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後鳥羽院「人も惜し」歌の新たな文脈 註
註1)
本歌取の増加が俊成以降の傾向であることを、小島吉雄氏は次のように指摘している。
「歌学用語。古歌の一句もしくは数句を意識して自分の歌に取り用い、表現効果の複雑化をねらう修辞法。その取られた古歌を本歌という。万葉集に、意識して古歌を作りかえて自分の今の心境を表した歌があるが、そういうのに本歌取の萌芽を見出すことができる。しかし、本格的な本歌取が現れて来たのは平安時代になってからで、古今集には、貫之の<みわ山をしかもかくすか春霞人にしられぬ花やさくらむ>の如く明らかに本歌取と見なすべき歌がある。本歌取が最も盛んになったのは、俊成が本歌取を積極的に支持したからで、新古今時代を形成した歌人の殆どが俊成の影響下にあった。俊成はまだ顕広と名乗っていた頃、すでに「重家卿家歌合」の判詞の中で<ふるき名歌もよく取りなしつれば、をかしきこととなん古き人申し侍りし>と言い、「白氏文集」や万葉集などは少々取り過ぎても差支えないとさえ言っている。これはその歌の師であった基俊の古歌尊重の精神を継承したからであったろう。俊成以前は、たとえば俊頼の「俊頼口伝」や清輔の「奥義抄」等に述べているように、古歌の模倣や類歌に陥ることを嫌って、なるべく本歌取を避けようとする傾向が時代の大勢を占めていた。本歌取を積極的に歓迎したのは、俊成にはじまると言ってよい。本歌取の流行は、一首の歌の内容を複雑化しようとする時代の要求と古典尊重の時代風潮とに大きな関連を持っている。(以下省略)」(小島吉雄氏、『和歌文学大辞典』より「本歌取」項、明治書院、1962年)
註2)
個々の歌の作者が「これは本歌取である」等と明確に書き記しているわけではないなかで、一つひとつの歌が本歌取かどうか断定するのは、石田吉貞氏が述べているように、受けとり手の主観や歌の知識に依存する部分が多く困難なのは事実である。たとえば、後鳥羽院が「人も惜し」の歌を詠んだ建暦二年歌会の折の定家の次のような歌を本歌取といえるであろうか。
思ふこと空しき夢のなか空に絶ゆとも絶ゆなつらきたまの緒
この歌には、「百人一首」で有名な式子内親王の歌
たまの緒よ絶えなば絶えねながらへばしのぶることのよわりもぞする
の影響があるのはすぐにみてとれるのだが、式子内親王の歌のなかの「絶えなば絶えね」という言葉の続け方を、定家が「絶ゆとも絶ゆな」と変更したため、「先行歌から同じ言葉を取り入れる」という意味での「本歌取」の厳密な定義からは逸脱してしまうのである。しかし、「絶ゆ」という動詞を繰り返して使うという趣向は式子内親王の歌の手柄であり、定家がそれを意識的に利用したことも明白である。それが偶然でないという印に、丁寧にも、定家は結句に「たまの緒」という式子内親王の歌のなかの言葉を取り入れている(もし周囲からこの歌が本歌取と受けとられることを避けようと考えたならば、結句の「たまの緒」を別の言葉に置き換えればよい)。文学的な厳密な定義に照らし合わせて定家の歌の修辞法がどのように判断されるかは別にして、定家のなかでは、これは充分に本歌取であるのだ。というか、定家は、本歌取をこのように自由なものと考えていたのではないだろうか。
するとここから、もう一つ次のような事実も見いだされる。『詠歌大概』に記された「近代の歌人が初めて詠んだ構想や特殊な語句は、一句でも注意して自分の歌には詠まないようにすべきである(最近七八十年来の歌人の詠み始めた語句は決して自作に用いてはならぬ)」という定家による歌の禁制(本歌取の定義の一部)を、式子内親王という面識もある同時代人の歌の「構想や特殊な語句」を取り入れることで、定家自身が破っているのだ。定家にとって、この拘束がほとんど実質的な意味をもたないのは明白だ。
結局、『詠歌大概』に記された禁制や定義は、周囲に対する「一応の目安」に過ぎないと理解されるべきであろう。
こうした定家からすれば、後鳥羽院の「人も惜し」の歌は、充分に「本歌取」と受けとられたといっていいように思う。
註3)
「当座の場合が大部分にもせよ、建暦以降圧倒的に内裏関係の活動が盛んになっていることを認めないわけにはゆくまい。とすれば、少なくとも量的に見たときには、承元年間という断層を中間に置いて、それ以前は仙洞、以後は内裏と歌壇活動の中心が移動しているといってさしつかえない」(藤平春男氏、「建保期歌壇の性格」、『新古今歌風の形成』所収、明治書院、1969年)。なお、藤平春男氏は同論考のなかで順徳天皇は建暦元年から承久三年まで32回の歌壇的催しを行ったと指摘しているが、定家はそのうち20回出詠し、出詠回数第四位である。
註4)
藤原家隆(いえたか、かりゅう)。藤原北家、良門流。保元三年(1158年)〜嘉禎三年(1237年)。『平家物語』で猫間の中納言として知られる光隆の息。九条家、後鳥羽院の歌会に数多く出詠した院政期の代表的歌人で、『新古今和歌集』撰者の一人。承久の乱後も隠岐の後鳥羽院と消息を交わし続けた。定家撰の『新勅撰和歌集』では家隆の歌が最も多くとられている。家集は『壬二集』。
「百人一首」には、『新勅撰和歌集』から
風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける
がとられている。
『明月記』建暦二年12月3日条に記されている宮内卿はこの家隆のこと。
文暦二年(1235年)に従二位に叙されているが、その位署が「百人一首」では従二位であるのに対し、「百人秀歌」では正三位であるところから、「百人一首」と「百人秀歌」の歴史的関係を語るときに問題となる人物でもある。
「家隆卿は若かりしをりはいときこえざりしが、建久の頃ほひより殊に名誉もいできたりき。歌になりかへりたるさまにかひがひしく秀歌どもよみあつめたる、おほかた誰にもすぎ勝りたり。たけもあり、心もめずらしうみゆ」(『後鳥羽院御口伝』)
註5)
藤原秀能(ひでよし、ひでとう)。寿永三年(1184年)〜延応二年(1240年)。河内守秀宗の息。北面の武士として後鳥羽院に仕えているうちにその寵をえ、和歌所最年少の寄人となった。後鳥羽院主催の歌会にたびたび出詠、『新古今和歌集』にも17首入集している。家集は『如願法師集』。
後鳥羽院の信任はあつく、建暦二年5月、壇の浦で没した宝剣探索の任を帯びて鎮西に下っている。
承久の乱後に熊野で出家し、如願と名乗った。後鳥羽院が隠岐で主催した「遠島御歌合」等にも歌を送っている。
後鳥羽院の遺骨を隠岐からもちかえった能茂(西蓮)はその猶子。
「秀能法師身の程よりもたけありて、さまでなき歌も殊の外にみばえするやうにありき。まことによみもちたる歌どもの中にも、さしのびたる物どもありき」(『後鳥羽院御口伝』)
註6)
以下に建暦二年十二月の仙洞歌会歌を可能な限り再現してみる。後鳥羽院と定家は家集に二十首がまとまって残されているのでこれから取ったが、家隆と秀能の歌は『新編国歌大観』(角川書店)のそれぞれの家集から、詞書を手がかりに拾い上げた。ただし秀能の歌は十六首しかみあたらず、秋歌三首と雑歌一首が不明である。
また歌会の参加者が一名不明だが、各人の歌を合わせて考えてみると、不明の人物は夏歌十首と恋歌五首、雑歌(述懐)五首を担当したのではないか。つまり、全体は春二十首、夏十首、秋二十首、冬十首、恋十五首、雑(祝を含む)および述懐二十五首からなっていたものと考えられる(不明の人物が恋歌を十首担当して恋が二十首、雑が二十首だった可能性も考えられなくはないが、そうすると一人三題という原則がくずれてしまう)。
<春>
み吉野の宮の鴬春かけて鳴けども雪はふるさとの空 (後鳥羽院)
いにしへの人さへつらし帰る雁など明ぼのと契りをきけん (同上)
あさみどり野原の霞ほのぼのとをちかた人の袖ぞ消えゆく (同上)
近江なる志賀の花園里荒れて鴬ひとり春ぞ忘れぬ (同上)
なれなれて雲井の花を見し春の木の間もりこし月ぞ忘れぬ (同上)
春日山嶺のあさ日の春の色にたにのうぐひすいまやいづらし (定家)
桜麻のをふのうらかぜ春吹けばかすみを分くるなみの初はな (同上)
われぞあらぬ鴬さそふ花の香は今もむかしのはるのあけぼの (同上)
雲路行く雁の羽風も匂ふらむうめ咲くやまのありあけのそら (同上)
あさ緑玉ぬきみだるあをやぎのえだもとをゝに春さめぞ降る (同上)
あらたまの年にまれなる人まてど桜にかこつはるもすくなし (同上)
頼むべき花のあるじもみちたえぬさらにや訪はむ春の山ざと (同上)
みよし野やたぎつ川うちの春の風神代もきかぬ花ぞみなぎる (同上)
いくかへり弥生の空を恨むらむ谷には春の身をわすれつゝ (同上)
色に出でてうつろふ春をとまれともえやはいぶきの山吹の花 (同上)
わかなつむそでのこほりのあさがすみゆきまをわけてはるもきにけり (秀能)
としのあけていつかとまちしわがやどのさくらがえだにはるさめぞふる (同上)
はるさめにあつろふはなのつゆにさへあかぬこころのいろやそふらむ (同上)
たちまよふくもより月をさそひいでてはなにのこれるはるの山かぜ (同上)
やまかぜにさくらふきまきゆくはるのしばしやすらふたにのしたみち (同上)
<秋>
旅人の袖うちはらふ秋風にしほれて鹿の声ぞ聞ゆる (後鳥羽院)
去年よりも秋の寝覚ぞなれにける積もれる年のしるしにやあるらん (同上)
涙かもあやしく秋のくもるかな恨むるからの月や見るらん (同上)
なかなかに思ひ出でてぞ袖はぬるゝなれし雲井の秋の夜の月 (同上)
年ふれば秋こそいたくかなしけれ露にかはれる色は見えねど (同上)
白妙の袖にいく夜かなれぬらん過ぎにしかたの秋の夜の月 (同上)
浜風に今や衣を鶉なく真野の入江の秋の夕暮 (同上)
長月やかげほのかなる有明に衣打つなり岡のべの里 (同上)
しぐれゆく庭の木の葉の色よりもふかきは秋の思ひなりけり (同上)
窓ふかき秋の木の葉を吹立ててまたしぐれゆく山おろしの風 (同上)
よそにきくわがそでよりぞつゆはちるあらぬあきとふをぎのうはかぜ (秀能)
月のもる寝覚のとこのあきをだにしばしもまたぬかぜのおとかな (同上)
月すめばながめもあへぬあきのよをぬればや人のながしといふらん (同上)
くもるとてねなましよはの月かげをそでにのこしてゆくあらしかな (同上)
いとふとてなにやのこらむひさかたの月やどるそでのつゆをはらはば (同上)
はつかりのつばさにかかるしらくものふかきみねよりいづる月かげ (同上)
月になくかりのはかぜのさゆるよりしもをかさねてうつころもかな (同上)
<冬>
白妙のゆふつけ鳥も思ひわびなくや立田の山のはつ霜 (家隆)
神無月今は時雨もしがらきのと山の嵐雲さそふなり (同上)
思ひやるとこよの霜のさむしろにたれかりがねの秋をこふらん (同上)
竜田川紅葉ばとづる薄氷わたらばそれと中や絶えなん (同上)
しぐれつるよひのむら雲さえかへり冬ゆく風に霰ふるなり (同上)
草のはら本より跡もなけれどもなほあらましの庭の白雪 (同上)
ふるさとも槙のはしろしみよしのの雪にいざよふ山のはの月 (同上)
あけぬとや浦のいへしま鳴くちどりまだあまのとは月ぞさしける (同上)
ながきよをおくりもやらぬ片敷の袖に数かくをしの声々 (同上)
ながめつつ年もうつりぬいたづらに我が身世にふる雪のひかりに (同上)
<恋>
おのづからみるめの浦に立つ烟風をしるべのみちもはかなし (定家)
草の原露をぞ袖にやどしつる明けてかげ見ぬつきのゆくへに (同上)
なく涙やしほのころもそれながら馴れずばなにの色か偲ばむ (同上)
秋の色にさてもかれなで芦辺こぐ棚無をぶねわれぞつれなき (同上)
契りおきし末の原野のもとがしはそれともしらじよその霜枯 (同上)
山河に風のかけたるしがらみの色に出でてもぬるる袖かな (家隆)
あらち山やた野の浅茅色付きぬ人の心の峰の淡雪 (同上)
東路のさのの舟ばしさのみやはつらき心をかけて憑まん (同上)
池にすむおし明がたの空の月袖の氷になくなくぞみる (同上)
いかにせむしづのをだまきなれなれていまはま遠の麻のさ衣 (同上)
<雑>
跡たれてちかひを仰ぐ神も皆身のことわりにたのみかねつゝ (定家)
久方の雲のかけはしいくよまで一人なげきの朽ちてやみぬる (同上)
思ふこと空しき夢のなか空に絶ゆとも絶ゆなつらきたまの緒 (同上)
日影さす少女の姿われも見きおいずばけふの千世のはじめに (同上)
ふして思ひおきてぞ祈る長閑なれよろづよてらせ雲の上の月 (同上)
雪をわけておろすいぶきのやまかぜにこまうちなずむせきのふぢかは (秀能)
ふる里にまてとは人にちぎらねど月みむをりは思ひいでなむ (同上)
ささのいほ一夜やどかるかり枕しのばれぬべきかぜのおとかな (同上)
<祝>
あひがたきみよにあふみのかがみやまくもりなしとはひとの見るらん (秀能)
<述懐>
人ごころ恨みわびぬる袖の上をあはれとや思ふ山の端の月 (後鳥羽院)
いかにせんみそぢあまりの初霜をうちはらふほどになりにけるかな(同上)
人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は(同上)
うき世厭ふ思ひは年ぞ積もりぬる富士の煙の夕暮の空(同上)
かくしつゝそむかん世まで忘るなよ天照るかげの有明の月(同上)
たらちねの身をうれへても年はへぬ子を思ふ末も君の千代まで (家隆)
さゆる夜の袖の涙の色ながら春の朝の空やながめん (同上)
何事を思ひしるとはなけれどもあればある世に身をまかせつつ (同上)
いつなれて宿はととへばこたふべきいはのはざまの谷の夕暮 (同上)
しらま弓磯べの山のいつとなく浪にぬるれどひく人もなし (同上)
註7)
家隆の冬歌
ながめつつ年もうつりぬいたづらに我が身世にふる雪のひかりに
は、一見してすぐにわかるように小野小町の
花の色はうつりにけりないたづらにわがみよにふるながめせしまに
の本歌取だが、さして工夫もなく、安易に過ぎるのではないか。
註8)
田中裕氏は、「後鳥羽院御口伝の執筆時期」(『後鳥羽院と定家研究』所収、和泉書院、1995年)という論文のなかで、定家を強い調子で批判する『後鳥羽院御口伝』の執筆が建暦二年(1212年)9月直後であったと推定し、目崎徳衛氏も『史伝後鳥羽院』(吉川弘文館、2001年)のなかで、これに賛意を示している。田中氏の説が成立するならば、建暦二年の後鳥羽院歌会は口伝執筆直後に開かれたことになるのだが、定家を交えての歌会開催という事実と定家を批判する口伝の執筆という行動は矛盾するのではないだろうか。田中氏が口伝執筆時期として建暦二年9月直後を主張するのは、口伝のなかにこの時期に詠まれた慈円の歌(「日吉百首」)が引用されており、執筆時期はこれ以上さかのぼれないものの、これに近い時期ではないかと判断しているためだが、仮に田中氏が主張するように口伝の執筆は承久の乱以前であると考えるにしても、その時期は、歌会の開催後とすべきではないだろうか。
「最勝四天王院障子和歌」選定後、定家がそれに対する批判を述べたことから、後鳥羽院と定家の関係はかなり気まずいものになっていたが、この時点ではまだ最終段階にいたっておらず、建暦二年の歌会は、後鳥羽院の側から定家との関係修復を図ったものと小論は考える。この企画が歌合形式で歌を番えるものではなく、五人が分担して百首という一つの「作品」をつくるという趣向になっているのも、それを裏づけるのではないか。
ただし、後鳥羽院だけでなく、定家もこの「気まずさ」を意識していた可能性はある。たとえば、『明月記』建暦二年11月22日条の記事「近年此事無沙汰、殆廃忘之間、老風情尤可拙、為之如何」を、時間があいたために「廃忘」してしまったと文字どおりにうけとるのではなく、相手が後鳥羽院であるがゆえのためらいととれば、そこに定家の「気まずさ」が浮上してくる。現にこの年、定家は順徳天皇の求めに応じて内裏に和歌を詠進しており、「廃忘」というのは事実にそぐわないのである。こうした視点でこの歌会の定家の「雑歌」を読み返すと、定家としても後鳥羽院に相当の配慮をしているのではないかと思えてくる。
註9)
以下に、講談社学術文庫版『百人一首』(全訳注・有吉保氏、1983年)から、「人も惜し」歌の古注を二つ引用しておく(表記は引用者がことわりなくあらためたところがある。詳しくは原著にあたって確認していただきたい)。
応永十三年(1406年)奥書本百人一首抄(応永抄=現存最古の「百人一首」注釈書)
此御歌は、王道をかろしむるよこざまの世に成行事をおぼしめして、御述懐の御歌也。人もをし人もうらめしとは、世の中の人とりどりにて世もをさまりがたきをよみたまへるにや。又ひとりのうへにても是はよろしと思人の又あしき事のある心也。誠世のをさまりがたきは君の御物おもひなるべき事にぞ侍らん。
享禄三年(1530年)奥書本百人一首抄(経厚抄)
人もをしとは、一切の下民に至るまであはれみおぼすよし也。人もうらめしとは、乱逆の臣ありて宸襟を悩す故の御詞也。あぢきなくとは無道と書。道なきときは聖人は口の気味もなきなど云、それに寄たる御詞なり。下句一天の主にてます故に御物思も人にまさりて深きよし也。賞罰の御志の難有者哉。
註10)
岡本保孝。号・況斎。寛政九年(1797年)〜明治十一年(1878年)。旗本若林包貞の二男として生まれ、幕臣岡本保修の養子となる。和学を清水浜臣に、漢学を狩谷掖斎に学んだ。和泉書院版『百首要解』の編者大坪利絹氏によれば、『百首要解』は天保十年(1839年)に大筋の素稿が成立、天保十四年(1843年)に補訂と書き加えが終了したものと考えられるが刊行されなかった。そのため「百人一首」解釈のなかでの影響度は少ない。内容的には、契沖の『百人一首改観抄』と賀茂真淵(県居翁)の『宇比麻奈備(初学)』の説をもとに、況斎自身の言葉でわかりやすく簡潔に祖述している。
現在の京都御所「紫宸殿」の扁額の書は岡本況斎による。
なお、岡本況斎が後鳥羽院の歌に影響しているとする『源氏物語』須磨の一節の原文は、補註参照。
註11)
「わたしの考えは、江戸末期の国学者、岡本况斎(ママ)の『百首要解』によって打ち砕かれたのである。况斎は言う。「『源氏』、須磨、「かかる折は人わろく、うらめしき人多く、世の中はあぢきなきものかな、とのみ、よろづにつけて思す」とあるを用ひさせ給ひて一首となさせ給ひしなるべし。あぢきなく。心にかなはでせんすべなきをあぢきなしといへり。俗ににがにがしといふに似たりと県居翁いはれき。をしは愛の字をよめり。せんすべなき世を思しつづけ給ふにつきては、おんみずからの行く末いかがあらんと、よろづ御こころまかせ給はぬままになつかしく思す人もあり又うらめしく思す人もあり、と也。」こうなれば話は違ってきて、たちまち『源氏物語』の地平が開けるわけである。『吾妻鑑』の陰鬱な日常のかわりに『源氏物語絵巻』の華麗な幻があらわれると言うほうがもっと具体的かもしれない。とにかく後鳥羽院はこのときみずからを光源氏になぞらえていた。水無瀬の離宮はまだ造営されていなかったけれども、水無瀬殿と須磨とを二重写しにすれば、そういう後鳥羽院の心意気は最も鮮かにとらえられるであろう。おそらく定家がこの歌を「小倉百人一首」に撰抄した動機としては、このような前代への思慕を喜ぶ気持が強く働いていたにちがいない。王朝の古典趣味ないし古典主義によって歌の奥行を増すことは、彼の歌学の基本だったからである。あるいは、文学の伝統を重んじることこそ彼の文学の核心にほかならないからである。」(丸谷才一氏『後鳥羽院』<日本詩人選10>、筑摩書房、1973年)
ちなみに、丸谷才一氏の『後鳥羽院』は、「藤原定家は後鳥羽院の最高の作品としてこの一首を選んだわけだ。(中略)実を言うとかつてわたしはこのことに不審をいだいていた。定家が誰よりも恐れていたらしい当代の上手の、全作品を代表させるに足る歌とは思えなかったからである」と、「人も惜し」の歌をどう理解し受け止めるかから、後鳥羽院論を語り起こしている。
註12)
「『百首要解』には「源氏須磨、かかるをりは人わるくうらめしき人おほく、世間はあぢきなきもの哉とのみ万につけておほす、とあるを用ひさせ給ひて一首となさせ給ひしなるべし」(叢刊19・293頁)と述べられており、『源氏物語』須磨巻を踏まえた歌と規定している(古注にナシ)。後鳥羽院が自らを光源氏になぞらえて詠じたかどうかは別にして、百人一首としてはそこに『源氏物語』世界を読むこともできるわけである。そうすると貴種流離譚という両者の共通項が自ずから見えてくる。あるいは『源氏物語』取りによって、後鳥羽院の思いを韜晦しているとも考えられる(恋歌としての読みも可能)。もっとも光源氏の場合は、その試練を経ることによって後に栄華を獲得するのであるが、後鳥羽院の場合はまさに平安王朝の幕切れとなってしまった」(吉海直人氏『百人一首の新研究ーー定家の再解釈論』、和泉書院、2001年)
註13)
膨大な「百人一首」成立に関する研究を簡単に要約する自信はまったくないが、必要最小限の範囲でそのポイントをまとめてみよう。
@「明月記」の記述の解釈
『明月記』文暦二年(1235年)5月27日条の「嵯峨中院障子色紙形、故予可書由彼入道懇切。雖極見苦事憖染筆送之。古来人歌各一首自天智天皇以来及家隆雅経卿」という記事をどう読み、評価するか。
A「百人秀歌」との比較
「百人一首」の異本と考えられる「百人秀歌」をどう評価するか。
@に関しては、江戸時代中期にはじめて「百人一首」との関係が注目されだしたが、定家が染筆した色紙の枚数が記されておらず、必ずしも百枚の色紙を書いたとは断定できない。またそれ以上に、撰んだ人物が家隆・雅経卿に及ぶということが、後鳥羽院・順徳院で終わる現行の「百人一首」と整合しない。このため、この色紙は「百人一首」に極めて近い別の秀歌撰と考える説が有力である。
Aの「百人秀歌」は昭和26年にはじめて紹介されたもので、「百人一首」とほぼ同じ百一人の秀歌を各一首集めたものである。これと「百人一首」の大きな違いは、a)一条院皇后宮(定子)、権中納言源国信、権中納言藤原長方が撰ばれて、後鳥羽院、順徳院が入っていない、b)源俊頼の歌が違う、c)歌人の配列が違う、d)家隆の位署が違う、の4点。「百人秀歌」は、最後が雅経・実朝・家隆・定家・公経とならんでおり、これとても家隆・雅経で終わっているわけではないが、なによりも後鳥羽院、順徳院の歌が入っていないところから、『明月記』5月27日条に記されている色紙は、この「百人秀歌」かそれに極めて近いものと考えられている。この年の9月10日に従二位に叙せられた家隆の位署が、「百人秀歌」では正三位のままであるというのも、その有力な傍証とされる。
b)c)の問題はしばらくおく。
a)に立ち返ると、「百人秀歌」にはなぜ後鳥羽院と順徳院の歌が撰入されていないのだろうか。この問題は、それぞれの秀歌撰の性格および成立と大きくからむものだが、この点に関して、説は大きく分かれるのである。
いずれの説でも共通するのは、定家撰の『新勅撰和歌集』(文暦二年3月12日奏覧)から約百首の歌を削除させられたことと「百人一首」ないしは「百人秀歌」は密接にからんでくるというもので、『新勅撰和歌集』から削除させられた歌の中心は後鳥羽、土御門、順徳の三上皇の作であり、その無念をはらすため「百人一首」が私的に撰ばれたとする。そこに『明月記』にいう「かの入道」すなわち定家の息・為家の舅・宇都宮頼綱がからんでくるので話は複雑になるが、定家の秀歌撰の構想を知ったか独自に思いついたかして、頼綱は『新勅撰和歌集』奏覧直後に定家に秀歌撰の色紙を依頼する。ところが三上皇の帰京をあくまでも拒否する鎌倉幕府への配慮から、なかば公的なものである「百人秀歌」からは後鳥羽院と順徳院の歌をはずし、純粋に私的なものである「百人一首」に二人の歌を入れたとするのが、諸説の共通点であると思う。
いずれにしても、「百人一首」に後鳥羽院の歌を撰ぶということは、それだけで政治的とみなされる可能性のある行為であり、それだけに、後鳥羽院の歌から何を撰ぶかには、定家は最大の配慮を行ったといえる。
この時浮上したのが、本歌取ということで定家との良好な関係を象徴し、かつ百首歌の巻末部にふさわしい感懐をたたえた「人も惜し」の歌だったのではないか。「百人一首」に接近するとき、われわれは、定家のなかの政治性と非政治性のこうしたぎりぎりの葛藤を細部まで読みとる必要があろう。

後鳥羽院「人も惜し」歌の新たな文脈 本文
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