院政期社会の言語構造を探る 【参考史料】

 平信範『兵範記』 保元元年(1156年)七月条 その3

【主要記事】
崇徳上皇、仁和寺に出頭(7月13日)、崇徳上皇の近臣・藤原教長ら、出家して出頭(7月14日)、藤原忠実から忠通のもとに書状届く(7月15日)、源為義、義朝のもとに出頭(7月16日)、忠実、頼長の荘園没官の奉勅(7月17日)、忠通、氏長者の任命を受ける(7月19日)、忠通、氏長者の荘園を相続(7月20日)、頼長死亡の情報伝わる(7月21日)、崇徳法皇、讃岐に配流(7月23日)、保元の乱関係者の罪名宣下(7月27日)、平清盛、平忠貞らの斬刑執行(7月28日)、源義朝、源為義らの斬刑執行(7月30日)。



十二日 辛亥 上皇并左府存否、并在所不分明、仍所々被追補、知足院寺中房舎、一条北辺、公晴旧宅、検非違使季実資良等奉行之、

十三日 壬子 上皇出仁和寺五宮、五宮此間御坐鳥羽殿、上皇自仁和寺、被献御札於五宮、被申内、即可被奉守護由、被申彼宮、彼宮固辞、仍移居寛遍法務土橋旧房、式部大夫源重成依勅定、奉守護之、
左府識事、蔵人大夫清頼被搦出、彼合戦日扈従者也、副武士、自殿下被献内、於禁中、蔵人俊成召間云々、彼在所并死生猶不分明云々、為義在大津辺由、座主被申上、仍義朝以下武士数百騎馳向、夜半帰洛、無実云々、

十四日 癸丑 皇后宮権亮成隆朝臣出来、去十一日随順左府、被追散御方軍、日来逃隠於仁和寺辺、一昨日出家、即日向別当亭、大理奏聞了、入道帰住八条家、今日志兼成、依勅定、奉別当宣、向八条相具参内、入道乗車、随兵下部圍繞、於内裏陣頭、<西御蔵町>、蔵人判官俊成志兼成等召問云々、次下給兼成、兼成相具向私宅、付郎従云々、
又右京大夫教長卿、同於広隆寺辺出家、今同参上、左衛門尉季実召具之、其儀如成隆、但不被召問、可有議定云々、

十五日 甲寅 法成寺盂蘭盆如例、但関白殿未令行長者事給、仍帷紙等、寺家執行信康法橋、且依殿下仰儲之、家司職事不参、自恣任例、寺家可奉行由、下官奉仰、兼日下知執行法橋了、
今夕教長入道被問注之、其儀、以東三条西中門廊、准官庁為其座、北遣戸下横切敷大弁座、西壁下敷中少弁上官等座、右大弁朝隆卿着座、<母重服>、左中弁雅教朝臣、<頭>、右少弁資長、<蔵人>、左大史小槻師経、以下同着座、<北上東面>、教長入道相対大夫史座令召候、次大弁問之、其詞云、
去十一日、於新院御在所、整儲軍兵、欲奉危国家子細、依実弁申者、教長出詞、文章生史執筆注之云々、此外子細不能委細、
成隆入道以志兼成、又被召出於西内膳辺、俊成兼成如前推問云々、
今日自入道殿被献御書於殿下、直不召入、先奏事由、随勅定、召覧之、即有御返事、
今日鳥羽院二七日、下官不参、

十六日 乙卯 為義出来義朝許、即奏聞、依 勅定、○候義朝宿所、日来流浪、横川辺出家云々、
今日左府侍所司治部丞親頼被搦出之、兵庫頭頼政召出之、

十七日 丙辰 常陸守頼盛、淡路守教盛、聴昇殿、勲先功之間、清盛朝臣申請之故也、
今日頭弁奉 勅、仰下諸国司云、
宇治入道猶令催庄々軍兵由、有其聞者、件庄園并左大臣所領、慥令没官、可令停止彼奸濫朝家乱逆、已当此時、国司若致懈緩者、可有罪科者、依綸旨、執啓如件、
重仰、彼所領等中、当時公卿為預所庄々者、付件家不可有改易、於其外者、国司可致沙汰、抑関白被補氏長者了、於長者所摂之庄園者不在此限、但関白未被知行以前、且停止本沙汰、可待長者之下知也、

十八日 丁巳 頭弁奉 勅定、令申殿下云、
被綸旨云、左大臣及入道前太相国、謀奉危国家罪科不軽、謀叛八虐之人、田宅資財可没官之由、載在律条、然者宇治所領及平等院等事、永停止入道相国沙汰、一事已上、殿下可令知行給、彼院検校已下、早可令定補給者、綸旨如此、以此旨、可令執申給之状如件、
   七月十八日 左中弁雅教、
 謹上 右少弁殿、

 
十九日 戊午 今日殿下被請氏長者事、大夫史師経卿持参宣旨、<書様、見去十一日、入筥>、家司右少弁資長、於蔵人所請取之、就御所進覧之、宣旨留御所、空筥返給師経、資長奉仰、率家司大蔵少輔中原広安、下家司主計允親兼等、向東三条東町、開朱器倉合朱器目録、地子所文書朱器目録等持参奉覧、朱器等不持参、又不覧也、次勧学院別当左大弁如旧由遣御教書、次被仰有官并後別当等、
 少判事藤原親経、 藤原俊業、
佐保殿方上庄可奉行由、被仰資長了、広田庄無沙汰歟、
御厩別当、<上資泰、楠葉牧可知行、下邦綱、井尻牧可知行>、
今夕各成吉書下知御牧云々、
蒭斤不見御倉、仍今夕無懸蒭之作法、後日自宇治御倉求出、納朱器倉了、
此外無他儀、不申吉書、
宇治法印被補法成寺平等院別当了、資長書下之、執印長吏也、

廿日 己未 自入道殿被渡献御庄目録、本御処分近年変改所々并高陽院御庄々都及百余所、件御庄園依入道殿知行、混合左府所領可被没官、為遁其難、併被献云々、下官奉仰注申御庄々子細、又有奉行下知等事、本預人々多可有改定云々、

廿一日 庚申 左府死生日来未定、被召出之輩、各称申趣、皆有疑殆、顕憲息僧玄顕申云、十一日合戦庭被疵、十二日経廻西山辺、十三日於大井河辺乗船、同日申刻付木津辺、先申事由於入道殿、依不知食、扶持輩渡申千覚律師房、其後一夜悩乱、十四日巳刻許薨去、即夜乗輿藾葬於般若山辺、骨肉五体併雖不違、直殯了者、依此申状、今朝差定官使史生并瀧口三人、相具彼玄顕遣南京了、
今日盛憲法師、於左衛門府庁、拷訊覆問、<杖七十五度>、

廿二日 辛酉 南京葬所実検官使以下帰参、令蔵人大輔雅頼奏聞子細了云々、

廿三日 壬戌 近衛院御正日、便就日次宜、今日被行御法事也、延勝寺金堂七僧百僧、其儀如去年、殿下参御御出儀、御装束以下、一如去年八月御法事、
今夕、入道、太上天皇、被奉移讃岐国、兼日公家有御沙汰、当日五位蔵人資長、依 勅定、参向仁和寺御在所奉出之、晩頭出御、網代御車、<御乳母子保成車召之>、女房同車、右衛門尉貞宗侯御後、又式部大夫重成、率武士数十騎奉圍繞、於鳥羽辺乗船、乗船後、一向讃岐国司沙汰、殊可奉守護由、被仰下了、重成帰参了、
今夕、主上還御本殿云々、
今日御庄園奉行人多改定、被仰新沙汰人了、下官成賜政所下文了、

廿七日 丙寅 着諒闇装束、参鳥羽殿、
鈍色平絹狩衣、同色指貫、帷下袴、沓等如常、<但押絹裏>、
今日被下罪名宣下、
権中納言兼右近衛大将兼長、権中納言兼左近衛中将師長、
正三位左京大夫教長、 左近中将成雅朝臣、
         隆長朝臣、皇后宮権亮成隆朝臣、
右馬権頭実清朝臣、   散位俊通、
前馬助平忠貞、      散位盛憲、
皇后宮権大進憲親、   散位経憲、
前大夫尉源為義、     右衛門大夫平家弘、
散位源頼憲、        大炊助平康弘、
右衛門尉盛弘、      兵衛尉同時弘、
前左衛門尉源頼賢、   平 国 正、
院蔵人同長盛、      左大臣家勾当同忠綱、
平 正 綱、         同 正 方、
源 為 成、         同 為 宗、
同九郎冠者、        平 光 弘、
大法師範長、<左大臣息>、
仰詞云、同意太上天皇并前左大臣、欲奉危国家、為謀叛輩、宜仰明法博士等令勘申所当罪名者、五位蔵人雅頼宣下之、明法博士坂上兼成奉之、

廿八日 丁卯 今夕被行斬罪云々、
忠貞、 長盛、 忠綱、 正綱、 道行、<忠貞郎等>、
 已上播磨守清盛朝臣、於六波羅辺斬云々、
卅日 己巳 又被行斬罪、
家弘、康弘、盛弘、時弘、光弘、頼弘、安弘、
 已上蔵人判官義康、大江山辺斬云々、
為義、 頼方、 頼仲、 為成、 為宗、 九郎、
 已上左馬頭義朝、於船岡山辺斬之、但為義、検非違使季実、依 勅定実検云々、





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