院政期社会の言語構造を探る 【参考史料】

 平信範『兵範記』 保元元年(1156年)七月条 その2

【主要記事】
鳥羽法皇初七日の法要、藤原忠実、頼長が荘園の軍兵を召集することを停止させる、摂関家本邸・東三条殿没官(以上、7月8日)、崇徳上皇、白河前斎院御所に移動(7月9日)、崇徳上皇、白河御所に軍兵を整える、夕方、頼長白河御所に参入。後白河天皇方にも武士集まる(7月10日)、明方、平清盛、源義朝、源(足利)義康ら600騎で白河御所を攻撃、後白河天皇高松殿から東三条殿に移動、白河御所炎上、天皇高松殿に還御、忠通に氏長者の宣旨(以上7月11日)。



八日 丁未 凶会、天晴、初七日也、巳刻着衣冠参鳥羽殿、先是堂荘厳、安楽寿院本仏壇下、奉安置等身阿弥陀仏像一体、其前排批香花燈明等如例、東北西三面庇<但東庇正面除之>、敷高麗縁畳、立経机廿前、分安金泥法華経一部、素紙同経廿部、色紙四巻経等、正面簀子立散花机、其南北及北弘庇敷高麗帖、為公卿座、東庭北辺樹下立御誦経案、午刻、内大臣、<実>、左大将、<公>、按祭使、<重>、右衛門督、<公>、左兵衛督、<忠>、東宮権大夫、<経>、修理大夫、<忠>、右兵衛督、<雅>、源宰相、<師>、宰相中将、<伊>、新宰相、<光>、<已上直衣、但左兵衛督宿袍、内府以下巻纓、按祭使、左兵衛督、春宮権大夫、右兵衛督、源宰相、不巻纓、修理大夫着重服無文冠、縄纓、直衣、夏指貫、香染帷、用赤沓、二親重服、用縄纓赤沓、主君重服、巻纓黒沓也、上下相傾云々>、
次打鐘僧登、<鈍色甲袈裟、但導師弁覚、隆勝、宿装束>、五宮、六宮、七宮、御坐簾中、次左大将令権弁惟方奏事由於女院、次講始、弁覚為導師、有観法印唱唄、堂童子四人、<左、散位寛康、同忠房、右、民部少輔信保、散位重雅、已上旧臣五位殿上人、已上各衣冠、寛康巻纓、三人不巻>、尊願散花、行暁勤堂達、説法了、布施、
導師、被物二重、 布施二裹、<一裹、白布五□絹裹、一裹、絹十五疋、紙裹>、
   供養三石、
題名僧十九口、各被物一重、布施一裹、<僧綱、十疋絹裹、凡僧五疋紙裹>、
   供養一石、
内府被取法印被物、<下官傅献之>、新宰相取布施、
左大将以下取導師以下被物、 四位取布施、
今夜有御誦経、手作布百五十段、諷誦文、後院別当左大将被加署、
次真言供養、
随求曼陀羅一鋪、 金泥同陀羅尼一部、<二巻>、
尊勝曼陀羅一鋪、 同陀羅尼千遍、
阿弥陀仏前立仏台奉懸之、其前立花机一脚、排批
香花、仏供、仏布施等、花机安鈴杵等、
次講始、隆勝為導師、次布施、
導師被物一重、 布施二裹、<綿廿両>、供養三石、
講僧十九口、各布施一裹、<絹一疋>、
 内府以下公卿、如初取之、
次例時始、覚長法橋為音頭、
今日本院外無他所御誦経、新院不臨幸、
七ヶ寺御誦経、
法勝寺、<但馬守長成朝臣>、 最勝寺、<上野守重家朝臣>、
宝荘厳院、<紀伊守頼憲>、   勝光明院、<右中将光忠朝臣>、
延暦寺、<佐渡守為清>、    得長寿院、<美作守基家>、
極楽寺、<淡路守教盛>、
  各束帯巻纓冠、手作布五段、名香一裹、<入折櫃、立高杯>、退紅使丁持之、小使庁官衣冠相副、
  使不帰参、以小使進巻数、
今日殿上人衣冠、多巻纓、或不巻、右中弁範家、勘解由次官成輔不巻、下官同有所存不巻之、
今日無御物忌、
今日蔵人頭左中弁雅教朝臣、奉 勅定、以御教書仰諸国司云、入道前太政大臣并左大臣、催庄園軍兵之由有其聞、慥可令停止者、
今日蔵人左衛門尉俊成并義朝随兵等、押入東三条検知没官了、東蔵町同前即被仰預義朝了、其間、平等院供僧勝尊修秘法在被殿中、<中門南廊>、直搦召、被尋問子細於本尊并文書等者、皆悉被召了、是依左府命日来居住云々、子細難尽筆端、

九日 戊申 夜半、上皇自鳥羽田中御所、密々御幸白川前斎院御所、<斎院去二日渡御鳥羽殿了>、上下成奇、親疎不知云々、

十日 己酉 上皇於白川殿被整軍兵、是日来風聞、已所露顕也、散位平家弘、大炊助同康弘、右衛門尉同盛弘、兵衛尉同時弘、判官代同時盛、蔵人同長盛、源為国等各祇候、又前大夫尉源為義、前左衛門尉同頼賢、八郎同為知、九郎冠者等引率初参、頃年以来、依故院勘責各籠居、今当此時懇切被召出也、晩頭、左府自宇縣参入、前馬助平忠正、散位源頼憲、各発軍兵、偏為合戦儀、于時上皇左府合額議定、左京大夫教長卿同候御前、家弘為義忽補判官代、直被召御前、頼賢父被補六位判官代了、禁中<于時高松殿>、依彼僉議、同被集武士、下野守義朝、右衛門尉義康、候于陣頭、此外安芸守清盛朝臣、兵庫頭頼政、散位重成、左衛門尉源季実、平信兼、右衛門尉平惟繁、依 勅定参会、漸及晩頭軍如雲霞、関白殿并中納言殿令参内給、此間清盛朝臣、義朝□(等歟)、依召参朝餉、執奏合戦○策、入夜清盛朝臣以下各着甲冑、引率軍兵、
清盛朝臣着紺水干小袴、紫革<□□□□>冑、常陸守頼盛、淡路守教盛、中務少輔重盛、同備武装相従、
義朝着赤地錦水干小袴、頼政以下各々思々、多用紺水干小袴、或用生絹、皆蒙冑折烏帽子、付骸宛、着革貫、僮僕負胡○持甲、
今夜下官依殿下仰、参東三条検知寝殿以下、俄可有行幸故也、

十一日 庚戌 鶏鳴清盛朝臣、義朝、義康等、軍兵六百余騎発向白河、<清盛三百余騎自二条方、義朝二百余騎自大炊御門方、義康百余騎自近衛方>、此間主上召腰輿、遷幸東三条殿、内侍持出剣璽、左衛門督殿取之令安腰輿給、他公卿并近衛不参之故也、殿下令扈従給、<両殿直衣>、出自西門、自西洞院北行、入御東三条西門、経中門并透廊、御輿暫安寝殿南庇階間、此間内府参入、<直衣>、
賢所同渡御、奉安上官座廊、職事近将奉副如常、
女御駕網代車同渡御、御車立東中門外、三面門々各差着武士守護、<差鎖固内外也>、瀧口輩着甲冑、毎門二人、差定押領使、
前蔵人源頼盛、依召候南庭、同郎従数百人圍繞陣頭、此間頼政、重成、信兼等、重遣白川了、彼是合戦已及雌雄由使者参奏、此間主上立御願、臣下祈念、辰剋、東方起煙炎、御方軍已責寄懸火了云々、清盛等乗勝逐逃、上皇左府晦跡逐電、白川御所等焼失畢、<斎院御所并院北殿也>、御方軍向法勝寺検知、又焼為義円覚寺住所了、主上聞食此旨、即還御高松殿、其儀如朝、賢所還御、午剋清盛朝臣以下大将軍皆帰参内裏、清盛義朝直召朝餉、奉 勅定、 上皇左府不知行方、但於左府者、已中流矢由多以称申、為義以下軍卒同不知行方云々、宇治入道殿聞食左府事、急令逃向南都給了云々、
左府雖中矢被疵、其命存否、今日不分明云々、
午後、右京大夫信輔朝臣<巻纓、位袍、束帯、青朽葉下襲>、参内、於右衛門陣外、逢大外記中原師業奏遺詔、大外記申、上卿左兵衛督忠雅卿、以上卿令蔵人治部大輔雅頼奏云、鳥羽院遺詔云、素服、擧哀、国忌、山陵、可停止者、礼部奏聞帰出、仰聞食由、其次期年間、宴飲、作楽、着美服可止由被仰上卿、上卿召大外記宣下了、次召右少弁資長、仰依遺詔可止素服擧哀由、資長於床子座仰大夫史師経、即成宣旨、次召同弁、仰三国固開可付国司由、資長又仰師経、次警固召仰如例、
廃朝事別不被仰下、是延久例云々、
次令関白前太政大臣藤原朝臣、可為氏長者由、被宣下、
此例未曾有事也、今度新議、尤未珍重無極云々、
次有両条宣下事、
可令興福寺権別当少僧都覚継、如本領知前長者左大臣収公所領等事、
権中納言藤原朝臣忠雅宣、奉 勅、件所領等、為前長者左大臣被収公、宜令覚継如本領知者、大和国興福寺等、各承知之、
可没官権大僧都尊範、権律師千覚、大法師信実、玄実等所領事、
同朝臣忠雅宣、奉 勅、件尋範等同意左大臣、発遣悪僧由、已有其聞、宜令没官彼輩所領者、国宜承知之、
 左中弁雅教朝臣、 左大史師経等、加判
入夜、大夫史師経持参長者宣旨、於殿下仰云、以吉日可有沙汰、暫可留官者、其書様、
 関白前太政大臣藤原朝臣、
左中弁藤原朝臣雅教伝宣、権中納言藤原朝臣忠雅宣、奉 勅、件人宜為氏長者云々、
 保元元年七月十一日、左大史小槻宿禰師経、 
今夕被行勲功賞、
播磨守平清盛、 右馬権頭義朝、
 上卿按察使重通、 頭弁書除目云々、
義朝、左衛門尉源義康、<廷尉>、
 已上昇殿、   
次被宣下可令義朝召進為義事、
右弁官下、 五畿内諸国、
応停止素服擧哀事、
右権中納言藤原朝臣忠雅宣、今月二日太上法皇崩、須素服擧哀依例行之、而今依遺詔停止、如件、諸国宜承知、依宣行之、
 保元元年七月十一日、左大史小槻宿禰、
少弁藤原朝臣、
(裏書)
或人云、被辞尊号了、専不可載太上法皇、随又遺詔奏云、鳥羽院者、同可載鳥羽院也、更不可注法皇字、尤失也云々、
右弁官下、東海道諸国、
応停止素服擧哀事、
右状同前、
右弁官下、東山道諸国、
応停止素服擧哀事、
右状同前、
右弁官下、北陸道諸国、
応停止素服擧哀事、
右状同前、
右弁官下、山陰道諸国、
応停止素服擧哀事、
右状同前、
右弁官下、山陽道諸国、
応停止素服擧哀事、
右状同前、
右弁官下、南海道諸国、
応停止素服擧哀事、
右状同前、
右弁官下、太宰府、
応下知管内諸国停止素服擧哀事、
右権中納言藤原朝臣忠雅宣、今月二日太上法皇崩、須素服擧哀依例行之、而今依遺詔停止、如件、宜承知、依宣行之、
 保元元年七月十一日、左大史小槻宿禰、
少弁藤原朝臣、
右弁官下、五畿内諸国、
応禁宴飲作楽着美服事、
右権中納言藤原朝臣忠雅宣、素服擧哀、雖因遺詔従停止、而率土黎元、何无心喪之礼制、宜仰諸国禁件等事、期年之内、不得違失、諸国宜承知、依宣行之、
 保元元年七月十一日、左大史小槻宿禰、
少弁藤原朝臣、
右弁官下、東海道諸国、
応禁宴飲作楽着美服事、
右状同前、
右弁官下、東山道諸国、
応禁宴飲作楽着美服事、
右状同前、
右弁官下、北陸道諸国、
応禁宴飲作楽着美服事、
右状同前、
右弁官下、山陰道諸国、
応禁宴飲作楽着美服事、
右状同前、
右弁官下、山陽道諸国、
応禁宴飲作楽着美服事、
右状同前、
右弁官下、南海道諸国、
応禁宴飲作楽着美服事、
右状同前、
右弁官下、太宰府、
応下知管内諸国禁宴飲作楽着美服事、
右権中納言藤原朝臣忠雅宣、素服擧哀、雖因遺詔従停止、而率土黎元何无心喪之礼制、宜仰管内諸国、禁件等事、期年之内、不得違失、府宜承知、依宣行之、
 保元元年七月十一日、左大史小槻宿禰、
少弁藤原朝臣、
応停止素服擧哀事、
右右少弁藤原朝臣資長伝宣、権中納言藤原朝臣忠雅宣、今月二日太上法皇崩、須素服擧哀依例行之、而依遺詔停止如件、宜仰文武諸司令知此由者、
 保元元年七月十一日、左大史小槻宿禰、
応禁宴飲作楽着美服事、
右右少弁藤原朝臣資長伝宣、権中納言藤原朝臣忠雅宣、素服擧哀、雖因遺詔従停止、而率土黎元何无心喪之礼制、宜仰文武諸司禁件等事、期年之内、不得違失者、
 保元元年七月十一日、左大史小槻宿禰、
右弁官下、伊勢国、
応警固事、
右権中納言藤原朝臣忠雅宣、勅奉、今月二日太上法皇崩、須准例遣使警守、而牧宰其人分憂宰重、宜仰国司令勤警固者、国宜承知、依宣行之、厳加勘察、勿致物煩、
 保元元年七月十一日、左大史小槻宿禰、
少弁藤原朝臣、
右弁官下、近江国、
応警固事、
右状同前、
右弁官下、美濃国、
応警固事、
右状同前、
 保元元年七月十一日、左大史小槻宿禰、
少弁藤原朝臣、
右弁官下、下野国、
応令守源朝臣義朝、慥召進前左衛門尉源朝臣
                           為義身事、
右彼為義、猥○狼戻之輩、忽成烏合之群、謀略之甚、殆過上古、而被救官軍、即赴坂東、中納言藤原朝臣重通宣、奉 勅、宜仰義朝臣、慥令召進其身者、国宜承知、依宣行之、
 保元元年七月十一日、左大史小槻宿禰、
少弁藤原朝臣、
右弁官下、大和国并興福寺、
応令権別当少僧都覚継、如本領知前長者左大臣
                      収公所領事、
右権中納言藤原朝臣忠雅宣、奉 勅、件所領等、為前長者左大臣被収公、宜令覚継如本領知者、国寺宜承知、依宣行之、
 保元元年七月十一日、大史小槻宿禰、
中弁藤原朝臣、
右弁官下、大和国、
応没官権大僧都尋範、権律師千覚、大法師信実、玄実等所領事、
右権中納言藤原朝臣忠雅宣、奉 勅、件尋範等、同意左大臣、発遣悪僧之由已有其聞、宜令没官彼輩所領者、国宜承知、依宣行之、
 保元元年七月十一日、 大史小槻宿禰、
中弁藤原朝臣、




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