院政期社会の言語構造を探る

反院政派・九条兼実
Kanezane Kujo, comme un chef de la contre-force a In

 藤原兼実は父忠通にならって和歌をよくし、後白河院政末期からその没後にかけて、漢詩や和歌の文化サロンを形成した。摂関家ほんらいの財産(荘園=殿下渡領)が平氏や後白河院に奪われ、基房、基通が翻弄されたのに対し、兼実一族(九条家)は、崇徳天皇の中宮であった姉聖子(皇嘉門院)から忠通の所領の一部を直接譲り受けて経済的にも二人の兄の家から自立しており、文化のパトロンとなることで、ひそかに摂関の地位を狙っていたのである。
 しかしなぜ、兼実は文化パトロンになる必要があったのか。あるいは、文化パトロンと摂関の地位には、この時代どのような相関関係があったのか。立ち止まって少し考えてみる必要があるだろう。

 天皇家の長が天皇退位後に院として実際に政務を行い始めたことは、直接的には摂関家の地位の低下を意味したが、代々の摂関は、それを拒絶しようとしたり(師通)、院に迎合して近臣化したり(忠通、基通)、朝廷のなかで他の貴族にたいして相対的な優位を保つための態度決定を迫られていた。
 こうしたなかで兼実(先には頼長)が考えていた摂関とは、道長直系の血統にくわえて、政務を掌握する高度な能力を備えた人物ということであったと思う。つまり彼はそれによってはじめて、兄や甥にたいし、自己が摂関によりふさわしいと主張することができるのである。
 したがって摂関有資格者は、家の財産として代々の日記や古文書を保持すると同時に、朝廷の儀式や文化についても、内在的理由に基づいてそれを理解し判断を下すことが要求され、またその能力を他にたいして誇示しなくてはならない。
 これが兼実が文化サロンを開いた最大の理由ではなかったか(註1)。

 こうした兼実の思考のなかには、当然のことながら、当時の上級貴族に共通する要素と兼実固有の要素が混在している。それらをとおした彼の思考の特徴はどのようなものだったのだろうか。兼実のめざした「文化」とはなにかを理解するため、まず彼の思考の特徴を把握しておきたいが、これについては、龍福義友氏が兼実の日記『玉葉』の記述を分析し、彼の思考のなかで「実質的価値的側面」にみられる原則的なものは次の5点であると指摘しており、それを借りて、兼実の思考法を概観しておくことにしよう(龍福義友氏『日記の思考――日本中世思考史への序章』、平凡社「平凡選書」、1995年、要約=如月)。
 
 1)先例が思考をとりたてて拘束していない。
 2)先例からの解放の論理的帰結として、個人の内面に発する「理」の、思考に占める位置が高まる。その結果、兼実の行為はともすれば非妥協的となり、外の世界の現実への適応にあたって、柔軟性に欠ける。
 3)おのれの身分価値が脅威にさらされているという階層性が、内発的基準の総体を制約している。
 4)しかしその一方で、階層に規定された価値観がもはや時代に適合しないことを理解している。ここから彼の価値判断の二面性、あるいは価値判断と態度決定との間で繰り返される背反が生まれ、『玉葉』に特徴的な自嘲的弁明の形式、世人にはどうせ理解されまいと諦観する孤立的高踏的態度が展開する。
 5)宗教的超越者およびその意思の不可知性を意識している。

 こうしてみていくと、兼実の思考のなかでも、「古代」はもはや崩壊しているのだ。そして以上のように要約される兼実の思考方法は、兼実以降の九条家の人々や、藤原定家ら九条家に参集する人々の思考にも強い影響を及ぼしている(これは、兼実と同じような思考を行う人間が彼のまわりに集まりやすかったためだともいえるだろう<註2>)。

 兼実の文化サロンについて、以下和歌を中心にみていくが、彼のめざすところは後白河院の文化政策とは明かに方向性(領域)を異にしており、一見、古い朝廷文化をそのまま保持することにエネルギーを注いでいたようにみえる。しかしその内実を詳細にみていったとき、九条家サロンのなかで古い貴族文化が変質させられていったことが明らかになる。つまり、院の文化の新しさが対象とする領域あるいは創り手・担い手の新しさからくるものだとすれば、九条家文化の特徴は、古い領域に属する分化を新たな手法で活性化・再生していこうという内発的なものであり、筆者は、これも「中世文化」のひとつの典型と考える(註3)。

 『玉葉』等によって知られる兼実家の歌合は、平氏政権下の承安三年(1173年)から治承三年(1179年)にかけて約10度。兼実の妻の一人が六条家の顕輔の娘であったことから、九条家のサロンでも当初は顕輔の子・清輔が主導的役割をはたしていたが、安元三年(1177年)に清輔が没すると、六条家と対立する歌風の御子左家の俊成が師として迎えられた。ともに道長の流れでありながら、藤原・摂関家の本流にたいして一定の距離を置かざるをえなかった九条家と御子左家は、政治的にも相通ずるものがあったといえそうだ。両家の「友好的な主従関係」はその後も長く継続する。こうした経緯から、のちには俊成の子・定家も九条家サロンに招請されている。
 兼実の影響を受けて、実弟・慈円、兼実の子・良経らも和歌を詠み、しばしば定家らと競作した。この時期天皇家の関心は和歌からはなれており、九条家のサロンは、和歌の芸が国家(天皇家)から独立し、独自の価値観に基づいて実作されていくきっかけともなった。したがって、九条家サロンの意義を文学史の観点から分析すれば、久保田淳氏のように、
 九条家との結び付きを背景としなくても、釈阿(=俊成、註・如月)は千載集の撰者にはなりえたかもしれない。けれども、同集の成立後、定家や良経・慈円らによって齎された新風和歌の開花は――と言うことは、ひいては新古今時代の到来も――、九条家と御子左家との結び付きを抜きにしては考えられない(久保田淳氏『新古今歌人の研究』、東京大学出版会、1973年)
のである。
 ただし俊成との接触が短かったため、兼実の和歌そのものへの御子左家の影響は少ない。治承三年(1179年)の歌合で詠んだ次の歌(題は霞)あたりが、兼実の代表歌といえよう。
霞しく春の潮路を見わたせばみどりを分る沖つ白波
 海の緑と波の白を対比させたこの和歌の色彩感を、俊成は
 左歌、いとおかしくこそ見え侍れ。春の霞、滄海の上にひき渡るさま、浅きみどり色を添へたるに、沖つ白波たち分けたらむほど、面影おぼえ侍れ
と高く評価し、『千載集』春の部に採用した(註4)。
 この歌合を最後に、兼実は和歌のパトロンから一歩身を引き、九条家の歌合の主催者は、弟・慈円を中継して次の摂関候補・良経に交代する。

 兼実、慈円とも政治的には明らかに反院政派で、平氏滅亡後は頼朝に近づき、朝廷のなかの親幕派を形成した(註5)。しかし摂関家主導による「理」の政治実現を目指す兼実の政治姿勢は、院の近臣にあまんじるなかで自己の利権を確保しようとする多くの貴族とそりが合わず、頼朝の力で基通を退け、文治二年(1186年)、ようやく念願の摂政となった。さきの龍福氏の指摘する思考原則を、より具体的なレベルでみていけば、次のようになろう。
 兼実は治承の政変のころからは、右大臣の任にありながら殆ど朝廷に出仕せず、難局に際して法皇から諮問をうけても責任ある返答を避け、あえて法皇と苦難を共にしようとしない態度が目につく。一方、政変のたびに法皇の近臣という理由で解官され、或いは配流された多くの廷臣の間に、兼実に対する信望が薄かったのも当然であろう。いきおい兼実は頼朝の支援に頼らざるを得なかった(橋本義彦氏『源通親』、吉川弘文館「人物叢書」、1992年)
 建久三年(1192年)の後白河院没後、兼実はようやく朝政のトップにたったが、丹後局(註6)を中心とする後宮勢力に阻まれ、執政が意のままにならないことが多かった。

平成15年1月25日

 

 

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