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「慈円」 註
註1)
『拾玉集』によって知られる慈円と源頼朝の和歌の贈答について、久保田淳氏は、「ある時期以後の頼朝は、帝王学ならぬいわば将軍学としての詠歌の必要性をも感じていたと想像する」(久保田淳氏「頼朝と和歌」、『藤原定家とその時代』所収、岩波書店、1994年)としている。
註2)
「住吉百首」は「住吉(の神)」または「住の江」という言葉を神への思いを表わすキーワードとして百首すべてに詠みこむという趣向をこらしているので、その繰りかえしは当然だが、それ以外の言葉の繰りかえしは、無意識に口をついて出たものといっていいと思う。
註3)
良経論の文脈のなかで、寺田純子氏は慈円の述懐歌に次のように言及しており、一考に値する。
「良経の述懐十五首は、部分的にはそれら(一般的な述懐歌;引用者註記)の流れの中に全く埋没する要素を持ちながら猶全体としては異質なものを持っていると言わざるを得ないであろう。(中略)ただそれは良経の意識があくまでも摂関家を離れ得ない限りに於て楽天ほどの強力なものとはなり得べくもなかったであろう。しかし実際的手腕はともかく政治家としての立場故に、その他の歌道の家柄の歌人にはみられない痛烈な批判眼を持ち得たとも言えるわけである。それは慈円に於て最も顕著に具象化されたと言い得ようが…。」(寺田純子氏「建久末年の藤原良経」、『古典和歌論集ーー万葉から新古今へ』所収、笠間書院、1984年)
註4)
本文中ではふれることができなかったが、小倉百人一首にもとられて慈円の和歌のなかで最も有名な作「おほけなく憂き世の民におほふかなわが立つ杣に墨染の袖」は、「日吉百首」雑の部の一首であり、慈円20代後半頃の若書きに過ぎない。
註5)
『愚管抄』の叙述は、以下の大隈和雄氏の指摘のように、現代のわれわれからみればおもしろいほどあからさまに、兼実をはじめとする九条家の人々の立場を代弁している。
「慈円が保元・平治の乱にあれほど強い関心を示し、戦局の推移をくわしく追って叙述していながら、治承・寿永の内乱にはそれほどくわしい記述を遺していないのは、その戦乱が摂関家にとって直接に重大な関わりを持ったかどうかの判断によったものと思われる。摂関家の立場に立てば、後者は所詮源氏と平家の合戦にすぎなかったのであろう。」(大隈和雄氏『日本の名著/慈円・北畠親房』解説、中央公論社、1971年)
註6)
『徒然草』第226段の全文は次のとおり(引用は岩波文庫による)
「後鳥羽院の御時、信濃前司行長、稽古の誉ありけるが、楽府の御論議の番にめされて、七徳の舞をふたつ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを、心うき事にして、学問をすてて遁世したりけるを、慈鎮和尚(=慈円、註・如月)、一芸あるものをば下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃の入道を扶持し給ひけり。この行長入道、平家物語を作りて、生仏といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門(=延暦寺、註・如月)のことを、ことにゆゝしく書けり。九郎判官の事は、くはしく知りて書きのせたり。蒲冠者の事は、よく知らざりけるにや、多くのことゞもをしるしもらせり。武士の事・弓馬のわざは、生仏、東国の者にて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生仏が生まれつきの声を、今の琵琶法師は学びたるなり」
註7)
「日本紀以下律令ハ我国ノ事ナレドモ、今スコシ読トク人アリガタシ。仮名ニカクバカリニテハ倭ト詞ノ本体ニテ文字ニエカ(ヽ)ラズ。仮名ニ書タルモ、猶ヨミニクキ程ノコトバヲ、ムゲノ事ニシテ人是ヲワラフ。ハタト・ムズト、シヤクト・ドウト、ナドイフコトバドモ也。是コソ此ヤマトコトバノ本体ニテハアレ。此詞ドモノ心ヲバ人皆是ヲシレリ。アヤシノ夫トノヰ人マデモ、此コトノハヤウナルコトグサニテ、多事ヲバ心エラルヽ也。是ヲオカシトテカヽズハ、タヾ真名ヲコソ用イルベケレ。此道理ドモヲ思ツヾケテ、是ハカキ付侍リヌル也」(慈円のテクストの引用は、「日本古典文学大系」(岩波書店)本『愚管抄』による)

「慈円」 本文
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