターおよび総合司会・佐々木健一氏)ーー
A「マンチェスタ:近世から近代へ」(近藤和彦氏)
B「ルーマニアの古都スチャーヴァ」(三宅理一氏)
C「殖民都市バダフィアの盛衰」(野村 亨氏)
D「ヴェルサイユ・北京・江戸」(渡辺浩氏)
E討論

メイン会場は日本大学文理学部(東京都世田谷区桜上水3−25−40) 百周年会館・国際会議場

私の報告はともかく、非常に多角的な視点からの報告が予定されており、おもしろい大会となるのではないでしょうか。非会員も聴講可能と思いますので(昨年、私は非会員でしたが聴講させていただきました)、聴講希望等、くわしいことは直接日本18世紀学会http://wwwsoc.nii.ac.jp/jsecs/index.htmlにお問い合わせください。
なお、如月報告は6月11日14:40〜15:30が予定されており、逸見龍生さん(新潟大学)が司会してくださる予定です。


赤塚健太郎さんの報告要旨 如月 - 2005/05/03(Tue) 00:50 No.572  

以下、各報告の内容、第27回全国大会要項からご紹介してみましょう。

「18世紀の舞踏資料が語る、宮廷舞踏会の反絶対主義的様態」
赤塚健太郎氏(成城大学)ーー司会:礒山 雅氏(国立音楽大学)
6月11日 10:05−10:55

絶対主義国家という巨大なシステムを現出せしめる上で、王や廷臣の体が重要な役割を果たしてきたことは従来指摘される通りであり、多様な国家儀礼や宮廷スペクタクル等において宮廷人の体は様々な形で王権の絶対性を喧伝する記号として機能した。殊にフランスのルイ14世は、王自らが優れた舞踏家として数々の舞台に立ち、「太陽」に代表されるような様々な役柄を踊り演じたことで広く知られており、当時の舞踏と王権との関係については様々な学問領域で研究がなされている。しかしそれらの研究の多くは、劇場舞踏のみを対象としてとりあげており、舞踏会舞踏について言及されることは少ない。
確かに舞踏会舞踏は劇場舞踏と異なり、文字によって記される筋書きをそもそも伴わないため、舞踏にこめられた政治的な意義について直接論じることが困難である。しかし、舞踏家フイエが1700年に舞踏記譜法を公にしたことを受けて、18世紀前半には多数の舞踏会用振付が出版されており、また同時期には幾人かの舞踏教師が舞踏会の模様を詳細に記述しているため、我々は当時の舞踏会という宮廷行事及びそこで踊られた舞踏について、その実践内容を詳しく知ることができる。従って、舞踏会の式次第やそこで踊られた舞踏の詳細、あるいは会場に布置された観衆としての宮廷人達の模様を観察することで、舞踏会が当時の王政の中でいかなる機能を果たしていたかを論じることが可能である。
こうした議論は、舞踏会舞踏がむしろ王権の絶対化に抵抗しようとする傾向を持っていたことを明らかとする。例えば舞踏会の催主は王に限定されるものではなく、また踊られる舞踏は宮廷の成員に対して広く開かれているため、誰もが舞踏会の主となりえた。また、舞踏を通じて絶えず顕示されるのは貴種性の高低に基づく旧来の身分秩序であって、王ですらその秩序に組み込まれることとなる。一方で具体的な舞踏のステップに目を向けると、当時隆盛を誇ったクーラント及びメヌエットはいずれも宮廷人の日常的挙措と連接しており職業舞踏家的な肉体改造を要するものではないため、王権が踊り手を独占することもできなかった。
劇場舞踏が既存の身分体系を超越するような王権の絶対性を鼓吹したのに対し、舞踏会舞踏は旧来の身分秩序を保全しつつ王権を相対化していたのであって、当時の舞踏を絶対王政の支配装置としてのみ理解する視点は修正されねばならないだろう。


木村覚さんの報告要旨 如月 - 2005/05/03(Tue) 23:15 No.574  

「思考において他者の立場をとるーー名誉欲をめぐる初期カント美学の分析」
木村 覚氏(国士舘大学)ーー司会:福田喜一郎氏(鎌倉女子大学)
6月11日 10:55−11:45

I・カント(1724-1804年)が『判断力批判』(1790年)においてはじめて展開した「判断力の超越論的美学」は、美しいものや崇高なものを判断という場に限定して論じ、またその判断が他者を顧慮する反省の論理に基づくことを明らかにした点に、その特徴の一端をみとめうるものである。そこでは他者の顧慮は、あくまでも「他のあらゆるひとの表象の仕方」を思考の内でア・プリオリに顧慮すること、自分の判断を「総体的な人間理性」に照らし合わせてみることであった。ところで、このような批判期の哲学に適った決着に至る以前にもカントは、それこそが美学のテーマであるというかのように、他者の内なる形成の問題を問うていた。その最初期における興味深い考察の足跡を、しばしば連関が指摘されもする64年の二論文『美と崇高の感情に関する観察』『脳病試論』を通して辿ることが、本発表の課題である。その際中心に据えるべきは、名誉欲をめぐる議論である。
判断に限らず社交の場面を論じる『美と崇高』で、カントは名誉欲を「徳の虚飾」とする一方「非常に有益」ともみなす。真の徳と繋がる諸原則に従う者こそ、「美と崇高の感情」をもつ人間であるとしても、彼らは極めて少数だとも考えるカントにとって、その他多くの人間を「公益的な行為」に駆り立てる手だては名誉欲だからである。利己心を抑制する名誉欲は、「彼の振る舞いがとる外見を判定するために、思考において自分自身から出てある一つの立場をとる」よう促し、他者に映る自分を善くしようと務めさせる、その点で優れている。しかもそこにカントは、大きな多様性を反省するとともにその内に統一をみる可能性を考えてもいる。とはいえ、この他者の内なる形成は「愚かな」とも形容される「妄想」に基づく事実から免れることはない。『脳病試論』は、尊敬を得たいとの衝動が、「破滅に引き込むような要素」でもあることを明らかにする。名誉欲によって自己の内に他者を置き、自分を他者の立場から反省することは、過剰に自分に引きつけて他者を考える場合にひとを狂気に陥らせる可能性を生みもする。この両面性・不安定性こそ、観察者カントが都市という舞台のうえで社交する人々に見出したものである。本発表が明示しようとするのは、『判断力批判』での決着のなかでは注目され難い近代的人間の実像を浮き彫りにした、こうした当時の彼の着眼点である。


岩尾龍太郎さんの報告要旨 如月 - 2005/05/04(Wed) 10:05 No.576  

「筑前唐泊孫太郎ボルネオ漂流記」
岩尾龍太郎氏(西南学院大学)ーー司会:青木孝夫氏(広島大学)
6月11日 13:50−14:40

18世紀末、博多のロビンソンというべき漂流者がいた。筑前唐泊浦の水主孫太郎(帰国後孫七を名乗る)である。物語の成立基盤には筑前五ケ浦廻船という日本有数の船団の活躍があった。その一隻、当時最大級1600石の伊勢丸は、津軽の材木を搬送中、陸常境沖で冬の北西風に遭難、20人の水主たちは三ヶ月を超える過酷な太平洋漂流を生き抜いた後、何地とも知れぬ浜に漂着するが、彼等はやがて原住民に捕獲され、ミンダナオ、ズールー、ボルネオを奴隷として転売された。「売り首」という奇怪な習俗の犠牲になる可能性すらあった。孫太郎は仲間と死に別れ生き別れ、バンジャルマシンで彼を買った華僑の「孝」観念を巧みに利用して脱出し、明和8(1771)年にオランダ船で長崎へ送還され、一人9年ぶりに故郷に帰った。彼には1807年(梶原後書)に没するまで36年の余生があったが、海禁政策のもと船乗稼業を禁ぜられ、「寡孤貧困にして、傭賃して活を取」(亀井南冥)状態を伝えられるほか何も分っていない。元来孫太郎については、南冥の高弟にして福岡藩最初の洋学者青木定遠の『南海紀聞』に拠ることが多かったが、これはかなり後の聞書き(1820木版の秘密出版)である。これに対して、帰国直後から群出した『漂流天竺物語』『華夷九年録』系の物語がある。定遠のように「雑書」「杜撰甚多」「皆虚妄」として退けることができるか、検討を要する。種々写本の存在から推察して浮かび上がってくるのは、初めは禁じられていた異国の体験談に脚色を重ねて喋っていた元漂民の姿である。また写本のつねとして、物語は写されるたびに変化を施された。
それほどに強烈な体験であり物語であった。現在はほとんど忘れ去られているが、石井研堂は「古来の漂流記録中、文学的価値のあるものを挙ぐる時は、『孫七天竺物語』と『督乗丸船長日記』を双璧とすべく、或ひは土州長平の『漂流日記』を加へて三部とすべきか」と評価する。本発表の目的はこの博多のロビンソンを忘却の淵から掬い出すこと、そのための史料調査の道筋、長崎奉行所調書(『通航一覧』270)、未発見の福岡藩浦奉行調書系物語、地元筑前版と全国版『漂流天竺物語』系写本の関係等を紹介することである。

岩尾龍太郎さんのウェブ・ページ
http://www.seinan-gu.ac.jp/kokubun/seminar/iwao.html


如月の報告要旨 如月 - 2005/05/04(Wed) 23:52 No.578  

「マブリの初期政治思想におけるノミナリスムとレアリスムの相剋」
如月ーー司会:逸見龍生氏(新潟大学)
6月11日 14:40−15:30

マブリの最初の政治的著作に『市民の権利・義務について』がある。この著作は、それまで歴史およびヨーロッパ公法について研究し執筆してきたマブリが、これらの研究によってえた知見を政治学の分野にはじめて応用したもので、1758年秋から60年にかけて執筆されたものと推定されている(刊行はマブリ没後の1789年)。私は、この著作のなかに、功利主義に傾いたノミナリスム的な認識論をレアリスム的な方向に乗り越えたうえで、その成果を法律学に適用しようとするマブリの試行錯誤がみられるのではないかと考えており、この点をめぐって小考してみたい。
『市民の権利・義務について』は、「私」とスタノップ卿というイギリスからの客人がパリ郊外のマルリで行った対談を、「私」がパリ在住の知人に8通の手紙で報告するという形式をもった著作であり、手紙の日付は1758年8月である。また対談そのものも、この手紙とほぼ同時に行われたという設定になっている。ここで注目すべきなのは、1758年8月という日付のもつ意味であるが、前月に有名なエルヴェシウス『精神論』発禁事件が起こっており、『市民の権利・義務について』も、この事件となんらかのかかわりを有する著作ではないかと推測されるのである。
『市民の権利・義務について』の冒頭、マブリは、イギリス的な政治論を仮託したスタノップ卿に、「善悪の観念は社会の創設に先行した」と完全な自然状態からの無制限で自由な社会創設を否定し、自然状態においても原初的制限が存在するという、実弟コンディヤックの感覚論的な立場を採り入れた独自の社会起源論を語らせている。
またその先の議論で、法の根拠をつきつめていくとprescription(規定/時効)でしかないとする「私」に対し、スタノップ卿は沈黙で応えるが、この沈黙のなかに、哲学的なノミナリスムとレアリスムの論争を法律学に適応したうえで、ノミナリスム的な法概念とは異なる法概念を模索するマブリの試行錯誤的な態度が伺える。
『市民の権利・義務について』は、一般的に分類すれば自然法的な考え方の枠のなかに位置づけられる著作であるが、そうした発想が生じてきた出発点に功利主義的な思想との対決があったことは、自然法思想のとらえ方にとっても示唆的ではないだろうか。

本報告の司会・逸見龍生さんのウェブ・ページ
http://researchers.adm.niigata-u.ac.jp/public/43219570_a.html
(逸見さんには、デリダ『フィシュ』の翻訳(白水社)があります。)


川島慶子さんの報告要旨 如月 - 2005/05/05(Thu) 11:32 No.581  

「デュ・シャトレ夫人と『プリンキピア』をめぐる謎:ジェンダーはいかにしてテクスト解釈に忍び込むのか」
川島慶子氏(名古屋工業大学)ーー司会:田邊玲子氏(京都大学)
6月11日 15:50−16:40

デュ・シャトレ夫人(1706-1749)は、文学史上ではヴォルテールの恋人として知られている18世紀の才女だが、科学史においてはニュートンの『プリンキピア』仏訳・注釈者としての側面がつとに有名である。この本は現在のフランスにおいても、信頼できる唯一の『プリンキピア』全訳であり、その注釈部分はニュートンの説が18世紀において代数的にはいかに解釈されていたかを教えてくれる貴重な史料でもある。
ところが夫人の死後十年たって出版されたこの本の成立過程をめぐっては、現在に至るまで延々と続く誤解が存在する。本論はこの誤解がどこから生まれ、なぜそれが継続しえたのかをジェンダーの視点から解説するものである。ここでは下の二つの説をとりあげる。
 1)デュ・シャトレ夫人はヴォルテールやモーペルテュイに影響されてニュートン主義者となっていたが、ケーニッヒに影響されてライプニッツ主義者となり『物理学教程』(1740)を執筆した。しかし再びニュートン主義者に戻って『プリンキピア』を翻訳・注釈した。
 2)デュ・シャトレ夫人は『プリンキピア』の翻訳作業中に詩人のサン・ランベールと恋愛して妊娠したのだが、この子供を嫡出子とするためにヴォルテールと組んで夫のデュ・シャトレ氏をだまし、夫の子供だと思わせるのに成功した。
1の説の出所はヴォルテールがあちこちに書き残した文章に由来する。特に『プリンキピア』仏訳につけられた彼の序文はこの説を強化し、近年には専門家の間では否定されたものの、一般にはいまだ根強い説となっている。しかしこの説が事実に反するならば、なぜヴォルテールはそのような「嘘」をつき続けたのか。また人々はなぜそれを信じてしまうのか。
2の説の出所はヴォルテールの秘書ロンシャンの回想録に由来し、いまだに専門家の間でも支持されることがある説である。しかしデュ・シャトレ夫人自身あるいはヴォルテールの手紙や当時の医学理論などを考慮すると、とてもうのみにはできない。なぜロンシャンの回想録は当事者たちの証言よりも尊重されるのか。
かつて民衆の間で首飾り事件の真犯人がマリー・アントワネットだと信じられたように、人々は面白おかしい説に飛びつきたがる。だが無秩序にではない。そこにはその説が生き残る「必然」の土壌が存在するのだ。そしてその「必然」を強化するひとつの要素としてのジェンダーバイアスはいまだ健在なのである。

川島慶子さんのウェブ・サイト
http://www.ne.jp/asahi/kaeru/kawashima/j_home.html


金沢文緒さんの報告要旨 如月 - 2005/05/06(Fri) 08:35 No.584  

「ベルナルド・ベロットの景観画再考ーー点景人物の問題を中心に」
金沢文緒氏(東京大学)ーー司会:大野芳材氏(青山学院女子短期大学)
6月12日 10:00−10:50

ベルナルド・ベロット(1722-1780)は、18世紀ヴェネツィア景観画の巨匠アントニオ・カナル(通称カナレット)の甥としてヴェネツィアに誕生した。伯父の工房に入り、早くから景観画家としてヴェネツィアで活躍したが、1747年にイタリアを離れ、ドレスデン、ウィーン、ミュンヘン、ワルシャワ等の北方都市にその拠点を移す。彼がそれらの地で制作した景観画は、第二次世界大戦後の諸都市の復興に大きな貢献を果たしており、都市の視覚的資料として今なお高い評価を得ている。
しかしこの評価は、同時にベロットの芸術的特質を写実性に固定することにもなった。ベロットの景観画に関する先行研究も、この側面から展開されてきたと言える。本発表は、これを受けて、従来の研究では看過されることの多かった点景人物に注目し、彼の景観画に新たな光を当てるものである。
ベロットは、イタリア時代に、風景画家フランチェスコ・ズッカレッリとローマの建築物をモティーフにした4点のカプリッチョ作品の共同制作を行った。彼は、ズッカレッリとの共同作業を通して、牧歌性への理解と、牧歌的雰囲気を創出する有効な手段としての牧歌的人物像への認識を深めた可能性が高いと思われる。
続くドレスデン時代には、ベロットの牧歌性への傾向は、写実性を要求された景観画に少なからぬ影響を及ぼすことになった。ドレスデン近郊の田園都市であり、ザクセンの軍事的要地であったクーニッヒシュタインを主題とした5点の景観画連作は、この問題についての有効な手がかりを与えてくれる。
その後ベロットはワルシャワの地に移住し晩年を過ごした。ワルシャワ景観画群では、既に彼の中に萌芽的に存在した芸術的特質が、新たな展開をもって結実している。
本発表では、ベロットの絵画における牧歌的人物の分析を通して、「現実」と「想像」という対立概念の視覚化という、画家の生涯の芸術的課題の存在を新たに指摘すると共に、この視点から彼の芸術的変遷を概観する予定である。


共通論題の主旨 如月 - 2005/05/08(Sun) 15:10 No.587  

以下、6月12日に発表・討論される共通論題の概要です。

【共通論題】
「近代都市の胎動」
コーディネートおよび司会:佐々木健一氏(日本大学)

西洋や中国に見られる都市空間は、日本の文化にとって異質なものを含んでいます。それは、「自然」に対立する「文明」の空間で、日本の都市にはこの排他的な閉鎖性がありません。18世紀は、西洋において、このような伝統的な都市が近代都市へと変貌してゆくプロセスの始まりの時期にあたります。日本においても、独特の都市文化が開花する時代です。また、西欧諸国による他の地域の植民地化の運動は、新しい都市の建設を伴うものでした。これらの諸形態を学びたいと思います。


近藤和彦さんの報告要旨 如月 - 2005/05/08(Sun) 15:50 No.588  

「マンチェスタ:近世から近代へ」
近藤和彦氏(東京大学)
6月12日 11:15−12:00

教科書的「常識」としてはマンチェスタは産業革命の中心、1700年ころには人口約9千、1801年センサスでは約9万に成長した「雨後の筍」であり、19世紀にはcottonopolisともよばれた世界資本主義の中枢であった。進歩と自由の拠点ともされる。
このマンチェスタは、18世紀初めにデフォーが「イングランドにおける最大の村落の一つ」と形容したとおり、市壁はなく、制度的にも市参事会もなく、荘園領主の法廷や、国教会の教区会(versty)、州の治安判事などの権限が並存複合していた。とはいえ、この地区はペナイン山地に発する3つの川が合流する可航上限であったので、ローマ時代の要塞もあり、中世には牧畜と繊維業の集散地、そして陸路と水路の交わる要衝であった。古い目抜通のうちDeansgateはデーン人(ヴィキング)の痕跡をのこし、Market Streetは市場町としての性格を証す名だといえる。15世紀から宗教的重要性が増し、17世紀の内戦では議会派・王党派の両者にとって戦略的拠点であった。
しかし、18世紀前半のマンチェスタは「反体制の地」disaffected countryとして名をはせていた。国教会高教会派(High Churchman)と、非国教徒(Dussenter)とりわけ長老派の両勢力が相克し、トーリ・ホウィグの党派対立と重なって、いっさいの公共事業が阻害される人的編成ができてしまっていた。ローカルな抗争は全国的な対立と共鳴し、1715年、45年とくりかえしてきたジャコバイト反乱において、マンチェスタは一つの拠点となった。
こうした政治社会が続くかぎり、十全な工業化も商業活動も、そのためのインフラ整備も立ちゆかないだろう。18世紀マンチェスタにおける大きな転換は、従前からの貧民問題の深刻化と、1756年〜58年にくりかえした労働争議、食糧騒擾を契機として生じた。これら猶予のならない諸問題への対処のために、宗派対立をこえて、地主・ブルジョワ・文人が団結したのである。この人的編成の転換の直後(1759年)から運河建設、街路(都市の公共空間)の整備、公共病院、原料横領訴追などを課題とする組織が、任意醵金にもとづく委員会の形をとって、ーーときに議会立法もともなってーー実現するようになった。各宗派の教会堂建設、商工人名録、そして文芸哲学協会(Lit. & Phil.)、郷土史の出版にいたるまでこうした任意結社の形をとった。こうして合理主義的で対労働貧民的階級意識のあらわな市民的公共圏が展開することになる。ちなみにフランクフルトのロートシルト家は5人の息子を故地、ナポリ、ウィーン、パリにならんでイギリスにも派遣駐在させたが、1799年に最初の駐在地として選ばれたのは他でもないマンチェスタであった。
ロンドン・パリ・エディンバラ・フランクフルトといった十全な意味での都市(city)とはちがうtownとしてのマンチェスタの成長の苦悩は、近世から近代への転換の証言でもある。その都市的な場の複合性と18世紀半ばの変貌を、報告のテーマとして考察したい。

近藤和彦さんのウェブ・サイト
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/%7Ekondo/


三宅理一さんの報告 如月 - 2005/05/08(Sun) 15:56 No.589  

「ルーマニアの古都スチャーヴァ」(仮題)
三宅理一氏(慶応義塾大学)
6月12日 13:00−13:45

詳細未定です。


野村亨さんの報告要旨 如月 - 2005/05/08(Sun) 23:40 No.590  

「殖民都市バタフィアの盛衰」
野村 亨氏(慶応義塾大学)
6月12日 13:45−14:30

本発表では殖民都市バタフィアの成立過程を考察することを通じてオランダ植民地における都市形成の特色を描き出してみたい。西欧勢力到来以前におけるジャカルタ地域の歴史の考察を通じてジャワの諸都市の特殊性やマレー世界における港市国家の伝統についても考察してみたい。さらにはバタフィアと相前後して成立した他の都市との比較を通じて東南アジアにおける殖民都市の類型にも言及してみたい。
殖民都市バタフィアは現在ジャカルタ市と名を改めてインドネシア共和国の首都となっている。インドネシア語での正式名称はDKI (Dearah khusus Ibukota)(首都圏特別地区)である。ジャワ島西部に位置し、人口は776万4000人(1997年推計)とされているが、不法占拠地区(squatter)の存在などを勘案すると実際には1000万人以上の人口を抱えていると推定されており、東南アジア最大の都市である。面積は590平方キロ、東西南北と中央の5区に分けられる。近年、市街地は東西南の3方向へ急速にスプロールしており、周辺の衛星都市Bogor, Tangeran, Bekasi, Depokを併せて大ジャカルタ首都圏を形成している。なお大ジャカルタ首都圏は衛星都市の名前の頭文字を連ねてJabotabek (Jakarta-Bogor- Tangeran-Bekasi-Depok)と称される。
ジャカルタは低湿地に形成された都市であり、現在でも北東モンスーン期には市内各地で洪水が発生する。
ジャカルタ市の歴史は次の6期に区分される。
■タルマヌガラ時代(5世紀〜?)
■スンダクラパ時代(12世紀〜)
■ジャヤカルタ時代(16世紀)
■ジャカトラ時代(17世紀初頭)
■バタフィア時代(17〜20世紀)
■ジャカルタ時代(1942年以降)
ジャカルタは元来西ジャワの沖積平野に成立した古代ヒンドゥー国家Parajaran王国の外港Sunda Kelapaを母体として成立したが、16世紀中葉にジャワ北岸の新興イスラム勢力Demak王国の支配下に入った。17世紀以降はオランダ殖民都市として発展した。とくに18世紀になると、南郊のWeltevredenの開発が積極的に進められて、オランダ殖民都市としての特色が顕著になった。18世紀はまさに殖民都市バタフィアの黄金時代というべき時期であった。
東南アジア地域の大都市は、その多くが16世紀以降西欧勢力の到来によって建設されたところが多い。しかしながらクアラルンプル、シンガポールなどを除くと、大部分の都市は西欧勢力到来以前、すでに現地勢力の交易都市ないし政治の中心として成立していたところへ西欧勢力がさらに拡張した結果、今日見るような大都市になったのである。


渡辺浩さんの報告要旨 如月 - 2005/05/09(Mon) 00:11 No.591  

「ヴェルサイユ・北京・江戸」
渡辺 浩氏(東京大学)
6月12日 14:30−15:15

「都市景観」という概念は、実際上もしくは観念上の、ある高みから広く眺めおろす視線を前提しているように思われる。さもなければ足早に通り過ぎていく旅行者や観光客の視線を。(いずれにせよ、それは、そのただ中で日々、食べ、寝、働く生活者の視線ではない。)そのような視線にとって最も「美しい」のは、広く直線的な道路、その突き当たりに聳える壮大なランドマーク、整然と揃った建物であろう。ヴェルサイユ、オスマン改造以後のパリ、ヴェルサイユ生まれの人物の設計によるワシントン、そして、現在のピョンヤンが、その典型である。つまり、強大な権力と単一の計画が、そのような「都市景観」を実現する。したがってそのような都市は、軍隊のパレードの舞台には相応しく、その意味で権力を誇示する場としての劇場都市の性質を持つ。このような(都市史の専門家の用語にいう)バロック・シティを「都市美」の典型とするような意識が今日なおあるとすれば、それは強大な権力への讃迎や待望を意味しうるのではないか。
北京と江戸も、強大な権力と明確な計画によって建設され、維持された都市である。しかも、18世紀で見るならば、ヴェルサイユやパリの比ではない巨大都市である。それでいて、どちらも別に「近代都市」を目指して「胎動」したものの、結局流産していたというわけでもない。
北京は、ややバロック・シティの性格を持つ。しかし、その構造はヴェルサイユなどとは、まったく異なる。それは、(18世紀で言えば)清帝国の統治原理を見事に視覚化し、物質化したものである。
江戸も、考え抜かれた地割りと道路網によって成立している。それが乱雑に見えるとすれば、それはこの都市の見方、あるいは読み方に問題があるのである。それは、城下町観光ガイドがよく言うような、攻められた時に敵を困惑させるために敢えて道を曲げたというような単純なことではない(中国的な都市と宮殿の構成に親しんでいた朝鮮通信使たちも、江戸と江戸城を訪問したもののそれらの構成原理が理解できず、不思議がっている)。また、上水道の完備、屎尿やゴミの収集システムの整備に注目すれば、例えばセバスチャン・メルシエの描く同時代のパリの不潔さと、江戸の「きれいさ」は対照的である。
本報告では、以上のような観点から、ヴェルサイユと北京を主な比較の対象としつつ、独自の「作風」を持つ江戸という見事な「作品」を、鑑賞してみたい。

予定されている報告は、以上ですべてです。
渡辺さんの報告終了後、15:30〜16:30、全体討論が予定されています。

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