院政期社会の言語構造を探る

「院の民衆への接近」註


註1)
 季節の変わり目である六月と十二月の晦に朝廷が行っていた大祓は、院政期には、ほとんど行われなくなっていた。桜井好朗氏は、大祓を、天石屋戸神話を再確認し、「王権の始原をいったん侵犯することで、王権のもつ神話的機能を再生・強化する儀礼」(桜井好朗氏「日本中世における熱狂」「中世日本の王権・宗教・芸能」所収、人文書院、1988年)とみており、したがってその衰退は、国家そのものがケガレを除去する能力を欠如しだしたことの現われとしている。

註2)
 「鎌倉幕府成立」と簡単にいってしまったが、これについても、何をもって鎌倉幕府とするかという見解の相違にしたがって、歴史学者のあいだで、いつ幕府が成立したかの意見が分れる。やや古いが、石井進氏はこれを六つの説に整理している(「日本の歴史7 鎌倉幕府」、中央公論社、1965年)。
 そうしたなかで、建久3年(1192年)の頼朝の征夷大将軍就任だけは動かしようのない事実であるが、これとても、石井氏によれば、頼朝は就任してからしばらくたって辞表を提出し、それ以降は前将軍という資格で幕府を統率していたといい(前掲書)、将軍=幕府の指導者などという単純な図式は成立しそうもない。

註3)
 歴史学者・棚橋光男氏は、「後白河論」執筆を前に死去しており、小論で引用する「後白河法皇」は、その遺稿集である。氏の構想していた後白河論は、平安時代末期に朝廷から幕府へと権力が移行していったというような従来の線的歴史認識に意をとなえ、「文化の<場>の掌握が意味する高度の政治性」(同書プロローグ)に着目した立体的なものであり、小論執筆にさいしても、そこから多くの示唆をえた。

註4)
 院と清盛の文化ヴェクトルが、前例にとらわれない新文物の摂取という点で同じ方向を向いていたことを示す一例として、嘉応2年(1170年)九月の宋人引見をあげておこう。
 九月二十日、後白河院は福原の清盛の山荘に御幸して直接宋人を引見したが、これに対し右大臣九条兼実は、天皇や院が外国人と引見するのは「我が朝、延喜以来未曾有のことなり。天魔のなすところか」という批判的感想を日記「玉葉」に記している。

註5)
 「愚管抄」巻第五は、後白河院の実子・二条天皇が蓮華王院の落慶供養への出席を拒み、関係者への勧賞もなかったと記している(「長寛二年十二月十七日ニ供養アリケルニ、行幸アラバヤトオボシメシタリケレド、二条院ハ少シモオボシメシヨラヌサマニテアリケルニ、寺ヅカサヘノ勧賞申サレケルヲモ沙汰モナカリケリ」)。ただし、「百練抄」長寛二年十二月の蓮華王院供養の記事の割註には「准御斎会。有行幸」とあり、実際には二条天皇の行幸はあったらしい。
 二条天皇は後白河院の意向を無視してたびたび独自に人事権を行使したほか、皇妃選びに際しても「天子に父母なし」(「平家物語」巻一 二代后)と発言して自己の主張を貫き通したが、この出席拒否の事実からは、天皇側が院のデモンストレーションに対して、敏感になっていたことがうかがえる。
 なお、二条天皇が後白河院に対抗しえた背景として、五味文彦氏は、後白河院即位の問題とも絡む美福門院の影響力の大きさ(二条天皇の背後には美福門院がいる)を指摘している(五味文彦氏「平家物語、史と説話」、平凡社、1987年)。 後白河院の朝廷権力掌握の道は、けして平坦ではなかった。

院の民衆への接近 本文