院政期社会の言語構造を探る
| 達磨歌 Les Daruma-utas (Les wakas incomprehensibles) そこで次に、達磨歌とはどのようなものかみておこう。これについては、松村雄二氏の「定家ーー達磨歌をめぐって」(和歌文学論編集委員会編『新古今集とその時代』所収、風間書房「和歌文学論集八」、1991年)という詳細な論考があるので、小論もこれをもとに叙述をすすめたい。 まず定家の歌が「達磨歌」と呼ばれ、さげすまれたということは、定家自身、歌集『拾遺愚草』のなかに、「寿永元年(1182年)二十一歳のときに詠んだ百首歌(堀河院題百首)をみて父母が落涙したばかりか、兼実ら世人に誉められた」としたあとで、次のように記している。 ただしくだんの人望、わずかに三、四年か。文治・建久より以来、新儀非拠の達磨歌と称し、天下貴賤のために悪まれ、すでに棄ておかれんと欲す(『拾遺愚草』員外)そして御子左家以外の歌人は次のように証言する。 近来の歌仙ども、みな達磨を好みよむ。よくよく天性を受けずよりは、達磨を宗とすべからず(上覚『和歌色葉』)これらをふまえたうえで、松村氏は達磨歌の語義(用法)を次の四つに分類する。 A 揶揄・嘲笑(旧派歌人からの攻撃)松村氏によれば、最初にあげた定家の言葉は、 表面的には右のAにおける意味を、当の被害者として苦々しく言いはなったと読めるにもかかわらず、実は当事者としてDにおけるような微妙な意識が複雑に隠されているとみることができる(松村雄二氏、前掲論文)という。 また慈円や良経は、次の贈答歌にみるように、自己の立場を述べるのに「達磨」だけでなく「密宗」の言葉を使って「顕宗」の歌人たちとの違いを明らかにしており、長明ならずとも宗論のたぐいといいたくなる(註1)。そしてこうした九条家サロンの歌人たちの「達磨歌」という自己規定のなかには、「かなり居直りに近い誇り」「特有の思い入れ」「ある種の自信」(松村氏)が感じられるのである。 花よ月霞めすこしのつひになほ雪のあしたも達磨なりけり 慈円当時の歌壇が読みとった達磨歌の客観的特徴は、慈円の歌にあるように、霞がかったようで意味が明瞭に読みとれないというものであった。その点からすれば、定家が守覚法親王の請に応じて詠んだ 大空は梅のにほひにかすみつつくもりもはてぬ春の夜の月の歌など、なにものをも明らかにすることなくイメージだけを放りだした、達磨がかった歌の典型というべきであろう。 松村氏の言葉を借りて達磨歌の修辞的特徴をまとめておけば次のようになる。 ここで結論的に定家の達磨歌というものにもし定義を与えるとすれば、句切れ、語句の倒置・圧縮・飛躍、体言句の羅列といったようなさまざまな奇驕的とも言える措辞語法を駆使しつつ、従来の事理による和歌的抒情性、すなわち論理による意味的結合の流れを断ち切って、体言句の持つ象徴的なイメージ連合を軸に一首を形成したものということになるだろうか。(松村雄二氏、前掲論文)こうした動きにたいし、御子左家の歌にやや距離をおく鴨長明(1153年−1216年)は、 いはゆる露さびて、風ふけて、心のおく、あはれのそこ、月のありあけ、風の夕暮、春の古里など、はじめめずらしくよめる時こそあれ、ふたたびともなれば念もなき事くせどもをぞわづかにまねぶめる。あるは又おぼつかなく、心こもりてよまむとするほどに、はてにはみづからも心えがたく、又無心所着になりぬ。加様のつらの歌は幽玄のさかひにはあらず。げに達磨とも是をぞいふべき(鴨長明『無名抄』近代歌躰)と「達磨」の言葉を用いて批判を加える。 達磨歌が言語の遊戯に過ぎないとしたら、長明の危惧はおそらく正しい。「露さびて、風ふけて、心のおく、あはれのそこ、月のありあけ、風の夕暮、春の古里」などの言葉は、長明ならずとも「初めはめずらしく詠めても、二度目ともなればマニエリズム以外のなにものでもない」といいたくなる。 しかし九条家に参集しながら定家らが文化の底に発見したのは、古代の朝廷歌人が誰もかいま見たことがないような「露さびた世界」「風ふけてゆく夜の秋」ではなかったか。歌人たった一人に、しかも一度だけしか相貌をみせることがないこうした世界を、普遍性という宿命を負わされた言語にどのように定着するのか。どのようにコミュニケーションを図るのか。それを意識したとき、言語を従来と同じように機能させることはできなくなってくる(つまり、世界と人との関係が変わってしまったのだ)。そうしたコミュニケーションの危機、新しいコミュニケーションの必然性を『方丈記』の作者は理解できなかったというべきであろう。 長明にとって世界の変様とは、それがいかに大きなものであったとしても既存の言語(観念)をもって描写可能な外的、時間的変貌であり、「論理による意味的結合の流れを断ち切って」(松村氏)コミュニケーションの根底を覆すような性質のものではありえなかった。ゆく河を流れているのはもとの水ではなくても水であり、人が代わり家が変わっても、人は人、家は家なのである。 これにたいし達磨歌とは、世界と人との新しい関係の言表をめざすものであった。そうした新しい関係の認識において九条家歌壇の歌人たちと初期の禅僧には確かに共通するものがあると思う。『方丈記』の冒頭を、能忍に続く次の世代の禅僧・道元(1200年−53年)の言葉と比較することによって、それはさらに明確になる。 ゆく河のながれはたえずして、しかももとの水にあらず。よどみにうかぶうたかたはかつきえかつむすびて、ひさしくとどまる事なし。世中にある人と栖と又かくのごとし。たましきのみやこのうちに棟をならべ、いらかをあらそへるたかきいやしき人のすまひは世々をへてつきせぬ物なれども、是をまことかと尋ぬれば、昔しありし家はまれなり。(鴨長明『方丈記』)かりにわかりやすく言いかえると、ここで道元は、まず山はいつも歩いているという先人の言葉を肯定する。人がそれに気づかず、それを知らないのは、山のなかで山にとり込まれているからだ。しかし山とは結局花咲きみだれる世界そのもの。山のなかでも山の外でも山を見る眼のない人に山の運歩は知られることがない。山の歩きを疑うのは自己の歩きを知らないこと。歩いているのにそれを知らない、明らかにしようとしない。自己の歩きを知るように、まさに山の歩きをも知るべきであろう。 道元は続ける。 水は強弱にあらず、湿乾にあらず、動静にあらず、冷煖にあらず、有無にあらず、迷悟にあらざるなり。こりては金剛よりもかたし、たれかこれをやぶらん。融じては乳水よりもやはらかなり、たれかこれをやぶらん。しかあればすなはち、現成所有の功徳をあやしむことあたはず、しばらく十方の水を十方にして著眼看すべき時節を参学すべし。人天の水をみるときのみの参学にあらず、水の水をみる参学あり、水の水を修証するゆへに。水の水を道著する参究あり、自己の自己に相逢する通路を現成せしむべし。他己の他己を参徹する活路を進退すべし、跳出すべし。(道元『正法眼蔵』山水経)水とはもろもろの性質ではない。そして人や天人が水をみるときの参学があるだけでなく、水が水をみる参学があり、自己が自己に相逢する通路、他己が他己を参徹する活路がある。それらを実際に行き来したうえで、そこから跳び出すのが(真の)参学だ。 『正法眼蔵』山水経でとりあげられているのは、表面上あくまでも「山」であり「水」である。しかし実は、これは、それら二つを契機にした世界と人との本来的関係の言表以外のなにものでもない。それを端的に示すのがたとえば「跳出」という言葉だろう。「跳出」とはまさに「論理による意味的結合の流れを断ち切って」(松村氏)、結合の外に跳び出すことを「意味」する。それゆえ道元の言辞も、論理重視の視点からすれば「奇驕的」(松村氏)とならざるをえない。 このように歌と仏法との響きあいをとおして示される、世界と人との新しい関係の自覚は、孤高の歌人や思想家が独力で到達したものではなく、九条家に集まった貴族たちを初めとする当時の知識人に共通するものであったと思う。そしてその言表が、一方では歌となり、一方では『正法眼蔵』に代表される禅思想家の言説となって世に出ていった。そうした文化的背景をも含めて考えなければ、覚阿、能忍、栄西、道元と、禅がしだいに大きな流れになっていった現象は理解できないだろう。またこうした視点からみたとき、道元は摂関家および歌の世界と禅思想の橋わたしをするのにちょうどつごうのいい環境に生まれ、育ってもいる。 「達磨」とは、こうした新しい歌と思想とに共通するキーワードだったのであり、定家らの歌は、同時代人によって「達磨歌」と呼ばれる必然性があったのだ。 平成16年9月21日
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