院政期社会の言語構造を探る

院の民衆への接近
L'approche a peuple d'In

 鳥羽院政末期の混乱のなか、緊急回避の中継ぎ役として、後白河天皇 (天皇在位1155−58年、1192年没)が即位した。
 後白河天皇は鳥羽院の第四子であり、周囲から天皇になることはありえないとされて成長したため、 若いうちから自由な雰囲気のなかで遊芸に親しんでいた。即位後もこの傾向は変わらず、 民衆のなかに興った新しい芸能、特に今様に熱中した。即位後は、 遊女出身の老女・乙前や白拍子などを御所に招いて親しく教えを乞い、 今様家として一家をなしている。また近臣にも今様を学ばせ、承安4年(1174) には延々15晩にもわたる今様合を開いた。今様の集大成「梁塵秘抄」も後白河院の親撰である。このため、芸能史のなかでの後白河院の評価は、次にみるようにきわめて高い。

混沌とした芸能の世界を、宮廷と民間の双方に目を配りながら整理し、後世への継承を図ったのが後白河院であり、その現われが「梁塵秘抄」の編纂であった。その点からすれば、院は芸能史の転換期たるこの時代の流れをほぼ正確に鳥瞰し、整理し、確認を果した人といってよいであろう(山本規子氏「遊女と白拍子」、芸能史研究会編「日本芸能史」2「古代−中世」所収、法政大学出版局、1982年)
 「梁塵秘抄」については別項でもう少しくわしくみるが、今様をはじめとする後白河院の世界は、社会階層を超えた一種の無礼講(遊び)の世界といってもいい。しかし、朝廷の秩序を超越して自由に遊ぶことは専制君主「院」のみに許された特権であり、こうした一見無秩序にみえるものこそが「院の秩序」(秩序の組み替え)であった。こうした点からすれば、今様狂いは充分この時代の政治(まつりごと)たりえているのであり、後白河院は、成長した環境・気質ともに「院」にふさわしい人物であったといえる。    
遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけむ
遊ぶ子供の声きけば、我が身さへこそ動がるれ (「梁塵秘抄」巻第二359)
 子供の声をきくと、無意識のうちにも動き出したくなるという遊び・戯れの精神は、この時代の重要なキーワードといっていいだろう。
 また後白河院は、白河院以来さかんになった熊野への信仰が篤く、譲位後の熊野詣は33回の多くを数える(白河院9度、鳥羽院14−21度)。神話と観音信仰が結合した熊野詣も、今様精進同様、後白河院の民衆文化への接近を示しているといえよう。

 ところで、日本史における古代と中世の大きな分岐点、すなわち、保元・平治の二度の大乱に続く平氏の興隆と滅亡、そしてそれにかわる鎌倉幕府成立によって代表される激動の時代を、後白河院という個人の治世として統一的に論じようとする小論の以下の試みは、平均的な歴史観からすれば常識に反したものとしかみえないであろう。つまり、院(天皇家)を中心にこの混乱の時代を区分していくこと自体、土地領有形態、収税システムなどの「経済」面の変化を重視した実体的な歴史にならされた目からすれば、単なる名目論ではないかと奇異な感じが強いと思う。
 しかし、白河院以来の院政の政治ヴェクトルが、律令政治(朝廷)を棚上げする恣意的な専制主義の方向を向いていることを考えれば、平氏、源氏と続く武士の政権も、社会基盤の変化、つまり中央の寄生的本所・領家(古代的勢力)から武力をもった在地領主(新興勢力)への支配階層の交代という歴史の必然性にそって成立したというだけでなく、基本的には、新たな権力確立を模索する院政のヴェクトルに反したものではないこと、それどころかある程度まで歴代の院の意向を反映して成立したとみなすことができると思う。
 経済史を基盤とした戦後の院政論は、後三条天皇あるいは白河天皇が譲位し、近臣を集めて院庁を開いたという事実から出発して、院政を、古代的支配層間の政権闘争の末期に登場した特異な政治制度としてとらえようとする傾向が強かった。このため本来質的に異なる問題である、反摂関家的傾向をもった天皇の即位と、譲位後の天皇が政治の実権を握る政治形態がはじまったことがおうおうにして直結され、院庁と朝廷とのあいだの権力機構の二重化の評価と、そのなかでの院、天皇、摂関おのおのの新たな位置付けが充分できなかったと思う。
  院政という現象、さらにはそれに続く武士の時代を真に理解するためには、時代の要請にしたがって登場した新勢力によって旧勢力はしだいに駆逐されていくという、進化論的な発想をいったん白紙還元すると同時に、文化現象にまで広がった天皇と院の象徴機能の相違への視線が不可欠であろう。その意味で、居所、祭礼から空間の性格まで、文王としての天皇と武王としての院の領域の違いをあげた五味文彦氏の方向感覚は鋭い。
院政という政治形態、つまり天皇が位を退いてから政治をとることの意味を究明してゆくならば、天皇の武王と文王との二側面が分裂して顕現したものと見なされるのではないか。天皇が二つながら役割を担う難しさから、上皇が武王の役割を担って文王たる天皇を護持する体制がとられたと見られるのである(五味文彦氏「院政と天皇」「岩波講座日本通史7 中世1」所収、岩波書店、1993年)
 ところで今、小論は、後白河院時代を説明するために、「古代と中世の大きな分岐点」という言葉をつかったのだが、実際のところ、西洋史から導入された「中世」という時代区分は、日本史のなかでどれほど有効なものであろうか。疑問に思う。小論は、荘園制の確立という土地領有制度の内実の変化に深く立ち入ることをしないせいもあるが、「古代と近世のあいだ」という以上の「中世」の即自的な定義は非常に困難だ。
 しかし白河天皇が登場した頃から社会の流れに変化が生じ、政治にしても、文化にしても、私的なものの領域が拡大してきたことは否定できない。石井進氏は、院政期が日本社会の重要な転機であったことを次のように指摘しており、こうした問題にひとつの見とおしを与えてくれる。
たとえば荘園制の体制的確立、武士身分の成立、天皇の「神」から「人」への転化、それらはみな、いわゆる「日本中世社会」の基本的構成要素をなすものであるが、いずれもこの院政時代に出そろっている。むしろ「日本中世社会」の基本的骨ぐみはこの時代に形成されたのである(石井進氏「院政時代」「講座日本史2 封建社会の成立」所収、東京大学出版会、1970年)
 また大嘗祭や大祓(註1)のもつ象徴的な意味と「王権―国家」のありかたを関連づけ、平安中期以降、しだいにその本来の意味が失われながら大嘗祭や大祓が儀礼として継続していくことのなかに時代の変化をみた桜井好朗氏の次の論も示唆に富む。
王権―国家の成立にさいして疎外された社会的な諸関係が、王権―国家の時代である「古代」に対して"ゆりもどし"をおこなうところに、私は日本の「中世」を認める(桜井好朗氏「歴史叙述における中世とは何か」「空より参らむ――中世論のために」所収、人文書院、1983年)
 したがって桜井氏は、律令制がどれほど強固であり徹底していたか否かといった制度史的な論議は古代―中世という区分にとっては「副次的な問題」(前掲論文)とし、さらには、
古代とか中世とかいっても、動かしがたい実体が客観的に存在するわけではない。特定の基準にもとづいて選びとられた出来事やその関係を配列することで、まとまった意味を帯びた歴史像を構成するのが、歴史学の論述であり、したがって、古代や中世と呼ばれる時代概念は、基準の設定の仕方によって決まる。その意味で、古代も中世も操作概念なのである(桜井好朗氏「芸能史への視座」「中世日本の王権・宗教・芸能」所収、人文書院、1988年)
と、実体的な歴史叙述のありかたそのものに問題を提起する。
 このように「中世」をどのようにとらえるか、さらには歴史叙述のありかたそのものが問われているなかで「鎌倉時代」をみていこうとすると、この時代を、武士の時代あるいは荘園在地領主階級の自己実現の時代と簡単に言いきってしまうのは難しいように思えてくる。また、武士そのものの定義とからめながら、新しい時代の時間的はじまりや背景を探っていった時にも、結局は院政同様あいまいな部分が多くでてくる。
 源頼朝の征夷大将軍就任、あるいは鎌倉幕府の成立というのは、そのなかでも比較的明確にうちだしやすいターニング・ポイントではあるが、実際には、それらもつながった1本の紐のなかの結び目、もしくは無意識的なものが識閾(seuil)を越えて意識のうえにのぼってくるかどうかの問題に過ぎないのではないか。個々のできごとによって時代が断ち切られたり、一気に変わってしまうわけではないのだ(註2)。私的なものから出発してなしくずし的に公的なものになっていく院庁、幕府といった院政期の制度のあり方がわれわれの時代と根本的に異なる以上、その制度がいつはじまったかという問いそのものが、本質的には無意味といえよう。
 棚橋光男氏(註3)の次の言葉は、以上のようなこの時代のポイントを的確にまとめている。
十一世紀後半から十二世紀前半にかけて、徐々に、律令制とは異なった新たな国家的枠組が形成されていった。それは一挙にではなく徐々に慣習法的に形成されていったことに特徴があり、また、この新たに形成された国家的枠組においては、領主制による国家公権の一定の分有や請負関係の形成を前提として、中央国家機構の簡素性と軽便性・機動性が際立っていた(棚橋光男氏「中世国家の成立」「後白河法皇」所収、講談社、1995年)
 しかしながら院政期を時間にそってみていくならば、この時代にも、できごとがその前後で意味を変えてしまういくつかの審級(instance)の違いがあるのは事実であり、すべての時代区分が無意味となってしまうわけではない。またこの時代における院(天皇家)の役割を強調するからといって、小論は、「中世」のはじまりを、たとえば鎌倉幕府が全権を掌握するきっかけとなった承久の乱の後までずらすことを提案しようというのでもない。筆者としては、むしろ後三条天皇あるいは白河天皇の即位をそのはじまりと考えたい。そこでは、藤原氏が天皇の外祖父の地位を占めることができなかったための権力者の交代以上のこと、あえていえば、社会階層の「読み替え」が生じている。そして当時の社会のなかでこれを行いうる勢力は、天皇家のみであった。
 これ以降、院と同時に政治・文化の檜舞台に登場した最大の勢力は、イデオロギーとしての「民衆」であった。摂関家を頂点とする官僚的な律令貴族制がほころび、私的なものの領域が拡大していく過程のなかで、民衆は、天皇権力の理念的原点として、下級貴族(天皇の乳母の家等)、武士などとともに政治の舞台に登場させられたのだ。
 そして新たな勢力の登場は、次に上級貴族や仏教界をもまきこみ、社会全体を変えていく。これ以降、武士が中世的勢力に変質していくだけでなく、天皇、朝廷、貴族、寺社、民衆、すべての階層が中世化していく。それゆえ、単純な覇者の交代をもって中世のはじまりを論ずるべきではないと考える。
 そうしたなかで、たとえば武士と他の階層の関係の変化をみていくと、同じ時代背景をもって登場したにもかかわらず、武士はしだいに民衆や貴族の抑圧装置として自己を確立していく。院が率先して民衆に接近し、政治・文化エネルギーを社会全体に拡散させていくのに対し、武士が民衆の抑圧装置と化して、新興勢力内での互いの役割の違いが明確化していくのが後白河院の時代であった。
 後白河院は、保元・平治の乱以降、清盛を棟梁とする平氏を近臣として取り立てて権力の中心となるまでに育てあげた。その後の院と平氏の反目は、かつての白河院と関白師通の反目のように、ヴェクトルを異にする政治権門同志の反目ではなく、基本的には同じヴェクトル内の主導権争いであるといえよう(註4)。そうした意味では、社会基盤を同じくする武士の政権といっても、院の近臣から出発した平氏政権と東国をベースにして新秩序確立をめざす鎌倉幕府の間に、明確な政治・文化ヴェクトルの相違がみられる。しかし周知のように、幕府は朝廷を打倒して新政権樹立を目指すのではなく、朝廷と補いあって共存する支配形態を選んだ。
 またこうした動きと表裏一体の現象であるが、この時代にはもうひとつのイデオロギー「時間」も、政治・文化の舞台に登場した。
 白河院以来の歴代の院は、それまでの政治の前例を一つひとつなし崩し的に破りながら新たな政治権力として自己を確立してきた。そしてそれによって、貴族たちの思考の中心をしめていた前例主義、すなわち循環的でスタティックな時間意識に代って、時間とは不可逆的な変化を生じさせる基体であるという意識が社会のなかに生じることとなった。おのおのの院は、こうした新たな時間意識にたったうえで、自己を中心にして、社会を再度時間的に秩序づけていこうとしていたのではないか。
 院政がもたらしたこれら二つのイデオロギー上の変化は、末法思想の影響などとして簡単に片づけてしまえるようなものではない。むしろ、政治の上層に生じたイデオロギー変化こそが、社会のなかに末法思想を浸透させていったのだ。

 社会の激動にもかかわらず、院(天皇家)を中心とする「王朝国家」は「強靭な生命を保ちつづけた」(棚橋光男氏、前掲論文)が、こうしたイデオロギー変化を、院がどのように制度化しようとしていたかみてみよう。平氏滅亡後、後白河院は高らかに政権奪還を宣言するが、棚橋氏によれば、それは次のような内容であった。
1191年の二つの新制は、@政治権力の所在の明示、すなわち院=天皇権力の至上高権(超越権門)としての自己規定、A職の体系・身分体系の整序、B京都市中法の策定、C軍事統率権・検断権の院=天皇権力による観念的掌握とその武家権門への委任、以上四つの性格を包含するものであった。後白河院政期、院領荘園の集積と統合は飛躍的に進んだ。院・天皇権力、すなわち中世王権は、院における最高封主としての性格(荘園制的知行体系の最上位者、秩序付与者、超越権門)と、天皇における律令諸制・官司制・律令法の観念的体現者としての性格(統治権的正統性の観念的源泉)との結合として存立した(棚橋光男氏、前掲論文)
 これをあながち、院周辺の時代錯誤的な幻想と断定することはできない。
 この新制(朝廷の法令)の宣言にも明らかなように、院の関心は民衆のエネルギーを摂取することだけに向けられていたのではない。「愚管抄」によれば
この法皇は男にてをはしましゝ時(出家前)も、袈裟たてまつりて護摩などさへをこなはせ給て、御出家の後はいよいよ御行にてのみありけり(巻第六)
という。出家前から袈裟をかけて護摩を行なうなど、後白河院は日常生活のなかでも密教の行にうちこんでいた。当然のことながら、朝廷や顕密体制を支える寺社勢力を文化政策全体のなかにどのように組み込んでいくかにも、院の大きな配慮がはらわれていた。 

 平治の乱直後の長慶二年(1164年)、後白河院は平清盛に命じて院の御所である法住寺殿の西側に、千一体の千手観音像を安置した蓮華王院(三十三間堂)を創建したが、これは帝王が千体の仏像(尊像)をつくることの功徳が治下の民衆に及ぶという千仏思想に基づく行為であり、後白河院の公的すなわち既存の権力機構をつかった上からの文化政策のひとつとして特筆できる(註5)。
 院政期には、すでに白河院の千体不動、鳥羽院の千体観音および千体阿弥陀の造像活動があるが、後白河院が選びとった千手観音は、胎蔵曼荼羅蓮華部の主尊(蓮華王)であり、蓮華王院が密教思想に基づいて構想されたことは明らかだ。
 現世利益(慈悲・救済)を象徴する諸観音のなかでも千手観音は最大の威力をもつ。その黄金の像を千一体も納める伽藍の主であるというところに、帝王・後白河院の威が遺憾なく示されている。

                                             平成14年2月1日

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