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網上戯論
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ロックの『自然法論』 投稿者:如月 投稿日:2005/04/28(Thu) 13:45 No.560  
ロック、コンディヤックの著作、そして一ノ瀬正樹さんのジョン・ロック論『人格知識論の生成ーージョン・ロックの瞬間』(東京大学出版会)を読んでいるうちに、ロックの若書きである『自然法論』を読むことが重要であるということが実感されてきましたので、ここで改めてそれを読んでみようと思います。テクストは、『<世界大思想全集> ホッブス・ロック・ハリントン』(河出書房新社、1962年)所収の浜林正夫さん訳の『自然法論』を用います。
はじめに『自由法論』という著作の位置付けについて、訳者・浜林正夫さんの解説を抜き出しておきます。

「オックスフォード大学を卒業したのち、ロックはその母校であるクライスト・チャーチ・カレッジのギリシャ語講師となり、このころ(1660年)、「宗教的礼拝にかんする非本質的なことがらの使用を行政者は合法的に命令し決定しうるか」、「聖職者」、「教会」およびこの「自然法論」など、いずれも未完のいくつかの論文を執筆した。1665年、ロックは大学をやめ、ブランデンブルク選帝候への大使ウォルター・ヴェーンの秘書として大陸へわたった。こういう政界との接触のうちに、ロックはアンソニー・アシュリー・クーパー(のちのシャーフツベリ伯)と知りあい、その秘書のような仕事をするようになるが、このころからロックは、復古王朝への支持をやめ、次第にこれに対して批判的な態度をしめしはじめる。1667年に執筆されたといわれる「宗教的寛容にかんする小論」には、ここに訳出した「宗教的寛容に関する書簡」の基本構想がもりこまれているといえよう。同時にロックはこのころ数人の友人と研究会をもち、道徳や宗教についての議論をかわしながら、そういう道徳律の認識の方法を問題とするようになり、そこから哲学へ関心をむけはじめた。その哲学研究の足どりは、二つの「人間悟性論草稿」(1671年)、フランス旅行中の日記(1675年−76年)に、よみとることができる。」

「この「自然法論」はロックの思想体系を解明するうえに、いろいろな意味で重要な意義をもっている。よく知られているように、「統治二論」におけるロックの政治思想の根底には自然法思想があるのであるが、しかし自然法を体系的にあつかった書物は、ロックにはない。そのため、「人間悟性論」における経験論と「統治二論」における自然法論とは矛盾するのではないか、というような疑問がだされることが多かった。この「自然法論」はこういう疑問に一応の解答を与えるものである。すなわちここでロックはすでに認識論的には経験論の立場にたっており、ーーただし第一、第二論文ではまだそれは不明確であるがーー、しかも同時に感覚・経験から普遍妥当的自然法の認識にたっすることができる、と主張しているのである。」

「しかしこの「自然法論」におけるロックの認識論は、「人間悟性論」におけるそれにくらべると、まだ粗雑なものだ、ということをつけ加えておく必要があるだろう。(中略)さらに自然法の内容についてみると、後期のロックの考え方とのあいだに、いくつかの重要な違いがあることに気づく。(中略)しかしだからといって、わたくしはそれを、ロックの変節とか転身とかと考えているのでは決してない。むしろまったく相反するようにみえる初期と後期のロックの政治的立場を、一貫して貫いているものを、われわれはよみとらなければならないであろう。それは、ごく簡単にいってしまえば、革命の民衆的ないきすぎにも、絶対王政の反動化にも反対するブルジョア階級の立場なのであって、ロックの経験論と自然法思想は、いわばそういう両刃の剣なのである。王権神授説と革命的ピュウリタニズムのいずれにも加担せず、すべてを白紙にかえし、ーー人間は生まれたときは白紙のようなものだからーー、健全な悟性と感覚・経験とがみちびきだす普遍的秩序の存在を、すべての人に納得せしめようとするロックの努力は、そこからでているものであり、そしてそれにかれは一生をついやしたのであった。この「自然法論」はそういうロックの生涯の努力の出発点を、まざまざとしめしてくれているという点に、一番大きな意味をもっているように思われる。」

なお、八編の『自然法論』は1942年にはじめて公刊された著作であり、その各編の表題(内容)は次のとおりです。

 @「道徳の規則、あるいは自然法はわれわれに与えられているか、与えられている」
 A「自然法は自然の光によって知ることができるか、知ることができる」
 B「自然法は人びとの心に刻みこまれているか、刻みこまれていない」
 C「理性は感覚・経験によって自然法の認識に到達することができるか、到達できる」
 D「自然法は人びとの普遍的な同意から知ることができるか、知ることはできない」
 E「人びとは自然法によって拘束されているか、拘束されている」
 F「自然法の拘束力は永久で普遍的であるか、永久で普遍的である」
 G「各個人のそれぞれの利益は自然法の基礎であるか、基礎ではない」


キケロの自然法観 如月 - 2005/04/28(Thu) 13:48 No.561  

ちなみに、自然法を論ずるにあたってロックが意識しているキケロの『国家について』の一節に関しては、次のマブリ『市民の権利・義務について』の緒言をご参照ください↓。
http://www.furugosho.com/precurseurs/mably/droits-devoirs.htm


ロック『自然法論』第一編の要旨  如月 - 2005/04/29(Fri) 17:23 No.562  

一、道徳律、あるいは自然法はわれわれに与えられているか。与えられている。

至善にして至高なる神について考え、いついかなるところにおいても人類全体が変わることなく意見が一致していることを思い、あるいは自分自身のことやみずからの良心について反省してみさえすれば、何人も、人間に法則が与えられていないとは信じないであろう。
自然法は、自然の光によって見出される神の意志の命令であり、何が理性的な自然に合致するか、また合致しないかをしめし、それらを命じたり禁止したりするものである。自然法が理性の命令だというのは不正確であり、理性はこの法の立法者ではなく解読者たるにとどまる。
自然法の存在は、まず第一に、アリストテレス『ニコマコス倫理学』第一巻第七章の「人間に特有な働きとは精神の能力を理性の原理にしたがって積極的に働かせることである」という記述から認められる。
これに対する、「自然法はどこにも見出しえないから存在しない」という反論にはどう答えたらよいか。
1.実定法の場合も、盲人は読むことができない。自然法は理性によって知られるが、だからといってどんな人にも知られるということにはならない。
2.自然法とは何であり、その本当の周知の命令とは何であるのか、ということについて、理性的な人のあいだにも完全な意見の一致はないけれども、だからといって自然法が存在しないということにはならない。
以下、自然法の存在に関する他の証明である。
第二に、自然法の存在は人々の良心からみちびかれる。つまり、「悪事をおかしたものはみずからの裁きからのがれえない」という事実からである。
第三に、すべてのものが一定の運動法則と、それぞれの本質にふさわしい生存の様式とにしたがっているという、この世界の構造そのものからみちびきだされる。
第四に、人間の社会ということからみちびかれる。自然法がなければ、人間は相互に社会的な接触や結びつきをもちえない。人間の社会の基礎には、一定の国家制度と統治の様式および契約の履行という二つの要素がある。国家の実定法の拘束力は、それ自体の本質または力によるのではなく、上位者への服従と公共の平和の維持とを命ずる自然法の力にのみよっている。
第五に、自然法がなければ美徳も悪徳もなく、善のむくいも悪の罰もない。


ロック『自然法論』第二編の要旨 如月 - 2005/04/29(Fri) 18:07 No.563  

二、自然法は自然の光によって知ることができるか。知ることができる。

われわれは、われわれがこの自然法を認識する方法は、他の認識の方法と異なり、自然の光によるものである、と主張する。しかし自然の光が自然法をあきらかにするというわれわれの主張は、人間の心のなかに自然的に光がうえつけられ、それがたえず人々にその義務を思いださせ、そのすすむべき道に迷うことなくまっすぐにみちびいていくという意味に解されてはならない。われわれは、この自然法があたかも書板にかかれたもののように、われわれの心のなかにあり、内面的な光がそれに近づくと、(まるで松明をかかげて暗闇の掲示板を読むように)、ただちにこの法がこの光の輝きでこまかに読みとられ、識別され、注意をひく、というようなことを主張しているのではない。むしろ、自然の光によって与えられた諸能力を正しく用いるなら、他人の助けを借りず、自分一人の力で認識しうるようなある種の真理が存在するという意味にほかならないのである。
認識には次の三種類がある。生得的知識(inscriptio)、伝承的知識(traditio)、感覚的知識(sensus)である。理性は有力な推理能力ではあるが、まずはじめに何物かが意識のなかにおかれ真実と認められているのでなければ、理性は何をすることもできない。
生得的知識については、当面、人がその理性と自然が与えた生得的能力とを正しく利用するなら、その義務について先生の教えをうけたり、他人の忠告をうけたりしなくとも、自然法の知識をえることができる、ということが証明されれば十分であろう。
伝承的知識については、@相対立する伝承のうちには非常にいろいろなものがある、A自然法が伝承によって知りうるならばそれは知識というより信頼の問題になる、B伝承にはかならずその作者があるの三点から反論できる。
残る感覚的認識については、これこそ自然法の認識の基礎であると考える。しかしこのことは、自然法がどこかに明示されていて、われわれがこれを目で読み、手でさぐり、あるいはその告示を耳できく、という意味では決してない。そうではなくて、われわれがいまもとめているものは自然法の認識の原理と源泉、およびそれが人類に知られる方法なのであって、その認識の基礎がすべて感覚をとおして知覚されるものからえられる、ということを主張しているのである。
しかし、もし自然法が自然の光によって知られるのであるなら、実際には非常に多くの人がこの法を知らず、また大ていの人が自然法について異なった考えをもっているのはどうしてなのであろうか。
こういう反論に対しては、われわれの精神能力がこの法の認識にいたりうるとしても、すべての人が必ずしもこれらの能力を正しく使うということにはならない、というのがわれわれの回答である。こういう宝物は、怠けものや無精ものの手にははいらないし、一生懸命さがしている人の手にさえはいるとはかぎらない。一生懸命苦労して何もえられない人もいるのである。


ロック『自然法論』第三編の要旨 如月 - 2005/04/29(Fri) 18:33 No.564  

三、自然法は人々の心のなかに刻みつけられているか。刻みつけられていない。

以上において、自然法が存在するということ、そしてこの自然法は伝承によってではなく、自然の光によって知りうるということが証明された。次に、この認識の起源を探究し、生まれたばかりの赤ん坊のたましいがまるで白紙のようなもので、大きくなるにつれ観察と推理によってそれに知識が書き加えられていくのか、それとも生まれたときから自然法が刻みつけられ義務のしるしとなっているのかを研究することは、努力するにふさわしいことであろう。しかし以下の議論は、そのような心のなかに刻みつけられた自然法というものは存在しない、ということをしめしている。
@人々のたましいが生まれたときから、あらゆる種類の文字を書きこむことはできるけれども自然的には何も刻みつけられていないところの白紙以上のものであるということは、多くの人々の努力にもかかわらず、なお証明されていない。
A自然法にかんして人々の意見は非常に異なり、自然と正しい理性の規則はところによって異なり、同じことがある人々のところでは善とされ、他の人々のところでは悪とされ、ある人々は別のものを自然法とし、他の人はこれを否定し、すべての人が自然法を漠然としたものだと思っている。
Bもしこの自然法が人々の心のなかに刻まれているとすれば、幼児や文盲の人々や、原始人で制度も法も知識もなく、自然にしたがって生活している人々こそ、もっともよくこの法を知り、理解しているはずであるのに、そうではない。
C愚者や狂人は自然法の知識をもたない。
Dもし自然法がわれわれの心のなかに書かれているのなら、実践的な原理だけでなく思弁的な原理もまた、刻みつけられていると考えられなければならないであろう。だがこの証明は困難である。


ロック『自然法論』第四編の要旨 如月 - 2005/04/29(Fri) 20:19 No.565  

四、理性は感覚をとおして自然法の認識に到達することができるか。到達することができる。

以上において自然法が自然の光によって知られうるということが証明された。しかしこの自然の光は暗闇のなかにかくされており、その本質を知ることはそのみちびきにしたがうことよりもっと難しいので、この暗闇をはねのけ、明るい光のもとに目をひらくことは、十分その努力にあたいする仕事であるように思われる。
すでにのべたように、この自然の光は伝承でもなく、また自然によって心に刻みつけられた内面的な道徳原理でもないのだから、それは理性と感覚以外の何ものでもありえない。ここで理性というのは何らかの道徳原理の意味ではなく、また、われわれの行動がそれに合致したときに正しい理性にしたがったといわれるような意味での、心のなかの命題でもない。ここでいう理性とは、精神の推理能力の意味であって、既知のものから未知のものへすすみ、一定の秩序だった命題にしたがって、あるものから他のものへと議論をすすめていく能力のことである。しかし、理性が建設し天高く築きあげる知識の体系の土台となっているものは、感覚の対象なのであって、感覚こそが、まずはじめに推論の最初のかつすべての対象を提供し、精神の奥ふかくこれをみちびきいれるのである。
さて、感覚によってあきらかになる第一のことは、自然界に知覚しうる対象が存在することである。この知覚しうる世界はおどろくべき巧みさと規則正しさをもって構成されており、われわれ人類もこの世界の一部であることがあきらかである。
第二に、精神は、感覚が知覚したこの世界の構造を注意ぶかく考察し、その対象の美しさ、秩序、排列、運動を考慮して、その源泉の探究へすすみ、こういうすばらしい作品の原因、製作者は誰であるのかを見出そうとする。
次に、すべてのものには創造者があり、しかもそれは強い力をもつのみでなく賢明でもあることを認めなければならない、と結論すべきであるなら、この創造者がこの世を無為無目的につくったのではない、ということになるであろう。
人間がみずからのうちに感覚と理性を見出すなら、かれはすすんで神の作品と、それがあらわしている神の叡智と力とを考え、かくも偉大で恵みぶかい創造者にまつたくふさわしい賞讃とと崇拝と栄光を神にささげるであろう。さらにかれは、生活の経験とさしせまった必要とのみから、他の人々との社会生活をなしこれを維持しようとするのみでなく、生まれつきの性向からも社会に入りこみ、言語能力および言語による人との接触によって社会を維持し、自分みずからの生命を維持するのと同じくらい社会の維持につとめようとする。


ロック『自然法論』第五編の要旨 如月 - 2005/04/29(Fri) 21:18 No.567  

五、自然法は人々のあいだの一般的同意から知られるであろうか。知られることはできない。

「民の声は神の声」。われわれはこの格言がどんなに疑わしく誤っており、いかに弊害を生みだし、またこの不吉な諺がどんなに党派的に利用され、悪意をもって大衆のあいだにひろく流布されたかを、最近のきわめて不幸な教訓から学んだばかりである。われわれが理性の命令と自然の命令を人々のあいだの一般的同意にもとめることは無益である。
ところで人々のあいだの一般的同意はいろいろに考えうるが、まず第一にそれは実定的な同意と自然的な同意にわけることができる。
実定的な同意というのは契約によるものであり、自然の原理からみちびきだされたものではないから、こういう形の一般的同意は自然法ではない。外交使節の通行の自由や交易の自由、国境線の定めや特定の商品の購入や輸入の禁止などは、むしろ万民法とよばれるべきであり、共通の便宜のためにもうけられたものなのである。
第二に自然的な同意であるが、これには次の三つの種類がある。
@道徳や行為にかんするもの、すなわち、人間の道徳的行為や社会生活の実践の基準となるもの。
A意見にかんするもの。これに対し、人々はいろいろな方法で、あるものにはしっかりとまた必ず同意し、他のものには不安そうに弱々しく同意する。
B第一原理にかんするもの。これは健全な精神の持主なら否応なくただちに同意し、その意味を理解すれば、狂人でないかぎりその真実性を何人も疑わないようなもの。
@そこでまず第一に、道徳にかんする一般的同意についていえば、それは決して自然法ではない。何故ならもし正しいこととか合法的なこととかが人々の生活様式によってきまるとするなら、道徳的正義とか誠実とかいうものはなくなってしまうだろうから。もし多数の人のおこないが法となるのであれば、どんな不道徳なことでも認められ、避けられなくなってしまうであろう。
A次に人々の意見のうちにあると思われる一般的な同意の検討にうつろう。貞節と純潔、両親に対する義務、自己保存、これらの根本的な原理についてさえ人々の意見が違い、神や魂の不滅性についてさえ疑いをもつ人々がいるのだから、正義や善について考え方が違うのは当然のことであろう。神や魂の不滅性が道徳的命題あるいは自然の法でないとしても、自然法がもし存在するとすればそれらは必ず前提されなければならない。したがって、自然法が人々のあいだの一般的同意からは決して帰結しえないことは、まったくあきらかである。第二に、もしある意見について人々のあいだに完全なかつ普遍的な同意があるとしても、だからといってこの意見が自然法だということにはならない。何故なら、各人が自然法をみちびきだすのは、自然の第一原理からであって、他人の信念からではないからである。
B第三の種類の一般的同意については、道徳的事実に関係がないので、ここでは述べない。


ロック『自然法論』第六編の要旨 如月 - 2005/04/29(Fri) 22:26 No.568  

六、人間は自然法によって拘束されているか。拘束されている。

ある人々は自然法をすべて各個人の自己保存ということへ還元し、その基礎を、各人が自分を大切にし、できるだけ自分の安全と幸福をもとめようとする愛と本能にだけおこうとしているが、すべての人は自己保存にはまったく熱心で一生懸命なのだから、自然法というものがどういう拘束力をもっているのか、それはどのぐらい拘束的なのかは、研究にあたいすることであろう。何故なら、もし自然法全体の源泉と起源が自分自身への配慮と保存であるのなら、美徳は義務というよりは便宜となり、人間にとって有用なものだけが善いものとなるだろうし、この法を守ることは、われわれが自然によって拘束された義務や責任でなく、われわれの便宜のための特権や利益になるであろうから。
自然法がどのようにして、またどの程度拘束的であるかを知るためには、まず、義務にかんする若干の事実をあきらかにしておかなければならない。法律家は義務を次のように定義している。すなわち、義務とは人が当然なすべきことをなさなければならぬようにする法の拘束である、と。この場合の法とは実定法の意味であるが、しかし法を、いまその拘束力を定義しようとしているあの自然法の意味に解しても、この定義はあらゆる種類の義務をたくみに叙述しているのである。
ところで法の拘束はわれわれにわれわれの義務をはたすよう要求するのだが、この義務は二重である。第一に、忠実に服従するという義務、すなわち、上位者の命令のままに何ごとかをなし、またはなさないという義務である。この義務の源泉は、一部は立法者のすぐれた叡智のうちにあり、一部は創造者がその被造物に対してもつ権利のうちにある。第二は、刑罰に服する義務である。
すべての義務は良心を拘束し、精神それ自体に負担を課するのであって、刑罰の恐れではなく、正義にかんする理性的な理解がわれわれを義務づけるのであり、道徳については良心が判決をくだし、われわれが罪をおかしたときには、良心が罰を宣告するのである。
ものごとの拘束性のうちには、それ自体として内在的な力によるものと、間接的に外部の力によって拘束するものとがある。
@それ自体として内在的な力によって拘束するものは、神の意志である。それは自然の光によって知られるか、あるいは神の霊感をうけた人によって、またはその他の方法で啓示されるかのいずれかであるが、先の場合はわれわれがいま論じている自然法であり、あとの場合は神の実定法である。
A間接的に委託された力によって拘束するのは、神以外の上位者の意志であって、それが国王であれ両親であれ、われわれは神の意志によってそれに服従するのである。神以外の立法者が他人に対してもつ支配権は、立法の権利にせよ服従義務を課する権利にせよ、神から借りたものであって、神がそのように命じ意志するからこそわれわれに服従の義務が生ずるのであり、かれらに服従することによってわれわれは神に服従しているのである。
このように考えてみると、自然法の拘束力は第一次的であり、それ自体の内在的な力によるものであって、このことは以下の議論によって証明されるであろう。
@自然法は法の拘束力を構成するのに必要なすべてのものを含んでいる。この法の立法者である神は、この法がわれわれの道徳的生活の規則となるように意志し、またこれを十分にしらしめたのであるから、真面目に研究しこの法の認識に心を用いるものなら誰でも、この法を理解することができる。したがって、義務を課するのには、支配者の権威と正当な権力とその意志の公示以外には何ものも必要とされないのだから、自然法がすべての人を拘束するということは、何人も疑いえないところである。
Aもし自然法が人々を拘束しないのなら、神の実定法も拘束力をもたないはずである。
Bもし自然法が人々を拘束しないのなら、人間の実定法も拘束力をもちえないのである。われわれが国王にしたがうのは、国王が強い力をもち強制することができるからといって、それを恐れているためでなく、(もし恐怖から服従するのであれば、暴君や泥棒や海賊でもその権威を確立することになるだろう)、国王がわれわれを支配する権利をもっているという理由により、良心によって服するのである。すなわち、自然法が、国王や立法者やその他いかなる名でよばれようと一切の上位者にしたがうよう命ずるから、なのである。


ロック『自然法論』第七編の要旨 如月 - 2005/04/30(Sat) 00:17 No.569  

七、自然法の拘束力は永遠で普遍的であるか。永遠で普遍的である。

自然法と人々の義務の根拠とについての人々の意見がいろいろあるということは、すべての人々がおそらく一致して認める唯一のことであろう。この事実は、言葉のうえであらわされないにしても、道徳的行為が非常に多様だということのうちに、よくしめされている。わずかの数の人々や私的な立場の人だけでなく、国民全部に法律観念や道徳的正義がみられないような場合が、いたるところにあるのである。またそのほか多くの国民は、自然法の命令の少なくともある一部を無視して罪悪感をもたず、あるいは正しく考え自然にしたがって生きている人々にとってはまったく嫌悪すべき犯罪を容認し、これをおかすことを賞讃さえするのである。こういう状態であるから、人々が一定のはっきりした考えをもたず、きわめて多様な制度になれ、衝動的にまったく相反する方向へ走っているのをみると、自然法が全人類を拘束しているのだろうかという疑いが生ずるのは当然であろう。
われわれは先に、自然法は道徳的に拘束的なものとして与えられていることを論証した。いまや、それが実際にどの程度拘束的であるかを論じなければならない。
第一にいえることは、自然法の拘束力が永遠的であること、つまり、この法の命令に反して行動してもよいという期間はない、ということである。
しかし自然法の拘束力について次の諸点が注意されなければならない。
@窃盗、殺人のように、完全に禁止されており、われわれが永久に拘束されているところのものがある。
A神をうやまいおそれ、両親にやさしい愛情をしめし、隣人を愛するというように、われわれがある感情をもちつづけるように自然法が要求することがらがある。これらにもわれわれはつねに義務づけられている。
B神をうやまう形式とか、隣人の苦しみをなぐさめるとか、悩んでいる人を助けたり、飢えている人に食物を与えるとかいうように、外部にあらわれる行為が命ぜられることもある。こういうことについては、われわれはたえまなく義務づけられているわけではない。
C隣人と会話をしたり、他人のことに干渉することのように、行為それ自体が要求されるのでなく、それにともなう環境によってのみ義務が生ずることがある。
次に自然法の拘束力が普遍的だということであるが、これは自然法のすべてがすべての人に対して拘束力をもつということではない。自然法の命令のうち、絶対的で、窃盗とか淫乱とか中傷とか、あるいは他方、宗教や慈善や誠実などをふくむもの、その他これに類するものは、世界中のすべての人を、国王でも臣民でも、貴族でも平民でも、親でも子でも、野蛮人でもギリシャ人でも、すべての人を拘束する。しかし人々のいろいろな状態や人々のあいだの関係にかかわるような自然法は、私的公的な機能の必要に応じて人々を拘束する。
以上の考え方にもとづいてわれわれは、自然法の拘束力があらゆる時代をつうじ、全世界をつうじて不変であり同一である、と主張する。もしこの法がすべての人に拘束的でないとするなら、その理由は、この法が人類の一部には喜ばれていないからか、またはこの法が廃されたからか、のいずれかであろう。しかしこのことは二つとも考えられないことである。
自然法の拘束力が普遍的であることをしめすもう一つの議論は、帰納的に、すなわち、もしこの拘束力がどこかおよばないところがあるとすればどんな不便が生ずるか、ということからえられる。もしそうなれば、宗教もなくなり、人々のあいだに社会もなく、誠実さもなく、その他無数のそのようなことが生ずるであろう。しかしこのことについては簡単にこれだけふれておけば十分である。


ロック『自然法論』第八編の要旨 如月 - 2005/04/30(Sat) 01:25 No.570  

八、各個人の利益は自然法の基礎であるか。そうではない。

自然法を攻撃して次のような議論を用いる人がある。「人々が法律をつくるのは自分の利益のためであり、それはそれぞれの風俗習慣によって異なり、同じ国民のあいだでもときに応じて変わってくる。すべての人はほかの動物と同じように内部的な衝動によってみずからの利益をもとめるのだから、自然法は存在しないし、また自然の正義の法というようなものも存在しない。もしそんなものがあるとすれば、それはまったく愚かなものであって、他人の利益のことに気をつかっていると自分自身を傷つけることになる」。こういう議論はかつてカルネアデスがそのアカデミーで主張したものであった。しかしこのきわめて有害な意見は、たえず、もっと理性的な人々の反対をうけてきたのである。
ところでもっとこまかく問題を規定するために、まずはじめに言葉の説明、すなわち自然法の基礎とはどういうことか、各個人の私利とは何か、を与えておかなければならない。第一に自然法の基礎というのは、自然法のそれ以外の、あまり明白でない一切の命令がその上にうちたてられ、そこから何らかの方法でみちびきだされるところの、基底という意味である。つまりそれは、根源的な基本法である。
第二にわれわれが、各個人の私利が自然法の基礎ではないという場合、それは決して、人々のあいだの公正という共通原則と各個人の私利とがたがいに対立している、ということをいっているのではない。何故なら各個人の私有財産のもっとも強力な保護は自然法だからであり、自然法を守ることなしには誰もその財産を所有しその利益を追求することはできないのである。しかしそれにもかかわらず、各個人がそれぞれの環境に応じてみずからの利益になると思うことを勝手にやってよい、とはわれわれは考えない。
したがって、問題の中心は正確には次のとおりである。各個人がそのときどきに自分と自分の生活にとって有利と考えるものが、自然法に合致し、したがってその個人にとって合法的であるばかりでなく不可避であるということや、また自然的にはいかなるものも何らか直接に個人の役にたつのでないかぎり拘束性をもたないということは、ほんとうであろうか。われわれはこのことを、次の三つの理由で否定する。
@自然法の基礎、あるいは主要な法となるものは、それ以外の自然法のなかでもっとも普遍性の少ないものの拘束力の土台となるものでなければならない。もし義務の根拠が利益におかれ、便宜が正義の基準として認められるなら、それはあらゆる悪事に門戸をひらくことになるのではなかろうか。
A自然法の根本的なものが、必ず侵害されるようなものだ、ということはありえない。しかしもし各個人の私利が自然法の基礎だとするなら、この法は必ずおかされるだろう。この考え方によれば人々が自然法によって戦争状態にあるといわれ、あらゆる社会や社会のきずなである信頼がすべてなくなってしまうのだが、そうなると必然的に、人々の争いという結果が生ずるのである。公正と正義が効用と同じものだとすれば、約束を守る理由はなくなり、社会の保障も、人々の共同生活もなくなってしまうだろう。各個人が他人からあらゆる手段によって他人のものを奪ってもよいとされ、さらに奪わなければならないとされるなら、そして他人もまた自分のものを安全に守らなければならないとするなら、人々のあいだには、偽瞞、暴力、憎悪、略奪、殺害などのほかに、どんな関係がありうるのであろうか。
Bここで第三の論点が生ずる。すなわち、正義と友好と寛容がすべてとりさられるような原理を、自然法の基礎として認めることはできない、ということである。
ある反対論者はいうかもしれない。もし自然法と生活の義務を守ることが、必ず有益なことになり、自然法にしたがっておこなうことが、直接間接に必ず大きな利益を生みだすのなら、自然法の基礎は各個人の私利となるのではないか、と。
この反論に対するわれわれの答えは次のとおりである。効用は法の基礎あるいは義務の根拠ではなく、法にしたがったことの結果である。ある行為がそれ自体として何らかの利益を生むということと、それが法にかなうがゆえに有用であり、法がなければ何らの効用ももたないということ、たとえば、自分の損になることであっても約束を守るというようなこととはまったく別のことである。われわれは行為それ自体と法にしたがう行為とを区別しなければならない。行為の正しさはその効用によるのではなく、逆にその効用がその正しさの結果なのである。


イギリス経験論の起源 投稿者: 投稿日:2005/04/24(Sun) 18:59 No.551   <Home>
…を考えるのも面白いですよね。ちょっと脱線してしまいますが…。


Re: イギリス経験論の起源 如月 - 2005/04/25(Mon) 08:47 No.555  

近世哲学における「経験論」に関しては、下方のスレッドで慧遠さんも書かれていますが、フランスのガッサンディ(1592-1655)がまず大きな役割をはたしていますよね。で、これまたフランスでは、コンディヤック(1714-80)がロック(1632-1704)の思想を受け継いだということになっているわけです。ですからまず、「経験論」をイギリス独自の思想としてしまう、通常の哲学史の学説区分が妥当なものであるかどうか、問題にしなくてはならないのではないでしょうか。
イギリスに限定して考えても、たとえば、ロックの後に登場するバークリー(1685-1753)の思想を「経験論」という枠の中だけで考えられるのかという問題が生じてきます。またバークリーは、フランスのマールブランシュ(1638-1715)と論争していますが、論争の過程を経て、マールブランシュ説がバークリーの思想のなかに取り込まれていったという指摘もなされるわけです。
ですから結局、イギリスは「経験論」、大陸は「合理論」という大区分そのものがある意味で恣意的なものじゃないか、そうした既存の枠組みにとらわれる必要はないんじゃないかという気が、私はしています。そうじゃないと、ロックとライプニッツの論争なども、きわめて理解しにくいのではないでしょうか。
で結局、「イギリス経験論」と「大陸合理論」といった学説整理は、19世紀のドイツあたりで生まれたものなんじゃないですか。それにしばられて17〜18世紀のテクストを読んでいっても、19世紀的な学説整理の確認に終わるだけという気がします。それではあまりにも非生産的で、何のために古いテクストを読むのか、わけがわからないのではないでしょうか。


乱暴な発想 如月 - 2005/04/27(Wed) 01:06 No.556  

下方のスレッドに書いた一ノ瀬正樹さんの『人格知識論の生成ーージョン・ロックの瞬間』の要約、少し手直しして↓にアップ致しました。
http://www.furugosho.com/nomadologie/ichinose1.htm

ところで、一ノ瀬さんが指摘するロック認識論のキーワードの一つ「天に祈る」をつきつめていくと、「経験論」というより、少し乱暴かもしれませんが、私はむしろマールブランシュの「機会原因説」とつながるような側面もでてくるんじゃないかという気がしています。
つまり、ロック風に考えると、ある「知識」に同意する瞬間(新しい知識を獲得する瞬間)というのは、どこかで前の瞬間、前の自分と切れているわけです。とすれば、知識獲得に関するそうした断絶を強調する考え方は、「経験vs.直観」という枠組みをはずしてしまえば、我々が世界とかかわる各瞬間毎に神を介在させるマールブランシュの思想と意外と近いのではないかということです。

それともう一つ。
一ノ瀬正樹さんのロック論、山口裕之さんのコンディヤック論を続けて読んでいると、これまた乱暴かもしれませんが、とある「人格」を根底において世界を考えるロック、コンディヤックの哲学的発想は、存在認識の根源にダーザインを置こうというハイデガーの主張ととても近いような気がしてしまう。つまり、ロック、コンディヤックにしろ、ハイデガーにしろ、この世に生をうけ、自己を取り巻く社会制度、言語といったものを暗黙裡に受け入れさせられてしまった存在としてしか、世界のあり方を問うことができないといっているように思える。コンディヤックが問題にする認識の起源を問うことと言語の起源を問うことの重なりというのも、まさにそういうことなんじゃないでしょうか。
この辺は、経験論というよりも、みんなそれぞれにアリストテレスを介在させて思索していると考えると、なんとなく説明できるのかなと思ったりもしています。


自然法論から認識論へ、そして再び自然法論へ 如月 - 2005/04/27(Wed) 15:19 No.557  

直前の書き込みの後段ですが、つまり、ロックにおいては、「自然法とは何か?」という問題が、「人が自然法を認識するとはどういうことか?」「人が自然法を認識しているか否かはどのようにして判断できるか?」と捉えなおされ、以降もっぱら、これは「認識論」の問題として展開されるということです。で、私はこうした問題把握の方向性が、ハイデガーとロックで似てると思うんです。
コンディヤックの場合、この問題に、「人間の認識はもっぱら言語によってなされる」という論点から、「言語」についての考察が主題となっていくのですね。ですから、認識の起源を問う作業が言語の起源を問う作業と結びついてくる。
このコンディヤックの発想をロックに還元していくと、ルソーやマブリのところで、社会の起源を問うというもう一つの問題が、認識論と結びつくものとしして浮上してくるんじゃないでしょうか。
で、これによって、出発点であった「自然法とは何か?」という問題が、改めて大きなスケールで問われることになる、と…。


生得説批判の文脈 如月 - 2005/04/27(Wed) 15:28 No.558  

ですから17〜8世紀において、この問題は、そもそも、自然法の規範性・拘束性がよってたつところは何なのかをめぐって旋回しているともいえるわけで、それにはどうしても、認識論(人間知性論)、言語論という回路を経る必要があった。ロックの生得説批判というのは、この文脈のなかでとらえるべきではないかと思います。


『人格知識論の生成』(一ノ瀬正樹)を読む:その2 投稿者:如月 投稿日:2005/04/23(Sat) 11:52 No.545  
一ノ瀬正樹さんの『人格知識論の生成ーージョン・ロックの瞬間』(東京大学出版会、1997年)の論点の要約・紹介、再開します。
とはいえ、この著作全体にふれる時間的余裕がありませんので、ここでは一ノ瀬さんのロック読解の核をなすと考えられる第二章「実践への眼差し」に絞って紹介することとし、他の章は、もし必要であればそれに応じて参照することとします。

このところ、ロック、コンディヤックの思想とライプニッツの思想の比較が続いておりますが、ロック、コンディヤックの思想は経験論(感覚論)、ライプニッツの思想は合理論であり、依ってたつものが全然違うのだといった一般論に終始しては、それぞれの思想の内実がまったくみえてこないと思いますから、私としては、もっと具体的なテクストに即して、実際のところそれぞれの思想家が何を考えていたのか、つきつめていけば、経験論とはそもそもどのような思想であり、またライプニッツの合理論とはそもそも何を目指していたのか、検討してみたいのです。すぐ下のスレッドにも少し書きましたように、一ノ瀬さんの著作は、そのための有力な補助線ということですね。
で、たとえば、ロックの関心(そしてこれは私の当面の最大の関心事でもあるのですが)にそって「自然法の認識」という問題をとりあげるにしても、そもそも直観による認識と経験による認識に、明確な区分が可能なのでしょうか?それには、どのような相違があるのでしょうか?しかしそもそも、自然法という概念は、経験による認識を拒む直感的なものではないのでしょうか?とすれば、経験論からする自然法認識とはいったい何なんでしょう?一ノ瀬さんのロック読解を読むにあたり、まずはこの辺の素朴な疑問を手がかりにしてみたいと思います。

なお、『人格知識論の生成ーージョン・ロックの瞬間』〜「実践への眼差し」の構成は、第一節「『自然法論』の探究」、第二節「自然法の認識と実践」、第三節「生得的実践原理」、第四節「「人格」の同意」、第五節「性向と傾向性」となっています。


第一節「『自然法論』の探究」 如月 - 2005/04/23(Sat) 12:38 No.546  

一ノ瀬さんは、「知識をある種の実践と連動させるというロック哲学が宿す着想の原点を押さえる」ため、ロックが1660年代に執筆した『自然法論』を取り上げます。
ちなみに、ロックの学生時代はピューリタン革命と重なっているのですが、オックスフォード大学卒業後、1660年に二編の政治権力論を執筆、その直後にオックスフォードのギリシア語講師に就任しています。八編の『自然法論』はそれに続く時期に執筆されたもの(ただし、20世紀に発見されはじめて公刊された)であり、その表題(内容)は次のとおりです。

 @「道徳の規則、あるいは自然法はわれわれに与えられているか、与えられている」
 A「自然法は自然の光によって知ることができるか、知ることができる」
 B「自然法は人びとの心に刻みこまれているか、刻みこまれていない」
 C「理性は感覚・経験によって自然法の認識に到達することができるか、到達できる」
 D「自然法は人びとの普遍的な同意から知ることができるか、知ることはできない」
 E「人びとは自然法によって拘束されているか、拘束されている」
 F「自然法の拘束力は永久で普遍的であるか、永久で普遍的である」
 G「各個人のそれぞれの利益は自然法の基礎であるか、基礎ではない」

「ロックによれば、「自然法」とは端的に「道徳的善あるいは有徳」のことであり、「正しい理性」(recta ratio)であり、それはひとえに理性的な自然の光によってのみ発見される、とされる。それはまた、「理性自身が宣言するところの、人間本性の土壌に確固として根ざして存続する、確定された永久の道徳規則である」とも言われる。このようなロックの規定から、「自然法」が純粋に理性的な道徳法則と見なされていることが明確に窺われる。しかしでは、ここで言う理性とは果たしてどのような意味の理性であろうか。ロックはこのことについて二つのことを区別する。それは、理性の対象と理性自体という区別であり、ロックによれば、理性の対象とは道徳的原理や命題としての「自然法」そのものであるのに対して、理性自体とは既知のことから未知のことへと進む心の推論的な機能である、とされる。ここでロックは、「自然法」を発見する推論機能としての理性を主題的に論ずる。つまり、「自然法」はどのように知られるか、という問題こそが若きロックの第一の課題であったのである。」(一ノ瀬正樹氏前掲書、37〜8頁)

ここでロックは、「たしかに「自然法」は理性によって発見されるが、「もし最初に何かが前提され当然のことと見なされていないならば、論証の強力な機能である理性をもってしても、全くなにごとも達成されない」として、「印銘」(inscriptio)、「伝承」(tradotio)、「感覚」(sensus)の三つを理性に前提を提供する源泉の可能性として指摘したのち、印銘、伝承をしりぞけ、その前提とは感覚であるとの結論のもと議論を進める。

ロックは、感覚や身体に根拠を持つ「自然法」の内容として、自己保存をはじめとして、殺人や窃盗の禁止、神への尊敬、両親への愛情、隣人への愛、などを挙げる。
「この「自然法」の内容のある自在性という論点こそが、ロックの「自然法」概念のもっとも本質的な、かつ後の生得説批判にもっとも直結する、特徴を導くように思われる。ロックは「自然法」の内容の時間的状況的変化を認めるが、ではいつどのような状況でどのような変化が許されるのか。ロックは、それに対して、そのような判断はわれわれの能力や思慮に依存するということを示唆していた。実際この点こそロックの考えの核心を示すものであると言える。というのも、そもそもロックが「自然法」が理性的な自然の光によって知られるとしたときも、それは「自然法」が本性的に人間の心に「印銘」されているということではなく、「もしひとが、自然によって与えられた能力を適切に用いるならば、他人の助けを借りず自分だけでその知識に到達しうるような、そうした種類の真理が存在するということを意味するにすぎない」として、「自然法」の超越性よりもむしろ「自然法」に至るわれわれの努力や探究を強調していたからである。」(一ノ瀬正樹氏前掲書、40頁)

こうした分析をとおした第一節の結論は、次のようなものです。
「「自然法」のほとんどの内容がそのように努力探究されて判断されるしかないものであるならば、ロックのいう理性とは「自然法」の内容そのものに関するというよりも、それを探究する実践的態度にこそ重ねられていたのではないかと思われる。言い換えれば、ロックが推論機能としての理性を問題にしたということはすなわち、推論する「行為」に焦点を当てようとしたことにほかならない、ということである」(一ノ瀬正樹氏前掲書、41頁)


第二節「自然法の認識と実践」 如月 - 2005/04/24(Sun) 11:42 No.547  

一ノ瀬さんによるロック『自然法論』の分析はさらに続きます。
「「刑罰」(poena)は「自然法」の存在を証する論拠の一つであった。ロックによれば、「法の制定者がなければいかなる法も存在せず、刑罰がなければ法は全くの無駄である」。ここでの「刑罰」は、単なる禁獄や使役ではなく、もっとも純粋な意味のそれで、「神」の審判により魂が永遠に受ける応報のことである。こうした「刑罰」は決して消極的なものではありえない。「刑罰の恐怖ではなく、正しいことの理性的な理解が、われわれに義務を課すのであり、もしわれわれが罪を犯したなら、良心が道徳的判断をして、われわれ自身刑罰に値すると宣言する」のである。しかるに、ここでの「罪」とは「自然法」に背くということであるから、人が積極的に「罪」の自覚に至るためには、当然「自然法」を知らなければならない。ということは、「自然法」の知に至る努力探究の過程を経ていなければならない。してみれば、もしそうした努力探究の過程が完遂されているなら、もちろん「罪」を犯すことを避け「刑罰」を避けることができようし、仮に「罪」を犯したとしても自ら「刑罰」に値すると自覚できるわけである。すなわち、いずれにせよ「自然法」の認識に至る努力探究の成否は、ひとえにこの「刑罰」の概念との対応において捉えられるのである。そしてこうした「刑罰」は、それ自体「身体」が受ける苦痛の「感覚」でもある。この点は、さきに確認した、身体の生の事実が自然法の根底にある、という論点と呼応していると考えられる。それゆえ、この「刑罰」の場面にこそ、ロックの「自然法」理解の主要な要素が集約されていると言えるのではないか。いや、それのみならず、ロックの知識論の鍵もそこにあると推定されうるのではなかろうか。」(一ノ瀬正樹氏前掲書、41〜2頁)

続いて、『自然法論』におけるロックの意図は、義務自体と義務内容、主意主義と主知主義といった区別を積極的に排除するところにあるとして、フォン・ライデンとコールマンのロック論を批判的に分析したのち、自然法の認識を認識一般のモデルとするロックの知識論を次のように性格づけます。
「知識とは、そもそも人が努力探究して自ら同意決定するべきものであるという意味において、そしてその成否つまりは真偽についての審判を最後に受けるという意味において、本質的に規範的なものである、という把握を暗示するのである。これは、実にラディカルであると同時に、実に重要な洞察であると言わねばならない。」(一ノ瀬正樹氏前掲書、45頁)


第三節「生得的実践原理」1 如月 - 2005/04/24(Sun) 13:39 No.548  

第三節から、これまで『自然法論』の分析をとおして得られた知見をロックの認識論全体のなかで確認していく作業がはじまります。

「知識が存立するための十分条件とは何なのだろうか。『自然法論』においてそれは、努力探究の過程を経た理性的「同意」である、と言うことができる。では、『知性論』の生得説批判においてはどうだろうか。生得説批判におけるロックの立場は、もちろん、生得概念など存在せず、すべての知識は経験に由来する、というものである。では、この場合、経験とはどのようなものなのか。ロックは、このことについて、最初に感官から観念が入り、それを材料にして理性の推論機能が行使されるという場面を指示したが、それに関連して次のような注目すべき考えを示した。すなわち、「すべての推論は探究であり、思いめぐらすことであって、苦労と専心を要求する」(『人間知性論』1.2.10)。ここから、ロックが、『自然法論』で描いた自然法の知識の構造を、知識一般にまで拡張しようとしていることが十分に窺えよう。この事情は、当然のことながら、思弁的原理について以上に実践的原理について一層明白となる。ロックは次のように述べる。

「道徳原理は、その真理の確実性を発見するのに、推論と論議を必要とし、心を何らか働かせる必要がある…それゆえ、もしわれわれが道徳規則の確実な知識に至らないとするなら、それはわれわれ自身の落度なのである。」(『人間知性論』1.3.1)

さらに、こうした考えの方向性は、たとえば「神」の概念の獲得という問題においても、繰り返され強調される。「われわれには神の概念に達する諸機能が備わっているのだから、もしわれわれが神の概念を持たないとしたなら、それは勤勉と考察がわれわれに欠けているからである」(『人間知性論』1.4.17)。ロックは、明らかに『自然法論』での着想を拡張し、およそすべての知識が努力探究の「行為」によって成立する、と主張しているのである。こうしたロックの主張の背景には、たしかに、当代の多くの学者たちが「生得原理」の美名のもとに原理自体への反省を怠けて行おうとしない、ということへの強い警告があると考えられる。」(一ノ瀬正樹氏前掲書、46〜7頁)

「ところでロックは、道徳の原理は生得ではなくわれわれの努力探究によってのみ確立されることを主張した後、次のような見逃すことのできない発言をする。

「たしかに、自然は人間を幸福の欲望と不幸の嫌悪のなかへと置いた。これらはまさしく生得の実践的原理であり、それはつねに止むことなくわれわれのすべての行為に作用し続け、影響し続ける。」(『人間知性論』1.3.3)

これはどのように解されるべきか。ライプニッツが喜んだように、ロックは結局は生得原理を認めてしまったのか。ともあれ、この発言を理解するには、人は幸福や不幸がそもそも何であるのか確固とした理解を持っていないこと、そして、まさに幸福や不幸が何であるのかこそ道徳の主要な主題の一つであること、こうしたことを押さえなければならない。本当の幸福や不幸が何であるかは、熟慮され探究されねばならないのである。したがって、ここでロックは印銘された生得概念を承認しているのではない。言ってみれば、ロックは結局、善とは何なのかと問わずにはいられない、という事態を承認しているのである。つまり、問う「行為」自体は経験とは独立に絶対的に認めなければならない、という主張である。よってそれは、われわれがさきに述べた努力探究の「行為」を強調する見方に背反するどころか、そうした「行為」それ自体をぎりぎりまで問いつめ根拠づけようとした主張であると見るべきではないか。」(一ノ瀬正樹氏前掲書、48〜9頁)


第三節「生得的実践原理」2 如月 - 2005/04/24(Sun) 16:17 No.550  

一ノ瀬さんは、ロックによれば、「努力探究の「行為」が知識成立にとって本質的であることがおおよそ明らかになった」として先に進みます。
「実は努力探究だけでは永遠なる進行過程にすぎず、いつまでも人に知識が宿ることはない。どうしても、こうした努力探究の過程を打ち止めにし完結させる契機がなければならない。そして、ロックにおいて、その打ち止めの役割を果たしているのが「同意」にほかならないのである。すなわち、ロックにおいて、知識とは、努力探究の過程を経た「同意」によって成立するものなのである。これは、本質的に『自然法論』においてすでに見込まれていた見方であった。」(一ノ瀬正樹氏前掲書、49頁)

「努力探究から同意決定へという知識成立の構造は、ロックの『統治論』において一層顕在化されている、と私としては主張したい。」(一ノ瀬正樹氏前掲書、50頁)

「『統治論』において、この同意・決定の行為は最終的にどう捉えられているのか。ここで、純粋に同意・決定の行為が発現する場面として、戦争状態や国王自身への審査といった、地上に裁判官のいない状態に注目してみたい。たとえば国王自身の審査の場合について、ロックは次のように述べる。

「この場合国民は、地上に裁判官のいないその他すべての場合と同様に、天に訴える(appeal to Heaven)以外に救済策を持っていない。」(『統治二論』第二編)

私は、この「天に訴える」という表現にこそ、ロックの哲学のすべてが凝縮し集約されているのではないかと考える。「天に訴える」と表現される、ぎりぎりの最終的な決定、そうした決定の契機が、自然法についての知識、そしてその他の知識一般にも、本来的に組み込まれているのではないか。ロックの哲学に宿されている含意を素直に捉えるならば、このような理解に至るのは必定だと思う。同意や決定によってこそ知識が確立するのだから、同意や決定それ自体は、究極的には、知識による合理化を越えた一種の跳躍にならざるをえないと思われるからである。少なくとも、知識一般の原型となる自然法の「知識」が「天に訴える」という表現に訴えて理解されているということによって、ロックの知識一般についての捉え方が、「最後の審判」そして「刑罰」という概念と結局は連動していくものであることが示唆される、とは言えよう。「天に訴える」とは、自らの決定を自らの全面的責任のもとに引き受け、それへの裁定を自覚的に受容する覚悟を秘めた決定だからである。」(一ノ瀬正樹氏前掲書、51頁)


第四節「「人格」の同意」 如月 - 2005/04/25(Mon) 08:08 No.553  

議論はいよいよ「ジョン・ロックの瞬間」に迫っていきます。

「以上の理解が知識一般に当てはまるとするなら、それはもちろん、知識がつねに変容していくという可能性を許容することになろう。しかし、ロックはまさしくそう主張したいのである。そして、そうした方向性を象徴するのが、『統治論』における「抵抗権」(Right of resisting)の議論であると見なすことができる。ロックにおいて自然法に従うことは自然法を認識することにほかならない以上、自然法に純粋に従うことである「抵抗」は同時に自然法の認識を生命をかけて追求することでもあるが、その「抵抗」とはまさしく国家形態の変容を目論むこと、つまりこれまでの自然法認識を改変していくことであるからである。このような仕方でロックの知識論に潜む含意をくみ取るなら、それは実に刺激的な主張となる。まずそれは、必然的真理の存在を根拠にして生得説を確立しようとするライプニッツ流の議論に対する強い反論点となりうるだろう。」(一ノ瀬正樹氏前掲書、52頁)

さてここで、一ノ瀬さんは、ロックの議論の根底にある二つの重大な着想を指摘します。その第一は、「知識を獲得する主体は社会のなかで自らの責任を担える「人格」である」という点であり、第二は、「知識の獲得は社会制度へのある種の同意にほかならない」という点です。
一ノ瀬さんは、第一の着想は、「知識は、究極的にはそれを獲得する者が全面的責任をもってなす、一種の跳躍としての同意・決定によって確立される」という論点によって確認されるとします。またこれは、「知識獲得のための努力探究や同意決定の行為は、実は何らかの言語体系や理論体系、そしてそれらを伝える教育制度との連動においてはじめて可能となる」ということによっても根拠づけることができるとします。
第二の着想は、第一の着想を根拠づける第二の論点と連なりながら出てくるものですが、「知識獲得が必要条件としての社会的・制度的背景をまってはじめて可能である以上、知識が獲得されるときに、そうした社会的・制度的背景に対する何らかの意味での同意が、いわば自動的に、なされていることは全く疑いようがない」とされます。

それでは、ロックに対するライプニッツの反論点の一つである論理的先行性や論理形式は生得的というべき根源的なものであるという点は、どのように考えるべきなのでしょうか。
一ノ瀬さんは、この点についてのロック側からの応答は、今日「純粋な規約主義」(full-blooded conventionalism)あるいは「過激な規約主義」(radical conventionalism)などと称される立場に近い視点からなされることになろうとし、グッドマンの次の言葉を引用します。「演繹的推理の諸原理は、受け入れられた演繹的実践と合致することによって正当化される。それらの妥当性は、われわれが現実に行い是認する個々の演繹的推理との一致に依存する」(グッドマン『事実・虚構・予言』)
続けて一ノ瀬さんは問います。
「しかし、では知識の普遍性はどうなるのか。各人が各人の論理を勝手に作り上げてよいのだろうか。断じてそうではなかろう。ロックにおいてすべての知識は同時に、その知識を獲得する「人格」による社会制度への「暗黙の同意」を通じた社会的実践でもあるのだから、社会的な妥協や調和が当然求められて然るべきだからである。すなわち、論理形式や論理的必然性でさえ、原理的には、特定の言語と特定の文化やものの見方のなかで生きることを暗黙に受容したわれわれがそうした形式や必然性をそれとして受容し使用する、という二相の「同意」の実践へと帰着していくのである。こうした非常にドラスティックな捉え方をロック哲学は確かに指し示していた。ロックの着想に従う限り、知識論は必然的に社会論にならざるをえないのである。」(一ノ瀬正樹氏前掲書、55〜6頁)

この節の結びは、次のようになります。
「ロックの「タブラ−ラサ」に対して、ライプニッツは「石理のある大理石」(une pierre de marbre qui a des veines)の比喩を提出した。「タブラ−ラサ」を単に受動的に文字が書き込まれるだけの板と解し、そうした設定は知識論にとって不完全だと考えたからである。しかし、真相はそうではなかった。「タブラ−ラサ」とは、われわれがそこに文字を書き込むという積極的「行為」を指示する、「行為」の場の暗示だったのである。」(一ノ瀬正樹氏前掲書、56頁)


第五節「性向と傾向性」 如月 - 2005/04/25(Mon) 08:15 No.554  

いよいよこの章の結論です。これまでの論議を踏まえて、もう一度ライプニッツの説が検討されます。
「しかしでは、ライプニッツの『新論』における論及は、ついにロックの議論の核心には届かず、それと並び立つ次元にまで達することはなかった、と言うべきなのだろうか。この点については、そう性急に断ずるべきではない。というのも、ライプニッツには、第一章で検討した形式説と潜在説以外に、もう一つ「性向」説と称すべき思索の方向があり、むしろそこにライプニッツ生得説の真髄が開示されているのではないかと考えられるからである。ライプニッツは、形式説や潜在説を述べた後、それは単に能力を持っているということにすぎないのではないか、という想定反論を示したうえで、次のように語った。

「使用せずにある事物を持っていることは、単にそれを獲得する能力を持っていることと同じなのだろうか。もしそうであるなら、われわれは現に享受している事物しか決して持たない、ということになろう。けれども、能力と対象以外に、能力が対象に働きかけるためには、しばしば何らかの性向(disposition)が、能力や対象のうちに、そしてこれら両者のうちになければならない、ということが知られている。」(『人間知性新論』)

ここでライプニッツは、思惟の根源に思惟が存立するための何らかの「性向」があることが承認される、よって「性向」は生得的である、と主張しようとしている。これが性向説である。」(一ノ瀬正樹氏前掲書、56〜7頁)

「ライプニッツ生得説の核心をなす「性向」とは、無限なる全宇宙を表出する「モナド」というあり方での世界全体の既在あるいは先在をこそ意味していると、そのように押さえることができるのではなかろうか。実際そのように解するなら、「性向」こそが形式説や潜在説の成り立つ土壌を提供していることになる。しかるに、「性向」が世界全体の既在・先在であるなら、「性向」それ自身は、すべての事柄の根源をなすものとして、知識を語るときにもまさしく知識を語るということにおいて、すでに現実に与えられてしまっている。そうした、ぎりぎりの根拠を追い詰めていったときにのみはじめて姿を現すような、究極の局面、それがライプニッツのいう「性向」であり、彼の生得説のよって立つ基盤ではなかったか。」(一ノ瀬正樹氏前掲書、58頁)

そこで、この「性向説」をロックの説と比較するとどのようなことがいえるのでしょうか。この部分は、この章全体の結論であると同時に、続く章での論議の展望ともなっています。
「ここまで論ずるなら、実はロックとライプニッツの議論は、その最終的に見据える地平において、さほど異ならないことが判明する。ロックは、さきに触れたように、幸福の欲望と不幸の嫌悪という生得的実践原理を承認したが、それは結局、努力探究から同意決定を経て知識を成立せしめる「行為」をそれ自体ぎりぎりの局面から根拠づける根源的地平の確認であると解された。しかるにロックは、その原理を「傾向性」(inclination)とも言い換えていたのである(『人間知性論』1.3.3)。ロックとライプニッツの議論が同方向へ収斂していくことが、用語法からもはっきりと窺える。両哲学者は、少なくとも、知識の成立はその根底にすでに現に存している現実のあり方に根差している、という洞察において図らずも共通の地平を見届けていたのである。こうした根源的な地平は、まさしく根源的であるがゆえに、ロックの知識論を探るときにつねに心にとどめておかねばならない。かくして私にとって、こうして確認された根源的地平へと焦点するような仕方で、ロック哲学における「知識」の実践的成立の次第を一層綿密に辿りきること、それが課題となろう。」(一ノ瀬正樹氏前掲書、58〜9頁)


コンディヤックの認識論と実体観  投稿者:如月 投稿日:2005/04/21(Thu) 14:46 No.542  
コンディヤックの『人間認識起源論』(古茂田宏氏訳、岩波文庫)を読んでいたところ次のような記述があり、コンディヤックの認識論、実体観とのからみで、とてもおもしろいと思いましたので、抜き出しておきます。

「同時にたくさんの観念を眺めることができず、それゆえ多くのものを一つの同じ種類にまとめて考える他はないような、そういう制限された精神にとって、この[抽象という]働きは絶対に不可欠なものである。しかし、ここで注意すべきことは、ただ我々の理解の仕方においてのみ区別されているようなものが、実際にも区別されているものであるかのように考えてはならないということである。」(『人間認識起源論』第一部、第二章、第一節)

この箇所につけられた、訳者・古茂田宏さんの註は次のとおり。

「コンディヤックに従えば、一般観念は実在を表わすものではない。それは、差異をはらんだ個体の全てを認識しえない制約された人間精神にとって必要とされる認識の省略なのである。逆に言えば、神の無限の認識ーー実在そのものの把握ーーにおいては、あらゆる個体がその個体性において把握されるから、神には抽象や一般観念が不要だということになる。」

これとのからみで考えると、次の記述もおもしろいですね。

「非常に複雑な一枚の絵を見せられたとする。その絵はあまりにもごちゃごちゃしており、一見、その中のある部分が他の部分よりもきわだって目立つということのない、そういうめりはりのない絵であるとする。そして、私がその細部にまで目を行き届かせるひまもなく、人がその絵を私から取り上げてしまう。さてこの場合、私のうちにそれについての知覚を生じさせなかったような画面の個々の部分はないということは確実であるにもかかわらず、それらについての意識があまりにも弱いために、結局私はそれを思い出すことができないのである。この忘却は、絵を見ている時間の短さのせいではない。もし仮に私が長い時間にわたってこの絵に目を向けたとしても、その絵の部分部分の知覚に対して生き生きとした意識を持たないでそうしたとすれば、見終えたときにも、見始めたたきと同様、この絵を説明することはできないであろう。
 この絵によって生じる知覚についての右の説明が正しいとすれば、同じ理由によって、私をとりまく様々の対象が生み出す知覚についてもそれは正しいということになるはずである。それらの対象が同じような強さで私の感官を刺激し、強度のめりはりがほとんどないような個々の知覚を私のうちに生み出すとしたら、また、ある特定の知覚を他の知覚よりも強く意識するということもなく漫然と私の魂がそれらの印象を受け取るとするならば、そのとき私の中で生じていたことについての思い出は一つも残らないであろう。」(『人間認識起源論』第一部、第二章、第六節)

この例、実際の風景を見るということに関しても同じことがいえるように思いますが、コンディヤックは、記号認識、観念による把握について考察しているので、あえて「絵」をもちだしたのだと思います。


微小表象に関するライプニッツ説 如月 - 2005/04/21(Thu) 15:17 No.543  

以上のコンディヤックの記述、次のライプニッツの記述と比較すると興味深いと思います。

「われわれの内には、意識表象も反省もされていない無数の表象が絶えずあり、それは、魂そのものの内にある、われわれが意識表象していない諸変化である。それらの印象があまりに微小でありしかも多数であるか、あるいはあまりに単調で、その結果、それぞれ別々に十分識別できないが、それでも他のものと結びついたときには印象の効果を発揮して、少なくとも集合的には錯然と感覚されるからである。たとえば、水車の回転や滝のすぐそばに暫くとどまっていると、慣れによってそれらの音に気をつけなくなる。それは、これらの運動がわれわれの感覚器官に印象を与えつづけていないからではないし、また、魂と身体の調和によって、これに対応する何ものもまだ魂のなかに生起していないからでもない。そうではなくて、魂や身体の受けている印象が、新鮮な魅力がなくなって、われわれの注意力や記憶力を喚起するほど十分ではなくなり、われわれの注意や記憶はもっと関心をよびおこす対象にだけ注がれるのである。あらゆる注意力は、いくらかの記憶を必要とし、われわれ自身の現前する諸表象のいくつかについて注意するようにと、いわば警告されないと、それらの表象を反省なしに、気づくことさえなく看過してしまうのである。けれども誰かが直ちにその表象について告げ知らせ、たとえば今聞いたばかりの音に注意を向けさせるならば、われわれはそれを思い起こし、まもなくそれについてある感覚をもっていたことに気づく。このようにそれらは、われわれがすぐには意識することのない表象であり、意識表象はこの場合、どんなに小さな間であろうと少しの間をおいた後に知らされて生じるのである。そして、密集していて区別できない微小表象をもっともよく識別するために私は、海岸で聞こえる海の轟やざわめきの例を用いることにしている。通常このざわめきを聞くには、全体のざわめきを構成している各部分、つまりひとつひとつの波のざわめきを聞いているにちがいない。これら微小なざわめきのひとつひとつは、すべてが同時に錯然と生起している集合のなかでしか知られないし、ざわめきをなしている波がたったひとつであるなら気づかれもしないであろうけれど。というのも、この波の運動によってわれわれは少しは作用を受けているはずであり、その波の音がいかに小さくとも、そのひとつひとつの表象を何か受け取っているはずであり、そうでなければ、10万の波の表象はもち得ないであろうから。ゼロが10万集まっても何ものもできないのである。微弱で錯然としたいかなる感覚もないほどに深く眠ることなど決してない。一本の綱が、最小の力によってでもともかく張られ伸ばされていなければーーこれら最小の力のなす張力が示されなくともーー、この世の最強の力によっても切断されえないように、初めに微小な何らかの表象がなければ、この世の最大の音といえども、われわれの眠りを醒ますことはないであろう。」(『人間知性新論』序文)


perceptionに関する問題の所在 如月 - 2005/04/22(Fri) 14:35 No.544  

コンディヤックからするライプニッツのいう「微小知覚」への評価、下のスレッドに書いたロックとライプニッツの対立点

ロック:知覚ないし認識というのは、自覚的に認知している事柄や内容を指す。したがって、自覚的に認知していないものを知覚や認識と呼ぶべきではない。
ライプニッツ:知覚ないし認識というは、自覚的に認知している事柄や内容のみならず、自覚的に認知していないものを指す。したがって、自覚的に認知していないものを知覚や認識と呼んでもいっこうにさしつかえない。

のコンディヤック、ライプニッツ版であるということ、この例から読み取っていただけるのではないでしょうか。
コンディヤックは、「ある特定の知覚を他の知覚よりも強く意識するということもなく漫然と私の魂がそれらの印象を受け取るとするならば、そのとき私の中で生じていたことについての思い出は一つも残らないであろう」と、こうした「微小知覚」を「認識」のなかに組み入れることを拒否するのですが、この相違を、
「コンディヤックの特徴として、「曖昧な観念」「無意識的知覚」「無意識下の判断」といった概念を徹底的に排除しようとする態度をあげることができる。つまりコンディヤックにとって、知覚や観念はあるかないかのどちらかなのであって、この点、表象における様々な錯雑判明の度合いを連続的にとらえたライプニッツのような考え方とは鋭く対立する」(古茂田宏氏、『人間認識起源論』訳注)
とだけとらえるのは、片手落ちのような気がします。
私としてはむしろ、これを、コンディヤック自身の
「原理を持っているということは、自分が取り組んでいる技芸や学問についての完璧な知識を持ち、またそれを明快かつ厳密な仕方で執り行いうるということと同じなのである。」(『人間認識起源論』第一部第二章第七節)
という発言とからめて考えたい。そして、コンディヤックがこうした発言を行っている背景として、一ノ瀬正樹さんがロックの認識論において行った分析の要点のひとつである、ロックの認識論が目指すものは、つまるところ自然法の認識とは何であるか(どのようなものであるか)ということであり、そこにおいては、「認識する」ということは、認識している主体の行為にある制限を加えていくことなのだということとの関連をみたいように思うのです。つまり、「自然法」や「技芸・学問」を認識の対象ととらえると、無意識的な知覚といったものは、「認識」という概念のなかに組み込めないといことじゃないかと思うのです。
コンディヤックが挙げている絵の知覚の例を素直に読めば、コンディヤックもライプニッツのいう「微小表象」のようなものの存在そのものは認めているのではないでしょうか。ですから、これを両者の学説の「対立」とか「相違」というレベルでとらえることができるかどうかは、微妙だと思うのです。

山口裕之さんの次の指摘もこの問題と関連させて読むことが可能だと思います。
「コンディヤックは、観念を「発見する」とか観念に「気づく」、あるいは観念を「観察する」と言っている。こうした用語は通常、既にあるものを見いだすという意味で使うものであろう。とするとやはり、知覚的対象は初めから単純観念に分節されているのだろうか。知覚は、あらかじめ分節された単純観念の束なのか。(中略)なお、「発見する」、「気づく」、「観察する」のうち、とりわけ「気づくremarquer」はコンディヤックの議論において頻出する用語であり、彼の思想を理解する上でのキーワードだと思われる。デリダによると、「この意識の哲学、知覚の現象学においては、気づくことの価値が、陰に日向に非常に頻繁に判別的な役割を果たすのである」。」(『コンディヤックの思想』)

繰り返しになりますが、ライプニッツがこの「気づく」ということの意義に気づいていないわけではないのですね。気づいているからこそ、彼は、知覚にperceptionとaperceptionという区分を設ける。しかしそのうえで、ライプニッツが問題にするのはperceptionの発生なのだけれども、ロック、コンディヤックはaperceptionをこそ、すなわちremarquerという作用をこそ積極的に問題にしていく。
ですから、perceptionの発生・起源というときの、ロック・コンディヤックとライプニッツの相違は、こうした問題の所在であるということが可能なのではないでしょうか。


『人間知性新論』の叙述形式について 投稿者:如月 投稿日:2005/04/19(Tue) 14:15 No.538  
このところ、ライプニッツの『人間知性新論』をぱらぱらと読み、またそれを抜き書きして小掲示板でご紹介しておりますが、ライプニッツはなぜこのような著作を書いたのか、なにも、ロックの『人間知性論』を逐条的に取り上げて、それについて意地悪く論及・批判していくのではなく、もっと独自のかたちで自己の哲学・思想を述べていくべきではなかったかという疑問をもたれている方も多いのではないかと思います。
この『人間知性新論』が書かれ、また刊行されなかった経緯についてはいろいろな説明がありますが、それはそれとして、今、私は、ライプニッツの哲学書としては、『人間知性新論』は、これはこれで必然的なスタイルをもっているのではないかと、漠然と考えております。
というのは、ライプニッツの存在論や認識論の根底に、事物・事象の本質の存在を否定するという考え方が根源的に存在しており、思想に関しても、ライプニッツはおそらく同様のことを考えていたのではないでしょうか。それからすると、自己の哲学・思想にしても、それを定言命題的に述べていくより、他の思想との相違として述べていくという方が、方法的には理にかなっている、もしかするとライプニッツはそう考えていたのではないかと思えてきたからです。つまり、ライプニッツ思想というのは、「これこれである」というより、まずは他の思想家との違いとして存在しているのではないかと。
このように考えていくと、『人間知性新論』は、ロックが準備した議論の枠を利用した安易な著作どころか、むしろライプニッツにとって、思想と叙述形式スタイルを合致させたユニークな傑作ではないかーーと、まあ、こんな風に思えてきました。


ロック、ライプニッツ論争の焦点は… 如月 - 2005/04/19(Tue) 15:01 No.539  

下方のちょっと書き散らしたロックとライプニッツの「知覚」もしくは「認識」についての考え方の相違、問題はその内容(概念の内実)にあると思われている方がいらっしゃるかもしれないので、やはり、ちょっとした思いつきを書いておきます。

というのは、「知覚」に関するロックとライプニッツの争点を整理すると、次のようにもいえるのではないかと思うのです。

ロック:知覚ないし認識というのは、自覚的に認知している事柄や内容を指す。したがって、自覚的に認知していないものを知覚や認識と呼ぶべきではない。
ライプニッツ:知覚ないし認識というは、自覚的に認知している事柄や内容のみならず、自覚的に認知していないものを指す。したがって、自覚的に認知していないものを知覚や認識と呼んでもいっこうにさしつかえない。

つまり、二人の論点がこのように整理されるものだとすると、二人の食い違いは、「知覚」や「認識」という概念の現実的な内容(もしくは本質)が何であるかをめぐるものではなく、それらの概念をどのように定義するかという「規定」をめぐるものだといえるのですね。
「生得概念」に関しても、問題の所在はほとんど同じだと思います。双方が同じ内実をもった概念を取り上げて、それが非生得的であるか、生得的であるかを争っているのではなく、それぞれが非生得説、生得説の根拠として取り上げるものは、(たまたま名称は同じでも、実は)同一概念ではない、それゆえ、とある同一概念が非生得的であるか生得的であるかに関して、二人に根本的な対立はない、つまり非生得的な概念をとりあげれば非生得であるが、生得的な概念をとりあげれば生得的となるーーなどとまとめあげてしまうと、いささか乱暴ですかね(笑)。
ただ、生得概念をめぐる論争にしても、(特にライプニッツが主張しているのは)とある具体的な対象概念が生得的だと言っているのではなく関係性の生得性に過ぎず、ですから、ロックからすれば、ライプニッツが生得的概念とするものはそもそも概念ではないから、ロックが非生得的とするものにはあたらないと反論すればいいわけで、とすれば、そこに実体的な対立はない。つまりこの論争も、結局、「生得的」なるものもしくは「概念」をどのように規定していくかということにもっぱらかかわってくると言えるのではないと、まあ、こんな風にぼんやり考えているわけです。

で、こんな風に考えてくると、ロックとライプニッツの間に、とある問題をどのように把握するかという相違はあるけれども、「実質的な」哲学的見解の違い(つまり、同じ対象を取り上げてロックはAといい、ライプニッツは非Aというような)は、見出しにくいのではないかともいえ、ひいては、『人間知性新論』においてライプニッツが試みようとしたのは、はたしてロック説の単純な批判・否定だったのか、という同書の性格づけに関する疑問にもつながってくるわけです…。

なんとなく、とりとめもない書き込みになってしまいましたが…。


ロックとライプニッツの人格論の重なりいき 投稿者:如月 投稿日:2005/04/19(Tue) 12:07 No.536  
下方のスレッドにも書いているとおり、今、一ノ瀬正樹さんの『人格知識論の生成ーージョン・ロックの瞬間』(東京大学出版会、1997年)を読んでおりますが、その第六章「法廷用語としての人格」のなかに興味深い記述がありましたので、この著作全体の紹介とは切り離し、それだけ抜き出しておきます。

「ロックは、人格の問題を突き詰めていったとき、必ずや、もはやこれ以上合理的な根拠づけができないという、突き当たりに出会わなければならないことを確かに見取っていた。しかし、人格の概念は、合理的に根拠づけられないからといって、なしですますことはできない。われわれは、人と接することによってしか生きていけない。少なくとも、どんな人であれ、誕生から幼児時代に至る時期において、親というかけがえのない人と接するはずである。それほど、人と接することは、われわれにとって待ったなしのつねに差し迫った不可欠の在り方である。しかるに、人と接する、というときの人こそ、まさに人格の概念にほかならない。それゆえ、われわれは、人格の意義が根拠づけられないとしても、いつも、いわば飛躍をして、人格の意義をまずもって決定せざるをえず、そのことによって、他の人との交わりのなかで生を刻み込んでいく。このような決定は、いつでもぎりぎりの局面での決定であり、正当化はできないとしても、確かにこれが正しい把握でなければならないとする断固たる決定であらざるをえない。そのときわれわれは、神に、絶対の何かに、訴える。」(一ノ瀬正樹氏『人格知識論の生成ーージョン・ロックの瞬間』第六章「法廷用語としての人格」、169〜70頁)

「ところで、このようなロックの議論の方向性は、実はライプニッツの人格論にも照応している。ライプニッツは、人格が道徳的概念であることを承認したうえで、ロックの意識説に同意を与えた。けれどもライプニッツは、ロックと同様に、直ちに当然の疑問に対面せざるをえない。意識説を表面的に受け取る限り、忘却などの意識の中断があるときには人格同一性は成り立たないことになるのではないか。この疑問に対してライプニッツは、たとえ意識の中断があったとしても、それ以前のことを覚えているならば、他人の証言が私の記憶の空隙を満たすことができる、すなわち、「意識の媒介的連結」(une moyenne liaison de conscienciosite)さえあれば人格同一性が成立するのに十分であると、そう応答する。ここでの「記憶」概念の真偽は別に問わねばならないにせよ、ライプニッツの議論のポイントは明らかであろう。意識そして人格の概念は第三者によって整合的かどうかという観点から決定される場合があるということ、これである。こうした論点がロックの法廷用語説と絶妙に調和しうるものであることは容易に見通せよう。そして、こうした「意識の媒介的連結」の議論の背景には、人格的同一性は究極的には「個体的実体」あるいは「モナド」の次元へと収束する実在的同一性と融合していく、というライプニッツ固有の論立てがあったと考えられる。人格同一性は実在的同一性と結びつけられたときにこそもっとも確実で真なるものとなる、と述べられていることがそうした論立てを示唆するだろう。さらには、人格であれ他の問題であれ、何かに問いを向け、それを理解していこうという営みそのものが、何らかの疑念や悩みによってそうした営みへと動機づけられた、営みの主体である「人格」を、一層深い原的な次元においていわば絶対的に先取しているのであり、むしろそうした地平にこそライプニッツの個体的実体の概念の出自があるとする、そうした理解の道筋も可能であろう。無論のこと、こうした理解の道筋の詳しい跡づけは別個になすべき課題であろうし、実体の実在的同一性に訴えるという点でライプニッツの議論は確かにロックの考えとすれ違っているのだけれども、それにもかかわらず、こうした確認だけからでもロックとライプニッツに共通する根源的な洞察を抜き出すことができると思う。それは、「神に訴える」という極限の営みであれ「モナド」の実在的同一性であれ、人格の概念の究極の根源に、原的で不可避な絶対的事態が根をおろしているという洞察、このことにほかならない。その限り、ロックの捉えた人格概念はライプニッツの「個体的実体」あるいは「モナド」の概念へと重なりいくのである。」(一ノ瀬正樹氏、前掲書、170〜2頁)


『人間知性新論』から 如月 - 2005/04/19(Tue) 13:00 No.537  

参考までに、以下がライプニッツ『人間知性新論』の関連箇所です。

Ph「人格という語が含意しているのは、理性を用いることができる反省のできる、思考する理知的存在者です。この存在者は自己自身を同一なるものとして、異なった時間に異なった場所で思考する同じものとして考えることができます。そうしたことは、その存在者が自分自身の活動についてもつ感覚によってもっぱら為されます。そしてこの認識は、私たちの現在の感覚や表象を常に伴っています。すでに再三指摘したように、それらが十分に際立っているとすればです。そしてまさにこれによって、各人は自分自身にとって彼が自分自身と呼ぶところのものなのです。この場合、同じ自我が同じ実体の内に持続しているのか、それとも種々の実体の内に持続しているのかは考察されません。なぜなら、思考には常に意識《consciousnessつまり意識性》が伴い、この意識が、各人を各人が自分自身と名づけるものたらしめ、これによって各人は他のいかなる思考する事物からも区別されるので、人格的同一性、あるいは理性的存在者を常に同一たらしめるのもまた、そこに存するからです。そして、この意識がすでに過ぎ去った行為とか思考にまで及ぶ限り、その分だけこの人格の同一性も広がります。現在の自我はかつてのそれと同じものなのです。」
Th「意識性ないし自我の感覚が道徳的同一性つまり人格的同一性のあかしである、という意見には私も賛成です。そして、動物の魂の不断性を人間の魂の不死性から私が区別するのは、まさにそこにおいてです。双方とも自然学的・実在的同一性を保ってはいますが、人間に関して言えば、魂が私たち自身にとって明らかな道徳的同一性をも保って同一の人格を構成し、したがって賞罰を感得しうるということ、これが神の摂理の諸規則に適合した事態なのです。見た目にも明らかなこの同一性は実在的同一性がかくとも保存されうる、とあなたは主張しているように思えます。神の絶対的な力をもってすればおそらくそういう事態もありうるだろうとは思いますが、事物の秩序に従えば、自から同一と感じる人格自身にとって明らかな同一性は、反省もしくは自我の感覚を伴う近接的な各々の移行において、実在的同一性を前提しています。内的で直接的な表象は自然的には欺きえないからです。もし人間が機械でしかありえず、しかもそれでいて意識性をもちうるとしたら、あなたの言う通りにちがいありません。しかし、少なくとも自然的にはそういう事例はありえない。私としてはそう主張します。人格的同一性や自我でさえ私たちの内には留まらないとか、揺り籃の中にいたときに行ったことはいっさい覚えていないという口実で、私は当時のあの私ではないと言い張るつもりもありません。道徳的同一性を自分自身で見出すには、たとえ何らかの飛躍とか忘れられた期間が混入していようとも、ある状態とそれに近接した状態もしくは少し隔たってさえいる状態との間に、意識性の媒介的な連結があれば十分なのです。(中略)自我について言えば、それを自我の現われや意識性と区別した方がよいと思います。自我は実在的で自然学的な同一性を形作り、自我の現われは、真理に伴われれば人格的同一性をそれに結びつけます。ですから、人格的同一性は記憶以上の拡がりはもたないと言いたいのではないし、ましてや、自我ないし自然学的同一性がそれに依存するなどとも私は言いません。実在的で人格的な同一性は、現在の直接的な反省によって、事実に関する事柄について最も確実に証明されます。この同一性は普通、期間をおいた記憶や他の人々から寄せられる一致した証言によって十分に証明されるのです。しかし、たとえ神が常ならぬやり方で実在的同一性を変えてしまったとしても、その人間が同一性の現われを保存しさえすれば、つまり内的な現われ(すなわち意識の現われ)も、他の人々に見えるものに存するような外的な現われも保存しさえすれば、人格的には同一のままでしょう。かくして、意識は人格的同一性を構成する唯一の手段ではなく、他人の報告とか他のしるしでさえそれを補いうるのです。(以下省略)」(『人間知性新論』第二部第27章「同一性あるいは差異性とは何であるか」)


命名の悲劇 投稿者:後鳥羽院 投稿日:2005/04/16(Sat) 16:55 No.529  
難解なお話が続き、合いの手が打てなくて困っていますが(笑)、養老孟さんの話を思い出しました。
顕微鏡を覗いたりしながら講義をしていると(以前の勤務先である東大の医学部です)、ある学生が手を挙げて、
「先生、クエン酸回路が見えないのですが」
「え?」
はじめ、この学生はふざけているのかと思ったそうですが、どうも本気らしい。で、
「あのね、君、クエン酸回路は概念図だよ。見えるわけねえだろ」
「そうなんですか!」
となり、やれやれと溜息をついたそうです(笑)。
ライプニッツやロックの議論を読んでいますと、この概念図の実在性を論じているような気がしてくるんですね。どうも、なにかがちょっと違うんじゃないか、と・・・。

19世紀の半ば、ゲオルグ・カントールという天才が現れて、無限概念を革命的に変えてしまいます。それまでは、無限といえば、ただ一種類の無限があるだけだ、となんとなく思われていたのですが、カントールは、無限には無限の種類があって、それらが階層構造をなしている、ということを「証明」してしまいます。無限の濃度ということを言い出します。自然数の全集合をN、整数の全集合をZ、有理数の全集合をQ、とすると、これらの濃度はすべて同じである。実数の全集合をRとすると、Rの濃度はN(=Z=Q)なんかより格段に深い。そして、Rの各要素をもって二乗してやると、それはRより深い無限になり、以下同様に、いくらでも深い濃度の無限を無限に作りだせる。
では、はじめのN(=Z=Q)より薄い濃度の無限はあるのか?
さらに、NとRの間に、中間の濃度をもつ無限はあるのか?
・・・と考えているうちに、精神病院で亡くなります。
Nの無限はアレフ1といい、Rの無限はアレフ2、といいます。ギリシア語やラテン語ではダメなので、アレフというヘブライ語を使いました。カントールは、このアレフ1,アレフ2、・・・が、なにか生々しいマッスのようなものとして「実在」する、と信じたようです。あまりに時代を先駆けていたので、精神病院に入れられたのですね。
ノミナリスムとか、デノミナシオンとか、いいますと、私はいつも、カントールのことを思います。

アレフ1やアレフ2は、本当に実在するのだろうか?
神ですら、そんなことはわからないのだ、というのが、後期ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論だったと記憶しています。



Re: 命名の悲劇 筆綾丸 - 2005/04/16(Sat) 21:53 No.530  

いわゆる超限基数アレフは、アレフ・ゼロが基底ではなかったですか?
最近の院は、科学関係の本、あんまり読んでないでしょう? 
アレフ・ゼロとアレフ・ワンの間には別の無限集合はない、というのが連続体仮説で、これはZF公理系では証明できないから、公理にしてしまおう、ということでしたね、たしか。


Re: 命名の悲劇 後鳥羽院 - 2005/04/16(Sat) 22:00 No.531  

うん、そうだった。
だんだん思い出してきたよ。
もっと科学の勉強をしないといけないね。
それはそうと、晩年のライプニッツはどっかの王家の系図作りに没頭した、という話を聞いたことがあるけれども、なぜ、そんな不毛なことをしたのだろうか? 謎だね。・・・ニュートンの聖書研究と同じようなものだろうか?


命名の悲劇の誕生 如月 - 2005/04/17(Sun) 09:43 No.533  

ライプニッツの伝記にまで立ち入ると、当面の近世思想史談義はまったくすすまなくなりますから(笑)それは他の人にお譲りすることとして、普遍者と個ということでとりあえず考えているのは、法の問題です。
つまり、法の条文は普遍しか記さないわけですけど、できごとはすべて個々の事例なわけですよね。ですから、個々の事例が、法が規定している(prescrire)ケースに相当するのか(違法か適法か)という場面で、この普遍者と個のあり方ということがつねに問題となっているのではないでしょうか。
問題が命名だけのことであれば、そこからとりたてて大きな効力や規制力は発生しませんが、そこに法がからまってきたとたん、とある効力・規制力が発生するので、ことは単なる命題論ではすまなくなる。
(だから17〜18世紀の議論では、言葉の発生と法的規制力の発生が並行して論じられるということでしょうか?)


ロックにおける「罪と罰」 如月 - 2005/04/20(Wed) 15:49 No.540  

ちなみに、一ノ瀬正樹さんの『人格知識論の生成ーージョン・ロックの瞬間』の最後の方に、次のような指摘がありましたので、ご紹介しておきます。

「ロックの刑罰論は、徹底して犯罪と刑罰をわれわれの実践のなかへ融合させるものであり、そこでは、実践と独立の犯罪や刑罰の概念、あるいは実践と独立の法としての刑罰体系、などは完全に排除されている。もちろん、さまざまな形の法がロックの考察の射程に入っていることは疑いないが、ロックがなにより強調したのは、どのような法であれ、それを制定し適用し執行する営みなしには何らの意味も持たないということ、つまりは、法は制定や適用の実践とともに実現するということ、このことなのである。こうした論の流れは、生得説批判に典型的に顕現するロックの経験論の原把握に完璧に呼応している。もし、いわゆる罪刑法定主義という考え方が罪刑と独立な法の存在を要請するものであるなら、ロックの刑罰の捉え方はそうした罪刑法定主義を越えた、より原理的な問題地平に根差すものであったと言うべきだろう。もっとも、罪刑を活動として押さえたうえで、罪刑と法との関係を一層緊密な仕方で理解するなら、ロックの把握に近づいていく。それゆえ、たとえば、犯罪概念を「可罰化加工過程」として捉える白井駿の見方は、この点でロック的である。白井は言う。「犯罪概念は、特定の人間行動に対して、国家権力を具有する人間が、対象としての人間行動を一定の犯罪へと加工していくプロセス、すなわち、両者の人間行動が複合しつつ、発展していく動態のうちに顕現する」(『犯罪の現象学』)。このような見方は佐藤直樹により一層先鋭化され、「共同幻想としての刑法」という概念にまで至る。しかるに、佐藤は、近代における「共同幻想としての刑法」のあり方を労働を介した「犯罪と刑罰の等価交換」に見いだし、その背景には「労働力の商品化という資本主義における人間の抽象化」があると指摘する(『共同幻想としての刑法』)。このような指摘は一見するとロックにまさしく妥当するように思われるが、ロックとは断じて無縁であることにぜひとも注意しなければならない。確かにロックは刑罰を賠償という労働に定位したが、そこでの労働とは、究極的には、何が正しいことなのかという問いを探究していくという、自然法認識に向かう労働であった。」(一ノ瀬正樹氏上掲書、第十章「刑罰への跳躍」、317〜8頁)


「ジョン・ロックの瞬間」 投稿者:如月 投稿日:2005/04/16(Sat) 15:17 No.528  
ライプニッツの『人間知性新論』を読んでいると、どうも、ジョン・ロックという人はとんちんかんなことを言っているようにしか思えなくなってくるのですが(笑)、それではロックに対してあまりにも不公平でしょうし、だいいち、コンディヤックやマブリへの「影響」が語りにくくなってしまいますから、仕切直しとして、一ノ瀬正樹さんの『人格知識論の形成ーージョン・ロックの瞬間』(東京大学出版会、1997年)を読むことにしました。まずはその序章のなかから、重要と思われるフレーズを引用・紹介しておくことにしましょう。

「知識の持続性は、「誰が」その知識を主張したり獲得したりするのかという観点を意図的に排除したとき現出するのに対して、知識の瞬間性は、まさしく「誰が」その知識を主張し「誰が」その知識を獲得するのかという観点に立つとき姿を現してくる。実のところ、こうした「誰が」の概念を軸にした区分は、私が右に展開した議論のなかにすでに胚胎されていたはずである。そして私は、少し先取りすることになるが、この「誰が」とは「人格」にほかならないと押さえる。したがって、持続性の強調によって表象される知識のあり方は、「人格」との関連を積極的に欠いたところに成り立っているがゆえに、「没人格的知識」と呼ぶことができるであろう。そしてもちろん、瞬間性に注視することによって描かれる知識のあり方は、「人格」との本来的連関のもとで生成してくるがゆえに、「人格知識」と呼ぶことができよう。かくして、立ち向かうべき課題は、「人格知識」の実相を解明すること、このことに集約されてくる。」(一ノ瀬正樹氏、前掲書、6頁)

「ところで、以上に素描したような人格知識の考え方は、哲学史に見いだすことはできないのだろうか。知識を主題にした哲学は一般に認識論と呼ばれ、近世哲学の大きな柱の一つをなしてきた。そして、この近世認識論の発端をなすとされているのが、17世紀のイギリスの哲学者ジョン・ロックである。ロックは、生まれたばかりの人間の心を白紙にたとえ、すべての知識は経験に由来するとした。このような原構図のもとに、近世認識論は、いわばデカルト的に純粋かつ抽象的に取り出される主観が客観とどのようにかかわるとき認識が成立するのか、という問いをめぐってさまざまな議論を提示してきたと、そう一般的かつステレオ・タイプ的にまとめられる。(中略)
 しかしながら、こうした記述は大きな倒錯を犯している。少なくとも、私にはそう思われる。というのも、右のようなまとめ方は、「経験」ということを没人格的な感覚や知覚とほぼ同一視してしまうきわめて特殊な見方、恐らくはカントに起源する見方、を最初に受け入れたうえで、その見方を機軸にして近世認識論全体を、つまりその特殊な見方が発生する以前の哲学までをも、総括しようとするものだからである。」(一ノ瀬正樹氏、前掲書、10頁)

「ロックは、自然法の認識がどのように可能か、という問題を論じながら、知識を獲得するには理性を自覚的に働かせることがなによりも必要であるとする。さらには、生得概念の存在を否定しながら、知識獲得には当人がそのことを肯定し同意することがなければならないともする。つまり、ロックは、知識ということで、当人が獲得したもの、当人が実際に知っているもの、と理解したのである。その点で、生得的な知識というのは、ロックにとって語義矛盾であり、絶対に不可能なものであった。こうした知識観を導く、理性の自覚的行使と肯定・同意の契機が、私が右に述べた努力・探究と同意・決定という人格知識の二つの位相に対応していることは明らかである。
 のみならず、ロックの哲学からは、こうした探究と決定の契機をもっと実践的かつ具体的に洗練させていく道筋も読み取ることができる。すなわち、労働から所有権の確立へと向かう議論の道筋である。(中略)
 このような見取り図のもとで析出されるロックの人格知識論に関して繰り返し強調されるべき特徴は、まず第一に、ロックは、知識を論じるときに、実践から抽象された純粋な主観ではなく、まさしく実践のただなかにいる人格にこそ訴えているということである。純粋な思惟の主体として取り出される主観あるいは自我を議論の出発点とすることが近世哲学のメインストリームを形成していったとするなら、ロックは明らかに異端であったと言わねばならない。しかし、異端がすなわち不当であることには決してならないどころか、異端であるがゆえにかえって人の見逃した論点を見据えることができたのではなかろうか。(中略)しかも、ロックのこうした方向の議論の底には、人格が知識と独立にまず存在していて、それが知識を獲得する、というような構図ではなく、知識などの財を獲得することによって人格が形成されていくという、いわば人格と知識を融合し一体化させていく、というラディカルな把握も流れている。」(一ノ瀬正樹氏、前掲書、11〜12頁)

「このように、知識が、労働という努力や探究を踏まえたうえで、そのつどの所有という瞬間的な同意や決定によって成立していくこと、そしてそうした同意や決定と同時に社会制度への暗黙の同意がやはり瞬間的に遂行されていくこと、しかもこれらのことが人格概念の確立にも寄与していくこと、こうしたロック哲学に宿る人格知識論の着想のことを私は「ジョン・ロックの瞬間」という言い方で象徴的かつ凝縮的に表現することにしたい。」(一ノ瀬正樹氏、前掲書、13頁)


知識の所有 如月 - 2005/04/17(Sun) 09:24 No.532  

ジョン・ロックの『人間知性論』は生得概念批判からはじまりますが、一ノ瀬さんは、この『人間知性論』第一巻での議論を「知識の成立自体の根拠を論じたもの」ととらえ、「ロックが「知識」ということを「知られる」あるいは「理解される」ということと重ね合わせている」ということに最大限注目すべきであるとしています。
「ロックにとって、「知識」とは、それを所有する人にとって「知られ」そして「同意」(assent)されてはじめて成立するものなのである。これは、奇妙に思われつつも何気なく読み過ごされてしまうかもしれない主張だが、ある意味で、たとえばバークリの「Esse is percipi」以上にラディカルな主張であると考えられるのではないか。
 けれども、普通に考えれば、これは、「知識」のある局面を的確に取り出した指摘であることは容易に了解できるだろう。ロックがここで扱っている論理的な知識に即して言うなら、ここで指摘されているのは、論理的推論が最終的に成立するには証明の過程が記されたり示されたりするだけでは十分でない、ということである。それだけでは推論の帰結についての「知識」はいまだ人に知られたとは必ずしも言えず、したがって人に所有されるには至っていない。推論とその帰結についての知識は、人がその推論を「肯定する」あるいは「同意する」ことによってはじめて本当に成立するのである。すなわち、推論は、「肯定する」あるいは「同意する」という行為によってこそ、その人に宿り、その人が所有するところの知識となるということ、換言すれば、知識は、人が理解してはじめてその人の知識となるということ、こうした自明な事態にロックは注目していたのである。」(一ノ瀬正樹氏、前掲書第一章「生得説批判」、29〜30頁)
「要するにロックは、原理とその認識とを、ひいては真理の存在と真理の認識とを同化しようとしていたのである。そうした視点からすれば、生得説、つまり少なくとも認識されない原理の存在を主張しようという説は、原理の主張である以上は真理に関する主張と見ざるをえないが、ロック自身とはまさしく正反対の主張となる。」(一ノ瀬正樹氏、前掲書第一章「生得説批判」、32頁)


一ノ瀬さんによる、ロック・ライプニッツ論争の要約 如月 - 2005/04/17(Sun) 10:37 No.534  

この直後の箇所で、一ノ瀬さんは、ライプニッツのロック批判に触れ、それを次のように要約しています。

「第一は、「実際は、万人がそれらを知っているし、はっきりとは意識せずとも(たとえば)矛盾律をつねに使っている」というものである。これは、論理的原理はわれわれのすべての思考の形式として、つねに先行されて前提されていなければならない、よって生得である、というもので、形式説と称することができよう。すなわち、ロックが生得性の問題を文字通り事実的問題として扱っていたのに対し、ライプニッツはそれを論理的問題と捉え、論理的形式性・先行性をもって生得性の根拠と解したのである。少なくともこの段階に視点を限るなら、そうまとめることができよう。こうした考え方には、「生得」という概念を素直に取る限り、「思惟における心理的秩序と論理的秩序の同一視」からする「別個な事柄の混同」つまりは「すりかえ」があるとまずは診断できる。けれども、これは「すりかえ」なのではなく、ライプニッツはまさしく二つの秩序を正当に区別したのであって、それは「彼の最良の洞察」である、とする積極的な解釈もまた可能かもしれない。いずれにせよ、この場面だけでは、ロックとライプニッツの議論は、論争になっているというよりも、根底的に噛み合っていないと言うべきである。ロックが知識全般をそれを獲得する「同意」の行為のなかに事実的な事態として見届けようとしているのに対し、ライプニッツは、少なくとも論理的原理に関しては、そうした事実的に生じている行為を捨象した地平において知識を捉えているからである。ここには二つの全く異なる知識観が、つまり、「人格知識」と「没人格知識」という序章で見越した見方に明らかに対応する二つのともに正当な見方が、いわば平行的に並立しているのであり、形式説はそうした場面におけるロックへの反論なのである。
 けれども、ライプニッツの議論には、この形式説以外の生得説も含まれている。それは概念や原理が「潜在的に」(virtuellement)われわれのうちにあるという考え方であり、「潜在的認識(connaissances virtuelles)と内的隠蔽(suppressions interieures )」の主張である。これはロックに即して言及した「潜在説」と同じだが、ライプニッツの場合、文字通り事実として潜在的に存在するという説として現れている。つまり、さきの形式説とは違って、この潜在説は、単なる形式にとどまらず、現実の内容や対象として生得的知識が潜在的にしかし事実的に現前する、と主張する。それゆえ、形式説にとどまる局面とは違って、潜在説を説くライプニッツは全面的にロックと対決することになる。
 こうした潜在説を主張する根拠として、ライプニッツは二つの論点を挙げる。第一は、「われわれは、自分自身つねに気づいているわけではなく、必要なときさえ気づかないような無数の認識を持っている」というライプニッツ固有の微小表象(petites perceptions)の概念が記憶の事実に実際重なるという論点であり、第二は、生得的知識の存在は不可能ではないという論点である。第二の論点は、生得的真理に対する次の言、「そのような真理が存在することを断言はできないけれど、そうした主張に不合理は全然ない」においてもっとも顕在化している。こうした、不可能でない、という論点は、ロックにとっては思いもかけない視点からの主張であるに違いない。」(一ノ瀬正樹氏、前掲書第一章「生得説批判」、33〜35頁)

以上の問題を、一ノ瀬さんは、「問うべき生産的な課題は、ロックは、「知識」を実践のなかへ織り込むことによって、ライプニッツ風の批判にどのように対応できるようになるか」とまとめあげ、以下の章においてこの問題を考察していくことを予告しています。


問題点の整理(如月流) 如月 - 2005/04/17(Sun) 23:41 No.535  

一ノ瀬さんのここまでの議論を振り返って、自分なりに考えてみると、たとえば知覚という場合、ライプニッツとロックではそのとらえ方が全く異なっていると思います(ロックに即して考えるならば、「認識」をとりあげた方がよいのですが、するとこれに対応するライプニッツの概念を同定するのが難しくなのますので、ここではあえてライプニッツ側にたって、「知覚」の問題を取り上げることにしようと思います。ただし「認識」に関しても、基本的には同じような議論が成立するかと思います)。
つまり、ライプニッツにとって知覚(perception)というのは、無意識的なものをも含めて知覚なのであり、そのなかでわれわれの意識にのぼっているものを指すとき、彼はわざわざaperception(意識的知覚)というわけです。ところがロックにしてみれば、ライプニッツのaperceptionだけが知覚なのであり、意識されていない知覚というのはそもそも「知覚」と呼ぶに値しない。で、問題をライプニッツのいうaperceptionだけに限定して考えれば、これは明らかに後天的というか生得的(先験的)ではない。ですから、知覚が生得的であるかどうかという問題は、結局、知覚の範囲をどこで押さえるかによって変わってくるのだと思いますけれども、ライプニッツのいうperceptionについて、ロックは論じないわけです。
これと関係して、「本質」の問題ですが、ロックが問題にしている本質、もしくは定義や言葉の問題は、つまるところ人間を判断の中心にしている。そのうえで、人間がとらえることのできない本質に関して、不可知論の立場をとる。そうした本質や名称(とくに事物に関わるもの)に関しては、結局、それを本質と関連づけることはできず、そのように規定してあるだけなのだというのが、ロックの立場ではないでしょうか。
ライプニッツはそうした不可知論に強く反発するのだけれども(なぜならこの不可知論を本質実在論と識別するのは困難だから)、それは結局、ロックの判断基準が人間の感覚、人間の言語にあるから曖昧な結論になるのであって、事象的世界をより精密に記号化すれば、ロック的な不可知論や本質実在論は解消されると考えていたのだと思います(その意味で、ライプニッツからすれば、幾何学の世界と事象的な世界に基本的な隔たりはない)。このライプニッツの立場は、おもしろいことに、ロックの立場からすると本質実在論と似てくるわけですが、しかし勿論そうではなくて、ライプニッツは、事象を記号相互の問題として厳密に取り扱うために事象的世界の記号化を主張するのだけれども、その根本をなす記号そのものは、事象の本質ではなく、やはり規定なのだろうと思います。
あえていうと、この根本規定の認識が、ライプニッツのperceptionなのだけれど、上にも書いたように、これは意識的ではない(意識下で行われる)。で、表層に戻ってaperceptionのレベル(人間の意識や人間の言語のレベル)で議論するならば、ロックのようにいえなくもないのだろうけれども、しかしそこでライプニッツは、あえて、問題の脱人格化を主張しているのではないでしょうか。
(この辺の相違は、すぐ下のスレッドの「実在的本質」と「名目的本質」についてのロックとライプニッツの把握の逆転によく現れていると思います。)
さて、議論をこのように整理すると、下方にも少し書いたように、ロックの立場というのはデカルトとさほど遠くないというか、ライプニッツというフィルターをとおしてみると、ロックとデカルトの知的土俵の類似が目立ってくるように思います。つまり、ロックもデカルトも、確実性の起点は「私」にある。これは同時に、ロックの思想を、単純に「経験論」と言い切ってしまうことへの疑問でもあるのですが…。

この辺のところ、一ノ瀬さんの著作を読みながら、もう少し考えてみたいと思います。


普遍論争 投稿者:如月 投稿日:2005/04/12(Tue) 12:10 No.508  
下方の慧遠さんの書き込み(石黒ひでさんによるライプニッツ解釈の要約・紹介)によって、ライプニッツの存在論の概要、だいぶ明らかになってきたかと思いますが、小掲示板の当面の関心は、ライプニッツ哲学の掘り下げもさることながら、ロックとライプニッツの論争の位相、コンディヤックによるロック思想の継承等の問題をノミナリスムの問題と絡め全体として明らかにすることにありますので、その視覚から、改めて増永洋三さんが『ライプニッツ』(「人類の知的遺産38」、講談社、1981年)に記している、普遍論争とライプニッツの絡みの問題を引用しておきたいと思います。ライプニッツに関しても、まあいろいろな説の紹介があったほうが、当掲示板を読まれる方にとっても有益でしょうし、増永さんの説と石黒さんの説が齟齬するようであれば、それはそれとして、以下で論じていけばいのではないでしょうか。

「フレッケンシュタインやN・ハルトマンは、ライプニッツの思想形成に及ぼした最も重要な影響を、中世において繰り返し論議され、近世にまで引き継がれた所謂「普遍論争」に求める。「普遍論争」とは、一般概念によって表される普遍者の実在性に関わる唯名論(ノミナリスム)と実在論(レアリスム)の対立、即ち普遍者は我々の意識から独立に実在するものであるのか、又は普遍者は如何なる実在性ももたず、或る思惟内容に対する単なる名前にすぎないのか、という問題をめぐる論議である。
 中世の多くの思想家たちは普遍者の実在性を主張した。普遍者が事物世界に先立って(アンテ・レム)存立するものと考えられるにせよ、もしくは事物のうちに(イン・レブス)実体的形相として存すると理解されるにせよ、どちらの場合にも普遍者の実在性は、存在論的に「先なるもの(プリウス)」と見做された。そして個別的事物は普遍者に対して二次的なもの、更には存在価値に関してより劣れるものと見做された。そして本来の実在性は事物のうちにではなく、普遍者のうちにおかれた。
 かかる普遍なるものの実在論に対して、既に早くアンセルム(1033〜1109年)の時代から唯名論が対立してあらわれた。それによれば、普遍的なものは単なる名前、もしくは対象を欠く空虚な言葉にすぎないとされた。中世末期に至ると唯名論は一層有力になる。この唯名論の考え方の背後にあるのは、自然的事物の実在性及び、それと結びついた経験的認識の権利回復の要求であった。そして本質の領域を事物のあとに(ポスト・レム)、単に精神のうちに(イン・メンテ)成り立つものとする傾向であった。
 このような普遍論争におけるノミナリスムとレアリスムの対立に対して、その克服、融和を見出そうとする問題意識が、ライプニッツの思想形成にとって重要な意義を有したことは疑いない。この問題の解決のための努力が、ライプニッツの哲学的思索を導いて、独自の論理・認識思想、自然学思想、形而上学思想、更には道徳・神学思想の確立に至らしめたのである。」(増永洋三氏、前掲書8〜9頁)

ちなみに、推理小説としておもしろく読める普遍論争入門書をめざして書かれたのがエーコの『薔薇の名前』ですね。この本のタイトルからして、「名前」が大きな問題であることを示しているわけです♪


ライプニッツの課題 如月 - 2005/04/12(Tue) 12:33 No.509  

増永さんの記述の要約続けてみましょう。

「この普遍論争の問題に密接に関連するのは、「変化」の問題、即ち「不変的なもの」に対する「可変的なもの」の関係の問題である。スコラ哲学によれば、変化が自然のうちに見出されるのは、或る不変的な実体が別の形相の下にあらわれるが故である、とされた。それ故もし水が一定の温度で氷に変ずるならば、この変化が意味するのは、今日H2Oで表される実体が、水という形相から氷という形相に移行するということ、そしてその際「実体的形相」は、実体を水又は氷たらしめる本来的に実在的なものにほかならないとされた。 唯名論的批判によって、かかる実体的形相の存在が否定された。そしてそれと同時に、自然哲学は、実体の変化を諸形相に訴えることなしに説明せねばならぬという新たな困難に直面した。古代のアトミズムの復活が解決策として考えられた。自然における一切の出来事は単純実体であるアトムの集合と離散にもとづく。それらの要素の合成又は分散によって自然の現象が生ずるのである。
 唯名論は最初は単にスコラ哲学の内部での一つの運動であったが、アトミズムはそれを超えて近世初頭の学問的探究の精神を全体として支配する。(中略)
 ノミナリスムは「関係における思惟」を呼びさました。他方レアリスムは、「事物的思惟」に深く結ばれている。近代における普遍論争の解決は、「実体的思考」のレアリスムと「機能的=函数的思考」のノミナリスムの綜合のうちに存しなければならない。ここに若きライプニッツの直面した根本課題があったのである。」(増永洋三氏、前掲書9〜11頁)


ライプニッツにとっての真理の位相 如月 - 2005/04/12(Tue) 13:16 No.511  

ここまでの記述はほんとうの導入部に過ぎませんから、もう少し、増永さんによるライプニッツ思想の分析の内部に立ち入ってみましょう。

「定義の本質は概念の構成にあるのである。この操作は、学の基礎そのものに任意の要素を導入するどころか、反対に、数学的確実性の条件である。精神は、それが構成するもののみを完全に認識することが出来るのである。もし数学的定理が絶対に疑い得ない必然的真理であるとすれば、それは、それらが直接に感覚的対象に関係づけられるのではなく、イデアルな対象に、その内容を精神が明晰判明に覚知するところのア・プリオリに定義される概念に関係づけられるからである。純粋な概念に適用されるために感覚的事物から引き離されることによって、精神は真理を把握することが出来るのである。
 ところで我々が概念を自由に扱うことが出来るのは、それらに名前を付与することによってである。このようにしてノミナリスムは、懐疑論に帰着するどころか、数学的確実性を保証するものである。証明に由来する定理の必然性は、定義の唯名的性格によって少しも危うくされはしない。(中略)
 永遠真理は精神によって自由に定義された概念の間の必然的関係以外のものを表さない。それ故、永遠真理は一切の精神の外に実在化され得ない。我々は数学的思惟の理念的な対象を、我々の外に実在化し、それらを永遠不変の本質、自体的に存立する叡智的実在と見做す傾きを有する。けれどももし真の認識が叡智的本質の洞見に存するなら、我々は何処から誤りが生ずるかを説明し得ないであろう。もし真なる思惟が存在の現前によって照明される思惟であるとすれば、偽なる思惟はどのようにして存在するのであろうか。如何にして精神は存在しないものを見ることが出来るか。真と偽は、探究において模索的に試行し、仮定を立てて進む活動的精神に対してのみ意味をもつ。
 我々が認識の行使の条件について真なる判断の特質と誤謬の可能性を考察するならば、我々は自由な決定にもとづく仮説の役割を認め、ノミナリスムの意義とその制限を正当に理解し得るであろう。真理の表現は精神がとり入れた言語に応じて、精神が立てた定義に応じて可変的であり得る。しかし定義の異なった体系のうちに表されているのは、同一の真理である。真理は、虚偽と同様可能的判断のみにかかわる。そしてもし真理がその基礎を神のうちに有するとすれば、それは、すべての可能的な真なる判断の根拠が神のうちにあることにほかならない。かかるものが、ノミナリスムの批判的吟味に結びついたライプニッツの深い思想である。」(増永洋三氏、前掲書37〜9頁)

ここでも、期せずして、石黒さんの問題意識同様「可能性」の問題がでてきましたけど、ライプニッツの思想が、ノミナルな定義と真偽判断の問題の周辺をめぐって展開しているということの一端、この記述から読みとれるのではないでしょうか。


「可能性」への評価 如月 - 2005/04/12(Tue) 14:40 No.512  

う〜む、よく読むと、ライプニッツのいう「可能性」に対する評価、増永さんと石黒さんでくいちがっているようにも思えますが、その辺の吟味は、慧遠さんをはじめみなさんにおまかせします。私としては、このスレッドで、とりあえずライプニッツ思想にとっての普遍論争の意義を明らかにしたかったのです。
「モナドロジー」も「予定調和」も、結局はライプニッツのこうした問題意識が集大成されてうまれた存在論的・認識論的モデルだと思いますが、結果としての「モナドロジー」と「予定調和」だけみていっても、ライプニッツにとっての哲学的問題の所在は少しもみえてこないのですね。


名辞、定義、本質 如月 - 2005/04/13(Wed) 15:26 No.513  

さて、増永さんや石黒さんの解釈が妥当するかどうか、名辞、定義、本質(そして可能なるもの)についてのライプニッツの考え、『人間知性新論』のなかから拾ってみましょう。

Ph「<一般的とか普遍的と呼ばれるものは、事物の現実存在に属するのではなく、知性の所産であるということになります。そして、各々の種の本質は抽象的観念にすぎないのです。>」
Th「そういう結論になるのがよくわかりません。というのは、一般性は個別的な事物相互間の類似にあり、この類似はひとつの実在であるからです。」
Ph「私自身、<それらの種とは類似に基づいている>と言おうとしていたのです。」
Th「ではどうしてそこにまた類や種の本質も探さないのですか。」
Ph「<異なる人たちの精神のうちではしばしば単純観念の異なった集合体であるような複合観念が少なくとも存在し、したがって、ある人の精神において吝嗇であるものが他の人の精神においてはそうでない、こうしたことを考慮に入れれば、先の[種の]本質が知性の所産であると私が言うのを聞いても、人はあまり驚かないでしょう。>」
Th「実を言うと、あなたの推理の力がこんなに納得できない点はこれまでめったにありませんでした。これは困りました。人々が名称の点で意見が異なるならば、それによって事物やその類似性が変化するのでしょうか。ある人が吝嗇という名をある類似性に適用し、他の人がその名を別の類似性に適用するとすれば、それは同じ名で指示された二つの異なる種になってしまうでしょう。」
Ph「<私たちにとって最も親しく、私たちが最も親密な仕方で認識している実体[人間]の種において、ある女性が生んだ胎児が人間であるかどうか幾度も疑われたことがあり、その子を育てて洗礼を授けるべきかどうかの議論までされました。もし人間という名が属する抽象観念ないし本質が自然の作品であって、知性が寄せ集め、そして抽象化という手段によって一般化した後に名を結び付けたような、単純観念の変わりやすく不確実な集合でないとすれば、そのようなことは起こりえないでしょう。したがって、実は、抽象によって形成された別々の各観念は別々の本質なのです。>」
Th「申しわけありませんが、あなたのおっしゃることには当惑してしまいます。筋道が見出せないからです。私たちが内部の類似性を外から必ずしも判断できないからといって、そのために内部の本性において類似性がいっそう少ないのでしょうか。奇形の者が人間かどうか疑われるのは、理性をもっているかどうか疑われるからです。理性をもっていることが分かれば、神学者はその者に洗礼を授けるよう命ずるでしょうし、法律家は養育するよう命ずるでしょう。(中略)人間がこれこれの観念を結合するか否かということや、それどころか自然がそれらを実際に結合するか否かということは、本質・類・種とは何の関係もありません。本質・類・種においては、私たちの思考からは独立した諸可能性だけが問題だからです。」
Ph「<各々の事物の種の実在的構成が通常前提されており、その事物のうちに共存する単純観念ないし性質の各集合が基づいているに違いない実在的構成があるはずだ、という点には疑いの余地がありません。しかし、事物は、私たちがある名を結び付けた一定の抽象的観念と一致するかぎりでのみ、その名の下に種ないしスペキエスに分類されることは明白なのですから、各々の類あるいは種の本質とは、そのように一般的あるいは種的な名が意味する抽象的観念にほかならないということになります。そしてこれこそ、本質という言葉が最も普通の使われ方に従って含意しているものであるのが分るでしょう。これら二種の本質を二つの異なった名で指示し、前者を実在的本質、後者を名目的本質と呼ぶのも悪くはないだろうと思います。>」
Th「あなたの言葉づかいは表現の仕方がきわめて革新的であるように私には思われます。名目的定義や因果的ないし実在的定義についてはこれまでよく語られてきました。しかし私の知るかぎり、実在的本質以外の本質について語られたことはありません。そのようなものは、名目的本質として、虚偽の不可能な本質、つまり本質であるように見えるが実はそうでないもの、が考えられるのでなければありえないのです。たとえば正十面体、すなわち十の平面ないし表面で囲まれた正立体の本質のようなものです。本質とは結局のところ、熟考[呈示]されるものの可能性にほかなりません。可能であると想定されるものは定義によって表出されます。しかしその定義は、同時にその可能性を表出してなければ名目的なものにすぎません。というのも、そういう場合、その定義が何か実在的なもの、すなわち可能的なものを表出しているかどうか疑いうるからです。この疑いは、経験が私たちの助けになり、その事物が世界に実際に見出されるときに、その実在性をア・ポステリオリに知らせるまでは解消しません。[けれども]定義された事物の原因ないしその可能な生成を示すことによってア・プリオリにその実在性を知らせる理由がない場合には、それで十分です。それゆえ、諸観念を私たちの良いと思うように結び付けることは、その結合が可能であることを示す理由によってか、あるいは、それが現実的であり、したがって可能的でもあることを示す経験によって正当化されない限りは、私たちに任されているのではありません。また本質と定義をよりよく区別するためには、事物の本質はひとつしかないけれども、同一の本質を表出するいくつもの定義があることを考慮に入れなければなりません。ちょうど、同一の構造や同一の都市も、それをさまざまな方面から眺めるに従って、さまざまな遠近画によって表現されうるようなものです。」
Ph「あなたは次のことに同意してくださると思います。すなわち、<単純観念と様態の観念において実在的なものと名目的なものとは常に同じであるけれども、実体の観念においては両者は常にまったく異なっているということです。三本の線で空間を境界づける図形というのは、三角形の名目的本質だけでなく実在的本質でもあります。というのも、それは一般名が結びつけられた抽象的観念であるだけでなく、事物の本質ないし固有の存在、あるいはその事物の固有性がそれから生じそこに結び付けられている根拠でもあるからです。しかし、金については事情はまったく別です。色・重さ・可融性・不変性などが依存する、金の諸部分の実在的構成は私たちに知られていませんし、私たちはそれについての観念をもっていないため、観念の記号である名前ももっていないのです。けれども、その物質が金と呼ばれるようにするのはそれらの性質であり、そうした性質が金の名目的本質、すなわち金という名をもらう権利を与えるものです。>」
Th「私はむしろ世間一般に受け入れられている用い方に従って、金の本質とは金を構成するもの、金に先の可感的諸性質を付与するものであると言いたいのですが。その可感的諸性質が、金が金であることを知らせ、金の名目的定義をなすのです。これに対して、もしその組織ないし内的構成を説明することができれば、私たちは実在的で因果的な定義を手にすることでしょう。しかしながら、名目的定義は、(その物体の可能性や生成をア・プリオリには示さないので)定義それ自身によってではなく、経験によって、ここでは実在的でもあるのです。(中略)数学ではひとつの同じ様態が名目的定義も実在的定義ももちうるのです。これら二つの定義の違いがどこにあるのかを正しく説明した人は少ししかいませんが、二つの定義の違いによって本質と固有性も区別されるはずです。私の考えでは、その違いは、実在的定義は定義されているものの可能性を示すが、名目的定義は示さないということです。[たとえば]二本の平行線の、それは同一平面上にあって無限に延ばされても交わらない、という定義は名目的でしかありません。なぜなら、まずそれが可能かどうか疑いうるからです。しかし、平行線を描いていくペンの先が与えられた直線と常に等距離を保つよう注意しさえすれば、与えられた直線に平行な直線を平面上に引きうることを理解したときには、同時に、それが可能であること、平行線は決して交わらないというこの固有性をどうしてもつのかが分ります。この固有性は平行線の名目的定義を成しているとはいえ、それは二本の線が直線であるときしか平行の指標ではありません。これに対して、少なくとも一本の線が曲線であれば、二本の線は決して交わりえないという性質をもちうるとはいえ、一本の線が曲線であるあるために平行ではなくなるでしょう。」
Ph「<もし本質が抽象的観念とは別のものであるとすれば、本質は生成しえないものや消滅しえないものではなくなってしまうでしょう。一角獣もセイレンも厳密な円も、この世にはおそらく存在しません。>」
TH「すでに申し上げたように、本質は可能的なものにのみ関わるがゆえに恒久的なのです。」(『人間知性新論』第3部第3章「一般的名辞について」)


ロックの名辞論 如月 - 2005/04/14(Thu) 14:04 No.514  

一口に「唯名論」といっても、ロックとライプニッツではだいぶへただりがあるようですね。この点、ライプニッツによるロック説の要約・紹介(『人間知性新論』のなかのフィラレート説、小掲示板の引用ではPhとして示している)だけでは片手落ちですから、以下、ロックのオリジナルの言説も確認しておきましょう。

「一般とか普遍とかは、実在する事物には属さず、知性が自分自身で使うために作る案出物・創造物であって、ことばにせよ観念にせよ、記号だけにかかわるのである。すでに述べておいたように、ことばは一般観念の記号に使われるとき一般的になり、ひいては、多くの特殊な事物へ無差別に当てはめることができる。また観念は多くの特殊な事物の代表とされるとき一般的である。が、普遍性は事物自身すなわちその存在ではすべて特殊である事物自身に属さず、意味表示では一般的である[一般語や一般観念のような]ことばや観念にさえ属さない。[なぜなら、一般語や一般観念は、ことば自身・観念自身としては特殊である。]それゆえ、いろいろの特殊なものを取り去るとき、残るところの一般的なものはただ私たちの作る創造物にすぎない。というのも、その一般本性は、多くの特殊なものを意味表示ないし代表するという、知性が一般的なものに付与する能力にほかならない。なぜなら、一般的なもののもつ意味表示は、人間の心によってこの一般的なものにつけ足された一つの関係にほかならないからである。

 それゆえ、次に考察すべきことは、どんな種類の意味表示を一般語がもつかということである。というのは、明白に、一般語は一つの特殊な事物だけを意味表示しない。なぜなら、特殊な事物だけを意味表示するなら、一般名辞でなくて、固有名だったろう。同じように、他方、明白に複数[の事物]も意味表示しない。なぜなら、複数を意味表示するなら、[たとえば]人間と人々は同じものを意味表示し、(文法学者のいわゆる)数の区別は蛇足で無用だったろう。してみると、一般語が意味表示するものは事物の種で、おのおのの一般語は心の中の抽象観念の記号であることによってそのように[種を意味表示]するのであり、存在する事物はこの抽象観念に一致すると見いだされるままにその[一般語の]名まえのもとに類別されるように、あるいはまったく同じだが、その種であるようになるのである。これで明白だが、事物の種あるいは(もしラテン語がいっそう好ましいとすれば)スペキエスの本質は、こうした抽象観念以外のどんな事物でもない。なぜなら、ある種の本質をもつということは、ある事物をその種であるようにするものであるし、[その種の]名まえが結びつけられている観念と[事物と]の合致は、[事物に]その名まえへの権利を与えるものだから、本質をもつこととこの合致をもつことはぜひとも同じことでなければならない。(以下省略)」(『人間知性論』第3部第3章「一般名辞について」〜第11・12節)


抽象観念の根底には事物の相似がある 如月 - 2005/04/14(Thu) 14:43 No.515  

「このさい、私は次のように思われたくない。すなわち、事物が産みだされるにあたっていくつかの事物は自然に似かようように作られているが、このことを私は忘れていると思われたくないし、まして否定するとはなおさら思われたくない。これほど明瞭なことはなにもない。とくに、動物の種属やすべて種子で繁殖する事物ではそうである。とはいえ、およそ名まえのもとに事物を種別することは知性の仕業だと言ってよいと、私は考える。知性は事物の間に観察する相似にもとづいて抽象一般観念を作り、これに名まえを結びつけて、範型ないし形相として(というのは、形相ということばは、こうした意義のとき、たいへん適切な意味表示をもつ)心に置き、存在する特殊な事物は、この範型ないし形相に一致すると見いだされるままにその種であり、その呼び名をもつようになる、いいかえれば、その部類へ入れられるのである。(以下省略)」(『人間知性論』第3部第3章「一般名辞について」〜第13節)


別個な抽象観念は、それぞれ、別個な本質である 如月 - 2005/04/14(Thu) 14:46 No.516  

「また、すくなくとも複雑観念は、それぞれの人でしばしば単純観念のいろいろ違う集合体であり、したがって、[たとえば]ある人間にとってどん欲[という複雑観念]であるものも他の人間にとってそうでない、そうした点を考える者は、私が次のように言っても、すなわち、(名まえの尺度であり、種の限界である)上述の本質ないし抽象観念は知性の製作品だと言っても、だれも怪しまないだろう。いや、実体すなわちその抽象観念が事物自身から取られると思われる実体でさえ、その抽象観念はいつもきまって同じではない。まったくそうで、私たちにもっとも親しくて私たちがもっとも親密に熟知するような種であっても、いつもきまって同じではない。というのは、[たとえば人間という私たちにとってもっとも親しい種についても、]ある女から生まれた胎児が人間であるかどうかが一度ならず疑われ、これを保育し洗礼させるべきかいなかが争論されてきたほどであるが、かりにもし人間という名まえの属する抽象観念すなわち本質が自然に作られたものであって、知性が寄せ集め、それから、抽象して名まえを添えたような、単純観念の不確実で変動する集合体でなかったとしたら、こうした[疑問や争論の起こる]ことはあるはずがなかっただろう。それゆえ、本当のところ、すべての別個な抽象観念は別個な本質であって、そうした別個な観念を表わす名まえは本質の違う事物の名まえなのである。(以下省略)」(『人間知性論』第3部第3章「一般名辞について」〜第14節)


二つの本質 如月 - 2005/04/15(Fri) 01:09 No.517  

ロック説の紹介続けましょう。今度は、二つの本質について言及される重要な箇所です。

「が、事物の本質はある人たちによって(しかも理由なしにでなく)まったく知られてないと考えられるから、本質ということばのいくつかの意味表示を考察することはまちがっていないといえよう。
 第一、本質は、ある事物をその事物とさせる事物の在り方そのものとされることができよう。こうして、事物の発見できる諸性質がもとづく実在の内的な、ただし一般に実体では知られない構造は、その事物の本質と呼べよう。これが[本質という]ことばの本来の本原的意味表示であり、その点はむことばの成り立ちから明白である。というのは、本質(essentia)は本来その始原の表示では存有[being]を意味表示するのである。で、私たちが特殊な事物になにも名まえを与えないで特殊な事物の本質について話すときは、今でもこの意義で使われている。
 第二に、[ところが]学院の学習・討議はこれまで類と種についてたいへん多忙であった。そのため、本質ということばはその始原の意味表示をほとんど失ってしまい、事物の実在の構造へ当てはめられる代りに、類と種の人工的構造へほとんどまったく当てはめられてしまったのである。なるほど、いろいろな種の事物の実在的構造が通常は想定されるし、また、疑いもなく、[事物の観念という]共存する単純観念のある集合体がもとづく実在的構造があるに違いない。けれども、明白に、事物は一定の抽象観念と、すなわち名まえが結びつけられた一定の抽象観念と一致するときだけ、その名まえのもとに種ないしスペキエスに類別されるのであるから、おのおのの類あるいは種の本質は、(もし類から類的と呼ぶように、種から種的と呼ぶことが許されるとすれば)類的あるいは種的名まえが表わす抽象観念にほかならない、そういうことになる。で、これこそ、私たちは見いだすだろうが、本質ということばがそのもっともありふれた使い方で表意するものなのである。これら二種の本質は、前者を実在的本質と名づけ、後者を唯名的本質と名づけて、不適当とはいえなかろうと私はおもう。」(『人間知性論』第3部第3章「一般名辞について」〜第15節)

ここでは、仏語のessence nominaleにあたることばを、ロックの翻訳者・大槻春彦さんは、「唯名的本質」と訳し、ライプニッツの翻訳者・谷川多佳子さんらは「名目的本質」と訳しているので、注意が必要ですね。


名まえと唯名的本質との結合 如月 - 2005/04/15(Fri) 09:30 No.519  

「唯名的本質と名まえとの間にはきわめて近密な結合がある。それゆえ、ある種の事物の名まえは次のようなもの、すなわち、この本質をもち、これによってその名まえを記号とする抽象観念に応ずるもの、そうしたもののほかにはどんな特殊な存有者にも帰属させることができないのである。」(『人間知性論』第3部第3章「一般名辞について」〜第16節)


この節、ライプニッツは紹介を略し言及していません。おそらく、これまでのロックの議論の補足的なものというとらえ方をしていたのでしょう。


形体的実体の実在的本質についての二つの説 如月 - 2005/04/15(Fri) 09:43 No.520  

この節、ライプニッツは紹介を略し言及していません。おそらく、これまでのロックの議論の補足的なものというとらえ方をしていたのでしょう。

「形体的実体の実在的本質(これだけを挙げると)について、もし私がまちがっていなければ、二つの説がある。一つは次のような者の説である。すなわち、この説の人たちは本質ということばを自分たちの知らないものに使い、そのため、そうした本質の一定数を想定して、この本質に従って自然の事物はすべて作られ、そのどれもみな正確にこの本質にあずかり、ひいては、あれこれの種になるのである。ま一つの、理知にいっそうかなう説は次のような者の説である。すなわち、その人たちは、すべての自然の事物がその感知されない部分の、しかし知られない、構造をもち、これから[事物の]可感的性質が出てきて、この可感的性質は私たちが自然の事物を共通の呼び名のもとに類別する必要[のあるとき、それ]に応じて自然の事物を区別するのに役だつ、そう眺めるのである。(以下省略)」(『人間知性論』第3部第3章「一般名辞について」〜第17節)

この節にもライプニッツは言及していません。やはり、補足的なものというとらえ方ではないでしょうか。


本質:単純観念と様相の種vs.実体 如月 - 2005/04/15(Fri) 10:31 No.521  

「本質はこのように唯名的と実在的に区別される。そこで、次のことがさらに観察できよう。すなわち、単純観念と様相との種では唯名的本質と実在的本質とはいつも同じだが、実体ではいつもまったく違うのである。たとえば、三つの線の間に一つの空間を囲む図形というのは三角形の唯名的本質だけでなく、実在的本質である。というのは、[三角形という]一般名が結びつけられる抽象観念であるばかりでなく、事物自身[すなわち三角形]のエッセンティア[本質]ないし存有そのものであり、この事物のあらゆる特性が出てくるもとの、特性がすべて不可分離に結びつけられる根底なのである。しかし、[実体について、たとえば]私の指にはめられた指輪を作る物質のひときれについては、話はたいへん別で、ここではこれら[唯名的と実在的の]二つの本質は明らかに違っている。というのは、色・重さ・熔性・固形性など、この物質のひときれに見いだされるはずのすべてそうした特性がもとづくのは、この物質のひときれの感知されない部分の実在の構造であるが、この構造を私たちは知らないのであり、したがって、特殊[ないし特定]な観念もないから、観念の記号である名まえもないのである。とはいえ、物質のひときれを金であるようにするのは、いいかえれば、そのひときれに[金という]名まえへの権利を与えるのは、その色・重さ・熔性・固形性などであり、それゆえ、そういうのがその[金という名まえを与えられる物質のひときれの]唯名的本質である。なぜなら、この名まえが結びつけられる抽象複雑観念と性質が合致するものでなければ、どんな事物も金と呼ばれることはできないからである。が、本質のこうした区別はとくに実体に属するから、[本巻第6章で]実体の名まえを考察するようになるとき、さらに遺漏なく取り扱う機会があろう。(『人間知性論』第3部第3章「一般名辞について」〜第18節)

ここは非常におもしろいところだと思います(ライプニッツとの相違も鮮明です)♪
ちなみに、ロックが単に「様相」と言ったものを、ライプニッツは「様態の観念(les idees des modes)」と「観念」という語を付与して言い換え、またロックが単に「実体」と言ったものを、やはり「実体の観念(les idees des substances)と「観念」という語を付与して言い換えています。これによってロックの「単純観念」と「様相」および「実体」の比較を、ライプニッツは観念相互の問題としてとらえなおしているのですね。この付与によって、ロックの「二つの本質論」がまったく異なる問題となってしまうこと、双方のテクストを比べることでご理解いただけるかと思います。


本質は生成できず、朽ちることもない 如月 - 2005/04/15(Fri) 11:49 No.522  

「これまで話してきたような、名まえを伴う抽象観念、これが本質であることは、本質について語られていることで、すなわち、本質はすべて生成できず朽ちることもできないことで、さらに明らかといえよう。こうしたことは、事物とともに始まり亡びるような、事物の実在の構造では真であるはずがない。およそ存在するいっさいの事物は、その造物主を別として、すべて変化を受ける。とくに、私たちが熟知して別個な名まえすなわち標記のもとにいろいろな集群に類別してしまうような事物はそうである。たとえば、きょう草であったものがあすは羊の肉で、数日以内に人間の部分になる。べてこうした変化は似よった変化では明白に、それらの実在的本質すなわちそうしたいろいろな事物の特性がもとづく構造は事物とともに滅んで失せる。が、[唯名的本質のように、]本質が心に確立されて名まえと結びつけられた観念とされると、そうした本質は、個々の実体がどんな変転を受けようとゆるぎなく同じにとどまると想定される。(中略)たとえ今この世のどこにも円が(おそらく正確に区画されては、どこにも[円という]その形は存在しないから)存在しないとしても、その名まえに結びつけられた観念はそのあるところのもの[すなわち円]であることをやめなかっただろうし、私たちの出会う個々の形のどれが円という名まえへの権利をもつかもたないかを決定する範型、ひいては、個々の形のどれがその本質をもつことによってその種であったかを明示する範型、そうした範型としてあることをやめなかっただろう。また、[たとえば]一角獣のような獣も人魚のような魚も自然にはいなかったし、未だかつていたことがなかったとしても、そうした[一角獣や人魚という]名まえがその内に不整合を包含しない複雑抽象観念を表わすと想定すれば、人魚の本質は人間の本質と同じように理会でき、一角獣の観念は馬の観念と同じように一定してゆるぎなく、恒久的なのである。[それゆえ、本節で]これまで述べてきたところから明白なように、本質不易説は、本質がただ抽象観念であることを証明し、抽象観念とその記号としての一定の音[ないしことば・名まえ]との間に確立された関係を根底とするのであり、同じ名まえが同じ意味表示をもてる間は、いつも真であるでろう。」(『人間知性論』第3部第3章「一般名辞について」〜第19節)

このロックの結論に対し、ライプニッツ(テオフィル)は、「すでに申し上げたように、本質は可能的なものにのみ関わるがゆえに恒久的なのです」と、そっけない対応しかしていません。その理由は、これまでの比較で明白なように思われますし、ライプニッツ自身もそう考えていたのではないでしょうか。ライプニッツからすれば、ロックの考える「事物の実在的本質」とはまったく無意味なのであり、その無意味さは、ロックが事物の実在的本質の問題において想定している不可知論とは無縁だということにつきるのではないでしょうか。
(ちなみに、一角獣の本質が理会可能かどうか、その内に不整合を包含しないかどうかは、それはそれでおもしろい問題だと思います。)


ロックによる自説の要約(結論) 如月 - 2005/04/15(Fri) 12:03 No.523  

『人間知性論』第3部第3章「一般名辞について」のなかで、ライプニッツによるロック説の紹介・批判にかかわる部分は以上ですが、この先に、ロックは自説の要約を付していますから、最後にそれもご紹介しておきます。

「結論すると、要するに私の言おうとすることはこうだ。すなわち、類と種ならびにそれらの本質のたいせつな務めはまったく次のこと以上にはならない。その務めとはほかでもない、人々が抽象観念を作り、これに名まえを結びつけて心に定着させ、これによって、人々の知識の進歩と伝達をいっそう容易かつ即座にするため、いわば束にして事物を考察でき論議できるようにすることであり、かりにもし人々のことばと思惟が個々の[特殊な]ものにだけ局限されたとすれば、人々の知識は徐々にしか進歩しなかったのであろう。(『人間知性論』第3部第3章「一般名辞について」〜第20節)


ロールズ哲学史講義 上 慧遠(EON) - 2005/04/16(Sat) 00:43 No.525  

このスレットにロック対ライプニッツとは、少しずれるかも知れませんが、つい最近出版された「ロールズ哲学史講義 上」にライプニッツの形而上学的完全性主義としての道徳哲学についての、ジョン・ロールズの哲学史講義なる読解本の紹介です。この本を見ていませんので詳しいことは判りませんけれども、道徳感覚について人間本性に内在する自然な事実であるとするヒュームの立場をロックと関連させてみて、それとライプニッツの神が創造した最善の世界のもとで自発的で個別的な理性的魂が各々の内なる知性の自由を表現する理性の理念としての道徳とを対比させると面白いかも知れません。

ロールズ哲学史講義 上 ジョン・ロールズ バーバラ・ハーマン 編 坂部恵 監訳 久保田顕二・下野正俊・山根雄一郎 訳 A5判・320頁 定価4830円(本体4600円)みすず書房 ISBN4-622-07111-8 C1031 2005.02.23
Lecture on the History of Moral Philosophy by John Rawls
「道徳哲学の歴史に関するロールズの思想の中心にあるもの、それは、わたしたちの伝統がもつ偉大なテキストのなかに、人生をいかに生きるべきかに関する多くの困難きわまりない諸問題に甘んじてかかわろうとする、偉大な知性たちの努力を見ることができる、という考え方である。」(「編者の緒言」より)
(出版社の紹介)
『正義論』によって現代の政治哲学に深甚な影響を与えたロールズ教授の、30年におよぶハーバード大学での道徳哲学をめぐる名講義をまとめた大冊である。
穏やかな情念と厳密な理性の連携が、合理的熟慮と人為的徳を導き、そこから生ずる道徳感覚は、人間本性に内在する自然な事実である、とするヒュームの心理学的自然主義。神が創造した最善の世界のもとで、自発的で個別的な理性的魂が、各々の内なる知性の自由を表現する、というライプニッツの形而上学的完全性主義。そして、理性の理念としての道徳法則に基づき、総合的かつア・プリオリな定言命法を定式化する、カントの純粋実践理性の批判へ。
『人間本性論』や『道徳形而上学の基礎づけ』といった、道徳哲学の古典の詳細な読解をつうじて、道徳的構想が担う社会の公共的秩序と構造を探究する、ロールズ版哲学史の精髄。全2巻。 (上巻)


ご教示ありがとうございます。 如月 - 2005/04/16(Sat) 12:11 No.527  

慧遠さん、いつもご教示ありがとうございます。ロールズのそういう本が刊行されているということは知りませんでした。
図書館に行って調べる課題が、またひとつできたようです♪


ライプニッツの生得概念 投稿者: 投稿日:2005/04/10(Sun) 15:52 No.491   <Home>
伝え聞くところによると、たしかライプニッツは、幾何学における、「線とは、幅のない長さである」などを例に上げて、これを経験に依ることのない生得概念だと述べていたとか…。

そうだとすれば、おそらく彼は、幅のない長さだけのものなど、経験上、存在し得ないものと考えたのであろうが、しかし、我々は、経験上、或るものの長さを測っている時には、その幅のことを無視しているのである。

要するに、逆に経験から、「幅のない長さが、線として」抽出されたと、考えるのが妥当であろう。

なお、上記と部分的に同主旨の発言は、昨年の如月さんとのオフ会の席上でもしています。


Re: ライプニッツの生得概念 如月 - 2005/04/10(Sun) 22:46 No.495  

書き込みのご趣旨が今一よくわかりませんが(私の発言の確認なのかライプニッツ説の確認なのか、またライプニッツ説批判なのかetc.)、ライプニッツの考える生得観念とは次のようなものですね。

Ph「観念の起源に関しては、私はかの著者(ジョン・ロック)や多くの学殖豊かな人々と同じく、生得的なものなどないし、生得的原理もないと思っています。<以下に明らかになるように、生得的なものを認める人々の誤謬を反駁するには、そのようなものは少しも必要でないこと、人間はいかなる生得的刻印の助けもなしにすべての認識を獲得できることを示せば十分でしょう。>」
Th「フィラレート、ご存知の通り、私は大分前からそれとは違った意見をもっています。私は、デカルト氏が主張した神の生得観念と、したがって感覚に由来しない他の生得観念とを、常に支持してきましたし、今もそうです。今や私はあの新たな説に従って、もっと先まで進んで行きます。これからお分かりいただけるように、私たちの魂の思考と活動はすべて、感覚によって魂に与えられることはありえず、魂自身の奥底に由来するのだと私は信じてさえいます。しかし、当面そうした探究はお預けにして、一般に受けいれられている言い方に合わせておきましょう。実際、一般の言い方は適切で根拠のあるものですし、ある意味では、外的感覚が部分的には私たちの思考の原因であると言えるのですから。感覚には決して由来しない観念や原理があり、感覚はそれらに私たちが気づく機会を与えるけれども、私たちはそれらを形成するのではけしてなくて私たちの内に見出すのだということを、私の考えでは、(コペルニクス派の人々が他の人々と共に、それも根拠をもって太陽の運動について語るように、魂に対する物体の働きについて語る)一般の説においてもどのように言うべきか、これを検討してみましょう。かの学殖豊かな著者は、人々が生得的原理の名の下にしばしば自分の先入見を主張して、議論の労苦をかわそうとしているのに気づいたのだと私は思います。そしてこのような生得的観念の濫用が、この仮定に反対する彼の熱意をかき立てたのでしょう。(中略)しかし、かの著者は熱心なあまり、別の方面へ行きすぎてしまったようです。彼の熱心さは、見方をかえれば大いに称賛すべきではありますが。思うに、彼は知性に源泉をもつ必然的真理の起源を、事実の真理の起源から十分に区別しませんでした。事実の真理は、感覚の経験から引き出され、私たちの内にある錯然とした表象からさえも引き出されています。ですから、あなたが事実だとされること、つまり、私たちは生得的な刻印の必要なしに私たちのあらゆる認識を獲得できると言うことを、私が認めないのはお分かりと思います。私たちのいずれが正しいかは、早晩明らかになりましょう。」
Ph「実際にそれをみていきましょう。テオフィル、私は認めておきますが、<人々の考えが一般に一致しているような、真理に関する諸原理がいくつかあるとする意見以上に、共通に受けいれられている意見はありません。それゆえに、そういう原理は共通観念と呼ばれています。そこから人は、それらの諸原理は私たちの精神が現実存在とともに受けとる刻印にちがいない、と推論してしまう。しかし、全人類が同意するような諸原理があるという事実が確かだとしても、私の思うような、人々がそうした見解の一致に到達できる別の道を示しうるなら、その普遍的な同意は、それらの原理が生得的であることを証明しないでしょう。しかし、もっと悪いことに、このような普遍的同意はほとんど見当たらない。かの有名な二つの思弁的原理(実践的原理についてはあとで話します)、すなわち、有るものはすべて有ると、ひとつの事物が有ると同時に有らぬことは不可能であるという原理に関してさえ、見当たらないのです。なぜなら、あなたには疑いなくこの二つの命題は必然的真理であり公理であるとみなされるでしょうが、人類のなかにはこれらの命題を知りもしない者が多くいるからです。>」
Th「私は、生得的原理の確実性を普遍的同意によって基礎づけたりはしません。というのも、フィラレート、すでにあなたに言ったように、原初的ならざる公理をすべて論証できるように努めねばならぬ、これが私の考えだからです。きわめて一般的であっても普遍的ではない同意が、人類一般に広まった慣習から生じうることについても、私はあなたに賛成です。喫煙の風習が一世紀足らずの間にほとんどすべての民族に受けいれられたようにです。火さえ知らないので、喫煙など思いもしなかった島民たちが発見されたりはしましたけれど。(中略)結論として、人々の間でのかなり一般的な同意は、生得的原理の示標であって、生得的原理の論証ではありません。これら生得的原理の厳密で決定的な証明は、その確実性が私たちの内部にあるものにのみ由来することを示すことにあります。さらに、最良の仕方で確立されている思弁的な二大原理に人々が与えている一般的承認、これに反対してあなたが言っていることに答えるには、次のように言えましょう。すなわち、二大原理は知解されれば直ちに承認されるのだから、たとえそれらが知られていなくてもやはり生得的である、と。てさらに付け加えると、誰でも根底ではそれらの原理を知っていて、判明に気づかずとも(たとえば)矛盾律を絶えず使っているし、重大な事柄で、矛盾したことを言う嘘つきの振舞いに憤慨しないような未開人はいません。このように、人々はこれらの準則をはっきり気づかぬまま使っているのです。それは、省略三段論法で削除されている前提が潜在的には精神の内にあるのと、ほぼ同じです。それを外的な場面においてのみならず、私たちの思考のなかでも、脇へ置いてしまうわけです。」
Ph「《あなたが潜在的認識や内的隠蔽について言っていることは驚きです。》<なぜなら、魂に刻まれた真理があって、魂はそれらの真理を意識しないというのは、まったく矛盾していると思われるからです。>」
Th「あなたがそのような先入見にとらわれているかぎり、生得的認識を斥けても驚きません。しかし、私たちが常に意識しているわけではなく、必要なときでさえ意識していないような認識が無数にあることを、どうしてあなたが思いつかないのか、意外です。それらの認識を、保存するのは記憶の働きですし、私たちに再現するのは想起の働きです。想起は、常にというわけではありませんが、しばしば必要に応じて再現します。それは適切にもsouvenir(subvenire助けに来る)と呼ばれています。想起は何らかの助けを要するからです。それに私たちは、かくも多くの認識のなかで、あるものよりもむしろ別のものを蘇らせるように、何ものかによって決定づけられているにちがいない。私たちが知っているすべての事柄について、一度に判明に思考することは不可能だからです。」
Ph「《その点では、あなたは正しいとは思います。私は十分注意せずに、私たちの魂のなかにあるすべての真理に私たちは常に気づいているという、あまりに一般的な主張を思わず口にしてしまいました。しかし、私がこれから示すことに答えるのは、あなたにとってもう少し大変でしょう。すなわち、》<もし何らかの個別的命題が生得的だと言えるなら、それと同じ理由で、合理的な命題や精神が合理的とみなしうる命題はすべて、魂のなかにすでに刻まれていると主張しうる、ということです。>」
Th「私が感覚の幻影に対立させている純粋観念と、事実の真理に対立させている必然的真理つまり理性の真理に関しては、異存ありません。この意味で、算術全体と幾何学全体は生得的であり、潜在的な仕方で私たちの内にある、と言って然るべきです。」(ライプニッツ『人間知性新論』、第一部第一章「人間の精神の内に生得的な原理があるかどうか」)


石黒ひで女史のライプニッツ解釈(1) 慧遠(EON) - 2005/04/11(Mon) 08:17 No.499  

私の蔵書の大半は倉庫の中のダンボールに収用されていて、ライプニッツの主要文献もそこにあり、手元に残してあるライプニッツ文献は石黒ひで著「ライプニッツの哲学」岩波書店(但し増補新版ではなく1984年の旧版)と下村寅太郎著「ライプニッツ」みすず書房の身です。ですが、石黒ひで女史の著作でのライプニッツ解釈は私が支持するものであり、その解釈はライプニッツに於ける観念が本有観念論者(生得観念論者)のものとの違いを明らかにするために、参考として長くなりますが「引用」させていただきます。
-----(以下、引用)----
「チョムスキーは………ライプニッツも言語構造の先天性を信じ、ロックの経験的な言語学習説にね自分同様反対したことを指摘している。ライプニッツは、言語の哲学的理解に面白い貢献をなしたが、チョムスキーのいう理由からではないように思われる。ライプニッツは我々が習得し、使用する概念はね数学や論理学のものばかりでなく、経験的事象の把握に用いる概念でも、外的刺激の性質よりは我々の学習能力をあらわにするものであることを指摘した。だから、我々の持つ概念の正体は、感性に与えられた事物の性質のみならずね我々の知性の性質と傾向によって決まるものだというのである。しかし、ロツクといえどもこの点は同意したに違いない。ロックは、人間と他の動物との間の根本的な違いの一つは、人間が言語を使うと言うことにある、と考えたし、この相違は人間と他の動物の感覚所与の相違から来るのではなく、人間の悟性の性質によるのだ、と信じたからである。ライプニッツの説とロックの説の重要な違いは、ライプニッツが思考能力の問題を、思考の構造、及びその内容と個別性の問題から切り離すことを意識的に拒否した点にある。たとえば、数とは何かという問題は、数についての我々の思考の構造から切り離しては論じられない。」
「この時点でライプニッツにとって概念が何であるかをはっきりさせることが重要である。概念相互の関係は『命題または真理を通して明らかにされる』こと、概念の同一性は真理保存原理によつて与えられること、そして、異なる意味をもつことばによって、同じ概念を表現しうる、と言うことである。しかし、これらの条件を満たすのは、一体どのようなものであろうか。」
「ライプニッツは概念(コンセプトス)と観念(イデア)とを、経験論者のように区別しない。彼にとって観念は念頭に浮かべるイメージや、生起する感覚ではない。赤の観念とは、頭に浮かぶ赤のイメージではなく、赤いものを判別する知的能力であり、その点、正義の観念のような抽象的な観念の場合と変わりはない。だから、ライプニッツは『概念(ノシオン)』ということばを『原初的なものであれ、構成的なものであれあらゆる種類の観念(イデー)、及び思念(コンセプシオン)に』適用する。」
「観念または概念は、可能なものに該当し、しかも、我々の精神の内にある。だからライプニッツは、それが脳に刻印された何かの痕跡であるとか、頭の中の影のような実体ではあり得ぬと説いた。観念は思考の内的対象であり、そのような思考を可能にする脳の構造、または生理的変化ではない。」
「しかし、観念または概念を、ある特定な時間に、考えたり、知覚したりする、我々の精神活動の事*象*を混同してはならない。私の持っている同一の観念を、異なる時に、様々な思考活動で私は表現するし、異なる人が同じ観念を持つことも出来る。また、重要なのは、我々が『それについて特に考えていないときでも、そのものについての観念を持っている』ことであり、概念または観念を持つと言うことは、むしろ、人が持つ機能であるか能力であるとみなすのが一番適切である。」
「しかし、ライプニッツは一つの観念Aを持つことを、Aであることをいつか考える能力、またはAであるものをいつか識別する能力だとみなすことは、誤りであることに気が付いていた。もし、観念を持つことをこの様にみなすと、私は将来いつか使う観念をすべて、生まれたときから常に持っていることになる。しかし、我々は明らかに新たに観念を習得することが出来る。ライプニッツは、円錐曲線を順に追って調べていくと一対の双曲線に遭遇するが、遭遇するまで双曲線の観念を全然持っていなかった、とする。双曲線を発見した以前と以後では、人の思考能力は異なるわけである。だから、『い*つ*か*双曲線を識別する能力』という表現では、この新たな能力を区別して指し示すことは出来ない。その人は前からい*つ*か*双曲線を識別する能力をいたわけでが、ライプニッツは、その人は以前は、双曲線の観念を持っていなかったと言いたいわけである。」
「双曲線の観念を持つに至った人は、以前と違い『そのものに導くだけでなく、それを表現する何かを自分の中に持たねばならない』、つまり双曲線の観念を私が把握したき、私は、双曲線を何らかの表現で表す能力を獲得する。『双曲線に導く何かを自分の中に持つ』というライプニッツの言い回しは、私の頭の中に、私を双曲線に導くイメージがあることを指しているのはなく、私が双曲線を識別することを学ぶ能力を持っていることを指す。ここで言う表現とは彼がルプレザンタションと呼ぶもので、必ずしも絵のように、描写されるものに似ている必要はなく、機械は図型によって表現されるし、地形は地図によつて、数に関する真理は等式によって、音楽は楽譜によって表現され得る。だから、………表現する何かを自分の中に持つと言うのは、頭の中に絵のようなものを持ち歩くということでなく、これらのことば、地図、等式を、事実なり地形なり、数学的真理の表現として使い、または識別する性質を持つことである。概念Aを持つと言うことは、つまり、Aを表す表現を使いこなし、理解する性質を持つことに外ならない。」
「概念に関するライプニッツの考えの独創性は、それを、我々の表現能力と関係づけて論じたことである。ある概念の正体をつきとめるためには、その概念を表す表現……を論ずることが不可欠である。……表現を使う能力を持つためには、それらの表現を、何らかを表すものとして見、または聞く能力を持つことが前提である。」
「…私は、概念または観念の分析に関するライプニッツの説は、感覚的性質の場合には、幾つかの難点を孕んでいたことを示唆した。」
「ロックとヒュームにとっては、単純観念は経験の所与に対応し、主に感性的性質の観念であったのと異なり、ライプニッツにとっては感性的性質の観念は明晰であるが、判明できない複合観念であった。判明でない理由は、『その観念に含まれるものによって、その観念が識別されるわけでないから』である。だから、ある箇所でライプニッツは、こうした観念が実は論理的には単純でないことを把握している限り、かりにそれを単純観念と読んでも構わないとは言っているが、厳密な意味では、感性的性質の観念は混然とした複合観念だというのが彼の考えであった。………単純観念は命題の分析の到達点として想定されたわけであり、出発点に見出されるものではなかったのである。……ライプニッツでは、我々の経験の経験に先に与えられるものが、…認識の次元で先に来るものが、論理的に単純であるなどと考えなかった。何かが金であることを把握することは、それが判明に理解されようが混然と理解それようが、そのものが金属であることの把握を前提とする。………いかなるものを経験した場合でも、そのものがこれこれしかじかのものだと同定することは概念を用いることである。この概念が単純でないならば、たとえその概念を単一の一般語で表すとしても、それを構成している単純概念を前提とするものなのである。」
「感覚によって我々は『色、音、匂い、味、触覚的性質といった各感覚に特有の対象を認識するが、感覚はこれらの性質が一体何であるのか、また何から構成されているのか教えてはくれない』とライプニッツは言う」
「ライプニッツによれば、感覚的性質、つまり我々が感覚を通じて知る性質は、我々の経験の属性でなく、ものまたは現象の属性であるのだから、我々が感覚以外の方法でねそれらについて習得することは出来ないなどとアプリオリに断定する理由はないのである。」
「繰り返して言うが、ライプニッツによれば色や音の観念は、特定の感覚の観念ではなく、ある現象の属性に関する観念、もしくは現象自体の観念である。」
「だから、我々が金の感性的性質を知覚するとき……判*明*にではないにしろ、我々は金の本質、または本性を知覚しているのである。」
「ライプニッツの書いていることによれば、ある知覚(例えば黄色の知覚)はものの構造に起因するのだということ、しかも同時に、知覚された感性的性質(例えば黄色)の観念は、もののある特定の構造の観念と同一のものだと言うことが可能である。」
「ライプニッツにとって、このような概念の行使は---たとえ感性で知覚することが出来る概念であっても---悟性能力の行使である。概念は感覚ではない。」


先験的主観性と生得概念の分離 如月 - 2005/04/11(Mon) 10:41 No.502  

慧遠さん、書き込み&ご教示どうもありがとうございます。
ロックは、先験的というとなんでもかんでも否定しようとしますが(笑)、私が思うに、ライプニッツは、先験的主観性と生得観念を明確に区分し、先験的主観性は否定しながら生得観念(原理)の存在を容認しているのだと思います。
つまり、たとえば『人間知性新論』でのライプニッツの議論(テオフィルの説)は、ロックに対してデカルト説を闇雲に擁護するものではなく、ロックとともにデカルト説の要と考える先験的主観性を否定しながらも、真理を事実真理と理性の真理に二分し、理性の真理にかかわる算術全体と幾何学全体を生得的としているのではないでしょうか。
で、これらの原理は、生得的ではあるけれども主観によって意識されているとは限らない。というか、意識されているかどうかは、それら原理の生得性(先験性)には無関係だとライプニッツは言いたいわけです。ですから、デカルトのcogito ergo sumというのは、ライプニッツ的に考えると極めて不十分な命題ですね。眠っている時も私(および理性の真理)は存在しているとライプニッツは主張する。ですから、この真理論は、意識されていない表象をも含むライプニッツ独自の認識論と表裏一体でもあるわけです。
ただ、(これは慧遠さんというよりむしろ佐々木さんに申し上げますが、)私の引用の冒頭近くにある「一般に受けいれられている言い方に合わせておきましょう」というテオフィルの発言はやはりくせもので、究極的に考えると、ライプニッツは人間の認識ということを問題にはしていないと思います。人間の認識というのは、「世間でそれを問題にするから、自分の立場からは、それについてどういえるか、仮に記してみよう」という程の、なんというか、見かけ上だけの仮の問題、疑似問題ということじゃないですか。
(真の問題はモナドにとってのrepresentationということになるかと思いますけれど…。)
以上につきましては、↓ページもご参照いただければ幸いです。
http://www.furugosho.com/precurseurs/leibniz/perception.htm


コンディヤックにおける「単純観念」の混乱  如月 - 2005/04/11(Mon) 12:38 No.503  

 慧遠さん(石黒さん)ご指摘の「単純観念は経験の所与に対応し、主に感性的性質の観念であったのと異なり、ライプニッツにとっては感性的性質の観念は明晰であるが、判明ではない複合観念であった」といったあたりとも関連するかと思いますが、山口裕之さんに次のようなコンディヤック批判があります。

「コンディヤックは、「感官が伝える最初の観念」は立体であり、その厚みを無視することで面の観念が得られ、さらにその幅を無視することで線、長さをも無視することで点へ進むのだと言う。そして彼は、『起源論』の別の場所において、「立体の観念は、確かに複雑なものではあるが、感官から直接由来する最も単純な観念の一つである」と述べている。すなわち立体の観念こそが単純観念だというのである。しかし、立体の観念は分解され、「もっとも単純な観念」である面や線や点の観念が成立する。コンディヤックは確かにこのように説明しているのであった。
 ところで、先述のとおり、抽象観念とは、「それと共存する他の単純観念について考えるのをやめて、その観念にのみ注意を向ける」ことで形成されるものであるとされていた。かくのごとき説明をここでの議論に当てはめることができる。つまり、面や線や点の観念は抽象観念であると見ることができる。それらの観念は、立体を構成する要素たる単純観念(「もっとも単純な観念」)を取り出してきたものであるから。しかし一方で、コンディヤックにおいて抽象観念は一般観念と常に同一視されているのであるから、面や線や点は、複数の立体の共通部分として見出されたものであり、面や線や点の観念はそれらを取りまとめたものである。とすると面や線や点の観念は、複数の要素を取りまとめた「複合観念」と見なさざるをえないということになる。混乱があるようである。」(山口裕之氏『コンディヤックの思想』第3章「観念の成立」、65〜6頁)

 この混乱をどのように整理するか。以下、下方でも引用した次のような叙述が続きます(一部再掲)。
「個々の対象は無限に多様であり、そこには無限の差異があるのである。それら全てについて観念を形成するならば認識はもはや成立せず、我々は混乱状態に陥る。それゆえ、一般化(すなわち抽象化)の作用が「人間にとって絶対的に必要なのは、人間の精神に限界があり、少数の観念しか同時に考慮できないために、いくつかの観念を同じクラスに入れて扱うことを余儀なくされるからなのである」(『人間認識起源論』)。(中略)
 一般観念(すなわち抽象観念)がかかるものである以上、「事物は我々の理解仕方によってのみ区別されているのであり、それらが実際に区別されていると受け取らないように注意しなくてはならない」(同書)。つまり一般観念(すなわち抽象観念)は実在せず、存在するのは個物のみである。『論理学』での表現で言うなら、「木一般は存在しないし、リンゴの木一般や梨の木一般も存在しない。存在するのは個物だけである。それゆえ、自然においては類も種も存在しないのである」(『論理学』)。
 かくして、一般観念・抽象観念は、精神の限界性という人間の側の都合によって、しかも人間が理解する仕方に即して作られるのである。こうした観念に対応して対象の知覚の側に見出されるものである「単純観念」もまた、人間の認識仕方に即して気づかれるものであるということになる。とすると結局、コンディヤックの言う単純観念は、受動的に受け取るほかないものとして対象の側であらかじめ分節されているのではなく、人間の認識仕方に即して、つまりある意味能動的に設定されるものと言えそうである」(山口裕之氏、前掲書第3章「観念の成立」、68〜9頁)

 コンディヤック的なノミナリスムの考えを推し進めていくと、先行する経験論者が用いた「観念」といった術語は、事実上破砕されざるを得なくなるのですね。


Re: ライプニッツの生得概念  - 2005/04/11(Mon) 18:55 No.505   <Home>

> 書き込みのご趣旨が今一よくわかりませんが

ここでの議論の幅が広がれば、面白いかな、と個人的に思い、書き込みした次第です。


石黒ひで女史のライプニッツ解釈(2) 慧遠(EON) - 2005/04/11(Mon) 22:52 No.506  

-----((以下、石黒ひで著「ライプニッツの哲学」岩波書店,1984より引用))------

「(自注:ライプニッツの)『存在(エンス)』だけを考慮しても、この概念自体『実在者』または『個体』のそれよりも領域の広いものである。『実在者』は現実に存在するものを意味し、『存在』とは可能なものすべてを意味する。しかも、『存在』の概念は『個体』のそれとも異なる。全ての存在が個体であるにしても、これら二つの概念はそれの異なる捉え方に対応する。ライプニッツはたとえ全ての存在が個体であるにしろ、我々が存在を規定するとき、ある種類の任意の不特定な個体を指示する概念を規定するか、ある特定の個体を指示する概念を規定することが出来ると書いている。つまり、人という存在(エンス)、つまり一人の人というという存在(エンス)は、ある特定の人とは異なる。どの人間も『人』という概念の範例であるが、個体概念は一人の人間にしか当てはまらぬ。……存在の判別は、我々の思考の内的対象の判別に対応する。ライプニッツは存在(エンス)がどのように判別されるかについて、余りこまかく書いていないけれど、現代の論理学の用語を用いるならば、ライプニッツの各存在(エンス)には、特定な属性の属性が対応する。」
「この時点で我々は、ライプニッツが決して実体、またはも*の*が、属性の総和であるなどと考えなかったことを銘記すべきである。……ライプニッツにとって、個体項、つまり個体概念はある特定の個体の概念であり、そのような概念は、その個体について真であるところの全ての述語概念の和から成り立っている。個体は、従ってこれら述語概念がそれに帰する属性を全て持っているが、属性の和ではない。属性は遊離しては存在出来ない。集積としても、属性だけでは存在出来ない。」
「ライプニッツが論理のコンテキストに於いて『部分』を含む『全体』について語るとき、これらの表現は伝統的なスコラ派のそれとは全く異なった意味で使われている。ライプニッツ自身言っているように、スコラにとっては『全体』とか『部分』とかは、概念の外延であるものの集合を意味した。このように『概念そのものでなく、普遍概念に該当するもの』を考慮する伝統的方法を、論理体系の基本方法として採用することも可能だと彼は認めた。伝統的立場はライプニッツの分析と計算のちょうど逆をするわけである。例えば、……金属の概念の方が金の概念よりも外延が大きいわけであり、『全体』と『部分』でこの事態を指すことも出来るわけだ。ライプニッツは何故自分がそのような(外延的な)アプローチを採らないかを説明し、自分は『普遍概念または観念とその構成を考察する方を好む。これは(概念に該当する)個体の存在に依存しないから』と書いている。そうすれば現実世界のことだけでなく、可能世界についても考えられるわけである。…………概念の包含関係を考察する限り、我々は、この世界にたまたまどうゆうものがあるかに縛られることはないわけである。」
「一体、ある概念Aが他の概念Bを含むとはどういうことなのだろうか。………概念Bが概念Aの構成要素である以上、何かがAであることは既にそれがBであることである。『一つの概念が他の概念を包含する』という表現は、命題が他の命題を含意することを説*明*する形而上学的事実を指すのではない。」
「…彼が問題とする概念の外延は、必ずしも、現実世界でその概念に該当するものの集合ではない。場合によっては、全ての可能世界で、その概念に該当するものの集合が取り上げられる。」
「我々が使う概念の殆どは、より単純な概念の構成物とみなすことが出来る。ライプニッツによると、我々が『不可能な化け物、最大速度、最大数』といった存在し得ぬものさえ考えることが出来るのは、このためである。しかし、とどのつまり、我々が構成したのではない単純概念の存在が論理的に要請されるのである。………構成された概念は構成要素を前提とする。」
「いまや、ライプニッツの単純概念は個体的実体の概念とも、ラッセルの『個体』、つまり彼の言う論理的固有名詞が指示するものともまったく異なることがわかる。また、ロックやヒュームの単純概念とも非常に違うものであることも理解できる。」
「ライプニッツにとっては、全ての単純観念は両立するから、従って、『いかなる単純観念の集合もゆるされ、全ての複合観念も可能となってしまう』とラッセルは書いた。ライプニッツ自身、この点を懸念していた。」
「複合観念は、例えば砂山のように単なる単純観念の推積ではない。単純観念を基にしてね論理的操作によって得られる構築体である。論理的操作の一つは否定操作でもありうる。だから、結果として生じた複合観念の中には、不可能なものの観念もあり得るし、他の複合観念と相容れない観念もありうるのである。」
「ライプニッツは、ある意味では(あたかもクワインやグットマンのように)個体、または実体のみが、基本的に存在するものと信じた。普遍だとか事実だとかは、個体と独立には存在しないし、個体と並んでも存在しない。『ニゾリウスへの序文』の中で、ライプニッツは、オッカムに従う唯名論者達は『世界の全てのことは、普遍や実在的形相を指示することなく、説明することが出来るという法則を導き出した』と書き、この唯名論の見解に賛意を表している。しかし、ライプニッツはホッブスとロックの唯名論を強く批判している。ロックは、一般者とか普遍と呼ばれるものは『ものの存在』には属さず、悟性によつて作られたものでしかなく、だから種の本質は抽象的な構成物に過ぎない、と主張した。ライプニッツはこれに反駁し、『一般性とは、個別のものの相互の類似から成るものであり、この様な類似は実在するものである』と書いている。ライプニッツは更に、我々は時にはいくつかのものの間の内部的類似に気づかないかも知れないが、だからといって、それらの類似が自然の中に存在しないと言うことにはならない、と述べている。」
「では、類似または属性の実在性はなにから構成されるのであろうか。もし、実在するものならば、当然同一性の規準を持つわけだが、どのようにしてそのような規準を定めることが出来るだろうか。《f…》と《g…》の二つの述語が同じ属性をものに帰する規準は、同じ外延を持つことではあり得ない。……ライプニッツは(もし同じ外延を持つことか、同じ属性の規準であるならば)ある季節には、丘であるということと緑の丘であることとが同じことになってしまう、と書いている。外延の同一性は属性の同一性の充分条件ではない。」
「ここではじめて……我々は述語が何であるかを把握するとき、それがこ*の*世*界*のどのものに帰属するかに興味を持つだけでなく、全ての可能世界でどのものに帰属するかに興味を持たざるを得ないのであり、しかもこのような可能世界についての考察は、我々がこ*の*世界でものに属性を帰するとき、ど*の*よ*う*に*属性を識別するかを明らかにするのである。」
「このような見解をとれば、二つの述語《f…》と《g…》がものに同じ属性を帰すると言うことは、少なくとも《f…》と《g…》が論理的に同値であることを意味し、別のことばで言えば、全ての可能世界で属性fを持つものは属性gを持つと言うことになる。またもしfとgとが同じ属性であれば、fを持ちながらgを持たぬなどというものは存在し得ないし、その逆も然りである。だが、ある属性が全ての可能世界に於いて同じ外延を持つことの必*然*性*は、どのように説明することが出来るだろうか。………(自注:自然法則更に想定することによって)………属性の同一性を主張するとき、我々の思考の中にある必*然*性*の要素をこれで充分に捉えることが出来るだろうか。……………勿論、可能世界を描写するにあたって既成の属性の同一性の規準に頼ることは出来ない。そもそも属性の同一性の規準をはっきりとさせるために、そのような可能世界を描写しているのだから。………だとすれば、全ての可能世界に於いて、どのものがその属性を持つかを決定するにあたって、属性の同一性の規準に関する前提を一切使うことは出来ないわけである。」
「しかし、とどのつまり、我々は可能世界を描写するにあたって、既に持っている概念を使うより外にないことを悟らされる。これら概念の正体は、我々がこの世界で主張する命題の真理条件に、概念がどのように貢献するかによって決まるだけでなく、反事実的条件命題(……)含む種種の条件命題に、我々がどの様に真理値を与えるかによっても決定される。…………だから、我々が使う概念に含意されているものは、我々が描写するいかなる可能世界についても真なのである。…………ライプニッツの考えに従うと、我々が赤について発見できる特徴や自然法則につながる特徴は、赤の概念の一部であり、可能世界を描写する場合でも、赤と呼べる全てのものに該当する。だから、《xは赤い》という述語は《xは波長λの光波を反射する》と論理的に同値になり、二つの述語はものに同じ属性を帰すると言うことになると帰結せざるを得ない。」
「いかなる属性も全ての可能世界(我々のものとは異なる自然法則を持つ世界を含む)のものに帰すると考えることが、意味があるかどうか疑わしいのである。もし、いかなる可能世界についての我々の考えも、幾つかの自然法則を暗黙に前提としているならば、こ*れ*ら*の*自然法則が支配する可能世界に於いて同じ属性は必然的に同じ外延を持つという条件は、論理的同値と全く違わなくなってしまう。」
「ライプニッツが指摘したように、我々は固体を。たまたま共存する属性の束として識別しているのではない。自然法則の世界の中で、我々はものを個別化して捉えるのであり、だから個別化の規準は、自然の規則性についての我々の考えと絡み合っているのである。………我々が属性に帰するものを、一つのものとして個別化するとき、我々は、そのものの構造に関して一定の措定をしている。…………属性が同じ外延を持つ、などと言えるためには、属性を帰するものを同定できることが前提され、しかも、これは我々の自然一般に関する様々な措定によつて決まってくるのである。属性の個別化は、属性を持つ個体の個別化に較べ一層深く自然法則についての我々の考えと絡み合っている。ライプニッツは、我々が規則正しく生起する現象を知覚し、それを一つのものが他のもの共有する構造の現れとして捉えるとき、我々は現象の規則正しさに必然性を帰属すると考えた。だから、我々が感性的属性や色々な物理属性を表す述語の使い方を習得するとき、そのような必然性が既に我々の概念の中に組み入れられているのである。…………(自注:ものがある条件を満たすという我々の判断に於ける)述語の意味自体が、自然法則についての色々な措定から独立には与えられないのである。」
「属性の定義の中には特定の自然法則を措定するものがあり、それらは総合命題の性格を持つように思われるが、これは見せかけだけである。これらの自然法則はものを個別化するためにも、述語をものに帰するためにも、措定されなければならないるだから、我々が描写しうる全ての可能世界に当てはまるのである。」


石黒ひで女史のライプニッツ解釈(3) 慧遠(EON) - 2005/04/11(Mon) 22:55 No.507  

-----((以下、石黒ひで著「ライプニッツの哲学」岩波書店,1984より引用))------

「『…は知覚する』『…は忠実である』『…は仲間好きである』といった述語がものに帰する属性は関係的であるか否か。これらの述語は他のものや人を指示することばを含んでいないが、暗黙の中に他のものの存在を措定しているのであり、………だから、主語の指示するものに帰せられる属性は、他のものにも関わっている。動物が知覚するには、知覚するもの、または現象が存在しなければならない。人が忠実であるためには、他の人なり、団体なりが存在し、それに対して人がある態度をとるわけである。……これらの属性は一つのものと他のものとの間に、何らかの関係があることに依存するのであり、その意味で関係的である。」
「『新悟性論』の中でライプニッツは、『人間悟性論』でロックが用いた関係名辞と絶対名辞の区別に疑いを投げかけている。ロックにとって『黒い』『陽気な』『のどが渇く』といったことばは絶対語である。……これと対照的に『父である』『…より陽気である』といった言葉は関係的であると言う。……ロックはだから述語の役割をする言葉には、主語に関係的な属性を帰するものがあることに気づいていた。ライプニッツは論を更に押し進め、内在的な属性と関係的な属性を区別することは出来るかも知れないが、厳密に言って、前者を暗黙の内に指示することなく、後者を指示することは可能でないと主張した。」
「まず肝要なことは、ライプニッツが純粋に外的なデノミナシォンはないと主張したばかりでなく、同じ章で『完全に独立して他と無関係である項(テルム)はない。どの項の完全な分析も、他のもの、否、他のあらゆるものへと導く』というちょうど逆さの補足的な説も説いていることである。ライプニッツは純粋に外的な関係はないと主張しているのでなく、ものを捉えるとき、そのものの関係的属性と非関係的属性の両方を絡ませることによってしか捉えられないねと言っているのである。文または述語の統語論的形式だけから事態を読みとることは出来ないのだ。」
「ロックとライプニッツがデノミナシォンについて語るとき、それはものの性質を指すことばから由来する表現で、そのものを指示しあるいは同定することを意味している(自注:"正義"の性質を持つ者を"正義者"と呼ぶ場合の如く)。問題となっている性質が、そのもの以外の全てのものと関係なく、そのものに内在するとき、この様な指示行為は内的と言われ、問題の性質が、我々の考えをそのものから他のものへ導くとき、指示行為は外的だと言われる。」
「我々が、ものまた人を『黒い』『陽気な』『のどが渇いている』等と特徴づける場合のことを考えてみよう。ライプニッツにとってこの様な(自注:感性的性質あるいは素質を指す)ことばの使い方は、ロツクが言うように絶対的なものでない。このようなことばでものを特徴づけるとき我々は暗黙に何らかの関係に触れているのである。………我々がある人を陽気だとみなすとき、我々はねある種の状況、あるいは人に対する彼の性向について考えているのである。また、ある人はのどが渇いていると判断するとき、我々はその人の内的状態について考えているわけであるが、それはある一定のもの(液体)に対して、ある一定の行為をする性向と対応する状態である。同時に、特定の因果的歴史、つまりライプニッツが充足理由と呼ぶような色々な先行条件、についても考えているわけである。」
「……ライプニッツは別の箇所では、『やさしさ』を例にだして、素質というものが関係的であることを、ある程度詳細に論じている。………だから陽気さを人に帰することは特定の状況を指しているのではないにしろ、ある期間中に起こる一連の未規定の状況との関係を指しているのである。………別の箇所では、人が空腹であるとはどういうことか論じている。『…常にそのことを考えているわけでなく』『それについて考えるときのみ空腹を感じもする』。だから、空腹であることは特定の感覚を持つことでなく、むしろ『特徴ある性向である』。ライプニッツは、空腹であるときには特定の理由があることにまず注目する……。これはその人と、食物等他のものとの因果関係に関するものである。……ライプニッツは、我々が快感とか苦痛について持つ混同した観念は『ままならぬ執着から我々を知らぬまに解放し、はっきりとした快感をもたらすものとか、執着をいくらかいやしてわずかの息抜きをもたらすものとか…』を考慮することによってもっと判明にすることが出来る、と書いている。……ロックの例を再び使うならば、『…はのどが渇いている』が脱水状態を示すだけでなく、時折特定の感覚を感じる人にある種の性向を帰属する属性である限り、その性向は他のものと関係を持つ特定の行為をする性向としてしか把握することが出来ない。むしろ、のどが渇いたと言う感覚の方が、そのような性向と関連づけてしか同定出来ないのである。………もし、この論が正しければ、ロックが絶対的と呼んだこれらの述語の多くは、ものの関係的属性を表しており、他のものを暗黙に指示することなしには何の属性にも帰属することは出来ない、と説いたライプニッツに理があるように思われる。」
「感覚に対するライプニッツの考えが、如何にデカルトのそれと異なるかがわかるであろう。ライプニッツは、我々が感じたり、内省によって知ることが出来るような性質だけで、感覚が特徴づけられるとは決して思わなかった。」
「ライプニッツは関係的属性に言及すること無しに、実体の完全な記述が出来るとは思わなかった。………ある実体についての全ての真理の総体から、このような関係的事実に関する真理を除去することは出来ないのである。ライプニッツが関係を『理性の作ったもの(エンス・ラテイオニス)』と呼ぶとき、彼は関係的属性を非関係的属性と対照させているのではなく、(両方とも実在するのだから)実在する関係的属性を、関*係*という観念的な存在と対照させているのである。」
「ここで、私は関係に関する唯名論とも呼ぶべき、ライプニッツの関係に関する四番目の説を取り上げねばならぬ。関係は、事物についての関係的事実または事物の秩序と連関からの抽象であるという説である(ちょうど我々の色の観念は、色のある事物からの抽象であるように)。故に、関係とは抽象の結果形成された抽象物(構築物)である。つまり、ここで問題にすべきものは事物の関係的事実または関係的属性と、抽象物を実体化することによって得られる関係というも*の*との違いである。唯名論説は、関係的属性と非関係的属性との違いに関するものでないのだ。……………人が関係について語るとき、人は抽象物について---ライプニッツが『理性の作ったもの』と呼んだものについて---語っているのである。このように理性の作ったもの(つまり観念的存在者)について語ると言うことは、必ずしも架空のもの(…)について語ることではないし、全く勝手に創造したものについて語ることでない。ライプニッツが言うように『関係とは悟性によって出来たものであるが、だからといってそれらは現実に根拠がないものでも、架空のものでもない。全てのものの起源は神の悟性にある。そして、単純実体以外の全てのものの実在性は、現象の知覚が単純実体に基礎を持つという事実から成立しているのである。』」
「世界の真の構成要素として存在するのは、ライプニッツにとって個体的実体である。関係であれ、性質であれ、我々が世界について語るとき指示する他の全てのものは、我々が知覚するもの、あるいは現象が、ある属性を持つという事実から我々が抽象して作ったものに過ぎない。ライプニッツによれば唯名論者(オッカムに従い)『世界の全てのことは普遍や実在する形相に言及することなく、説明することが出来るという規則を演繹した』が、自分も『この意見は全く正しい』と賛意を示し、何故なら『実在するのは具体的な個体であり、抽象的なものは実はものではなく、ものの様態である。様態とは一般にものと悟性との関係でしかない』からと書いている。」
「ライプニッツは自然の法則性の結果としてものの間に存在する関係と、人間の作った規約または約束によって存在する関係…区別しているが、彼が関係とは『理性の作ったもの』と繰り返し主張するとき、彼が説いているのは、成程、我々は関係について語り、それを量化の対象とすることもできるが、それらは個体的実体のように世界を構成する要素ではない、と言うことである。………関係的属性は、実体と独立に存在するものではないけれども、実在するものである。属性の実在性は、個体的実体の様態と、多くの個体の様態の間の調和、あるいは連関にある。」
「ライプニッツによれば偶有性は実在するものであるが、それが内在するところの実体から離れては存在しない。………例えば…観念的存在[自注:例えば線分MとLとの間に成り立つところの抽象により得られた比]でしかないのは、[自注:特定の線M,Lが持っている]関係的属性ではなく、この様な関係自体である。」
「ライプニッツは本質命題と存在命題を区別したが……ABが何ものかであるとかABは存在するという場合、命題がライプニッツの呼ぶところのいわゆる本質命題であるか、存在命題であるかによって可能的存在(つまりある可能世界にABは存在する)、現実的存在にもなる(ABはこの世界に存在する)とはっきり書いている。だから、ここでいう存在命題とは必ずしも何らかの存在を主張するものではない。存在命題は偶然的であり、………この命題を主張する人は現実世界の人間についてのみ語っているとみなされるべきであり、これが『存在命題』である。」
「ライプニッツが言うように、個体的実体(つまり、この現実世界の真の個体)の本性は、その特定のこれ性haecceitasに対応する完全なる個体概念を持つことである。しかしながら、別の可能世界に存在するものとしてのこれ性など捉えることは出来ない。………ライプニッツによれば個体的実体の概念は『この概念に該当するものに帰することが出来る全ての述語の、理由が引き出される』ものであるライプニッツはしばしば抽象体は完全概念を持たない、と書いている。[自注:従ってペガサスの概念のような一般概念はこのように完全に規定されない] ペガサスのような架空の存在の名前は、確定記述によって表される不完全な概念とみなすことが出来る。数多くの異なる可能世界に、この概念に該当するいくらかの違う架空のものが、一つずつ存在するわけである。」
「ライプニッツは在ることesseまたは存在することexistereは命題を扱う際の規定により、可能的存在を意味することもあるし、現実的存在を意味することもあると信じた。Aが可能的存在であることは、Aが実現可能であることを意味する。現実の世界で実現されている他の概念と両立しないかも知れないが、どこかの可能世界で実現可能なわけである。可能的存在を説くことは、概念について語ることであり、その概念に該当する個体が、ある可能世界の構成要素であるということである。可能世界は観念的なものに過ぎず、神の考えの中にしか存在しないと、ライプニッツは書いている。」
「現実的存在の場合はどうだろうか。現実的存在も、概念の特徴と言えるだろうか。勿論、もしある個体が現実に存在するなら、ライプニッツが言うように、その個体概念は、この世界で実現されている他の概念と共に実現可能だということが出来る。だから、一つの現実的存在は、それから一群の概念の特徴を結論することを我々に許すが、それら特徴自体であるわけではない。ライプニッツはこの点に関し、少し曖昧だった。……理由が何であるにしろ、後に、カントが存在論的神の証明の批判で指摘した存在概念と他の概念との違いを、ライプニッツは示すには至らなかった。」
「ライプニッツは、現実に存在するものの世界と、観念としてのみ存在するする可能世界とは、全く別物であると信じていた。しかし、この差が何であるかという説明を、彼は納得のいく形で行うことはなかった。その理由は、現実世界の存在と神による創造が彼の頭の中で常に結びついていたからだと思われる。神が一つの可能世界ね創造すべきものとして選び出すときの規準の問題と、そのような世界を実*現*するとはどういうことなのかという問題が混同されているのである。換言すれば、現実化する可能存在が持つ特徴の定義と、現実化という事実の定義の混同が見られるのである。」


『コンディヤックの思想』(読み直し) 投稿者:如月 投稿日:2005/04/10(Sun) 14:29 No.489  
 下方で取り上げた山口裕之さんの著作『コンディヤックの思想ーー哲学と科学のはざまで』(勁草書房、2002年)の紹介、どうもうまくいかないので、以下に最初からもう一度やり直します。

 まずは、コンディヤックの主要2著作についての山口さんの要約・解説。
「『起源論』は、人間のもつ精神的諸機能と認識の全てが感覚という唯一の起源から派生してくることを論じるものである。『感覚論』もまたそれと同一の主題をもち、特にバークリ主義への反論を意図して、触覚による外的対象の認識の成立を論じている。この著作は、五感それぞれが我々に与える認識を考察するために、「内的な組織構成が我々と同じであるが、その精神はいかなる種類の観念も持たないような立像を想定」(『感覚論』)し、そうした立像に感官を一つずつ与えていくという独特の思考実験を遂行する点に特徴がある。」(山口裕之氏、前掲書第1章「コンディヤックの問題圏」、2頁)」
 
 続いて、コンディヤックの思想を全面的に解釈していくに先立ち、コンディヤック研究としては古典的な位置を占めるル・ロワの『コンディヤックの心理学』を取り上げ、ル・ロワにおいて、コンディヤック思想はどのようなものと考えられていたかが紹介されます。
 曰く、「ル・ロワの説明によると、コンディヤックの思想は、ロックの切り開いた「心理学的領域」に対してニュートン的方法を適用することで成立した。「人は、『人間認識起源論』において、まず第一にロックに由来する影響を認めるだろう。ロックは、人間精神が高まって行くところの諸概念が全て感覚的経験にその起源を持つことを示そうと欲した。複合観念とは、彼にとって、単純観念の混合にほかならなかった。そして単純観念の方は、感覚あるいは反省に対する直接的な所与なのであった。これはコンディヤックが繰り返したことである」(ル・ロワ『コンディヤックの心理学』)。かくして、ロックの影響のもと、コンディヤックは、注意、比較、記憶など、人間精神の諸機能が第一の機能たる感覚の変様として成立すること、そうした諸機能によって獲得される認識もまた感覚の変様にほかならないことを示そうとするのである。実のところ、この主題は処女作『人間認識起源論』から遺作『計算の言語』に至るまで変わることなく繰り返される。
 このようにロックはコンディヤックに決定的な影響を与えたのであるが、一方、「ロックの影響の背後には、目立たないが同じぐらいに強い別の影響がある。それはニュートンの影響である」(ル・ロワ、前掲書)。ニュートンの影響は、人間知性にかかわる全てのことを唯一の原理によって説明しようとする体系志向として現れる。」(山口裕之氏、前掲書第1章「コンディヤックの問題圏」、3頁)といいます。
 ル・ロワによれば、コンディヤックに対するニュートンの影響は、その心理学を極度に論理化したものとして最終的に否定的にとらえられますが、ル・ロワの評価とは逆に、山口さんの著作『コンディヤックの思想』は、コンディヤックの思想におけるニュートンが影響した側面、すなわちその体系志向という側面を重視しながら論が進められていきます。


精神の理論モデルの形成 如月 - 2005/04/10(Sun) 15:51 No.490  

 ところで、コンディヤックの思想は、いかなる意味において「経験論」なのでしょうか。あるいは、「経験論」は、そもそもどのような哲学的課題を解決しようとする議論であり、かつまたコンディヤックの議論はそうした議論と整合するものなのでしょうか。
 私には、この問題は、コンディヤックの思想を論じるうえで非常に重要な課題と思えます。たとえば『感覚論』での議論は、「内的な組織構成が我々と同じであるが、その精神はいかなる種類の観念も持たないような立像を想定し、そうした立像に感官を一つずつ与えていくという独特の思考実験」であり、一般的な意味で経験から出発した議論ではありません。
 この点を明らかにするため、ここで一気に、山口さんの『コンディヤックの思想』の第6章「体系における順序の問題」に飛ぶことにします。

「対象の再現の過程は、抽象観念の組み合わせによって対象を再現するのであるから、それによって「再現」されるものとは、対象をある特定の側面から捉えた一般的モデルであるということになる。すなわち、対象の再現の順序とは、対象そのものを形成する順序ではなく、対象についての一般的モデルを形成するための順序なのである。かくして形成されたモデルが、対象について理解したい側面をうまく再現するなら、再構成の過程はうまくいったと見なされ、翻ってそうした構成要素に分解したことの正当性も保証されることになる。
 こうした議論をコンディヤックの「心理学」的体系に当てはめるなら、彼が論じる「人間精神」とは、具体的な誰かの精神などではなく、それを精神的諸機能すなわち知性という側面に限って再現する精神の一般的モデルであるということになる。また、彼の「心理学」的体系における順序は、精神が実際に歴史的に発展してきた過程を描くものでも、個人における発展を描くものでもなく、精神の一般的モデルを形成するための諸要素とその組み合わせ順序を示すものであると解釈することができる。コンディヤックの「心理学」とは、精神を機械的に作動する観念連合のメカニズムであると仮定し、そうしたメカニズムがいかに作動すれば「自由」に思考しているように見えるかを論じるものなのである。」(山口裕之氏、前掲書第6章「体系における順序の問題」、287〜8頁) 

 したがって、山口さんによれば、「コンディヤックの「心理学」の眼目は、ル・ロワが言うようなスピリチュアリズムに立つものではなく、むしろ現代の認知心理学につながるような、精神の理論モデルの形成にあったと言える」(山口裕之氏、前掲書第6章「体系における順序の問題」、288頁)ということになります。こうした議論が伝統的な意味での「経験論」にあたるかどうかを論じることは、あまり大きな意味をもたないといえるのではないでしょうか。


革命前のベストセラー 後鳥羽院 - 2005/04/10(Sun) 16:59 No.492  

本日の日経書評欄に、プリンストン大のロバート・ダーントン著『禁じられたベストセラー』(新潮社)の紹介があって、副題は「革命前のフランス人は何を読んでいたか」とありました。重なる所があるようですね。


「うまく作られた言語」 如月 - 2005/04/10(Sun) 17:22 No.493  

 院よ、日経をとっていないので、何がどう重なるのか、「うまく作られた言語」でもう少し具体的にお教え頂けるとありがたいです♪

   *    *    *

 さて、上に引用したの山口さんの議論を、もう少し詳細にみていくことにしましょう。
 まずは、コンディヤックの思想のなかで「経験論」が占める役割について。
「認識を獲得するためには「既知から未知へと進んでいくしかない」というコンディヤックの主張について見てきたが、ところで、なぜ観念は具体的な知覚の場面を出発点として理解されなくてはならないのか。実のところそれは、経験論者コンディヤックにとって、知覚が認識の最終的な参照項であることは前提であり「原理」であるからにほかならない。これは『起源論』から『論理学』に至るまで、ほとんど表現も変わらずに一貫して主張されている彼の最も基本的な主張である。例えば彼は『起源論』では「我々の持つ全ての認識は感官に由来するという原理」(『人間認識起源論』)と言い、『論理学』では「私が未だ持っていない認識も既に持っている認識も同様に、全ての認識は感官に由来する」(『論理学』)と言う。
 そして彼にとって知覚は、ある観念について共通の理解が成立するための最終的な参照項でもある。」(山口裕之氏、前掲書第6章「体系における順序の問題」、246頁)

 しかし、コンディヤックの議論は、知覚の由来を探究することにとどまるものではありません。

「コンディヤックの議論は、一見そのように見えようとも、実のところ、実際の人間精神の発展をあるがままに描こうとするものではないのである。例えば、第4章で述べたように、彼の論じる「記号の発生」の議論は、歴史上の事実の掘り起こしを目指すものでも、我々の実際の言語獲得過程を描くことを目指すものでもなく、記号の発生についての思考実験である。また、本章前半で論じたように、彼の論じる「幼児の認識獲得過程」とは、知覚の場面からの観念の形成過程について、経験論の原理に基づく理想的な形で示すための思考実験だったのである。」(山口裕之氏、前掲書第6章「体系における順序の問題」、251頁)
「ラヴォワジェの体系に従うと化合物が形成され、その化合物が酸か酸化物か塩かといった点についてはその体系から理解できるが、それ以外のこと(例えばその化合物の融点や硬さや色)については体系から直接確認することはできないのであって、やはり再現されるものはある観点から見ての対象の「モデル」であるということができる。そしてその際辿られる再現の順序は、化合物そのものの生成順序と一致する場合があるにせよ、やはり一義的には化合物についての理解の順序であると考えるのが整合的であろう。
 結局のところ、構成要素の組み合わせによって対象を再構成するという体系の順序は、具体的な対象そのものの生成順序なのではなく、対象についてある観点から見たときの一般的なモデルを形成するための順序であると言うことができる。コンディヤックにとって、ある対象を理解するとは、要素の組み合わせによってそれを再構成することなのであるが、実のところそうした手法によって形成されるのはその対象のモデルなのである。それゆえ、対象を理解するために分解して再構成すべしというコンディヤックの主張は、いわば対象の模型を作ってみることでその対象を理解することだと解釈することができる。そして対象の再構成のための順序とは、そうした模型の部品と作り方の手順を示すものであると。かくして形成されたモデルが、対象について理解したい側面をうまく再現するなら、再構成の過程はうまくいったと見なされ、翻ってそうした構成要素に分解したことの正当性も保証されることになる。」(山口裕之氏、前掲書第6章「体系における順序の問題」、265〜6頁)

 ここで、山口さんは明確には指摘していませんが、この「モデル」思考(=「モデル」志向)とは、すなわち記号論思考(=記号論志向)でもありますね。
 そして、とある対象について議論するとは、とりもなおさず「言葉」というモデルの操作に他ならないわけで、とある対象について議論するため、われわれはまず巧みな言語モデルを構築し、あくまでもそのモデルについて、是非を論じていくしかないわけです。(こうした議論展開が「経験論的」かどうか正直なところよくわかりませんが、少なくともこうした議論展開がノミナリスム的であるとはいえるのではないでしょうか。)

コンディヤックは言います。
「推論の技術は、それぞれの学問において言語をうまく作ることに還元されるのであるから、うまく扱われた学問を学ぶことは、うまく作られた言語を学ぶことに還元されることは明白である」(コンディヤック『論理学』)


Re: 『コンディヤックの思想』(読み直し) 後鳥羽院 - 2005/04/10(Sun) 18:52 No.494  

読まねばなるまい、と早速、本屋に注文しました。
読みましたら、何か書きますね。それまで、お待ちを。
ラボアジェは、幼少の頃から、私の最も敬愛する人ですが、彼の命名法に惹かれました。
oxygene の oxy は、たしかギリシャ語由来で、とんがった、という意味で、azote の zote は zoe(生命)で、a は否定の a ですから、非生命的なるもの、といったところでしょうか。ラボアジェも、言語の制度的な範囲内で命名してるのですね。このへんは、デリダなんかが興味を持ちそうですが、彼、ラボアジェについて何か論じていますでしょうか。


ぜひに! 如月 - 2005/04/10(Sun) 22:55 No.496  

ニュートンやラヴォワジェの体系についての山口さんの解釈に関しては、院のお考えを伺いたいところです。
でも、私を批判しないでくださいね。科学史に関してはにわか知識しかないので、わけがわからなくなってしまいますから。もっとも、コンディヤック問題が始まって以来、私は他の人の言説を引用してばかりですから、私を批判するというのは不可能なはずなんですけれど(笑)。
デリダとラヴォワジェのことは不明です。


『コンディヤックの思想』第2章 如月 - 2005/04/11(Mon) 08:28 No.500  

『コンディヤックの思想』第2章「コンディヤックの分析方法にまつわる諸問題」では、「コンディヤックにおける分析とは、ある複合観念を単純観念にまで分解し、そこから生成過程を辿って元の観念を再構成する作業である」とまとめられたうえで、この議論にはさまざまな問題が含まれていることが指摘され、以下の諸章全体で、そうした問題を解決していくと、本書全体の構造がまとめられています。


ライプニッツによる複雑観念(ロック批判) 投稿者:如月 投稿日:2005/04/09(Sat) 01:41 No.481  
ジョン・ロックが『人間知性論』に記した<経験論>の立場からの考え方を、ライプニッツがどのように受けとめたか、今度はライプニッツの『人間知性新論』から関係箇所を引いておきましょう。『人間知性新論』は、コストが仏訳した『人間知性論』をもとに、ライプニッツが逐条的に批判を加えたものですが、ロック説はフィラレート(引用ではPhと略記)の発言、ライプニッツ説はテオフィル(引用ではThと略記)の発言にまとめられ、仮想の対話形式で論議がすすめられています。(なお、当引用では、ロックの原文とコストの仏訳の違いを示す記号等は一部省略しましたので、詳しくは工作舎から刊行のライプニッツ著作集第4巻、第5巻『人間知性新論』<谷川多佳子氏、福島清紀氏、岡部英男氏訳>をご参照ください。)

Ph「<精神は、一定数の単純観念がたえず随伴することに気づきます。これらは、ただひとつの事物に属するとみなされるので、ただひとつの主体に合一されて唯一の名称で呼ばれるのです。そのため私たちは、経卒にもこれをただひとつの単純観念であるかのように後に語りがちですが、実は一緒にされた多くの観念の集まりなのです。>」
Th「一般に受け入れられている表現には、軽率だと非難されてしかるべきものは何もないと思います。ただひとつの主語やただひとつの観念は認められているとはいえ、ただひとつの単純観念が認められているわけではありませんから。」
Ph「<それら単純観念がそれ自体でいかにして存続しうるかは想像もつかないので、私たちはそれらを支える何ものか(基体)を想定するように習慣づけられます。そこにおいて単純観念が存続し、そこから単純観念が結果として生じると[想定]される。このため基体には実体という名称が与えられるのです。>」
Th「その考えにも一理あると思います。私たちはそうすることに慣れたりそう想定したりするしかありません。なぜなら、初めから私たちは同一の主語について多くの術語を考えますし、支えとか基体といったこれら隠喩的な言葉はそのことしか意味していないからです。したがって、そこになぜ困難が見出されるのか、私には分りません。それどころか逆に、私たちの精神に入ってくるのはむしろ、学識ある・熱い・輝いている、といった具体的なものであって、知・熱・光等々のような抽象的なものないし性質ではありません(なぜなら、実体的な対象の内にあるのは性質であって、観念ではないからです)。こういう抽象的なものの方がはるかに理解し難いのです。これら偶有性が真の存在であるかどうかを疑うことさえできます。実際、これらはしばしば関係にすぎないのですから。(以下省略)」
Ph「<もし私たちの感覚が十分に鋭ければ、可感的性質、たとえば金の黄色は消え去り、その代わりに賛嘆すべき諸部分の一定の組織が見えてくるでしょう。これは顕微鏡によって明らかとなった事態です。現在のこの認識は私たちの現状には適しています。私たちを取り巻く諸事物についての完全な認識は、おそらくいかなる有限存在の力量をも超えています。私たちの能力は、私たちに創造主を認識させた私たちの義務を知らしめるには十分なのです。もし私たちの感覚がはるかに鋭敏になったとしたら、そうした変化は私たちの本性と両立しないでしょう。>」
Th「まったくその通りです。それについては先に若干述べておきました。しかし、黄色も虹のようにやはりひとつの実体です。それに、明らかに私たちは現在の状態をはるかに超えた状態へと向かうべく定められており、無限に進むことさえできましょう。なぜなら、物体的自然の内には基本要素などありはしないからです。例の著者(引用者註記:ジョン・ロックのこと)は、原子というものがあるとどこか別の箇所では考えていたようですが、よしんば原子があったとしても、物体についての完全な認識はいかなる有限存在をも超えているはずはないでしょう。それに、何らかの色とか性質が、より充実した備えをもったりいっそう鋭くなった私たちの目には消え去るとしても、他の色とか性質がそこから生じてくるのは明らかです。そしてまた、それらを消失させるためには、私たちの洞察力を新たに増大させなければなりますまい。物質の現実的分割が実際にそうであるように、それは無限に進みうるでしょう。」(第2巻第23章「私たちがもつ実体の複雑観念について」)


凡例 如月 - 2005/04/09(Sat) 01:44 No.482  

フイラレートの発言中、<>で示されているのは、原文ではイタリック体で記された箇所であり、コストの仏訳の抜粋とのことです。


ライプニッツによる善悪および法(ロック批判) 如月 - 2005/04/09(Sat) 01:51 No.483  

Ph「道徳的関係とは、人間の意志的諸行為と、それらが道徳的に善いか悪いかが判断されるようにする規則との間に見出される一致あるいは不一致のことです。そして、道徳的な善とか道徳的な悪とは、意志的諸行為とある法との間に見出される合致もしくは対立のことです。それは立法者のあるいはその法を維持しようと欲する者の意志と力によって、自然学的な善ないし悪を私たちに招き寄せます。これこそ私たちが賞罰と呼んでいる事柄です。」
Th「あなたが見解を代弁している著者ほど学殖豊かであれば、自分たちが適切だと判断するように名辞を整理することも許されましょう。でも、先ほどのような考え方に従うと、異なった立法者の下では、同じ行為が同時に、道徳的に善いものにも悪いものにもなってしまうのもまた確かです。われわれの学殖豊かな著者が先に、徳を称賛される事柄と解した際もまったく同様です。したがって、まさに同一の行為であっても、人々の意見によって有徳であったりなかったりするのです。ところで、それは、道徳的に善くて有徳な諸行為に付与されている通常の意味ではありませんから、私としてはむしろ、神が自からの責任において維持してきた理性の不変の規則こそ、道徳的善と徳との尺度であると考えたいのです。それゆえ、神の仲立ちがあればいかなる道徳的善も自然学的となる、あるいは古代の人々が言っていたように、いかなる誠実さも有益である、と私たちは確信しうるのです。ところが、例の著者の考えによると、道徳的な善悪は、権力を掌中に収めている者が賞罰によって従わせたり回避させたりしようと努める、課せられた善悪もしくは制度的な善悪だと言わなければなりますまい。善いものとは、神の設けた一般的制度に由来するものが、自然ないし理性に適合していることなのです。」
Ph「三種類の法があります。神法、市民法、そして世論ないし世評の法です。第一のものは罪ないし義務の規則、第二のものは犯罪的行為か無罪の行為かについての規則、そして第三のものは徳か悪徳かについての規則です。」
Th「名辞の通常の意味に従えば、徳・悪徳が義務・罪と異なるのは、習態が行為と異なるようなものでしかありません。それに、徳や悪徳は世論に依存するものとは考えられていません。重大な罪は大罪(crime)と呼ばれており、無実の人(l'innocent)に対置されるのは犯罪人(le criminel)ではなく[宗教的な]罪人(le coupable)です。神法には二種類あります。すなわち、自然的なものと実定的なものです。市民法は実定的です。世評の法は、不適切な呼び方でもしない限り法の名に値しないか、あるいは、行為が他人の賛同、健康、利得の如き何らかの善ないし悪を自然的に招き寄せる場合に、まるで私が健康の法、倹約の法というようなことを口にするかのように自然法の下に包含されているか、そのどちらかです。」
Ph「実際、どこでも、徳と悪徳という言葉は行為の本性上善い行為や悪い行為を意味すると言われています。そしてそれらの言葉が現実にこの意味で用いられる限り、徳は自然的な神法に完全に一致します。しかし、人々が何と言おうと、これらの名称は個別的な適用例において考えられた場合、各国ないし各社会で好評または悪評であるあれこれの行為に常にもっぱら帰せられるのは、誰の目にも明らかです。さもないと、人々は自分自身を難詰するでしょう。こうして、徳・悪徳と呼ばれる事柄の尺度は、密かな暗黙の同意によって形成される賛同とか軽蔑、[好意的]評価とか非難なのです。というのも、政治的社会に結集した人々は自分たちのすべての力の処理を公共の手に委ねたのであり、したがって同じ都市の市民に対しては法の許容範囲を超えた力を行使できないにもかかわらず、それでも常に、善悪を思考しそれを是としたり非としたりする力能を、そうした人々は保持しているからです。」
Th「あなたにそういう風に説明しているかの学殖豊かな著者が、自分は徳や悪徳という名称にこの恣意的で名目的な定義を割当ててみようと思ったのだと言明すれば、おそらく他の名辞がないので表現の都合上、理論においてはそういうことが彼には許されている、とでも言うほかはありますまい。(後略)」
Ph「多くの人々は神の法について真面目には考えません。あるいは、その法の創造者にいつか罪の宥しを乞いたいと思っています。そして国家の法に関しては、罰せられないことを彼らは密かに期待しているのです。しかし、自分が親しく交わっていて、その交際相手に自分を推挙したいと思っている場合、当の相手の意見に反するような何事かを為す者が、相手の人々に非難され侮蔑されるという罰を免れうるなどとは誰も考えません。自分自身の本性についての何らかの感覚が残存している可能性のある者なら、誰一人として、絶えず侮蔑にさらされながら、社会生活を営むことはできません。それが世評の法の力というものです。」
Th「すでに述べたように、行為が自から招き寄せるのは法的な罰ではなく、むしろ自然的な罰です。けれども、多くの人々がそれをほとんど気にかけないのは確かです。なぜなら、普通、人々は非難される何らかの行為のゆえにある人たちに侮蔑されるとしても、何らかの別の面からすれば僅かでも推挙に値するならば、人々は自分たちを侮蔑しない共犯者もしくは少なくとも擁護者を見出すからです。(中略)称賛や非難において、公衆が互いに考えを同じくし理性と一致するのが望ましいと思います。そしてとりわけ、お偉方たちが悪しき行為を鼻であしらって悪人をかばいだてすることのないように願いたいものです。そういう場合はたいてい、侮蔑によって罰せられ笑いものになるのは、悪しき行為をした者ではなくその行為を被った者であるようです。一般に人々は悪徳よりもむしろ弱さや不幸を侮蔑する、ということも分るでしょう。ですから、世評の法はぜひとも改革される必要があり、またもっと遵守される必要があるのです。」(第2巻第28章「他の諸関係、とくに道徳的関係むについて)


コンディヤックとライプニッツの類似 如月 - 2005/04/10(Sun) 11:53 No.488  

(山口裕之さんの『コンディヤックの思想』を読みながら、「経験論」と「合理主義」という立脚点の違いにもかかわらず、コンディヤックの発想とライプニッツの発想にはよくにたところがあると感じましたが、それは結局次のようなことからくるのかと思いました。
「コンディヤックの議論の枠組みでは、人間精神に超越的主観性といったものは認められず、精神とは機械的に形成され作動する観念連合のメカニズムにほかならない。そして、こうした枠組みに基づく限り状況への従属状態と自由の間に本質的な差異を設けることができず、両者の差異は、状況が与えられたときに行動が導かれるまでの間に「計算」される観念の量の差異だということになるのである。それゆえ、コンディヤックが「記号は人間を自由にする」と主張するにせよ、それは記号が人間を何か自由ならざる状態から自由へと本質的に変化させると主張しているわけではないと解釈すべきなのである。そして、彼が「記号の自由な扱い」と言うときに念頭に置いていた具体的な事態とは、記号に慣れ親しむことでそれを使い慣れた道具のように易々と使用することであり、「記号による観念の自由な扱い」とは、かくして「自由に」扱えるようになった記号によって、対象が不在のときにも観念を操作し、自在に分析することにほかならない。コンディヤックの言うところの「うまく作られた言語」とは、こうした記号使用法に適した言語である。」(山口裕之氏、前掲書293〜4頁)
記号の問題もそうですが、結局、モナド論に立つライプニッツも、「人間精神に超越的主観性といったものを認めず、人間精神を機械的に形成され作動する観念連合のメカニズム」のようなものと考えていたのではないでしょうか。
これに直接関係する『コンディヤックの思想』の本文は次のとおりです。
「記号がこのような形で構成されることで、未知の記号が示されたときであっても、その構成要素から既知の記号との類推が可能で、それによってその記号の示す観念を、既知の観念の組み合わせとして理解することができる。また、ある記号が示す観念は常に、感覚可能な具体的な観念にまで遡ってそれらの組み合わせとして理解されるのであるから、「実体」や「思惟」などを巡って哲学者が戦わせたような抽象的で無益な議論に陥る心配がない。「こうした言語を話す人は形而上学者が今日提出するような問題など思いつきもしないだろう」(『論理学』)。さらに、構成要素の組み合わせによって、新たな観念を自在に形成することができる。すなわち、記号体系の外部を参照することなく、記号のみを操作することで分析が遂行されるのである。コンディヤックは、全ての学問においてこうした形で記号が構成されなくてはならず、それが達成されると、その学問における分析は、記号のみを操作することで遂行されるようになると考えるのである。」(山口裕之氏、前掲書第5章「記号による観念の自由な扱い」、207〜8頁)

この箇所につけられた山口さんの注は以下のとおり。
「こうした数学をモデルとする学問観からは、「むしろコンディヤックはライプニッツを思わせる。彼が追求し、晩年の著作においてその性格が明らかになった体系は、実際、ライプニッツの論理に対する見方を思い起こさせる」(ル・ロワ)。実際、コンディヤックには『モナド論』の著作があるほか、『体系論』の少なからぬ部分がライプニッツ哲学の検討に当てられている。しかし、「恐らく、コンディヤックはそうしたライプニッツとの類似性を意識していなかっただろう。なぜなら、18世紀に知られていたライプニッツの著作では、論理的考察はきちんと評価されないままになっていたからである」(ル・ロワ)。」

ちなみに、前掲引用で山口さんが「」に入れた実体および思惟は、「substanceという語は、ラテン語のsubstantiaという語から派生したのであり、それはsub(下に)とstantia(stare(立つ)の名詞形)という部分で構成されている。また、penseeという語は、ラテン語のpensare(重さを量る)から派生したのであり、pens-という共通の部分から推し量ることができる」(山口裕之氏、前掲書第5章「記号による観念の自由な扱い」、206頁)のであり、こうした感覚可能で具体的な観念を示す記号を構成要素としそれらの組み合わせで複合観念を構成するというモデルは、ラヴォワジェの化学言語の考え方と共通しているのですね。)


ロックvs.ライプニッツ 投稿者:如月 投稿日:2005/04/08(Fri) 13:13 No.477  
PCの「マイ・ドキュメント」のなかに、かつてロックとライプニッツについて考察した折に記したメモが残っておりましたので、すぐ下のスレッドの議論を読むための哲学史的前提として、このメモを復活させておきます。

   *    *    *

ライプニッツとロックの思想の対立点、増永洋三氏によれば、次のとおりです。
「ライプニッツはロックの合理論批判における積極的な面を可能な限り客観的に評価することを心得ていた。彼は『新人間悟性論』の序論で自らの立場をロックのそれに対して明確に区別している。この序論は魂の問題から始まっている。そこでライプニッツはモナド論的に把握された魂の形而上学的考察を簡潔に展開している。ライプニッツにとって魂は「何も書かれていない板」とは全く別のものである。魂はその本来の内容をそれらを経験する機会毎にその都度再発見するのである。その際魂はすべての必然的永遠真理の基礎としての原初的な概念を顕在的に把握するのである。それらのみが本有観念と呼ばれ得る。それらにのみ一般的な真なる命題の可能性がもとづいているのである。ロックも原初的概念をその発生に関して個々の主観のうちに求めている。しかし心理的起源への問は、認識の基礎として制約としての妥当性への問とは異なる。既にライプニッツがカントに先立って、この先験的問を心理的起源への問から明確に区別したのである。勿論ライプニッツは本有観念を心理的側面からもまた把握した。しかし本有観念は揺籃の時からそなえられた内容ではなく、魂のうちに賦与された能力あるいは素質である。ライプニッツはロックに向って言う、「数学的真理は我々のうちにある。そのことはしかし、我々がそれらを最初は学ばねばならぬことを排除しはしない」。だが学ぶことにおいて我々は、数学的命題の真理がそれらを習得する個々の経験には依拠しないことを知るのである。この意味でライプニッツはあらゆる必然的な数学的命題、あらゆる普遍的な道徳的命題を本有的と名づけるのである。かかる霊魂観を基礎としてライプニッツは心理学の基礎的理説を展開する。それはデカルトとロックの意識心理学とは決定的な点で最も鋭い対立をなす。彼は心理学的考察を、ロックやデカルトのように、観念の意識所与性に、即ち観念が意識的知覚に与えられてあることに限定しない。むしろ彼は、丁度我々が物体的現象から物理的構造や力を推し測るように、我々の意識の所与性からこれらの根柢にある心的過程や力を正当に推論することが出来ることを強調する。我々の意識現象の世界の背後に、それを制約する無意識的な魂の生が存在すること、かかる無意識なるものの方法的発見と探究こそライプニッツに特有の心理学的業績である。」(増永洋三氏『ライプニッツ』<人類の知的遺産38>、講談社、1981年、192〜3頁)

また同じく増永氏によれば、『人間知性新論(新人間悟性論)』執筆および刊行の経緯は次のとおりです。
「1700年にピエール・コストによる『人間悟性論』の仏訳が公けにされた。それが英語に十分熟達していなかったライプニッツに、この著作についてのより立ち入った検討を可能にした。1701年から1703年の間に、ライプニッツは公的な仕事の合い間や旅行先などで、反駁書のための準備的覚え書きの作成にとりかかったと思われる。1703年のヘルンハウゼンにおける夏休暇に『新人間悟性論』が出来上った。しかしライプニッツはフランス語の表現の訂正を生粋のフランス人に委託することを望んだ。また、ピエール・コストは近く出る『人間悟性論』第5版に加えられるロックの新たな補遺を待った方がよいとライプニッツにしきりに勧めたので、『新人間知性論』を印刷に付すことは延期された。その間に1704年秋にロックが死去した。それと共に、ロック説と徹底的に対決しようと意気込んで企てられたライプニッツのこの批判的著作への関心も、その対象を失って急速に薄れてしまった。死者を批判することは彼の意にそぐわなかった。かくて書き終えらはしたが、印刷に付する段階まで十分に推敲されるに至らなかったこの天才的著作は、トルソーのままに残された。やっと60年後の1765年にラスペによって、ケストナーの序言をつけて、遺稿として刊行された。1769年以降のカントの所謂コペルニクス的転回は、この『新人間悟性論』との接触なしには考えられぬであろう。」(増永洋三氏、前掲書、191〜2頁)

コンディヤックは、1748年に『モナドに関する研究』を発表しベルリン王立アカデミーに提出していますが、この論文を執筆する際にライプニッツの著作をある程度は読んでいます。ただ、上に記したような経緯から、『人間知性新論』を読んでいたかどうかは疑問ですね。むしろ、『人間知性新論』は読んでいなかったと考える方が自然かもしれません。


ロックによる複雑観念 如月 - 2005/04/08(Fri) 14:54 No.478  

以下、参考までに、ロックとライプニッツの議論の原点であるロックの『人間知性論』から当面の考察に必要な箇所を抜き出しておきます(引用は、大槻春彦氏訳の岩波文庫版『人間知性論』による)。

「実体一般の隠れた深奥の本性がなんであろうと、個々別個な種の実体について私たちのもつ観念はすべて、単純観念のいろいろな集成、すなわち、不知ではあるが単純観念の合一の原因であって単純観念全体をみずから存立させるようなもののうちに共存する、単純観念のいろいろな集成にほかならない。私たちが個々の種の実体を私たち自身に表象するのは、単純観念のこうした集成によるのであって、それ以外のどんな事物にもよらない。こういうのが、私たちの心にある実体のいろいろな種について私たちのもつ観念であり、こういうのだけを私たちは、たとえば人間・馬・太陽・水・鉄という個々の実体の種の名まえによって他人に意味表示するのである。(中略)
 ある特定の種の実体のうちに存在する単純観念の大部分を収集し寄せ集める者は、その実体のもっとも完全な観念をもつが、そうした単純観念のなかに実体の能動的力能と受動的受容力を数えるべきである。この能動的力能と受動的受容力は単純観念でないが、当面の件では簡潔のため便宜上単純観念に数えていっこうに差支えなかろう。たとえば、鉄を引きよせる力能は、磁石と呼ばれる実体の複雑観念の諸観念の一つであり、そのように引きよせられる力能は、鉄と呼ばれる[実体の]複雑観念の一部であって、それらの力能は、磁石や鉄という主体に内属する性質と認められている。(中略)
 かりにもし私たちの感官のなかで教えることのもっとも多いもの、すなわち視覚が、ある人間では最良の顕微鏡による今よりも千倍あるいは十万倍も鋭いとしたら、そのときは、今の視覚の最少対象の数百万分の一の事物が肉眼に見えただろうし、ひいては、その人は、形体的な事物の微小部分の組織や運動をもっとよく発見するようになり、形体的な事物の多くでたぶん内部構造の観念をえただろう。が、そのとき、その人は他の人たちとまったく違う世界にあっただろう。その人と他の人たちとに同じに見える事物はなにもなく、すべての事物の視覚的観念は違っただろう。」(第2巻第23章「実体の私たちの複雑観念について」)


ロックによる善悪および法 如月 - 2005/04/08(Fri) 14:58 No.479  

「善悪は、すでに明示しておいたように、快苦にほかならない。あるいは、私たちに快苦を生じたり招来するものにほかならない。してみると、道徳的に善または悪というのは、私たちの有意行動がある法と、すなわち立法者の意志と力能とにもとづいて私たちに善または悪をもたらすような法と、合致するか不一致であるかということにすぎず、この法を遵守したり破ったりすることに立法者の判決によって伴う善悪快苦が、私たちの賞罰と呼ぶものなのである。
 人々が一般に準拠し、自分たちの行動の方正か劣悪かを判定する、こうした道徳規則ないし法には三種あって、三つの違った強制すなわち賞罰を伴うように、私には思われる。というのは、人間の意志を決定する善悪[ないし快苦]のある強制を規則に結びつけずに、人間の自由な行動に対してある規則を立てる、そう想定することはまったく無駄だろうから、私たちはある法を想定する場合、この法に結びつけられたある賞罰も、いつも想定しなければならない。ある知能ある存在者が他人の行動に対してある規則を立てても、かりにもしその行動自身の自然の所産・帰結でないようなある善悪によって、自分の立てた規則への応従を賞し、規則からの逸脱を罰する力能がその知能ある存在者になかったとしたら、規則を立てることは無駄だったろう。なぜなら、それ[すなわち自然の所産・帰結]は自然に好つごうあるいは不つごうなのだから、法がなくともひとりでに作用しただろう。この[賞罰を伴う]ことが、もし私がまちがっていないとすれば、およそ法と本来呼ばれるいっさいの法の真の本性なのである。
 およそ人々が一般に自分たちの行動を準拠させて、行動の方正か不方正かを判断する法は、次の三つであるように私には思われる。一、神法。二、市民法。三、世論ないし世評の法と呼んでよければそうした法。人々は自分の行動がこれらの法の第一に対してもつ関係によってその行動が罪であるか義務であるかを判断し、第二の法によって犯罪か犯罪でないかを判断し、第三の法によって徳か悪徳かを判断する。
 第一、神法と私が言うのは、神が[理知という]自然の光によって人々に広めたもうたにせよ、啓示の声によって広めたもうたにせよ、人々の行動に立てたもうた法という意味である。およそ神がある規則を与えたもうてあり、人々はこの規則によって自分自身を律すべきこと、これを否定するほど獣のような者はだれもいないと、私は思う(以下省略)。
 第二に、市民法すなわち国家が自己に属する者の行動に対して立てる規則はもう一つの規則、すなわち行動が犯罪かどうかを判断するため人々が自分たちの行動を準拠させる規則である(以下省略)。
 第三に、世論ないし世評の法。いったい、徳と悪徳は、どこでも、行動自身の本性で正しい行動または正しくない行動を表わすと称される名まえであり、また、そう想定される名まえである。そして、真実そのように当てはめられるかぎり、徳と悪徳は上述の神法と符合する。けれども、なんと称されようと、これだけは目に見えて明らかだ。すなわち、これら徳と悪徳という名まえは、その当てはめられる個々の事例では、世界中の諸国民・人間社会を通じて、いつもきまってそれぞれの国や社会で好評または悪評にある行動だけに属するとされるのである。(中略)この尺度は、ひそかな暗黙の賛同によって、世界の人々のいろいろな社会・民族・集団のうちに確立され、これによっていろいろな行動が、その場所の判断・格率・風習に従って人々の間に評判あるいは不評を見いだすようになるのである。というのは、人々は政治社会に合一して、自分たちのあらゆる力の処置を公共の手に委ねてしまい、したがって、国法の指図する以上には同市民に対して力を行使できないが、それにもかかわらず、仲間になってくらし交わる者の行動を良いとか悪いとか考え、推奨したり推奨しなかったりする力能はなお把持し、この推奨と嫌忌によって自分たちが徳または悪徳と呼ぼうとするものを自分たちの間に確立するのである。
 人類の大部分はこの風習の法によって、たとえそれだけではないにしても、主として自分を律し、ひいては、交友に好評を続けるようなことを行って、神の法や為政者の法をほとんど顧慮しないものである。神の法を破ったことに伴う処罰をある者は、いや、おそらく大部分の者は、ほとんど真剣に省察しない。神の法を破る者の多くは、法を破りながら、そのように法を破ったことに対していつかは融和し和解するという考えを抱いている。また、国家の法から受けるべき罰については、こうした人は、心ひそかに罪せられない希望をひんぱんにもつ。が、自分が交わって推挙されたく思う交友の風習や意見に背く者は、交友たちに非難され、嫌忌されるという罰をだれひとり免かれない。自分自身の団体に絶えず嫌忌され難詰されても耐え抜くほど強情で無感覚な者は、一万人に一人もいない。絶えまない不評・悪評判の中で自分自身の属する特定社会とともに安んじて生きられる者は、ふしぎな異常体質の者に違いない。」(第2巻第28章「他の諸関係について」)


『コンディヤックの思想』(山口裕之氏)を読む 投稿者:如月 投稿日:2005/04/07(Thu) 14:44 No.467  
 必要に駆られて昨日から山口裕之さんの『コンディヤックの思想』(勁草書房、2002年)読みはじめました。現在、第三章「観念の成立」を読み終えたところです。
 今、同書について、じっくりまとめている時間的余裕がないのですが、とてもおもしろい本だと思いますので、以下、その内容紹介というか、気になった箇所の抜き書きをつくってみたいと思います。
 本書全体の構成は、第一章「コンディヤックの問題圏」、第二章「コンディヤックの分析的方法にまつわる諸問題」、第三章「観念の成立」、第四章「観念の成立への記号の関与」、第五章「記号による観念の自由な扱い」、第六章「体系における順序の問題」、結論ーーとなっています。このうち本論の第一部をなす第三章の内容は、「観念、特に単純観念の形成を巡る問題を扱う。分析は、知覚対象の側において初めから分節されている単純観念を単に発見するだけなのか、という問題について検討することがこの章における主要な課題である」(同書、41頁)とのこと。
(ちなみに、私は山口さんによるコンディヤック思想の解説を読みながら、ライプニッツ特に『人間知性新論』の議論との類似性を感じさせられる箇所が多々あります。コンディヤックという人は、ジョン・ロックの経験論を正面から受けとめ、それをさらに詳細なものにしようとしているのですね。ところでライプニッツの『人間知性新論』は、ロック『人間知性論』を読んだことをきっかけとしてた書かれた著作で、ロックの思想をライプニッツなりに受け入れ、その批判的視点にたったうえでデカルト来の合理主義はどのように位置づけられるかをロックの代弁者とライプニッツの代弁者の対話というかたちで書いたものなのですね<ライプニッツの生前は未刊行>。このロック思想の超克という点でライプニッツの立場とコンディヤックの立場は類似点もあるのではないかと考えられ、それは必要に応じて言及してみたいと思います。)

 なお、コンディヤックの生涯と思想の概略につきましては、↓をご参照ください。
http://www.furugosho.com/precurseurs/condillac/index.htm


「観念の成立」その1 如月 - 2005/04/07(Thu) 15:35 No.470  

「コンディヤックは、差し当たり抽象観念について、一般観念とは異なる定義を与えているように見える。まずは抽象観念についての説明を見るなら、抽象観念とは、「様々な度合いの単純さを持つ観念であり、我々は、それと共存する他の単純観念について考えるのをやめて、その観念にのみ注意を向けるのである。もし我々が、物体という実体について、実際に様々な色や形を持ったものとして考えるのをやめ、単に可動的で、分割可能で、不可入で、非限定的延長を持ったものとしてのみ考察するなら、我々は物質の観念を持つことになるだろう」(『起源論』)。抽象観念とは、ある知覚的対象の一部分を抜き出したものなのである。ここでコンディヤックはその「部分」とは「単純観念」であるとしている。一方、一般観念とは、「いくつかの物を、互いに似ているという観点から考察したときにそれら物に与えられた名称」である(同書)。すなわち、一般観念は複数の対象の共通部分を抜き出すことで成立するのである。」(山口裕之氏、前掲書63頁)

「個々の対象は無限に多様であり、そこには無限の差異があるのである。それら全てについて観念を形成するならば認識はもはや成立せず、我々は混乱状態に陥る。それゆえ、一般化(すなわち抽象化)の作用が「人間にとって絶対的に必要なのは、人間の精神に限界があり、少数の観念しか同時に考慮できないために、いくつかの観念を同じクラスに入れて扱うことを余儀なくされるからなのである」(『起源論』)。「一般観念をかくも必要なものにしているのは、我々の精神の限界である。神は一般観念を全く必要としない。神の持つ無限の認識は全ての個物を理解するのであり、神にとって全てを同時に思惟することは、唯一のものを思惟することより困難ではない」(同書)。
 一般観念(すなわち抽象観念)がかかるものである以上、「事物は我々の理解仕方によってのみ区別されているのであり、それらが実際に区別されていると受け取らないように注意しなくてはならない」(同書)。つまり一般観念(すなわち抽象観念)は実在せず、存在するのは個物のみである。『論理学』での表現で言うなら、「木一般は存在しないし、リンゴの木一般や梨の木一般も存在しない。存在するのは個物だけである。それゆえ、自然においては類も種も存在しないのである」(『論理学』)。」(山口裕之氏、前掲書68〜9頁)
以上は、厳密な「ノミナリスム(唯名論)」の立場の表明といえますね。

「個物が一つ一つ無限に異なるとするなら、どういう基準に従ってそれらを一般化し、抽象観念として取りまとめることができるのか。対象同士が初めから類似しているということであれば、やはり知覚的世界は単純観念の束であるということになる。ところがコンディヤックによると、複数の対象の間に類似性を設定する基準、すなわち抽象観念を設定する基準は、対象の側の「本質」ではなく、人間の側の欲求に基づく関心である。そして、欲求の反復が観念の反復の根拠となるのである。「欲求は我々に観念を与えるものであり、我々に観念をもたらす原理である。そして、欲求の反復が観念の反復の根拠となるのである。「欲求は我々に観念を与えるものであり、我々に観念をもたらす原理である。観念が我々の精神の前を絶えず往来するのは、我々の欲求が絶え間無く繰り返され、継起するからである」(『感覚論摘要』)。」(山口裕之氏、前掲書69頁)


仏の認識論 如月 - 2005/04/07(Thu) 16:01 No.471  

突然西洋思想の話がでてきても、なかなか頭が切り替わらないという方(実は私もそうです<笑>)、神ならぬ仏の認識論(言語論)につきましては、↓をご参照ください。
http://www.furugosho.com/inseiki/rhetorique/fuji.htm


コンディヤックと18世紀の化学思想 如月 - 2005/04/08(Fri) 01:28 No.473  

それではコンディヤックの思想と18世紀の化学の関係はどうなるのでしょうか。たとえば、普通に考えると、ラヴォワジェは「酸素」という「物質」を発見したのではないでしょうか?しかし、山口さんによればそうではないのです。

「コンディヤックが大きな影響を与えたと言われる化学において、18世紀当時話題になっていたのは、空気は複数の種類に分類できるか否かという問題であった。ラヴォワジェは『化学原論』の中で、空気は酸素と窒素の二つの成分からなることを示す。密閉容器中で、水銀を長時間加熱し続けると水銀は赤色になり、容器中の空気の約六分の一が失われる。そして「実験後、水銀のV焼によって六分の五に減った残りの空気は、もはや呼吸にも燃焼にも適さなかった」。次に、実験で生じた赤色水銀を気体補集装置のついた容器で白熱するまで加熱すると、容器内に水銀が凝集し、装置の中には「大気空気以上に極めて燃焼や動物の呼吸に適する弾性流体[気体]が生じた」。それゆえ、「水銀はV焼によって空気の健康によく呼吸に適する部分、厳密に言えばその呼吸に適する部分の基を吸収したのであり、後に残った空気は一種の窒息性空気であり、燃焼も呼吸も指示することができない」(Lavoisier)。かくして空気は二種類に分類されるべきであることが確証されたのであり、ラヴォワジェは前者を酸素oxigene、後者を窒素azoteと名付ける。
 これらの気体の観念が抽象観念すなわち一般観念であるのは、それぞれの名前で名指される気体は全て、ある操作に対して同じ変化をする点において類似しているからである。酸素と呼ばれる気体は全て、水銀のV焼という操作によって容器中から失われ、赤色水銀の加熱という操作によって再び放出される。また、逆に言えば、同じ操作に対して異なった変化を返すものは別の種類に分類されるべきである。例えば、水銀のV焼後に残った気体と、石灰と酸による発泡や金属の還元で生じる気体とは、燃焼も呼吸も支持しない点では類似しているが、しかし結局のところ別種である。「なぜならばV焼後の空気では石灰水の沈殿が生じないし、発泡や還元後の空気よりも大気空気と混合しやすいから」である(柴田和子「ラヴォワジェと近代化学誕生」)。」(山口裕之氏、前掲書84頁)

「実際のところ、実験的手法によって形成される観念もまた、対象の本質を捉えるものではなく、その対象と我々との関係によって見出される質にほかならないのか。コンディヤックは、好奇心による観念形成の場合にも快不快が観念を規定すると考えていたために、この点に関して議論を十分に展開してはいない。そこで補足して考察するほかないが、結論を先に言うならそのとおりである。例えば先の気体の例に即して考えてみよう。密閉容器中で水銀をV焼させた後に残る気体を、ラヴォワジェは窒素と名付けた。しかし、現代の知見から見ると、これは窒素と少々のアルゴンの混合物である。例えばこの気体を触媒の存在下で高温で酸素と化合させ、生じた気体を水に溶かして取り除くと、アルゴンを分離することができる。このことから引き出せる教訓は、ある操作を行った際に同じ変化を示す対象同士であっても、別の操作を行った際にやはり同じ変化を示すという保証はないということ、すなわち、ある操作をもとに同じと見なされている対象同士は、その限りにおいてしか同じものでないということである。多種類の操作を行い、それにもかかわらず全ての操作に対して同じ変化を示す対象同士は同じものである蓋然性が高いが、それでも、未だ為されていない操作によって差異が見出される可能性は残る。しかも、いかなる操作を行うか、いかなる変化について観察するかという点に関して、人間の側の選択や都合が反映されてしまう。それゆえ、実験的手法によって形成される観念もまた、対象の本質を捉えるものではなく、我々がいかなる仕方でその対象を操作するかによって、すなわち我々がその対象との間に持つ関係によって設定される質であると結論しなくてはならない。」(山口裕之氏、前掲書89〜90頁)


抽象観念が示すのは対象と操作方法 如月 - 2005/04/08(Fri) 09:52 No.475  

「抽象観念は、操作という能動的な仕方で対象に接することでそれに対応した質を捉えることによって形成されると述べた。すなわち、抽象観念は対象を適切に操作することで形成されるのである。それゆえ、ある対象において既知の抽象観念が名指す部分が気づかれるということは、その対象を適切に操作できるということを意味する。いわば、抽象観念は、操作すべき対象と操作方法とを指定するものとして成立しているのである。(中略)
 例えば酸素の抽象観念は、密閉容器中で水銀をV焼することで取り除かれ、赤色水銀を加熱することで得られる気体を示しており、窒素の観念は、水銀のV焼後に残り、燃焼も呼吸も支持せず石灰水を白濁させることもない気体を示している。これら一連の操作によって分離された気体を酸素や窒素と名付けるのである。すなわち、これらの観念の内実は、それらの観念によって指示される対象を分離し獲得するための操作手続きを示すものにほかならない。それゆえこの場合、抽象観念を持つということは、それによって指示される対象を分離するために、操作すべき対象と操作方法とを知ることである。」(山口裕之氏、前掲書91頁)


認識とは「使用法」を知ること 如月 - 2005/04/08(Fri) 10:56 No.476  

「コンディヤックの主張するところでは、観念の名前を知るということは観念を知ることではない。「我々は観念を持っている事物に対して名前を付けるので、我々は名前を付けたもの全ての観念を持っていると仮定する人がいる。こうした誤りは避けねばならない」(『論理学』)。「全ての誤りは同じ起源を持つ。すなわち、ある語の意味を規定する前に、あるいは規定する必要すら感じないままにその語を使用するという習慣に由来する」(同書)。(中略)
 さて、このように抽象観念を、操作すべき対象と操作方法とを指定するものであるとする解釈は、コンディヤックが観念を適切な行動を導くものと考えていた事実と整合する。「類と種とはどの程度まで増やすことができるのかと人は問うであろう。私が、あるいはむしろ自然自身が答えるには、我々の欲求に関係のある事物を利用するときに我々の行動を調節するのに十分な程度のクラスを持つまでである」(同書)。「類や種」とは言うまでもなく対象の分類であり、すなわち抽象観念である。そしてそれらは、「事物を利用するときに我々の行動を調節する」ものなのである。そしてコンディヤックにとって「認識」とは、こうした観念に導かれて適切な行動を取ることができること、ある対象を適切に扱うことができることにほかならない。「経験が、私にとって絶対的に必要な事物の使用法を私に教える。私は快と不快によって教えられるのである。私はそうした教えを速やかに受ける。それ以上のことを知ろうとしても無益である」(同書)。このように、事物について認識できることはその「使用法」なのである。」(山口裕之氏、前掲書91〜2頁)

要は、コンディヤックがよって立つのは、(自然界もしくは環境世界に、特有の本質をもって他とは異なる)モノが存在してそれを認識したり適切に名付けることができるという立場ではなく、コンディヤックによれば、むしろそのようなモノは存在しないし、「自然分類(モノの本質に即した分類)」というのは不可能だということですね。


18世紀の言語起源論・社会起源論と「抽象観念たる法」の起源論 慧遠(EON) - 2005/04/08(Fri) 23:51 No.480  

コンディヤックの「本能の自然的記号論」に類似した議論は、ガッサンディに先駆的に見られます。ガッサンディは「なるほど犬は単なる衝動によって吠える。しかし、人間も何らかの原因によって発語する。したがって、人間の言語使用も衝動によると考えて良い」と述べている。このガッサンディの言語生理反応説と言っても良い考えは、彼が「言語とははじめプュシスであったものが後に発展してノモスとなったものである」としたエピクロス的言語観を受け継いだものと言えます。
この様な最初は自然的発声であったものが後に慣習として社会的言語に発展したと解釈できる思想に見られる様に、18世紀の言語起源論論争はある意味で社会起源論と関連していると思われます。ホッブス「リヴァイアサン」の第四章「言語(スピーチ)について」に於いては、「名前とそれの結合から成る言語(スピーチ)の発明」が最も高貴で有益であったと断定され、「それによって人々は……また、相互の利益や交際のために思考をたがいに公表することができる」と言われ、ホッブスの自然法思想や社会契約説へと発展する考えの前提的な感覚命名説と言える言語観を見て取ることも出来得ます。ホッブスはまた「名前の効用が『リメンプランス(記憶の回想)』の為の符号(マーク)、またはノートとして役立つこと」であり、更に思考や感情を「相互に知らせる為の記号(サイン)となること」であるとも述べています。ロックの言語観もホッブスの言語観を受け継いで発展させたものと言え、ロックに於ける言語起源論としての考えは、「人間の諸器官は生まれながらにして有節音の形成に適している」とし、「これら有節音のほかに、更にこれらの音を内部の諸概念の符号(マーク)として用い、それらを心の中の観念に対する記号(サイン)たらしめることができた」と言うことがその起源に関わる重大意義であると述べています。そして、ロックはまた「我々の言葉は感覚的観念に依存している」とし、「すべての言語に於いて…それらの語はその起源を感覚的観念の中に持つことを見出すであろうことを私は疑わない」と述べています。
ロックの感覚的知識論を継承したコンディヤックの「人間認識起源論」の第二部第一章冒頭に於ける、言語の起源に関してその発生のプロセスを自然主義的に解釈していると見られる"ノアの洪水後での二人の子供"と言う仮設状況に於ける説明で、コンディヤックは一人だけの場合の「……憶うのみで、そこにはイマジネーションはいまだ働くことがない」が、二人になるとたちまちに叫び声が自然的記号となって相互の交渉が開始されるとし、「かくして、本能のみによって彼ら二人は互いに他人の助力を求めたり与えたりするようになる」とし、そして「やがて彼ら二人の子供は想像力を働かして、かつては本能のみによって行っていたことを反省によって行うに至るのである」と、その「本能の自然的記号論」と言える考えを述べています。このコンディヤックの考えは、約十年後にルソーの「人間不平等起源論」の中に引き継がれ、そしてルソーは言語起源の要因をコミニケーション(伝達)概念の中に見出そうとしました。但し、ルソーはコンディヤックに対して「彼は言語の発明者の間にすでに一種の社会が確立していたということを仮定している」と批判しています。したがって、ルソーに於いては言語起源の問題と社会起源の問題とはどちらが先かとアポリアの形で現ざるをえなくなり、このアポリアは更に「言語」が先かあるいは考える能力としての「理性」が先かとのディレンマとして経験論と合理論の対立図式を「言語起源論」という主題の狭間で繰り返しています。

(18世紀の)自然法思想に於いて、社会のなかに通用している「正義」なり「徳」なりと呼ばれるものを自然主義的に説明する場合、それらは「霊魂」というものと同様な抽象観念であると言えますから、それら抽象観念を前提として用いるにはそこに既に言語使用の十分な能力が備わっていたとしなければなりません。しかし、何らかの抽象観念の発生を言語の起源の傍証に擬することは疑問であります。したがって、これら抽象観念の発生の問題に於いては、社会契約説的な社会形成のその以前的前提としてそれらを本能的傾向とするには、既にそこには社会的伝達行為の以前的問題としてのそれら「観念の表出」としてある言語の反省的使用と言うその起源の問題を解決的に説明していなくてはならならないことになります。したがって、自然法に限らず法的諸概念やその規範力・拘束力の根拠は何かという法(及び経済)の発生・起源の問題は、また言語起源の問題や社会起源の問題と密接に関連した主題と言えます。特に「有責性」やそれと関連する「可罰性」の観念の発生問題は、如何なる言語行為や社会的伝達行為の起源問題と如何に共調的に関わるのかを明らかにしなければ説明され得ないと思われます。
自然法であるにしろそこに於けるその「自然権」的な法的概念としての「権利」、「有責性」、「可罰性」等の問題は、それら「観念の表出」としてある言語の発生としての問題として私にはむしろそこでの言語起源論が慣習的行為起源論へと遡り、そして更に社会起源論と溶解する所で相互に関連していると思われます。そうした意味で、(18世紀の)自然法思想に於いては、それらの「自然権」と言う法(及び経済)の発生・起源の問題は、言語起源論の問題や社会起源論の問題と密接に関連して、その思想を説明化しなければならない問題であると思っています。


コンディヤックの記号論とマブリの法思想の関係 如月 - 2005/04/09(Sat) 01:59 No.484  

慧遠(EON)さんのご指摘、かなり多岐にわたっていますから、全面的なRESには少し時間をください。
とりあえず、コンディヤックによる記号の区分とマブリの法思想の関係(マブリの社会起源論)に関しましては、↓ページをご参照いただければ幸いです。
http://www.furugosho.com/precurseurs/condillac/signe.htm


「言語の発明以前の(言語・社会)状況」 如月 - 2005/04/09(Sat) 10:10 No.485  

慧遠さん(キーの操作がめんどうなのでハンドルをこのように省略させていただくことにしました。お許し下さい。)の書き込みの前段、ガッサンディからルソーのディレンマまでの記述は、基本的にご指摘のとおりかと思います。
17〜18世紀の合理主義(観念論)vs.経験論、レアリスム(実在論)vs.ノミナリスム(唯名論)の対立は、プラトン主義もしくはストア派的なイデア論とエピクロス派の対立の再現というようなかたちをとりますね。そしてガッサンディこそは17世紀におけるエピクロス研究の大家なわけですね。私は、ガッサンディもホッブスもきちんと読んでおりませんから、この辺のところは、今後もいろいろお教えいただきたく思います。
さて、コンディヤックの言語起源論の射程につきましては、山口裕之さんが『コンディヤックの思想』の第四章で、松永澄夫さんの研究(「コンディヤックの記号論」、『哲学雑誌』778所収)に言及しながら主題として取り上げていますから、私も『コンディヤックの思想』の第四章を紹介する折に、詳論してみたいと思います。
ただ、少し先回りしていうならば、コンディヤックが「言語の発明者の間にすでに一種の社会が確立していたということを仮定している」というのは事実で、山口さんの議論にそっていうならば、この「言語の発明以前の(言語・社会)状況」は、デリダの考えるEcriture(原エクリチュール)なり、trace(痕跡)に近似したものであり、この点にデリダがコンディヤックに惹かれる原因の一端があるのだと思います(周知のように、コンディヤックの『人間認識起源論』への序論として「雑学の考古学」を執筆しています)。
直前のスレッドで紹介させていただいた小文で取り上げているマブリの社会起源論も、実はコンディヤックの主張する「言語の発明以前の(言語・社会)状況」を反映したものになっているのですね。この点が、ルソーの社会起源論とマブリの社会起源論の違いだと思います。そして、マブリがこうした社会起源論を言いだした背景として、上掲の小文を書いたときには気づきませんでしたが、エルヴェシウスの『精神論』事件が考えられると、今の私は考えております。


記号発生についての議論が指し示すもの 如月 - 2005/04/09(Sat) 13:10 No.486  

慧遠さんご指摘の「起源」の問題も、山口さんの『コンディヤックの思想』第四章を読む際に、主題としてもう一度詳細に取り上げた方がようような気がしてきました。
そこで山口さんは、「記号の発生が論じられるのは、『起源論』第2部第1章「言語の起源と進歩について」においてである。そこでコンディヤックは、「ノアの大洪水の後、男女一人ずつの幼児が、いかなる記号の使用をも知る前に砂漠の中をさまよっていたと仮定する」(『人間認識起源論』)。彼らが出会い共に暮らす中で、叫び声と身振りから記号が発生するという、神話じみた想定のもとで記号の発生が論じられる」(山口裕之氏、前掲書、118頁)として、慧遠さんが言及されたのと同じ箇所の分析から出発して、記号発生についてのコンディヤックの議論はどのような事態を指しているのか、分析しています。
曰く、「記号発生の議論の結末でコンディヤックが、「最初二人は他方がそのとき感じている感情をそうした記号によって認識する習慣を作った。それから彼らは、かつて感じた感情を伝え合うためにそうした記号を利用した」と無造作に言うとき、「そのとき感じている感情を認識すること」と「かつて感じた、すなわち現在は不在の感情を伝え合うために記号を利用すること」とが、「それから」と、あたかも自然な移り行きであるかのごとくつなげられてしまっている。しかしながら、この両段階の間にこそ偶然的記号と制度の記号との差異がある。ここで論じられている記号の対象は「感情」であって知覚ではないが、事情は我々が知覚について論じてきた場合と同様である。すなわち、制度の記号の発生を論じるためには、感情であれ知覚であれ、記号の指示する対象が不在の時にも記号が使用されうることの理解が、記号の発し手と受け手の双方においていかにして達成されるのかを説明しなくてはならないのである」(山口裕之氏、前掲書、136〜37頁)と、コンディヤックの議論の可能性をギリギリまで追求しているように思われるのです。


自然法を論ずる土俵 如月 - 2005/04/11(Mon) 00:58 No.497  

最後に残った自然法の問題にどのようにRESをつけたらよいか、ここ二三日呻吟しております。自然法の問題は、このスレッドで簡単にどうこういえるような問題ではないとは思いますが、ごく大雑把にいうと、経験論と自然法思想(先験的な道徳や法の存在)は、やはり相性が悪いのではないでしょうか。自然法思想そのものがどちらかといえば、法や道徳の本質を問題にするストア派的な発想ですね。経験論の議論とは、むしろ本質論を不当なものとして回避するところに特徴があるのではないかという気がするのです。
たとえばロックは、上方に引用した『人間知性論』のなかで、道徳規則ないし法に言及するにあたり、@神法、A市民法、B世論ないし世評の法ーーの三種類の法を例示していますが、私の読みでは、その言い方は非常に歯切れが悪い。というか、法の「規範力・拘束力の根拠」が非常に曖昧だと思うのです。それはやはり、(@を除けば)ロックのいう法はprescription(規定/時効)だからではないでしょうか。したがってあえてその強制力の根拠を求めようとすると、法が制定された原点(契約)に立ち帰り、どのようなことを契機としてそうした法が生まれたかを明らかにしなくてはならない(たとえば暴力)。しかしその原点(自然状態)は、概ね経験の外にあるわけです。
それでもなお経験論の立場から「自然な法」を求めるとなると、意外なことに、それはむしろ「B世論ないし世評の法」ということになってしまうのではないでしょうか。現にエルヴェシウスの議論は、そういう方向を指していると思います。しかしこれに関しては、「世評の法は、不適切な呼び方でもしない限り法の名に値しないか、あるいは、行為が他人の賛同、健康、利得の如き何らかの善ないし悪を自然的に招き寄せる場合に、まるで私が健康の法、倹約の法というようなことを口にするかのように自然法の下に包含されているか、そのどちらかです」というライプニッツの指摘が適切であるように私には思えます。
ですから、自然法を論じるためには、いったん経験論という土俵の外に出る必要があるのではないか。つまり、一般的にいって「抽象観念の発生の問題」は、経験論の土俵のなかでは論じることができないのではないかと思うのです。そうした前提を認めた上で、18世紀の自然法思想は、事実として、言語起源論や社会起源論と密接に関連して論じられていたとは思いますが、その議論はもはや経験論の範疇には入らないのではないでしょうか。
これをコンディヤックの思想に当てはめるならば、山口裕之さんの「彼(コンディヤック)が論じる「人間精神」とは、具体的な誰かの精神などではなく、それを精神的諸機能すなわち知性という側面に限って再現する精神の一般的モデルであるということになる。また、彼の「心理学」的体系における順序は、精神が実際に歴史的に発展してきた過程を描くものでも、個人における発展を描くものでもなく、精神の一般的モデルを形成するための諸要素とその組み合わせ順序を示すもの」という解釈が妥当であるように思います。
『市民の権利・義務について』のなかのマブリの社会起源論や法理論も、こうしたモデル理論のうえに構築されていたのではないでしょうか。


本日の『義経』 投稿者:如月 投稿日:2005/04/03(Sun) 23:17 No.457  
 本日放送の大河ドラマ『義経』、歴史学からみるとどのようにことがいえるか気にしておられる方もいらっしゃると思いますので、以下、川合康さんの『源平合戦の虚像を剥ぐ』(講談社「講談社選書メチエ」、1996年)から、関連箇所抜き書きしておきます。

「源平合戦において戦闘様式の変化があらわれた要因を考えるうえで、まず注目しなければならない点は、この戦争が、「治承・寿永の内乱」という地域社会を巻きこんだ未曾有の規模の全国的内乱のなかで展開し、動員兵力が飛躍的に増加したという事実である。
 いわゆる「源平合戦」として通常よく知られているのは、治承四年(1180)四月に平氏打倒を諸国によびかけた以仁王・源頼政の挙兵にはじまって、同年八月、伊豆における源頼朝の挙兵→同年十月、東国の頼朝軍が平氏軍を撃退した駿河国富士川合戦→寿永二年(1183)五月、木曾義仲軍が北陸道で平氏軍を大敗させた越中国砺波山合戦(倶利伽羅峠の戦い)→寿永三年(1184)一月、入京する鎌倉軍(頼朝派遣軍)が義仲軍を敗走させた宇治川合戦→同年二月、鎌倉軍が平氏軍を山陽道から追い落とした摂津一の谷合戦→元暦二年(1185)二月、讃岐国屋島合戦→同年三月、鎌倉軍が平氏一門を滅亡させた長門国壇ノ浦合戦、という展開であろう。
 しかし、これらの著名な合戦は、治承・寿永内乱期における戦争全体から見れば、そのなかの一部にすぎなかったことに注意する必要がある。
 たとえば、内乱が勃発した治承四年(1180)段階にかぎってみても、頼朝挙兵に続いて、九月には信濃国で木曾義仲、甲斐国で甲斐源氏武田氏、紀伊国では熊野別当湛増らが蜂起している。
 十一月には延暦寺堂衆や園城寺衆徒と連携した近江源氏が、反乱諸勢力を組織して「近江騒動」とよばれる事態を引き起こし、美濃国の美濃源氏や若狭国の有力在庁もこれに同調する動きを見せている。
 さらに十二月から翌治承五年にかけては興福寺衆徒と結んだ河内石川源氏が蜂起し、遠く九州では肥後国で菊池隆直、豊後国で緒方惟義、四国でも土佐国で源希義、伊予国では河野通清を中心とする勢力が叛旗をひるがえしており、内乱は同時多発的形態をとって、またたく間に全国拡大していったのである。
 この事態を見れば、治承・寿永内乱期の戦争を「源平」棟梁の争覇ととらえる伝統的思考が、いかに一面的なものであるかは明白であろう。
 治承・寿永の内乱は、平氏軍制の展開によって地域社会に醸成された領主間競合に基づいて、全国各地でみずからの地域支配を実現しようとする大小さまざまな蜂起をよび起こしていったのであり、「源平」争乱として認識されるよりは、はるかに広範囲に、しかも地域社会レヴェルでの利害と深くかかわりながら展開したのである。」(川合康氏、前掲書60〜1頁)

 ただ、川合さんの指摘のように「源平」争乱という認識をはずしてしまうと、ドラマとしては成立しなくなってしまいますから、私は、個人的にはドラマとしては本日のような展開でもいいのかなと思っています。あとは、個人個人がドラマをどう補正していくかということですね。
 ただし一点だけどうしても気になるのは、「木曾義仲」が「キソノヨシナカ」と呼ばれているということ。「木曾」というのは本姓ではありませんから、これはやはり「キソヨシナカ」と呼ぶべきではないかと思うのですが、ドラマは何か根拠があって「キソノヨシナカ」と呼んでいるのでしょうか?


地域社会の実情 如月 - 2005/04/04(Mon) 00:11 No.459  

「治承・寿永の内乱」が単純な「源平合戦」ではなかったという川合さんの説の補足です。

「たとえば伊予国道前地方を支配下におさめる在庁新居氏が平氏方、道後地方を支配下におさめる在庁河野氏が鎌倉方に属したように、そこには地域社会における領主間競合に基づいた現実的利害が反映されているばあいが多く、こうした利害から離れて平時においても御家人として恒常的に組織されるかどうかは、必ずしも明確ではなかった」(川合康氏、前掲書、151頁)


イメージ創出の歴史学 如月 - 2005/04/04(Mon) 15:18 No.462  

では「源平合戦」というイメージはなぜ・どのようにつくられたかというと、この「イメージがつくられるプロセス」も「歴史」の一部なわけで、それについては、今度は五味文彦さんの『増補・吾妻鏡の方法ーー事実と神話にみる中世』(吉川弘文館、2000年)を引いてみましょう。

「義経にとって、右筆の存在は欠くべからざるものがあった。すでにみたような合戦記の作成もそうであるが、他にも義経は畿内近国を中心に兵士役や兵粮米の賦課・免除にかかわっており、その事務のためにも、さらに権門・寺社から寄せられてくる東国武士の濫妨の訴えを聞き、頼朝から西国に所領を与えられた人々にその所領を沙汰しつけることなど、きわめて多くの事務をこなす必要があったのである。そこに信康(中原信康、『吾妻鏡』文治元年四月十一日条に記されている義経の壇ノ浦合戦の報告者:註・如月)の文筆の才が高く買われることになり、義経に従軍することになったのであろう。
 かくして義経の合戦記は中原信康が作成したものといえる。そうであれば、それが頼朝の許に送られ、そのまま失われずに幕府に残されていたとすれば、『吾妻鏡』はこれを利用したものと考えられる。一方、『平家物語』も信康の手になる合戦記を利用していたとすれば、『吾妻鏡』と『平家物語』とはきわめて似通ったものとなっているに違いない。
 事実、これまでの研究は二つの書の密接な関連を指摘している。たとえば石母田正「一谷合戦の史料について」は、一の谷の合戦に関する二つの記事を具体的に比較しながら、

 以上によって、吾妻鏡の一谷合戦の記事が平家物語と不可分の関係をもつことはあきらかになったとおもう、

と指摘している。ただすぐそれに続けて、「のこる問題は、いずれが他を模倣したかということである」と、両者のどちらがどれを典拠としていたのかという問題に飛躍してしまったが、その点は、同じ合戦注文を両書がそれぞれに使ったということで理解されるであろう。
 さらに最近の平田俊春「屋島合戦の日時の再検討」においても、「『吾妻鏡』の二月十八日、十九日条の屋島合戦の記事は、日時の相違を除いては、『平家物語』の合戦記事と全く吻合している」との指摘がなされている。
 かくて『吾妻鏡』も『平家物語』も、ともに義経の合戦注文をもとに構成していたとみられる。よくいわれているように『平家物語』の描く源平合戦の主人公は義仲と義経である。それはもちろん、この二人が目覚ましい活躍をして後々まで記憶にとどめられていた結果にもよろうが、そのことよりも義仲や義経には詳細な合戦記が残されており、それが利用されたからとみた方がよいのである。
 ただ利用されたといっても、その合戦の原本が『平家物語』の作者によってそのまま活用されたというのではなかろう。むしろ、それらは覚明(大夫房覚明、『平家物語』巻七に記されている義仲の「手書」でもと儒家、:註・如月)や信康と分ち難く結びついて流布したものと思われる。二人は没落したり、解官された後、おそらくそれぞれ義仲や義経の語り手として生き残ったことであろう。建久六年(1195)、覚明が箱根山にいることが発覚し、頼朝は山中から外に出ることを禁じたのであったが、この例にもみえるように、後々まで覚明や信康は合戦記を携えて、義仲・義経のことを語り伝えていったと考えられる。」(五味文彦氏「合戦記の方法」、前掲書所収、75〜77頁)

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