院政期社会の言語構造を探る

〜拾遺 後鳥羽院「人も惜し」歌の新たな文脈〜
Nouveaux contexte d'un waka de Gotoba-in
   
「百人一首」の謎、私的解明  如月

 後鳥羽院の和歌のなかで最も有名なものの一つに、「小倉百人一首」(以下、単に「百人一首」と記す)にとられた
人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は
の作がある。この歌の解釈、そしてこの歌が「百人一首」に採られた背景の研究は、「百人一首」享受の歴史とともに古く、室町時代から現代にいたるまで、多くの人が想像をたくましくしてきた。ところで私は、この歌は藤原定家が建久元年(1190年)に「花月百首」のなかで詠んだ
あぢきなく物おもふ人の袖のうへに有明の月の夜を重ねては
の強い影響下にあり、実質的に「本歌取」といえるのではないかという事実を新たに見いだすにいたった。そこで、以下、従来必ずしも明らかにされているとはいえない「人も惜し」の歌が詠まれた経緯を検証し、そこから、この歌はほんらいどのように読まれるべきかをさぐってみたい。
 この歌、そしてこの歌の作者である後鳥羽院をどのように受け止め評価するかは、「百人一首」成立史とも密接にからみあう重要な問題であり、ささやかなものではあるがこの「人も惜し」の歌の背景検証が、謎につつまれた「百人一首」成立史をめぐる論議に新たな地平を切り開いてくれるのでないかと考えている。

1)本歌取とは

 周知のように、本歌取とは、先行する和歌(本歌)の言葉を、本歌からつかず離れず取り入れて新たな和歌を仕立てあげ、これによって使用する文字数が31字に限定された和歌の世界を拡大していく手法である。たとえば『和歌文学大辞典』(明治書院、1962年)によれば、「古歌の一句もしくは数句を意識して自分の歌に取り用い、表現効果の複雑化をねらう修辞法」(小島吉雄氏執筆)とある。
 作者の個性を重視する現代の視点からすると幾分マニエリスム的な感じがしないでもないが、歴史的にみると、この手法は古典を重視する立場から藤原俊成によって積極的に支持されたのをきっかけに実作が増え(註1)、続く定家によって院政期歌壇に確立・定着されている。石田吉貞氏によれば、本歌取が「画期的に盛になったのは正治の頃からで、その中心となったのは定家である」(『藤原定家の研究』、文雅堂銀行研究社、1957年)といい、また藤平春男氏も、「本歌取を詩法として最も重要視し方法的に確立したのは藤原定家」(『新古今とその前後』、笠間書院、1983年)とする。
 定家自身も本歌取についていろいろ書き記しており、それによれば、「詞は古きをしたひ、心は新しきを求め、及ばぬ高き姿をねがひて、寛平以往の歌にならはば、おのづからよろしきこともなどか侍らざらむ。古きをこひねがふにとりて、昔の歌の詞を改めずよみすゑたるをすなはち本歌とすと申すなり」(『近代秀歌』)とされ、具体的には次のように行われるべきものとされた。
近代の歌人が初めて詠んだ構想や特殊な語句は、一句でも注意して自分の歌には詠まないようにすべきである(最近七八十年来の歌人の詠み始めた語句は決して自作に用いてはならぬ)。古人の歌については、しばしばその歌詞を用いて歌うことが、すでに習わしになっている。ただし、古歌の歌詞を用いて新しい歌を詠むときに、本の歌の五句のうち三句にまで及んで用いるのは、取り方が多すぎてそれでは新作の新しみがない。二句を越えること三、四字くらいまでは許容できる。なお、その問題について考えると、古歌と同様の場面をとらえてその古歌の語句を用いて歌うのは、たいへん構想が浅い(桜を歌った古歌の歌詞を用いて桜を歌ったり、月を歌った古歌の歌詞で月を歌うような詠み方)。四季に部類される古歌の歌詞を用いて恋歌や雑歌を歌うとか、あるいは、恋歌や雑歌の古歌の歌詞を用いて四季の歌を詠むとか、このようにすれば、古歌の語句を用いるうえでの模倣になりやすい難点が解消するであろうか(「詠歌大概」、引用は<『日本古典文学全集50 歌論集』、小学館>所収の藤平春男氏の現代語訳による)
 これを簡単に要約すれば、本歌取とは、古歌の二句前後を取り込んで新たに歌を詠むことであり、本歌が四季の歌であれば恋歌や雑歌にするなど、主題を変えることが望ましいということになろう。
 定家と後鳥羽院が同じ古歌を本歌取した有名な例があるので、参考までに以下に掲げておく。
あし引の山鳥の尾のしだり尾のながながし夜を独りかも寝ん  (柿本人麿/本歌)
ひとりぬる山鳥の尾のしだり尾に霜おきまよふ床のつきかげ  (藤原定家)
さくら咲くとほ山どりのしだり尾のながながし日もあかぬ色かな (後鳥羽院)
 定家の歌も後鳥羽院の歌も、古風な人麿の歌を前提にして、それを秋の夜、春の日という異なったイメージに転換していく意外さに妙味がある。
 ただし、一般に本歌取という場合、どこまでを類似といい、どこからを本歌取とするか難しいのも事実で、人によって解釈がわかれることもある。またこの「あし引の」の歌の場合、本歌が非常に有名なので、これを本歌取した歌はすぐに指摘できるのだが、勅撰集にもれた無名の歌や同時代人の歌を本歌とする場合、仮に本歌取していても本歌が見つからず、ある歌が本歌取であることが見過ごされてしまうケースも少なくない。これを防ぐためにも、本歌は原則として有名な古歌であることが要請されているのであるが、後鳥羽院の「人も惜し」の歌は、同時代人の歌を本歌としたケースの一つではないかと考えられるのである。
 そこで、上にあげた定義や実作を前提として定家の「あぢきなく」の歌と後鳥羽院の「人も惜し」の歌を比較してみると、「人も惜し」の歌は、定家の歌の初句および二句の「あぢきなく物おもふ」という言葉を取り込んだうえでそれを二つに分けて三句、結句に配置し、たくみに再構成していることがすぐにわかる。また「人」という言葉も定家の歌から受け継いだ重要なキーワードといっていいだろう。用いている言葉のうえから、後鳥羽院の歌は、定家の歌の強い影響下にあることが理解できる。しかしながら、「人も惜し」の歌が定家の歌の本歌取であるということは、管見のかぎり室町時代に成立した古注から現代の注釈にいたるまでまったく指摘されていない。たしかに、ある歌の「本歌を定めることは困難」(石田吉貞氏、前掲書)ではあるのだが、この歌に関する限り、定家の歌の本歌取であるということは、用語からみて明確に断言していいのではないだろうか。
 また、こうした観点から「人も惜し」の歌の主題をみると、定家の歌の「月」(四季)を「述懐」(雑)に変更しているのも注目される。
 後鳥羽院は本歌取の基本を忠実に守り、本歌取の見本のような歌を仕立てているのである。
 (ただし定家の歌論書『詠歌大概』によれば、「最近七八十年来の歌人の詠み始めた語句」を本歌取することは禁じられており、後鳥羽院の歌はこの禁則に抵触する。註2

2)建暦二年歌会開催の経緯

 次に、「人も惜し」の歌が詠まれた建暦二年(1212年)十二月の後鳥羽院の歌会がどのようなものだったかをみてみよう。
 承元元年(1207年)の「最勝四天王院障子和歌」選定後、後鳥羽院の和歌に対する関心は急に衰え、承元年間には、四年9月の「粟田宮歌合」ぐらいしか目立った活動はない。
 かわって建暦元年(1211年)からは順徳天皇の内裏での歌会が急にさかんになるのであるが(註3)、建暦二年の歌会は、後鳥羽院としては実にひさしぶりの催しで、五人の歌人から二十首ずつの歌を召し、それを合わせて百首歌にしようという新機軸がうちだされた。後鳥羽院自身も二十首の歌を詠んだほか、定家、藤原家隆(註4)、藤原秀能(註5)ほか一名に下命。後鳥羽院の分担は春五首、秋十首、述懐五首。定家は春十首、恋五首、雑五首を詠進。家隆の担当は冬十首ほか(註6)。後鳥羽院は、和歌において「君臣合体の儀」を実現しようとしたのではないか、とさえいえそうな趣向である。
 この歌会については、定家の日記『明月記』に詠進の経緯が記してあるので、それを拾い読みしてみる。
「申時許清範朝臣奉書給題三首、可詠進和歌廿首者、近年此事無沙汰、殆廃忘之間、老風情尤可拙、為之如何」(『明月記』建暦二年11月22日条)
「和歌今日可進由重仰之、即如形書連進上已了、老風情尽一首不尋常、但又不可渋之」(同前、12月2日条)
「宮内卿送昨日歌草、被之全玉声、弥増心中恥了」(同前、12月3日条)
「依召参院、一日歌御製以下被書連可立次第由、清範朝臣仰之、但夜前書連之云々、其次第無可直事、仍返之、即奏聞清書云々、愚歌尋常之由、有御気色云々、為面目」(同前、12月5日条)
 これによって11月22日に後鳥羽院から下命があり、12月3日に後鳥羽院自身が読み上げて披露、5日に奏聞・清書したということがわかる。
 定家によれば、「近年この事(和歌詠進)の沙汰がなく、ほとんど廃忘していた」ところ、にわかに院からの命が下った。このため尋常ではない作もあり、定家としては不本意な出来だったが、たびたびの催促があり不本意なまま歌を進上している。
 進上された歌はすべて後鳥羽院の「玉声」で披露され、定家としては「恥かしい気持ちがいやます」ばかりであったが、院は定家の歌を気に入り、定家も「面目」をほどこした。
 しかし、この五人二十首という変わった試みはなぜ行われたのであろうか。そのことを考えるために、今度はその折に披露された後鳥羽院の歌をみてみよう。

3)建暦二年歌会の後鳥羽院和歌

 この折後鳥羽院が詠んだ歌は次の二十首。
 <春>
み吉野の宮の鴬春かけて鳴けども雪はふるさとの空
いにしへの人さへつらし帰る雁など明ぼのと契りをきけん
あさみどり野原の霞ほのぼのとをちかた人の袖ぞ消えゆく
近江なる志賀の花園里荒れて鴬ひとり春ぞ忘れぬ
なれなれて雲井の花を見し春の木の間もりこし月ぞ忘れぬ
 <秋>
旅人の袖うちはらふ秋風にしほれて鹿の声ぞ聞ゆる
去年よりも秋の寝覚ぞなれにける積もれる年のしるしにやあるらん
涙かもあやしく秋のくもるかな恨むるからの月や見るらん
なかなかに思ひ出でてぞ袖はぬるゝなれし雲井の秋の夜の月
年ふれば秋こそいたくかなしけれ露にかはれる色は見えねど
白妙の袖にいく夜かなれぬらん過ぎにしかたの秋の夜の月
浜風に今や衣を鶉なく真野の入江の秋の夕暮
長月やかげほのかなる有明に衣打つなり岡のべの里
しぐれゆく庭の木の葉の色よりもふかきは秋の思ひなりけり
窓ふかき秋の木の葉を吹立ててまたしぐれゆく山おろしの風
 <述懐>
人ごころ恨みわびぬる袖の上をあはれとや思ふ山の端の月
いかにせんみそぢあまりの初霜をうちはらふほどになりにけるかな
人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は
うき世厭ふ思ひは年ぞ積もりぬる富士の煙の夕暮の空
かくしつゝそむかん世まで忘るなよ天照るかげの有明の月
 この春・秋・述懐という後鳥羽院の分担はどのような経緯で決まったのだろうか。あえて大胆に推測すれば、後鳥羽院は詠みやすい題だけを最初に撰び、定家らに下命する前にあらかじめ自分の歌を準備しておいたのではないか。四季のなかでも春と秋は詠み込める景物が多く、また情感を込めやすいので、夏と冬より秀歌が生まれやすいのである。定家もさることながら、冬歌を十首もわりあてられた家隆の困惑はさぞかしであったと思われる(註7)。ともかく、院と他の四人は、条件を同じくしての競作ではあるまい。
 個々の歌をみると、後鳥羽院の二十首をつうじて本歌取が非常に多いのだが、
旅人の袖うちはらふ秋風にしほれて鹿の声ぞ聞ゆる
という秋歌は、本歌取どころか定家が建久七年(1196年)に詠んだ
旅人の袖ふきかえす秋風に夕日さびしき山のかけはし
の丸取りといった感じがする。
 ともかく、歌会開催の時点で後鳥羽院が定家の歌を強く意識しているのは、この「旅人の」の歌ひとつからも読みとれるが、この歌と比較すると、もう一方の本歌取「人も惜し」の歌は、本歌から取り入れた言葉がたくみに再配置され、非常にできがいい。
 この点からさかのぼって歌会開催の意図を推測すると、後鳥羽院は「人も惜し」の歌を思いついたがゆえに、定家を交えての変則的な歌会を企画したのではないかとさえ思えてくるほどである。少なくとも、この歌を定家の面前で披露して定家の感想をききたい、定家を喜ばせたいというのは、この歌会開催の柱のひとつだったと考えていいのではないか。後鳥羽院は気まぐれな反面、そうした無邪気なところがある人だ。したがって、定家がほどこした「面目」の内容は、定家自身の歌のできばえよりも、この後鳥羽院の歌にあると考えたい。この歌会と後鳥羽院の「人も惜し」の歌は、間もなく終止符を打つことになる定家と後鳥羽院の良好な関係の最後の輝きのひとつとして、定家の心中に深く刻み込まれたのである(註8)。
 二人の関係が和歌をめぐって決裂し、承久二年(1220年)、後鳥羽院によって定家が勅勘をこうむり、その後二度と会うことがなかったのは「歴史」が伝えるとおり。

4)「人も惜し」歌解釈の新たな文脈

 しかし「人も惜し」の歌は、以上のような詠歌の経緯が閑却されたまま、後代、ひたすら「百人一首」のなかの作として読まれ続けてきた。そしてこの歌に託された後鳥羽院の心情は、歌が詠まれてから九年後の承久三年(1221年)におこる承久の乱とのかねあいで、「乱につながる幕府への憤懣を詠み込んだもの」等と解釈され続けてきたのである(註9)。このため、数ある後鳥羽院の歌のなかから「百人一首」の撰者はなぜあえてこの歌を撰んだのか、こうした特殊な述懐の歌を撰んだ背後には、「百人一首」には単なる秀歌撰をこえた特別な意図が隠されているのではないか、といった新たな謎まで生み出すこととなった。こうなると、文字どおり謎が謎を呼ぶとしかいいようがない。
 この謎を解明するためには、原点にさかのぼって、本歌である定家の「あぢきなく」の歌から、後鳥羽院の歌の解釈をはじめなくてはならないだろう。
 まずは定家の歌の解釈であるが、もっとも標準的なものとして、『訳注藤原定家全歌集』(河出書房新社、1985年)のなかの久保田淳氏の解釈を掲げておく。
心楽しまずに物思いに沈む人の袖に宿る涙の上に、有明の月の光がさし、幾夜も重ねたら、どんなにいよいよ悲しいことか
 この本歌を前提にして、後鳥羽院の歌は、文字どおり
あの人がいとおしい、またあの人が恨めしい。心楽しまずに世のなかのことを思っているばかりに、物思いに沈んでいるこの身は
と解すべきだと思う。ここには後の承久の乱の予感などはなく、むしろ、本歌である定家の歌がもともともっていた仮構の物語性のうえに、仮構の「あぢきなさ」を再展開させてみたと読むのが至当であろう。
 一つの考えとして、後鳥羽院の歌と定家の歌を時間を逆転させた贈答とみて、(後からできた)後鳥羽院の歌に定家の歌が(あらかじめ)応えていたとすると、そこには非常に美しいドラマが浮かび上がってくる。つまり、後鳥羽院が発した漠然とした「あぢきなさ」をうけて、定家は、そこに有明の月の光がさしこんできたら、あぢきなさはいやますばかりと返しているのだ。
 こうなると、後鳥羽院の歌は超絶技巧の本歌取というしかない。
 その意味で、江戸時代末期に書かれた「百人一首」の注釈書の一つ『百首要解』(「百人一首注釈書叢刊」第19巻として和泉書院より刊行)のなかの岡本況斎(註10)の説は、小論とは方向が違うが、「人も惜し」の歌がほんらいもっていたこうした物語性をたくみに探りてたものといえるだろう。つまり岡本況斎は、「人も惜し」の歌は「源氏物語」の須磨の段の言葉を取り入れたものだと次のように記しているのである。
源氏須磨、かかるをりは、人わろくうらめしき人おほく、世間はあぢきなきもの哉とのみ、万につけておほすとあるを、用ひさせ給ひて、一首となさせ給ひしなるべし
 この説は、丸谷才一氏が注目している(『後鳥羽院』、筑摩書房、1973年;註11)ほか、最近吉海直人氏もあらためて取り上げ考察している(『百人一首の新研究ーー定家の再解釈論』、和泉書院、2001年;註12)。
 「人も惜し」の歌が定家の「あぢきなく」の歌の本歌取であるという事実は、この『百首要解』の方向での読みを補強する。いや、『百首要解』のようにわざわざ『源氏物語』のなかから特定の言葉をもちださなくても、定家の歌の本歌取ということで、定家をとおして『源氏物語』の世界が間接的に言及されていると指摘することができるのではないか。
 たとえば、「あぢきなく」の歌が詠み込まれている「花月百首」の月の歌のなかには、
あづまやのまやのあまりの露かけて月のひかりも袖濡しけり
よもぎふのまがきの虫のこゑわけて月は秋とも誰かとふべき
と『源氏物語』のなかの巻名を詠み込んで『源氏物語』を直接連想させる歌が含まれているのであるが、この歌を分析した久保田淳氏は、
中世歌論において、本歌取の一種に、しばしば古歌に問答した体なるものを説いているのであるが、これは言ってみれば、古歌に問い掛けた形を取っているのではないか(『新古今歌人の研究』、東京大学出版会、1973年)
と述べているのである。
 「人も惜し」の歌の解釈史のなかで問題となってきた「人」とは誰であるか、初句の人と二句の人は同じであるのか違うのかという点も、こうして「人も惜し」の歌を定家の歌の本歌取という枠のなかに収め取ることで、解消するように思える。つまり、この歌に出てくる「人」とは、ほんらい特定の個人ではありえないのである。

5)新たな「百人一首」成立史に向けて

 これまでも述べてきたように、承久の乱が「人も惜し」の歌の運命を一変させた。
 乱後の京に和歌の最高権威として君臨した定家は、後鳥羽院が下命した『新古今和歌集』に続く第九番目の勅撰集撰進を依頼されるが、鎌倉幕府をはばかった前関白・藤原道家の意向で、その勅撰集『新勅撰和歌集』から後鳥羽院の歌など百首強の歌を削除しなくてはならなかった。
 一般には、その無念の思いが、後鳥羽院の歌を載せた「百人一首」の成立につながるとされる。
 「百人一首」の成立をめぐる諸研究についてはここではふれない(註13)。
 ただ、「人も惜し」の歌が定家の歌の本歌取であるということは、「百人一首」のなかにあえてこの歌を撰入した撰者の心情を伝えてあまりあるものであり、かつその撰者は定家自身でしかありえないだろう。 
 ちなみに、「百人一首」のなかで後鳥羽院の歌の配列は第99番目であるが、「花月百首」のなかの「あぢきなく」の歌の配列も第99番目である。私はこれはたまたまの偶然の一致と考えるが、「百人一首」を単なる秀歌撰ではなく有機的な配列をもつ百首歌の特殊形態とみれば、その第99番目は述懐歌にふさわしい位置であり、「あじきなく」の歌も「人も惜し」の歌も、内容的に百首歌の第99番目にふさわしいと定家によって考えられていた可能性は高い。
 たとえばこれを、
見渡せば山もと霞むみなせ川ゆふべは秋と何思ひけむ
ほのぼのと春こそ空にきにけらし天のかぐ山霞たなびく
といった後鳥羽院の他の歌に差し替えたとたん、百首歌全体のしみじみとした収束感は吹き飛んでしまう。要は、「百人一首」のなかの第99番目という位置は、歌を選ぶのである(ちなみに、近年の「百人一首」解釈では、巻末の後鳥羽院、順徳院の人選および歌の内容は、巻頭の天智天皇、持統天皇に対応しているとされることが多い)。そしてそこまで考えたとき、「人も惜し」という選択がいかにたくみであるかがわかる。
 「百人一首」が定家の没後秘され続けた結果、室町時代にその享受と解釈の歴史がはじまったときには、「人も惜し」の歌が定家の歌の本歌取であるということもその撰入の経緯も忘れられ、「人も惜し」の歌も「百人一首」も、承久の乱とのからみで、定家が思いもしなかったような意味を与えられることとなった。私には、現代の「百人一首」解釈もその呪縛から完全に解放されているとはいえないように思える。
 しかし「人も惜し」の歌が定家の歌の本歌取であるということ、そして定家がこれを後鳥羽院の秀歌として撰んだことは、晩年の定家の後鳥羽院評価という問題の重要なポイントなのではないだろうか。したがって、今後の「百人一首」成立史は、この新視点を出発点として再構築されていくべきではないかと考える。


 平成15年4月14日

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