|
明恵:夢の世界の肯定 註
註1)
兼実の『玉葉』のなかに夢の記述が多い理由として、西郷氏は、「それはたんに資質の問題ではなく、彼が、古代国家を根こそぎゆさぶる未曾有の内乱期ーー「玉葉」にはそれを「天下滅亡、只此時也、可悲々々」(寿永二年<1183年>八月六日)と書きつけているーーに、廟堂の政治家の一人として、身を処さねばならなかったことと関係があろう。果してその夢想の記事は、頼朝が石橋山に挙兵した治承四年あたりから、平家が壇の浦に滅びた寿永四年あたりにかけてのもっとも危機的な時期にほぼ集中しているようである」(西郷信綱氏『古代人と夢』、平凡社、1972年)と指摘していることを書き添えておく。
註2)
「慈鎮和尚夢想記」は、赤松俊秀氏の論文「慈鎮和尚夢想記」(『鎌倉仏教の研究』所収、平楽寺書店、1957年)に全文掲載され、赤松氏による解釈と解説が付されている。
同夢想記は三部からなり、建仁三年六月二十二日の夢想の直後にまずその内容と覚醒時の解釈が記され、翌建仁四年正月一日にその解釈が補足され、最後に神器についての教義的な問答が書き加えられた。
夢の直接的な内容は、「国王の御宝物すなわち三種神器の剣璽のうち、神璽は玉女である。この玉女は妻后の姿をしている。王は自性清浄の玉女の体に入ってこれと交会されるので、働きかける王も、受ける玉女も共に罪がない、神璽はこの故に清浄の玉である」(赤松俊秀氏、前掲論文)というもの。直後、慈円はこれを密教の「不釣刀鞘印」に結びつけ、「刀と鞘すなわち王と后が交会して不釣刀鞘印が成就する。王たるべき本尊は不動明王であり、神璽は仏眼部母の玉女であるに違いない。剣璽(の交会)は、国家統一が実現している象徴である(此剣璽天下一所成就也)。それはまた、仏法と王法をともに実現させ、国を治め、人民に利益を与える王者の宝物である(仏法王法成就理国利民、王者宝物也)。云々」と考えた。
そしてこの夢と解釈を甥・良経立ち会いのもと後鳥羽上皇に披露すると、上皇も深く感銘し、神鏡剣璽の勘文と日本書紀巻第一などが慈円に贈られた。これを読むと、神璽は玉であるという明証があり、夢想が事実と符合していることを知って、慈円はますます深く夢の意味を考えるようになった。その結果、この夢が平氏滅亡時に神器がたどった運命を象徴していると考えるにいたるのである。
その後書かれた問答体の解釈の結論部分を赤松氏によって紹介してみよう。
「武士の大将軍が日本国を支配し、自由に諸国の地頭を任免し、地頭設置の始めに当って勅許を得たことを口実として、天皇がこれに干渉するのを許さないのは、宝剣が海底に没し、その神徳を人将である将軍に譲ったからである。聖人が世に在れば、きっとこうした異常な事件の由って来るところを悟り、興廃のあとを思索するであろうに、時が末代であるのは悲しいことである」(赤松俊秀氏、前掲論文)
この解釈は、後に「愚管抄」のなかでさらに深化し、有名な、「抑この宝剣うせはてぬる事こそ、王法には心うきことにて侍れ。是をも心得べき道理定めてあるらんと案をめぐらすに、是はひとへに色にあらはれて、武士の君の御まもりとなりたる世になれば、それにかへかへてうせたるにやと覚ゆる也」(「愚管抄」巻五)という思想を生み出すこととなる。
慈円の夢想記は、その後花園天皇、後醍醐天皇の目にとまり、赤松氏によれば、「後醍醐天皇がこの夢想記を読まれたと思われることは、天皇の倒幕の動機について新しい観点を与える」(赤松氏、前掲論文)のである。
註3)
「明恵があの時代に、夢の記録を書き続けたという事実は、彼の強靱な精神力が測り知れぬものであることを示していると言わねばならない。世界の精神史においても希有な、と先に述べたことは誇張でもなんでもないのである。」(河合隼雄氏『明恵 夢を生きる』、京都松柏社、1987年)
註4)
ここで、夢の達人・明恵の一生と定家らのかかわりを簡単にみておこう。
承安三年(1173年) 高倉院に仕える武士・平重国の子として紀伊国に生まれる。同年親鸞生。(定家12歳)
建久二年(1191年) 金剛・胎蔵両部および護摩の伝授を受ける。この年「夢記」を書き始める。
建永元年(1206年) 十一月に後鳥羽院より高山寺の地を賜る。同月、九条兼実邸で初めて修法、14歳の道家(良経の遺児)と会う。その直後の夢に兼実をはじめ九条家の人々登場。
建暦二年(1212年) 法然没。法然の『選択集』論駁のため『摧邪輪』を表わす。
承久三年(1221年) 承久の乱。明恵、朝廷方の落人をかばう(「栂尾明恵上人伝記」)。
貞応二年(1223年) 前太政大臣・西園寺公経(定家の妻の実弟)の手配で高山寺本堂に釈迦像安置。
嘉禄元年(1225年) 夏頃公経、道家と和歌の贈答。
嘉禄三年(1227年) 公経夫人を出家させる(夫人は八月死去)。修明門院(後鳥羽院妃・順徳院母)に授戒。
寛喜元年(1229年) 五月十五日、定家の妻子、明恵の説法を聴く。十月六日、神護寺講堂落成供養。十五日、公経夫人供養。十八日、公経邸で定家と会う。
寛喜二年(1230年) 一月十八日、道家邸で説法、定家もこれを聴き感激。二月末より不食の病を患う。三月三日、定家、明恵の不食を聞く。
寛喜四年(1232年) 一月十九日、示寂(享年60歳)。
天福元年(1233年) 七月三日、石清水八幡別当超清、定家を訪ねて、明恵との贈答歌の『新勅撰和歌集』入集を依頼。
註5)
『新日本古典文学大系/中世和歌集鎌倉篇』(岩波書店、1991年)の片山亨氏の解釈は「さめて」を「さめで」ととり、下の句を「夢から覚めずに迷っている人々を救ってほしいものです」とするものだ。この一首だけの問題であれば片山氏の解釈も文法的に可能と思うが、夢に対する明恵の態度を考えたとき、筆者はやはり「さめて迷える」ととりたい。
註6)
明恵には、次にみるように、「和歌はよく詠もうとするよりも、なんとなく詠み散らすのがよい」という主旨の、歌に対する独自の発言がある。
専念房の和歌このまるる事、順行房の被申次に仰云
和歌はよくよまむなどするからは、無下にまさなき也、只何となく読ちらして、心の実にすきたるは、くるしくもなき也(『却癈忘記』)
この発言に伺える明恵の歌に対する態度は、個々の歌の完成度よりも宗教的な観点から速詠を重んじた慈円の心情に近いと思う。
註7)
山田氏がここで指摘する「心」とは、「「心の師とはなるとも心を師とするなかれ」という浄土教的否定論」(山田昭全氏「明恵の和歌と仏教」、『明恵上人と高山寺』所収、同朋舎、1981年)に代表されるような「心」であろう。ちなみに山田氏の引用は、源信の『往生要集』大文第五助念の方法第六「止悪修善」によるものである。

「明恵:夢の世界の肯定」 本文
|