院政期社会の言語構造を探る

花月百首 細註1
 
荻野三七彦氏の論考「藤原俊成本春記並にその紙背文書の研究」について 


 俊成による「花月百首」撰歌合の草稿は、荻野三七彦氏の論考「藤原俊成本春記並にその紙背文書の研究」(『史学雑誌』第50編第2号、1939年2月)に翻刻・紹介されている。荻野氏の論考「藤原俊成本春記並にその紙背文書の研究」全体の構成および論旨は次のとおり。

【序】
建久元年書写の奥書をもつ『春記』(藤原資房<1007年−57年>の日記、藤原頼通執政期を探る貴重な史料。私情を大胆に記し、自己の不遇への憤慨を吐露することが多い)の親本に接して、これが俊成に関係を有するとの事実を確認したことの表明。
【一 定家の春記】
建久九年、定家が兼実から『春記』を借覧して書写するなど、俊成・定家が『春記』に強い関心をもっていた事実の確認(ただし、定家写本系統の本は伝来しない)。
【二 俊成本春記】
建久元年書写本(正確には『春記』の抄写本)奥書の花押を俊成の法名「釈阿」を合体したものと判読。俊成が書いたことが知られている書状の花押と比較して、これを俊成自身の花押と指摘。なお書写自体は、俊成の命をうけた藤原能成(源義経の母として知られる常磐御前と大蔵卿・藤原長成の息男)によるものである。
【三 紙背歌合】
『春記』建久元年書写本紙背に書かれた和歌の翻刻(下掲)と背景説明。
【四 紙背文書】
和歌以外の紙背文書(俊成宛の書簡)の紹介と分析。

 さていよいよ、「花月百首」俊成草稿である。まずその残存状態についての荻野氏の説明をきいてみよう。

これは永承三年正月以下の記事を有する一巻の紙背に料紙四枚(内一枚は宿紙)を以つて四十六首の歌が書かれている。既にこの一巻については先にも述べた如く、巻末の料紙に多少の欠失があるから、従つてその紙背の料紙は最初の一部を失つてゐるものと考ふ可きである。扨この歌は俊成自らの書写したもので、有名な前田尊経閣所蔵の国宝広田社歌合の雄健闊達な俊成の筆蹟と全然一致し、聊かの疑点を存しない(荻野氏前掲論考)

右のうちで良経を左大将とし、慈円に対しては法印と称し、子の定家のみは単にその実名を以つてしてゐるが、この点に於いてもこれが俊成の手になつたものであるとの推定を補ふに足りるのである。この歌合の失はれた部分には「一番」の文字のあつた事は後に「二番」とある事により想像される。且又二番の方人「左」の慈円に対して「右」の方人が記されてゐない。そしてこの慈円の歌の後には猶料紙に余白七寸余あつて、如何にもこれより後の部分が存在してゐた如くには思はれない。これ等の点よりしてこれは歌合の案文であつて、更に俊成の手によつてこの清書されたものが別にあつたのであらう。本歌合には判詞はないが、良経の歌に九首、定家は三首、慈円は五首と各々三角、丸その他の記号が付せられてゐるのは、俊成によつて加点されたものであらう。然し題には十首となつてゐるのであるが、良経は十八首、定家は十三首、慈円は十五首とその詠歌の数は各人十首を超過し、且又その数も不同であつて歌合としてこれを番する事は出来ない(荻野氏前掲論考)


 したがって荻野氏は、「これは或る歌合の形式を成す以前のものであると見るべきであらうか。即ち俊成はこれに勝と持との判別をなし、更に判詞を加へて清書したものであらう」(荻野氏前掲論考)との判断をくだしているのである。
 荻野氏による草稿の翻刻は次のとおり(ただし、荻野氏によって、仮名は便宜常用体にあらためられている)。

月十首
 左     左大将
さらぬたにふくるハをしき秋のよの
月よりにしにのこるしらくも
厂しかもわひむしもうらむるところとて
つゆけきのへに月そやとれる
くもきゆるちさとのほかに□らさえて
月よりうつむ秋のしらゆき
厂きよみかたはるかにおきのそらはれて
なみより月のさえのほるかな
○厂むしあけのせとのしほちのあけかたに
なみの月かけとほさかるなり
△厂おもひやるこゝろにかすむうみやまも
ひとつになせる月のかけかな
厂ひろさわのいけに□ほくのとしふりて
なほ月のこるあか月のそら
わかやとはをはすて山にすみかへつ
みやこのあとを月やもるらん
○こよゐたれすゝのしのやにゆめさめて
よしのゝ月にそてぬらすらん
厂月たにもなくさめかたきあきのよの
こゝろもしらぬまつの風かな
厂よものうみなみもしつかにすむ月の
かけかたふかぬきみかみよかな
くものうへはるかにてらす月かけを
秋のみやにてみるそうれしき
あさひさすかすかのみねのそらはれて
そのなこりなる秋のよの月
秋そかしこよひ許のねさめかは
こゝろつくすなありあけの月
かきくもる心いたふなよはの月
なにゆへおつる秋のなみだぞ
厂よこくものあらしにまよふ山のはに
かけさたまらぬしのゝめの月
厂むらくものしくれてすくるこすゑより
あらしにはるゝ山のはの月
秋のいろのはてはかれのとなりぬれと
月はしもこそひかりなりけれ

 右     定家
あきはきぬ月はこのまにもりそめて
おきところなきつゆのそてかな
厂ふかくさのさとのまかきはあれはてゝ
のとなるつゆに月そやどれる
さむしろやまつ□の秋の風ふけは
月にかたしくうちのはしひ□
あつまやのまやのあまりのつゆかけて
月のひかりもそてぬらしけり
よもきふのまかきのむしのこゑわけ□
月は秋ともたれかとふへき
厂月ゆへにさゝすはしはしことゝはん
しはのあみとにわれまたすとも
なかむれはまつよりにしになりにけり
かけはるかなるあけかたの月
あけは又秋のなかはもすきぬへし
かたふく月のをしきのみかは
いく秋とゆくへも知らぬ神よ□□
たもとにみする月のそらかな
厂とこのうへのひかりにしものむすひきて
やかてさえゆくあきのたまつゝ
そてのうへまくらのしたにやとりたる
いくとせなれぬ秋のよの月
あくかるゝ心はきはもなきものを
山のはちかき月のかけかな
月きよみねられぬよゝもゝろこしの
くものゆめまてみる心ちする

二番
 左     法印
みか月のほのめきそむる□き□□□
やかて秋なるそらのかよひち
秋のよの月のあたりのむらくもを
はらふとすれはをきのうは風
うちしくれほれゆくそらをなかむれは
月のかつらもいろまさりけり
月かけの身にし□おとゝなる□□□
ひかりをわくるみねのまつ風
厂みやまへはこかけもくらしなみちこそ
はるかに月はさえまさりけれ
厂きよみかた月のひかりのさえぬれは
なみのうへにもしもはおきけり
おもひいるこゝろのすゑに月さえて
ふかきいろある山のおくかな
おもひいりてなかむるよはの月□□□
みやこのそらもをはすての山
かへりいてゝのちのやみちをてらさなん
こゝろにやとるやまのはの月
のへしむるすゝのしのやににしきたちて
まとにかたふく月をみるかな
ありあけの月のゆくへをなかめてそ
のてらのかねはきくへかりける
このもとに月もひかりをやはらけて
神さひわたるみねの松風
厂みかさ山なかむる月はゆくすゑの
秋もはるけし秋の宮人
厂よろつよの秋のためしとみゆるかな
みもすそかはにすめる月かけ
厂いか許くれゆく秋をゝしまゝし
月のさかりのわかれなりせは

註:俊成草稿の表記をインターネットの画面にそのまま再現することは不可能と判断せざるをえなかった。たとえば、仮に「厂」と示した記号(削除案?)は、実際には一首の頭の数文字に掛かっている。くわしくは、荻野氏の論考の原文(数葉の写真付き)にあたって確認して頂きたい。)

 さて草稿には良経、定家、慈円の三人の歌しか記されていないのが残念だが、一番=良経(左)対定家(右)、二番=慈円(左)という組み合わせ方から判断すると、慈円と番えられたのは出家者の寂蓮で、三番は丹後(左)と有家(右)という組み合わせを想定するのが自然であろう。つまり、左の方人が九条家内部の人間、右の方人が外部から招いた専門歌人というわけである。
 荻野氏が指摘しているように、この草稿は三人の歌集に残されている百首歌との言葉や表記の異動があり興味深いのであるが、内容的にも、俊成の歌の好みを知るうえで貴重な史料といえる。たとえば定家の歌でいうと、「さむしろやまつよの秋の風ふけて月をかたしくうぢのはし姫」(草稿との助詞の使い方の違いに注目。定家はこの歌の披露後、細部に改訂をほどこしたのであろう)という、大胆な修辞をもちいた歌を残す一方で、のちに後鳥羽院によって本歌取された「あぢきなく物おもふ人の袖のうへに有明の月の夜を重ねては」が除外されているのである。
 また良経、慈円の歌で、「秋の宮人」すなわち中宮・任子に言及した歌を残している事実も、「花月百首」成立の背景を考えるとき、見逃すことのできない選択といえそうだ。
 なお、荻野氏は、他の紙背文書との関係から、この歌合開催を文治四年の頃と推定しているのであるが、『玉葉』の記述から建久元年九月に開催されたという事実は動かせない。もっとも荻野氏自身、「これは建久元年十一月六日以前の事であるなら聊かも矛盾は来たさない」と、上記の推定に限定条件をつけてはいる。



花月百首 註