院政期社会の言語構造を探る

摂関家の分裂
Demembrement de la famille de Regent


 王権がしだいに強化されていくこの時代、院(天皇家)とならぶ文化パトロン摂関家はどういう動きをしていたのであろうか。以下、まず白河天皇即位以来の摂関家の動きをまとめてふりかえり、次に、九条家を中心に、院とは異なる方向性がしだいに明確になる摂関家の文化ヴェクトルを検証してみよう。
 坂本賞三氏によれば、白河天皇即位の時点で、摂関家には教通(996−1075年)の次の関白をめぐって、頼通・教通、師実・信長の兄弟・従兄弟同士の内部争いがあり、結果的に、白河天皇の権力強化と、新関白師実(1042−1101年)の発言力低下を招いた(註1)。
 堀河天皇の代には、師実の長子・師通(1062−99年)が関白を継承した。師通は、「おりゐのみかどの門に車立つやうやはある」(『今鏡』)と白河院の動きを牽制するなど、天皇と結んで朝廷の権威を宣揚する方向で動いている。また彼は、白河院周辺の田楽騒ぎにさいしても一人冷静な態度を貫いており、<古代>的な性向をもった最後の関白といえると思う。
 しかし師通は38歳で早世し、その後しばらくは摂関空位状態が続く。
 この間、藤原氏でも傍系の公実(1053−1107年)が、白河院一族との強い姻戚関係を背景に摂関就任のはたらきかけを行ったが、最終的には白河院自身の判断で、師通の長子忠実(1078−1162年)が鳥羽天皇の摂政となった。この時点で、摂関の地位は天皇との姻戚関係からいちおう切り離され、有識故実をふまえて政務を執り行なうことができる道長の子孫の家に固定された。だが忠実と白河院はそりが合わず、忠実の女・泰子入内問題のこじれから、忠実は実質的に関白を罷免されてしまう。関白の座は忠実の長子忠通(1097−1164年)に移ったが、これが、忠実と忠通の反発――ひいては保元の乱の遠因の一つとなった(註2)。
 白河院が崩御して鳥羽院の代になると、忠実は前関白として政界に復帰し、次子頼長(1120−56年)を新たな後継者として引き立てた。その一環として、藤原氏のなかで摂関就位者が占める慣例となっていた氏長者の地位を忠通から取り上げ、忠通追い落としを図った(註3)。
 漢学、なかでも儒教の経書をとおして事物の理の解明をめざす明経道の素養深く、輔弼の臣として政治のあり方をただすという理想に燃えた頼長は、忠実の力を背景に官紀粛正と古事復興を柱とする朝廷改革を試みたが、これは院近臣の反発と自己の孤立を招くだけだった。ここで、橋本義彦氏の言葉を借りて、頼長の目指した政治の理想とは何だったのかをふりかえっておこう。
かれが文字通り律令政治、さらには天皇親政を理想としていたと考えるのは早計であろう。結論を言えば、頼長の理想は、摂関家と皇室(それは必ずしも院=上皇を排除するものではない)との一体化による貴族政治の振興にあったと考えられる。一体化といっても、勿論摂関家の主導権を前提とするもので、執政の臣が上に皇室を戴き、全廷臣を率いて政治に当る状態を指すものであるが、このような理想化した摂関政治を貴族政治の理想像とする考え方は、平安末ないし鎌倉初期には、摂関家を中心として上流貴族間にかなり一般化していたと思われる(橋本義彦氏『藤原頼長』、吉川弘文館「人物叢書」、1964年)
 いっぽう現実的な忠実は、この間に、分割相続によってバラバラになっていた摂関家の家領(荘園)をまとめあげると同時に源為義ら河内源氏の組織化、興福寺の統制に成功し、摂関家が大荘園領主へ変身する道を開いた。元木泰雄氏によれば、この時期の忠実が率いる摂関家は、「国家的な役割を果たす公家・武家・寺社権門を内包した複合的な権門であった」(元木泰雄氏「院政の展開と内乱」、吉川弘文館『日本の時代史7院政の展開と内乱』所収、2002年)という。
 鳥羽院崩御直後におこった保元の乱では、忠通・頼長兄弟が二手に分かれて乱の当事者となったため、摂関家が崩壊しかねない危機的状況となった。頼長とともに動くことを避けた忠実の起点によって乱後の家領没収だけは免れたものの、忠通は朝廷による氏長者再任を余儀なくされ、摂関家の威信低下はおおうべくもなかった。
 そうした状況のなか、近臣に徹することで転変する白河、鳥羽、後白河3代の院の摂関をつとめあげた忠通ののち、関白の地位は平清盛の娘盛子を妻としていた忠通の長子基実(1143−1166年)が引き継いだが、基実は24歳で急死した。これ以降、摂関家はさらに激しく時代の波に翻弄されることとなる(註4)。
 田中文英氏らが指摘しているように、摂関家には「殿下渡領」とよばれる摂関(氏長者)が代々相続する荘園があったが、清盛は九州島津の荘など基実の遺領の大半を盛子に相続させ、平氏の管理下においた。このため基実の弟の新摂政基房(1144−1230年)には荘園がほとんど伝わらず、基房の反平氏感情のもととなった(註5)。基房は、嘉応二年(1170)、自分の牛車のまえを黙って通りすぎた平資盛の女車に恥辱を加え、後日逆に資盛の父重盛に報復されるという「殿下乗逢事件」の当事者ともなっている(註6)。
 忠通時代からの摂関家の知行国は、基房が播磨を、異母弟の兼実(1149−1207年)が上総をそれぞれ引き継いだ。しかし、大宰府と越後は平氏が知行することとなり、文化パトロン摂関家の勢力は分散・解体された(五味文彦氏「院政期知行国の変遷と分布」『院政期社会の研究』所収、山川出版社、1984年による)。これ以降、基房(松殿)、兼実(九条殿)および基実の子基通(近衛殿、1160−1233年)はそれぞれ家を分立し、院、平氏、源氏(義仲、頼朝)と結合・離反を繰り返しながら勢力争いを行うこととなった。
 経済的に不如意だったとはいえ、摂関家代々の日記や古文書をうけついだ基房が、当時の朝廷でも有数の博識を誇っていたことは、『古今著聞集』にみえる次のエピソードからも明かだ。
後白河院御時、年中行事を絵にかゝれて、御賞翫のあまり、松殿へ進ぜられたりけり。こまかに御覧じて、僻事ある所々に押紙をして、そのあやまりを御自筆にてしるしをつけて返進せられたりけるを、法皇御覧じて、絵をかきなをさるべきに、勅定に、「これ程の人の自筆にて押紙したる、いかゞはなちすてゝ絵をなをす事あるべき。此事によりて、此絵すでに重宝となりたり」とて、さながら蓮華王院の宝蔵に篭られにけり。そのをし紙今にあり。いといみじき事なり。(『古今著聞集』巻第11)
 後白河院が「年中行事絵巻」を制作させたおり、基房(松殿)がそのあやまりをチェックして自分で付箋を貼った。それをみた後白河院は、絵巻を書き直させるどころか、付箋つきの絵巻をそのまましまいこんで、むしろあやまりを指摘した基房の博識を尊んだというものだ。文化の家としての摂関家は、院にも一目置かれていたのである。
 しかし治承三年(1179)11月の平氏による反後白河院クーデターで基房は失脚し(註7)、清盛のバックアップをうけた基通が続いて関白となった。このため基通は、周囲から平氏の完全な傀儡とみられていたが、平氏都落ちにさいしては後白河のもとにはしり、院の寵愛を背景に摂政を続けた。これを知った兼実は、日記「玉葉」に、「君臣合体の儀、これをもって至極となすか」と二人の男色関係を悪しざまに記している(『玉葉』寿永二年<1183>八月十八日条)。
 いっぽう源(木曾)義仲入洛後は、平氏によって関白の座を追われ出家していた基房が美貌で知られた娘を義仲にさしだし、みかえりに息子・師家(1172−1238年)を摂政に任じさせることに成功した。しかし、当時12歳の師家に摂政の大任が負えるはずはなく、実際には基房が摂政を後見し、政務を行った。基房の異常な権力欲が、結果的に、摂関の地位のさらなる名目化・空洞化を招いたのである。ただしこの政略結婚に関しては、義仲は敗走の最後の瞬間まで基房の息女(六条高倉の女房)を離さなかったと、『平家物語』が伝えている。
六条高倉なるところに、はじめて見そめたる女房のおはしければ、それへうちいり最後の名ごりをしまんとて、とみにいでもやらざりけり。いままゐりしたりける越後中太家光といふものあり。「いかにかうはうちとけてわたらせ給ひ候ふぞ。御敵すでに河原までせめ入り候ふに、犬死にせさせ給はなんず」と申しけれども、なほ出でもやらざりければ、「さ候はばきづさきだちまゐらせて、四手の山でこそ待ちまゐらせ候はめ」とて、腹かききって死にける。木曾殿「われをすすむる自害にこそ」とて、やがてうったちにけり(『平家物語』巻九 河原合戦)
 『平家物語』には女性の悲劇を語るエピソードが数多く挿入されているが、父基房によって政争の具にされたこの六条高倉の女房もそうした女性の一人といえる。
 基房の復活はつかの間にすぎなかった。寿永三年(1184)の義仲敗死後は、後白河院の意向で基通が摂政に復帰する。これによって兼実は、またしても自己が摂政になる望みを断たれたのである。

平成15年1月14日

 

 

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