このコーナーでは、院政期社会を探る重要史料として、平信範の日記『平範記』から久寿二年(1155年)、保元元年(1156年)の主要記事を紹介します。
『兵範記』について
平信範の日記。全25巻。記事は長承元年(1132年)から承安元年(1171年)におよぶ。ただし現存するのはそのうち17年分で、そのなかには欠落もある。信範の清書本も現存。
信範が摂関家の家司と鳥羽、後白河両院の院司という実務者だったところから、その記録は、全体が平安末期の儀式、詔勅などの貴重な史料となっている。また、保元元年には関白藤原忠通の家司として保元の乱に遭遇、その一連の動きを記した『兵範記』の記事は、同時代人がみた保元の乱の鮮烈なレポートであり、保元の乱に関する最も重要な史料である。
日記の名『兵範記』は、信範の極官兵部卿と信範の名を組み合わせたもので、「ひょうはんき」または「へいはんき」と読む。他に信範の名の漢字の一部をとって「人車記」ともいう。
また、現存する『兵範記』の清書本は、信範の手元にあった反古を料紙とするものが多く、平清盛、藤原兼実などの書状を含むこれら裏文書も、時代を探る貴重な史料となっている。
記主・平信範について
1112年−87年。平安時代末期の官人。桓武平氏高棟流の出身で、父は兵部大輔知信。兄は時信で、その子時子、滋子、時忠は姪・甥にあたる。
保安二年(1121年)に文章生となり、以後、能登大掾、蔵人、少納言、弁官などを歴任。
一方、実務能力を認められて摂関家の家司となり、忠実、忠通、基実に仕えた。頼長とは対立的で、仁平三年(1153年)紀伊国吉仲荘の知行を停止されている。
鳥羽、後白河両院の院司も勤めている。
極官は正三位兵部卿、治承元年(1177年)に出家。
忠通に近伺しながら保元の乱に遭遇した。
テクストおよび表記方針について
このコーナーのためのテクストとしては『史料大成』第16巻『平範記二』(内外書籍、1936年)をもちいた。テクストの正字、異体字は適宜当用漢字に改めた(佛→仏、壽→寿、等)。JIS標準にない漢字、難読の漢字は、特に作字せず○の記号を充てた。□は原文の欠字。また原テクストに細字で記されている割註は、便宜上< >に入れて表記した。正確な用字および表記は、原テクストでご確認いただきたい。
なお、『兵範記』の保元の乱関係のテクストは、『保元物語』他を収めた「新日本古典体系43」(岩波書店)が、現在もっとも手に入れやすい。
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