院政期社会の言語構造を探る

はじめに 「なぜレトリックなのか」 註

註1)
 「私(井筒俊彦氏)はこれ(シャタハート)を「酔言」、酔った言葉と訳しますが、酒に酔った人の言葉、これは素面ではとうてい口にできないような言葉なのです。それはいずれもふつうの信者の耳には、神に対するこのうえもない冒涜と響く言葉、スキャンダル以外のなにものでもない大胆不敵な表現でありまして、そういう酔言、シャタハートの多くが今日まで伝えられてきております。」(井筒俊彦氏「イスラーム哲学の原像」、『井筒俊彦著作集第五巻「イスラーム哲学」』所収、中央公論社、1992年)
 
註2)
 小論全体の発想の原点が井筒俊彦氏の思想にあるとともに、より限定された「院政期社会」についての基本的視座は、黒田俊雄氏(1926−93年)の「顕密体制論」から得た。
 顕密体制論は日本中世史の術語としてはすでに十分定着しているといえるが、その反面、日本史研究者以外にはほとんど知られていないのが実情であるともいえよう。一般的な理解では、平安末から鎌倉時代は、新しく起こった浄土宗が社会全体を席巻していく時代なのである。以上のような点を鑑み、以下、黒田氏自身の言葉で「顕密体制論」の内容を確認しておく。
 「浄土教の発達の状況を以上のようにみてくると、平安仏教の八宗なるものは、今日一般に理解されているように対等に対立的または排他的な関係のもとに併立していたのではなく、むしろある共通の基盤の上にゆるい競合的な秩序を形成していたものである、といわなければならない。その共通の基盤とは、鎮魂呪術的信仰であり、仏教教理上は密教であった。すなわち、密教の絶対的・普遍的真実性がまず共通に承認されており、その上で各宗の特色が論じられていたのである。
 顕密諸教のこの関係は、教判のなかでは「一大円教」「九顕十密」などの絶待観および顕密・事理・一乗三乗等々の差別=相待観の諸概念で理論化されているが、究極的かつ実際的には顕と密との組み合わせーー勝劣・相互依存・一致・円融などの関係におけるーーとして理解されたのであって、そこから当時は「顕密」という語が、一切の仏教を表現する言葉となっていたのである。段階的にいえば、はじめ密教による統合が進行する9世紀段階では、顕密の勝劣が問題の主たる側面であったが、10世紀以後の浄土教の発達のなかでの天台宗の主導的活躍によって、11世紀には顕密の一致・円融あるいは相互依存的な併存を最も妥当なものとみなす体制が確認されることになったといえる。このような顕密の併存体制ーー体制といっても法的あるいは行政的な制度ではなくイデオロギー的秩序というほどのものであるがーーを、小論では「顕密体制」と呼び、とくにその体制に内在する論理やそのような傾向の思想の性格をいうときには「顕密主義」という語を用いることにしたいとおもう。この体制においては、祈祷呪法的傾向を濃厚にもつ特色ある密教が基調的な位置を占め、諸宗はその上に、たとえば真言宗ならば空海の教判に依拠する教相と野沢両流以下の事相を内容として専ら真言密教の験を誇り、天台宗ならば円密一致の立場で天台の教相と観心および独特の事理の密教(台密)をその特色として掲げていた。またそのようななかで、顕密主義というべき原理が、各宗の固定的な教義という形でよりは、当時の諸宗兼学の事情から、むしろ個人ないし血脈・流派の教説に浸透し瀰漫している論理として存在したことが、指摘できるのである。」(黒田俊雄氏「中世における顕密体制の展開」、『日本中世の国家と宗教』所収、岩波書店、1975年;同論考はその後『黒田俊雄著作集第二巻「顕密体制論」』、法蔵館に所収)
 この黒田氏の理論に対しては、例えば次のような論評がある。
 「戦後の仏教史研究においては、家永三郎や井上光貞以来、鎌倉「旧仏教=古代仏教、新仏教=中世仏教」という図式が定説として承認されてきた。これに対し黒田は、「新・旧仏教」といった区分が後世の宗派を基準にしたものであるとして、分析概念としてのその有効性に疑問を投げかけ、それに代って歴史的に実在した中世の正統を示すものとして「顕密体制」という概念を示した。黒田によれば、中世においても圧倒的な力を保持していたのは延暦寺などの旧仏教系寺院であった。黒田は「顕密主義」を共通の基盤とするこれらの諸宗・諸寺院が、国家権力と癒着した形で正統宗教としてのあり方を固めた体制を「顕密体制」と命名した。これに対し、12世紀末に始まる一連の仏教改革運動は、支配的地位にあるこの顕密仏教に対し、それが生み出す時代的・社会的矛盾をさまざまな部分的・特殊的形態で表現する、改革ないしは異端の運動として位置づけられるのである。顕密体制論の提起によって、従来の定説であった「旧仏教=古代仏教、新仏教=中世仏教」という図式は覆され、旧仏教こそが中世仏教の本流であるとされた。この黒田の定言に呼応して、以後、旧仏教系寺院の生態や制度に関する研究は著しく増加し、中世におけるそれらの存在形態が実証的に解明されていった。(中略)顕密体制論は、その成立そのものを疑問視する松尾剛次らの批判はあるものの、多数の研究者の支持をえて現在の中世仏教研究のパラダイムをなすに至っている。」(佐藤弘夫氏、「顕密体制」、『日本中世史研究事典』所収、東京堂出版、1995年)
 したがって、小論の試みを中世史研究の文脈のなかに位置づけるとすれば、顕密体制論の大枠にのっとって中世の朝廷政治・文学・思想を分析しながら、密教理論、言語理論の側面を井筒俊彦氏の研究で補ったものである。

註3)
 歌人たちの意識のあり方を問題にするわれわれの文脈からすれば、「知的」という言葉は、無意識に対する意味での「表層意識的」とすべきかもしれない。しかし実は、それが単に意識の表層の問題にとどまるものではないということは、本文で徐々にみていく。



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