院政期社会の言語構造を探る

顕密体制のなかの和歌 註

註1)
 これとは逆に、プロセスとしての移動を「行」として重視したのが、実質的に白河院が開始した熊野詣であったといえる。熊野詣については、その主体が在位の天皇ではなく譲位した上皇・法皇や女院であったという点にも、「院政」というほとんど前例のない執政形態の新しいヴェクトル(権力の方向性)をみてとることが可能だと思う。
 なお輔仁親王の叔父・行尊はこの熊野詣にも深く関係しており、しばしば白河院らの先達となった。

註2)
 桜井好朗氏の次の説明は、「末法思想」とは何であったのかをみごとにとらえている。

日本の古代から中世へかけて、人々は末法の世になったと考え、世の中のことをたよりないものとする気持ちを強めた。そうなったのは、結局、既成のものの考え方では説明しかねる出来事が、つぎつぎにおこり、そのため出来事に意味をあたえ、それを位置づけてゆくための、ものの考え方の枠組が動揺してきたからであろう(桜井好朗氏「歴史叙述と神話」、「空より参らむーー中世論のために」所収、人文書院、1983年)
 つまり、桜井氏の論は、末法思想の普及によって社会が動揺したのではなく、社会の動揺を「末法」という言葉が巧みに言語化していったとするものであり、またつきつめていけば、その言語化のプロセスこそ末法思想だとするものだと思う。

註3)
 通常「ヤタク」と読む。聖宝に始まる小流と益信に始まる広流の二流で、真言宗の実践(教相に対する事相)面の違いから分流。

註4)
 速見侑氏、黒田俊雄氏とはまったく異なる史料論の視点から、院政期社会を単純に浄土仏教中心社会と見ていくことを否定した論文に、大隅和雄氏の「古代末期における価値観の変動」(「北海道大学文学部紀要」16−1)がある。
 すなわち、摂関期には多くの浄土系聖が出現し、その聖の活動が民間に浄土思想を広めていくのに力があったとする通説に対し、大隅氏は次のように批判的に論究している。
いわゆる聖によって代表させられる民間仏教の問題は、すでに先学の指摘の通り、律令体制が弛緩してくるこの時期に活発な活動がはじまると考えられているが、ここで指摘しておきたいのは、聖について記した史料のあり方である。聖が自身で己れの行業を記録して後世に遺したという例はほとんどなく、聖の活動を伝える記録は貴族によって作られた。ということは、体制外の宗教者に対して、記録の対象としての価値を附与するように貴族の意識が変化したことなのであって、聖の問題は、聖が存在して活動しはじめたということに重ね合わせて、聖の存在を記録しはじめた貴族層の意識の変化の問題でなければならないであろう。
 大隅氏によれば、摂関期以降の往生伝の増加をストレートに浄土思想の興隆と結びつけて解釈するのは、史料の扱いに対する基本的な誤りということになり、この事実から直接的に読みとれるのは、社会全体の変化ではなく、単にそれを記した貴族の意識の変化ということになる。

註5)
 鎌倉時代の浄土教展開のほぼ最終段階に登場した一遍(1239−89年)の思想は、阿弥陀仏が衆生を選びとる(すでに選びとってしまっている)というもの(「御房のすすめによりて、一切衆生はじめて往生すべきにあらず、阿弥陀仏の十劫正覚に一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と決定するところ也」)で、衆生の側に信仰を選びそれを拒否する自由はない。一遍の浄土信仰が密教的とされるゆえんである。



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