院政期社会の言語構造を探る

花月百首
Kagetsu Hyakushu (Cent wakas par les themes des fleurs de cerisier et de la lune)

 定家をはじめとする若い歌人たちを受け入れ、九条家ではつぎつぎと新しい和歌の試みが行われていった。その典型として、「花月百首」「十題百首」「六百番歌合」を取り出し、くわしくみていくことにしよう。

 良経は、建久元年(1190年)九月十三日、九条邸に親しい歌人たちを招き、「密々に百首を講じた」(『玉葉』建久元年九月十四日条;註1 )。このときに披露された百首歌を「花月百首」という。
 この花月百首は、通常、文治六年(1190年、四月に建久と改元)春に死んだ西行追善のために行われたものと理解されている。当日は主催者良経をはじめ慈円、定家、寂蓮(定家の従兄弟)、藤原有家(六条家)、丹後(源頼政の弟・頼行の娘;良経の妹で鳥羽天皇中宮任子付きの女房。後に宜秋門院丹後と名乗る)が出席して百首歌を披露した。また良経にとっては、この百首が歌壇への本格デビューとなった。
 各人の和歌は、名称のとおり、西行が好んだ花(桜=春)の和歌五十首、月(=秋)の和歌五十首の連作。これは単なる題詠や表現のバリエーションの模索という範囲を超え、「花」「月」というモチーフのもと、各人がどれだけ異なった情景を提示できるかという連想の豊かさを問う試みでもあった。また、花でいえば咲き初めから落花へという歌から歌への連続も重視され、定数歌をまとめて鑑賞するということへの新しい試みともなっている。
 十二日の夜から続いていた雨が晩にはあがり、当夜はまずまずの名月が眺められたようだ。百首の披露がよほどもりあがったらしく、歌会終了後「雨後十三夜」「月前契秋後」「夜半思立恋」の題で当座(即興)の歌合も行われている(註2)。
 寂蓮らの百首歌は散逸してしまったが、幸いなことに良経、慈円、定家の百首歌は現存している。ここでは、まず、そのうち花五十首の一部を、慈円、良経、定家と順にみていこう(三人の花月百首全体については、別註参照)。
【慈円】
吉野山花待つ空の朝霞咲かぬ梢の色とこそ見れ
はや匂へ独り眺むる山桜咲かずば誰か尋ねても見む
春ならで誰か訪ひ来し山里に花を待つこそ人を待ちけれ
梢には花の姿を思はせてまづ咲くものは鴬の声
山里の春のあるじを人問はば己が尋ぬる花と答へよ
吉野山花を尋ぬる人は皆わが類ひとや我を見るらむ
咲き初むる花の梢を眺むれば雪になりゆくみ吉野の山
山桜匂はぬ程の白雲はいつかはよその目にも懸りし
花ゆゑに厭ふものまでながむかな隔つる霞散らす山風
見る人の心にかゝるものやなに春の弥生の白河の雲
(中略)
思ふべし今年ばかりとながめ来て四十の春の花に馴れぬる
散る花の故郷とこそなりにけれ我が住む宿の春の暮方 

【良経】
昔誰かかる桜の種をうゑて吉野を春の山となしけむ
谷川の打ち出づる浪に見し花の峯の梢になりにけるかな
尋ねてぞ花と知りぬる初瀬山霞の奥に見えし白くも
花なれや山の高ねの雲居より春のみおとす瀧の白糸
立田山折々見する錦かなもみぢし嶺に花咲きにけり
かづらきの嶺の白雲かをるなり高間の山の花盛りかも
比良の山は近江の海の近ければ浪と花との見ゆるなるべし
さらにまた麓の浪もかをるなり花の香おろす志賀の山風
秋はまた鹿のね告げし高砂のをのへの程に桜一むら
明け渡る外山の梢ほのぼのと霞ぞかをる宇治の春風
(中略)
なほちらじ深山かくれの遅桜またあくがれむ春の暮れかた
高砂の尾上の花に春くれて残りし松の栄えゆくかな 

【定家】
さくら花さきにし日より吉野山そらもひとつに薫るしらくも
足引の山のはごとにさくはなの匂にかすむはるのあけぼの
花ざかり外山の春のからにしきかすみのたつも惜しき頃かな
かすみ立つ峯のさくらのあさぼらけくれなゐくゝる天の川波
さくら花ちらぬ梢に風ふれててる日もかをる志賀のやまごえ
花ののちやへ立つ雲に空とぢて春にうづめるみよし野のそこ
さもあらばあれ花より外のながめかは霞にくらすみ吉野の春
あくがれし雪と月との色こめてこずゑに薫るはるのやまかぜ
吉野山かすみ吹きこす谷風にちらぬさくらのいろさそふらむ
降り来ぬる雨もしづくも匂ひけり花より花にうつるやまみち
(中略)
あと絶えしみぎはの庭に春くれて苔もや花のしたに朽ちぬる
吹く風もちるも惜むも年ふれどことわり知らぬ花のうえかな
 華麗という言葉がこれほどふさわしい百首歌および歌会はそれほど多くはないが、この百首をとおして重視された歌の連続が具体的にはどのようなものか、久保田淳氏による良経の作の分析にしたがってみていくと次のようになる。
名所名所の花への讃歌(これは単純な自然詠と見倣される)が十首ほど続いた後、自然に人事が流れ込んできて、まず九重の雲居における満開の花が二首にわたって叙される。次いで、六首にわたり、人の訪れを待つ心が宿の桜に寄せて叙され、更に花を尋ねる心へと進む(十四首ほど)。その間に篇は進んで、落花を詠まなければならなくなるので、ここに無常思想が導入され(四首)、落花の風情を表現するために、四首にわたって再び名所が詠み込まれる。そして、惜春の情が述べられ、
  たかさごのおのへの花に春くれてのこりしまつのまがひゆくかな
と閉じる(久保田淳氏『新古今歌人の研究』、東京大学出版会、1973年、引用歌の表記は原文のママ)
 いかに細やかな配慮が行われているかがわかるが、良経は、
今日もまた去年栞せし山に来て契り知らるゝ花のかげかな
厭ふべき同じ山路に分け来ても花故をしくなる此の世かな
と、その間に西行の作を想記させる歌を挟み込むことも忘れてはいない(註3)。

 また慈円、良経、定家の作を並べて比較すると、一首だけでは明確にわからない各歌人の個性が、連作のなかでくっきりと浮かびあがってくる。
 たとえば、慈円の歌には「人」という言葉が多く用いられるばかりでなく、「見る」「眺むる」「待つ」「思ふ」「問う」「尋ぬる」という人と人との関係を示す述語が頻出し、桜の咲く光景よりも、それが人々(および自己)とどのような関係を結ぶかに関心が集中していることがすぐにみてとれる。
 いっぽう良経の歌は、これが最初の百首歌挑戦だけに表現がまだ硬く、吉野、初瀬山、立田山、葛城、比良、近江、志賀と歌枕の地名を詠みこむことによってかろうじて内容に違いをもたせているような面もある。
 定家にとっては、これが十度目の百首歌となるだけに(註4)、個々の歌の完成度を追求するだけでなく、全体の流れをみわたして歌をバランスよく配分し、百首全体を一個の作品として味わわせるという配慮がなされている。

 また各人の歌のなかには、花という言葉も桜という言葉も使わずに花を詠みこんだ歌が数首あり、「花」の氾濫のなかで目立っている(慈円2首、良経2首、定家3首)。
風渡る梢も道も春ながら雪のみ分くる志賀の山越え 慈円
明け渡る外山の梢ほのぼのと霞ぞかをる宇治の春風 良経
あくがれし雪と月との色こめてこずゑに薫るはるのやまかぜ 定家
 しかし、慈円と良経の歌が「雪のみ分くる」「霞ぞかをる」と比喩をつかいながら、あくまでも具体的な情景の美を詠みこむというたてまえのうえに成立している歌であるのに対し(註5)、定家の歌は、塚本邦雄氏の解釈(『定家百首ーー良夜爛漫』、河出書房新社、1973年;註6)のように、「あくがれし」花を積極的に隠すことによってその憧憬を強めた、花への憧憬そのものが主題の歌といえる。その隠れた花をさらに強調するために、比喩としてではなく、より具体的なイメージとして「雪と月」が必要だったのだといえよう。慈円、良経が「志賀」「宇治」と都に近い歌枕の名所を詠みこんで、その情景を浮かび上がらせようとしているのに対し、「はるのやま」と場所を特定することを拒んだなかにも、定家の鋭い配慮ははたらいている。
 こうした試みを経た歌人たちは、以後、題詠といっても、与えられた題をストレートに歌の中心に据えて詠むということは行わなくなる。

 この花月百首はよほど人々の興をよんだのであろう。二十二日には俊成をよんで、百首から各十首を撰定しての歌合が行われた。この歌合には兼実も立ち会っており、「玉葉」に次のような記事が残されている。
 「夜に入り、俊成入道、季経已下歌人五六人、大将方に来たる。花月百首、各十首を撰定しこれを合はす。俊成入道雌雄を決すと云々。余並びに法印、簾中に於て竊にこれを聞く。興味尤も深し」(『玉葉』建久元年九月二十二日条)。撰歌合の後は、「夜憶紅葉」「暮秋暁恋」の題でまたもや当座の歌合が行われた(註7)。
 余韻は消し去りがたく、二十四日も次のように、兼実邸で当座の歌合が行われている。
 「法印来らる。親性同じく来たり、仏法興隆の間の事談義。夜に入り俄に和歌あり(註8)」(『玉葉』建久元年九月二十四日条)。

 しかし、これほどの百首がこの時点でなぜ披露されたのであろうか。私は、そのねらいは西行追善だけではなかったと思う。
 花月百首を人事の面からみると、慈円と良経の月の歌には、秋の宮人、すなわち後鳥羽天皇の中宮として当年九条家から入内した任子(註9)への言及がある。
三笠山眺むる月は行末の秋も遙けし秋の宮人 慈円
雲の上遙かに照らす月影を秋のみやにて見るぞうれしき 良経
この両首には、任子をとおして九条家が天皇の外戚となるという、家の未来に対する明るい希望が反映されているといえそうだ。

 しかしそれ以上に、私は、この花月百首が披露された建久元年九月というタイミングを重視したい。
 建久元年に起きた政治的な最重要事件とは治承・寿永の内乱後初の頼朝の上洛であるが、花月百首の歌会は、京・鎌倉で同時に進められていたこの上洛準備のさなかに開かれている。「古今著聞集」は、頼朝が上洛した際、後白河院は頼朝を蓮華王院の宝蔵に導きいれようとしたと伝えているが(註10)、良経(九条家)としても、この百首歌を鎌倉に対する京の文化的達成のデモンストレーションと考えていたのではないか。
 朝廷からのたびたびの招請にもかかわらず上洛をかたくなに拒み続けてきた頼朝がいよいよ上洛するとなった時、反幕派も親幕派も、朝廷人は文威をもって武威を迎えようとしていた。
 花月百首にみなぎる緊張感を、そうした面から理解してみたい。

平成15年3月16日

 

 

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