院政期社会の言語構造を探る

慈円ーーまめやかの歌よみ
Jien comme un poete

 俊成の指導のもと、九条家で定家と和歌の技を競ったライバルに慈円と良経がいる。次に二人のプロフィールと作品(エクリチュール)を紹介しておこう。

 兼実の実弟・慈円(1155年−1225年)は、天台座主(延暦寺=天台宗の総本山の最高位)4回の、後鳥羽院政期仏教界の重鎮。現代では、慈円はもっぱら天皇家と藤原氏(九条家)のかかわりを書いた歴史哲学の書『愚管抄』の著者として知られているのではないか。しかし当時は、後鳥羽院政期を代表する歌人として重んじられ、後鳥羽院によって和歌所寄人にも任じられている。慈円自身も『愚管抄』のなかに、自己を「マメヤカノ歌ヨミ」(巻第六)、すなわち本格的な歌人と記した。『新古今集』への入撰歌数は92首で、西行の94首に次ぐ。これは生存作者中最多。生来の多作ぶりを反映して、死後に門弟らによってまとめられた歌集『拾玉集』には、甥・良経、俊成、定家、時の人・源頼朝らとの贈答歌(註1)を含めて5,802首と、当時としては例外的な数の和歌が収載されている(歌数は『新編国歌大観』<角川書店>所収の五巻本による)。

 そこで小論は、まず「マメヤカノ歌ヨミ」慈円の和歌のあり方をみていくことにしよう。兼実の項でも指摘したが、慈円の歌作の背景にあるのは、天皇家を中心とする(民衆と直結した)新たなタイプの文化の浸透に対する強い危機意識ではなかったか。今様、専修念仏などのしだいの興隆のなかで、摂関家といえども、古い朝廷文化をそのまま保持し伝えていくだけではなく、早急にそれを内部から刷新する必要にかられていた。その思いが、慈円をかりたてて大胆な修辞の跳梁する世界へ導いていく。
 専門歌人とはいえない慈円がそうした自己の信念を具現化するために選んだ装置が、時間をおかずに次から次へと和歌を詠む「速詠」であった。慈円にあっても、兼実周辺に集まる歌人たち同様、和歌とは自己の心情の「自動記述」にほかならないのだが、彼の場合、それはいささかの推敲をもゆるさぬ速詠というかたちで実現されなければならなかった。
 彼が方法論としての速詠に思いいたったきっかけは、若き日の百首歌詠進とみられる。文治三年(1187年)「厭離百首」、建久三年(1192年)「住吉百首」と、慈円は神仏に捧げる和歌を数多く詠んでいるが、この両百首は、あふれでる感懐にまかせて時をおかず瞬時のうちに詠まれており、慈円の研究者・山本一氏によれば、
速詠ということは、それが趣向として神を喜ばすのみでなく、社前での宗教活動の、直接の、作為や変形を含まない吐露であるという意味でも、この「証し」としての性格を保証するものであった(山本一氏「信仰と速詠」、『慈円の和歌と思想』所収、和泉書院、1999年)
という。次にみるような、特定の言葉のくり返し(たとえば「住吉百首」の場合の「色」という言葉)や、「なまめきたてる」などすぐに口をついてでる口語的な言いまわしの多用も、速詠である以上やむをえないこととして許される(註2)。
いつまでかなまめきたてる女郎花花も一時露も一時
こはいかに又こはいかにとに斯くに唯悲しきは心なりけり
いつか我苦しき海に沈み行く人皆救ふ網をおろさむ
睡みて又驚くは夢路よりやがて夢路に伝ふなりけり
世と共にあるかひもなき身にしあれば世を捨ててこそ世をば厭はめ
     (以上「厭離百首」より)

心ざし深きあまりに尋ね来ぬあはれと思へ住吉の神
さてもさぞ思ふ心の末やなに行くへを守れ住吉の神
世の中の世の中にてもあるならば悔しかるべき住吉の神
鶯の梢に来ゐる初音より色に色添ふ住の江の松
住の江の松のうは葉に春更けて変らぬ色に色ぞありける
     (以上「住吉百首」より)
 こうして個々の和歌の完成度を犠牲にしても、仏教者・慈円は、自己の心情の「作為や変形を含まない吐露」(山本氏)を選びとる。そして神前で試みた速詠を、次に一般の詠歌にも適用していく。速詠というかっこうのいいわけがあればこそ、多少の詠み損じやぎこちなさがあっても、専門歌人に十分伍していくことができる。いっぽう定家ら慈円周辺の才知に満ちた若い歌人たちにしてみれば、慈円が提唱する速詠は、瞬間的な発想の優劣を競う一種の技術比べという魅力をもっていた。したがって彼らとしてもこれを拒む理由はない。こうして慈円は、周囲の歌人たちを速詠の渦のなかに巻き込んでいく。
 しかし、技術としての速詠を競いながらも、慈円にとっての速詠は、あくまでも表層的な意識の下によどみ、うごめいているものをストレートに言語に汲みあげていくために要請される装置であった。慈円の作歌活動では、どこまでいっても、深層意識を言語化するという点が重視されるのである。したがって同じ観点から、速詠ほど自覚的なものではないが、専門歌人たちが考えもしなかったもうひとつ別の装置も選びとられる。「作品の子供への仮託」である。
 文治四年(1188年)、慈円は長治年間の堀河院の題にもとづく組題で、「早率露膽百首」を速詠しているが、この百首には速詠のほかにもうひとつ仕掛けがしてあり、たわむれに、比叡山の若い稚児が詠んだものだと記した。
都遠からぬ山寺にをさなきちごありけり。学問などもしつべしとて親の師につけたりけるなり。倶舎などもいとよう読みけり。ひるつかたわかき僧たちあつまりて遊びけるに、今の世の歌よみたちの百首とて見あひけるを事の外にのとまりてききければ、僧たち歌よみてんやといさむるを聞きて、題書きたる物や侍るといひける気色ことざまらうたく覚えて、堀川院百首をとりいだしてとらせたるをとりて、我がゐたるかたにたてこもりにけり。次の日もさし出でざりければいかになどいひける程に、第三日の午時ばかり此百首ををさなき様なる手にて書きつづけて、室のひろびさしのかたに要文うちふしてたちたり(以下略)
 百首全体は題に振りまわされてしまった感じで、みるべき作はほとんどないといっていいが、慈円の詠みぶりを知るため、以下に数首引いておこう。
さもあらばあれ春の野沢の若菜ゆゑ心を人に摘まれぬるかな (若菜)
思ひとけ夢のうちなる現こそ現の中の夢には有りけれ (夢)
皆人の知り顔にして知らぬかな必ず死ぬる別れありとも (無常)
 こうしてみていくと、慈円の和歌の新しさと定家ら新進歌人たちの和歌の新しさは、伝統的な和歌の様式からの脱却・破却ぶりにおいては似ていても、めざすところはいささか異なるということになる。にもかかわらず、あるいはそれゆえ、
慈円が定家の新風に対して抱いた共感は、定家の意識的・方法的な試みの、個々の成果に対してよりも、定家の姿勢の一側面としての、和歌表現の固定した規範からの脱却の志向に向けられていたらしく思われる(山本一氏「速詠の季節」、前掲書所収)
ということになろう。
 このように完成度を犠牲にして頓着しない慈円の和歌の、結果的な『新古今集』への入集の多さについては、山本一氏が次の3つのポイントを指摘しており、小論もそれに従いたい(山本一氏「『新古今集』の慈円歌」、前掲書所収による)。

 1) ネーム・ヴァリュー。門地が高く、宗教的資質においても(単に僧官が高いだけでなく)尊敬されており、かつ歌人としての実績や名声もある、という条件が揃っていた。
 2) 仏教的述懐歌が非常に多く入集した。これはおそらく、『新古今集』が編纂段階で相当数の遁世・無常・求道の歌を必要とし、その需要に応え得たのが慈円の作品群であった(註3)。
 3) 慈円の歌風の多様性。彼の作品には、優美な宮廷風から深刻な宗教詠、軽い諧謔調から革新的な表現技法に到る幅が含まれていて、撰者の嗜好のばらつきや、集の編纂上の必要の様々な側面に、それぞれ対応する部分があった。

 文芸としての達成度の高さからのみ『新古今集』をみようとする文学史家にとっては、いささか皮肉な分析結果というべきであろう。
 こうしてみてくると、最終的に慈円には、歌人というより、新たな文化のあり方を探求しようとする文化人という側面の方が強い。しかし文化人としての彼の大きさは、そうした新文化のあり方を理論として示したことにあるのではなく、いっぽうで新しい価値観・審美眼にもとづく和歌を実作し、同時に若い歌人たちにそれを奨励していったところに示されていると思う(註4)。

 次に歴史学者・慈円をみてみよう。
 承久年間(1219年〜22年)の緊迫した政情のなかで書かれた晩年の著作『愚管抄』は、歴史(時間意識)に名をかりた「末法思想」を逆手にとって、歴史的観点から、天皇と摂関をめぐる政治のあり方(道理)を探ることを述作のねらいとしている。ゆえに『愚管抄』は先行する『大鏡』等のように、権力者の移り変わりとそのプロセスの叙述に終始した単なる歴史書ではない。慈円の主眼は、時間をつらぬき、時代を動かしていく「道理」の解明と、次の政治ステージへのその適用にある。したがって、「歴史(時間)」に着目しながらも、慈円の世界観・時代意識は、歴史のなかに人間のはからいを超えて世界を終末へ導いていくものしかみようとしないいわゆる「末法思想」とは、本質的に大きく異なるものであった。
『愚管抄』で正法ということばが使われる場合には、日本の天皇のあり方が理想的であった時代のことを指している。したがって『愚管抄』の基本は、神々の約諾にあり、仏教的な諸概念は神々の約諾の展開をとらえ、叙述するうえで用いられるものにすぎなかった(大隈和雄氏『日本の名著/慈円・北畠親房』解説、中央公論社、1971年)
 してみると、『愚管抄』を単なる歴史書とみて、歴史文学の流れのなかに封じこめてしまうのがいかに不当なことかが明らかになってくる。慈円にとって、歴史はあくまでも政治的な道理を解明するための手段なのであり、あえて『愚管抄』をなんらかのジャンルに分類する必要があるとすれば、むしろ「政治学」の著作とするのが妥当であろう。九条家の立場から執筆しているという制約はみられるが(註5)、政道のあり方を論ずる著述の出現という意味で、これはやはり、時代を画するできごとなのである。
 また慈円と歴史書のかかわりに関して、もう一つ無視できないのは、『徒然草』のなかで、兼好が、慈円は信濃前司行長を扶持していたとしていること、そしてこの行長を『平家物語』の作者としていることだろう(『徒然草』第226段、註6参照)。行長は、元久二年(1205年)の詩歌合に参加するなど九条家と縁の深い人間だが、自己が『愚管抄』を執筆する一方で、(『徒然草』の記事が事実とすれば)扶持する人間に『平家物語』を書かせるといったところにも、慈円の歴史(政治文学)に対するなみなみならぬ関心がうかがえる。少なくとも、中世人・兼好は、慈円をそうした人物とみていたということだ。
 いっぽう表現の面から見逃すことができないのは、『愚管抄』の叙述をすすめるにあたり、慈円が意図的に当時の世俗的言語を採用しているという点である。すでにみたように、和歌においても、口語的表現が入りこんでくることをけして拒まなかった慈円ではあるが、散文で書かれる歴史書においてこうした表現形式をとる理由は、次のように、『愚管抄』のなかに明確に記してある。
『日本書紀』にはじまる六国史や律令はわが国のことを書いたものであるのに、今は少しでも読解できる人はまれなのである。そこで仮名ばかりで書くと、日本語の本来の性格から漢字とその表現にはかかわりがなくなるであろう。ところが世間の人は、仮名で書いてもなお読みにくいようなことばをとりあげてどうしようもない低俗なものとして嘲笑するのである。たとえば、ハタト、ムズト、シャクト、ドウトなどのことばがその例であるが、わたくしはこれらのことばこそ日本語の本来の姿を示すものと思う。これらのことばの意味はどんな人でもみな知っている。卑しい人夫や宿直の番人までも、これらのことばのような表現で多くのことを人に伝えまた理解することができるのである。それなのに、こうしたことばは滑稽であるといって書く時に使わないとすれば、結局は漢字ばかりを用いることになってしまうであろう。そうすれば漢字の読める人は少ないのであるから、この間の道理を考えた末に、以下のような書き方で書くことにしたのである(『愚管抄』巻第二、大隈和雄氏訳、中央公論社『日本の名著/慈円・北畠親房』1971年より。原文は註7参照)
 『愚管抄』全体は、結果的に主語・述語・挿入句の入り組んだ複雑な構文をとることが多いが、そのなかで、歴史の現場に立ち会った証人の生の会話の採用等は、叙述全体に緊迫感をもたらしている。

 こうして慈円のエクリチュール活動全体をみてくると、彼は時代の変化を悲観してその方向を変えることを断念してしまったのではなく、変化の原因をみきわめ、「理(言語)」で外の世界を律していこうという傾向が強かったことが明らかになる。ちなみに、これまでもたびたび引用した大隈和雄氏は、慈円の達成を次のようにまとめている。
一つの時代が政治的にも文化的にも終わろうとする時代に生きた慈円は、自己の生きた時代の論理を自覚的に把握し、それによって日本の歴史、特に自己の生きた時代の歴史をまとめあげることにつとめた。『愚管抄』は、その意味で貴族文化がみずからの手で行なった、総決算の書であった。そして、慈円はその地位、学識・才能すべての点で、決算を遂行するにもっともふさわしい人だったのである(大隈和雄氏、前掲解説)
 小論は、大隅氏と時代認識を異にし、慈円の時代は政治的にも文化的にも新しい段階のはじまりととらえているが、大隅氏による慈円の社会的位置付けそのものは妥当だろう。元久、建永年間に良経、兼実が相次いで没した後、九条家の代表者として、宗教のみならず、政治、文化の各分野の第一線で活動した慈円こそ、この時代の貴族文化を体現した、最高の教養人といっていいと思う。

平成15年1月27日

 

 

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