院政期社会の言語構造を探る


今様の政治学1
L'aspect politique d' Imayo 1


言葉の世界に戻ろう。

  尼は斯くこそ候へど、大安寺の一万法師も伯父ぞかし
  甥も有り、東大寺にも修学して子も持たり
  雨気の候へば、物も着で参りけり   (「梁塵秘抄」巻第二 377)

  媼が子どもは唯二人
  一人の女子は二位中将殿の厨雑仕(くりやざうし)に召ししかば、奉(たてま)てき
  弟の男子は宇佐の大宮司が早船舟子に請ひしかば、奉(まだ)いてき
  神も仏も御覧ぜよ、何を祟り給う若宮の御前ぞ  (「梁塵秘抄」巻第二 363)

 「詩歌(文学)」にたいしなにかしら高尚なイメージを付与したまま、後白河院勅撰の
今様集「梁塵秘抄」を開くと、そのあまりのなまなましさに驚くことが多いに違いない。
街を歩く尼や老媼の言葉をそのまま採取したかに思えるいくつかの今様は、実際、われわ
れ現代人の耳にもきわめて新鮮に響く。そして「梁塵秘抄」全体が、これと同じようなな
まなましい言葉に満ちている。

 今様を正面からとりあげるにあたり、ここでまず、小論が今様をみていく視点を明らか
にしておこう。
 「梁塵秘抄」という、つくりての息づかいまでみえてくるような稀有に近い身体性をも
った古典に接するとき、文学史家は、その表層部分から読みとれる風俗のなまなましさに
圧倒され、従来、そこから直接当時の民衆の声や世相をひろいあげることだけに関心を集
中させてきたように思えてならない。
 しかし逆にこのなまなましさが災いして、後白河院の今様狂いのもつ、院個人の嗜好を
も越えた政治的意味、いわば院政期社会における今様の政治的「遠近法」は、かならずしも正
しく理解されてこなかったように思える。この時代、民衆の生活だけでなく、政治そのも
のが変革期をむかえていたことを考えれば、院や朝廷が今様をどのように受けとめていた
か、すなわち今様と政治との距離は、院政期社会全体に敷衍できる興味深いテーマとなり
うる。「梁塵秘抄」の勅撰とは、院自身の好尚にしたがって、たまたまちまたに流行して
いた風俗歌を集めたといった表層的な行為であるだけではなく、変革の時代にふさわしい
政治的行為でもあったと思う。

 もちろん小論も、今様が後白河院時代に大流行した民衆起源の芸能であること、それゆ
え、残された今様を通して、当時の民俗が探れることを否定するものではない。しかしそ
れだけでなく、今様は、皇位継承とは無縁と考えられていた親王時代の後白河院(雅仁親
王)の生活に浸透し、次にみるように、その内面を形成していた。まずはその事実を確認
しておこう。

   当初十余歳の時より今に至るまで、今様を好みて怠る事無し。遅々たる春の日は、枝
   に開け庭に散る花を見、鶯の啼き郭公の語らふ声にもその心を得、蕭々たる秋夜、月を
   翫び、虫の声々にあはれを添へ、夏は暑く冬は寒きを顧みず、四季につけて折を嫌はず、
   昼は終日に謡ひ暮し、夜は通夜謡ひ明さぬ夜は無かりき(中略)声を破る事三ヶ度なり
   (「梁塵秘抄」口伝集巻第十)

 しかし雅仁親王のこうした今様狂いの事実をもって、すぐさま後白河院の今様勅撰の 主因とすべきではない。「梁塵秘抄」勅撰の意味を探る前段として、次に、後白河院の政 治生活のなかに今様がどのように入り込んでいたか、すなわち、今様がどのような政治 装置であったか、当時の貴族日記等を参照しながら探ることとしたい。
 承安四年(1174年)、後白河院は院の御所法住寺殿で今様合を開催した。この今様合は 朝廷貴族30人が左右15人づつに分かれて対戦、九月一日にはじまった試合は、一晩 一組づつ番えられ、結番まで15日も費やした。幸いなことに、当時権右中弁を勤めて いた院の近習・藤原(吉田)経房の日記「吉記」に、この今様合の参加者(方人)とそ の勝敗が記されており、まずそれを整理してみることにしよう
(表参照)
 関白基房と三大臣(藤原経宗、藤原兼実、源雅通)は参加していないが、筆頭大納言( 左大将兼任)の藤原師長と按察使権中納言源資賢が判者を勤めているのをはじめ、前大 納言藤原(徳大寺)実定、検非違使別当藤原成親を左右の頭に、当時院の近臣だったと 考えられるおもだった朝廷貴族が参加している(平氏の公達は参加していない)。
承安四年今様合の方人と勝敗
  左方 右方
藤原実定 藤原成親
源 定房 藤原兼雅
藤原実国 藤原家通
藤原成範 藤原実家
藤原実宗 藤原光能
藤原秦通 源 雅賢
藤原隆房 藤原実教
源 顕信 済綱
藤原隆信 師広
10 藤原基宗 基範
11 師宗 家俊
12 雅亮 為資
13 源 資時 藤原盛定
14 資康 藤原教尹
15 藤原定能 藤原親信
 参加者の顔ぶれをみると、判者のひとり師長(1138-92年)は、保元の乱の中心人物・
左大臣藤原頼長の次男。乱後土佐に配流となったが、長寛二年(1164年)に許されると、
音楽、今様の才で後白河院の寵をえ、「管弦の道に達し、才芸勝れてましましければ、
次第の昇進とどこほらず」(「平家物語」巻三 大臣流罪)と、治承元年(1177年)には
太政大臣にまでのぼった。白河・鳥羽院政期の源有仁同様、政治的に失脚した人物の子
が、その霊をしずめるために官位で優遇された典型的な例といえる。また芸能の才覚が
朝廷での地位に結びついた好例でもある。
 琵琶・箏の名手として特に有名で、神をも感動させたその技に関するエピソードは、
「平家物語」等に数多く記されている。また音楽理論家としても傑出しており、琵琶の
「三五要録」、箏の「仁智要録」を著わした。後白河院に協力して今様ならびに仏教音
楽・声明(註1)を集大成。治承三年(1179年)十一月の平氏のクーデターにより尾張に
流され、出家して妙音院と号している。
 もうひとりの判者である源資賢(1113−88年)は、宇多天皇の孫源雅信にはじまる音楽
の家の生まれ。「梁塵秘抄」御口伝にもしばしば登場する管弦、今様の名手で、親王時
代から今様を介して後白河院に近づき、その後も一貫して院の近臣であった。したがっ
て、これもきわめて妥当な人選。資賢の系列からは、実子資時、孫雅賢も方人として参
加している。治承三年の平氏クーデターでは、資賢一族も関外追放の処分を受けている。
 左方の頭藤原実定(1139−91年)は白河院の寵臣・公実の曾孫で、後に左大臣。実定の
家・徳大寺家は西行の主家筋であり、実定自身、歌を詠み、管弦を愛する風雅の人ではあ
ったが、それ以上に、院、平氏、木曽義仲のあいだをたくみに動き回った政治的人物でも
ある。弟・左宰相中将実家は右の方人。公実の流れをくむ閑院流の公達は、他に、新大
納言実国、実宗も参加している。
 院の影響によるだけでなく実定自身も今様を好んでいたらしく、治承四年(1180年)の
福原遷都のおりのエピソードとして、八月に京へ帰って姉・多子を訪ね、その御所で

  ふるき都をきてみれば あさぢが原とぞあれにける
  月の光はくまなくて 秋風のみぞ身にはしむ

と今様をうたっということが、「平家物語」に記されている(「平家物語」巻五 月見、
なおこの帰京には、承安四年今様合参加者・藤原経尹が同行)。
 これにたいして右方の頭藤原成親(1138−77年)は、当時の代表的な院の近臣。安元
三年(1177年)の反平氏の陰謀・鹿ヶ谷事件の首謀者で、清盛により謀殺されている。右
の方人信濃少将実教は、その弟。
 こうしたそうそうたる顔ぶれによる今様合であったが、なかでも九月十三日には、今様
合終了後、参加者による管弦の御遊があり、師長が箏、実国と成親が笛、資賢が拍子をと
り催馬楽を合奏、次には六角宰相家通が笙、実宗が琵琶、定能が篳篥、雅賢が歌を付け、
実教が笛を担当して合奏、続いて師長が朗詠し、資賢と家通がこれに唱和した。そして最
後には、興をもよおした後白河院がみずから今様を歌った。これには、堂上堂下、内女房
まで聞きいったという。
 この管弦の御遊には、当時建春門院につかえて、この今様合に遭遇した健御前(藤原定
家の実の姉)の印象記もあるので、ついでにのぞいておこう。

  事果てて、左大将(師長)朗詠などこそ、聞き知らぬ耳にも驚かれしか。「秋の夜明
  けなむとす、なにがしの西に」とかや、めでたしと思える人々の気色見えき。別当成
  親の声はまことにおもしろうて、「夜も更け、小夜も」とかや、「我待つ里も」と謡
  はれしを、京極殿二所(後白河院と建春門院)の御前にて、「幸なの里や」と申され
  しも、人からおかしう聞こえき(「たまきはる」)

 また今様合が終了した九月十五日には、「吉記」の記主・藤原経房らが精進を開始して、
あわただしく熊野に出発した。十月には、これを追って後白河院自身も熊野詣でを行って
いる。してみるとこの今様合は、院の熊野詣でと一貫した大がかりな神事として行われた
可能性もある。

 いっぽう「平家物語」は、治承三年(1179年)三月に僧・文覚が院の御所に乱入したさい、

  をりふし御前には太政大臣妙音院(師長)、琵琶かきならし朗詠めでたうせさせ給ふ。
  按察大納言資賢卿拍子をとって、風俗、催馬楽うたはれけり。右馬頭資時、四位侍従
  盛定、和琴かきならし、今様とりどりにうたひ、玉の簾、錦の帳の中さざめきあひ、
  まことに面白かりければ、法皇もつけ歌せさせおはします(「平家物語」巻五 文覚
  被流)

と、承安四年の今様合に参加したのと同じ顔ぶれが、今様、音曲に打ち興じていたことを
記している。今様は、院の世界のなかで、座興どころか、政治生活の中心を構成していた
といえそうである。

 後白河院個人の実存から出発した今様は、親王、天皇、上皇という院自身の身位の変化と
同時に、位置づけを変え、単なる院個人の嗜好の対象から、朝廷さらには社会全体を動か
す政治的装置へ変化していく。そのときはじめて、今様を採録し、後世に残すという発想
が院の内部に生じてくる。ストレートに今様に精進していた若き日の後白河院と、今様を
勅撰した晩年の後白河院を、同一レベルで考えることはできない。
 それを明らかにするために、もう一度まわり道をして、今度は今様をうたっている階層
全体をみてみよう。すでに指摘したように、それは、身分の上下を問わず、院政期のあら
ゆるひとびとに及んでいた。後白河院は、機会をみつけては、こうしたひとびとに教えを
請い、いっしょにうたい(付けて謡う)、今様修行に励んだ。

   上達部、殿上人は言はず、京の男女、所々の端者、雑仕、江口・神崎の遊女、国々
   の傀儡子、上手は言はず、今様を謡ふ者の聞き及び我が付けて謡はぬ者は少なくや

 ちなみに「梁塵秘抄」口伝集をさらに読んでいくと、承安四年の今様合の評として、

   兼雅卿、今様合の時に、足柄の中に駿河の国謡はれしを、乙前の女聞きて、「これ
   は御所より賜はられたると覚ゆる節の有るは、習ひ参らせたるやらむ」と言ひける
   (「梁塵秘抄」口伝集巻第十)

という言葉がでてくる。これを読むかぎりでは、公卿(兼雅は当時中納言)や院(御所)
の芸を、無名に近い傀儡子女の方が権威者として論じており、今様を通じて、政治・文化
的な身分と価値観は完全に逆転している。政治史のレベルからこの現象をみていくとき、
棚橋光男氏の次のような分析が妥当する。

   後白河にとって、内裏・大内裏は所詮”王冠”以上のものではなかった。それが証拠に
   かれは居心地の悪い内裏をさっさと出てしまっている。かれは信西(註2)よりは遥かに
   深く、<中世>の中で生きていた。帝王後白河は、王権と文化(芸能)と漂泊の社会集団
   と、この三つを紡ぎ合わせる網目を発見していた。その網目こそ、迫り来る王権の危機、
   武士と在地諸集団の怒涛のごとき反乱の中で、王権を間一髪のところで防禦し、それどこ
   ろかその危機を養分として、中央突破、すなわち王権の中世的再生をはかるための、ほと
   んど奇跡的とも言うべき生命線だったのだ(棚橋光男氏「後白河論序説」『後白河法皇』
   所収、講談社、1995年)

 しかしこの「生命線」を理解できた人間は、同時代にも、いや現代にもほとんどいない。
たとえば関白・基房の弟でこの今様合当時右大臣だった藤原(九条)兼実は、後白河院を
「和漢の間比類少なき暗主」と酷評した藤原信西の言葉をその日記「玉葉」にひいて(寿永
三年三月十六日条)、自己の判断に代えている。だが西郷信綱氏も指摘しているように、わ
れわれは、後白河院の今様狂いを、単に院個人の気質や嗜好の問題としてかたずけるわけには
いかないのだ。

  我意を通す後白河のやりかたを、玉葉が「賢主ニ於テハ大失タリ」と注しているのは
  興味ふかい。延喜・天暦の治を見本とする律令制的「賢主」の時代は、もうとっくに
  終っていた。院政じたい、法と機構によってではなく君主の恣意によって旧体制の枠
  を維持しようとする危機的・専制的な政治形態であったはずで、その点、後白河は院
  政そのものの化身のごとき性格の持主であった。「暗主」であることが、むしろ院政
  を担当する君主の本質であるといってもよく、そしてここに梁塵秘抄という今様集が
  彼の手に成るのである(西郷信綱氏、「梁塵秘抄」<日本詩人選22>、筑摩書房、
  1976年)

 君主の暗・賢は結局相対的な問題であり、視点をどこに置くかによっていかようにもい
いうる。しかし少なくとも後白河院にとり、今様に精進することは、民衆のレベルに属す
る文化、さらには民衆レベルで引き起こされる文化の変化そのものを自己の秩序に属する
ものとしてすすんで政治の世界に引きずりこみ、逆に、自己を中心に文化が旋回している
ことを示す手段となっていった。桜井好朗氏の指摘のように、今様を必要とする条件は、
民衆以上に、院や朝廷の側に積極的に存在したのである。

   民間の観念的世界が宮廷のそれを侵してゆく条件は、宮廷の内部にもあった。五十歳を
   こえた後白河上皇は「十余歳の時より今に至るまで、今様を好みて怠る事無」く、「昼
   は終日に謡ひ暮らし、夜は終夜謡ひ明かさぬ夜は無か」ったという。さらに院は、江口・
   神崎の遊女、国々の傀儡子まで、今様をうたう者を召し出して、芸を学んだ。それはかな
   らずしも院の好奇心の強さとばかりはいえず、むしろ院政期支配層の意識の変動を専制君
   主としての院が典型的に体現していたと見るべきであろう(桜井好朗氏「中世における漂
   泊と遊芸」「中世日本文化の形成」所収、東京大学出版会、1981年)

 後白河院以前には、白河院の田楽、鳥羽院の催馬楽などの芸能愛好の例があるが、それ
ぞれの院はこうした民衆的な芸能と接触することを、なかば政治的な行為として行なって
いたのではないか。後白河院の場合、その対象がたまたま「今様」だったのだ。逆にいえ
ば、「今様」ではなく、田楽、催馬楽、あるいは「やすらい花」など、他の芸能に夢中に
なっていたとしても状況はいっこうに変わらない。先学の言葉に導かれながら、このよう
に歴代の院が芸能を通して民衆と直接接触することの意味を考えていくと、「梁塵秘抄」
勅撰は、個人の嗜好や芸能史のレベルにとどまる問題ではないことがしだいに明らかにな
ってくる。


  帝王後白河が、さらのこれ(平氏の根拠地である六波羅、註:如月)に連続する周縁
  に居所=拠点を設けたのも、もちろん(平氏と、註:如月)同じ理由からである。荘
  園・公領制=経済システムの心臓部を握る交通・情報ネットワークのサブセンター、
  そしてそれを担う社会集団=零細な手工業者、交通業者、陰陽師・呪術者・遊女・舞人
  白拍子・傀儡子集団の掌握、かれらとの太いパイプの施設こそ、帝王後白河の政治課題
  でなければならなかった(棚橋光男氏、前掲論文)

 以上の棚橋氏の論にそってみていけば、後白河院が三十三度と歴代の院のなかでももっとも
足繁く熊野詣でを行なったのは、信仰そのものもさることながら、そこに集積される人や情
報を自ら掌握するためといえるだろう。社会秩序組み替えの時代に王権を保っていくため
には、権力者は王城で人・情報が集まってくるのを待つのではなく、自らそうしたものの
集積地へ足を運ぶ必要があった(註3)。文芸の面からそうした情報掌握のための手段を
見直していったとき、後白河院は、みずからの手中にそれを握っていたことに気づいたの
である。

 「梁塵秘抄」は後白河院のなかでこのような心的過程を経て編纂されていく。
 後白河院が今様の集大成「梁塵秘抄」勅撰を思い立った直接のきっかけ、時期等は不明
だが、「梁塵秘抄」口伝集巻第十の「嘉応元年三月中旬の比、此等を記し畢りぬ。漸々撰
びしかば、初けん程は憶えず」の文から、巻一から巻九までは、この頃(1169年)成立し
たことがわかる。そして、巻十は、これより十年ほど遅れて、治承、文治年間の成立とみ
られている(「梁塵秘抄・閑吟集・狂言歌謡」「新日本古典文学大系」解説参照、岩波書
店、1993年)。
 「梁塵秘抄」勅撰に思いたったとき、そこには若き日の雅仁親王とはまったく違った、
為政者後白河院のおもわくがあった。そしてこれによって、結果的に、摂関期までエクリ
チュールのなかに正式には取り込まれていなかったものが新たに文字に定着され、文学(
詩歌)の対象となる。つまり、集団的無意識のなかでうごめいていた伸縮自在のアメーバ
のような言語(声技=パロール)が、文字に定着されることで、権威による操作の対象と
なっていく。これをケの領域の存在をハレの領域に移すことで無力化するといってもいい。
そしてケの領域とハレの領域を結び、その領域を組み替えていくことこそ、摂関家にも武士
の棟梁にもはたすことのできない、天皇家の古代以来の特権であり、後白河院はそうした
天皇家の社会的機能を了解し、フルに行使していった。その意味において、「梁塵秘抄」
の勅撰は文化の領域にとどまる問題ではなく、すぐれて政治的な行為であり、「梁塵秘抄」
は、院政期社会の「一望監視装置」(パノプティコン)の役割をになわされていた。(註4)

                             (以下、「今様の政治学」2に続く)
                                     平成13年7月14日


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