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摂関家の分裂 註
註1)
頼通、教通、師実の関白継承の経緯(内部対立)については、坂本賞三氏の『藤原頼通の時代――摂関政治から院政へ』(平凡社、1991年)参照。
なお、同書によれば、摂政・関白の実質権限(職務)は、天皇への奏上・宣下に先だってその文書に目をとおすことができる「内覧」であり、通常は摂関就任と同時に前任者の内覧の権限を引き継ぐが、摂関に任じられるためには大臣経験が必要であり、摂関候補者に大臣経験がない場合は内覧にとどめおかれた。師通急死(康和元年=1099年)直後、権大納言に過ぎなかった忠実の場合がそれである。
また、鳥羽院政期の忠実と忠通、忠通と頼長の場合は、忠通が関白を辞さず、忠通を関白にとめおいたまま、内覧の権限のみが忠実や頼長に与えられた。
平氏滅亡後の一時期(文治元年<1185年>12月〜文治2年<1186年>3月)、後白河院をバックボーンとする基通と源頼朝をバックボーンとする兼実も摂政と内覧で併存している。
ちなみに、平安時代の摂関全盛期を代表すると考えられている道長も、周知のように関白に就任したことがないだけでなく、摂政に就任していたのは晩年の約1年余に過ぎない。長徳元年(995)から長和五年(1016)まで、彼は内覧(長徳二年<996年>以降は左大臣兼任)として政界を主導したのである(細註参照)。
註2)
藤原忠実の事績については、元木泰雄氏に以下のような研究があり、小論の叙述もそれを参照した。
・ 『院政期政治史研究』(思文閣出版、1996年)
・ 『藤原忠実』(吉川弘文館「人物叢書」、2000年)
・ 「院政と武士政権の成立」(中央公論社『日本の中世8 院政と平氏、鎌倉政権』所収、2002年)
・ 「院政の展開と内乱」(吉川弘文館『日本の時代史7 院政の展開と内乱』所収、2002年)
なかでも、『院政期政治史研究』は、「院政期における摂関家」の分析に大きなスペースを割いており、「摂関家家政機関の拡充」「摂関家における私的制裁」「院政期興福寺考」の3章にわたって、摂関家の権門化のプロセスを解き明かしている。
人物叢書『藤原忠実』は、この研究をふまえたもので、忠実を次のように位置付ける。
「忠実には厳しい批判を受ける側面と、逆に摂関家再興の立役者という側面とがあった。批判の最大の要因は次男頼長に対する偏愛と、その結果もたらされた保元の乱による敗北に他ならない。しかし、こうした批判の背景には、縷々延べ来ったように、忠通の子息慈円が記した「愚管抄」の影響があったのである。(中略)一方、忠実の最大の功績は、多大の荘園を集積して中世摂関家の基礎を築いたことにある。その荘園の多くは、保元の乱における没官の危機を乗り越えて子孫に伝領され、近衛家以下の基盤となったと考えられる。(中略)忠実には、従来の摂関家当主の殻を破る大胆で果断な性格が具わっていたと言えよう」(同書)
こうした忠実の事績の分析をふまえ、元木氏は時代全体を次のように展望する。
「貴族政権と武士政権が分立したことは、日本史上における重大問題の一つと言える。武士との主従関係が必ずしも強固に貫徹しなかった院政と、主従関係を基軸とした摂関家の抗争、そして後者の敗北は、二つの政権の分立を招く大きな要因となったのである。しかし、保元の乱後も公家と武士の一体化の可能性は、まだ残されていた。今度は武士の側から公家政権を包摂しようとする動きが生じた。自らの武力で、女婿の高倉院と外孫の安徳天皇を擁護しようとした平清盛の政権、すなわち平氏政権がそれである。(中略)その意味で、忠実と清盛は共通する歴史的役割を果たしたと言える。彼らは強引に中世を切り開いたが、その結果は諸勢力の角逐と内乱をもたらし、彼らが築いた権力は無残に崩壊することになる。そうした軋轢の中で、中世はしだいに成熟し、職能分化した権門の相互補完的な体制が構築されるのである」(同書)
ここで注目すべきなのは、元木氏は鎌倉幕府成立をもって時代の画期とはせず、「中世」は忠実、清盛らによって切り開かれたとしている点であろう。彼らの時代とは、とりもなおさず、荘園公領システムが成立し、混乱から安定へとむかう時期であるが、鎌倉幕府も、こうした荘園公領システムの安定という社会的要請を受けて登場したものであることはいうまでもない。
元木氏は、「院政と武士政権の成立」「院政の展開と内乱」の2つの最新論考で、この考察をさらに総合的に展開している。
註3)
忠通はなかなか男子に恵まれず、頼長は一時期、忠通の養子とされている。元木泰雄氏はこの事実を重視し、頼長の昇進は、「彼が摂関の後継者として遇されている」(『藤原忠実』)ためであり、「才気を鼻にかけた頼長は、彼を偏愛する父忠実の支援をえて兄忠通から摂関を奪おうとした――という通説は、多くの概説書に書かれている通りである。しかし、これは忠通の子息慈円の言い分を鵜呑みにした誤解に過ぎない」(「院政と武士政権の成立」)としている。ご参照いただきたい。
註4)
基実の急死以降、承久の乱(1221年)までの九条家を中心とする摂関家の動きは、多賀宗隼氏の『論集中世文化史』(法蔵館、1985年)に収められている「藤原兼実」「九条家の業績」等によくまとめられている。
註5)
田中文英氏によれば、清盛による「摂関家領横領」事件とは次のようなものである。
「藤原基実は、保元三年(1158)八月、忠通のあとをついで関白氏長者になっていたが、長寛二年(1164)二月、忠通の死去によって摂関家領の大部分をしめる158ヵ所にのぼる遺領を継承した。盛子との婚姻はこのニヵ月後のことである。しかるに基実は、仁安元年(1166)七月二十六日に弱冠二十四歳で逝去したため、その膨大な遺領が未処分のままのこされて問題となった。基実の氏長者の地位は、長子基通(母は藤原忠隆娘)が幼少のため弟基房がついだが、遺領の相続は清盛によって阻止されるにいたったのである。すなわち、清盛は忠通の家司藤原邦綱の入知恵によって、基房には殿下渡領を若干わたすにとどめ、九州の島津荘をはじめ摂関家の資財荘園・代々の記録・宝物・邸宅までを悉く盛子に伝領させたのである。そして邦綱を盛子の後見にすえて基通を養育することとした(『愚管抄』巻第五)。この措置の背景には、永万元年(1165)六月の二条天皇の死を契機に親政派の拠点たる摂関家を分裂・凋落させようとする後白河上皇ら院政勢力の清盛にたいする煽動もあったらしく、摂関家領は清盛の支配に属すべしという院宣さえだされたのであった」(田中文英氏「平氏政権と摂関家」、『平氏政権の研究』所収、思文閣出版、1994年)
ただし、田中氏によれば、「このことから直ちに清盛が摂関家領を平家領にして「荘園領主」に転化したと理解することは飛躍を免れない」(同論文)のであって、「清盛の摂関家領支配の方式は、摂関家領を前関白夫人たる盛子に白川殿領として伝領させ、基通が幼少のため氏長者にすることができないので自己の意のままになる氏長者が出現するのを待機しているものなのであった。これは横領にはちがいないが、摂関家領を平氏の所領になし、みずからが本家の地位について家領支配を実現しようとするものではなかったのである」(同論文)という。
武力を背景とする平氏といえども、家格の違いから、摂関家に完全にとってかわることは不可能であった。
註6)
『平家物語』は、「摂政関白のかかる御目にあはせ給ふ事、いまだ承り及ばず。これこそ平家の悪行のはじめなれ」(巻一 殿下乗合)と、巻頭で、事件を大きく取り上げている(ただし、重盛の行動は美化され、基房への報復は清盛の指示ということになっている)。
五味文彦氏によれば、重盛がこうした行動にでたのは、「四月二十一日に大納言に復帰した気負いによる」(『平清盛』、吉川弘文館<人物叢書>、1999年)ものであるが、「もちろん重盛のこうした行動が可能だったのは清盛の存在があってのもの」(同書)であった。
註7)
『愚管抄』巻第五などによれば、治承三年の平氏クーデターに先だって後白河院と基房が行なった反平氏的政策は、@平盛子の遺領処分問題への介入、A平重盛没後の知行国(越前)国司人事、B藤原師家の権中納言昇任人事――の3点とされるが、このうち摂関家に直接関連する師家の権中納言昇任の詳細を、田中文英氏は次のようにまとめている。
「平維盛が越前国を収公されたのと同じ十月九日の除目において、かねて清盛が推挙していた従二位非参議右中将で二十歳の藤原基通をさしおき、関白藤原基房の子で、わずか八歳の正四位左中将の師家が権中納言に昇任された事件である。この除目は、前日の八日夜、にわかに師家ひとりだけを対象として叙位をおこない従三位に昇叙したうえで、翌日、権中納言に補任するという異例の措置であって、師家はその後「八歳ノ中納言」と異名をとった(『愚管抄』巻第五)。九条兼実は、この強引な人事にたいする基通側の思いについて「基通為権門之親昵、定有所鬱歟」と危惧の念を書きとどめている。たしかにそれは、権門(平清盛)にとっては、たんに人事にたいする発言権が無視されただけにとどまらず、永年にわたって積みあげてきた摂関家対策の苦心の構想を根底から揺るがす内容をもつものであった」(田中文英氏「高倉親政・院政と平氏政権」、前掲書所収)
補註)
白河院政期、鳥羽院政期の摂関家については、別項で分析する計画があり、このため、本項での同時期の摂関家の動きの説明は簡略なものとなっている。

摂関家の分裂 本文
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