院政期社会の言語構造を探る

摂関家の分裂 細註

 道長が晩年まで摂政にならず内覧でとおしたことを、坂本賞三氏は次のように指摘している。
「道隆・道兼があいついで死去したあと内覧になった道長は、右大臣からすぐ左大臣になったあとずっと左大臣で通し、関白になることもできたのにならなかった。頼ったり任せようにも人がいない道長は、自分でやるしかなかったのである。徹底して一上としての実務を行い、一方で准関白の内覧として一人諮問の任をも勤めたのであった。」
(坂本賞三氏、『藤原頼通の時代――摂関政治から院政へ』、平凡社、1991年)
 また元木泰雄氏は、同じ事実を、より詳細に次のように分析している。
「[道長]当時の陣定は単なる諮問機関という性格を越えた、政務決定機関に準ずる機能を有していたのである。かかる陣定を道長が重視したのも当然であった。彼が内覧・一上(左大臣)に止まり、[三条天皇の]関白を敢えて辞退した一因も、この議定との関係にあったと考えられている。すなわち、関白は天皇とともに議定の結果を裁定するものの、議定に出席することができなかった。このために、道長は上卿として議定を主催するとともに、議定において議事を領導するために関白を拒否したと考えられている。また、先述のごとく公卿の中には道長に真っ向から対立する者はほとんどなく、道長は議定を意のままに操作できたものと考えられる。しかも道長は議定の掌握と同時に、後述するように内覧として一定の裁決権も保持しており、その権限は強大なものであった。」
(元木泰雄氏「三条朝の藤原道長」、『院政期政治史研究』所収、思文閣出版、1996年、ただし[]内の言葉は如月の補足)
 また最近では、大津透氏の次のような分析もある。
「道長は後一条天皇が即位して摂政になるまで、三条天皇の時期に一時准摂政となったことを除いて、一貫して関白にならず、筆頭左大臣で内覧の地位を保ったのはなぜかということである。道長は関白になれなかったわけではなく、意図的にならなかったと理解すべきだろう。(中略)この時期の公卿は、陣定への参加や、中納言以上は上卿として決裁するなど、地位と与えられた権能に応じて政務処理を行った。それをふまえて道長は内覧として太政官からの奏上文書をチェックし、一上として陣定や陣申文などを積極的に処理し、公卿を統轄指揮して政治を運営したのである。」
(「大津透氏『日本の歴史06/道長と宮廷社会』、講談社、2001年)
 以上各氏の分析からも理解できるように、道長の政権掌握は、天皇家との姻戚関係を含む実力によるものであると同時に、同じ時期に藤原氏内に有力な対抗者がいなかったためと考えるべきである。このため道長は「摂関」という地位を必要としなかったのである。
 しかしその後の摂関家の家長は、天皇家やその外戚家によって相対化された自己の実力不足を補うためにも摂関という地位を必要としたのであり、その時、道長は理想の摂関と考えられるようになったと解すべきだろう。



摂関家の分裂 註1