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反院政派・兼実 註
註1)
これにたいし、超越的存在である天皇を決定するの血統のみであって、天皇に執政能力は要求されない。それゆえ幼児でも天皇になることができるのであり(堀河10歳、鳥羽5歳、崇徳5歳、近衛3歳等)、逆に、天皇は三種の神器の相続という外的事実によって天皇としての正統性を付与されることになる。院政期の天皇家の文化ヴェクトルと摂関家の文化ヴェクトルを比較するとき、この「身位の根本的な相違」(橋本義彦氏「院政論」、『平安貴族社会の研究』所収、吉川弘文館、1976年)がもつ意味は大きい。
註2)
なお龍福義友氏は、次のような指摘も合わせ行っている。
「先例や既成事実にしばられずに「理の当るところ」を考えようとする考え方がこの書き方に高い親近性をもつことはおそらく確かでしょう。このことは、同じように私的自律性の高い書きぶりを示す日記、例えば玉葉に近い時期で言えば台記(藤原頼長)・明月記(藤原定家)といった日記の書き手の考え方についても、一つの見通しを与えるものです」(龍福義友氏『日記の思考――日本中世思考史への序章』、平凡社「平凡選書」、1995年)
註3)
従来の文化史あるいは文学史のなかで、九条家の文化は、それが朝廷を中心としたものであるというだけの理由で古代の残滓とされることが多かったのではないか。これには、文化史や文学史の院政期理解が、在地の荘園領主(=武士)が朝廷や中央貴族の支配を脱却し自立していく過程こそが中世への移行であるとする「領主制論」の枠組みにとらえられ、そのなかで展開してきたことによるものが大きいと思う。
九条家、あるいはより広く摂関家の文化が朝廷を中心としたものであることは、筆者も否定しないが、貴族(朝廷)の文化=古代、武士の文化=中世といった単純な分類では、それぞれの文化がもっている特質をとらえることが困難であると思う。
小論が追求してみたいのは、貴族、武士、寺社勢力(権門)が互いに他を圧倒することなく相補的に共存し、相互に影響を及ぼしあいながら一つの社会、一つの文化を構成していたダイナミックな時代史であり、これをもって権門体制論ととらえたい。
また「領主制論」による直線的な経済史・政治史理解の枠組みにかわって、最近は公的な土地領有と私的な土地領有(荘園)の存在を共時的かつ相補的なものであるとする「荘園公領制」を基軸とし、それに社会の上部構造としての権門体制論をからめる歴史理解が定着しつつあるように思えるが、公家権門すなわち朝廷の文化そのものが、院と摂関家で方向性を全く異にしはじめていることは、小論が明らかにしたいと考えている大きなポイントのひとつでもある。
やや論点先取となってしまうが、この時代、朝廷の文化を(対武家権門という観点から)ひとつの括弧のなかにくくるのはほとんど不可能であると思う。
註4)
ちなみに、兼実と番えられた右歌(下掲)の作者は源三位頼政だった。
あづま路を朝たちゆけば葛飾や真間の継橋霞わたれり
註5)
本郷和人氏は、「鎌倉時代の朝廷の指導者としてまず登場するのは、源頼朝と結んだ九条兼実である。頼朝の朝廷への要請は兼実のもとで具体化し、また実現される」(本郷和人氏『中世朝廷訴訟の研究』、東京大学出版会、1995年)とし、兼実執政期の@陣定の流れ、A記録所の活動(細註参照)を分析している。
本郷氏によれば、その分析をとおした兼実執政の特徴(兼実の指針)は次のとおり。
「兼実は、後白河上皇が役夫工米の賦課を勝手に免じたことに対し、「任法可有免否」(『玉葉』文治四年六月七日。原文は「只任法有免否必有後乱歟」であるが、前後からして、只に法に任せて免否あらずんば、あるいは、法に任せずして免否あらば、と読むべきだろう)「雖有御免之庄々、無其理ハ可召返」(『玉葉』建久二年閏十二月二十八日)と指示している。また小槻広房が上皇の一存で大夫史に還補されたことに関しては、「於近臣寵臣等之事、専不能是非、官外記及諸道之輩事…不乖道理可被行歟、是偏為天下也」(『玉葉』建久二年四月二十三日)と上皇への不満を表明している。上皇の勅裁に直接干渉する記録所を再興したことや、再三の覆奏を行なう議奏公卿の設置からみても、彼は明かに、恣意的な専制をふるう上皇を「法(この場合、朝廷の伝統的規範を意味する)」を以ておさえんとする意図を有している。それゆえに、伝統に捉われず、治天の君たることに至上の価値を主張する上皇との対立は避けられなかった。彼が頼朝との連携によってのみ主導権を確保できた事実は、この点で大きな意味を持つ。訴訟制の整備にむけての兼実の積極的な活動を支えていたのは、武力の強力な統轄者である頼朝であったといえよう。彼の援助を失うと同時に失脚せざるを得なかったのは、兼実の真の対抗者が、源通親や高階栄子といった一権臣ではなく、彼らの背後にあった上皇の巨大な力だったからに他なるまい」(本郷和人氏、前掲書)
註6)
高階栄子(?−1216年)。後白河院近臣・平業房の未亡人で、院とのあいだに宣陽門院觀子(1191年−1252年)をもうけ、母子ともに法皇の寵愛が深かった。平氏の都落ちにさいしては、安徳天皇にかわり、高倉天皇の第四皇子・尊成親王(=後鳥羽天皇)を天皇に推挙、後鳥羽天皇にたいしても強い発言力をもっていた。後白河院没にさいしては遺領長講堂領の管理権を入手し、源通親と結んで反兼実勢力を形成した。

反院政派・九条兼実 本文
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