院政期社会の言語構造を探る

絵巻物の時空表現
L'expression de l'espace et du temps dans les peintures en rouleau

2) 源氏物語絵巻
Genjimonogatari-emaki
 

 現存する最古の絵巻物のひとつであり、また大和絵の典型ともされる「源氏物語絵巻」だが、その成立史には、いまだ不明の部分が多い。
 「源氏物語」の絵画化は物語成立直後からはじまっていたと推測されているが、記録上の原点は、白河院政期である。村上源氏・源師時(1075−1136年)の日記「長秋記」元永二年(1119年)十一月二十七日の条に、鳥羽天皇の中宮璋子から、「中将君」を通して「「源氏絵」を制作するので紙を調進せよ」と下命があったことなどが記されており、この「源氏絵」の発注者は、白河院と璋子であった。
 また時代は下るが、鎌倉将軍家には紀伊の局や長門の局らの女房たちが描き、藤原忠通・源有仁らが詞書を担当した二十巻の絵巻物が伝わっているという記録も残されており(「源氏秘義抄」)、これと現存の「源氏物語絵巻」および「長秋記」との関連も解明されるべき問題点のひとつだ。
 小松茂美氏は、「源氏物語絵巻」の詞書の筆跡ののひとつを崇徳院に仕えていた能書・藤原教長のものとする自己の鑑定結果などから、最終的に、「長秋記」および「源氏秘義抄」記載の「源氏絵」は、「あくまでも記録の上の筆。いまは、それ以上の幻影を追うに、よすがもない」(小松茂美氏「源氏物語絵巻寝覚物語絵巻」解説、中央公論社「日本の絵巻」1、1987年)と、これらと現存の「源氏物語絵巻」を別のものとし、「源氏物語絵巻」は後白河天皇の先代近衛天皇在位中(1141−1155年)に制作されたものと推定している。
 いっぽう徳川義宣氏は、「同一筆跡なりや否やの判定は、結局は鑑定者小松氏の主観」(徳川義宣氏「国宝/源氏物語絵巻」、岩崎美術社「双書美術の泉」57、1983年) と小松氏の主張をしりぞけ、「長秋記」と「源氏秘義抄」などの記述を結びつけて、現存の「源氏物語絵巻」はこれら双方に記され保安年間(1120−1123年)に完成したものとするのが「最も客観的で学術的な、一番可能性の高い捉え方」(徳川義宣氏、前掲書)と判断している。
 これら両氏にたいし、佐野みどり氏は、詞書の筆跡を教長と断定するのを留保しながらも、「長秋記」と「源氏秘義抄」を現存する絵巻と直結することを避け、料紙の装飾技法上の特徴から、「本絵巻の作期をおおよそ1140年頃と考えることができるだろう」としている(佐野みどり氏「源氏物語絵巻」解説、小学館「新編名宝日本の美術」10、1991年)。
 「源氏物語絵巻」制作のプロセスや年代に関しては、議論が煮つまるのを待っているのが現状といえそうだ(註10)。
 こうした複雑な成立史はさておき、「源氏物語絵巻」は、「源氏物語」の各段から印象的な場面を抜きだし、詞書と絵を交互に交えながら展開していく。「源氏物語絵巻」にみられる時空表現を、高橋亨氏は「源氏物語」そのものがもつ作品構造を視覚表現に移したものとし、その観点から次のような分析を行っている。
源氏物語がすぐれた手法として完成させた語りの心的遠近法は、敬語や呼称、こ・そ・あ・どの指示語体系や時制法において、現代日本語にも強く残されている場面性に基づいている。それはまた、ルネサンス期以降の西洋で一般化した線遠近法とは異なる、対象の内部に同化したり異化したりしながら移動する遠近法であり、時間を含んだ空間として物語絵の手法とも共通するのであった(高橋亨氏「物語文学のまなざしと空間」「物語と絵の遠近法」所収、ぺりかん社、1991年)
 次に、「源氏物語絵巻」を支える表現上の特徴を、「引目鉤鼻」「吹抜屋台」「逆遠近法」に絞り、順を追ってみていくことにしよう。


<引目鉤鼻>

 細い線を引き瞳だけをわずかにいれた目、鉤のように「くの字」型に曲がった鼻、一見人物の類型化の典型のようにみえ写実主義者の理解を拒絶する「源氏物語絵巻」の登場人物の容貌表現すなわち「引目鉤鼻」を、しかるべき技法の欠如、あるいは観察眼の欠如に帰すべきではない。高橋亨氏によれば、絵巻物の登場人物の表情をどのように描くかにはきちんとした文法がある。つまり、
抽象化されていることが高貴さの象徴なのであり、個性豊かな表情は卑俗さの度合いに比例する。物語の文脈によって限定された場面の、登場人物たちの位置の関係、衣装の色や形によって示される身分などにより、個の差異が示されている。そして、引目鉤鼻の顔にしても、手紙を読む夕霧の背後から嫉妬に燃えて忍びより、奪おうとして手を伸ばす雲井の雁を描いた夕霧の巻の絵のように、注意ぶかく目を凝らせば、極く細い線を引き重ねてつり上がり気味の目の表情を確かに読みとることができる(高橋亨氏「中心と周縁の文法」前掲書所収)
という。
 ここでの絵巻物の文法は、「源氏物語」そのものの文章としての文法とも一致する。「源氏物語」(そして一般に王朝物語)は、高貴な人物を朧化してしか表現しないのである。それゆえ
顔の表現は、化粧法とも関わり、現実の反映であるとともに、それ以上に階級的な文化記号であり、喩であった(高橋亨氏「中心と周縁の文法」前掲書所収)
といいうるのである。
 こうして登場した引目鉤鼻の技法は、高貴な人物を描くときの基本として、しだいに写実性を強める後白河院政期以降の絵巻物にも引き継がれていった。
 また引目鉤鼻の一種の象徴的な容貌描写は、単に写実的描法と対照をなしているというだけでなく、さまざまな表情を同時に表現する十一面観音などの複相的な表現方法をひとつの表情のなかに収めとろうとしたものでもないかということを、ここであらためて指摘しておきたい。


<吹抜屋台>

 絵巻物に描かれた室内の場面をみるとき人物の容貌表現の次に目につくのは、視覚をさえぎる天井や壁などを可能な限り省略して、ドラマの核心のみをストレートに伝えようとしていることだろう。これがいわゆる「吹抜屋台」という手法だが、人物の集合した場面を高い視点から俯瞰し、人や物の複雑な配置を横長の紙面のなかで描写するとき、この手法が威力を発揮する。
絵巻における俯瞰描写の最たるものは、「吹抜屋台」の画法である。俯瞰描写も野外の情景を写すには不都合はないけれども、屋内の情景は屋根に妨げられて写すことはできない。そこで屋根や天井を取り払い、柱と長押を残し、斜め上方から屋内を覗き見ることのできる「吹抜屋台」の画法が考案された(奥平英雄氏「絵巻物再見」、角川書店、1987年)
奥平氏によれば、この吹抜屋台の発想の原点にあるのは、佐野みどり氏が指摘する雛遊びの人形の家や、建築史家・伊藤延男氏のいう古代建築の設計のための「様<ためし>」(=模型)ではないかという(奥平英雄氏、前掲書)。

 小論は吹抜屋台の起源についての議論には立ち入らない。ただ確認しておきたいのは、吹抜屋台の手法が、次のように、絵巻の内容とも深くかかわっているとされることだ。
鈴虫(二)には直接空間を分離遮蔽する垂直面は存在しないのだが、長押、柱、縁を見れば、左から右へと視線が回り込み、長押と柱とが作る面に対して側面高い位置から低い正面寄りに変化しているのが理解できる。そして、そのことによって、長押と柱の左向こうにいる人物、即ち冷泉院及び源氏の空間と、縁に座る公達たちの空間とが一体的でありながら分断され、分断されながらも一体化されている。左寄りの高い視点から見るときには、長押と柱の向こう側の内密な空間に近づき、右寄りの視点に立つときは、その内密の空間を知りながら黙して月に笛を吹く公達の側に身を置く。長押と柱が人物を横切っていることも、分断的=一体的な両義的空間という見方からすれば、巧みな表現方法だと言える。吹抜屋台とは、単なる便宜上の産物ではなく、このような両義的空間(それは、微視的=巨視的ということでもある)のための必然的方法だったのだろう(中村英樹氏「日本美術の基軸ーー現代の批評的視点から」、杉山書店、1984年)
 また特殊な作図を必要とせず簡便な吹抜屋台の技法が、絵巻物をはじめとする絵画の領域全般へ浸透したことが、日本の絵画において「写実的」な奥行表現が発達する必要を封じたということも見逃せない事実だろう。


<逆遠近法>

 鑑賞者との距離に比例して近いものが大きく、遠いものが小さく描かれる西洋近代の遠近法(perspective=透視図法)に対し、「源氏物語絵巻」をはじめとする絵巻物や院政期の仏画では、鑑賞者に遠いものほど末広がりに大きく描かれることがあり、この技法は西洋絵画の「逆遠近法(reversed perspective)」に相当するとされる(註11)。
 しかしわれわれの空間知覚をそのまま再現したかのようにみえる通常の遠近法による作図自体、単なる表現のための技術ではない。遠近法は画家の空間知覚と密接なかかわりをもっているのであり、西洋においても、一方向的に高度化・精密化しているのではなく、ギリシア・ローマの古典期に産み出され、中世の閑却を経て、ルネサンス期に再発見される運命にあった。すなわち、この間に西洋絵画に起こった変化とは、技法上の衰微や進歩ではなく、空間知覚の変化であったのである。
 したがって、引目鉤鼻、吹抜屋台のような直接的手法に比較すれば目立たないが、西洋絵画における遠近法同様、絵巻物の逆遠近法も、より本質的で深いレベルで院政期の絵画と結びついているといえそうだ。
 それがどのような問題を提起することになるか、「源氏物語絵巻」を素材に逆遠近法が何を意味するのか、あるいは院政期の絵画において空間表現と空間知覚がいかに密接に結びついているかを考える前に、多少回り道になるが、まず応徳三年(1086年)に描かれた「仏涅槃図」(金剛峯寺蔵)をみることから逆遠近法への接近をはじめよう(トレース図準備中)。
 この「仏涅槃図」は平安仏画の最高峰のひとつとされるものだが、入滅した釈迦が横たわる牀台(ベッド)の描写に逆遠近法による末広がりの構図が採用されているのである(註12)。

 さて「仏涅槃図」全体の構図をみると、最大のモチーフである釈迦は高い位置から俯瞰されており、このため、仰向けの姿勢であるにもかかわらず、鑑賞者はそのほぼ全身をみることができる(註13)。これに対し、釈迦が横たわる牀台は側面に近いかなり低い位置から描かれており、体の側面が描かれていない釈迦と牀台のあいだで、明らかな視点の分裂がみられる。
 両者の遠近法的な処理の違いも、その延長線上でとらえなくてはならないだろう。つまり、釈迦の身体は正遠近法的に奥行きが縮小し、牀台は逆遠近法的に奥行きが拡大している。そしてこのため、この涅槃図では釈迦の足もとに末広がりの台形の空間ができてしまう。近代絵画を見慣れた眼からすれば、これは明らかに矛盾としかいいようがない表現なのだが、小論はこれを、釈迦(仏=永遠の法)と牀台(物)の存在のあり方の違いを示し、ひとつの光景のなかで牀台を異化していくための積極的な表現技法とみたい。
 そしてこうした観点からこの絵をもう一度よく眺めると、釈迦を取り巻く菩薩・弟子・獣(生物)も、釈迦をみる視点よりやや低い視点から描写されて第三のグループを形成していることに気づく(菩薩・仏弟子たちは大きさも釈迦と不均衡である)。また図の右上に構図上も他の存在と描きわけられている空中の摩耶夫人(仏母)は、もとより、下から見上げる視点で描かれており、他のものを描く視点とは全く交錯しない。この涅槃図を描いた絵師には、西洋近代絵画の画家たちのような、自己の立つ位置を明らかにし、その位置を基準にして空間を統一的に再現するという意図はかけらもないのである。
 ひとつの光景を描くとき、そこに存在する対象の客観的リアリティー(空間上の位置関係)を優先させるのではなく、個々の対象がもつ「意義のリアリティー」が優先されるとき、いわゆる「写実的」な表現は忌避され、視点の統一や「正遠近法」が必要とされることはない(註14)。この「仏涅槃図」をその根拠としてもちだすことはけして不当ではないだろう。
 またこの涅槃図の「応徳三年四月七日奉写已畢」の年紀も、院政期の表現のあり方を探ろうという小論には注目にあたいする。なぜなら応徳三年とは、白河天皇が譲位するまさにその年であり(白河天皇譲位は応徳三年十一月)、この涅槃図は、そうした年の上級階層の世界のとらえ方を如実に示しているとみられるからだ。

 では次に、この涅槃図の約半世紀後に描かれたとみられる「源氏物語絵巻」に再度眼を転じ、この絵巻独自の空間感覚とはどのようなものかを、「源氏物語絵巻」がいかに強く逆遠近法と結びついているかという視点からみていくことにしよう。以下にまず「源氏物語絵巻」のなかから、画面の奥にむかって広がる構図が採用されている場面をアトランダムにあげてみることにする。
柏木 一 特に朱雀院の後方の畳
柏木 三 長押と簀子
横笛 左側の障子
鈴虫 一 左側の家の内部と右側の透垣
鈴虫 二 三人の公達が座する簀子
竹河 二 左側の家の内部と坪庭を隔てた廊
宿木 一 中央の障子とそれに続く棚
東屋 二 中央の遣戸とそれに続く妻戸
トレース図準備中

 この絵巻の表現は、人物の大きさを主観的に変化させることをも特徴としているので、画面奥にいるのが重要人物であるために大きく描かれているといった構図も多い。しかしそれらを除いても、現存する場面の半数近くは、室内を描くときに末広がりの構図を採用している。こうした逆遠近法の世界を理解するためには、われわれも視点を逆転させる必要があるだろう。
 そのとき重要になるのは、西洋の近代絵画で画面の奥の方向に一点ないしは三点想定される消失点(註15)が機械的に鑑賞者の側に来るのが「源氏物語絵巻」の遠近法の特徴だ、といった単純な事実ではなく、むしろ応徳三年の「仏涅槃図」同様、部分的に逆遠近法を用いながら、全体としては消失点を解消しているのが「源氏物語絵巻」の描法の特徴だということだ。
 これについてはすでに多くの人が指摘しているが、逆遠近法が採用される場合にも、「源氏物語絵巻」の各画面の一部分に過ぎず、全体の構図は、次々に視点を移動させていくことで構成されている。
 次にこの点を指摘した吉田秀和氏の「東屋二」の詳細な分析をみてみよう。

それ(画面を構成する三部分)をさらに各局部について、こまかく眺めてゆくと、「急角度に俯瞰する」といっただけでは説明できない点が出てくる。(中略)薫の坐っている簀子にいたっては、手前より上に向って、つまり絵の上に向ってやや末広がりの形をとっている。幾何学的パースペクティヴとは、まさに逆の形である。あるいは、それを科学的パースペクティヴで説明しようと考えたら、視点を逆にとって、上から(より正確には、斜め右上より、斜め左下に向って)視線を送ったことにしなければならない。だがそうするには、薫の姿が背中から描かれていることが正面から衝突する。だからここは、どうしても斜め左下より斜め右上に向って、末広がりの線(中略)を設定しなければならなくなる。しかも簀子の部分では、さらにその手前の末端にある透垣(が;中略)絵を正面から見るものの視点に水平に立っている。簀子と室内との間に立てられた遣戸が、簀子と同様、上にゆくほど拡がっているため、この第二部での視点は、いそがしく交代する。あるいは分裂しているということもできよう。その上にまた、薫の顔の前に描かれた柱には金物がうたれているが、これも、正面を向いて見えるように描かれているのは、相当にゆがめられた視点だといわなければならない(吉田秀和氏「調和の幻想」中央公論社、1981年)
 吉田秀和氏は、「源氏物語絵巻」を「科学的パースペクティヴ」の立場から批判するためにこうした分析を行ったのではない。この分析をとおした吉田氏の結論は、
これらの絵にパースペクティヴが欠けていることにはならない。ただ、ここでは全体を見る眼が、細部の一つ一つまで徹底させられていない。いや、細部の一つ一つを綜合した結果が、全体と同じにならないのである。あるいは、これらの絵は、個々の局面の観察が、そこから共通するものを抽出してきて、全体を規定する原理にまで導くというのとはちがう精神構造の、所産だというべきだろうか。(中略)シンメトリーを忌避し、回避して、全体を解釈する原理的なものの追求よりも、細部に関心を集中しやすい私たちの心の動きに共通するものが、こういうところにも見えるということは、いってもいいだろう(吉田秀和氏、前掲書)
というものである。なかでも「細部の一つ一つを綜合した結果が、全体と同じにならない」というのは、絵巻物にとどまらず、この時代の思考(表現)全体を考えていくときに重要な指摘であり、龍福義友氏の、当時の貴族の事実認識には
ことがらの個別性に対する認識能力だけが検出され、これと対立しつつ補完しあわなければならぬもう一つの認識能力、ことがら相互の連関、連関の総体がかたちづくる構造といった側面への把握力に注意がほとんど見出せない(龍福義友氏「転換期の貴族意識」岩波講座「日本通史7中世1」所収、岩波書店、1993年)
という限界の指摘とオーバーラップする。

 こうしてみると遠近法の問題とは、なによりもまず、当時の朝廷人が世界をどのようにみていたかの問題であり、そこでは、ひとつの視点によって統一された部分が集積された総体として世界が姿をあらわすことは、けしてなかったのである。

(以下、「伴大納言絵巻」に続く)

 平成15年2月22日

  

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