院政期社会の言語構造を探る

天台・浄土・禅ーー九条家をめぐる仏教諸派
Des sectes bouddhistes autour des Kujos


 九条家歌壇で詠まれた和歌の精神的背景を探るため、ここで、九条家を取り巻く宗教界(新旧仏教)の状況に目を転じよう。

 九条家の思想の中心を占めるのが、天台密教(台密)であったということはまず動かしようがない。この当時の天台宗は、密教を中心に、仏教のあらゆる教説を統合していた。
密教化の趨勢のなかで、なお各宗が、たとえば天台宗なら天台宗として存立した独自性は、どこにあったのであろうか。それは、とかく今日一般に考えられがちなように最澄によって樹立された固定的な教学の存在によってではなく、円仁・円珍・安然と展開し完成した教判をみてもわかるように、法華円教を特色としながらも円密禅戒の四種相承、ことに円密の一致を説く論理の形式の相承によるものであった。台密とは、そのような意味での天台宗=比叡山教団内部で発展した独自の密教の教相・事相の謂であって、法華思想と密教とはたがいに異質のものではなくむしろ会通するものと前提され、そこから教判における発想や論理も、蘇悉地法(註1)の伝来のほかに、天台の五重玄義(註2)を依用するなどの特色があるとされる。(黒田俊雄氏、「中世における顕密体制の展開」、『日本中世の国家と宗教』所収、岩波書店、1975年)
 これを指導し、朝廷と九条家(そして当時の社会)を結びつける役割を果たしていた人物は、天台座主慈円であった。多賀宗隼氏によれば、
慈円の一生の行迹に於いて、祈祷が頗る広い巾を占め、極めて重大な意味をもっていたこと、これを極言すれば、慈円の一生は祈祷によって充実され、祈祷に於いて意義があったといっても敢えて過言でない(多賀宗隼氏、「慈円自草の一冊子について」、『論集中世文化史下/僧侶篇』所収、法蔵館、1985年)
のであり、慈円は、
祈祷者、僧侶が、その観法修行に専注していれば、それは自然に冥薫して人は知らずともその功力を受ける、従ってかくの如き三業不乱の僧が多く存すれば一切有情がおのずから抜済される。正法。像法の世とはかくの如き時代であった。末世に入って観行は浅くなって、それは望むべくもないが、しかも、大日如来の力はなお曲りなりに帰依者一人を度しあわせて自己の得脱を可能ならしめている(多賀宗隼氏、前掲論文)
と、確信していたのである。九条家歌壇に見られる言葉のシンボリズムは、本来こうした密教的世界観をベースにしているものと考えられる。

 しかしそのいっぽうで、兼実が浄土宗の開祖・法然に帰依し、文治五年(1189年)八月一日以来、九条邸にしばしば法然を招いていたことも有名である。のちに兼実は法然を戒師にして出家しており、「法然のもっとも深い篤信の壇越」(塚本善隆氏、中央公論社『日本の名著/法然』解説、1971年)であった。しかし法然と朝廷人の結びつきはかならずしも浄土教的な契機によるものとは断定できないのであり、兼実が法然に帰依し、法然をしばしば自邸に招いたのも、兼実が仏教改革派に組していたためというより、兼実なりの密教的世界観の発現といっていいだろう。
 逆にいえば、法然の浄土思想にしても、またそれに先立つあまたの無名の念仏聖の行動を支えた思想にしても、仏像の周囲を回りながら瞑想を修する天台宗の常行三昧から出発したものであって、最初から一向専修の過激な仏教改革思想として社会のなかに登場したのではなかった。法然は、むしろ、時代に即して常行三昧等の天台的浄土思想の読み替えを行ったのだといえる。
 晩年の兼実は、法然の『選択集』に対する論駁の書『摧邪輪』を著した明恵をも自邸に招いているが、この明恵自身、法然の念仏流布の話は知っていたが、『選択集』を実際に手にするまで、法然を「体制派」の高僧ととらえていた。こうした事実からみて、当時の人々が特定の僧とその教説をどのように受けとめていたかを考えることは慎重でなくてはならない(註3)。また法然にして、兼実、明恵といった同時代の知識人に充分理解されていなかったということは、当時の仏教教説普及のあり方の一端を示唆しているように思う(「常行三昧」の読み替え、すなわち自力の行の要素を残した浄土思想から絶対他力の浄土宗への転換に気づくか気づかないかは、あくまでも判断する側の主体性に委ねられる。もっとも法然自身、浄土宗を貴族社会に受け入れさせるため、部分的にはそうした曖昧性を容認していたとも考えられる)。
 ここで、法然の出自が比叡山天台宗であったということにあらためて注意を促しておこう。

 そうしたなかで禅宗も、院政期初期以来盛んになった日宋交易関係者などをとおして、まず情報としての宋での興隆が紹介され、貴族階級の間で知的関心をよんでいたと考えられる(註4)。摂関家では、もともと和歌以上に漢詩・漢文すなわち中国文化の摂取が盛んであったし、九条家もその例外ではない。また、兼実の祖父忠実も父忠通も一時太宰府を知行しており、摂関家は中国の新文化とダイレクトに接する機会が多かった。
 もっとも、宋文化と接触するまで日本の仏教界あるいは知識階級のあいだに禅に対する知識が全くなかったわけではない。先の黒田俊雄氏の指摘にもあるように、禅は、顕密体制のなかの「円密禅戒」の一つとして、天台宗の教理のなかに位置づけられていた。そして日本での禅の受け入れの歴史を文献に尋ねれば、『日本書紀』敏達天皇六年(577年)の記事にまでさかのぼることができるのである(この年、百済から律師、造仏工、造寺工らとならんで禅師が来日している)。
 周知のように、禅(禅那)とはサンスクリット語で瞑想を意味するdhyanaの音写であり、インドにおいてブッダ以前からひろく行われていた宗教的行法の一つである。極端な苦行を退けた仏教でも瞑想の行は自然にとりいれられており、仏教伝来とほぼ時を同じくして、行法としての「禅」が日本に入ってきたのは当然のことだ。栄西、道元らによる体系的な禅宗請来まで日本で坐禅が行われなかったのではない。また当時の社会一般の風潮としても、少なくとも禅の運動を積極的に排除する理由は存在しなかった。
 実際、こうした社会の関心を反映して、高倉天皇の時代には、宋の杭州霊陰寺で修行し帰国した比叡山出身の僧覚阿(1143年−没年不詳)が朝廷に召され、禅とは何か訊ねられた。しかし、覚阿は天皇の前で笛を吹くばかりで、誰もその思想を理解できなかったと伝えられている(『元亨釈書』巻六)。
 覚阿のエピソードに続く日本における宗派としての禅の起源は、摂津水田(現吹田市)に禅の道場として三宝寺を開いた大日房能忍(生没年不詳)に求められる。
 しかし残念なことに、能忍の伝記や語録は今日ほとんど伝わらない。彼が平安時代末比叡山に学び、師もなく独自に禅を志したということのほかにはっきりしているのは、文治五年(1189年)、宋の育王山に弟子を遣わし、拙庵徳光に、自己が日本で師もなく独自に行なっていたことが宋の禅宗の立場からみて誤っていないか問い合わせたことだろう。自己の立場を能忍はみずから達磨宗と呼んだ。
大日房能忍を祖とする達磨宗は、天台宗の別所聖を中心とするグループであった。”学”を基本とする旧仏教秩序の解体にともなう、”行”の自立・分化(宗派化)という状況の中で、禅の宗派化を求めて能忍のもとに結集したのが達磨宗の僧たちであった。(船岡誠氏『日本禅宗の成立』、吉川弘文館、1987年)
 話を一足飛びに一般化してしまうのではなく、九条家のなかでこうした禅への直接的言及を探すと、たとえば、良経が建久四年秋から翌建久五年秋(1193年−94年)にかけて詠んだと推測されている「治承題百首」の末尾「釈教五首」のなかに五波羅密のひとつとして禅波羅密が
心をばこゝろの底に納めおきて塵も動かぬ牀の上かな
と詠み込まれ、百首歌の最後を締めくくっている。良経が選んだ五波羅密の配列は特別のものではないが(註5)、それでもなお、不動の境地を詠んだ内容の歌が百首歌の最後におかれていることから、これは禅(禅波羅密)に対する、良経の高い評価を示すものといえる。

 いわゆる「鎌倉新仏教」のなかで、禅宗は、それが鎌倉時代の初めに起こらなければならなかった理由、またそれが社会に受け入れられていった背景が、かならずしも明確に解明されているとはいえない。栄西がたまたま入宋したところ禅が行なわれていたので請来したというだけでは、以後日本に禅宗が定着していくことの充分な説明にはならないと思う(註6)。
 こうしたなかで興味深いのは、当時の世人が、九条家歌壇の構成者、とくに定家と良経らの歌を「達磨歌」と呼んだという事実である。世人は、能忍ら初期禅宗の僧の行動や言説と九条家サロンの歌に、共通するものを見出していたのだ。

平成16年9月22日

 

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