院政期社会の言語構造を探る


今様の政治学2
L'aspect politique d' Imayo 2


 院の内面をもう少し探ってみよう。
 自身三度も喉をつぶすほど今様に打ち込んだ後白河院は、声技(こゑわざ)としての今様が一身の芸であることを、身をもって了解していた。歌い手・後白河院は、おそらくそれが、唱えられるたびごとに、また唱える人や座に応じて言葉や節が変化する即興的なもの、その声色や節回しを完全にとどめておくことは不可能なこと、そしてなによりも、採録して固定化したと思った瞬間に、それは「今」をすりぬけ、「今様」としては死んでしまうことを、誰よりもよく知っていたに違いない。歌ったそばから朽ちていく声技の悲しさ、限界を知り、それを後世に伝えることの本質的な矛盾を感じながら、後白河院は「梁塵秘抄」を勅撰していく。「梁塵秘抄」のなかの、次の言葉そのものが、後白河院のかかえるこうした矛盾のあかしであろう。
大方、詩を作り和歌を詠み手を書く輩は、書き留めつれば、末の世までも朽つ無事し、声技の悲しきことは、我が身崩れぬる後、留まる事の無きなり、其の故に、亡からむ後に人見よとて、未だ世に無き今様の口伝を作り置くところなり(「梁塵秘抄」口伝集巻第十、下線如月)
  「其の故に」という言葉にあざむかれてはいけない。「我が身崩れぬる後、留まる事の無き」 と知りながら「口伝を作り置く」という心理は、本来、「されど(=にもかかわらず)」という逆接でしか結べないはずだ。「其の故に」という順接の接続詞を真にうけて、これを理由を示す言葉ととると、この文は、加藤周一氏のように
後白河法皇の時代には、録音装置がなかった。もしあれば、法皇も、歌人や書家とちがって今様 の謡い方の後白河流が後世に伝わらぬことを歎く必要はなかったろう(加藤周一氏「古典を読む  梁塵秘抄・狂雲集」<同時代ライブラリー>、岩波書店、1997年 )
としか読めなくなってしまう。しかしこうした読みのなかには、すでに、機械万能主義的な誤解、さらには芸能を形態だけでとらえられるとする誤解がふくまれているようにしか思えない。
 くりかえすが、はじめ今様は、後白河院個人の実存と直結した問題であった。そして今様に明け暮れした若き日の後白河院にとって、今様とは、次の川端善明氏の指摘のように、歌ったそばから 消えていく瞬間の芸であった。
「こゑわざのかなしきこと」に見られているものは、その盛期にあって既に始まっている今様の滅びであり、とともに、予め今様を浸していた滅びであろう。今様は、常に「今」の調べであることの故に、その内部に次々の滅びを抱いてきた。(中略)謡い方を録し、譜を採ったとしても、 いかに巧まれてもそれが、「こゑわざのかなしきこと」を所詮とどめ得るものではない。当然それは、声わざの陶酔に昼夜を暮らした後白河院には自明のことであったであろう(川端善明氏「 梁塵秘抄」、芸能史研究会編「日本芸能史」2「古代ー中世」所収、法政大学出版局、1982年)
 一般的にいって、ひとつの芸能とそれが演じられる「場」の問題をみてゆくとき、その社会に録音装置があったらどうなったであろうかといった機能主義的な発想は生じようがないと思う。 本質的には二度と繰り返すことのできない「今」の芸であるがゆえに、今様においては、時宜にかなった即興性が重視される。したがって、どのように精密化したとしても、今様を記録し再現することなど不可能な事態である。そもそも今様を記録にとどめようという態度そのものが、反今様的な行為なのである。当代一の今様の名手後白河院に、それは自明のことだった。
 また、後白河院時代の朝廷貴族のあいだの今様の流行にしても、リズムや節回しなど、今様の形態のもつ新しさが、伝統音楽の形式主義にあきた彼らをたまたま魅了しただけの ことであろうか。そうではなく、彼らが引きつけられたのは、院がそれを好んでいることに対する追従にくわえ、今様のもつ新しさのヴェクトル(その指向する方向性)そのものではなかったか。少なくとも、院周辺の今様への熱狂が、「今日の日本の老若男女が、ありとあ らゆる機会に「カラオケ」で歌を唱う態度とあまりちがわない」(加藤氏、前掲書)表層的 な流行追随の現象でしかないとは思えない。(註5)
 ここでもう一度、西郷信綱氏の言葉をきいてみよう。「ほんの思いつき」としながら、氏は、
平安朝の中期は、世代の違いというものが多少とも自覚的に経験されるようになった 最初の時に当たっているのではなかろうか。生物学的な世代なら、人間の歴史とともに古い。私の問いたいのは、経験された時間の質が世代的に違ってくるということであり、かくて生物学的 世代が同時に社会的・文化的な意味を持ち始めたのがいつかという点である (西郷信綱氏、前掲書、原文の下点を下線に置き換えた)
と、平安中期以降、ひとびとの時間意識に分裂が目立ち始めたことを問題にしている。 これを末法思想の浸透といってもいいが、小論は、逆にこうした意識変化が、「末法」 という概念を社会に受け入れさせていったと考えている。今様の「今」を問う糸口もこの辺にあるのではないか。「世代の違い」や「末法の世」を意識すればするほど、それは強調されてくる。小論は、今様流行をとおして感知されるこうした意識変化を、今様の表面から読みとれる内容以上に重視したいのである。

 少し整理してみよう(図参照)
 今様は、遊女をはじめとする下層の民衆に起こり、広がった芸能である。それだけに、われわれ近代人の眼には、それが社会の最上層にまで浸透していくこと そのものが、極めて異常な現象と映る。しかし、院政期の朝廷文壇には、すでに 大江匡房の「遊女記」「傀儡子記」のような先例があり、大貴族と遊女や傀儡子との 接触やそれを文学的描写の対象とすること自体はかならずしも先例のないことではない。 「平家物語」(巻一 祇王)の白拍子の清盛邸推参のエピソードにもあるように、 この時代、朝廷と芸能者・民衆のあいだの距離は、われわれの想像以上に近かった。
 しかし、刻々と変化する民衆のいきた文化(言語)そのものである今様は、本質的に反エクリチュール的な性質、すなわち、文字として残されることを拒む性質をもっている。 そうした反エクリチュールをエクリチュールとして定着し、顕在化すること。 これこそ権力にとって魅力ある課題でなくてはならない。
 とりわけ日本においては、文字とは、あるいは言葉を文字によって表記し、他者に伝達 すると同時に後世に残すことは、民衆のあいだから自然発生的に生じた発想ではなく、 官僚機関同様、民衆支配のための装置として権力によって中国から移入された外来の「思想」 であった。エクリチュールのもつ、支配装置という根本的機能を、権力者後白河院が感じとらなかったという保証はどこにもない。
 またこの時代には朝廷と民衆・芸能者の距離が近かったといっても、院(天皇家)と 貴族・武士のあいだには超えることのできない身位の違いがある。 武力を背景に清盛・頼朝がどれだけの権力を掌握しようとも、彼ら自身、天皇・院に なることはできない。天皇・院とは、最高権力者である以前に、むしろ、社会秩序の原点ともいうべき存在であり、そうした立場にある院がみずからすすんでなにごとかを行うことそのものが、内容の善悪とかかわりなく、由々しき社会秩序の否定であった。とすれば院は、社会全体に自己の存在をアピールするために、ますます秩序を破壊していかざるをえなくなる。
 院が今様に精進し、今様集を勅撰することは、こうした意味において、朝廷の前例主義に対する二重・三重のアンチテーゼ、秩序破壊であった。
 小論は、院政期にいきたひとびとの時間意識を明らかにすることを大きな目的のひとつとして進んできた。こうしてみていくと、社会の通時的変化にもっとも敏感だったのは院であり 、それゆえ、それをいきたままかたちに留めておくことに強い意欲を燃やしたのではないかと いう気がしてくる。旧体制の頂点にたつ摂関家が、社会的変化の容認にたいして消極的であった のにたいし、院とその近臣にとっては、社会変化こそ自己の活力のみなもとであり、社会変化 のなかに自己の進むべき道がある。社会秩序が混乱すればするほど、その秩序の原点としての 院の存在は光を増してくるのだ。
 こうして、後白河院の今様に対する態度を、じつは民衆文化への迎合などではなく、変動する社会そのものを下部構造から掌握しようとするものとみることではじめて、次の時代に後鳥羽院 が和歌に示した異様な情熱も了解できる。後鳥羽院の時代には、民衆のエネルギーの高揚に代わ って、ピラミッド型の官僚支配機構(朝廷組織)の再建築(社会秩序の維持)が、時代の最大の要請となっていた。そのなかで後鳥羽院は、いち早く民衆を切り捨て、時代の要請に順応して摂 関全盛期の朝廷文化の華であった和歌を自身の身につける。そしてそれを臣下に奨励し、次にはそれを勅撰していくのである(「新古今和歌集」)。原点が、今様か和歌かということを除けば 、常に時代の核にあろうとする、こうした院の政治=文化ヴェクトルそのものは、後白河院にも 後鳥羽院にも共通することが容易にみてとれる。
 こうしたなかで、「梁塵秘抄」のテクストの性質に無批判に、そこから院や朝廷人に今様を伝授した 特定の個人(その多くは遊女である)の名や生活環境を拾い出したり、今様伝授の系譜を明らかにすることに夢中になることはなにを意味するのか。ともすれば、そうした行為自体が後白河院のしかけた装置にとらえられてしまうことになるのではないか。
 院をはじめとする朝廷人にとって、今様とはなによりも、勅撰集の「読みびと知らず」の世界をまざまざと白日にさらし、一望監視を実現する装置であった。すなわち、今様は、特定の個人を超えたものの声を定着し、顕在化していくことに意義があった。したがって、特定の作者が知られている今様にしても、人口に膾炙するなかでいったん無名化する必要があった(註6)
 次にそうした無名化の例をあげてみよう。現存する「梁塵秘抄」の巻頭には、 「後拾遺集」「拾遺集」等の勅撰集にとられた和歌に「そよ」という囃し言葉を付けただけの奇妙な作 が今様としてならんでいる(註7)
  そよ 君が代は千世に一度ゐる塵の白雲かゝる山となるまで
                      (「梁塵秘抄」巻第一 1)
  そよ 春立つといふばかりにやみ吉野の山も霞みて今朝は見ゆらん
                      (「梁塵秘抄」巻第一 2)
  そよ 我やどの梅の立ち枝や見えつらん思ひの外に君が来ませる
                      (「梁塵秘抄」巻第一 3)
 これらは、オリジナリティー重視の文学史からはつねに無視され続けてきた作だが、他の「今様」とならべて読んでいくと、やはり雰囲気や声の調子などで撰ばれているのであって、もはや大江嘉言・壬生忠岑ら特定の作者の「作品」とはいえないという気がしてくる。そして、これらと同様の作が「今様」として「梁塵秘抄」に多数採用されて いることのもつ意味は重い。
 もしここで、あえてこれらの今様の作者をあげるなら、言語や文字をとおして思念が特定の個人の思いへと閉 ざされていくのを阻むもの、すなわち「民衆」こそその作者とすべきであろう。個々の今様の言葉はけして固定 したものではなく、興に応じて次々に改変されていく性質のものであった。「梁塵秘抄」勅撰における後白河院 の関心の一端は、いわばこうした「言語生態学」にあったと思う。したがって、院の今様への熱中は、大江匡房 の「遊女記」等にみえる廷臣の個人的な関心とは本質的に異なっている。それは、変化の少ない安定した社会を 前提に政治をすすめてきた摂関中心の朝廷社会のあり方にたいし、変革の時代に社会に秩序を与えていくのは天皇大権(院)であることを示す文化的手段であった。

 さて小論の性格上、本項では、「梁塵秘抄」勅撰の意味とその政治的側面をおもに取りあげたが、 最後に少しだけ、今様そのものの響きにも耳を傾けることにしよう。
我を頼めて来ぬ男、角三つ生いたる鬼になれ、さて人に疎まれよ
霜雪霰降る水田の鳥となれ、さて足冷かれ
池の萍(うきくさ)となりねかし、と揺り、かふ揺り、揺られ歩け
                         (「梁塵秘抄」巻第二 339)
美女(びんでう)打ち見れば一本葛(ひともとかづら)へも成りなばやとぞ思ふ
本より末まで縒らればや
切るとも刻むとも離れ難きは我が宿世        (「梁塵秘抄」巻第二 342)
遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子どもの声聞けば 我が身さえこそ揺がるれ   (「梁塵秘抄」巻第二 359)
 以上のうたに特別な説明や解釈は不要であろう。たよりにさせてやってこないつれない男を恨む遊女の歌、 美女を目の前にしてそれに絡み付きたいとする男の歌、子どもを目の前に身を揺るがせる遊女の歌、三首 の世界はそれぞれ異なるが、いずれも愛欲や遊びをストレートに肯定している。 ちなみに、西郷信綱氏は、室町、江戸と時代を下るにつれ遊女の歌謡は媚びを含み、「浅酌低唱むき」になるとし、
 
私には歌謡史の右のごとき過程と遊女が独立性、その「自由なからだ」を次第に失ってゆく過程とが、 ある程度かさなっているように思われる。少なくとも梁塵秘抄が遊女史の最善期を記念する集であった ことは疑えない(西郷信綱氏、前掲書)
と結論づける。言語をとおした遊女の生態の一望監視からその国家管理まで、道はさほど遠くはない(註8)
 仏教、神道、熊野詣、博打、鵜飼等、当時のひとびとの生活実態を知るうえで興味深いテーマをかずかず積み残 してしまったが、基本的には同じようなことがいえると思う。一見自由な精神にみちているかのようにみえる 「梁塵秘抄」の勅撰事業は、こうしてみていくと、平氏政権、鎌倉幕府と続く戒厳令下の警察国家の誕生と表裏 一体のできごとなのである。
 今様そのもののその後の運命はどうなったであろうか。
 
正統は(源資時と藤原師長に)伝えられたであろう。しかし、もはや新しい今を生むことのない今様へ、 それは一歩踏みこむ。新しい今を生むこともないが故に、それはいずれ宮廷儀礼の歌謡となり、鎌倉期、 正月や五節の殿上淵酔に朗詠とともに謡い継がれてゆく(川端善明氏、前掲論文)
 今様の詞が書きとめられ、その正統的なうたい方を体得して後世に伝える人物が出た瞬間から、 今様は「今」であることを断念し、生きた歌謡としての生命を失う。それは後白河院亡きあとに 絵巻物がたどった数奇な運命といくぶん似ていないといえなくもない。
平成13年9月10日

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