院政期社会の言語構造を探る

「今様の政治学」註

註1)
  声明は、顕密仏教各派の声楽を中心とする儀式音楽。今様をはじめ、後の日本音楽に与えた影響は大きい。師長は、筝の調弦法を利用した独自の音階論によって声明の記譜法を確立した。師長をはじめとする朝廷人の内部では、芸能と宗教音楽の違いはほとんど存在しなかったのではないか。

註2)
  後白河院の治世の初期において、院政時代の政治・文化ヴェクトルや後白河院自身の嗜好を見越したうえで、後白河院を今様に邁進させたイデオローグは、信西であろう(信西の三男・左兵衛督成範も承安四年の今様合に参加している)。

 保元二年の年、乙前が歌を年来いかで聞かむと思し物語をし出でたりしに、信西入 道これを聞きて、「尋ね候はむ、それが子、我が許に候」とて、木工允清仲を喚び て、彼の五条許言ひ遺る(「梁塵秘抄」口伝集巻第十)

 しかし、これはあくまでもきっかけの一つであって、信西亡きあと、後白河院は自己の力と判断で今様の世界にのめりこんでいく。

註3)
  棚橋氏は、院の寺社参詣や居所の移動は、単なる物見遊山のために行われたのではなく、ヨーロッパ中世の国王の領地巡回に似た政治的効果を狙ったものではないかとする(棚橋光男氏、前掲論文)

註4)
  院政期は、京の町で、祭りの見物等を目的とした「桟敷」が常設され、機能しだした時期でもある。すなわち、芸能を演じるものと見るものとが、これによってはじめて明確に分離したのである。(井上満郎氏「新しい猿楽」、芸能史研究会編「日本芸能史」2「古代−中世」所収、法政大学出版局、1982年、参照)

註5)
  後白河院の今様への執着を仮に単純な民衆の流行への追随としたとき、続く後鳥羽院の和歌への執着をなんと説明すればよいのであろうか。こうした分析の結果は、信西・兼実のだした後白河院は「暗主」であったという結論の再確認に終わるだけであろう。

註6)
  作者の無名化には、数学の微積分の操作を思わせるようなところがある。たとえば、1÷nという演算で、nの数値を無限に大きくしていけば、その商は0.000…、としだいに小さくなる。しかしその分母が特定の数値であるかぎり、商が完全に0になることはなく、無限大という設定によってはじめて0を得る。そのとき、0.000、、、と0のあいだではなにかしら質の転換が生じている。同様に、特定の作者が存在するかぎり、その作品の集まりはどこまでいっても「作者の声」であり、「民衆の声」となることはない。作者を消すことで、一気に「民衆の声」が得られるのである。

註7)
  「梁塵秘抄」巻第二神歌(489)には、「金葉集」に採られた小式部内侍の
大江山生野の道の遠ければ未だふみも見ず天の橋立
の歌が、囃し言葉が付けられることもなく、そのまま採りあげられている。作者も、それが詠まれたいきさつもはっきりしている和歌が、一種の流行歌謡として、作者名をあげずに「梁塵秘抄」に採りあげられていることは、「梁塵秘抄」の構造と深いかかわりをもつのではないかと考えている。

註8)
  鎌倉時代末期東寺の散所法師・非人の管轄・統属を研究した網野善彦氏は、非人蔑視について次のような結論を与えている。これはわれわれの遊女にも大いに参考になろう。

  近世の非人に対する卑賤視を、ただちにこの時期の「無縁」の非人たちにあてはめて 考えることは、やはり誤り、と私は考える。もとより「施行」の対象となり、「法師原」といわれた ような「賤視」を彼等がうけていなかったというのではない。 とはいえ、前述した「職人」としての側面で、非人は供御人等といささかも変らぬ身分にあったと いわなくてはならないし、また「施行」の対象となったことの背景には、文殊菩薩の化身といわれる ような「聖」なる側面のあったことも、考慮しなくてはなるまい。彼等を取巻く「無縁」の世界は、 なお広大であり、それを支える「無縁」の原理の生命力も、まだまだ顕在であった。 それは彼等を賤視された世界に閉じこめようとするものを、ときに圧倒しうるだけの力を持っていたと すらいってよいであろう(網野善彦氏「散所法師について」「中世東寺と東寺領荘園」所収、 岩波書店、1978年)

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