院政期社会の言語構造を探る

<賦字> 註

註1)
 定家が「南無明法蓮華経」の題目を賦した連作歌(『拾遺愚草員外』)は次のとおり。 

  大将殿(良経邸)にて秋の頃よゐの僧の経よむを聞きてれいのこのもじを上におきて秋の歌

夏過ぎぬと思ふばかりのあさけよりやがて乱るゝ袖の露かな
もとめても秋より外のやどもがなことぞともなき袖や乾くと
芽ぐみぬと見ればくれにし春の草風におどろく秋は来にけり
海山もしらぬわかれの袖の上にこずゑもやがて秋のゆふぐれ
ほのかなる霧よりをちの秋風やおもふゆくへの竹のひとむら
うつ音も過ぎ行くやどにおくらさで秋のころものそで慕ふなり
れき山の裾野のを田のあき風やなびきし人のはじめなりけむ
むかしをば夢にのみこそあひ見しかたゞそのまゝの袖の月影
暮れにけりまたこの秋の花すゝきほのめく霧に霜むすぶまで
衛士のたく烟ばかりはさもあらばあれ雲井の月の秋かぜの空
菊さきて木の葉もおちぬこれぞこの今年も同じ秋のつれなさ
やすらはでねなまし月は我なれて心づからのつゆのあけぼの
浮く紅葉玉ちるせゞの色そめてとなせのたきに秋もとまらず
 これは速詠であろう。すさまじい技術の一方で、「やすらはで」の歌では、さすがの定家もアイデアに詰まって、赤染衛門の古歌「やすらはでねなましものをさよふけてかたぶくまでの月をみしかな」をほとんど生のかたちで使っている。これではあまりに露骨で、本歌取とさえいえない。時間があればおそらくこういう詠み方はしなかっただろうと考えられる。しかし、この連作歌は宗教を背景にしたものであるがゆえに、個々の歌のできばえよりも、速詠による意図せざる意識の披露こそが重要と考えられたのだと思う。

註2)
 白河院時代から鳥羽院時代にかけて生きた僧・西念は遺書のなかに、賦字を用いた次のような47首の極楽往生歌を残している。こうした例から考えれば、賦字(言語神秘主義)と仏教思想との結びつきは、なにも密教の世界だけに限定されるものではなく、宗派や社会階層を超えて広くみられる現象ということもできよう。
ろいろの花を摘みては西方の弥陀に供へて露の身を悔
くろくに廻り遇ふとも法の道絶えで行へ釈迦のこのこ
かなしや此世の事を急ぐとて御法の道を知らぬ我が身
   (以下省略、太字強調は引用者、引用は『日本文学の歴史4復古と革新』、角川書店、1967年による)
 西念自身による遺書以外に彼の伝記的史料は残されておらず、西念は下級貴族を出自とする無名の出家者というしかない。賦字によるこの往生歌は、後世に備えるものとして康治元年(1142年)に詠まれ、明治三十九年に京都市内で土中から発見されるまで、供養目録などと一緒に容器に密封されて、埋められていたのである。

註3)
 言語、世界、仏身が一体化しているという思想は通常の論理では理解しにくいが、密教では、言語も世界も構造的に仏身から流出した、仏のはたらきの顕現として、最終的に仏と一体といえると思う。

註4)
 これは、密教と他の仏教諸派のあいだでは、仏のあり方にたいする考え方が異なるためでもある。

註5)
 真言密教内部からの空海言語論の位置づけのひとつを紹介しておこう。以下の村上保寿氏の論点のなかでは、「(ことばは)世界の本質、存在者の存在そのものを開示し得る通路」という視座、なかでも「通路」というとらえ方に魅力を感じる。
概念の根本的な意味において、空海の声字は、本質的に論理的認識の概念ではなかった。すなわち声字「即実相」とは、声字が世界と存在者の実相そのものであることを意味しているからである。このことは、声字は実相を認識するための概念ではなく、明らかに、存在を開示する世界概念であることを意味している。すなわち、五大の声字とは、世界の実相・存在者の存在それ自体を開示している存在の概念である。存在の概念であるが故に、声字は世界自体の「ことば」であることが可能なのである。認識の概念であるならば、声字はどこまでも主観のことばでしかないであろう。それ故に、声字を認識の概念と理解する顕教は、ついに世界の本質、存在者の存在そのものを開示し得る通路を持たなかった(村上保寿氏、『空海と智の構造』、東方出版、1996年)
註6)
 ここまでの議論をふまえたうえで、院政期の和歌が「音楽的」であるとするならば、小論もそれを認めるにやぶさかではない。しかし筆者の考える音楽的和歌とは、けして、第一次的に耳に飛び込む音素<シニフィアン>の直接的な美をめざしたものではなく、より構造的なものである。
 唐突なようではあるが、たとえばJ・S・バッハ(1685年−1750年)の音楽から例をひくと、まずBACHの名前そのものがユダヤ思想のカバラのテムラー(temurah)の作業をみるかのように変ロ(=B)・イ(=A)・ハ(=C)・ロ(=H)と直接音に置き換えられて『フーガの技法』など複数の楽曲にはめ込まれている。また、BACHのアルファベットの順番を合計した14(=2+1+3+8)およびJ・S・BACHの合計である41(9+18+2+1+3+8)も、バッハの絶筆と伝えられるコラール『汝の御座のまえに、われいま進み出て』の定旋律の音符の数ほかに使われている。こうしたアルファベットの文字の数への「置き換え=翻訳」は、同じくカバラのなかのゲマトリア(gematria)の影響といえ、14、41以外にも、いろいろなアルファベットが数値化されてバッハの曲のなかにはめ込まれていることが、音楽史家によって指摘されている。
 ほかにも、バッハの晩年を飾る『クラヴィーア練習曲集』第三部は、三位一体を表す3と完全性を象徴する7をかけた21曲のコラールからなるが、その両端におかれた前奏曲とフーガはフラット3個の変ホ長調であり、調性および曲を構成する3つの主題によって三位一体を暗示しているとされる。
 プロイセンのフリードリヒ大王に献呈した『音楽の捧げもの』は、こうしたバッハの音楽思想を多面的に集約した曲集だが、そのなかで音の連なり(旋律)は、楽譜に記されたままに演奏されるだけでなく、演奏者(=解釈者)によって音の上下関係を逆転させられたり、逆行させられたり、さらには逆転したものを逆行させられたりして重ね合わせられることではじめて曲として成立する。つまり個々の音の連なりを上述のいずれかの方法によって重ね合わせていかなければ対位法は成立しないのだが、曲集の最後のほうでは、バッハは基本となる音の連なりを記しているだけで、重ね合わせ方の指定を行っていない。『音楽の捧げもの』の演奏に唯一の正解などはなく、記された一つひとつの音の連なりが、背後に「無限の解釈学的読みを許す」(井筒俊彦氏)ように作曲されているのだ。

註7)
 慈円の研究者・山本一氏は、次のように、慈円の「賦百字百首」の意図をあまり高く評価していない。意図の問題は別にしても、慈円のこの連作は、和歌としてできがよいとはけしていえない。その辺が、過剰なほどのレトリックを用いてもけしてそれを単なるレトリックの誇示には終わらせなかった定家と慈円の才能の違いだろう。
おそらく「賦百字百首」を考案した定家の意図は、完成された百首では字を配られた句は隠れ、一見すると、、四季・恋・雑の枠による通常の百首歌のように見えるという、ひねった面白さにあったのではなかろうか(もとより、定家の作はそうなっている)。とすれば、慈円は詠作の速さを競うことに心を奪われて、定家の意図を理解しきれなかったことになる(山本一氏「速詠の季節」、『慈円の和歌と思想』所収、和泉書院、1999年)



院政期和歌のレトリック〜賦字 本文