院政期社会の言語構造を探る

定家の登場
Debut de Teika Fujiwara

 次に九条家サロンで活躍した最大の歌人・藤原定家(1162−1241年)の最初期の歌作のあとを振り返っておこう。
 父・俊成をとおして『千載集』にいたる和歌の伝統と技法を一身に集大成した定家は、俊成までの世代と違って、朝廷からはなれ自立した意識をもった「朝廷歌人」であった。定家とて朝廷貴族の矜持は十分もっていたが、彼の時代には朝廷そのものの求心力の低下・分裂がすすみ、朝廷がもはや朝廷としての体をなさなくなるぎりぎりのところまできていたのである。
 定家の日記『明月記』には、源頼政挙兵、福原遷都などで社会が騒然としていた治承四年(1180年)の記述のなかに、あまりにも有名な
世上、乱逆追討耳に満つといえども之を注せず。紅旗征戎吾が事に非ず
という言葉がでてくる。世の乱れ、兵革に、自己は一切関知しないという高らかな宣言。これが、実際に定家19歳のおりの言葉であれば当然のことながら、かりに後年書き加えられたものだとしても、この言葉は、定家という人と言語表現との距離をみごとにとらえてしまっている。
 それと同時に、この言葉は、表層的な因果関係の摘出に終始する安易な意味でのエクリチュールの時代性の指摘、あるいは社会と表現者のかかわりの指摘にたいする、鋭い批判の言表ともなる。
 文学史によくある、表現の表層部分に同時代のできごとの直接の言及や反映を指摘しさえすれば作品がすべて理解できるというようなみかたは、客観的どころか、往々にして、時代や社会と直接的な因果関係の見いだせないエクリチュールは退廃的なエクリチュールであるという価値判断をも含んでいる。そしてこうしたアプローチは、エクリチュールへの要請がわれわれの社会とは異なるような社会の存在を認めようとしないばかりか、そうした社会のなかでのエクリチュールの役割を理解することを最初から拒否してもいる。われわれは、定家の表現のもつ時代性というときに、より慎重でなくてはならない。
 定家の経歴の最初の部分をみればわかるが、出発点において彼の和歌はほぼ完成されており、年齢をくわえるにしたがって内容が深まっていくということはほとんどないとさえいえる。題詠を核とする彼の和歌は、周囲の歌人たちの和歌同様、自己の人生経験や生活感情を直接詠み込んだものではなく、自己のなかに蓄積されている無意識の時代精神(文化的無意識)を言語化して表出し、それを時代のなかに再度還元していく開かれた装置であった。けして時代の影響を一方向的に受け入れるだけの受容器などではない。院政期の朝廷歌人とは、芸術の創造者などではなく、社会のなかで言語化されることなく抑圧されている「ケ」の部分に表現を与えることで、それを「ハレ」の世界に転換していく翻訳者なのだ。したがって、権力者の交代が激しい社会の流れのなかに彼の和歌を置いて、社会変革との直接的関係(影響・反映)を探ったり、日記『明月記』の「顕」の世界の記述から定家の実生活を抜きだし、それをもって彼の和歌を分析するという「近代的」アプローチは、定家の場合無意味に近い。いや、定家の和歌はそのような分析を最初から峻拒している。

 以下、若き日の定家の歌作のあとを簡単にたどる。
 養和元年(1181年)、俊成の命に応じて最初の百首歌「初学百首」を詠む(20歳)。
出づる日のおなじ光に四方の海の浪にもけふや春は立つらむ (春)
天の原おもへばかはるいろもなし秋こそ月のひかりなりけれ (秋)
しぐるゝも音は変らぬ板まより木葉は月のもるにぞありける (冬)
すまの浦のあまりに燃ゆる思ひかな塩やくけぶり人はなびかで (恋)
梓弓まゆみつきゆみつきもせず思ひ入れどもなびく世もなし (恋)
 百首歌の慣習にならって立春の光景を平明に詠みあげた「 出づる日の…」の歌は、後宇田上皇の命によって定家の曾孫・二条為世が撰んだ第15番目の勅撰集『続千載和歌集』の巻頭歌。また「天の原…」の歌は『新勅撰和歌集』「定家卿百番自歌合」への自撰歌。「おもへばかはるいろもなし」「秋こそ月のひかり」といった大胆な言葉はこびが、晩年になっても捨てがたかったのであろう。「 しぐるゝも…」の歌の難解な下の句、「すまの浦の…」の歌の否定の結びなどにも、単純に時代を映すのではなく、従来にない新しい表現によってそれまで言語化されることを拒んでいたものをなんとか言語化していこうという意気込みと苦心の跡が読みとれる。
 続いて養和二年(1182年)、今度は堀河院の題による「堀河院題百首」を詠む(21歳)。百首歌の試練を突破した定家を、俊成が組題に挑戦させたのであろう。俊成や兼実は詠み終えた百首をみて喜んだというが、組題という制約はさすがにきつかったか、初学百首に比べてできばえはかなり落ちる。定家自身もそれを自覚しており、晩年に編集された自歌集『拾遺愚草』では員外(=番外)において、「今これを見るに一首の採用すべきの歌なし」「赤面の思い」「これなお言足らざる歌なり。後覧するに恥あり」等の弁解をならべている。
思ひかねむなしき空をながむれば今夜ばかりの春かぜぞ吹く (春・暮春)
萩原や霧のたえまに風吹けば色も身にしむものにぞありける (秋・萩)
芦鶴のこれにつけても音をぞ鳴く吹きたえぬべき和歌の浦風 (雑・鶴)
すこがもる山田のなるこ風吹けば己が夢をやおどろかすらむ (雑・田家)
位山ふもとのゆきにうづもれて春のひかりを待つぞひさしき (雑・述懐)
 しかし久保田淳氏によれば、これら両百首歌で、
後日宮廷和歌界を席巻するに至る新風の才気は既に鋭鋒を表し、古典を進んで自己の世界に取込み、これを縦横に駆使しようとも努めている。自然への傾倒や浪漫性の追求も窺われ、その限りでは青年期の作にふさわしいが、その上には父譲りの中流貴族意識ーー栄達への欲望が重苦しく被さっていた。これらの傾向のすべては、後々までもかれを支配するものであった。その意味で、この初期の百首二篇は、かれの和歌世界の外郭を成すものと言ってもよいであろう(久保田淳氏『新古今歌人の研究』、東京大学出版会、1973年)
と、後の定家の世界を構成する要素はほぼでそろっていた。
 その後、結婚、長子・光家誕生、殿上での争いによる除籍などを経験し、またこの間、社会的にも、俊成への勅撰集撰進下命、平氏滅亡などさまざまなできごとが起ったが、それらを経て、文治二年(1186年)、西行の勧進で三度目の百首歌、二見浦百首に臨んだ(25歳)。
なにとなく心ぞとまる山のはにことし見初むる三日月のかげ (春)
いまもこれすぎても春のおもかげは花見る道の花のいろいろ (春)
夕まぐれ秋のけしきになるまゝに袖より露はおきけるものを (秋)
恋はよし心づからもなげくなりこは誰がそへし面影ぞさは (恋)
あぢきなくつらき嵐のこゑも憂しなど夕ぐれに待ち習ひけむ (恋)
 この時期の定家は、初学百首、堀河院題百首と習作的な二度の百首歌詠進にくわえ、『千載集』編纂の助手をつとめながら多くの歌に接し、すでに古典的な和歌表現を自己薬籠中のものとしている。そして大胆な措辞でそれをさらに革新していこうという意図がみなぎる点で、これは記念すべき百首歌となった。
 「あじきなし」「つらし」「憂し」という重苦しい形容詞を三つならべる禁じ手に近い修辞に加えて、「嵐」(心象風景の<嵐>であると同時に今は<あらじ>という惜別の辞でもある)まで動員して、読む人間を、いやおうなしに待つ恋の苦しさのなかにからめとってしまう「あぢきなく…」の歌は、なかでも力作であり、大胆さゆえの批判を覚悟しながら、言葉の効果を極めつくしたものといえよう(註1)。
 しかし上にあげたように実り多いこの百首中でも、定家の代表作とする見解と否定的な見解の賛否両論がうず巻き、最も世に知られているのは次の歌である。
見渡せば花ももみぢもなかりけり浦のとまやのあきの夕ぐれ (秋)
 ここでは、主観も客観的な景観も視界のなかから積極的に排除され、一読しても何を詠みこんだのかわからないような歌になっている。つまり、先の「あぢきなく…」の歌とは対照的に、この歌は言葉をきりつめられるだけきりつめた点に特徴があり、それがまた、後世多様な解釈を生み出すこととなった。なかでも、花ももみぢもない秋の浦の寂寥感を詠んだとするもの、「なかりけり」といったん否定しても残る言葉の残像効果をねらったとするものなどは、その代表例というべきであろう。
 しかし定家が詠みこんだのは、はたして寂寥感あるいは「わび・さび」などといいきってしまえるような心情だったのか。あるいは、もしそうでないとすれば、定家の眼前には実際どのような光景が映っていたのか。この歌を前にしてわれわれはこうした問いを発したくなるが、このような問いを発すること自体、定家のしかけた罠にはまってしまうことにほかならない。この歌を前にしてそこに広がる光景を探ることなど無意味なのだ。
 この歌は、後に寂蓮、西行の歌とならべて『新古今集』に採られ、「三夕(さんせき)」の歌として有名になるが、寂蓮、西行がそれぞれ
さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮 (寂蓮)
心なき身にもあはれは知られけりしぎたつ沢の秋の夕ぐれ (西行)
と、「さびしさ」「心なき身」「あはれ」といった主観的表現と景観をないまぜにして、当時の技法のなかで歌に作者の実感を盛りこもうとしているのにたいし、それに続いて配列された定家の歌では(配列の妙!)、そうした実感だけでなく、光景そのものが歌の世界から排除されている。しかしこれは、けして残像効果をねらってのことなどではなく、定家の歌はそうした排除の宣言そのものなのであり、定家がこれ以降求め続けるであろう「美」は、通常の歌人が必死になって歌のなかにかき集める「花」や「もみぢ」といった景物やそれによってもたらされる表層的な心情のなかには、最初から存在しないのだ(註2)。ゆえに、秋の浦の実景としては、花があろうがもみぢがあろうが、なにも関係ないことになる。このおそるべき歌が、定家の言語表現の到達点ではなくて出発点であるということにどれほど注意を促しても、多すぎることはない。
 ここで久保田淳氏の指摘(『新古今歌人の研究』)にもとずいて二見浦百首全体にみられる定家の歌の特徴をまとめておこう。
1)心理的な傾向が濃厚。
2)物語の世界を取込む。
3)繊細なものの持つ美の発掘、微妙な変化の持つ趣の表現化。
4)初句切や一首の内で二回切れる歌、ないしは一句の内で切れる句割れの歌などがやや目立つ。
 久保田淳氏の言葉にそって、「心理的な傾向が濃厚」ということをもう少し補足すれば、「眼前の景には無いもの、乃至は眼前の景とは異なったものを心象の世界に描いて、それに陶酔しようという傾向」(前掲書)であり、また「当然幻想の世界へとも展開してゆく性質のもの」(前掲書)でもあるという。したがってこれが、表層的なものでもうひとつの表層的なものを説明しようとする因果論的な態度と対極にあるのはいうまでもない。
 また、この「見渡せば…」の歌と同じような主観排除の傾向は、別の角度からも指摘できる。
たとえば建久四年(1193年)の妻(母)の死という人生最大の悲劇のひとつを詠んだ俊成・定家親子の二首の歌をならべてみれば、二人の表現に対する距離の違いは明確だ。
まれにくる夜半も悲しき松風を絶えずや苔のしたに聞くらむ (俊成)
たまゆらの露も涙もとどまらずなき人恋ふる宿の秋風 (定家)
 この二首については、歌人・塚本邦雄氏がみごとな分析を行っているが、
定家のがたとえば新撰朗詠集の「故郷有母秋風涙 旅館無人暮雨魂」を思わせつつ、抑揚きわやかに涙よりむしろ涙のきらめく秋風に発想の中心をおいている感があるのに対し、俊成のはまさに悲調肺腑を衝き腸に沁む感を湛えている。(中略)定家はその告白性を拒否した。告白に等しい私事要因の歌にも完璧な私性払拭を施した。「なき人恋ふる」は死者一般に、無私の悲歌に変る。否変え得るだけの妖艶性をこの作品に充填した(塚本邦雄氏『藤原俊成・藤原良経』、筑摩書房「日本詩人選23」、1975年)
という。

 「見渡せば…」の歌を詠んだ文治二年(1186年)、定家は家司として九条家に出仕。これ以降、官位は朝廷から、実質的な仕事と経済的な裏付けは九条家から与えられることになる。

平成15年3月6日

 

 

「院政期社会の言語構造を探る」 トップページ