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絵巻物の時空表現
L'expression de l'espace et du temps dans les peintures en rouleau
1) 顕密体制と絵巻物
Les peintures en rouleau sous le regime dirige par les sectes bouddhistes exoterique et esoterique
さきにみた五味文彦氏の天皇と院の領域の違いの指摘によれば、院の領域とは、仙洞(居所)、祇園御霊会(祭礼)、今様(芸能)等と、天皇のハレの性格に対するケの性格を帯びたものとされる(五味文彦氏「院政と天皇」「岩波講座日本通史7中世1」所収、岩波書店、1993年)。これら居所、祭礼、芸能等の領域はすべて緊密に結びついているが、たとえば居所でいえば、天皇が内裏の奥深くに鎮座し、ひとびとに容易に姿を現すことのない神秘の王という側面をになっているのにたいし、院は、内裏から離れた仙洞御所を根拠としながら、熊野や厳島までしばしば足を運び、ひとびとと自由に接触する開かれた王という側面をになっていたといえる。こうしたなかで後白河院時代を特徴づける表現を探るため、われわれも絵画の領域(絵巻物)を少し覗いてみることにしよう(註1)。
絵巻物とは、絵入りの経巻である絵因果経などを先行表現とし、絵と文章(詞書)を交互に記して、鑑賞者が物語(縁起、伝記等)の時間の流れを追うことを容易にした、一種の総合芸術である。
絵巻物というと、文学作品等をわかりやすく要約した民衆的な芸術という印象が生じやすい。確かに、鎌倉時代後半から室町時代にかけて、寺社縁起といったかたちをとおして絵巻物は民衆と接触し、いってみれば通俗化していった。しかしこれからみる院政期の絵巻物は、民衆とは無縁の、朝廷を中心とする少数者のための贅沢な宝であったことを最初に確認しておく必要がある。
そうしたなかで小論が特に注目するのは、ヨーロッパ近代絵画の遠近法とは異なる、絵画史でいっぱんに「逆遠近法」と呼ばれる空間表現と、異なった時間に生じたできごとをひとつの空間に同時に展開させる「異時同図法」という時間表現である。
これらはいったいどのようにして絵巻物のなかに生じたものなのだろうか。まずは先学の指摘をみてみよう。
長巻である絵巻には反復描写の自由が許されているが、同時にこれを誤ると冗長感を生み、画面展開の面白みを失うおそれがなくはない。そこで画家は、不合理、不自然を承知の上で、あえて異時同図の非現実的な構図を創作したのではなかろうか(奥平英雄氏「絵巻物再見」、角川書店、1987年)
こうして奥平英雄氏は、異時同図法を「画面展開の打開策」(前掲書)のための省略法と位置づける。しかしこれはあまりにも「合理的」に過ぎるみかたではないか。小論はむしろ、絵巻物を描いたり、鑑賞した院政期の人間が、こうした表現を「不合理、不自然」と感じていたかを問題にしてみたいのである(註2)。
われわれは、院の居所である蓮華王院(法住寺殿御所)周辺から絵巻物へのアプローチをスタートさせる。先にみたように、後白河院はここに千一体の千手観音(蓮華王)を納め、自己の権力の象徴としたが、この造像活動と絵巻物とのあいだに相互関係は考えられないだろうか。
仏教、なかでも密教系の経典には、千手観音を頂点とする多面多臂すなわち多くの顔(頭)と腕をもつ菩薩や天界の存在が数多く登場し、そうした存在の像や図画が多くつくられている。それらを想像裡の「異形」の存在ととらえるのはある意味で正しいのだろうし、それらの像は、そうした存在をあるリアリティーをもって写そうとしたものといえると思う。しかし人間の想像力がそうした存在を生み出したことのリアリティーにまでさかのぼって考えようとすれば、それらは単なる異形の存在というだけではすまされない。
小論の関心のなかでいえば、たとえば千手観音という多面多臂の菩薩は、あるときは祈り、あるときは癒し、あるときは戦うといった大乗仏教求道者・修行者の人間(衆生)救済の多様なはたらきを時間的に集約してひとつの身体のうえに表現したものと考えることも許されるのではないか。
「時間」を単純に流れ去るものとのみとらえ、(芸術・宗教上の)表現を、流れ去る時間の一点を静止させて特定の存在を描写したものとみなすと、想像裡の異形の存在でしかありえないものも、時間にたいするみかたを変えることで自然な存在(心的なリアリティーをもった存在)へとあり方を変えてくる。
ただ千手観音は、密教特有の変化観音のなかでもいわば第2期に登場したため、先行する諸尊の性格を合わせもっており、必ずしもその性格が読み取りやすいとはいえない。そこで千手観音以前に成立した変化観音をみると、たとえば十一面観音は、同様の変容をやや異なった方向から行っているように思える(註3)。
十一面観音の頭の上には、その名のとおり11あるいは10の異なった顔が小さく付けられ、この観音菩薩の四方をみわたす力とさまざまな容貌(表情)の変化が表現されている。しかし静寂な慈悲からその裏面の大笑(教学上は邪行のものへの蔑みの笑いとされる)にいたるさまざまな容貌は、時間ごとの菩薩の表情あるいは心理の変化を表わそうとしただけのものではあるまい。いやむしろ、それは瞬間瞬間の表情やその裏にある心理がけして喜怒哀楽のそれぞれに割り切れるような一面的なものではなく、本来多面的なもの、人のこころのはたらきは(表層意識であれ深層意識であれ)特定の感情に還元できるような単純なものではなく、じつはすべての瞬間にすべての感情が含まれていることを図像化したものではないか(註4)。
[金剛界曼荼羅の会場]
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四印会
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一印会 |
理趣会 |
| 供養会 |
成身会
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羯磨会
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降三世
羯磨会 |
| 微細会 |
三昧耶会 |
降三世
三昧耶会 |
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これら変化観音をはじめとする多面多臂の尊像が顕密体制下の寺院にひろくみられるという点からしても、院政期のひとびとが人間心理や行動と時間の関係について、われわれとは異なった感覚をもっていたのは明らかだと思う。
またこうした特異な時空感覚の表出は、個々の尊像についていえるだけではない。
密教の世界観を総合的に図像化した曼荼羅のなかでも、たとえば金剛界曼荼羅は、一幅の図のなかで大日如来の智の側面を九つの区画(会場/えば)に分けて同時に表現している(図参照)。平面上に一気に展開するか、右から左へ全体を徐々に見るかの違いはあっても、一個の作物として考えた場合、金剛界曼荼羅は絵巻物と似た造形上の構造をもっているといっていいだろう(註5)。しかも金剛界曼荼羅の九つの区画は、中央の成身会(じょうじんえ=羯磨会<かつまえ>)から降三世三昧耶会(ごうさんぜさんまやえ)まで、上転(修行)、下転(救済)の二つのはたらきにそって配列されてはいるが、これは修行あるいは救済の時間的な流れを単純に追ったものではない。これら九つの区画は、大日如来の智の世界をいわ構造的に表現しようとしたものであり、それぞれの局面が同時にはたらいている、ダイナミックな世界観の表出なのである(註6)。
以上のような同時代の表現(もちろん先行表現でもある)との関係からいって、絵巻物のなかには、密教的思想(発想法)がかなり深く入りこんでいるといえると思う。ただわれわれは、院政期、とりわけ後白河院の時代の絵巻物の制作が、密教的契機(世界観)に基づくものか、あるいはまた新たに興った浄土教的契機(世界観)に基づくものか、ここで性急に断定する必要はあるまい(註7)。密教にしても浄土教にしても、表現の背景などではなく、結局は絵巻物の表現と同じ資格で時代に与っているのではないか(なお浄土思想の時代性については、別項であらためて分析する)。
絵巻物の成立史をもう少し追ってみよう。
絵巻物の存在は、「源氏物語」(絵合巻)のなかですでに言及されているが、その制作がさかんになったのは、院政期とりわけ後白河院時代であった。美術史家・小松茂美氏は、公卿日記等のもろもろの記録により、後白河院が次の8点の絵巻物を描かせたことが明確だとする(小松茂美氏「日本絵巻聚稿」、中央公論社、1989年)。
「保元相撲図絵巻」
「保元城南寺競馬絵巻」
「玄宗皇帝絵巻」6巻
「仁安御禊行幸絵巻」7巻
「後三年合戦絵巻」4巻
「承安五節絵巻」3巻
「年中行事絵巻」60巻
「末葉露大将絵巻」
残念なことに、これらすべては、焼失あるいは散逸して現存しないが、このうち「年中行事絵巻」については模本が残っており、この模本から成立時の面影をしのぶことができる。そして「年中行事絵巻」が描かれたことを手がかりにして、後白河院の治世に絵巻物の制作がさかんになり、現存作品も多いことの背景を探ると、朝廷貴族の質の変化が大きく浮かびあがってくる。
律令政治の衰退期といっても、当時の朝廷は、儀式はもちろん、司法・行政にしても原則としてすべて先例を基準に動いている。貴族の重要な才能は、先例を知悉し、新たな行事や政治を先例にのっとりつつがなく行うことができるということにあった。このため、摂政関白を頂点とする主要朝廷貴族は、子孫へ伝えるための先例集として日記を書き綴っていた。堀河天皇時代の関白師通や、保元の乱で敗死した左大臣頼長は、そうしたタイプの政治家・知識人の典型といっていい。
逆に「中右記」の記手・藤原宗忠による「無才の人」という藤原長実評を思い浮かべて欲しい(註8)。新たな権力者である院およびその近臣は、規範とすべき先祖重代の日記(文献資料)をもたないのはいうまでもない。多くは、漢文で書かれた日記を読みとく能力をも欠いていたのではないか。そこに、日記とは異なるより理解しやすい先例集への需要がおこってくる。鳥羽天皇時代(白河院政期)の永久年間から天永年間にかけて(1113年〜20年)、月々の行事に参加し奉仕する公卿のための指図を図示した「雲図抄」という図録も編まれていた。くわえて、後白河天皇の時代には、燃亡して長いこと再建されなかった大内裏が少納言信西(藤原通憲)のはたらきで再建され、保元三年(1158年)には、長元七年(1034年)以来123年ぶりに、内裏での内宴も復活した。続く相撲節会の再興も35年ぶりである。後白河天皇と信西は、まずこれらの盛儀のありさまを絵画によって後世に残し、長く規範にしようという考えを抱いたのではないか(註9)。
後白河院がこの「年中行事絵巻」を制作した意図は、保元・平治の両度の戦乱に炎上した大内裏を復興し、しかも、朝儀の復活に備えるためのものであったろう。となると、これは絵巻とはいうものの、ほかの文芸作品に取材する、鑑賞本位の絵巻とは、いささか性格が異なる(小松茂美氏、前掲書)
ちなみに、小松茂美氏に従って承安元年(1171年)を「年中行事絵巻」完成の年と推定すると、この制作に関係したメンバーは、
後白河法皇――45歳 (企画)
摂政藤原基房―28歳 (監修)
宰相入道教長―63歳 (詞書清書)
常磐源二光長― ? (絵師)
であった(小松茂美氏、前掲書)。治天の君、博識の若い摂政、保元の乱による失脚にもかかわらず書によって朝廷に再び不動の地歩を築いた老貴族、経歴不明の絵師。朝廷のトップから最下層まで、まさに多彩な顔ぶれといえる。そしてこのように天皇家と下層の芸能スペシャリストとの直接の接触を可能にしたのが院政という政治形態であった。
後白河院はこれに続いて、過去のできごとや物語を次々に絵巻物に描かせ、蓮華王院の宝として秘蔵していった。絵巻物と千手観音という二つの創作活動は、蓮華王院という空間を触媒にして深く結びついてくるのである。
無類の絵巻愛好家たる後白河院が、生涯に手がけた絵巻は、いったい、どれほどであったか。私はすでに、当時の記録のうえに現われるそれらについては、一つ一つ追跡していった。が、闇から闇に葬られた幻の絵巻が、どれほどの数に達したのか、いまにわかには想像も及ばない。知られるように、あの壮麗な蓮華王院の宝蔵に、絵櫃の箱を幾十合もうず高く積み上げようとした後白河院ではなかったか。だが、その壮図は白昼夢にすぎなかった。院の崩御とともに、蓮華王院宝蔵からの流出が始まったのだ。が、ともあれ、この稿の冒頭に掲げた<四大絵巻>をはじめ、「吉備大臣入唐絵巻」「寝覚物語絵巻」「彦火々出見尊絵巻」(現存・模本)や「年中行事絵巻」、「地獄草紙」「餓鬼草紙」「病草紙」を含む六道絵などは、いずれも後白河院芸術サロンに咲いた繚乱の花であった(小松茂美氏、前掲書)
小論では、以下、後白河院政期前後を代表するいわゆる<四大絵巻>のなかから、時間と空間に関して独自の表現を行っている「源氏物語絵巻」「伴大納言絵巻」「信貴山縁起絵巻」をとりあげ、その主要なレトリック(表現方法)がどのように用いられているか通覧していく。残るひとつ「鳥獣人物戯画」も、比喩がどのように使用されているかといった観点から興味深いが、それについては別の機会に考察してみたい。
(以下、「源氏物語絵巻」に続く)
平成14年10月18日
「院政期社会の言語構造を探る」 トップページ
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4)「信貴山縁起絵巻」
5)似絵の時代へ
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