045908
網上戯論
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NO3102、如月さんへのお返事です。 投稿者: 投稿日:2006/02/21(Tue) 15:19 No.3151  
『新日曜美術館』小村雪岱の時に流れた音楽が解りました。

イギリスからの輸入版で、タイトルは
 CHRYSALIS
アーティスト名は、NU HAROLD BUDD
SAMADHI SOUND

アルバム名は、 AVALON
 SUTRA/AS LONG AS
 I CAN HOLD MY BREATH
 ちなみに、2427円という事でした。


「裸の繭」 如月 - 2006/02/23(Thu) 12:53 No.3152  

海さん、調査ありがとうございます。次の「夢遊病」?と題するページ↓を参考に、この「CHRYSALIS NU」という曲のこと、さらに考えてます。

http://www.eleventhvolume.com/reviews/features/files/harold_budd.html

それにしても、この題名はどう訳したらいいんでしょう。「裸の繭」もしくは「蛹」でいいんですかね…。まあともかく、機会があればこの曲、一度聴いてみたいと思います。

ただ、番組で使用されていたアルバムはこれでわかりましたが、この曲が映画『春の雪』に流れていたのと同じ曲なのか、同じとすれば大正当時の流行歌ではないかという疑問は、また先送りになってしまいましたね。まあ、謎というのは深ければ深いほどおもしろい。もっとも、『春の雪』も新・日曜美術館も、一度ずつしか観ていませんから、私のそら耳ということもありうるとは思いますが。
可能性としては、大正時代の流行歌をHAROLD BUDDというアーチストがアレンジして自分のアルバムのなかで演奏しているということじゃないかと思うのですが。


一遍のこと 投稿者:如月 投稿日:2006/02/20(Mon) 11:31 No.3149  
今ちょっと、鎌倉時代の僧・一遍(1239年〜89年)のことを考えています。
鎌倉時代の高僧のなかで、私が最も宗教者らしいと思うのは実は一遍なのですが、私が最初にこの人はほんものだと思ったのは、『一遍上人絵伝』をみると、付き従っている人たちの手に「尿筒(しとづつ)」がみえるからなのですね。これはどういうことかというと、病から助かりたいという一心で一遍に従っていた人たちが、一遍の排泄物を希望したからで、一遍もそれを拒まない。阿弥陀仏によって人間は救済されると説いても、それだけでは満足できない人、もっと具体的な救済を求める人たちは数多くいたわけで、人は念仏のみによって往生する(救済される)という専修念仏の理論をあくまでも優先させてそうした底辺の人たちの信仰のあり方を否定するのではなく、その人たちを救うためには手段を選ばない。そのあたり、一遍という人はすごい宗教者だと思います。「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず」念仏札を配り、人々を阿弥陀仏に結縁させるという一遍の布教は、そういうところからきた行為ですね。
つまり、浄土三部経などの経典によれば、世の人すべてを救済したいと発願した修行者・法蔵の本願は成就し、法蔵は仏(阿弥陀仏)となって西方にいる。通常の浄土思想は、であるからこそ往生し救済されるために阿弥陀仏を信ぜよと説くわけですが、逆に一遍は、人間の側からの信は不要と説くわけです。
一遍がこのような大胆な布教をはじめたのは、文永11年(1274年)の熊野での啓示がきっかけとされるわけで(ちなみに、熊野権現を重視している点からも、一遍は単なる「専修」の思想家とはいえないと思います)、以下、大橋俊雄さんの『一遍入門』(春秋社、1991年)から、その啓示と回心に関するくだりを引用してみます。

「智真(一遍の諱)は、会った人たちとは何かの縁がある、そうした人たちに念仏札をあたえて、阿弥陀仏と縁を結ばせてやりたいと考えていたが、受けとりを拒否されて悩んだ。信心をおこすことなく、称名もしないのにあたえた行為を深く反省し、自分の布教方法に誤りがあるとすれば正したいと願い、熊野本宮の証誠殿の啓示を仰いだ。
熊野本宮すなわち熊野坐神社の祭神は家津御子神であったが、平安末期のころには本地垂迹思想の影響で、本地は阿弥陀仏、熊野の地が阿弥陀仏の浄土であるという信仰が生まれた。したがって本宮に参籠すれば、阿弥陀仏から直接教えを受けることができるというのである。
参籠していると、御殿の戸が開き、白髪で長頭巾をかぶった山臥(山伏)姿をした熊野権現があらわれ、「融通念仏をすすむる聖、いかに念仏をばあしくすすめらるるぞ、御房のすすめによりて、一切衆生はじめて往生すべきにあらず、阿弥陀仏の十劫正覚に一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と決定するところ也、信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」、融通念仏を勧めておられる聖・智真よ、そなたの考えは間違っている。どうして念仏を悪く勧めておられるのだ。そなたの勧めたことによって、すべての人たちが今はじめて阿弥陀仏の浄土に往生するのではない。すべての人が往生できるのは、すでに阿弥陀仏が法蔵菩薩と名乗っていた遠い昔(十劫)正しいさとりを得たとき、南無阿弥陀仏の名号で成就できると決まっているのだ。したがって信じる心があろうがなかろうが、心が浄かろうが不浄であろうが、縁ある人たちには誰彼の差別なく、その札をくばり結縁するようにせよ、と説いた。このときの霊験を熊野権現の神勅と呼んでいる。
(中略)
智真の念仏札をとおしての布教は、「一念の信をおこして、南無阿弥陀仏ととなへて、このふだをうけ給べし」と述べているように、「一念の信」をおこした(発信)のち、「南無阿弥陀仏ととなへ」(称名)、それを確認して「このふだをうけ」とらせることであった。起信と称名が前提で極楽往生ができるという考えを熊野権現は否定し、智真に救済能力があると思ってはならない、救うのは阿弥陀仏である、ただ智真は念仏札をくばりさえすればよいのだ、くばられた念仏札を手にした人は往生ができる、というのである。
ここに智真の回心があった。」(65-6頁)

引用中、最後の部分ちょっと意味がとりづらいかもしれませんが、前段は回心以前の一遍の布教方針で、そこでは人々を阿弥陀仏に対する信仰に導きいれることが大きなポイントとなっていた。ここまでは通常の浄土思想家の主張とほとんど変わらないわけです。ところが、熊野権現の神勅によって、一遍は布教に対する考え方をいわば180度転換した。往生するのに発信(阿弥陀仏への帰依)は不要と。つまり、回心以前も以後も、念仏札を配るという一遍の布教活動に変わりはない。ただ念仏札を配ることの意味が変化したわけです。
回心以前の一遍の思想と回心以降の思想の違いがわかりにくいのでちょっと整理すると、回心以前の思想というのは、救済者としての阿弥陀仏に対する被救済者の「信仰」に重点があり、阿弥陀仏に帰依した結果として「南無阿弥陀仏」と唱えるというものだと思います。これに対し、回心以降の思想は、阿弥陀仏の絶対的な救済力に対するひたすらの讃仰に比重がうつり、信じても信じなくても「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば、その言葉の力によって阿弥陀仏によって救済されるというものですね。ここでは、「南無阿弥陀仏」という唱名は、結果から考えれば一種の呪文のような効果があることになる。
では、こうした一遍的な考え方は、経典のテクストからみた完全な異端かというと、そうも言い切れないところがおもしろい。
というのは、そもそも「念仏」というのは、(阿弥陀)仏を念ずることであって、「南無阿弥陀仏」という言葉を唱える(口に出す)ことと断定することはできない。「念」というのは、「観念」「想念」の「念」でもあるわけです。「南無阿弥陀仏」という言葉を唱えるという行為は、そうした「観念」や「想念」と区別するために「唱名」もしくは「唱名念仏」といわれるわけです。ですから、念仏=唱名とはいえないわけですけど、それがことさら「唱名」が強調されるようになるというのは、他者に対して信を具体的に示すこと(仲間意識?)の重視と同時に、やはり言葉そのものが持つ不思議な力に対する信仰がどこかにないとはいえない。
また、「南無阿弥陀仏」という唱名が阿弥陀仏に対する帰依を示すという純粋な行為だというのであれば、理論的には、唱名は一生に一度(一念)だけでもいいわけですが、現に浄土思想を信じている人のなかには、唱名を何度も繰り返し(多念)、繰り返すことで救済がそれだけ確実になると考える人たちもいた。たとえばこの多念派の思想や心情は、唱名は帰依の結果というだけでは理解できないのではないでしょうか。

要は、このとりとめもない書き込みで何がいいたいかというと、すぐ下のスレッドのモーツァルトとベートーヴェンの比較と同じで、宗教や信仰にはさまざまなかたちがあり、それは理論の問題だけでは解決しないのではないかということ。また、そんなことを考えると、一遍という人は、実地の宗教者としてはものすごい人ではないかということですね。宗教(仏教)のもつ純粋な理論的側面、思想的側面からは、また別の人のすごさも浮かび上がってきますけれど。


Re: 一遍のこと 林六郎光明 - 2006/02/24(Fri) 18:23 No.3157  

どうも、お久しぶりです。暖かいので穴から出てきました。

若い頃、奈良元興寺の研究所に出入りしていて、中世の発掘資料でおびただしい数の追善・逆修資料を見せてもらったことがあります。
そこで感じたのは、当時の庶民の宗教感覚と、後世に祖師と呼ばれた名僧たちの宗教思想とはかなりの違いがあるのではないか、ということでした。
これは今でもかなりの部分、そう思っていて、だからこそ蓮如は御文で繰り返し同じことを言わなければならなかったし、道元なんかも自分の修行法を弟子に徹底させる必要があったのだろうなと思っています。
その意味で時衆(あえて衆と書きますが)を調べているととても面白く、思想ではない当時の宗教感覚の深さにはまってしまいそうになります。


法然の手紙 如月 - 2006/02/25(Sat) 18:09 No.3158  

林六郎光明さん、ようこそ♪

中世(ここでは主として鎌倉時代)の宗教状況を語るというのはほんとうに難しいですね。おっしゃるように、「名僧たちの宗教思想」を語るということであれば、残されたテクストが直接の手がかりになるわけですが、庶民というか、教えを受け入れる側の人々の宗教感覚の再現というのは非常に困難。だからというわけでもないでしょうが、未だ多くの宗教研究というのは経典や中国の高僧の注釈書、そして祖師の著作の分析などが多いように思いますが、思想の系譜学はそれでいいとしても、そうした系譜学にとどまるかぎり、宗教の研究は「歴史学的研究」にはならないのではないでしょうか。
六郎光明さんがひかれた例でいいますと、たとえば道元の『正法眼蔵』なんて、それが理解されたかどうかという前に、どれだけ読まれたんでしょうか?『正法眼蔵』読解の歴史なんて、とてもおもしろいと思います。また、私は真宗関係のことにはくらいんですが、親鸞の『教行信証』に関しても同じようなことがいえますね。私が書いていることに誤りがあればご訂正いただきたいんですが、たとえば親鸞の場合、著作の読解云々の前に、親鸞の教えを奉ずる人たちが「教団」といえるような体をなしていたかの問題もありますね。鎌倉時代の社会全般を考えるならば、道元や親鸞の教えというのは、それからかなり孤立してたんじゃないでしょうか。まあ、鎌倉時代に道元なり親鸞という人がいて、彼らがある思想に達したというのは歴史的事実としてくつがえすことはできませんが、だからといって、その思想が社会に伝播し、肯定するにせよ、否定するにせよ、一種の社会的コンセンサスとなっていたとというようなとらえ方は、歴史学以前という感じがするのです。

ところで、一遍はさておき、法然もそういう意味で私にはかなりわかりづらい人だったんですが、ある時、法然のすごさって、理論にあったのではなくてその人格にあったんではないかと思えてきて、そのように考えるようになってから、法然が少し近づいてくれました。つまり、上に書いた一念・多年の問題にみるように、理論家としては、法然はすごく曖昧なところがあって、それらを未解決のまま残してるような気がするんですね。でも、「法然教団」としてはそれでけっこうまとまっていて、だからこそ迫害も受ける。そのまとまりの中心は、結局、法然が提唱した理論じゃなくて法然の人格にあったのではないでしょうか。
そのことを一番うまく表現しているのはやはり親鸞で、結局、「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ」(歎異抄)ということになるような気がします。
話をもとに戻して、法然教団の歴史的性格を語るという場合にも、蓮如ではありませんが、『選択集』に記された教理よりも、やはり手紙が一番役に立つように思います。
たとえば津戸三郎へ宛てた手紙のなかに次のような文言があります。
「クマカヤノ入道ツトノ三郎ハ、無智ノモノナレハコソ、念仏オハススメタレ、有智ノ人ニハ、カナラスシモ念仏ニカキルヘカラスト申ヨシ、キコエテ候、キワメタルヒカ事ニ候。」津戸三郎から法然に宛てた手紙は残されてないんですが、この法然の手紙からその内容を逆に推測すれば、「法然は自分や熊谷入道(直実)のような無智の者と有智の人には別のことを教えているのではないか、どうぞ本当のことを教えて欲しい」といった内容のことが書いてあったのではないかと思えるんですね。他にも同じような内容の手紙は多くて、そこから考えると、法然の教えというのは、理論としては単純でも、額面通りには受け止められてなくて、一般の人からはなにか奥義があると思われてたんじゃないでしょうか。
念仏して往生するというのは、そういう教説が広まってみれば簡単な行(易行)に思えるんですが、当時の人からすれば、簡単なだけに信じるのが困難な、かなり難しい教えだったのではないかと私は思っています。
まただからこそ、法然の人格的魅力が、教団形成に大きな力をもっていたのじゃないかと。


津戸三郎為守 如月 - 2006/02/26(Sun) 01:28 No.3160  

津戸三郎のことが気になってちょっと調べてみたら、浄土宗関係の史料では、この人は菅原氏(道真の子孫)で、かの菅原孝標の孫とのこと(有名な孝標女と津戸三郎の父は母親が違う)。その関係で、谷保天満宮(国立市)の宮司の家系なんですね。それが「専修念仏」とどのようにかかわりあうのか、非常に興味がわいてきました。
また、彼は、石橋山の戦い以来の頼朝の御家人だそうです。
(以上は、梶村昇氏『津戸三郎為守ーー法然上人をめぐる関東武者3』<東方出版、2000年>による)


表現と思想(宗教性)ーーMとBの対比をとおして考える 投稿者:如月 投稿日:2006/02/18(Sat) 13:37 No.3145  
モーツァルト・イヤー特集とやらで書店にたくさんつんである本のなかから吉田秀和『モーツァルトを求めて』(白水社)を読んでみた。この本の結びのモーツァルト(18世紀音楽)とベートーヴェン(19世紀音楽)の比較、特別のことが書いてあるわけではないがやはりおもしろい。
ちなみに、下方のスレッドに書いた「宗教とゲーム性」の問題、私はモーツァルトとベートーヴェンのこうした違い、さらにはヴェルディ『レクイエム』の世界などを思い浮かべながら考えている。

「私は、この二人の音楽家の思想をはっきり対照的に出している例として、モーツァルトの『ハ短調ミサ』と、ベートーヴェンの『荘厳ミサ』曲と、それぞれの曲の中で「エト・インカルナートゥス・エスト」(et incarnatus est)という部分を、聞くことをおすすめします。ミサは、いうまでもなくカトリック教会の最も重要な典礼音楽のひとつで、誰が作曲しても、音楽のつけられる言葉は同じです。そして、この聖霊より受胎された処女マリアから、人間として生れたイエスを信じますというテクストは、キリスト教の教義によせる信者の信仰告白の部分の中にあるのですが、モーツァルトは、そこを、いいようもなく美しいソプラノ独唱のアリアとしてかき、そこに木管楽器がまるで花の冠のようにまとわりつくといった音楽にしています。その美しさは、聖母マリアに抱かれた幼児イエスを描いたラファエロの絵に少しも劣らない美の極致を示しています。ところがベートーヴェンはーー彼はもちろんカトリック教徒として生まれたのですがーー、人間の普通の経験と知識とはまったく反する不思議、つまり非合理な神秘に直面した人間として、このテクストを前にして、これをどう扱ってよいか、非常に考えぬいたあげくかいているようです。そうして、これを歌う時合唱は非常に声を低くし、お経を読むように、リズムだけをつけて、テクストを口ずさむにとどまる。それはけっして長い時間ではないけれども、ここには彼の信条によれば当然世の中に英知と勇気を伝えるべき使命をもった音楽が、じっと顔を伏せ、目を閉じ、この大きな秘儀について、黙想し反省している姿がみられると、私には思われるのです。」(上掲書、259頁)


信仰の多様性と音楽表現 如月 - 2006/02/19(Sun) 13:31 No.3148  

上掲の文章、モーツァルトとベートーヴェンの表現の違いの問題から一歩踏み込んで、二人の思想(信仰)の問題に足を踏み入れたもの、そしてその思想がもう一度表現の問題に還元されるということを巧みに記していると思う。
しかしながら、吉田氏はモーツァルトとベートーヴェンの信仰(表現)の優劣を問うために二人のet incarnatus estというテクストとの向きあい方の違いを出してきたのではあるまい。要は、信仰は時代(社会)や人によりさまざまな形式をとるのであって、本来、その間に優劣はつけられないということを言いたいのだと思う。
たとえば、宗教のなかにはひたすら救済を求めるタイプのものも必ずしもそうとは言い切れないタイプのものもあると私は思うが、ひたすら救済を求める場合にも、救済を求める人の「信」の強さを問うものもあれば、救済を超越者にゆだね救済される側の「信」を問わないというタイプの宗教もあるのではないか。
「信」ということは、宗教という複雑な現象からみれば、一要素に過ぎないと思う。

さて、吉田氏の文章、もう少し違う箇所も読んでみよう。

「モーツァルトはバッハのポリフォニーの本質に参入することによって、本当に円熟した。それと同時に、この『ハ短調ミサ』でみられたように、彼は、直ちに、そのバッハの対位法に対決する。教会音楽の中にブラヴーラ・アリアをもちこんだについて、彼が教会音楽の伝統との対決を考えたとまでみるのは、まちがいに違いないが。なぜなら、当時のミサには、むしろ、このホモフォニックなアリアが、歳末の大売出しのくじの六等賞みたいにやたらにあったのだから。一口に教会といっても、実にさまざまな教会がある。シャルトルやケルンのカテドラルはその中の例外的な存在にすぎない。卑俗なのもあれば、野趣にみちたものもありーー要するに、教会は無限の変種の中にのみあるのだ。僧侶たちが、信者たちが、そうであるように。また、そのように、教会の中のマリア像をめぐっても、無限の変奏がある。そうしてモーツァルトの周囲で支配的だったのは、18世紀のオーストリア・バロックとフランス・ロココの混血児だった。モーツァルトは、ブラヴーラ・アリアをミサにもちこむのに、何の特別の意識も要さなかったはずだ。ただ無数の同輩たちの作品にまじって、彼のこの歌が無限の大空の中に飛び立ってゆくほど、美しかったのだ。彼がザルツブルクでみなれていたアウラの天井や壁を飾っているツァハリス・ミラーやアーリアン・ブレマールトなどの絵より、無限に美しかったのだ。」(上掲書47-8頁)

「それにしても、これが教会で歌われるべきでないというのは、どういうわけだろうか?アンリ・ゲオンは「ああ!この曲が世間の人の心にふれないのだ!どうして、それが、私をこんなに深くゆさぶるのだろう?」とかいているが、篤実なヤーンは「繊細で優美な一端はみとめるが、ブラヴーラはいかにもゆきすぎており、ことに終りの22小節のカデンツァはひどすぎる」と言っているし、皮肉屋のイギリス人ブロムに言わすれば「教会音楽よりも、『ランメルモールのルチア』の狂乱の場か、ビショップの『きけ、優しき雲雀を』のほうに無限に近い」ということになる。事実、1903年にローマ法王が世俗音楽の精神が教会に浸透するのを防止するため発した回勅では、ハイドン、シューベルトとともにモーツァルトさえ教会から放逐しようとしていたという。
 しかし、もう一度、ゲオンーー彼は信仰篤きカトリックだーーに従えば「グレゴリオ聖歌のアレルヤといえども、何の法則もなく気紛れのままに、伸展し、曲折し、縮小しながら、讃美のひたすらの糸を紡ぎだす以外の何をしているというのか?」ということになる。」(上掲書44-5頁)


エコール・ド・シモン人形展 投稿者:如月 投稿日:2006/02/17(Fri) 12:02 No.3143  
3月2日(木)〜14日(火)まで、新宿の紀伊国屋画廊(紀伊国屋書店本店四階)で、第25回エコール・ド・シモン人形展が開催されます。
この展覧会は、エコール・ド・シモンで人形を学んでいる人たちがその成果を発表するグループ展ですが、四谷シモンも新作「LE GARCON 2006」を発表します。
新宿にお出かけの際は、ぜひ紀伊国屋画廊にお立ち寄り下さい。
開廊時間は10:00〜18:30までで、最終日のみ18:00閉廊です。
(初日の午後は、私も会場にいる予定です。)

   *    *    *

なお、四谷シモンは、学習研究社からエッセー集(既刊のエッセー集にその後書いたエッセーや対談を合わせ収録した集大成)を刊行すべく現在準備中です。400ページ超の本となると思いますが、刊行までしばらくお待ち下さい。


四谷シモンの最新作 如月 - 2006/02/17(Fri) 12:40 No.3144  

エコール・ド・シモン・サイト↓にダイレクト・メールの画像(四谷シモン最新作のイメージ写真)が貼り付けてありますので、ご参照下さい。
http://homepage2.nifty.com/ecole-de-simon/25thkinokuniya.html


水仙一輪 あかねこ - 2006/02/18(Sat) 16:27 No.3147  

如月さま、皆様ご無沙汰しております。本日エコール・ド・シモン人形展DM届きました。有り難うございます。もう25回になるのですねぇ。少年の人形の髪が素敵に靡いてます。この少年もナルシスの一人かしら・・実は随分以前に如月さんから頂いた水仙の球根、毎年長々と葉は茂るのですが、いつも花が咲かずじまいでした。ところがこの寒い冬にとうとう初めて花を咲かせてくれました。可憐な白と黄の小さな花
が三つ・・小さな蕾も・・まだ暫くは楽しめそうです。今朝、開花を確認。そんな折りに少年のDMが届いたので・・如何にもシモン先生らしいなぁ!と一人で納得してました。ナルシス君に是非逢いに行きますね。


ぜひどうぞ。 如月 - 2006/02/20(Mon) 16:00 No.3150  

水仙が咲きましたか。うれしいですね。
紀伊国屋画廊での展覧会の方も、ぜひどうぞ。


京都からのお客さん 如月 - 2006/02/23(Thu) 12:59 No.3153  

ことしのエコール・ド・シモン人形展は、京都から千宗室さんもいらっしゃりたいという意向のようです。いろいろとお忙しい千さんのことですから、まだどうなるかわかりませんが、もし実現したら、エコール・ド・シモンの人形たちを観てどのような感想を抱かれるかには少し興味がありますね。


大賑わい 如月 - 2006/03/03(Fri) 10:23 No.3163  

昨日はエコール・ド・シモン人形展の初日でしたが、千宗室さんのほか、広瀬光治さん(天才的編物師)、金子國義さん、江波杏子さんらが訪れ、紀伊国屋画廊は大賑わいでした。
会期は14日までですので、新宿に行かれた折にはぜひお立ち寄りを。


長い間お世話になりました 投稿者:もののけ憑き 投稿日:2006/02/15(Wed) 21:42 No.3141  
ご無沙汰しております。藤原定家FC管理人・もののけ憑きでございます。
長い間お世話になりましたが、このたび、サイトを閉鎖することになりました。今月末を目処にWEBから削除することになります。
お手数をおかけして申し訳ございませんが、お手すきの時にでも、リンクの削除をお願いいたします。
こちらさまには開設当初からリンクしていただきまして、本当にありがとうございました。ご厚意は決して忘れません。
現在自分のアドレスからメールを送信出来る環境におりませんので、掲示板でのご挨拶で失礼させていただきます。
重ねてになりますが、長い間ありがとうございました。
今後の貴サイトのますますのご発展をお祈りしております。


また遊びにしらしてください。 如月 - 2006/02/16(Thu) 11:49 No.3142  

馴染みのサイトがウェブから姿を消してしまうのはさびしいですが、リンクからはずしておきましょう。
長い間、ご苦労さまでした。
サイトを閉じても、どうぞまた、こうして遊びにいらしてください♪


さすがイタリア 投稿者:後鳥羽院 投稿日:2006/02/11(Sat) 22:24 No.3138  
トリノ冬季オリンピックの開幕式をみました。
ダンテの神曲の朗読からはじまり、ボッティチェッリのヴィーナスの誕生、ミラノ座のトップ・ダンサーの未来派の演技、フェラーリのF1マシンのデモンストレーションと続き、最後は、トウーラントッドのアリアをパヴァロッティが歌い・・・さすがイタリア、凄いものですねえ。
閉幕式は、どんな演出をするのだろう。楽しみです。ムーティ指揮で、誰かがヴェルディ「椿姫」の「乾杯の歌」を歌うのでしょうか。


国民的詩人 如月 - 2006/02/13(Mon) 14:15 No.3139  

私は開会式見逃してしまいましたけど、ダンテからはじまるというのはいいですねえ。
ところで、日本で同じようなことをやるとしたら、読み上げられるのは誰なんでしょう。


詩人  - 2006/02/13(Mon) 20:09 No.3140   <Home>

私の好みですと、宮沢賢治ですね。


「vincero! vincero!」 如月 - 2006/02/24(Fri) 16:12 No.3156  

昼のニュースで見ましたけど、荒川静香さんのスケーティング、すばらしかったですね。曲が『トゥーランドット』だったのも、良かった。私もこのオペラ、大好きなんです。マイ・ベスト・プッチーニですかね。
今回の優勝はもちらん彼女自身の力によるものなんだけれど、イタリア人が好きな『トゥーランドット』を背景に滑って、会場を味方にできたというのも荒川さんにとっては大きかったんじゃないでしょうか。
曲の最後、「暁とともに、私は勝利するであろう!」というフレーズと一緒に滑り終わるところなど、とても感動的でした。


クレンペラーの演奏と時代性 投稿者:如月 投稿日:2006/02/08(Wed) 12:47 No.3130  
東芝EMIから発売されているオットー・クレンペラー指揮のモーツァルト交響曲第35・40・41番のCDを聞き、またその解説書を読みながら、クレンペラーの演奏について少し考えてみた。以下、自由に書いてみたい。

さてこの解説書なかで、歌崎和彦氏は、クレンペラーの演奏を、「いかにもこの巨匠らしく作品を大きく巨視的に掴みとり、その音楽を強い筆致と妥協のない表現によって巨細に描ききった演奏」と評しているのだが、いくらもっともらしいかろうと、こうした書き方に私は納得できない。歌崎氏の文章からは、クレンペラーが音楽の細部に少しも拘泥していないようにとれるのだが、それは逆であり、クレンペラーほど音楽の細部にこだわる指揮者はほとんどいないと私は考えている。このモーツァルト演奏にもそうした一つ一つの音に対するこだわりはいかんなく発揮されており、クレンペラーのモーツァルト演奏がおもしろいのは、そうした細部へのこだわりが、あたかも点描主義の絵画のように徹底しているからだ。クレンペラーは、音楽を安易に流すことをけしてしない。またこうした几帳面なこだわりをいかそうとするとき、テンポ設定は必然的に遅くなる(第40番でいうと、終楽章の前進することを拒否したような「遅い」テンポ設定が、クレンペラーの主張を伝えて非常に雄弁だ)。
こうしたクレンペラーの演奏が、一部の人には「うどの大木のような大味な演奏をする」と酷評されるのだが、歌崎氏が書いているのは、そうした反クレンペラーの論者が言っていることと結局同じだと思う。(先日のフォーマットでいえば、両者はA@とAAのパターンのあいだで自分の好みを述べているに過ぎないのではないだろうか)。しかしこのような事態が生じるのは、実は、クレンペラーの音楽に対するこだわり方が、ある種の人には少しもこだわりには聞こえないという難しい問題点をはらんでいるからなのだが、クレンペラーを論じるならばそうした核心にこそ迫らなくてはならないと思う。
ところで、畑中良輔氏は、かつてクレンペラーのバッハ演奏を「反時代的」と評したが、こうした論点ならば私もうなづける。つまり、クレンペラーはいたずらに現代的(時代迎合的)演奏をめざしたのでも、その逆の伝統的(没価値的&伝統墨守的)演奏をめざしたのでもなく、その両者を一刀両断のもと切り捨てようとする。いやもしかすると、クレンペラーは、その演奏が現代的か伝統的かといった価値判断にはまったく無関心だったのではないかとも思う。だからクレンペラー演奏は、聴き方によってものすごく現代的にもきこえるし、保守的にもきこえる。クレンペラーのテンポ設定や細部表現は、彼がいたずらに「巨匠的」であろうとしたことからきているのではなく、表層的な現代性とも伝統性とも無縁な、文字通り「反時代的」としかいいようのない表現をめざしたところからきているのだと思う。
これは、モーツァルトやバッハの演奏に限らないのだが、クレンペラーは音楽演奏に音の明晰さを強く求める。その追求の激しさが、私には、この人はストラヴィンスキーの時代を経過してきた人なのだなという一種の新しさ、モダニズムといったものを強く感じさせる(ワイマール共和国時代のベルリンで、クレンペラーはストラヴィンスキーの曲を数多く初演している)のだが、考えてみれば音楽演奏において音の明晰さを求めるということは、音楽の本質とかかわることだと思う。だから、音の明晰さに強くこだわる限り、クレンペラーの演奏は常に本質的な演奏であるともいえる。
バッハでいえば、たとえばカール・リヒターの演奏は、曲の中の特定の部分を強調して音楽にメリハリをつけていこうとするのだが、クレンペラーの演奏にはそうしたメリハリをつけようという方向性はまったくない。ただひたすら音にこだわるのだ。だから、リヒターの演奏(解釈)を現代的というならば、クレンペラーは少しも現代的ではないことになってしまう(「うどの大木的」<笑>)。
ところでおもしろいことに、クレンペラーの演奏は、その精神性の高さゆえにバッハやベートーヴェンがいいという人がいると同時に、ベルリオーズやメンデルスゾーンなどのちょっと世俗的な音楽がいいという人も多く、しばしば入門者をとまどわせる。しかしこうしたいささか分裂症的な評価のなかにもクレンペラーの演奏の特徴はみごとに示されているのであって、クレンペラーのベルリオーズやメンデルスゾーンがいいというのは、ひたすら音の美感を求めるその演奏が、ベルリオーズやメンデルスゾーンなどの音響主義的な音楽に合致する部分があるからだと思う。
なにやら脱線気味の記事になりつつあるが、要はクレンペラーのモーツァルトはひたすら美しい。そのひたすら美しいという事実は、ある意味「バロック(いびつ)」でもある。だからこれは、口当たりのいいモーツァルト演奏でだけはけしてない。


演奏の奥 如月 - 2006/02/08(Wed) 14:05 No.3134  

少し考えてみると、クレンペラーの演奏について語るということは、すぐ下のスレッド「密の位相」の問題とも若干抵触してくるんですね。
カール・リヒターやフルトヴェングラーのようなタイプの演奏というのは、ちょっと秘教的な演奏のようでも、演奏のなかの聞き所というのがとてもはっきりしていて、どこがすごいかということを伝えやすい(伝わりやすい)。「ここでテンポを落とすからすごい」とか「ここで聞こえるか聞こえないかのものすごいピアニッシモをだすんだ」とか。だから聞き手は、彼らの演奏を聞きながら、そこで音楽のものすごい神秘が開示されているような気持ちになりやすいのですね。
これに比べると、クレンペラーの演奏というのは、すごいといってもちょっととらえどころがないようなところがある。ともかく、曲にメリハリをつけることを一切拒否するわけですから。ですからまあ、私などは、そんなクレンペラーの演奏をきいて、極端に言えばどこもかしこもすごいと思っているわけです(笑)。というか、実際、ちょっとそのようにしか表現できないようなところがある。すると、はたからみていて、そうした感じ方はすごく神秘的にみえる(笑)。
言い方をかえると、フルトヴェングラーの演奏というのは、まだまだ奥があるぞ、奥があるぞといいながら聞き手を引き込んでいくような演奏だと思いますが、クレンペラーの場合は、奥なんか絶対にないぞといっている(たとえばモーツァルト交響曲第40番終楽章)。その、絶対に奥がないぞといういうところが、ある種の疑り深い人には奥があるように聞こえる(笑)。
まあこれに関しては、私は、奥がないということでいいんじゃないかと思います。でも、この音楽には奥がないと主張できるということはものすごいことで、大抵の演奏者の演奏は、奥があるように聞こえるんですね。


密のもつ二つの位相  投稿者:如月 投稿日:2006/02/05(Sun) 15:22 No.3125  
中世日本の宗教思想(仏教思想)を語るに際して、私は、密教思想と顕教の思想が二つの大きな核だと考えていますが、「密というものを開示したら顕になりはすまいか」という論点について一言。
というのは、これは山田史生さんの『渾沌への視座ーー哲学としての華厳仏教』(春秋社、1999年)に刺激されながら考えたのですが、顕密の相違について語る前提として、まず華厳の性起と天台の性具の主張の相違を私なりにとらえると、これは可能性(possibilite)の位相の問題ということになるのではないかということです。つまり、この問題を私なりに簡単にまとめると、華厳は可能なるもの(仏性)は実現している(もしそうでなければ、それは不可能だったのだ)とするのに対し、天台は可能(仏性)なるものは実現することもあるし実現しないこともある、それが可能ということの本来的な意味だーーというようなことになるのではないでしょうか。天台と華厳のあいだでは、はじめに仏性観の違いがあって、それを可能性の問題として論理的に展開したのが、天台の性具思想と華厳の性起思想なのではないでしょうか。
ところで、真言密教は(そしておそらく道元の思想なども)、基本的にはこの華厳的可能性論(仏性論)を引き継ぎ、天台的(顕教的)可能性論に対峙しているのだと思います。つまり、華厳的可能性論の特徴は、徹底して現象即自的というか、来世否定的だということですね。密教のいう密というのは、すでに開示されている現象世界のことを指すのだと思います。現象していない世界は、密というより、そもそも言説の対象にならない。
これに対し天台的世界観は、本質的に現世・来世二元論的で、就中、来世(可能的世界)こそ密だとするものだと思います。可能的世界というのは、存在はするものの日常言語をもってしては容易に語ることができない。ゆえに密。
平安時代以降の日本の仏教思想史は、この密のもつ正反対の位相をどのように位置づけるかをめぐって展開してきた部分もあるのではないでしょうか。

顕密をめぐる問題につきましては、松山俊太郎さんの『蓮と法華経ーーその精神と形成史を語る』(第三文明社、2000年)の私的要約ページ↓などもご参照を。

http://www.furugosho.com/nomadologie/matsuyama1.htm


Re: 密のもつ二つの位相   - 2006/02/05(Sun) 22:25 No.3127   <Home>

興味深いですね。『蓮と法華経ーーその精神と形成史を語る』を、いつか読んでみたいと思いました。


皿屋敷事件 如月 - 2006/02/06(Mon) 00:58 No.3128  

実は今日、赤坂desperaで松山俊太郎さんとお会いし、いろいろお話ししました。といっても『蓮と法華経』のことではなくて三島由紀夫についてです。
三島由紀夫、『豊穣の海』を書いていたときに、唯識思想(法相宗)を作品全体の核にしようと思っていたわけですが、途中で行き詰まってしまい、ある時、澁澤龍彦邸を訪問した際に、そのことをもらしたというのです。その時にその場に居合わせて三島に唯識思想を解説したのが松山さんで、その折のことは「皿屋敷事件」として澁澤さんが文章化しています。
その折の細かいこと、松山さんは語りませんでしたけど、その経緯を知りたいと思っているということを松山さんに直接お伝えできたのは、今日の非常に大きな収穫だと思っています。


松山俊太郎さん  - 2006/02/06(Mon) 18:14 No.3129   <Home>

それにしても、如月さんは顔が広い。驚きました。


たまたまです。 如月 - 2006/02/08(Wed) 12:51 No.3131  

松山さんは、たまたま縁あって存じ上げているだけです。
だいいち、その松山さんにしても、長い間、このものすごい風采の怪人はいったいどんな人なんだろうと、遠くからお姿をみているだけでした(笑)。


ゲームの宗教性 投稿者:如月 投稿日:2006/02/05(Sun) 14:57 No.3124  
すぐ下のスレッドにも書きましたが、院政期和歌というのは、詠み手の人生観を反映した「文学作品」である前に、まずゲームとしての側面を強くもっているのではないでしょうか。ただこの「ゲーム」ということがまた多面的で、ゲームの本質をつきつめていくと宗教の世界に通じてしまうようなところもあるのではないかと私は思います。
ゲームのもつ宗教性というのは、たとえばバッハの音楽なんかはすごくそんな感じがしますね。一面ものすごくゲーム性が強いんだけど、それがそのまま、ころっと宗教性に転化していく。この辺のところ、トーマス・マンだったら「真剣な遊び」とでも表現するのでしょうか。
ところで、そのバッハの音楽に近いもの、なんというか一種のバロック性のようなもの、私は定家の歌にも道元の文体にも感じるのです。

宗教のゲーム性というと、不真面目だとか違和感があるという人も多いとは思いますが、中世日本で寺院が芸能の場になっていくということなども、宗教の本質とゲーム性・遊戯性の関連を抜きにしては語れないのではないでしょうか。
それともう一つ。宗教には「救済」という側面ももちろんあると思いますが、「忘我」ということも重要な側面として存在すると私は思います。ゲームや遊技、賭け事、さらには性などが宗教とからむことが多いのは、この忘我、さらには、脱自や恍惚という要素との関係ではないでしょうか。つまり、なにかわからないものにつき動かされて我を忘れるということを宗教から排除することはできないのではないでしょうか。
この意味で、私が鎌倉時代の数多くの祖師のなかで、最も宗教者らしいと思うのは一遍です。一遍には、救済の要素と忘我・脱自の要素の両面が混在しているからです。


一遍と後白河 如月 - 2006/02/08(Wed) 13:06 No.3132  

結局、一遍という人は、純粋思想的にというより、人間性というか人間のあり方全体が、院が高く評価しておられるお祖父さま後白河院に通じるものがあるんじゃないでしょうかね。
どちらもエロスとタナトスの複合体と表現しても表現しきれないような夾雑物をいっぱい背負っていて、その夾雑物を背負っているというところが、人間的に、あるいは思想家としてとてもおもしろい。
二人が生きた時代はちょっとずれていますけど、時代が同じだったら、二人はすぐに意気投合してたんじゃないですか。

こうした院の思想的・政治的ヴェクトルと比較すると、摂関家というのはどちらかといえば思想を純化するという方向に向かいますよね。兼実の思考形態は、ある意味、頼長なんかにもとても近いし、だからどちらも朝廷からは浮いてしまう。ただ私は、この純化するという方向性もやはり時代の方向性の一つで、院のヴェクトルと摂関家のヴェクトルというのは、双方が相俟って時代を形成していたんではないかと思います。


定家の法華経題名和歌 如月 - 2006/02/18(Sat) 14:49 No.3146  

以前も小サイトでご紹介したことがあると思いますが、あらためて、定家が良経の命で詠んだ連作和歌を一組紹介しておきます。詞書を読むと、「大将殿(良経)に伺候していたある秋の宵、僧が経をよむのが聞こえたので、その経の文字(なもめうほうれむくゑきやう)を上において秋の歌を詠んだ」とあります。この連作は、法華経の宗教的な神秘思想と言葉神秘思想が合体した作品ととらえることができるのではないかと思います。そして、表現としては、一種のゲーム性の支配下にあるわけですね。

 大将殿にて秋の頃よゐの僧の経よむを聞きてれいのこのもじを上におきて秋の歌

 夏過ぎぬと思うばかりのあさけよりやがて乱るゝ袖の露かな
 もとめても秋より外のやどもがなことぞともなき袖や乾くと
 芽ぐみぬと見ればくれにし春の草風におどろく秋は来にけり
 海山もしらぬわかれの袖の上にこずゑもやがて秋のゆふぐれ
 ほのかなる霧よりをちの秋風やおもふゆくへの竹のひとむら
 うつ音も過ぎ行くやどにおくらさで秋のころものそで慕ふなり
 れき山の裾野のを田のあき風やなびきし人のはじめなりけむ
 むかしをば夢にのみこそあひ見しかたゞそのまゝの袖の月影
 暮れにけりまたこの秋の花すゝきほのめく霧に霜むすぶまで
 衛士のたく烟ばかりはさもあらばあれ雲井の月の秋かぜの空
 菊さきて木の葉もおちぬこれぞこの今年も同じ秋のつれなさ
 やすらはでねなまし月は我なれて心づからのつゆのあけぼの
 浮く紅葉玉ちるせゞの色そめてとなせのたきに秋もとまらず

歌の出来、不出来はともかく、十三首が、季節の順に初秋から晩秋への配列されているのは定家としては当然のこと。
この連作をとおして個々の歌と全体との関係を考えてみると、個々の歌は「小世界」であり、そうした小世界があつまって上位の大世界(=三千大千世界)を構成するという仏教的世界観とこの和歌はつながっていくのではないでしょうか。
また逆に、「な」「も」「め」といった、一見有機的な意味を欠いているかのようにみえる音素のなかに、さらに小さな世界が秘められていることをこの連作は示していると考えることもできると思います。
いずれにしても、この連作を単なる戯れや技巧主義の表出とのみとらえることはできないのではないでしょうか。

   *    *    *

ところで、いったん和歌の世界を離れてこの連作のことを自由に考えていると、たとえば、部分と全体が異なる意味をもつアルチンボルドの絵画などが目に浮かんできますね。定家の世界観とアルチンボルドの世界観の比較なども一興ではないでしょうか。


『新古今』歌人の評価 投稿者:如月 投稿日:2006/02/02(Thu) 15:13 No.3121  
政治家の人物評価は難しいので、歌人の評価について、私なりに少し考えてみました。
登場人物がふえると話がややこしくなりますから、ここでは、ともに『新古今』を代表するとされる定家と西行を例にとります。
まず西行ですが、実はこの人の歌、個人的にはいいと思ったことが全然ないのですね(笑)。ただ、これは現代人である如月の行う現代的評価かもしれず、これに対しては、西行の歌は現実に『新古今』に一番多くとられていて、『新古今』を代表する歌人じゃないかという反論がまず出てくると思います。
これに対しては、私としても簡単に言って二つの再反論があるわけでして、@勅撰集に一番多く歌が採られるのは歌人にとって非常な名誉であるが、それだけに競望も激しく、結局は故人をトップに撰ぶ例が多い(院政期の勅撰集でいうと、後拾遺和歌集の和泉式部、詞花和歌集の曽祢好忠、、千載和歌集の源俊頼はすべて編纂当時故人。金葉和歌集の源俊頼<=撰者>のみ例外)。もちろん、西行は『新古今』編纂当時故人です。ちなみに、西行の次は、慈円、良経と続きますが、このどちらがトップになっても政治臭が出てしまいます、A西行の歌は、勅撰集の核ともいえる四季の部、恋の部には少なく、雑の部に多い。逆にいうと、雑の部は秀歌が少ないので、人為的に穴埋め、てこ入れしなくてはならない。ここに西行の歌が数多く入っている。ちなみに、慈円の歌も雑の部入集が多く、これは慈円の歌を多く入れるための政治的配慮と考えられるーーがその二つです。要するに私としては、勅撰集の入集歌数とその歌人への同時代の評価はある程度一致するが完全に一致するわけではないといいたいわけです。
そこで西行派からあらためて提出されることが予想される反論としては、純粋に和歌の問題にたちかえって、西行の歌は彼の人生を反映しているが、定家の歌は人工的で定家の実人生を反映していない。定家の歌は虚であり、価値が低いというものがあると思います。
ただこの反論、私からすると、院政期の和歌のなかに知らずしらずのうちに近代的芸術論をもちこんだもので、院政期和歌を論じるときにストレートには採用しがたいと思うのですね。つまり私としては、「和歌は詠み手の人生を反映しなくてはならない」とか「詠み手の人生を反映しない和歌は価値が低い」というような価値基準は誰が決めたのかといいたい。
つまり、院政期の和歌に関して重要だと思うのは、それがあらかじめ題を決めてからそれにあわせて詠む題詠だということ、したがって、和歌とは歌人の人生をもりこむ器ではなくて、題をいかにうまく読みこなすかという技術競争なのだということですね(夏でも冬の歌を詠まなくてならないし、恋をしたことがなくても恋の歌を詠まなくてはならない)。この点において、定家という人は、明らかに時代の頂点に立っているわけです。
それと、和歌と詠み手の関係(反映)ということに関しては、定家の側からも若干の反論があって、定家の歌を強力に支持したした人の一人である慈円が、当時、「速詠」を流行させているのですね。速詠というのは、文字通り素早く和歌を詠むことで、一時とか一日といった限られた時間のなかで百首歌を詠むことを定家らにさかんに勧進する。これはどういうことかというと、時間をかけて歌を詠むと、そこにいろいろな作為が入り込んでしまうが、時間制限があると作為を入れようがないので、「自然な」歌ができるというのです。慈円はこれを信仰の立場から提案するのですが、定家にもその提案に応じた和歌が多い。要するに、作品にその人が反映しているかどうかというのは、単純には論じられないということです。
さて、西行と定家の問題(=院政期和歌をどのように評価するかという問題)に立ち返れば、これは、実は個々の歌人の評価や個々の作品の評価の問題ではなくて、私は、題詠さらには慈円が提起した速詠といった、いわば「和歌の装置」をどのように評価するのかという問題だと思っています。ですからこれは、純粋に文学的というよりは、やはり歴史的問題ではあるのですね。
そのうえで、この歴史的問題は、個人の反映を核にして成立している近代文学に対する強烈なアンチテーゼとなりうるという意味で、強い現代性をもっていると考えています。


六百番歌合 後鳥羽院 - 2006/02/05(Sun) 17:15 No.3126  

『六百番歌合』の、じつに六百が恋の歌ですが、作者十二人からそれぞれ一首を撰んでみました。

791 月やそれほのみし人の面影を偲びかへせば有明の空 良経
785 きぬぎぬにいまやならんのあらましに逢はぬ床さへ起きぞやられぬ 季経
717 思へただよそよその人だにも別るる道は悲しからずや 兼宗
821 あらましに心は尽きぬ今夜とて待たばと思ふ夕暮の空 有家
669 年も経ぬ祈る契りは初瀬山尾上の鐘のよその夕暮   定家
1027 ももよ草百夜までなど頼めけむかりそめ臥しの榻のはしがき 顕昭
1006 恋しともかくは人にも知られなん思ふ心や文字の関守 家房940 頼めねど絶えず音する時雨かな恋しき人のかからましかば 経家
922 おのづから閨もる月も影消えてひとりかなしき浮雲の空 隆信
924 思やるながめも今は絶えねとや心をうづむ夕暮の雲 家隆
790 暁の涙やせめてたぐふらん袖に落ち来る鐘の音かな 慈円
678 頼むべき榻の丸寝の言の葉は思ひ絶えねと言はぬばかりぞ 寂蓮

定家の
靡かじな海士の藻塩火焚き初めて煙は空にくゆりわぶとも
は、新古今で撰んだので割愛しました。
『六百番歌合』の恋歌は、概して低調なんですね。上の中から、どれかひとつを選べと言われたら、絶唱というほどのものではないけれども、良経でしょうか。


600vs.1500 如月 - 2006/02/08(Wed) 13:18 No.3133  

今ちょっと、『六百番歌合』を読み返す余裕がないのですが、院が指摘されたことを気にとめながら、今度また、『六百番歌合』を読んでみましょう。ただ、『六百番歌合』というのは、ご指摘のようにすべて題詠なわけですから、題をどれだけこなしているかということも評価してあげないと、主宰者の良経をはじめ作者たちに気の毒なような気はします。
これに比較すると、院が主宰された『千五百番歌合』は、題詠を放棄しているわけですから(題詠にこだわると出詠歌人が限定され、結局良経歌壇とほとんど同じ顔ぶれになってしまう)、そのことの意味はもう少し考えてみる必要があるように思います。つまり、エリートだけが集まっていい作品をつくればいいのか(『六百番歌合』)、作品のできばえを多少犠牲にしてもたくさんの歌人が出詠することに意味があるのか(『千五百番歌合』)。
この点を考えると、私は、両者を単純に鎌倉時代初期の大規模歌合として同列に論じるのは不可能だと思うんですね。


制約というマゾヒズム 後鳥羽院 - 2006/02/09(Thu) 23:04 No.3135  

ゲームにはルールをきつくすればするほど面白くなる、という側面があって、制約を増やして、そのなかで、どれだけ自由な発想ができるか、ということを、私は和歌の場合にも考えます。
『六百番歌合』をみると、自分たちの課した制約条件に圧し潰されてしまっていて、これがはたして歌のプロであろうか、と思ってしまうのです。定家すら、制約に潰されているな、という印象を受けました。
漢詩ですと、制約条件ははるかに厳しいと思われるのに、名詩を作ってしまう奴がいます。それにくらべると、我が国の和歌は甘ったれているんじゃないか、と感じてしまうのです(笑)。


良経の観点 如月 - 2006/02/10(Fri) 13:21 No.3136  

『六百番歌合』に関しては、私のなかに塚本邦雄さんの『恋 六百番歌合ーー<恋>の詞歌対位法』(文藝春秋、1975年)が深く食い込んでしまっていて、それで評価が高くなってしまうという点はあるかもしれません(*^_^*)。上にも書きましたように、これに関しましては、自分自身でもう一度『六百番歌合』を読み返してみたいと思っていますから、現時点では個々の作品の評価に関するコメントはご容赦を。
ただ、今の時点での私の『六百番歌合』についての関心は、個々の作品のできばえというよりは、主としてその歴史的位相、より具体的にいえば政治史的位相なのですね。

建久期に良経が企画した公的百首歌として、花月百首(建久元年=1190年、九月)、二夜百首(建久元年十二月)、十題百首(建久二年=1191年)、六百番歌合(建久四〜五年=1193〜4年)があり、それらにはいずれも定家も出詠しています(定家の二夜百首は散逸)。
この四度の百首歌は、通常の文学史では後鳥羽の『新古今』編纂につながるもの、『新古今』の先駆けと位置づけられています。実際、この四度の百首歌からは、数多くの歌が『新古今』に取り入れられ、いわゆる新古今的歌風の基調をなしていると考えられますから、それはそれで間違ってはいないわけですが、私は、花月百首から六百番歌合にいたる百首歌の企画は、九条家の施政方針というか文化政策を和歌において実現したものであり、本来、『新古今』と切り離して考えるべきではないかと思うのです。
つまり、九条家が失脚(建久七年=1196年)したのちに、後鳥羽が和歌に関心を示しだし、最終的には『新古今』を編纂するにいたるわけですが、それはあくまで結果からみた話であって、後鳥羽の意図と良経の意図は本来異なるものであったと。
また、これは九条家失脚ということの和歌の歴史からみた意味づけでもありますが、建久七年以降、良経は公的な百首歌を企画しなくなります。後鳥羽の伯父・守覚法親王が出てきて、五十首歌を企画するのは、良経(九条家)の歌会と後鳥羽の歌会のちょうど中間の時期(建久九年=1998年)ですね(院初度百首主催は正治二年=1200年)。ちなみに、守覚の五十首歌の出詠者は、守覚、実房、隆房、公継、兼宗、俊成、季経、賢清、隆信、有家、定家、家隆、顕昭、禅性、覚延、生蓮、寂蓮。このうち賢清、禅性、覚延は仁和寺の僧です。蟄居中の良経、慈円はこの企画に参加しえない立場ですが、定家は、九条家に変わるパトロンをみつけなくてはならないので、ある意味必死で歌を詠んでいるわけです。
良経の歌会、守覚の歌会、後鳥羽の歌会、これらの歌会のいずれが良い歌を生み出しているかは難しいところで、現に六百番歌合の評価をめぐって、院と私の見解が異なっているわけですが、それとは別に、守覚、後鳥羽の歌会と良経の歌会の明確な違いは、良経の歌会のルールが非常に厳しいことではないでしょうか。花月百首は桜の主題と月の主題のみの百首歌、二夜百首は速詠、十題百首は獣や草木などの奇題による百首歌、六百番歌合は恋歌五十首とその他五十首の複合。結局、良経主催の歌会というのは、いい歌をつくるということはもちろんかもしれませんが、どのように詠んでもいいか悪いか評価がわかれてしまう(当時であれば、歌壇には御子左家と六条家の二つの流派があり、双方が主張する秀歌の条件を同時に充たすことは困難)ような作品をつくるということ以前に、難しい課題をこなすことのできる教養を誇るということにもあったんじゃないでしょうか。つまり、九条家に集まった歌人たちが難しい歌を詠んでいるというのは誰にでもすぐわかるわけです。
院のおっしゃる純粋にいい歌(秀歌)を詠むという観点は、世人あるいは俊成あたりの観点で、九条家の歌会はその俊成をもとりこんでいますから、俊成的な意味で秀歌を詠むという条件と主宰者である九条家が出している条件がある意味重なり合っていて、どちらに主眼があるのか判別しにくい。ですから逆に、院のように、「六百番歌合の歌は趣向倒れ」とも言えてしまうわけですね。
その点からすれば、守覚の歌会などは俊成的な歌本位の価値観のうえに成立しているかもしれない。また後鳥羽の歌会も、当初はそうした歌本位のものだったかもしれないですが、そのなかに、しだいに、後鳥羽の政治的世界観が投影されていくわけですね。するとやはり、定家なんかはついていけなくなる…。
話を元に戻れば、そうした後鳥羽的な歌の世界と良経(九条家)の歌の世界は根本的に違うところをめざしていたんではないか、それは結局、両者の政治ヴィジョンもしくは文化ヴィジョンの相違に由来するんではないか、と私は考えており、そうした観点から『六百番歌合』を読みたいのです。


『新古今』に西行の歌が多いのは…。 如月 - 2006/02/10(Fri) 14:04 No.3137  

ところで、以上のような歌壇の状況をふまえたうえで、このスレッドの冒頭にかかげた西行と『新古今』の問題に戻ると、院初度百首(正治二年=1205年)と『新古今』竟宴(元久二年=1205年)のあいだにはあまり時間がないから、後鳥羽主宰の歌会を重視するのは当然のことながら、いい勅撰集を編もうと思ったら、良経主宰の歌会も無視できない。で、「花月百首」以下からも多くの歌がとられる。
すると結果的に、『新古今』の歌人構成が良経の歌会と非常によく似たものになってしまうのですが、そこで後鳥羽から出された至上命令(政治課題)が、良かろうと悪かろうと『山家集』から西行の歌を大量にとりいれて、『新古今』のトップ歌人を西行にするということだったんじゃないですか。


「受け取る側の自由でさァ」 投稿者:如月 投稿日:2006/01/30(Mon) 13:37 No.3120  
某掲示板に書かれていた釈由美子が好きさんの歴史上の人物の分類とそれに対する評価の分類、とてもおもしろかったのですが、実は小掲示板の議論と微妙にからむ部分もありますので、勝手に引用させていただきます。

   *    *    *

伝記もその他の本も、しょせん「人の造りし物」ですから、書いた人の価値観や人格から逃れられませんわい。
伝記作者が対象を大好きなあまりに、ひーきのひき倒しになることもありますから。
ですんで、作者の評価は「人の意見は、参考意見」ということで、ある人物に対する最終的な評価は、各人がするしかないでせう(中略)。
例えば、北条泰時の事跡を見て、彼をA「誠実な人」と思うか、B「偽善者」と思うかで、評価は大きく異なりますが、A・Bが各々、↓ の@・Aに分かれませう。

 A「誠実な人」−@「立派な人だ!」
 A「誠実な人」−A「なんか良い人過ぎて、イヤ」
 B「偽善者」 −@「凄い策士だ!」
 B「偽善者」 −A「悪いやっちゃ」

これは、もう、受け取る側の自由でさァ。
ちなみに、あたしゃ、A−Aに近いです。優しい人だとは思いますが、優しい人特有の無神経さも兼ね備えている、と。浅倉みなみさんが優しい女の子であることを認めるに、やぶさかではありませんが、結果、みなみちゃんはカッちゃん・タッちゃん二股懸けてたのでして。

   *    *    *

以上のどこがおもしろく、かつまた小掲示板の内容と関係しているかというと、一般的な演奏評もこのやり方できちんと分類できてしまうのですね。
たとえば、晩年のブルーノ・ワルターやクレンペラーの演奏は、とても遅いテンポのものが多いのですが、その遅い、早いに関して、

 A「遅い演奏」−@「重厚だ!」
 A「遅い演奏」−A「なんかかったるくて、イヤ」
 B「早い演奏」−@「爽快、現代的だ!」
 B「早い演奏」−A「軽薄なやっちゃ」

ということが言えるわけで、なんというか、これはもう、「受け取る側の自由でさァ」と啖呵を切りたくなってしまいますね(笑)。
ですからブルーノ・ワルターやクレンペラーの演奏に関して私がいいたいのは、なぜ彼らがそういうテンポを設定するのか考えずにいいとか悪いとかいっていると、それは所詮、嗜好性の問題になってしまうのではないかということ。これはたとえばクレンペラーの演奏を評価するかしないかという問題ではなくて、クレンペラーがいいという人のなかにも、彼がなぜそういう演奏するのかを考えずに、「重厚だから好き」といった評価をする人がいるのですね。これでは完全に「ひーきのひき倒し」になってしまうと思います。


鎌倉皇帝年代記 投稿者:如月 投稿日:2006/01/29(Sun) 13:40 No.3114  
後鳥羽から光厳までの皇帝年代記(鎌倉時代の天皇事績集)のページがとりあえず開通致しました↓。
http://www.furugosho.com/moyenage/empereur-k.htm
書き足りないところもありますし、いろいろ誤りもあろうかと思いますが、ちょっとアクセスしていただければ幸いです。
また、このページについてのご意見、ご批判もお待ちしております。


「人物誌」も更新 如月 - 2006/01/30(Mon) 12:12 No.3116  

昨日は勢いで、「人物誌」のページ↓に楠木正成、新田義貞、足利尊氏の項を追加しました。

http://www.furugosho.com/moyenage/peuple.htm

ほんとうは、通親の項や両統迭立の関係で言及される西園寺実兼の項なども追加したいのですが、たとえば実兼をいれるとなると関東申次なども説明しなくてはならず、めんどうなので、とりあえず見合わせています。
北条氏関係も、○○合戦のたびに複雑な人物関係を説明しなくてはならないので、けっこうめんどうなのですね。
それに比べると、正成等の項は、とりあえずはその人自身のこと合戦のことを書けば良くて自己完結的なので、比較的書きやすかったです。


久我の功名 投稿者:後鳥羽院 投稿日:2006/01/29(Sun) 09:38 No.3112  
新古今から、久我一門の恋歌を撰んでみました。

あはれにも誰かは露も思はまし消え残るべきわが身ならねば 雅通
あひ見しは昔語りのうつつにてそのかねごとを夢になせとや 通親
今来んと契りしことは夢ながら見し夜に似たる有明の月   通具
幾めぐり空ゆく月も隔て来ぬ契りし仲はよその浮雲     通光

中院通方はないので、その裔の具顕が、夭折する二年前(弘安八=1285)に「寄枕恋」と題して詠んだ歌、

かたみとてなれし枕を手ならせばそのうつり香のうすくなりゆく

こんなふうに並べてみますと、久我一門には、なにか共通した資質のようなものが感じられますね。物事にあまり深入りしないで、世の中をすこし覚めてながめている感じ。北畠顕家なんかは、例外かもしれませんね。
あとで、正法眼蔵は脇に置いて、道元の歌を確認してみますが、同じような気質かもしれない、という予感がします。
具顕くんの歌は、これといって芸もない歌ですが、夭折する人の、なにか独特の感性があって、佳い歌ですね。


白鷺 後鳥羽院 - 2006/01/29(Sun) 15:47 No.3115  

山の端のほのめくよひの月かげに光もうすくとぶ蛍かな
本末もみな偽りのつくもがみ思ひ乱るる夢をこそとけ
冬草も見えぬ雪野のしらさぎはおのが姿に身をかくしつつ
此の心天つ空にも花そなふ三世の仏にたてまつらなむ
春風にほころびにけり桃のはな枝葉にわたる疑ひもなし
花もみぢ冬の白雪見しことも思へばくやし色にめでけり

以上は、道元の歌ですが、ぜんぜん歌風がちがうなあ。
三首目の「白鷺」がいいですね。
五首目と六首目が、正法眼蔵の著者らしい。


道元と御子左家 如月 - 2006/01/30(Mon) 12:37 No.3117  

道元の歌、ちょっと調べてみたことがあるのですが、定家の歌の模倣というか本歌取のような作もけっこうありますね。
私は、道元は定家の歌をかなり意識的に読んでいたのだと思っています。

まあ、この辺は道元の出自とも関係してくるのですが、通説のように道元が通親の子で通具に養われて育ったとすると、生まれた頃(1200年)の最大の話題が千五百番歌合のことだったり、通具が撰者のひとりである『新古今』撰進のことだったりするのは当然なのではないでしょうか。まして通具は、一時俊成卿女と結婚していますから、御子左家とも非常に近い関係にあるわけです。


ブルーノ・ワルターのモーツァルト演奏に思う 投稿者:如月 投稿日:2006/01/28(Sat) 23:44 No.3109  
昨日はモーツァルト生誕250周年の記念日だったとか。それにあやかったわけではないが、このところモーツァルト(とブラームス)ばかり聴いている。
下方のスレッドにも書いたが、私がモーツァルトの音楽をじっくり聴きだしたのは、ブルーノ・ワルターが指揮するニューヨーク・フィルの演奏(1950年代のモノラル録音)による。その後、私の嗜好はオットー・クレンペラーに移り、ブルーノ・ワルターの演奏は長い間聴いていなかった。
ところでここにきて、私が集中的に聴いているのは、ブルーノ・ワルター晩年のステレオ録音の演奏(オーケストラはブルーノ・ワルターの録音用に特別編成されたコロンビア管弦楽団)。実はブルーノ・ワルターのステレオ録音は、私にとって初体験となるのだが、これが予想外にいい演奏でとても驚いている。
ワルターのステレオ録音のモーツァルトのすばらしい点は、ひとつひとつの音の輪郭が非常に明確であるということ。私のイメージのなかでは、ブルーノ・ワルターは音のつぶだちにはさほどこだわらず、曲全体を雰囲気で大きくまとめる古いタイプの指揮者という感じがあったので、このことは、自分としてはとても大きな発見だ。
また、ブルーノ・ワルターというと、独特のテンポのゆれや思い入れ、演奏中の突然の停止などが強調されるが、今聴いてみてその点はさほど気にならない。もちろん彼の演奏は現在主流となっている演奏スタイルとはまったく異なるのだが、ブルーノ・ワルターが自分のスタイルに自信をもって演奏しているのがひしひし伝わってくるので、これはこれで非常に説得力があるし、演奏としての完成度が非常に高い。ちなみに、かつて私が愛聴していたニューヨーク・フィルとのモノラル録音も廉価版で簡単に手にはいるので、こちらも聴き直してみたが、これはこれで覇気のみなぎるいい演奏だが、ステレオ録音の透明さも私としては捨てがたい感じだ。
そんなさなか渋谷のHMVを覗いたところ、バーゲンセールでさまざまなCDが安売りされていたので、ブルーノ・ワルターとの比較という意味で、カラヤンが1970年代にベルリン・フィルを指揮したモーツァルト六大交響曲のCDも購入し(こちらは2枚組のCDに6曲はいってなんと990円!)、双方を聴きくらべてみた。こちらも、私としてははじめて聴く録音だ。
ちなみにカラヤンという指揮者、私はけして嫌いではないのだが、このモーツァルトには驚いた。というのは、カラヤンといえば、ブルーノ・ワルター以上に音の美感にこだわるという印象があるのだが、ブルーノ・ワルターを聴いたあとでカラヤンの演奏を聴くと、天下のベルリン・フィルの音色がどんよりと濁ってきこえるのだ。これはなんとしたことだろう。
そこでまたいろいろ考え込んでしまったのだが、実は、ブルーノ・ワルターとクレンペラーの演奏は、主観的と客観的ということである意味対極にあるようにみえながら、音に対するこだわりという点ではかなり近いところに位置しているのではないかということ。二人の演奏では、オーケストラが明るい響きでよく鳴っている。その響きのうえに、それぞれの個性や解釈が打ち出されている。この二人の演奏では、曲に対する解釈が優先して響きが犠牲にされるということはまずない。また、そうでなければモーツァルトは演奏できないと思う。
日本では、クラシック音楽の演奏評というと、まず、主観的(演奏中にテンポを動かす)か客観的(イン・テンポで演奏する)かで、評価が大きく二分され(フルトヴェングラー、ブルーノ・ワルターは主観派、トスカニーニ、クレンペラー、セル、カラヤンらは客観派)、今度は、それぞれの派の中が基本テンポが速いか遅いかでまた細分される。これからすれば、トスカニーニやセルは客観的で早く、クレンペラーは客観的で遅いというわけだ。しかしこの二分法なり四分法による演奏評価(分類法)、絶対的なものかどうか、私はかなり怪しいと思う。たとえば、この分類法のなかには、音色や楽器のバランスははいってこないのだが、これらはテンポ設定以上に重要な要素なのではないだろうか。
つまり、ブルーノ・ワルターもクレンペラーも、演奏するうえで、まずはオーケストラの音色や楽器のバランスに配慮し、そのうえで曲に対する解釈や自己表現があると考えていたのではないだろうか。だから、インテンポ(クレンペラー)かテンポが揺れる(ブルーノ・ワルター)かは、本質的な対立点とはならず、テンポが速いか遅いかもさほど問題にならないのだと思う。ちなみに、クレンペラーの初期の演奏は、晩年の演奏からは考えられないような早いテンポで、ぶっきらぼうにきこえるようなものが多い。またクレンペラー晩年の演奏も、個人的な好悪や体調でテンポを遅くしているのではなく、細部まで浮かび上がるような明晰な音で演奏したいという要求が、テンポに反映しているのだと思う。だからクレンペラーの演奏は、どんなにテンポを遅くしても緊張感を失うことがない。またいわゆる客観的演奏ということに関しても、クレンペラーはそのようなものをめざして演奏していたわけではなく、個々の音をきちんと響かせることを優先しながら演奏した結果が、いわゆる客観的演奏という範疇にはいるものになったというだけだと思う。
より具体的にモーツァルトの演奏でいうと、クレンペラー、ブルーノ・ワルターの演奏がカラヤンの演奏より基本テンポが遅いのは事実だと思うが、一般的に、クレンペラー、ブルーノ・ワルターは、第二楽章のアンダンテは非常にゆっくり演奏するが、第三楽章のメヌエットは意外に早く、このテンポ設定は二人に共通している。これに対し、カラヤンの演奏は、第二楽章が早く、第三楽章が極めて遅い。だから、早い演奏、遅い演奏といっても、相対的なものに過ぎないのだ。
さてその先だが、とりあえずは、ブルーノ・ワルター、クレンペラーそしてセルにも共通する明晰な音色への指向は、もしかすると彼らのユダヤ性と関連しているのかと漠然と考えている。彼らに比べると、フルトヴェングラー、カラヤンそしてベームは、個々の音にさほど拘泥せず、ともかく音楽を前に進めようとする指向性で共通しているともいえる。もしかすると、カラヤンやベームは、フルトヴェングラーの若い対抗者として楽壇に登場しながら基本的にフルトヴェングラーと同じ指向性をもっていたがゆえにフルトヴェングラーを超えることができなかったのではないだろうか。
ところで、ある曲を演奏することはある曲を解釈することだ、したがって演奏の善し悪しとは解釈の善し悪しのことだという考え方が、音楽評のなかで絶対的なように思えるが、果たしてこの考え方は唯一無二のものなのだろうか。ブルーノ・ワルターやクレンペラーの演奏は、そうした考え方へのアンチテーゼをも含んでいるのではないだろうか。
結論を急がずに、彼らの演奏をまたじっくり聴きこんでみたい。


Re: ブルーノ・ワルターのモーツァルト演奏に思う 後鳥羽院 - 2006/01/29(Sun) 09:11 No.3111  

私はイタリア・オペラにうつつをぬかしていますが、ヴェルディにはモーツアルトを拝借したところが多々あって、ヴェルディは神童を敬愛してたのだな、とよくわかりますね。
ユダヤ性・・・これは、数学的、といったような感じでしょうか。


モーツァルトに、ちなんで…  - 2006/01/29(Sun) 12:44 No.3113   <Home>

オフ会で如月さんと飲んでいた時に、ちょっと話した記憶がありますが、井上和雄=著、『ベートーヴェン 闘いの軌跡』、音楽之友社、昭和63年、34p〜36pからの抜粋引用です。

……………………………… 以下、引用 ………………………………

 たとえばベートーヴェンの少年時代の憧れの的は何といってもモーツァルトだったように思える。
ベートーヴェンがハイドンに師事すべくボンを旅立ったとき、すでに友人の一人になっていたワルトシュタイン伯が、次のような文をベートーヴェンに贈っているからである。

『親愛なるベートーヴェン
 今日ウィーンへ旅立つ君は、長い間心に抱き続けた夢をまさに果さんとしているのです。モーツァルトのさ迷える守護霊は、彼が逝ってしまった事を未だに嘆き悲しんでいます。かの守護霊は、汲めども尽きぬハイドンに避難所を見出しても、己が宿を見出せず、どこか永住の地を探し求めているのです。しっかり励んで下さい。さすればモーツァルトの守護霊は、ハイドンの手から君のもとにやって来るでしょう。
      君の変わらぬ友 ワルトシュタイン
                 一七九二年十月二十六日ボンにて』

 多感な十代後半を共にすごしたワルトシュタインのこの文章は、彼等がモーツァルトを最高の音楽家と考えていたことを示唆している。実際次にみる第三番のニ長調の第一楽章などベートーヴェンが文字通り天才的な感受性でもってモーツァルトを受けとめていたことを示している。
 そしてこれも有名な話だが、ベートーヴェン自身、モーツァルトに師事しようとして、十六歳の春に実際にモーツァルトに会っている。彼がボンの宮廷第二オルガニストとして仕えていたマキシミリアン・フランツ侯が一七八七年、ベートーヴェンをモーツァルトのもとに派遣したのである。ベートーヴェンも十六歳の少年であれば、心をたかぶらせてモーツァルトの前に出たにちがいない。しかもそのときルートヴィヒ少年は、モーツァルトの与えた半音階のテーマをもとに見事な即興演奏をして、「この男に注意したまえ、いつか世間でさらに評判になるだろう」というモーツァルトの言葉を得たのである。

……………………………… 以上、引用 ………………………………

「フィガロ」成功後の31歳のモーツァルトと、傑作を生み出す前の16歳のベートーヴェン少年との、劇的な出会い。才能というものは、時に、このようにして触発されるものなのでしょう。ベートーヴェンの書斎には、生涯、モーツァルトの肖像画が飾られていたとか…。


モーツァルトとブラームス 如月 - 2006/01/30(Mon) 13:04 No.3119  

モーツァルトとベートーヴェン、モーツァルトとヴェルディ、モーツァルトの音楽は後世の様々な音楽家と比較可能だと思いますが、私自身は、上にも書いたように、今、モーツァルトの音楽とブラームスの音楽の親近性を強く感じています。
もちろん、モーツァルトの音楽の明るく澄み切った響きとブラームスの音楽の重厚な響きをそれだけとらえれば、天と地ほども違うのですが、この二人に関して私が似ていると思うのは、音楽との向き合い方ですね。というのは、どちらも、音楽は意味やとある心性・心情を伝えるものではなく、純粋な表現(形式)のもたらす喜悦だと思っていたのではないでしょうか(この辺、おそらくバッハも同じ)。あるいは院のおっしゃる数学性といってもいい。その点、ベートーヴェンはちょっと違いますよね。純粋な形式美だけではなくて、明らかにそれとは異なるなにものかをも求めている。
ブラームスの作品、たとえば交響曲、通常の音楽史ではベートーヴェンを発展させたものということになっているわけで、響きの問題としてはそれでいいのですが、ブラームスが作品をとおして追求したのは、意味性や心性の表現、さらにいえば感情表現といったものではなくて、形式のもつ美だったのではないでしょうか。ですから、ブラームスには明確にバッハやハイドンを意識した作品がありますよね。
要するに、ブラームスは、交響曲というジャンルをオーケストラのためのディヴェルティメントとしてとらえていたのではないかと思うのですが、そのとらえ方は、モーツァルトと完全に同じわけです。


「題詠」 如月 - 2006/02/05(Sun) 13:52 No.3123  

要するに、モーツァルトやブラームスの音楽は、和歌でいうと「題詠」なのだと思います。「哀しみのシンフォニー」だとか「悲劇的序曲」といっても、そこになにか具体的な感情(パトス)があって、それに突き動かされて音楽をつくっていくのではなく、優先されるのはあくまでも音の流れや構成。パトス的なもの(表題)は後付けでしかないですね。


遺稿? 投稿者:後鳥羽院 投稿日:2006/01/28(Sat) 20:02 No.3107  
新聞の広告欄にポプラ社の新刊案内、二階堂奥歯『八本脚の蝶』、がありました。
おぼろな記憶ですが、二年ほどまえ、この掲示板でも、すこし話題になった女性の遺稿でしょうか?


脱帽 如月 - 2006/01/28(Sat) 22:08 No.3108  

今、desperaに問い合わせてみたところ、院が言及しておられる本は、奥歯さんがネットに掲載してした文章などをまとめた遺稿集らしいとのことです。ただし、desperaにも現物はなく、厳密には未確認とのこと。
それにしても院の記憶力と発見力はすごいですね。脱帽です。
ちなみに、奥歯さんは、大学時代ヴィトゲンシュタインを勉強しておられたとのこと。笑顔がとてもチャーミングでした。


Re: 遺稿? 後鳥羽院 - 2006/01/29(Sun) 08:55 No.3110  

ヴィトゲンシュタインでしたか・・・。
ヴィトさんについて、お話してみたかったですね。
あらためて、ご冥福をお祈りいたします。

奥歯さん、二年前になるかな、ウィーンでヴィトさんの生家跡を見ましたが、もう跡形もありませんでしたよ。
フランスなら、ここでヴィトゲンシュタインは生まれた、というくらいの案内板があるものですが、ウィーンの町は冷たいな。そういえば、ウィーン・フィルの音色も冷たく澄んでいますものね。

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