院政期社会の言語構造を探る

花月百首 註

註1)
 『玉葉』建久元年九月十四日条に次のような記事がみえる。
 「去夜大将(良経)の九条邸に於て、密々百首を講ず。花月各五十首、法印(慈円)密々行き向はると云々。」

註2)
 当座の歌合の全貌は知るよしもないが、慈円の歌集『拾玉集』に、この折慈円が詠んだ歌が記されており、その一端がうかがえる。

  雨後十三夜
長月の今宵の空を汚さじと時雨るゝ雲の思ひ知りけり
  月前契秋後
誰もまた今宵の月を忘るなよ秋のみ空に廻り逢ふまで
頼め置く人の情をあはれとも冬こそは見め秋の夜の月
  夜半思立恋
嬉しくも鐘より先に夢覚めて頼めし夜半の思ひ出でぬる
註3)
 久保田淳氏の指摘(『新古今歌人の研究』、東京大学出版会、1973年)によれば、良経の歌は、たとえば
  今日もまた去年栞せし山に来て契り知らるゝ花のかげかな
が、西行の
  吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花をたづねむ
の歌を、また
  厭ふべき同じ山路に分け来ても花故をしくなる此の世かな
が、同じく
  うちつけにまたこむ秋のこよひまで月ゆゑ惜しくなる命かな
の歌を思いおこさせる。

註4)
 「花月百首」までに定家が詠んでいる百首歌は次のとおり。
 @「初学百首」(養和元年)、A「堀河院題百首」(養和二年)、B「二見浦百首」(文治二年)、C「皇后宮太輔百首(殷富門院太輔百首)」(文治三年)、D「閑居百首」(文治三年)、E「早卒露膽百首」(文治五年、慈円勧進の速詠)、F「重奏和早卒百首」(文治五年、同前)、G「一字百首」(建久元年)、H「一句百首」(建久元年)

註5)
 慈円の作は花を雪と言いかえたことだけが眼目のほとんど拙劣な歌だと思う。歌のなかで比喩が浮いている。

註6)
 「この歌は「雪月花」の雪と月を表に出し、ことさらに花を隠したところに定家のたくらみがあると考へられる。梢の桜は盛りを過ぎて咲き溢れる。空を抜け出でて来た月、なごりの雪の色をそこにとどめたように仄白い。山桜の散り紛ふ寸前のしづけさ、おとづれる風も匂ふばかり。様式美、それも言葉の配合の上での満を持したかの風情であり、しかも緊張感はほぐれて朧なやすらぎに一首は宙を漂ってゐる」(塚本邦雄氏『定家百首ーー良夜爛漫』、河出書房新社、1973年)

註7)
 この歌合の歌は、『拾玉集』によって以下の慈円の作のみ知られる。
  夜憶紅葉
袂にも夜の錦はあるものを根山のよそに時雨過ぐなり
時雨ゆゑ袖に色ある寝覚かな山廻りする梢のみかは
  暮秋暁恋
帰るさに飽かぬばかりを情にて秋の別れを思はざりせば
暮れて行く秋のあはれの有明は尽きせぬ恋の限りなりけり
 なお、久保田淳氏によれば、この撰歌合の俊成筆草稿本は尊経閣文庫に蔵されているといい(『新古今歌人の研究』、東京大学出版会、1973年、645ページ;小項執筆時点で筆者は未確認)、荻野三七彦氏による部分的な翻刻もある(細註1参照)。

註8)
 この歌合の歌は、『拾玉集』によって以下の慈円の作のみ知られる。
  秋日易暮
程もなく今日も暮れぬといふことや真に秋のあはれなるらむ
  終夜擣衣
衣擣つきぬたの音は暁の鐘のあはれに続きぬるかな
  毎月過恋
七夕の年の契りのあはれさを月になしても尽きせぬやなに

註9)
 藤原任子(1173年−1238年)は、良経の同母妹(母は藤原兼子)。文治六年(1190年)正月、後鳥羽天皇に入内し女御宣下、建久元年(文治六年を改元)四月に立后し中宮となる。建久六年(1195年)昇子内親王出産。正治二年(1200年)女院となる<宜秋門院>。
 なお、「花月百首」撰歌合の俊成草稿(細註1参照)には、「秋の宮人」を詠み込んだ良経、慈円の作がともに撰ばれており、この歌合が関係者によってどのように位置づけられていたかを知るうえで注目される。

註10)
 後白河院と頼朝をめぐる「古今著聞集」のエピソードについては、こちらのページを参照。



花月百首 本文