045908
網上戯論
[トップに戻る] [留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]
お名前
Eメール
タイトル
メッセージ
メッセージ中には参照先URLと同じURLを書き込まないで下さい
参照先
暗証キー (英数字で8文字以内)
文字色

せんでん と おねがい 投稿者:釈由美子が好き 投稿日:2006/03/30(Thu) 17:02 No.3223  
 こちらでは、おひさしぶりです。
「日本中世史アーカイブズ」(http://jparchives.sakura.ne.jp/)というサイトを立ち上げやした。リンクさせて戴いて、よろしいでしょうか?


みなさん、アクセスいたしましょう。 如月 - 2006/03/31(Fri) 00:17 No.3224  

喜んで♪
こちらからもアーカイブをリンクさせていただきたいと思います。どうぞよろしく。


おれー 釈由美子が好き - 2006/03/31(Fri) 10:20 No.3229  

 ありがとうございます♪ よろしくおねがいしますです。


四月バカになる前に 如月 - 2006/03/31(Fri) 11:37 No.3230  

一日遅れると四月バカになりますので(笑)、さっさくリンクを貼らせていただきました。


再びおれー 釈由美子が好き - 2006/04/01(Sat) 19:08 No.3232  

おありがとうございまする。


わがブレッソン体験 投稿者:如月 投稿日:2006/03/30(Thu) 00:24 No.3217  
ブレッソンとクレンペラーの対位法のスレッドを書き継ぐ前に、私自身のブレッソン観・ブレッソン体験を少し書いておいた方がよさそうに思えてきた。浅沼圭司氏と品田雄吉氏のブレッソンをめぐる言説をクレンペラーに関する言説として読み替えるという作業そのものはさほど困難ではないのだが、その作業を機械的にすすめることがどれほど意味のあることかと自分でも疑問に感じられ、その疑問を解決するためには、自分自身のブレッソン感を書き、浅沼・品田対談を自分なりに肉付けしておくことが必要な気がしてきたからだ。

さて、私の高校生〜大学生時代、家庭用ビデオというものは存在せず、テレビで放映される映画も限られていたので、観ることができる映画は非常に限定されていた。それでも東京に出て来ると、名画座あり、フィルム・センターありで、ようやくさまざまな過去の名作を観ることができるようになった。
それでもブレッソン作品の上映はない。そうしたなかで岩波ホールのエキプ・ド・シネマが発足し、その最初期の上映作品のなかにブレッソンの『少女ムシェット』が含まれていた。私はもどかしい思いで岩波ホールに行き、ようやく観ることがブレッソン作品『少女ムシェット』に非常に感激した。個人的には、『少女ムシェット』は、その後観た『バルタザールどこへ行く』とならぶ甲乙つけがたい傑作である。
ちなみに、『少女ムシェット』が公開された1974年は、ヨーロッパ映画の個性的傑作が数多く公開された充実した年だった。参考までに、この年のキネマ旬報ベスト10をあげておこう。
1位『フェリーニのアマルコルド』(フェデリコ・フェリーニ)、2位『叫びとささやき』(イングマル・ベルイマン)、3位『アメリカの夜』(フランソワ・トリュフォー)、4位『スティング』(ジョージ・ロイ・ヒル)、5位『ペーパー・ムーン』(ピーター・ボグダノヴィッチ)、6位『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(ルイス・ブニュエル)、7位『ジーザス・クライスト・スーパースター』(ノーマン・ジュイソン)、8位『黒い砂漠』(フランチェスコ・ロージ)、9位『デリンジャー』(ジョン・ミリアス)、10位『エクソシスト』(ウィリアム・フリードキン)
ブレッソンの『少女ムシェット』は、またもや批評家からも無視されているが、滋野辰彦氏がこの年のベスト1に推した。
私自身はというと、前年の暮に試写会で観たレネの『ミュリエル』にまず大感激して、翌年のベスト1はこれでいこうと思っていたところ、正月早々ベルイマンの『叫びとささやき』が公開されてどちらかをトップにするか迷いだしていた。ところが5月にはブニュエルの『ブルジョワジーの密かな愉しみ』が公開され、この自在な作法はレネ、ベルイマンをも上回ると、脱帽した。レネ、ベルイマンが私が想定していた常識のなかで映画をつくり、その範囲のなかでの「映画的」感慨だったとすると、ブニュエルはもう、そうした「映画」としての常識を完全に覆していたのである。しかも、『ブルジョワジーの密かな愉しみ』を観ればすぐにわかるのだが、そうしたブニュエルの破格の映画作法(スタイル)は、この映画をとおして示されるブニュエルの人間観と直結するものであり、『ブルジョワジーの密かな愉しみ』という映画は、その語り口なしには意味をもたないのである(つまり、ブニュエルの人間の見方・とらえ方が破格だとすれば、それを他者に伝達するつたえ方・表現方法も破格だということ。逆にいえば、表現方法の破格さからもブニュエルの人間把握の破格さがわかる。いや、そうした表現方法なしにオーソドックスな方法<=枠組>でその人間観が表現されたとしたら、結局われわれは、そうした人間観を既存の月並みな枠組のなかに組み入れ、既存の枠組のなかで位置づけてしまうだけだろう。だから私は、このユニークな作品を『ミュリエル』よりも『叫びとささやき』よりも高く評価する)。
そうしたことから、『ブルジョワジーの密かな愉しみ』こそ数年に一度の傑作と考えていたところ、9月に『少女ムシェット』が公開され、私はまたもや驚天動地した。ブニュエルの『ブルジョワジーの密かな愉しみ』が、映画の常識を覆すために考えられるありとあらゆる手段を駆使していたのに対し、ブレッソンは、(一見したところ)そうした目だったわざを何もつかわずに、いや、わざをつかわないことで映画の常識を覆してみせたのである。高校生時代からどのような作家かといろいろ想像し、期待をふくらましていたブレッソンが想像をはるかに上回る作家であったことに、私は完全に圧倒された。


わがブレッソン体験 その2  如月 - 2006/03/30(Thu) 09:19 No.3222  

さて今、ビデオやDVDでブレッソン映画を確認しながらこの記事を書ければ、私の個人的なヨタ話よりよほどましなのだが、DVDは無し、ビデオは故障という悲惨な状況なので、記憶のなかから思い出を引き出して、ブレッソン作品について書いてみる。
浅沼・品田対談のなかでは、ブレッソンのスタイルのことがまず問題にされているが、実際に『少女ムシェット』を観てまず最初に見事と思ったのも、このブレッソン独自のスタイルだった。
一口にブレッソンのスタイルといってもいろいろな特徴はあるのだが、最も有名で顕著なのは(そして私にもすぐ目に付いたのは)、全身や上半身のショット、顔(表情)のクローズ・アップをほとんど行わず、たとえば、誰かが歩いているといえば足、モノをつくっているといえば手、何かを見ているといえば目という具合に、人間の身体の一部だけを写したショットが非常に多いこと。これがブレッソン的な「明晰さ」に繋がると同時に、映画に強い緊張を生み出していた。
たとえば、ある人間がとあるモノに近づいてそれを手に取るといったシーンで、通常ならばカメラが登場人物と一定の距離をおいておかれ、その人物の全身を映し出しながら、画面の中で人物を動かし(演出し)その人間にモノを手に取る仕草をさせるのに対し、ブレッソンは、まずその人物の足を写しだし(歩く)、次に目のクローズ・アップ(モノを見つける)に切り替え、続いてモノをつかんでいる手のクローズ・アップに移る。この結果、われわれは、画面に映し出されている登場人物の意志とはかかわりなく、モノがある人の手に取られるというシーン(そのもの)に直面する。通常の映画のようにこれをワン・ショットにおさめると、どうしても、あるモノを手にとるという動作の背景にその人物の何らかの心理や動機を想定せざるをえない。
ブレッソンの場合、実は、人間のさまざまな動作から「心理」を排除するためにこうした細かいショットをモンタージュして画面の流れ(シーン)を構成しているわけで、そのスタイルと狙いが見事に合致している。
ところで、ブレッソンは、自分の映画を定義して「アクション映画」だということがある。これは、いわゆるアクション映画に対する痛烈な皮肉ととれないこともないのだが、それはともかく、ブレッソンが嫌うのは、人間の行動の背景に、常に感情、心理といった動機を想定し、人間の行動を解釈することで、そうした「心理映画」に対するアンチ・テーゼが、心理を排除した「アクション映画」であり、そうしたアクション映画を実現するためには、人間の身体動作の一部ずつを組み立てて映画をつくっていくしかないということになる。
こうしたブレッソンの映画では、画面に映し出される人間への(観客の)共感・感情移入が映画を牽引していくのではなく、画面と画面が結び付けられるリズムや緊張感が映画を牽引していく。浅沼・品田対談でいえば、このことが、「ブレッソンの場合には個人のスタイルをもう少し乗りこえた映画固有の純粋化されたスタイルですね。ほかの芸術表現のスタイルとは全く違った、映画独自のスタイルを具体化している」(浅沼氏)という発言に繋がっていると思う。極端にいえば、ブレッソン映画では、さまざまな人間の動作は、その人物や物語を説明するためではなく、次にまた緊張した画面を呼ぶために必要とされるということになる。
たとえば『抵抗』という映画は、死刑囚が脱獄するために、ほとんど何もない独房でさまざまな道具を作り出し、脱獄するプロセスを描いた映画であり、続く『スリ』は、主人公であるスリが、他人のポケットからモノを取り出す瞬間を繰り返し繰り返し、執拗に描いている。『抵抗』にも『スリ』にも、物語らしい物語はほとんどなく、むしろ、ストーリーはそうした部分(プロセス)を呼び込むための約束事として付着しているような印象がある。
こうしたことの必然的結果として、ブレッソンは、出演者が演技をすることや、何かを表情に表すことを嫌う。またそうした結果につながりやすい職業俳優の起用をも嫌う。
しかしブレッソンがいくら出演者の演技や感情表現を嫌っても、人間を主人公とする限り、作品から演技や感情表現を完全に排除することはできない。そこで『バルタザールどこへ行く』では、最初から演技もしなければ感情表現もしない(できない)ロバを主人公にして、ブレッソンは理想的な「アクション映画」をつくりあげようとしたのではないだろうか。ひとことで要約すれば、『バルタザールどこへ行く』は、バルタザールと名づけられ、カトリックとしての洗礼を受けたロバが黙々として荷物を引き、むち打たれ、歩き続け、死ぬというプロセスを描いた映画である。そこでは、何の心理的説明も感情表現もないロバの行動が、感動や美的昂奮をもたらす。しかし、この映画の主人公であるロバを何者かの象徴とみたり、ロバの行動に何かの意味を見出そうとするのは、ブレッソンの意図に反していると思う。
私が最初にこの映画を観た時に特に強い感銘を受けたのは、ロバであるから当然なのだが、主人公のバルタザールが一言も言葉を発しないこと、にもかかわらずバルタザールの生き様、その喜びや苦しみが理解できるように思われたことだ。そして映画を観おわってから、そうした感銘を今度は何か「言葉」で表現しようとしてみたとき、言葉が完全に無力であるということにも気づかされた。言葉や余計な説明がないからこそ、バルタザールの行動は瞬間ごとに自足した完全なものであり、了解可能なのであって、言葉によってそれらの場面から受けた印象を伝えようとすれば、どうしても部分的で不完全なものたらざるをえないのである(この映画のなかでは、バルタザールの周囲の人間が発する言葉は「雑音」のように聞こえる。あるいは少なくとも、彼らがそれによってうまく意志を通じ合えているようには感じられない)。
『バルタザールどこへ行く』は、表面的にはどこまでいってもロバの一生を描いた映画であり、それ以外の何ものでもないのだが、実は、ブレッソンが問題にしているのは人間コミュニケーションのあり方であると思われた。


お詫び 投稿者:如月 投稿日:2006/03/29(Wed) 13:20 No.3216  
掲示板がまた機械的なアラシにつかまってしまったようです。一連のアラシは、愉快犯的なサーバー(複数)によって、ロボット的に自動的に行われていると考えられます。昨晩来のアラシ書き込みを物理的に削除すること自体は簡単なのですが、アラシ対策の必要上、しばらくの時間、削除せずに放置します。
当掲示板でさまざまな戯論の展開を期待しておられる方には大変申し訳ありません。


ブレッソンとバルテュスとヴィトゲンシュタインをつなぐ人物 投稿者:如月 投稿日:2006/03/26(Sun) 14:18 No.3196  
四谷シモンとブレッソンの話をしていて、「Pierre Klossowski」というサイトを見ていたら、そのサイトでは『バルタザールどこへ行く』のなかにピエール・クロソウスキーが出ていることに注目しているという話をしたらのってきた。同サイトの記事のなかでは、クロソウスキーがなぜこの映画に出たのかわからないということだったのだが、シモン曰く、クロソウスキーの弟で画家のバルテュスの本名はバルタザール・クロソウスキーだから、もしかしたら、そこに何かの関係があるのではないかという。考えてもみなかったことだが、このアイデアはちょっとおもしろい。ということで、今朝は、クロソウスキー、バルテュス関連のサイトをうろうろしていた。
ちなみに、四谷シモンは、ブレッソンの『スリ』がとても好きとのこと。一方で、バルテュスもとても好きで、彼の作品(人形)のなかに、バルテュスを意識して、バルテュス作品と同じポーズをとらせたものがあるという。クロソウスキーを媒介にして、それらがつながってくるということだ。
クロソウスキーの作品、私は代表作の『ロベルトは今夜』すら読んでいないのだが、「Pierre Klossowski」サイトに掲載されている年譜を読むと、サド研究の大家でもあり、このあたり、ブレッソンの人脈が一筋縄では説明できないということを示している。
そしてまた、このクロソウスキーがどうも一筋縄でいかない人らしく、年譜を読んでいたら、ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の仏訳者であるということに驚いた。

「Pierre Klossowski」サイト
http://gamp.c.u-tokyo.ac.jp/~oomori/index.html
「Pierre Klossowski」サイト〜『バルタザールどこへ行く』
http://gamp.c.u-tokyo.ac.jp/~oomori/balthazar.html

松岡正剛の「千夜千冊」サイト〜『ロベルトは今夜』(クロソウスキー)
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0395.html
松岡正剛の「千夜千冊」サイト〜『バルテュス』(ロワ)
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0984.html


バフォメ 後鳥羽院 - 2006/03/28(Tue) 22:35 No.3202  

クロソウスキーとバルテュスは兄弟だったのですか!
はじめて知りました。
シモンさんは、バルテュスがお好きなのですか。

若い頃、「バフォメ」を読もうとして、あんまり難しいので、やめたことがあります。テンプル騎士団のエソテリスムがテーマだったように覚えていますが。
ヴィトさんも出てくるのですか・・・うーむ。


Re: ブレッソンとバルテュスとヴィトゲンシュタインをつなぐ人物 岩錆 - 2006/03/29(Wed) 00:16 No.3203  

お久しぶりです。

バルテュスの奥さんは日本人の方でしたね。
何年か前のNHK教育の番組に出てられました。

バタイユにハイデガーを吹き込んだのが
クロソウスキーだったような気がします。
間違っていたらゴメンナサイ。


クロソウスキー兄弟 如月 - 2006/03/30(Thu) 00:29 No.3218  

岩錆さんの書き込みを読むと、クロソウスキーという人物は、ますます一筋縄ではいかない人物のようですね。難しそうだから、クロソウスキー読解は院にお譲りします(笑)。

ところで、バルテュスのこと、四谷シモンは昔から好きだったみたいですよ。どんな経緯でバルテュスが好きになったのか、今度訊いておきますね。


クロソウスキーについて 慧遠(EON) - 2006/04/09(Sun) 00:08 No.3243  

昔、私が高校生の時見た映画ドヌーヴとドロン主演の「あの胸にもう一度」(マンデアルグ作「オートバイ」の映画化で、そののち何度もテレビ放映された)の中で、古本屋のおやじとして数秒間、クロソウスキーの独特な顔が映っていたことを思い出しました。
クロソウスキーについての評論は、A・アルノー著「ピエール・クロソウスキー」国文社が一番詳しいです。なを、クロソウスキーはニーチェの翻訳もしており、彼のニーチェ論は「ニーチェと悪循環」(ちくま学芸文庫)は最高のもので、彼の影響はフーコーを始めドゥルーズやデリダ等のフランス思想に及んでいて、特にポスト構造主義のニーチェ受容に決定的な貢献をした人物としても知られています。彼の評論集は「かくも不吉な欲望」(現代思潮社)や「わが隣人サド」(晶文社)、そして「シュミラクル」記号として有名な「ディアーナの水浴」(美術出版社)など、私も魅了されました。(但し「生きた貨幣」は未読。) また、彼はバタイユやレリス等と「コントル・アタック」グループに参加していたはずです。(岡本太郎もこれに参加していたので、彼らのことは岡本氏がよく知っていた。)
なを、ブレッソンの『少女ムシェット』は、たしかドールヴィリ「妻帯司祭」原作小説からの一部分の映画化だと思いますが、そのドールヴィリ「妻帯司祭」についてもクロソウスキーは「かくも不吉な欲望」の中で評論しています。


EON様、『あの胸にもう一度』の余談ですが・・・  - 2006/04/09(Sun) 02:54 No.3244  

カトリーヌ・ドヌーブではなくて、マリアンヌ・フェイスフルと、アラン・ドロンの『あの胸にもう一度』では、黒いレザースーツで、マリアンヌがハーレーに乗って走る姿は、『ルパン3世』の峰不二子のモデルとなったそうです。オートバイに乗っている姿が、この映画の中では、一番良かった覚えがあります。


ベルナノス 如月 - 2006/04/13(Thu) 08:08 No.3248  

クロソウスキーは、ニーチェ研究の大家でもあるんですね。慧遠さん、ご教示ありがとうございます。
ただし、『少女ムシェット』の原作は、カトリックの作家・ベルナノスの『新ムシェット物語』のようです。ブレッソンは、ベルナノスを『田舎司祭の日記』『新ムシェット物語』と二度、映画化してるんですね。
ちなみに、『田舎司祭の日記』のDVDは今月25日発売とのことです↓。
http://forest.kinokuniya.co.jp/ItemIntro/83749


またまた勘違いをお詫びします。 慧遠(EON) - 2006/04/15(Sat) 06:15 No.3257  

如月さんが教えて下さいました、ブレッソン監督の映画「田舎司祭の日記」の指定URLを先に見れば良かったのですが、先の投稿の後にそのページを見てみますと、私か思っていた83・4年頃に制作された映画とは、全くの別物だと判りました。またまた勘違いして、誠に申し訳ありません。
ブレッソンの作品の方は、もっと古い年代の制作作品だったのですね。映画に全く詳しくない私の生半可な知識が恥ずかしくて仕方がありません。

なにとぞ、ご勘弁を。


『田舎司祭の日記』のDVD 如月 - 2006/04/20(Thu) 09:45 No.3263  

『田舎司祭の日記』のDVD予約してありますから、観たら感想アップしようと思います。この映画、昔一度観たはずなんですが、モノローグが多いのに英語字幕で、よくわからなかったんです(笑)。


浅沼氏のブレッソン論のクレンペラー論的読み替え。 投稿者:如月 投稿日:2006/03/24(Fri) 12:49 No.3193  
『アートシアター』76号掲載の品田雄吉氏と浅沼圭司氏の対談「ブレッソンという人と作風」の引用紹介の冒頭にも書いたが、大学時代の私は、ようやく観ることのできたブレッソン映画(私が最初に観たブレッソン映画は、『バルタザールどこへ行く』の次に公開された『少女ムシェット』だった)にはまり込むと同時に、ブレッソンが映画において志向したものを音楽という別のジャンルにおいて実現させたらどうなるかを求めてクレンペラーにたどりついたのだった。だから、当然といえば当然なのだが、今読み返してみて、引用したブレッソンの作風をめぐる対談のなかの浅沼発言が、固有名詞をかえればほぼそのままクレンペラーの演奏評にも適応できるということに驚いている。というか、音楽のことしかわからない(いや、もしかすると音楽のことすらわからない)批評家が、「主観性・客観性」の対立軸だけからクレンペラーを語るよりも、よほどいきとどいたクレンペラー評になると思う。
以下、その読み替えを試みる。

   *    *    *

まず、表現者としての「スタイル(様式/文体)」の問題。ブレッソンにとっても、クレンペラーにとっても、究極的にはこのスタイルの問題が最も重要なものになってくるといっていいと思う。
ところで、ブレッソン同様、クレンペラーはちょっと聴けばすぐにクレンペラーとわかる独自のスタイルをもった演奏家だが、そのスタイルというのが、「ほかの指揮者のスタイルとはちょっと違った意味を持っている」ように思われる。それはつまり、「個人のスタイルをもう少し乗りこえた音楽固有の純粋化されたスタイル」「ほかの芸術表現のスタイルとは全く違った、音楽独自のスタイルを具体化しているような性質を持っているんじゃないか」ということである。
浅沼氏はそれを、「映画というのは何ものかの写真ではない、”ものそのもの”なんだ」というブレッソンの言葉に結び付けて考えているわけだが、それに呼応するものとして、クレンペラーには、「たいせつなのはオーケストラに呼吸をさせるということ」「リズムのアーティキュレーションが演奏者に息をつくチャンスを与えるということ」「木管がきこえるということがもっとも重要」といった言葉がある。要するにクレンペラーは、音楽とは極言すれば音の連なりに過ぎず、そこでは”音そのもの”をどのように出すかが演奏において最も重要となるということをいいたいのだと思う(ついでに言っておけば、ワルターやセルの演奏でも、アーティキュレーションや木管は重要視されている)。
もっともこの部分は、映画と音楽それぞれの芸術の根幹にかかわることで、簡単には置き換えできないのだが、その点では、「モデル(現実・具体)」との関連で成立する映画よりも音楽の方が、スタイルそのものを明確に打ち出すという点では有利だと思う。ただ逆に、まずモデルがあって、それからの離脱によってスタイルの存在をうったえる映画の方が、スタイルを強烈に打ち出しやすいという側面はあると思う。いずれにしても、クレンペラーは、「自己表現の手段として音楽を考えていない」あるいは、「何かあることを言いたい、そのための手段としてたまたま音楽があった」という風には考えていないと思う。
つまり、この辺が、クレンペラーの演奏に対する無理解や誤解のポイントなのだが、音楽を演奏者の「自己表現の手段」としてとらえようとすると、クレンペラーの音楽はまったくとらえようがないものとして立ち現れてくるのだ。そうした音楽を演奏者の「自己表現」の手段ととらえる論者の多くは、クレンペラーのライブ録音に注目して、スタジオ録音では最後まで冷静さを崩さないクレンペラーも、ライブでは燃えるといった評を行うことがあるのだが、私は、こうした評は完全な誤解だと考えている。要するに、クレンペラーは(たまたま燃える時があるにしても)燃える演奏など決してめざしていないのだ。
したがって、クレンペラーの演奏を聴いていると、「いわゆる世界とか現実とかいうものとの直接的関係が切り落とされている感じ」が顕著であり、「指揮者でないクレンペラーとのつながりもみごとに切り落とされている」。そういう意味では、「クレンペラーの世界というのは大変みごとに完結した、個人からも社会からも抽象化された、全く一つのユニバースという感じ」で私は聴く。こうした完結性は、映画と違い、音楽であれば当然のことなのだが、この当然といえば当然のことが行われていない演奏はあまりにも多く(だからクレンペラーの「スタイル」は非常に目立つ)、一般的にいえば、音楽評はこの完結性の問題には触れない。いやむしろ、一般的な音楽評は、本質的に個人からも社会からも抽象化された一つのユニバースを構築する芸術である音楽のなかに、個人や社会を持ち込むような演奏についてだけ語ることが多い(まあ、その方が語りやすいということはあるだろう。しかし、当然のことながら、語りやすさとすばらしさは等価ではありえないのだ)。


浅沼氏のブレッソン論のクレンペラー論的読み替え 2 如月 - 2006/03/25(Sat) 01:19 No.3194  

クレンペラーの演奏を聴いた印象として、「手アカにまみれていないという意味の新鮮さ」「むき出しのものが出ている」という感じをうけるのも、浅沼氏のブレッソン評に通底する。象徴派の芸術理念からブレッソンを分析するという浅沼氏の試みは、基本的にクレンペラーの演奏にもそのまま適用できると思う。つまり、「手アカにまみれた音楽を本来の輝かしい姿に立ち戻そうという意志を見る」という感じは、クレンペラーの演奏を聴く場合、つねにまず最初に出てくる印象だ。しかしそれは、単純な客観主義や即物主義に還元できるものではなく、むしろ「音楽的なことばが本来持っている、音と音の関係をクレンペラーは守っている」というところからくるのだと思う。つまり、クレンペラーの演奏を聴いて驚くのは、演奏する曲に対して特定の解釈や逸脱がなされていることからくるのではなく、特別なことはなにも行われていないのにこの曲がこのように美しく響くのはなぜなのだろうという驚きなのだ。いや、だからこそその驚きは深い。
それと関連して、クレンペラーについて論じるとき、クレンペラーのことを知っている人であればすぐに出てくる彼の人生経験のすさまじさ、これをどう位置づけるかということが非常に難しい。クレンペラーという人は、ユダヤ人であったがゆえにナチスに演奏を拒まれアメリカ亡命を余儀なくされたというだけでなく、指揮台や飛行機のタラップからの転落、腫瘍による開頭手術、交通事故、大火傷(彼の写真は横顔をとらえたものが多いのだが、それは、正面から写すとみると、この火傷の痕があまりにも痛々しいからだと思う)などなど、通常の人であれば一度遭遇するのもまれな身辺の大事件にたびたび遭遇している。それらの事件は、生じるたびにクレンペラーの演奏活動を窮地においこむのだが、クレンペラーは単に事件の身体的ダメージから立ち直るというだけでなく、そのつど指揮者としても復活している(ただし晩年は、腕がほとんど動かなかったという)。そういうクレンペラーの伝記的事実を彼の演奏と結び付けようとしても、彼の演奏というのは、一聴したところ、「演奏家でないクレンペラーという人間とのつながりもみごとに切り落とされている」ように感じられるわけで(もちろんこれには、クレンペラーは腕がほとんど動かせなかったのでまどろっこしくかったるい、いわば「精神性」だけの演奏をしていたのだという、私には勘違いとしか思えない批評もある。しかし身体的な不自由さがクレンペラーの演奏に影響したとするならば、そういう人は、あの晩年にいたるまで崩れることのない音の磨き上げをどのように位置づけることができるというのだろうか)、その結び付け方が非常に難しい。
実は私は、結局、クレンペラーが受けた人生上の苦難は、彼の演奏に色濃く反映されていると考えているのだが、その反映の仕方が、通常の意味での反映とはまったく異なることに、クレンペラー独自の思想性がある。つまり、クレンペラーの人生経験は、一部の妥協も無きスタイルの追求ということで、彼の演奏に反映されてくるのだ。


「虚にして実、実にして虚」ーー石塚公昭さんの人形&写真展 投稿者:如月 投稿日:2006/03/22(Wed) 09:13 No.3185  
青木画廊(http://www.aokigallery.jp、中央区銀座3-5-16、島田ビル二階、電話=03-3535-6858)で、3月25日(土)まで、人形作家・写真家、石塚公昭さんの作品展が開かれている。タイトルは『乱歩 夢の夢こそまこと』。
本好きの石塚さんの人形は、石塚さんが好きな幻想的作家をイメージしたものが多いのだが、今回は江戸川乱歩をイメージした作品を展示、合わせて、その乱歩人形を被写体にした写真も発表している。自己の写真のなかに自己の創作物(実在の作家を模した人形)をはめ込むという、いわば「虚にして実、実にして虚」という二重性、三重性が石塚さんの追うテーマだ。
その写真は、現代のカメラによるものだけではなく、20世紀はじめの水晶を溶かしたレンズを用いたカメラによるものもあり、シャープな写真とは違う、独自の雰囲気をかもしだしている。石塚さんによれば、そのレンズ(カメラ)は、もしかするとかつてニジンスキーをも写したことがあるかもしれないとのこと。ふしぎな感じのする写真だ。
銀座にお出かけの際、ふらっと立ち寄ってみるのはいかが?
なお、石塚さんの作品、創作コンセプト等は、石塚さんの公式サイト↓参照を。
http://www.kimiaki.net/


Re: 「虚にして実、実にして虚」ーー石塚公昭さんの人形&写真展  - 2006/03/26(Sun) 01:36 No.3195  

石塚さんが、画廊を暗くすると、木箱を覗く乱歩の人形の顔が、箱の中からの光でライトUPされ、まるで、生きているようでした。写真は、発色が綺麗で、独特でした。


おもしろかった♪ 如月 - 2006/03/30(Thu) 00:30 No.3219  

とてもユニークな展覧会で、おもしろかったですね。


『バルタザールどこへ行く』(R・ブレッソン)をめぐって 投稿者:如月 投稿日:2006/03/21(Tue) 13:44 No.3183  
たまには私事を…。

私が集中的に映画を観だしたのは高校時代だった。中学時代に私が住んでいた小さな町には映画館はなく、中学時代には、自分の意志で映画を観るというのはかなりの冒険だった。なにせ、一時間に一本の汽車にのって一人で隣の町に行き、駅から繁華街の映画館までくねくね曲がった道を歩いて行かなくてはならないのだから。まあそれでも、『ロミオとジュリエット』(フランコ・ゼフィレッリ)とか『卒業』(マイク・ニコルズ)とか、中学時代に観た映画はいっぺんで私をとりこにした。
高校は、幸いなことにその映画館のある町だったので、高校時代は、暇があれば学校をさぼって映画を観に行っていた。そんな私を新たにとりこにしたのが『テオレマ』(ピエル・パオロ・パゾリーニ)で、『卒業』に夢中になっていた自分を文字どおり卒業し、それからの私の思考はパゾリーニを中心に旋回しだした。
その年、私ははじめて、映画のベスト10というものを気にしながら映画雑誌を読むようになったのだが、そこでは、私のお気に入り『テオレマ』の評価は必ずしも高くない。そこではじめて、私は世の中にはいろいろな価値観があるということを知ったのだった。参考までに、この年(1970年)の『キネマ旬報』ベスト10作品を挙げておく。
1位『イージー・ライダー』(デニス・ホッパー)、2位『サテリコン』(フェデリコ・フェリーニ)、3位『Z』(コスタ・ガヴラス)、4位『明日に向って撃て』(ジョージ・ロイ・ヒル)、5位『M★A★S★H』(ロバート・アルトマン)、6位『テオレマ』(ピエロ・パオロ・パゾリーニ)、7位『王女ネディア』(ピエロ・パオロ・パゾリーニ)、8位『冬のライオン』(アンソニー・ハーヴィー)、9位『地獄に墜ちた勇者ども』(ルキノ・ヴィスコンティ)、10位『ひとりぼっちの青春』(シドニー・ポラック)
あとから考えてみると、この年は、アメリカからもヨーロッパからも、個性的な作家の映画が数多く公開された画期的な年だったのだと思う。パゾリーニに関して言えば、パゾリーニ現象は目だったものの、『テオレマ』と『王女メディア』で評がわれて、結果的にどちらも上位に食い込めなかったと言ってもいいと思う。
ところで、最初、世の評価とはそんなものかと思っていた私が、評論家といってもさまざまで、要するに、『テオレマ』を高く評価した評論家の発言や評価にだけ注目していればいいのだと気づくまで時間はかからなかった。
そこで注目しだしたのが、飯島正氏だったり、滋野辰彦氏だったりするのだが、そうした人たちだけをピックアップしてベスト10を読み直してみると、ベスト10の様相はがらりと変わる。このお気に入り評論家ベスト10によって、私はたとえば『野性の少年』(フランソワ・トリュフォー)の重要さに気づかされた。
しかしこの選び直しによって最も評価がかわり、急浮上してきたのは、大多数の評論家によって無視された『バルタザールどこへ行く』(ロベール・ブレッソン)だった(飯島氏と滋野氏は、ともに同年のベスト1に推している)。私は、見方によってはパゾリーニ以上というこのブレッソンという監督が気になり(田舎では、ブレッソン作品はまったく観ることができなかった)、せめてもと思って、東京で公開された際のパンフレットを取り寄せたり、まだ観ぬブレッソン映画に思いを馳せるのだった。

    *    *    *

ブレッソン作品は、大学にはいって上京した後もなかなか観ることができなかったのだが(ちなみに私は、映画が観たいという理由で東京の大学を選んだ)、ようやく観た『バルタザールどこへ行く』は、私をすっかり昂奮させ、その後も、私が映画を考える際の規準の一つとなっている。
ところで、ここまでながながと思い出話を書いたのは、高校時代に入手した『バルタザールどこへ行く』のパンフレットをひさしぶりに読み返し、自分の思考が、結局はここに書かれていることを中心に旋回しているのだなと感じたため(たとえば、オットー・クレンペラーに対する私の思い入れは、もともとは、ブレッソンに対する思い入れを音楽という分野で探るところからはじまったものだ)。
要するに、ここまでの文章は、実は『バルタザールどこへ行く』をめぐる1970年当時の言説を紹介するための前置きだったのだが、もはや入手はほとんど困難と思われる、公開当時のパンフレット(『アートシアター』76号)から、「ブレッソンという人と作風」という品田雄吉氏と浅沼圭司氏の対談の一部を紹介してみたい。

   *    *    *

【ブレッソンの世界】
品田 ブレッソンのフランスでの評価はどうなんでしょうか。
浅沼 フランス人がブレッソンと比較というか、同じようなタイプだと言って持ち出すのは、カール・ドレイエルです。どっちもジャンヌ・ダルクをつくっているというわけでもないんでしょうが。テーマにある意味で共通性があるし、最初から最後まで一定のテーマをずっと守っているということと、映画作家には大変まれな”様式”を持っているという点などよく比較しているようですね。
品田 スタイルという点ではブレッソンは非常にきびしいものを持っていますね。
浅沼 ブレッソンのスタイルという場合、ぼくはほかの作家のスタイルとはちょっと違った意味を持っているような気がする。”スタイル”の解釈も大変めんどうくさくなるんだけれども、たとえばチャップリンのスタイルとかベルイマンのスタイルとか、ある作家個人に固有のスタイルということが一般的にはまず言われるわけですね。もちろん、ブレッソンにも一目でブレッソンだというスタイルはありますが…。
品田 スタイルというのは、文学でいう文体という意味ですか。
浅沼 そう言っていいと思いますけれども、ブレッソンの場合には個人のスタイルをもう少し乗りこえた映画固有の純粋化されたスタイルですね。ほかの芸術表現のスタイルとは全く違った、映画独自のスタイルを具体化しているような性質をブレッソンの場合は持っているんじゃないか。その根拠の一つは、これはブレッソンがよく言うことなんですが、映画というのは何ものかの写真ではない、”ものそのもの”なんだと言う。だから、どこかにある物語を映画でつくるとかいうふうな形で映画を考えていない。と同時にもう一つは、映画を使って自分を表すという、自己表現の手段としても映画というものを考えていない。もちろん創作行為ですから、結果としてブレッソンの個性なり人格あるいは世界観というのは当然表われるでしょうが。
品田 つまり、何かあることを言いたい、そのための手段としてたまたま映画があったということではない。
浅沼 ブレッソンの映画を見ていると、いわゆる世界とか現実とかいうものとの直接的な関係も切り落とされているような感じがします。もう一つ、ブレッソンという人間ですね。映画作家でないブレッソンという人間とのつながりもみごとに切り落とされている。そういう意味では、非常に誤解があるかもしれないけれども、ブレッソンの世界というのは大変みごとに完結した、個人からも社会からも抽象化された、全く一つのユニバースという感じで私は見るんですね。ところがブレッソンを問題にするときには、たいてい、その映画の世界のそれこそ神との関係とか情念だとか、内容面だけが重視され、表現そのものは必ずしも十分に問題にされない。おそらくそれは、ブレッソンは、たとえばゴダールとか、もう少し前のウェルズとかあるいは最近のアメリカにあるような新しさがみられないということによるものでしょうね。そういうものとの関係もなかなかつけにくい作家だと思うんです。
品田 そうですね。つまり、新しいとか古いとか、ちょうど現代にぴったりだというような尺度ではとらえられない何かを持っているということはいえるのじゃないですか。たとえばアラン・レネなどというのはそういう意味では、かなり新しさみたいなこととつながりやすい面があるけれども。
浅沼 そういう直接的な関係ではブレッソンというのは新しくもないし、少し大げさにいえば現代の芸術表現というようなものとの関係も直接的にはないのだけれども、いま言ったようなことを中心に考えてみると、やはりブレッソンの持っている現代性というか、その表現の持つ現代性は大変あると思うんですよ。 (続く)


『バルタザールどこへ行く』(R・ブレッソン)をめぐって 2 如月 - 2006/03/22(Wed) 12:16 No.3186  

(承前)

浅沼 最初にブレッソンの映画を見たのは『抵抗』だったんですが、あれを見たとき大変驚いたわけです。新鮮で。その新鮮さというのは、いまできたばかりという新鮮さじゃなくて、手アカにまみれてないという意味の、映画なら映画というものの手アカが一切なくなってしまって、むき出しのものが出ているという意味での新鮮さですね。
 『抵抗』が上映されたときに、いろいろな批評があったのですけれども、おもしろいと思った批評は、ある文芸評論家の批評です。彼はフランス系の文芸評論家ですから当然出てきたのでしょうが、象徴主義(サンボリスム)の詩の感じということと、もう一つ、「本来の意味での映画の古典主義」というふうなことばを使っていた。ことばというものには日常の会話の中で、本来持っているものの上にいろいろな習慣とか何かがひっついている。あるいは個人の情緒なり感情がひっついていて、結局個人の感情を伝えるためのものか、日常をうまく円滑にするための手段化して、ことばの本来持つものを隠している。そういう意味でのホコリを全部取り払って、ことばに本来の輝きを与えようというのが、いわばサンボリスムだというのが常識だと思うのですけれども、その批評家はブレッソンの映画に、まさに手アカにまみれた映画を本来の輝かしい姿に立ち戻そうという意志を見た、と言っているのです。それは大変正しいと思うんです。その感じというのはブレッソンの映画をいつ見ても、出てくるわけですね。結局、時代その他にかかわりなく、映画の持っている本来の姿を保ち続けているわけですからね。
品田 いろいろな手アカ的なもの、たとえばことばならことばにいろいろな要素がついてくる、そういう属性みたいなものは、状況が変わると変わっちゃうんですね。
浅沼 そうなんですね。だから、ときどきこういう批評を見るんですけれども、レネとかゴダールとかの最近の映画は、いわゆるモンタージュみたいなものの呪縛を全部断ち切ったところに成立している。ところがブレッソンの映画を見ると、大変みごとなモンタージュがあるわけですよ。そうすると、「古い」と言うわけです。エイゼンシュタイン以来のしっぽをくっつけているじゃないか、というんですがそうじゃないんですね。モンタージュというものは一般に言われているように、コンヴェンショナルなものとしてのみ理解されるべきではない。時流に乗っかって映画の表現が動いていったときにポッと出てきたものとしてのモンタージュじゃなくて、映画的なことばが本来持っている、画面と画面の関係をブレッソンはいまでも守っているところが、大きな違いと思うのですね。決して「いわゆる」モンタージュじゃない。
品田 モンタージュがあって、それが一種のテーゼだとすれば、そのアンチとしてモンタージュを全然無視したものが出てくるというような形でつくられている映画というのがあるわけですね。ブレッソンの場合は、ある何ものかに対して自分はこうやるというような、相関的なとらえ方をしていない。
浅沼 そういう意味では、一種の純粋主義者だろうし、映画というものの立場からみた絶対主義者ですね。 (続く)


『バルタザールどこへ行く』(R・ブレッソン)をめぐって 3 如月 - 2006/03/23(Thu) 12:35 No.3190  

(承前)

【ブレッソンとフランスの哲学】
浅沼 最初の『罪の天使たち』は見ていないのですけれども、『ブーローニュの森の貴婦人たち』から『バルタザールどこへ行く』まで、全く変わっていないですね。
品田 よくわからないけれども、ブレッソンの映画に、フランスの哲学とのかかわり合いみたんなものがるんではないか。
浅沼 映画をつくること自体が一種の哲学なんですね。
品田 戦争中に使われた悪いことばだそうですけれども、「哲学する」みたいな、ね。
浅沼 そうなんですよ。映画をつくることが哲学することだ。そういう意味では、本当の意味の映画の思想家じゃないかと思うんです。そういう意味の哲学で問題になるのは、「何が語られたか」であって「どう語られたか」は必ずしも思想とは関係ないと考えられることが多い、内容がよければ少しくらい語り方が拙劣でも、というような区別の仕方をよくやるのだけれども、ブレッソンの場合、語ることと考えることが全く一致している。そういう意味では、最も根本的な哲学を持っている人だと思うんですね。
品田 そういうやり方というのが、かなりブレッソンの場合純粋ですが、一種の主知主義のような流れが感じられるような気もするし、それから、デカルトですか、の言ったクラルテ(明晰)という姿勢みたいなものが、人間というとおかしいけれども、つくっているもの自体の中に肉体的な形であるのではないかと思う。
浅沼 ぼくもそれは賛成ですね。特に、いま言った主知主義的な、あるいは明晰さというものは、ブレッソンの根本的な資質ではないかと思われます。 (続く)


『バルタザールどこへ行く』(R・ブレッソン)をめぐって 4 如月 - 2006/03/23(Thu) 14:15 No.3191  

(承前)

浅沼 さっきドレイエルの話も出したけれども、ブレッソンの映画の内容を考えると、一方でどうしてもドレイエルが出てくるし、他方、神なんかを常に考えているという意味ではベルイマンなんかが出てくる。この三人を比べてみると大変おもしろいと思うんですよ。ドレイエルの場合は一種のミスティシズム(神秘主義)が大変強い。特に『ゲートルート』とか『言葉』とか、ああいう後期の作品や、ごく初期の『吸血鬼』なんからずっと一貫してある。『裁かるるジャンヌ』でも、ああいう描き方の中に神秘的なものがどこか強いですね。ところがブレッソンの場合は同じ『ジャンヌ・ダルク裁判』でも神秘主義のようなものはない。
品田 非常に明晰ですね。
浅沼 一方、ベルイマンの場合は神秘じゃないのだけれども、思い切って荒っぽく言ってしまえば、人間というのを中心においているんですね。神が不在の世界の中で人間がいかに存在し、神を回復しようとしているか、つまり人間のナマな実存というものが問題にされているわけですから、当然そこでは明晰さというよりは、むしろ根源的なものを追求するという性格が非常に強いわけですね。
 その二人に比べるとブレッソンの世界というのは非常に明晰なんですね。
品田 一種のきびしさみたいな面では、いまの三人は共通したものがあるんですけれども、表れ方が全く違う。
浅沼 地上から直ちに離れて神の世界に神秘的に入っていくドレイエルの場合にも、文体というか、そういうものはきっちりあるけれども、明晰な文体ではない。むしろ、一種晦渋というか、ヘタすると冗長になりかねないような文体を持っている。ベルイマンの場合にも、人間の具体的な存在の問題を追及するのですから、当然、セックスその他の問題をどんどん追求していく。ときどきは精神分析的なものが出てきたり、一種混沌とした世界を形づくっている。思い切って言ってしまえば、ドレイエルの場合は現実から直ちに聖なる世界に飛び込もうとするところに一種の神秘性が生まれてくるし、ベルイマンの場合は人間の具体的な生存に、ドレイエルとは逆に、ぐっと入っていこうとするところに彼の世界が成り立っていると思うんですよ。
 ところがブレッソンの場合は、そういう直接的な神とかなんとかへのかかわりというのを持たずに、まず確固とした映画そのものの世界をつくろうとする意志がある。でき上がった映画は大変明晰なものになってくる。神とか聖なるものとのかかわりは、そうして作られた世界が始めて持つわけです。そういうかかわり方をしている点では、新しい古いと言うのはおかしな話だけれども、ベルイマンなどよりかえって現代的であり得ると思うんですね。
 一般的な問題として言うと、例の『抵抗』を論じた文芸評論家のことばにサジェストされて少し考えてみると、もっとはっきり言えばマラルメなどの”ことば”に対する考え方と大変、もちろんブレッソン自身はそんなことは考えていないと思うけれども、ぼくらが脇からみると、共通したものを感ずるんです。マラルメの有名な「詩の危機」(crise de vers)という論文があるんですが、そこの有名なことばで、ナマのことば日常のことばというのは貨幣みたいなものであって、思想交換、感情交換のための手段でしかない。それはそれ自身の存在を持たない。それに対して本来のことば、本質的なことばというのは”何かのための”ことばでなく、ことばそのものであって何かとの交換のためにあるのではない。それはいろいろひっついた思想とか感情とか習慣とかをどんどん落としていったところで純粋化されたことばなんですけれども、どんどん純粋化してみると結局何もなくなってくる。なくなるどころかあるものをなくしてしまうような働きを持ってくる。マラルメはおそらく彼の詩作を通して、ことばの純粋化をどんどんやっていたのだろう。ところがそうしていくと、純粋化されたことばというのは、いろいろな現実の表面的皮相的な、あるいはくっついたものをどんどん消していく力を持ってくるわけで、ことばそのものへの関心から始めた詩作は、次第次第に今度は現実の表面的なものを洗い流していくという力をおのずから持ってしまう。そうすると、向こうに見えてくるのは、現実を越え出た何かではないだろうか。ことばそのものへの関心、その純粋化への試みは結局超越的なもの、聖なるものへの関りを生じるわけですね。マラルメの確固たる硬い主知主義的な詩の世界は聖なるものに対して開かれ、現実に対しては閉ざされているような気がします。そういう性格というのはどうもブレッソンなんかにも、非常に強くあるんじゃないか。
品田 強いですね。ブレッソン自身が好むと好まざるとにかかわらず、あるような感じですね。
浅沼 最初、あるいは、ややフォーマルに映画的な表現への関心があったかもしれないけれども、その追求の仕方が非常にシビアであり、また映画というものの本質を衝いた追求の仕方であったために、おのずからそういう現実を越え出たように世界をめざさざるを得なかった。めざすというか、そういう世界を表わし出すようなことになったのじゃないか、という気もするんです。まあ、これは憶測ですから、どっちが先かわからないが。
 映画が非常に現実的な具体的な芸術だというのも一方では事実だけれども、それがすべてでないということも事実ですし、具体的現実的といっても現実そのものではないわけですから、そこに抽象化の可能性は常に秘められている。映画が現実的だというのも映画に関する単なる俗説ですし、ね。
品田 一種の素朴な信仰みたいなものですね。
浅沼 他方、厳密な反省もなしに、モンタージュはもうだめなんだ、それは終わっちゃったからだめなんだというのも俗説ですし、映画は時間芸術であり、その時制は常に現在形なのだから、現実の意識の流れの表現に非常に適しているというふうな考え、それも俗説にすぎない。そんな俗説を盲信するから、レネの亜流があとをたたないのでしょうね。ブレッソンが一切のそうした俗説から全然自由であるというのは、大変みごとだと思いますね。大体、ことばによって何ものかを表現する時代から、ことばそのものを反省し、ことばそのものの限界とか特性を見据えた上で、ことばによってのみ表現されるものを追求していって、いろいろな要素はつけ加えないという真摯な態度は、一種の、象徴主義以来ずっとつながる、大きな現代的な思想の流れなんですね。そういう意味では、ブレッソンというのは映画そのものへの反省といいますか、映画そのものを対象とし、映画”そのもの”以外を全部捨て、そこで語れるものを語ろうという、これは非常に現代につながるものがあると思うんですね。 (以下省略&引用終わり)


浅沼さんの著作 如月 - 2006/03/23(Thu) 14:22 No.3192  

勝手な引用ばかりでは恐縮ですからご紹介しておきますと、浅沼圭司さんには『ロベール・ブレッソン研究ーーシネマの否定』(水声社)という著作があります。


ちなみに、アメリカ映画ベスト1  - 2006/03/26(Sun) 20:01 No.3197   <Home>

たしか、アメリカの映画関係者(映画監督、脚本家、映画評論家など)の投票による、アメリカ映画のベスト1は、『市民ケーン』だとか…。

それほどの映画だろうか? というのが、私の率直な印象。


『市民ケーン』の意義 如月 - 2006/03/30(Thu) 00:41 No.3220  

『市民ケーン』、観たかどうか記憶が曖昧です。ということは、私はこの映画観てないのかな…。
ところで、『市民ケーン』を語る場合、それまでの映画でなかば絶対視されていたエイゼンシュタイン流のモンタージュ理論に反旗をひるがえし、ワンショット・ワンシークエンスの手法(映画のなかの一つの場面<シークエンス>をカメラを切り替えずに長回しで撮影する手法。これによって場面の連続感、「リアリティ」が出しやすい)で撮影した画期的映画ですから、アメリカの映画関係者は、その歴史的意義を買ったのではないですかね。
ただ、一般論としていえば、エイゼンシュテインも『市民ケーン』を監督したウェルズも、理論にしばられているようで作品そのものに魅力がないような気はしますね。
たとえば、上方のスレッドで紹介しているブニュエルの『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』は、部分的にワンショット・ワンシークエンスの手法を取り入れているんですが、原則にこだわらず、ブニュエルはそれを自在に使いこなしてると思います。


ほほえみの蔭に 投稿者:如月 投稿日:2006/03/20(Mon) 14:15 No.3182  
今朝はブルーノ・ワルター指揮、ニューヨーク・フィルのモーツァルト交響曲第39番、第40番、第41番の演奏を聴きかえした。第39番は1953年12月および1956年3月の録音、第40番は1953年2月の録音、第41番は1956年3月の録音。私的な思い出を書けば、これはいずれも、私が最初に聴いた第39番〜第41番の録音だ。
1月28日付けの記事にも書いたように、私はその後、オットー・クレンペラーの演奏を聴くようになったので、このブルーノ・ワルターの演奏は、もはや用済みで聴くべきものは何もないと思っていた。それが文字通り何十年ぶりかでこれらの演奏を聴きかえしてみると、非常に引き締まったいい演奏で驚いた。そしてこれを機に、オットー・クレンペラーやジョージ・セルのモーツァルト演奏のことも合わせて考えてみた。
ブルーノ・ワルター(1876-62)、クレンペラー(1885-1973)、セル(1897-1970)はいずれもユダヤ人で、第二次世界大戦中にアメリカに亡命しているのだが、比較しながら聴きかえしてみると、この三人の演奏にはある共通点がある。それは音楽のテクストがとても明晰に聴こえるということだ。実は、この「明晰さ」という点はクレンペラー、セルの演奏を語るときには、まず第一に指摘される点なのだが、私には、ブルーノ・ワルターも同じように明晰な演奏をしているように感じられる。
したがって、ここからどうしても、ユダヤ人指揮者の音楽演奏という問題を考えざるをえないのだが、実は、ブルーノ・ワルターらの演奏の明晰さというのは、いわゆる民族的な「血」や感性の問題とは少し違うところからきているように、私には思われる。ではそれは何に由来するかというと、ドイツ社会のなかでユダヤ人が置かれていた疎外と関係しているのではないだろうか。
つまり、ブルーノ・ワルターらが育ち、活動を開始した19世紀末から20世紀はじめのドイツ社会のなかで、ユダヤ人の指揮者が社会に認められようとすれば、音楽的な感性や自己主張の展開の前に、まず技術的な完璧さを身につけなければならなかったということなのではないだろうか。すなわち、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)に代表されるようなドイツ人の指揮者が、自己の感性やドイツ共同体への帰属意識を前面に打ち出すことで、ドイツ人の聴衆の共感を得ていた時代、ユダヤ人の指揮者たち(いずれも先駆者グスタフ・マーラー<1860-1911>に影響されている)が本能的に選んだ方法論とは技術主義ではなかったか、そしてそれは彼らの社会的な疎外と関係していたのではないかと私には思えるのだ(技術をともなわず、自己主張だけのユダヤ人演奏家は、音楽界から排除される。非常に主観的だったといわれるマーラーの演奏は、ドイツ・オーストリア社会のなかで強烈な讃辞と批判を同時に浴びていた。にもかかわらずマーラーが指揮者として第一線で活動できたのは、彼にはそうした主観性を裏打ちする演奏技術の裏付けがあったからではないか。しかし逆にドイツ人の演奏家は、技術を犠牲にして自己主張をとおしても、「ドイツ的」「伝統的」として共同体意識のなかで許容される)。
通常、この19世紀末から20世紀はじめの演奏史は、主観主義と客観主義(新即物主義)の対立を軸に語られることが多いのだが、私にはそれは、事実の一面しかとらえていないような気がしてならない。
つまり、主観主義と客観主義という二分法に従えば、ブルーノ・ワルターは主観主義の演奏家の最右翼にいれられてしまうのだが(そしてクレンペラーとセルは典型的客観派)、実際には、フルトヴェングラー(主観的演奏の代表者)とワルターでは演奏の方向性がまったく異なる(いずれにしても、アルトゥーロ・トスカニーニ(1867-1957)をはじめとする客観主義的といわれる指揮者には、非ドイツ系の人物が多く、彼らは「伝統」の外にいたために客観主義的たらざるをえなかったともいえると思うのだが、この方法論と民族性の関連の問題はもう少し検討を要する課題といえるだろう)。
こうしたフルトヴェングラーとブルーノ・ワルターの演奏の方向性の違いが最も鮮明に出てくるのは、私はモーツァルトの音楽だと思うのだが、モーツァルトの音楽は、主観主義だけでは対応しきれない要素をもった音楽、いやむしろ、全体としてみれば反主観主義的な音楽だと思う。演奏をとおして自己主張する前に、まず音楽をきちんと鳴らし、音と戯れる感覚をもたなくてはならない。したがってフルトヴェングラーは、自己の方法論が適応できないのを自覚して、モーツァルトをほとんど演奏していないと思うのだが、対するブルーノ・ワルターは、20世紀におけるモーツァルト演奏の大家だ。そこで振り返ってなぜブルーノ・ワルターにモーツァルト演奏が可能だったのかを考えてみると、それはワルターの演奏には、単なる主観表現にとどまらない技術の裏付けがあり、モーツァルトの音楽の美を、純粋な音楽美として再現できたからだと思う。ニューヨーク・フィルを指揮したブルーノ・ワルターのモーツァルト演奏は、そうしたことを考えさせるに充分な演奏だ。
では、世にいわれるワルターの演奏の「主観性」とは何なのだろうか。私はそれは、ほんとうは「主観性」と呼ぶべきものではなくて、技術主義にのっとった上での、主観を装った巧みな「演出」だと思う。モーツァルト演奏でいえば、たとえば交響曲第40番1楽章のルフトパウゼ(空中停止)がそれだ。ワルターは、気分によって曲にルフトパウゼをいれたりいれなかったりするのではなくて、ニューヨーク・フィルとのモノラル録音でも、コロンビア交響楽団とのステレオ録音でも(そして有名なウィーン・フィルとのライブでも)、同じところ(第211小節の冒頭)に微かな間を挿入して音楽を息づかせる。技術があり、そのうえ技術を技術と感じさせない細かい演出もあるので、ワルターは人気のある指揮者だったのだ(人気という点だけに限っていえば、技術があっても「演出精神」を欠くクレンペラーやセルは、客観的にいって、現役時代、ワルター以上の人気があったようには思えない)。
ついでに言えば、技術をともなわない観念だけのドイツ系指揮者の典型がカール・ベーム(1894-1981)だと思う。多くの場合、私には、ベームの演奏を聴きとおすのが、正直いって苦痛だ。たとえば、タンタンタンと演奏すべき音符がならんでいるところ、若い頃のベームはタ・タ・タとやや短く演奏し、それが(たとえばワルターにくらべて)謹厳実直と評されていたように思う。しかし私からすれば、ベームの演奏は、歯切れがいいのではなくてリズム感が悪くて舌足らずなのだ。また逆に、晩年のベームは、同じような音符の連なりをタ〜ンタ〜ンタ〜ンと弛緩しているとしか思えない演奏をする。日本には、クレンペラーやブルーノ・ワルターの演奏を、テンポが遅いからというだけで否定する批評家や聴衆もいるが、それは批評になりえてないのではないか。批評というからには、彼らがなぜそうした演奏をするかに立ち入ってテンポを問題とすべきだと思う。この場合、クレンペラーやワルターの演奏からこたえをひきだすのは簡単だ。それは音楽の細部を明晰に伝えたいからだ。クレンペラーやワルターは、いかにテンポが遅くなっても、ベームのようにリズム処理のあまい弛緩した感じのする音を鳴らすことはめったにない。しかし、ベームの演奏に、こうした明晰さを追求する姿勢があるのだろうか。明晰どころか、彼の演奏はしばしば濁った音を鳴らす。
要は、戦後のドイツでベームが高く評価されたのは、ユダヤ人演奏家の亡命とドイツ人演奏家の死亡で人材が払拭し、ベーム以外にはドイツ音楽の「正統」を伝えると考えられる演奏者がいなかったためではないだろうか(ベームの最大のライバルと考えられていたカラヤン<1908-1989>は、反フルトヴェングラーの旗幟を鮮明に打ち出し、カラヤンなりの方向で客観主義と技術重視を打ち出していた)。
したがって、いくら世評が高かろうと、私はベームの演奏はまったく評価しない(若い頃、ベームはブルーノ・ワルターからモーツァルト演奏について学んだというが、いったい何を学んだというのだろう。この二人ほどかけ離れた演奏家はまずいないのではないか)。
そんなことを考えているうちに、ブルーノ・ワルターがつねに語っていたという「ほほえみを忘れず」という言葉も、実は通常考えられているのとは違う意味をもっているのではないかと思えてきた。
これまで私は、この「ほほえみを忘れず」という言葉は、ブルーノ・ワルターの演奏の穏やかさ、優美さに結びつくもので、ある意味でとてもぬるま湯的な標語ではないかと思っていた。しかしそうではなくて、この言葉は、ワルターのユダヤ人的なしたたかさ、生き抜くための計算を示す言葉であって、これを文字通りにうけとって、ワルターの演奏を「つねにほほえみを浮かべた」ものと見なすことは、ブルーノ・ワルターの理解からほど遠いのではないかと思えてきたのだ。
つまり、「ほほえみ」という仮面の下に厳しさを宿した演奏、それがブルーノ・ワルターの演奏の本質ではないだろうか。

(この問題、19世紀末から20世紀のはじめにかけてドイツ思想界で現象学と論理実証主義という新潮流を生み出したフッサール(1859-1938)とヴィトゲンシュタイン(1889-1951)もユダヤ人だということも合わせて考えるべきかもしれない。そして現象学も論理実証主義も、同時期に興隆した新カント主義などと比較しながらあえて分類すれば、「客観主義」を標榜する哲学だ。すなわち、フッサールの言葉を借りて思想界の新潮流の関心をまとめれば、「事象そのものへ(Zu Sache selbst!)」ということになるのではないか。)


早咲きの桜が。 投稿者: 投稿日:2006/03/20(Mon) 00:28 No.3180   <Home>
ご無沙汰しています。
最近は生業が忙しく、歴史の勉強はお休みです。
悪しからずご容赦下さい。ところで、今年の桜の開花予想は、22日とか?
北浦和公園の早咲きの桜が咲いていました。
HPトップに載せました。見てやってください。


Re: 早咲きの桜が。 如月 - 2006/03/22(Wed) 08:41 No.3184  

酒井さん、お知らせありがとうございます。
右後方の立木はまだ裸なのに、桜だけ満開というのはすごいですね。


『夢の城』ーー劇団ポツドール最新公演を観る 投稿者:如月 投稿日:2006/03/16(Thu) 13:56 No.3178  
劇団ポツドール(http://www.potudo-ru.com/)の最新公演『夢の城』を観た(於:新宿THEATER TOPS、3月12日)。
作・演出の三浦大輔が、前作『愛の渦』で第50回岸田國士演劇賞を受賞し、劇団の知名度も一段とアップしての今回の公演だが、ぎりぎりの人間をぎりぎりの表現で再現するという三浦大輔の方向性には少しの後退もなく、すばらしい作品となっていた。

舞台は例によって薄汚いアパートの一室(この薄汚くもけばけばしい舞台美術<田中敏恵>は、毎回のことながら非常にすばらしい。あまりにも薄汚くて、現実をポンと超越している!)。ものがたりは、ある日の深夜から翌日の深夜まで、この部屋から一歩も動くことなく進行していく。
まず描かれるのはこの散らかり放題に散らかった狭い部屋の午前二時。オウジ(米村亮太朗)、エラオ(仁志園泰博)、ウシ(安藤玉恵)ら五人の男と三人の女が雑居し、乱交している。いや正確には、乱交する七人を尻目に、エラオは延々とテレビゲームを続けている。八人の間にはセックスのきっかけなどに関して何かしら会話のようなものがあるように見えるのだが、アパートのヴェランダに向かったガラスの扉が閉まっているために観客にはその会話はなにも聞こえない。
一転して同じ部屋の午前九時半。この場面から最初の場にあったガラス扉は取り外され、観客は部屋のなかに入り込んで八人をまじまじと観察することになるのだが、部屋のなかに入り込んでみれば、会話など何もなく、音が聞こえても聞こえなくても、実はなんのかわりもないということがこの場面で明らかになる。朝が来て、八人はひとり去り、ふたり去りと部屋から出て行くが、だからといって別れの挨拶があるわけではなし、なにごともなかったように部屋が空になっていく。ひとりの女がドライヤーで髪を乾かしている無機的な音だけが舞台に響く。
午後になり、部屋にはまた人が戻ってくるが、そこでも言葉のやりとりは何もない。エラオは延々とテレビゲームを続けている。誰かがゲームを止めてテレビ画面に切り替えるが(ニュースを伝えるテレビの音声は言葉として通常に流れる。そういう意味で、三浦大輔は「言葉」そのものを否定しているのではない)、だからといって別にチャンネル争いがあるわけではない。エラオは他にすることがないのでテレビゲームをしているだけで、別にテレビゲームに「夢中になっている」わけではない。実は私にはこの午後のシーンがひときわ印象的で、つまり、世界のなかでなにかしら「出来事」は確実に起こっているのだが、舞台をとおしてみると、それはテレビのなかの「出来事」にすぎず、登場する八人にはなんの「出来事」もおこらない。八人にとっては、セックスも別れも再会も、単なる物理的な現象にすぎず、会話をかわすきっかけにすらならない。いや、「俺とどうだ」とか「やろうぜ」とか「またな」とか「やあ」とか、そこに会話を入れてみたところで、その「会話」は人と人をつなぐ手段(コミュニケーション・ツール)ではまったくなく、物理的な機械音や単純記号となんの変わりもないということだろう。この芝居で最初から最後まで、登場人物のセリフのやりとりがまったくない(あっても聞こえない)のは、セリフのやりとり(日常会話)がいかに無意味なものであるかを際立たせるためである。
実は、三浦大輔は、二年前の作品『ANIMAL』でも、セリフのない芝居を試みているのだが、『ANIMAL』では、舞台で鳴り続ける音楽があまりにもけたたましく、セリフはあるが観客には聞こえないという設定だった。今回はそれを一歩進めて、セリフを入れても無駄だから一切いれないというところまで徹底している。
夕方、なんとうこともなく女たちが食事をつくりだし、なんとなくみんなそれを食べ始める。もちろん、「食事にしよう」とか「出来たよ」とか「いただきます」などのセリフはない。仮にあったとしても、それは意味伝達、心的コミュニケーションの伝達ということからは完全に無駄であろう(なんの説明にもならない)。そうしたなかで、八人が鍋物をすする咀嚼音だけが、またしても舞台に大きく響く。
そして深夜、繰り返される乱交と雑魚寝。誰かと誰かがすぐ隣で性交していても、なんの関心もよばない。むしろ平然と寝ている男のいびきのかしましさが耳につく。誰かがビデオをつけるとショパンやブラームスが流れる。女(ウシ)が目をさます。そしてすすり泣きをはじめる。そのすすり泣きを横目に、全裸の男たちが性器もあらわに部屋の中で乱舞をはじめる。

感想を書くつもりが、結局あらすじ紹介になってしまったが、ポツドールの公演の感想を書くという行為はほんとうに難しい。
八人の男女が、舞台上で性器もあらわに組んずほぐれつ動き回り、物語としてはそれしかないという意味では、『夢の城』は完全なエロ芝居なのだが(そして今回の公演で、その表現としてのエロ性は徹底している)、この作品にエロティシズムを感じる観客はおそらく皆無に近いのではないだろうか。三浦大輔が舞台に再現するのは、「エロティシズム」とかそういった上品なものではなく、もっと生の物理的な人間のありようだ。そしてその生の人間のありようを再現するとき、三浦は、それを土俗的エネルギーといったかたちで無条件に肯定するのではなく、その生の人間をさらに高いところから突き放して見据えるといった冷たい情熱がある。
つまり、三浦大輔は文字通りの「裸」の人間を舞台に登場させるのだが、それはそうした裸の人間のありようを讃美するためなどではまったくなく、人間を裸にするすることが、彼の問題意識の出発点としてどうしても必要だからというそれだけのことに過ぎない。
そうしたなかで、「人間とは何か」を模索する三浦大輔の方向性がストレートに打ち出されたという点で、私はこの『夢の城』を高く評価する。

人間存在の根底を見続け、またそれを舞台でどのように表現するかという表現の限界を彷徨し続ける三浦大輔の試みは、孤独な厳しいものだと思うが、岸田賞受賞といった外部評価に甘んじることなく、これからもいっさい妥協のない厳しい探究・表現をとぎすましていって欲しいと、今回の舞台を観ながら強く思った。


Re: 『夢の城』ーー劇団ポツドール最新公演を観る  - 2006/03/23(Thu) 02:36 No.3187  

早速ポツドールのサイトを見てDM送ってもらえるように
しました!
劇団演技者はテレビで見て気になっていたので、
ポツドール興味津々です☆

女子バイトより。


大違い 如月 - 2006/03/30(Thu) 00:44 No.3221  

よもぎさんのように勇気のある人が出現すると、私としても紹介のしがいがあります。
ポツドールの舞台、こうして文字で感想を読むのと自分の眼で実際に観るのでは、ほんとうに大違いなんですから。


「「明月記研究」10周年記念シンポジウム」レポート 投稿者:如月 投稿日:2006/03/12(Sun) 15:29 No.3173  
昨日(11日)は、早稲田大学で開かれた「藤原定家と『明月記』―「明月記研究」10周年記念シンポジウム」を聴講した。
パネラーと講演(報告)タイトルは次のとおり。
尾上陽介氏「史料としての『明月記』」
田渕句美子氏「定家と『新古今和歌集』ーー家長本などをめぐって」
五味文彦氏「定家の空間と身体」
久保田淳氏「定家の生活と和歌」
また、司会は兼築信行氏(早稲田大学)と近藤成一氏(東京大学)。
非常に充実したおもしろいシンポジウムだったので、その内容を簡単に紹介してみたい。

   *    *    *

尾上陽介氏「史料としての『明月記』」
尾上氏の報告の骨子は次のようなもの。
『明月記』の原本は、清書された部分と清書前の部分が交互に出現し、清書されているのは定家および息子為家や、仕えている九条家にとって重要な時期である。一方、定家が参議を辞し、為家が定家未経験の蔵人頭となる嘉禄年間以降は、それまで定家自身が細かく書き加えていた首書(記事の内容を「何々事」といった形式で要約し行間上端に付けた見出し)が記入されていない。
尾上氏の区分によれば、清書されているのは、年号でいうと、治承、建久前半、建仁後半〜承元の三期。一方、建久末〜建仁初、建暦年間の記事は清書されていない。
『明月記』に関しては、実はすべて定家が清書したものであるという考え方もあるのだが、当日出席した美川圭氏(冷泉家時雨亭叢書『明月記』編纂者)も、『明月記』の一部は清書されていないという尾上氏の考えに賛意を表明した。そのうえで、美川氏の質問をとおし、古い紙の反古に書き付けた記事は、裏面をも残す意図があったのか、紙背文書は表の記事と関係があるのかが新たな課題として浮上した。
また、首書をつけるかどうかは、日記を記す目的や態度と関連があるのではないかということも尾上氏によって指摘された。つまり、『明月記』の初期の記事は、息子為家が朝廷で定家と同じような地位についたときの参考になるようにと書いていると考えられるのだが、為家が定家以上に出世したため、嘉禄以降の定家の朝廷での行動は、もはや為家の参考にならない。したがって嘉禄以降、定家は自分自身の好尚の問題として日記をつけていると考えられる。この問題は後述する五味氏の講演ともからむ、重要な指摘といえる。

田渕句美子氏「定家と『新古今和歌集』ーー家長本などをめぐって」
田渕氏の報告は、『新古今集』の成立年代に関する新見解で、尾上報告にも劣らない重要な意味をもつものだった。
『新古今集』の伝本には、@竟宴本(元久二年の『新古今集』竟宴の時の本文を伝える本)、A切継時代の諸本(撰者による切継ぎの途中の段階の本文を伝える本)、B源家長本(建保四年に和歌所開闔・源家長が書写させた本、C隠岐本(承久の乱後、後鳥羽院が隠岐でそれまでの本を抄出した本)の四系統の本があり、従来学説では、源家長が和歌所開闔である点を重視し、家長本が『新古今集』の公的な最終完成形体を伝える本とされてきた。
田渕氏は、この家長本をむしろ私的な書写本と位置づけ、また『拾芥抄』に「承元三年六月可施行」とあるところなどに注目し、承元三年から承元四年を『新古今集』の公的完成・披露の年限であると位置づけしなおした(ちなみに、問題となる承元年間の『明月記』の記事は現存しない)。
それにともない浮上するのが「切継時代の諸本」で、従来の位置づけでは、これらは未だ完成していない『新古今集』を、定家ら撰者が私的に書写して流布させてものと考えられていたのだが、田渕氏は、それは逆であり、承元三年に『新古今集』が「可施行」となったので、それを機に数多くの書写が行われたのだとした(つまり、御子左家など歌道家に伝わるいわゆる「切継時代の諸本」こそ、『新古今集』の公的完成形体を示す本である。また実朝が手にした『新古今集』は、従来学説に従えば私的な切継本に過ぎないが、田渕説に従えば、正式本ということになる)。
この田渕説は、『新古今集』の成立史を一挙に書き換えさせる大胆な新説だが、当日出席した研究者から妥当なものとして受け入れられた。

五味文彦氏「定家の空間と身体」
五味氏の報告は、従来の氏の定家研究を振り返り、それがいわば定家の「空間」を主題に展開してきたのに対し、新たな視点として「身体」という概念を導入し、この新視点から定家の人物や時代をもう一度読み直してみたいと思っているということを述べたエッセー的なもの。
そうした新たな視点から、五味氏が現在重要視している重要な概念が披露された。それら概念は、@人の習うべきこと(大事)、A定家の空間と身体の二つの範疇に整理され、それぞれ、次のような下位概念を含む。
@人の習うべきこと(大事)
 A 学問
 B 手書くこと
 C 医術
 D 衣への関心
 E 住宅への関心
A定家の空間と身体
 A 故実
 B 和歌
 C 書
 D 『明月記』

久保田淳氏「定家の生活と和歌」
久保田氏は、冒頭、定家の和歌や日記を定家の身体性の問題に引きつけて読んでみたいという五味氏の考え方に賛意を示したうえで、『明月記』のなかで、そうした定家自身の身体感覚が見事に記されている好きな記事を自由に披露した。

四人の講演(報告)終了後の質疑応答は、尾上氏と田渕氏に集中したが、私は、五味氏および久保田氏に対して、定家の身体性を問題にするならば、速詠の和歌を取りあげてもよいのではないかという主旨の私見を述べさせていただいた。これは、久保田氏の講演のなかで紹介された、定家が夜明け方に殷富門院大輔を訪問したエピソード(『明月記』文治四年九月廿九日条)とも関連するもので、定家には、その折に居合わせた藤原公衡らと詠んだ「一句百首」などの速詠のやりとりがあり(一句百首は建久元年六月詠)、定家の歌の身体性を考えるうえで、こうした歌の存在は重要ではないかとかねてから考えていたため(実は、当日の司会・兼築信行氏には公衡の歌についての研究があるとのことで、シンポジウム終了後の懇親会で、兼築氏から私の質問を興味深くきいたとの感想をうかがった)。
また、尾上報告で出された『明月記』の書き方の二つのスタイル(首書の有無)のなかで、どちらが定家にとり重要なのかという問題とからみ、初期には和歌が速詠などの手法で詠まれることが多く、晩年にはむしろじっくり詠むことが重視されることと、日記のスタイルの問題は合わせて考えるべきではないかという主旨の私見を述べさせていただいた。
以下、質疑応答を離れた完全な私見だが、一般論として、若い時代の定家は、歌では奔放、日記は厳格なのに対し、晩年は、歌は古典的で厳格になり、日記は私的な記事を中心として自在な書き方になっていくという風にとれる点は、定家という人を考えるうえでおもしろいと思う。
また、私は、建久七年の政変後の定家の歌は、(守覚法親王五十首を含め)緊張感が途切れどこかしらなげやりな感じがすると考えているのだが、尾上報告での、まさしくこの時期の『明月記』は清書されていないという指摘と考え合わせると非常に興味深い現象だと思った。ただしこの『明月記』の清書の問題に関しては、清書する意図があったのに清書されなかったのか、清書する意図自体なかったのかは今後の課題とされていることを付け加えておく。


「一句百首」のこと 如月 - 2006/03/14(Tue) 13:17 No.3175  

「一句百首」というのは初耳という方も多いと思いますが、これは建久元年(1190年)の六月末に定家が五時で詠んで慈円に送ったのがきっかけで、後に慈円、公衡(徳大寺実定の実弟、定家の従兄弟)も速詠で唱和した百首歌です(下掲)。
これは百首の歌それぞれに詠み込む言葉とその言葉を詠み込む場所をあらかじめ決めてから百首歌を詠むという企画で、この折の企画では、詠み込む言葉(「春くれば」「けふの子日の」等)に難しいものはありませんから、むしろいかに早く詠むかがポイントで、それと、歌のできばえやオリジナリティーよりも、連想ゲーム的に、同じキーワードからそれぞれの歌人の深層意識的なもの(一種の身体性)が浮かび上がってくるおもしろさで、慈円、公衡の関心を呼んだということがあると思います。
今回の五味文彦さんの講演のなかで、書を手早く書くこと、書きながら考えることの意味が取りあげられましたので、それならば歌を速く詠む「速詠」ということも取りあげられてしかるべきではないかと考えていたところ、たまたま久保田淳さんが公衡に言及されたので、それならばとこの百首歌を例に出して、速詠の身体性ということも考えていいのではないかと申し上げたのです。
実は、当日の司会の兼築信行さんに公衡の研究があるということは不勉強で知りませんでしたが、逆にいえば、兼築さんには私の発言の意図ご理解いただけたかと思っています。兼築さんとは、講演後の懇親会で少しだけお話しさせていただきましたが、互いに、定家の歌集『拾遺愚草』でいえば、普通無視されがちな員外をおもしろく読んでいる(一句百首は員外に入っている)といった点で共感し合いました。

【定家】
春くればいとゞひかりをそふるかな雲井の庭も星のやどりも
わがやどにけふの子日の松植ゑて風まちつけむ末のまつかげ
さてもなほ尋ねてとはむ霞立つみやこのたつみ山のをちかた
とひ来かし一夜ふたよのへだてかは鴬きゐるやどのくれたけ
幾年をつめども更にかはらぬはみかきが原のわかななりけり
 (中略)
門ごとに千世の春とやいはふらむ松きるしづの己がさまざま
春秋やことぞともなきすさびにてさもいたづらに積る年かな

【慈円】
春くれば深山の里の谷の戸も軒のとざしも今朝ぞ明けぬる
数えつる今日の子の日の朝霞小松が枝にたなびきにけり
春と知れば四方の梢も霞立つ山のかひある曙の空
都よりはや来ても見よ山里に鴬来ぬる梅の立枝を
賎の女が年と共にも摘む物は春の七日の若菜なりけり
 (中略)
春は又山より出づと見ゆるかな松切る賎の帰る景色に
何事も昔語りになり果てて宿にも身にも積る年かな

【公衡】
はるくればやどの軒ばをかぜ過てたるひも玉のちるかとぞみる
うちむるゝけふのねのひにことよせてたれもちとせを松とこそしれ
をりをりにみえし煙もかすみたつはるはまがひぬみ山べの里
何事をたえていとはん梅がえにうぐひすきゐるみ山べの里
みな人はおいをのみつむ世中にことしものべのわかなゝりけり
 (中略)
けふはみなさぞ思ふらむみやこへと松きるしづのいそぐ心は
つくづくとおもへばかなし三十あまりあけばよしとてつもる年かな


定家と公衡 如月 - 2006/03/15(Wed) 13:15 No.3177  

ご参考までに、久保田淳さんの講演のなかで紹介された文治四年(1188年)九月二十九日の『明月記』の記事を、今川文雄さんの訓読で引用しておきます(ちなみに、文治四年の『明月記』の記事は、同日を含めて三日分しか残っていない)。

廿九日。壬戌。天陰る。夜に入りて雨降る。良辰徒らに暮る。黙止難きに依りて、黄昏に殷富門院に参ず。大輔と清談。漸く亥の時に及ぶ。人無く寂寞たり。退出せんと欲するの間、忽ち門前に、松明の光ありて参入の人あり。内外相驚く。権中将(公衡のこと;註・如月)参入。語られて云ふ。已に寝に付かんと欲するの間、庭前の木葉忽ちに落ちて、嵐の音を聞く。遂に寝ること能はず。忽ちに出で騎馬し、参ずる所なり。人候ふべからざる由、存ずるの間、件の車を見て、感涙相催すの由。女房感悦す。更に又燈を掌り、連歌和歌等。新中納言・尾張等相加はる。種々の狂言等なり。鶏鳴数声に及んで、雨漸く滂沱たり。遠路、天明けば不便の由、急ぎ出でらる。猶徘徊す。空階雨滴の句、数返。笠を借り手退出す。蓬に帰る間に、天漸く曙く。

大意は、「雨のしたたる(九月の)夜、なにかしらじっとしていることができなくて、ふと思いついて殷富門院大輔を訪問し語り合った。夜も更けて帰ろうとしていたところ、(こんな晩に殷富門院大輔を訪問するのは自分ぐらいだと思っていたのに、思いがけないことに)新中将(公衡)であった。彼が云うには、「寝ようと思っていたが嵐の音を聞いているうちに寝付けなくなって、すぐに家を出てこちらを訪ねたのだ。誰もいるはずがないのに(定家の)車を見て、(やはり自分と同じようなことを考える人がいるのだと)感涙をおさえきれなかった)」という。この偶然の一致には大輔も感悦し、新中納言・尾張などもよんで、朝まで連歌や和歌を楽しんだ」というようなことだと思いますが、久保田淳さんは、この記述のなかに、単なる観念性を超えた、定家の体感がそのままにじみ出ているような一種の生々しさを感じるというのですね。エピソードとしても、定家と公衡、そして彼らと殷富門院大輔の非常に親密な間柄をストレートに示す、とてもおもしろい話だと思います。
このように「雨が降る夜に殷富門院大輔と語り合いたい」という実感を共有しているがゆえに、二年後の建久元年(1190年)、定家が速詠でおもしろい百首歌を詠んだときいては、止むたてもなく、公衡も同じ趣向の百首歌を速詠するのですね。この公衡の「一句百首」というのは、自分と定家の世界がどれだけ違うかを示すために詠んだというより、自分たちが、あるとても狭い世界観を共有していることを確認するために詠んだのではないかと私には思えるのです。定家の百首と公衡の百首というのは、ちょっと言葉につまりますけど、世界観が完全に同じという共通認識にたったうえでのそれぞれの感覚の表出の仕方の違いを楽しむという感じですね。
ですから、この百首歌をそれだけ取りだして「作品」としてどうこう論じることはできないということは定家も充分自覚していて、この百首歌は自己の作品集(『拾遺愚草』)のなかでは「員外」なわけです。でも員外ではあるけど、どうしても捨てることはできない。それは、この百首歌が、歌の楽しみのとあるあり方を雄弁に語っているからですね。
この一句百首や十題百首なんかを読むと、定家がとても楽しそうに歌を詠んでいるというのが強く感じられる。
そしてこの時期の定家が、後に自分の日記をきちんと清書している(尾上報告)というのは、私にはとても示唆的なんです。


久世光彦さんの遺稿 投稿者:如月 投稿日:2006/03/07(Tue) 14:36 No.3168  
去る二日、テレビの向田邦子シリーズなどを手がけた演出家・久世光彦さんが亡くなられました。冥福をお祈り致します。
ところで、久世さんは『週刊新潮』に連載コーナーをもっておられましたが、関係者によれば、今週木曜日に発売される号に掲載の最終回(遺稿)には、四谷シモンの名前も登場するそうです。


一輪の藪椿 如月 - 2006/03/11(Sat) 09:33 No.3170  

久世さんの突然の死によって断ち切られた連載『大遺言』の最終回、読んでみると、山口洋子さんの「春が来たのに さよならね」を引用し、予定された結びではないのに、読者にまるで予定されていた結びであるかのような感を与える、みごとな終わり方ですね。

四谷シモンと小林薫さんの会話はご愛嬌ということで、お知りになりたい方は『週刊新潮』をどうぞ。


Re: 久世光彦さんの遺稿  - 2006/03/13(Mon) 16:53 No.3174  

昔、柏原芳恵さんが、「春なのに、お別れですか、春なのに涙がこぼれます。春なのに、春なのに溜息、また一つ」と歌っていましたが、春は旅立つ時、色んな意味での『別れ』の季節ですね。久世氏の旅立ちは、物悲しくもあり,静かに散り行く花びらのようでした。
 小林薫氏とシモン氏との話に、伊集院静氏が飛び込んで来たのは堪りません。(伊集院氏は苦手ですから)裸の王様の前に、子供が飛び出して来た様な物でした。しかし、山本周五郎氏の名前の由来を見ていたら、面白かったですよ。


「花より工芸」展 如月 - 2006/03/15(Wed) 12:02 No.3176  

四谷シモンといえば、紀伊国屋画廊でのエコール・ド・シモン人形展は、おかげさまで盛況裡に終了しましたが、昨日からはじまった東京国立近代美術館工芸館の「花より工芸」展で同館所蔵の『解剖学の少年』の展示がはじまりました。「花より工芸」展は、5月21日まで開催とのことですので、みなさん、機会がありましたら近代美術館↓ご訪問ください。
http://www.momat.go.jp/


封印された星★展 投稿者:如月 投稿日:2006/03/05(Sun) 09:31 No.3164  
現在、京橋のギャラリー椿http://kgs-tokyo.jp/tsubaki.html(東京都中央区京橋3-3-10第一下村ビル1F、TEL=03-3281-7808)で開催中の「封印された星★展」に四谷シモンが、近作の少女の人形(2001年)と少年の人形(2005年)を出展しています。
「封印された星★展」は巖谷國士さんが『封印された星 瀧口修造と日本のアーチストたち』(平凡社)刊行を機に企画したもので、当初、名古屋で開かれ好評だったため、東京でも同じコンセプトでの展覧会を開催することになったもの。
評論家・瀧口修造さんゆかりのアーチストを中心に、巖谷さん独自の視覚も加味し、さまざまなジャンルのアーチストの作品を紹介しています。
出展アーチストは、四谷シモンの他、加納光於、岡崎和郎、池田龍雄、合田佐和子、上野紀子、中江嘉男、平沢淑子、高梨豊、秋山祐徳太子、荒木経惟、渡辺兼人、金井美恵子、金井久美子、桑原弘明、島谷晃、山下清澄、河原朝生、梅木英治、大月雄二郎、伊勢崎淳の各氏(敬称略)。四谷シモンの作品と、四谷シモンの実弟・渡辺兼人さんの作品(写真)を同時に見ることができるというのも、この展覧会ならではという感じです。
会場には瀧口修造さんをしのぶコーナーも設けられ、遺品の一部もみることができます。
展覧会の会期は3月11日(土)までで、入場無料。
本日(5日)は、会場で巖谷國士さんの講演会も予定されています(要予約、なお本日に限り講演会参加者のみ入場可)。
ちなみに、「封印された星」という言葉は、もともと錬金術の概念で、シュールレアリストにも非常に好まれたタームとのこと。
展覧会の様子は、ギャラリー椿サイト内の↓ページでも紹介されています。
http://kgs-tokyo.jp/tsubaki/2006/060228.htm


Re: 封印された星★展  - 2006/03/06(Mon) 22:50 No.3167  

今日観ましたが、味わい深いものでした。今、アラーキーの作品が思い出せませんが、同じ様な時代を生きている方達の息遣いが聞こえてくるようです。
 それにしても、室温設定が高すぎて、シモン氏のお人形が、乾燥してしまうと思いましたね。
少年も少女も、同じ物を見つめている様です。


意外に強い 如月 - 2006/03/11(Sat) 11:25 No.3172  

紙をメインの素材とする四谷シモンの人形にとって、乾燥は大敵ですが、それでも意外に強いようです。
パリに人形をもっていった時にも、乾燥の懸念があったのですが、無事に帰ってきました。


『津戸三郎為守 法然上人をめぐる関東武者3』を読む 投稿者:如月 投稿日:2006/02/26(Sun) 15:07 No.3161  
浄土信仰の話題から法然の手紙が気になり、たまたま開いた津戸三郎への手紙が縁で、梶村昇氏の著作『津戸三郎為守 法然上人をめぐる関東武者3』(東方出版、2000年)を読んだところ、これが非常におもしろかった。
津戸三郎為守というのは、親鸞の文章(『西方指南抄』)にも、「ツノトノ三郎トイフハ、武蔵国ノ住人也。オホゴ・シノヤ(シブヤ?)・ツノト、コノ三人は、聖人根本ノ弟子ナリ」とある法然の信奉者で、現在伝えられている法然の書状約30通のうち、9通が津戸三郎に宛てたものである。武蔵国在住の御家人と考えられるが、梶村氏の調べでは『吾妻鏡』等の幕府関係史料には登場せず、その経歴等は浄土宗関係の文書から知られるのみである。
さてこの津戸三郎の出自であるが、菅原孝標が国司として常陸に赴任したおりにもうけた男子・為広(有名な菅原孝標女とは異母兄妹)の子ということである。その所領、名字の地は分明ではないが、武蔵国国府(現府中市)近くに小さな所領をもっていたのではないかと推測されている。その根拠は、菅原道真をまつった谷保天満宮(現所在地=国立市)の宮司が、津戸三郎の子孫を名乗っているからである。また、津戸三郎自身、谷保天満宮創建と深いかかわりをもつものと考えられる(同天満宮の縁起によれば、津戸三郎は仁治元年(1240年)谷保天満宮の神主になっている)。
私には、平安末に菅原氏の子孫が三代で武士化するという事態がまず興味深いのだが、浄土宗関係の史料では、その武勲のはじめとして、「津戸三郎菅原為守生年十八歳にして治承四年八月に、右大将(于時兵衛佐)石橋の時、武州より馳まいる」ということが記されている。これはどう解釈したらいいのだろうか。石橋山合戦の折は、頼朝に参じた武士はまだ少なく、源氏とかなり縁が深い武士がこの合戦に参戦したのではないかと私などは考えていたのであるが、この記事が真実であるとすると、必ずしもそうはいえなくなる。武士化して三代の津戸三郎が源氏と深い縁があるようにはまず考えられないからである。そこで私が仮説として考えているのは、武士化して三代では所領も狭小でかつ不安定であり、津戸三郎が頼朝の旗揚げに近い時点で参戦したとすると、所領安堵のために頼朝に賭けてみようという気持ちが強かったのではないかということだ。
さて、この津戸三郎だが、その後の合戦記にもさっぱり登場しない。
次に消息が知れるのは、建久六年(1195)三月に法然のもとをたずね、入信しているということだ。とすると、津戸三郎は、頼朝の東大寺落慶供養の供奉して上洛したと考えられるのだが、『吾妻鏡』の供奉者の名前のなかに、津戸三郎は記されていない。よほどの小名であったためか。
ここから先は、種々の法然伝に津戸三郎が登場するのだが、法然が津戸三郎に向けてたびたび手紙をしたためているのは、入信後、彼はほとんど上洛せず、遠方からさまざまのことを問い合わせてきたためと考えられる。残念なことに津戸三郎から法然に宛てた手紙は残されていないのだが、法然の手紙を丁寧に読めば、津戸三郎が何にとまどい、何を知りたがっていたか、ある程度再現でき、それはとりもなおさず、「法然教団」の実態ということにもなる。
そしてそこから明らかになるのは、法然流の信仰というのは、南無阿弥陀仏と唱えれば誰でも往生できるという理論そのものは単純でわかりやすくとも、信じることが難しいという事実だ。
鎌倉時代における浄土宗の伝播、通常、易行で誰にでも容易に実行できるから簡単に広まったと考えられやすいと思うが、必ずしもそうとはいえないということが、法然の手紙からは浮き上がってくる。
また、法然流の浄土信仰とそれ以前の浄土信仰をわけるメルクマールの一つとして、通常「専修」という要素が指摘されるが、この専修も、強い先祖崇拝をもっていたと考えられる津戸三郎のなかでは、浄土信仰が天神崇拝を完全に退けるものではなかったであろうということに注目する必要がある。もっとも、史料不足から津戸三郎の天神崇拝の実態は不明なのであるが、この点は、興福寺再建に注力した九条兼実が法然の熱心な壇越であったという事実とも整合し、むしろ、兼実だけが雑修を認められた例外ではなかったことを裏付けるものだと思う。


東文彦の覚書より 投稿者:如月 投稿日:2006/02/24(Fri) 13:19 No.3155  
病床で聞く世相には、何かしら現実ばなれのしたもの、いはばお伽噺めいたものが感じられる。それは、病気といふものの持つ、ひとつの特権だらうか。

   *    *    *

神があると確信して揺がないのなら、なにもそんなに声を高くして、神の有ることを叫ぶ必要はないのではないか。これはたしかに脅かされた者の声である。自分の声を高くして、他人の声を耳に入れまいとする臆病者の声である。神は心のひろいものではないか。そして神の御意のままに動かんとするものの心も、ひろくなければいけないのではないか。ところが、この脅えたやうな調子はどうだ。しかもここに語られている神は、いかに抽象的であることか。正義が神の証拠であると云ふが、こゝでは正義が神であるかのやうに語られてゐる。まるで党派の宣伝のやうに。

   *    *    *

 ーーなぜそんなに、きいきい声で叫ぶのか。
 ーー君たちが俺を信じないから。
 ーーきいきい声で叫ぶから、余計、俺には信じられない。

   *    *    *

弱さは、運命と真正面にぶつかるのを避けるところから来る。変つたことを求める、といふのもそれである。

   *    *    *

東文彦、大正九年生。本名タカシ(行人偏に建)。衆議院議員東武の嫡孫。父季彦は法学者で後に日大学長となる。生まれながら病弱で十八歳頃から文彦の筆名で小説を書き出す。学習院の文学同人誌『輔仁会雑誌』に掲載された平岡公威(三島由紀夫)の短編「彩絵硝子」に書面で批評を贈ったのがきっかけとなり、三島との交友がはじまる。昭和十七年、三島および徳川義恭に呼びかけ同人誌『赤絵』を創刊。ただし三島との交友中は絶対安静の時期が多く、田園調布(東)、渋谷(三島)と近くに住みながら、二人はほとんど会っていない。かわりに二人はしきりに文通しており、そのうち三島から東に宛てた書簡は、『三島由紀夫 十代書簡集』として刊行されている(新潮文庫)。
昭和十八年十月、急性胃拡張から腸閉塞を併発し、死亡。
十代の三島作品の最高・最良の読者・批評者で、三島に多大な影響を与えた。昭和四十五年、三島は東文彦作品集の刊行に注力し、みずから序文を書いて、同作品集を講談社から刊行させた(『東文彦作品集』への三島の序は、12月14日付の過去ログ参照のこと)。
上掲覚書は、講談社版の東文彦作品集巻末に伏された「覚書より」のさらなる抜粋。


「悠紀子」 如月 - 2006/02/26(Sun) 00:14 No.3159  

三島由紀夫のペンネーム、昭和16年に三島(平岡公威)の小説『花ざかりの森』が雑誌『文芸文化』に掲載されることが決まった折、伊藤左千夫を思い浮かべながら、打ち合わせの場所(修善寺)に近い「三島」の地名とユキオという響きを組み合わせて決められ、後に「由紀夫」という表記に定まったというのは有名なエピソードです。
ところでこの「ユキオ」という名前が直接何(誰)に由来するのかは必ずしも明らかでないのですが、東文彦の父・季彦氏は、エッセー集『マンモスの牙』(図書出版社、昭和50年)のなかで、ユキオという名前は東文彦の小説『幼い詩人』(昭和15年)の登場人物の一人「悠紀子」から採ったのではないかと推測しているそうです(このエッセー集、私は未読)。
昭和16年前半の三島の東への傾倒からすると、絶対とはいえないものの、ありえない話ではないですね。ただし、三島の書簡を読むと『幼い詩人』という作品への評価は必ずしも高くないことが気になりますが。
ちなみに、『幼い詩人』のなかの悠紀子は、次のような魅力的な考え方をする女性です。

   *    *    *

 急に喋舌りだした悠紀子を、俊輔は初め不思議さうに眺めたけれども、直ぐに一緒に明るい気持ちになつてしまつた。俊輔の目には、悠紀子のこの時の晴れやかな美しさが、神秘的に輝いて見えた。
 ーーいきなりつて、どんなものを描きたいんですか。
 ーー出来やしないの。あたしには出来ないつて分かつてるの、だけど、出来たらどんなにいいだらうと思ふと、描きたくてたまらなくなるの。
 ーーそれぢや何を描いてもいいんですか。
 ーーいいえさうぢやないの。あたしが描きたいと思ふことが、そのまま描けなくつちやいけないの。それがね、普通の静物や景色や人物ぢやないの。そんなものを描くのが、当り前かもしれないけれどね。あたしの本当に描きたいのは、そんなものぢやないの。
 ーーそれぢや何を描きたいんです?
 ーーあたしね。見て描くんぢや嫌なの。頭の中に浮んだまんまを、そつくり描いて見たいの。例へばね、月の光を描きたいの。
 俊輔は驚いた。言葉だけを聞いてゐると悠紀子はまるで、熱に浮かされてゐるやうだつた。けれども、思はず俊輔の目が悠紀子の顔に行つたとき、彼は又その瞳にうたれてしまつた。一点の塵もない、美しい少女の瞳だつた。
 ーー月の光と云つてもただね、水にうつつたりしてゐるのは嫌だわ。それなら上手に描いた人も沢山ゐるんですもの。あたしの描きたいのは、電燈で一ぱい光つてゐる綺麗な街の月夜なの。電燈が目のさめるやうに光つてゐても、一寸した暗い蔭を選んで忍び込んで来る、月の光があるでせう。蒼いやうに、揺れて見えるやうな光なの。(『東文彦作品集』261-2頁)


東文彦に対する三島のおもい 如月 - 2006/02/27(Mon) 12:29 No.3162  

三島由紀夫の「由紀夫」という名前が、東文彦の『幼い詩人』の登場人物「悠紀子」と関係があるかどうかということは、どこまでいっても憶測のなかの議論ということになりそうな気はしますが、自決する覚悟を決めた三島が、東文彦作品集の刊行に力を注ぎ、亡くなる一ヶ月前に序までしたためているというのは、東文彦に対する三島のおもいがなみなみならないものであったということの一つの証拠ではありますね。


神風連とのつながり 如月 - 2006/03/06(Mon) 13:41 No.3165  

今、三島由紀夫研究のなかで東文彦が重要視されているのは、上に書いたペンネームの由来にくわえて、母方の祖父・石光真清(マキヨ、明治元年ー昭和十七年)を通じて、「神風連」に連なる人物だからですね。
三島が『豊穣の海』四部作のなかで、明治九年熊本に起こった神風連の乱を大きく取りあげているのは周知の事実ですが、同時期に起こった同じようなさまざまな動きのなかで、三島がなぜ神風連に着目したかは必ずしも明らかになってはいません。
ところが、石光真清は熊本城下に生まれ、神風連の乱を目撃し、その手記のなかに神風連についてもくわしく記しているのです(現在、中公文庫『城下の人 石光真清の手記一』として刊行)。
三島は、東文彦、石光真清という流れのなかで神風連の乱に興味をもったという蓋然性も高く、それが東文彦の家系の研究と結びついているわけです。

石光真清ホームページhttp://www.ishimitsumakiyo.com/
神風連の乱のページ(熊本城公式サイト内)http://www.manyou-kumamoto.jp/contents.cfm?id=462


Re: 東文彦の覚書より 後鳥羽院 - 2006/03/06(Mon) 21:44 No.3166  

なぜ神風連なのか、わからなかったのですが、なるほど、そういう繋がりがあったのですね。とても興味深く読みました。


石光真清 鈴木小太郎 - 2006/03/07(Tue) 19:24 No.3169  

如月さんの掲示板で石光真清の名前を見るとは思いませんでした。
「城下の人」以下を中公文庫で読んで近代日本の秘められた一面を知ったときは驚きましたね。


『奔馬』取材旅行の謎 如月 - 2006/03/11(Sat) 10:13 No.3171  

後鳥羽院さん、小太郎さん、足跡をつけてくださり、ありがとうございます。

さて、三島は、昭和41年8月に、『豊穣の海』〜『奔馬』取材のために熊本を訪れていますが、この時に訪ねた人物は荒木精之(三島の書簡によれば、荒木には学習院時代からの師・清水文雄の紹介で会っている)で、石光真清関係の人物とは会っていないようです。それからすると、この取材の時点では、仮に事前に石光真清の手記を読んでいたとしても、石光真清〜東文彦というつながりに三島は気づいていなかったということも充分考えられますね。
ですから、その後何らかの経緯で、三島は、神風連〜石光真清〜東文彦というつながりを知り、東との浅からぬ縁に気づかされたとする方が、小説的過ぎるかもしれないけどおもしろい。三島が亡くなる直前に『東文彦作品集』刊行に奔走したという事実も、『奔馬』を書いてから神風連と東の関係に気づいたとした方が、自然に解釈できるような気もします。

| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | |
NO: PASS:

- KENT & MakiMaki -
Modified by isso