院政期社会の言語構造を探る

明恵:夢の世界の肯定
Myoe : L'Affirmation du monde de la reve

 定家らの歌の背景として、もう一つ、当時の朝廷人が、夢や夢解き(夢占い)を重視していたことも見逃せない。なかでも九条家たとえば兼実の場合、
その日記『玉葉』は夢のことを丹念に記している点、他の公卿の日記、たとえば一時代前の『御堂関白記』(道長)や同時代の『明月記』(定家)などとすこぶる趣を異にする(西郷信綱氏『古代人と夢』、平凡社、1972年)
のである(註1)。
 慈円に関しても兼実と同じようなことがいえる。『愚管抄』を書きあげる十年以上前、彼は現在「慈鎮和尚夢想記」と題されている夢記を残し、このなかで、建仁三年(1203年)六月二十二日にみた三種の神器に関する夢の密教的解釈を行っている。同夢記によれば、この夜の夢は、慈円が宝剣海没後の朝廷のなかで九条家の果たすべき役割について考え、『愚管抄』を執筆していく動機の一つとなる重要な啓示であった(註2)。

 しかしこの時代最大の夢の達人は明恵房高弁(1173−1232年)であろう。彼は、十九歳のときから死の前年まで自分が見た夢を書き綴り、自己分析している(註3)。
 明恵が九条家に出入りするようになるのは、次項に述べる兼実の政界失脚(建久七年=1196年)以降のことであり、彼の九条家サロンへの直接的影響は、兼実の世代よりも、むしろその孫道家(良経の遺児、のちに摂関)の世代への方が大きい(註4)。しかし、夢を歌題同様言語が展開する以前の思考の原形と考えれば、明恵の思想を通して、この時代の夢と歌の距離の近さを考えることができる。
 夢のなかで、個々の事物は存在リアリティーを保持したまま他の事物との相関関係のリアリティーを喪失し、通常見逃されているその構成要素の一つをとおして、日常世界では結びつきようのない他の事物と結びついていく。ひとは夢をとおして事物と事物の新しい関係を発見することができる。夢解きとは、こうして結びつけられた事物同士の関係の日常言語への翻訳に過ぎない。
 明恵のなかでは、夢をみ、夢を解き、自己の夢を変えていくことが、華厳思想や瞑想を中心とした独自の禅と一体となっていた。
夢の中に羅刹の姿を見て恐れを成さんに、傍に人有りて此の事を証知して、是は羅刹に非ず、恐るゝ事勿れと云へども、此の眠らん者の恐れやまじ。只自ら夢の中に此の羅刹走り去りぬと見ば、其の恐れやむべし(「栂尾明恵上人伝記」巻上)
 夢のなかで起こったことも、夢をみた当人にとっては現実界(覚醒時)のできごととなんの違いもないなまなましさをもつ。そしてその夢の現実感を変えることは、夢をみた当人にしか(しかも夢のなかでしか!)できない。明恵が夢の存在論を知り抜いていたことはこの一言でも明らかだ。

 嘉禄二年(1226年)七月二十一日、明恵は母方の叔父であるとともに自己を仏法に導いた導師であり、また歌学書『和歌色葉』の著者・上覚房行慈(1147−1226年)から、辞世ともとれる歌を受けとった。
見ることはみな常ならぬうき世かな夢かとみゆるほどのはかなさ
 世のはかなさを夢にたとえた、平明な歌である。これに対する明恵の返歌が、一見単純なようで奥行きのある歌になっている。
長き夜の夢を夢ぞと知る君やさめて迷える人を助けむ
 問題は「さめて」の一語なのだが、上の句からのつながりからは、一読、「君」すなわち上覚が夢から覚めて欲しいといっているようでありながら、繰り返し読んでいくうちに、実は後ろに続く「迷へる人」を修飾しているようにもとれる二重の構造になっている(註5)。そして後者ととってはじめて、この歌は上覚の歌に対する鋭い返歌たりえていると思う。
 「うき世は夢」と諦念を表明する上覚に対し、「自覚なき覚醒こそが迷い」とし、夢が何であるかを知悉している君であるからこそ、覚醒してかえって迷っている人を助けて欲しいと切り返す明恵。ここに展開しているのは、単なる儀礼としての歌のやりとりを超えた、緊迫した思想のドラマだ。
 この歌にしても、さきにひいた伝記のなかの言葉にしても、夢と覚醒が明恵にとってそれぞれ何であったかということは、たとえば中国における華厳思想を集約した「十地経論」のなかの「三界虚妄、但是一心作(三界は虚妄にして、ただこれ一心の作なり)」の一節を前にしたとき、はじめて理解できる。そして上覚は、「三界虚妄」という言葉によって代表される思想を諦念に結びつけて考えることしかできなかったのに対し、明恵はこれをきわめてアクティブにとらえている。それは明恵の夢(深層意識)の世界が充実し、虚妄の現実界を支えていたからだ。
明恵にとっては、現実に行う修行も夢も同等の価値あるものであり、彼は経典によって知り得たことや彼の行っている行法と夢とは、密接に関連し合っているものとして受けとめていたのである(河合隼雄氏『明恵 夢を生きる』、京都松柏社、1987年)
 そうした明恵の歌は、山田昭全氏の次の指摘にもあるように、高山寺や紀州の自然を背景としていながら、直接的には、それらをほとんど顧みていないかのようにとれる。
雲を出でて我にともなふ冬の月風や身にしむ雪やつめたき
山のはにわれもいりなむ月もいれよなよなごとにまた友とせむ

竹や霧や空という自然現象を素材としていながら、彼は決して自然そのものの客観的描写を行わなかった(中略)総じて自然を見て自然を詠まないのが明恵の歌の特色だったと思う(山田昭全氏「明恵の和歌と仏教」、『明恵上人と高山寺』所収、同朋舎、1981年)
というのだ。こうした「特色」はどこからくるのか。
 明恵が編んだ「遺心和歌集」は、高雄における彼の同輩とみられる六因義覚(伝未詳)の歌を四首とりあげているが(下掲)、言語を絶した理を一定の条件づけのもとに他と区別、すなわち言語化して表現した(安立)とする義覚の歌への評から、明恵が歌の言語表現をどのようなものと考えていたかがうかがえる。
うれしさの青淵に沈みぬる浮かぶことぞかなしかる
かりごろもこずゑも散らぬ山かげにながめわぶる秋の夜の月
あふことをふみまがふ恋ぢにはあけても待つべきうつゝなりけり
思ひ出づころものすそのかき晴れて色にあらはれる恋のかげかな
 義覚の歌は、たとえば「かりごろも」の歌を例にとれば、
第一句から第三句まで、雲を衣、梢、山と次々に隠喩し、結局、雲にかくれた秋の月をながめわびたという、至極単純な意味の歌(山田昭全氏、前掲論文)
なのだが、そのままではほとんど意味がわからない。
その難解さは要するに義覚の比喩のし方が極めて特殊だったところにある。たしかに稚拙で独善的比喩というべく、これでは明恵ばかりでなく、だれでも作者自身の説明を聞くまでは歌意を理解できなかったと思う。すぐれた歌とは決して言えない。(山田昭全氏、前掲論文)
 これに対し、明恵は、「この歌かすかにして、その心聞えがたし」と義覚の歌の難解さを認めながら、「安立の有様、わりなくめづらしく聞ゆ。いとこのよに聞くこととは覚えざれども、愚詠も人の耳にはかくこそ聞え侍らめども、また心のゆくところの、ゆくところなきにあらず。かれたゞおなじことにや」と最終的にはその歌のあり方を肯定するのだ。
 しかし、「愚詠も人の耳にはかくこそは聞え侍らめ」と自戒する明恵自身が、対象(たとえば月)に自己を全投入して言葉を発すれば、それは
あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月
といった歌になってしまう。ここでは、言葉の意味や技巧(意味をどのように言語に定着するか)を問う通常の歌の判断基準、あるいは、自己の感動を言葉にして伝達するという歌の機能そのものが一次的に否定されている。そしてそれはやはり、華厳思想を背景とする彼の世界観に由来するといえそうだ(註6)。
密教系の人々には、和歌や和歌観において微妙にひびき合うものがあることを指摘しておきたい。多作寡作の違いがあっても、歌がこうした人々の間に好んで行なわれたということは、それが本来「心」の肯定を前提にして成立するものだということを意味していないであろうか。心を否定する浄土教系の祖師達に歌が少なく、東密であれ台密であれ、そして華厳も加えて、自性清浄心の発揮を願う仏徒に歌が愛好された事実に注目しなければならぬ。さて、明恵はそうした系列に属する歌人であった(山田昭全氏、前掲論文)
のである(註7)。
 明恵にみられるような夢の構造を言語に直接あてはめれば、自然が、それを眺めている人の心の状態の比喩もしくは象徴として詠まれるというだけでなく、義覚の歌がそうであったように、言語は個々の単語のイメージ喚起力を残したまま、統辞法や韻律を変更することになる。つまり、歌が事物や心理の描写ではなく、世界をかくあらしめている言語化以前のイメージの表出に向かうとき、その統辞法は必然的に乱れてくる。

 九条家歌壇に話をもどせば、長明が「達磨」と批判した定家の「まつよの秋の風ふけて」とは、原形としての世界の、限界レベルでの日常言語への置き換えであり、けして「(あなたを)待つ秋の夜が更けて風が吹いてきた」という事実の単純な強調のためだけの倒置ではない。定家の歌が目指していたことの一つは、言語(イメージ)の原初風景にさかのぼるための突破口を開くことであり、それをつきつめれば、言語による言語の破壊だった。
 体言止という技法も、同じ観点から容易に理解できる。定家にとって言語の原初風景とは、繋辞を喪失したイメージだけがひしめく世界であった。
 しかし、夢をそのまま言語に置き換えたのが定家らのめざした歌というのではない。歌が言語を媒介とするものである以上、それは、(夢同様に)解かれる対象であると同時に、それ自体解きの言表でもある。正確には、定家らはこの位相のずれ(による効果)をこそめざしたというべきであろう。つまり歌の言語とは、(解釈の)対象=解釈という関係をそのままのものとして呑みこむしかない性質のものなのである。 

平成16年7月12日

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