院政期社会の言語構造を探る

絵巻物の時空表現・註

註1)
 以下の絵巻物の分析では五味文彦氏に負うものが多いが、五味氏が絵巻物を一種の風俗史料的に扱い、そこから、その直接の主題や描かれた事物のイコノロジー的側面を読みとろうとしたり、さらには、絵巻の作者や絵巻が描かれた経緯(絵巻のおかれていた客観的状況)に注目していくのにたいし、小論は、あくまでも絵巻物の表現の構造が示す、絵師(あるいは鑑賞者)と表現とのあいだの距離を問題にしていきたいと考えている。

註2)
 「異時同図法」が絵巻物に独自の時間表現の方法といっても、同じ人物を同一画面に二度登場させたり、特定の人物の身体の一部を多重化する表現が、他の時代や文化のなかに全く類例がないわけではない。
 美術史家エルヴィン・パノフスキー(1892−1968年)によれば、たとえば西洋では、1230年頃制作のロマネスク様式によるイクシオンの浮彫(卑猥の寓意)のなかに、「イクシオンの首が二つあるのは、車輪にくくられている体が急速に回転するのを表現しているにすぎない。「イクシオンはぐるぐるまわりながら、自分を追っかけたり逃げたりしている」(オウィディウス、「変身譚」、四の四六一)。事実、この二重像は、十三、十四世紀のドイツの法律書にも類似のものが見出され、その場合も、つづけて素早くいくつかの動作をするように要求された人間が、二つの首と何本かの腕で表現されている」(E・パノフスキー「ルネサンスの春」Renaissance and Renascences in Western Art、1960年;中森義宗・清水忠訳、思索社、1973年)という。
 異時同図法とは、静止した画面のなかで激しい動きを表わすための普遍的表現方法の一つともいえそうだ。

註3)
 千手観音は、先行する十一面観音に、多臂の明王などが合体して成立した観音と考えられ、千手観音の頭上にも十一ないしは二十七の面がついている。したがって、以下の十一面観音に関する考察は、基本的には千手観音にも適合する。

註4)
 意識あるいは表層意識がいわゆる潜在意識によってすべて説明しつくされるものであるならば、意識は、結局単相的なものに還元される。これにたいし、仏教、特に密教などが考える意識や感情とは、大いなる怒りが即大いなる哀れみであるような、容易には「表層」と「深層」の還元を許さないようなものであった。
 また仏教には「唯識」と名づけられた独自の心理学がある。そしてこれは、法相宗として奈良時代にすでに日本にも移入され、藤原氏の氏寺である興福寺を中心に研究されていた。静から動まで、人間心理や行動を一つの身体に封じ込めたすぐれた阿修羅像が、興福寺の所蔵であるのも示唆的である。
 人間心理について、仏教は古くから独自の洞察を行なっていたのであり、それにもとづく造形をすべて近代思想によって解釈できるとすることは、知的な怠慢であるような気がする。

註5)
 絵巻物のもつ、全体を同時にみることはないという鑑賞スタイルにこだわれば、曼荼羅と絵巻物の隔たりは大きい。しかし逆にいえば、絵巻物は、鑑賞しているとき以外は文字どおりコンパクトに巻き込んでしまっておくものであり、全体が時間を封じ込めた一種の玉手箱(タイムカプセル)という感覚でみられていた面もあったのではないか。

註6)
 金剛界曼荼羅の無時間性について、井筒俊彦氏は次のように指摘している。
 「金剛界マンダラは、事物の「元型」的「本質」構造を、深層意識の展開と還元の過程という動的な形に組み替えて形象化する。但し本来的には、すべてが始めから完全に現成しきってそこにあるこの「元型」空間では、過程とはいっても時間的過程ではない。構造的過程である。あるいはまた、すべてが時間的に移り変わっていきながら、しかもその移り変わったその場で、そのまま無時間化されていく、と言った方がいいかもしれない(井筒俊彦氏「意識と本質」、井筒俊彦著作集第6巻、中央公論社、1992年)

註7)
 院政期にはたとえば真言宗に覚鑁(かくばん、1095年頃−1143年)のような理論家・実践家がでるなど、密教的世界観と浄土教的世界観は単純に相互に退けあうようなものではない。覚鑁の思想は「弥陀が我が身に入って弥陀に替えずして大日になる」(櫛田良洪氏「覚鑁の研究」、吉川弘文館、1975年)といったもので、極楽浄土は娑婆世界に、往生は成仏に還元されている。

註8)
 五味文彦氏によれば、「中右記」の藤原長実評は次のように読まれるべきものである。
 「彼の死を記した「中右記」長承二年八月一九日条には「諸大夫昇中納言、多是有才智任大弁也、未曾有無才之人昇納言」とある。「無才」の長実が公卿、それも中納言になったのは白河院との関係を抜きにしては考えられないであろう。一般に諸大夫が公卿に昇るコースは弁官を経るのを常としていたが、顕季も長実もそれなく公卿となっており、以後このように男色関係を通じ、受領を経て公卿となるケースが増えてくるのである」(五味文彦氏「院政期政治史断章」「院政期社会の研究」所収、山川出版社、1984年)

註9)
 もっとも棚橋光男氏は、後白河院と信西の意図が完全に同じだったわけではなく、「信西は決定的に事態を読み違えていた」(棚橋光男氏「後白河院序説」「後白河法皇」所収、講談社、1995年)としたうえで、「年中行事絵巻」は、「かれ(後白河院)の構想する王朝政治社会のグランドデザインを開示したものであったかもしれない」(前掲論文)とする。

註10)
 小松茂美氏が「長秋記」の「中将君」を璋子付きの女房と解釈しているのにたいし、徳川義宣氏は源有仁(三位中将)と解してこの記事を有仁(花園左府)が詞書を担当したとする「源氏秘義抄」と結びつけており、二人の「長秋記」評価の分岐点となっている。同日の「長秋記」記事の原文は次のとおり。
 「参中宮御方、以中将君被仰云、源氏絵間紙可調進、申承由、又上皇仰云、画図可進者、同申承由」
 有仁が同日夜の除目で権中納言となっていること(それは「長秋記」でも「源氏絵」の記事の直前に記されている)、また有仁が右近衛権中将に任じられた同年八月以来の「長秋記」の記事に、有仁を「中将君」と記した例がない(最も多い記述は「三位中将殿」で、他には「三位中将」「三位殿」「中将殿」「聟公」)ことから、小サイトとしては、ここでの「中将君」は有仁ではないと考える(ただし「長秋記」のこの前後の記述には、女房を名前で呼ぶ記事がなく、「中将君」が有仁でないからといって、それを璋子の女房と直結することも難しい。したがって、「中将君」が「中将殿」の書写違いである可能性も現在のところ完全には否定できない)。ちなみに「源氏絵」のことが記載された翌日、有仁の実父輔仁親王が亡くなっているが、その記事以降、師時は有仁を「中納言殿」と記している。
 なお、「長秋記」の記主・源師時の嫡室は輔仁親王の嫡室と姉妹で、師時の伯父・師忠の女。輔仁親王と師時は二重の姻戚関係がある。このため師時は、輔仁親王が撒き込まれた永久元年(1115年)の陰謀事件に連座して篭居しており、輔仁親王一族ときわめて近い立場の人物である。

註11)
 この逆遠近法という名称は、遠近法(正遠近法)を絶対とする暗黙の価値判断を含んでいるため、最近の美術史では、この名称を避けて「心的遠近法」等の名称が使用されることが多い。ただ一見われわれの目に映るままに世界を写し取っているように考えられてきた遠近法自体、実は見えるままに世界を再現しているのではない(なぜならわれわれの網膜像は曲面に投影されたものであり、それの平面への写しかえは、本来幾何学上の不可能命題なのだから。またこうした投影面の湾曲の問題に加えて、われわれは不動の一点からではなく、つねに動く二つの点から世界を見ている等の障害も残る)ということは、美術史ではほぼ共通の理解に達し、幾何学的な正遠近法そのものも擬似的な「心的遠近法」として相対化されつつあるのだから、「心的遠近法」という名称自体、経過的なものであるように思える。
 これらを前提としたうえで、小論では絵巻物独自の末広がりの遠近法の名称として、あえて「逆遠近法」を用いることとする。
 E・パノフスキーは、「個々の芸術上の時代や地域が遠近法を有するかどうかということだけではなく、それがいかなる遠近法を有するかということが、これらの時代や地域にとって本質的な重要性をもつ」(「<象徴形式>としての遠近法」Die Perspektive als "symbolische Form"、1924−25年;邦訳=木田元、川戸れい子、上村清雄、哲学書房、1993年)として、遠近法を成立させた西洋ルネサンス期の絵画と科学的思考(客観主義)の関係の分析を行っており、遠近法に関する具体的な知識のみならず、絵画の表現形式と思想が深い関わりをもつということについても、同書から多くを得た。
 また逆遠近法による構図は、院政期の日本絵画だけでなく、キリスト教のイコンなどにもみられ、異時同図法同様、ある意味では普遍的な表現方法といえると思う。

註12)
 主題を無視して、構図の点だけからこの涅槃図をみることは不当というべきかもしれない。この図は、釈迦の入滅を泰然として見まもる諸菩薩と悲しみを劇的に表出するや獅子との描きわけといった点などから、古来高く評価されてきたものであることを書き添えておく。

註13)
 釈迦涅槃というと、反射的に「頭北面西、右脇を下にして横臥」の姿勢が思いうかぶのだが、応徳三年の「仏涅槃図」は、この常識的姿勢に反して、どう見ても仰向けに横たわっているように思われる。

註14)
 筆者は応徳三年の「仏涅槃図」を平成八年に根津美術館(東京)で開催された「仏教の聖画ーー十二世紀を中心とする平安仏画の精髄」展で実見したが、同様の逆遠近法の構図は「仏教の聖画」展で同涅槃図とならんで展示されたもう一幅の「仏涅槃図」(東京国立博物館蔵、十二世紀末)にもみられた。逆遠近法による牀台の描写は、院政期の「仏涅槃図」に共通の表現だったのかもしれない。識者のお教えを乞う。

註15)
 線遠近法において、視覚から遠ざかっていく奥行方向の線が交わる交点。Vanishing point。消失点の数により、一点透視、二点透視、三点透視にわけられる。
 画面と描かれる対象の主要な面が平行な場合は一点透視となり、対象となる直方体が画面に対し一定の角度をもっているが、視点の高さが対象とほぼ同じため柱など垂直方向の平行線が残る場合が二点透視、垂直方向を含めいかなる面も画面と平行にならない直方体を表現する場合が三点透視となる。 

註16)
 常磐源二光長が仕えていた藤原隆信の母は、美福門院加賀と呼ばれる女性であるが、この人は、隆信の父・為経の没後藤原俊成と結婚し、定家らを産んでいる。すなわち似絵の名人・隆信と定家は異父兄弟なのである。また隆信自身も和歌を詠んでおり、歌人として藤原良経主催の六百番歌合、後鳥羽院主催の千五百番歌合などに出詠している。この時代の絵画の世界と言葉の世界の距離は、われわれが考える以上に近いというべきだろう。小松茂美氏は、光長と為業(歌人で「大鏡」の作者にも擬せられる。出家して寂念と名乗る)・隆信一族の関係を次のように推定している。
「絵師光長は、あるいは、為業側近の臣ではなかったか。これは、あくまでも私の推定にすぎない。が、この仮説を念頭に置いて、ふたたび、さきの為忠一家の家系に眼を注いでみる。例の障子絵に似顔の筆を執った隆信は、為業にとって甥に当たるではないか。その隆信に、絵心の火を注いだのは、いったいたれなのか。また、その芽生えはいつであったのだろうか。まったく根もない茎に花が咲くであろうか。為業の家臣たる絵師常磐源二光長こそ、若き日の隆信に絵の手ほどきを伝授したのではなかろうか。と、私の空想はめぐるのである」(小松茂美氏「日本絵巻聚稿」、中央公論社、1989年)

註17)
 本文ではくわしく触れることができなかったが、五味文彦氏の指摘のように、院政期には<令外官>検非違使の活動が活発化し、それと律令規定との整合性も問題になっている。白河・鳥羽院政期にかけて著述された「法曹至要抄」は、そうした要請などに応じて書かれた律令解釈書だが、例えばその刑事法関係の解釈をみると、著者(坂上明兼と推定されている)は、個々の条文解釈よりも律令規定と検非違使をどう整合させ、検非違使を運営していくかに腐心していることが明らかになる。「法曹至要抄」の刑事関係の条項の一部は、次のページを参照のこと。

註18)
 毘沙門天(多聞天、vaisravana)は顕密仏教の天部に属している。五味文彦氏は、命蓮は「法華経を読み、覚えて、深く信仰する持経者」(五味文彦氏「絵巻で読む中世」、筑摩書房「ちくま新書」、1994年)である如法経聖だと指摘している。

註19)
 散逸した頼道時代の説話集。「鳥獣人物戯画」の有力な作者候補である鳥羽僧正覚猷の父・源隆国の撰といわれ、また「宇治拾遺物語」に先行する物語ともされる。

註20)
 「院の民衆への接近」註5参照。

註21)
 小項の成稿後に刊行されたため本文には反映できなかったが、筆者とほぼ同じ見解を、佐野みどり氏は次のように述べている。
「「信貴山縁起絵巻」延喜加持の巻では、護法童子という少年神の宮中への顕現を語るにあたって、彼を画面の左から登場させる。これは、絵巻画面での動きの左行性という原則に反しており、右から左へと視線を流してきた鑑賞者は、ここで驚きや不思議さを味わうだろう。そして、さらに次の場面へと鑑賞者が視線を動かすと、天翔ける護法童子の姿を見ることとなる。これは童子が宮中へと向かっているシーンであるから、右側が過去、左側が未来という絵巻の先験的な時間軸にも反していることになる。つまりここでは、まるで映画のフラッシュバックのように、物語の時間が逆転して描き出されているのである」(佐野みどり氏「物語る力ーー中世美術の場と構想力」「日本の中世7中世文化の美と力」所収、中央公論社、2002年)

註22)
 「魚の骨的構成」は線遠近法に似ているが、消失点がなく、かわりに中心軸をもつ。
 パノフスキーによれば、これは遠近法的作図において眼の代理をする投影の中心点を設定し、この中心点から放射する視線が形成する円弧を平面上に投影したときに得られる構図である(パノフスキー「<象徴形式>としての遠近法」)。

註23)
 同じようなことは、観音の造形でもみられる。
 浄土教典では観音は阿弥陀仏の脇侍とされており、浄土教系の寺院でも阿弥陀三尊のひとつとして観音が図像化され続けるが、それはもはや千手観音、十一面観音といった異形の変化観音ではない。それを観音が人間化されてくる現象というべきなのだろうか。白洲正子氏は「親鸞・蓮如の功績は偉大だが、仏教美術を衰退させたのは門徒である」(「十一面観音巡礼」、新潮社、1975年)と指摘しており、共感を覚える。

註24)
 「古今著聞集」の同じ箇所を、棚橋光男氏は、「頼朝の政道に対する真摯さと厳しさ、後白河の稚気と破天荒を言うのによく使われる逸話」(「後白河論序説」、前掲書所収)としたうえで、「しかし真実のところ、嗤われていたのは後白河ではなく頼朝の方だったのだ」(同論文)と読む。これに対し、解説者・高橋昌明氏は「ブラックホールの恐るべき重力にひきずりこまれまいとした、彼の慎重にして透徹した判断を物語っているのではないか」(同書解説)と解釈しているが、この部分に関しては、小論は高橋氏の解釈に近い。




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