院政期社会の言語構造を探る

第一部小結ーー承久の乱後の歌壇

(このページに記していることは、未だ下書き段階の不十分なものですが、小論『院政期社会の言語構造を探る』で述べていることの方向性を知って頂くために仮アップします。)
 承久の乱後、幕府によって仲恭天皇が廃位され、後鳥羽・土御門・順徳三上皇の配流と承久の乱に賛同した貴族の処罰・処刑、家領没収が行われた。
 仲恭天皇に代わっては、すでに出家していた後鳥羽院の兄・行助法親王(守貞親王)の皇子が即位し(後堀河天皇)、行助法親王が後高倉院として新たに院政を開始するよう要請される。
 九条道家は乱とは無関係であったが、仲恭天皇の叔父だったことから摂政をとめられ、代わって近衛家から家実が後堀河天皇の摂政に返り咲く。また、岡見正雄氏、赤松俊秀氏によれば、
慈円は後鳥羽上皇の倒幕計画が失敗することを信じてそれに反対し愚管抄を著わしたのであるが、予言の通り上皇側が敗北し、慈円が最も頼みとした仲恭天皇・九条道家の失脚という事態が生ずると、慈円の落胆失望は見る眼も痛々しいほどであった(岡見正雄氏、赤松俊秀氏『愚管抄』補注、岩波書店「日本古典文学大系」、1967年)
という。
 乱によって急浮上した貴族は、後鳥羽院に拘禁されていた西園寺公経である。公経の父・実宗は、壇ノ浦から連れ戻されて不遇だった守貞親王の著袴の儀、御書始の儀、元服の儀にくりかえし重要な役割を果たしており、西園寺家は、もともと後高倉院との関係が深かった。公経と後堀河天皇は従兄弟でもある。
 しかし、後鳥羽院が隠岐に流されたのち、なんの準備も心構えもなく突然朝廷のトップにたった後高倉院およびそれを補佐すべき摂政・近衛家実の新体制には、独自の新政策を打ち出す能力はなかった。
後高倉院・近衛家実の時期には、目新しい施策はほとんどみることができない。ただ単に後鳥羽上皇による新儀を否定し、伝統への回帰が図られているばかりである。しかし現実的な新しい為政者である幕府の台頭は、観念的な伝統の強調を空疎なものにしている。たとえば朝廷経済の破綻が端的に物語っているように、他に強制力をもたぬ朝廷の意思を受容する者はなく、この状態のままで朝廷が世上の混乱に対処しようとしても、それは意味のない一方的なよびかけに終始したに違いない。(本郷和人氏『中世朝廷訴訟の研究』、東京大学出版会、1995年)
 この間、嘉禄元年(1225)鎌倉の三寅が元服して頼経を名乗り、翌年正月、正式に征夷大将軍となる。くわえて公経のはたらきなどもあって、安貞二年(1228)、家実を退けて九条道家が関白となり、以後朝政はふたたび九条家によって掌握される。翌寛喜元年(1229)、道家の娘墫子が後堀河天皇に入内する。墫子はのちに四条天皇を生み、道家に、摂関家としては道長以来の天皇の地位をもたらした。

 ここで再度、そして小論としては最後に歌壇に目を転じよう。
 承久の乱後の歌の世界は、天皇家の手を離れて、はじめて権威をもった歌人=定家が采配する時代となった。しかしこれは真の意味の歌の勝利ではありえなかった。逆に、天皇家という中心を失った歌壇は、急速に空洞化し、歌作も減少していく。
 こうしたなかで、寛喜二年(1230)、定家は道家をとおして後堀河天皇に新たな勅撰集撰集の意向があることを知らされる。承久の乱後核心を失った歌壇の疲弊を考慮して、「今はその時期ではない」といったんはそれを否定した定家であるが、貞永元年(1232)に天皇の勅命を受けると、ただちに九番目の勅撰集編纂を開始する。『新勅撰和歌集』である。その年の十月、譲位直前の後堀河天皇に序と目録を奏覧して勅撰集としてのかたちを整え、その直後には、任命されたばかりの権中納言を辞し、万全を期して撰歌作業に臨んでいる。
 かくて『新勅撰和歌集』編纂はすべて順調に開始されたかにみえた。『新古今集』と異なり、今度は定家の独撰である。隠岐では、定家独撰の新しい勅撰集がどのようなものになるかと、後鳥羽院が静かに様子をうかがっているが、京の歌壇で定家の権威をはばめる存在はもはや誰もいない。
 しかし『新勅撰和歌集』は、ここから数奇な運命をたどり、時代に翻弄されていくことになる。
 つまずきの最初は、勅撰下命者後堀河院の突然の死である。天福二年(1234)、千五百首の歌を集め、撰集がほとんど終了したやさきにこれをきいた定家は、落胆のあまり手元の草稿を燃やしてしまう。これを救い出したのは九条道家であった。彼は、別の草本を探し出して、定家に再考をうながす。
 しかしその十一月、定家は突然道家に呼び出され、道家とその子で四条天皇の摂政となっていた教実の前で、歌の入れ替え、すなわち約百首の歌の切り出しと、新たに何首かの歌を追加するよう厳命される。この時切り出された歌が、幕府への反逆者である後鳥羽、土御門、順徳三上皇の歌であったのはほぼ明らかである(定家は三上皇の歌を入れなければ時代の総合的な文化的達成である勅撰集編纂事業は意味をなさないと考えていた)。歌は、定家や朝廷歌壇構成者が考えもしなかった方向で、権力に決定的に敗れたのである。
 武力によるこうした文化の蹂躙を予知していたのは、おそらく後鳥羽院だけだった。だからこそ、院は、無謀としかみえない幕府打倒の行動にふみきったのだ。そしてさらにおそらく、『愚管抄』の著者慈円は、後鳥羽院の強硬な対幕府策がこうした最悪の事態をもたらすことを予期していた。
 『新勅撰和歌集』に最も多く採用された歌人が、歌の世界をどのように政治的に位置付けるかには関心をもたず、定家と後鳥羽院の対立の間でひたすら職業歌人に徹していたセカンドランナー藤原家隆(1158−1237年)であったのも、こうしてみると当然のなりゆきである。
 こうなれば、歌を守るために定家に残された道は、自己を誰の干渉も許さぬ歌の権威となし、以後、定家の血筋、定家の言葉を絶対視させることで権力に対抗することでしかなかった。

 院政期の和歌の歴史とは、言語が社会の規範として存在するなかでの歌人の自己表現のあり方の模索の歴史であった。天皇(国家)の権威を中心に据えた社会構造のなかで、自己の言語(意識)をいかに表出するか。そして天皇という装置が失効したとき、最終的に、詩的言語活動はどう位置づけられるのか。そもそも歌の価値とは何であるのか。
 西行と実朝を中心にして考えるならば、こうした問題は起こらない。二人ともこうした外的価値によって自己を規定していくという精神構造の外にいたのだから(実朝は別の世界の中心装置であったけれども)。
 しかしいずれにしても、個人と国家、芸術(和歌)と国家、さらにいえば言語と国家とが分かちがたく結びついている狭い社会のなかで、言語をとおした個の十全な表出などありえなかった。
 白河院から後鳥羽院までの時代、天皇にとっては歌が幻想装置であり、歌にとっては天皇が幻想装置であった。「院政」とはそうした幻想を前提とした政治制度だった。そしてその巨大な装置は、自らの幻想のまえに、壊れるべくした壊れたのである。
 しかし時代は、たとえ慈円の懸念を採用し、朝廷が幕府にたいして直接行動を起こさなかったとしても、朝廷歌壇などもはや維持しようのない極限状態にあったといっていい。「天皇」の時代の終焉も、「歌」の時代の終焉も、慈円の言葉を借りれば「道理」であり、やむをえぬことだったのかもしれない。


 平成17年3月23日

  

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