院政期社会の言語構造を探る

顕密体制のなかの和歌

Waka dans le systeme social dirige par les Bouddhismes exoterique et esoterique

 白河院(および堀河天皇)時代には、天皇家の権威を高めることを目的のひとつとして出発したことが、和歌の基本的性格を決定している。くわえて、「組題百首」という、歌のパターン化を促す新たな趣向が考案され、歌壇に受け入れられた。この時代の歌壇の主流には、個人の興(感情)を伝える「詩」としての和歌を顕揚しようという歌人は登場しない。これ以降、百首歌や歌合を前提とした題詠が和歌の中心となり、歌は多作されるが感興につられて詠む「機会詠」は減少する。レトリックの時代の開幕である。
 機会詠の減少、いわば歌の異化(dissimilation)の進展は、作者の自己の発露を重視する通常の文学史において、「新古今集」にいたる王朝和歌の重要な欠陥とされる点だ。しかしこれは欠陥と指摘さえすれば通過することができる単純な問題なのであろうか。むしろ一見詠み手の側の自己疎外としか思われないこうした傾向のなかに、院政期の歌(および言語コミュニケーション)の本質がひそんでいるのではないか。そして、言語表現が異化へと向かう傾向が生じた背景や経過をすべて無視して、この時代の言語表現を「欠陥」と断罪してしまう過剰な心理主義自体が、ひとつの「近代的な」価値判断に過ぎないのではないか。
 近代主義の視点からひとつの標準を形成し、その標準形成のあり方を問うことなく過去を客観的に叙述しうるとする「文学史」を、桜井好朗氏は「抑圧としての文学史」と指摘しているが、歌に関する具体的な考察を再開するまえに、「文学史」もどきの叙述を行っているものの自戒の意味も含めて、桜井氏の言葉を以下に引いておこう。
「作者」の自我意識において現れるもの、とらえうるものを、個性的に表現することによって「作品」が成立するという観念が、潜在もしくは顕在する。そのような”近代”を”隠された原点”とすることで、”文学史”の叙述は成立したのである。イデオロギーの次元で”近代”を批判しても、その批判の立場自体も、”隠された原点”にふくみこまれ、そういう”原点”を前提とする論述の仕組自体を否定するところまでは、容易に達しえなかった(桜井好朗氏「文学史における技術の問題」、「中世日本の王権・宗教・芸能」所収、人文書院、1988年)
 過去の文学史が到達しえなかった原点批判にどこまで迫ることができるかは小論の課題でもあるが、小論は、個々の歌の解釈をとおして作者の個人史や歌に託された折々の感情を探ろうとするのではなく、歌のなかから作者が消えていく事態そのもののなかに、一人ひとりの作者を超えた時代の心性を読みとっていきたいと考えている。そしてそれが、小論が「レトリック」を議論の中心に据えることの意味でもある。
 またこの作業をすすめるうえで、院政期に「近代」的視点をもちこむことが危険であるのと同様に、「古代」をもちだして、院政期の歌がいかに歌の「原点」からずれてしまっているかを指摘するような議論も、それらを内面から理解しようというときにはまったく役に立たないであろう。院政期の歌は、本来的には、その時代の社会全体との共時的関係のなかでこそ、読みとられるべきものなのである。

 歌の世界に戻ろう。あらかじめ描かれた名所の絵などにあわせて詠む屏風絵を含めて、題詠そのものは「古今集」時代からさかんに行われていた。これによって平安朝の歌人たちが無意識のうちにめざしていたのは、社会の文化的基盤あるいは時代精神の「自動記述(エクリチュール・オートマティック)」であったといえなくもない。
 また名所絵そのものも、風光明媚な場所や特定の故事来歴と結びついた場所の「あらまほしき姿」を描くのであって、名所の光景の忠実な再現、あるいは名所を前にした画家の感動の表現を目的としたものではなかった。そしてさらにいえば、四季おりおりに目に映る自然(環境世界)のなかから桜の吉野山や紅葉の竜田川など特定の光景を選び出し、それを「名所」として社会全体で愛でる行為そのものが、異化のはじまりといえるのである。
 名所をまえにして人々に要請される態度は、「つきづきしさ」=典型であることの確認であり、そこで個人の興を展開したり感想を述べることではなかった。したがって、名所を訪ねることは名所絵を見ることで代替可能になるのであり、苦労して実際に名所を訪ねることは、ややもすれば名所に対する心象の破壊につながるものとして忌避される(註1)。
 歌合についても同じようなことが指摘できる。歌合とは、そこで番えられる歌の作者の自我や個人史が特定の題(キーワード)を中心にどう展開していくか、歌のなかに作者がどのように投影されているかを競う近代的な差異化のゲームではなく、与えられた題に結びつく文化的な共通要素をどのように巧みに言語化するかを競う、普遍化のゲームであった。近代の文学作品が、他者との相違から出発し、その相違を他者にどのように伝達していくかに腐心するのに対し、普遍化ゲームである院政期の和歌は、他者との同一性から出発し、そのなかに他者との違いをどれだけもりこむことができるかという「技巧的」側面に関心を集中させることになる。

 通常の歴史叙述は、ここで、社会の経済的動揺や、それと機を同じくして影響力を強めていく末法思想が、文化の担い手である貴族階級の「生」の不安を拡大し、貴族たちは、その不安からの個人的救済を浄土仏教に求めたり、「諸行無常」の不安感を文学作品のなかに定着させようとしたと断定するであろう。しかし院政期の朝廷歌壇に広くみられる普遍化への傾向は、社会史や文学史で重視される末法思想やそれと表裏一体の浄土仏教の思想とは大きく相違しており、それらでは説明しきれないものを宿していると思う(註2)。あらかじめお断りしているように、小論は、末法思想という枠にとらわれることなく、こうした普遍化の背景を探ってみたいと考えているのだ。
 すると、少なくとも仏教思想のなかでは、貴族たちの「個」の自覚と「生」の不安を反映した浄土の思想というより、平安初期に移入された密教の古い思想原理こそ、言語の異化、和歌の普遍化にふさわしいものに思えてくる。
 だがこの時代、加持祈祷を中心とする旧態依然とした密教は、浄土仏教のエネルギーに圧倒され、仏教界の主役の座を降りようとしていたのではなかったか。中国直輸入の体制仏教である密教は、同じく中国から輸入された政治制度である律令体制と消えゆく運命をともにしようとしていたのではなかったか。院政期に対するこうした予見は、いったん白紙に還元する必要があろう。そのうえで、院政期の貴族階級の信仰・思想の実態は実際にはどのようなものであったのかもう一度考える必要があるであろう。この時代の思想界で生じていた現象を明らかにするために、ここで二人の歴史家の主張をきいてみよう。
 まず最初にとりあげる速見侑氏は、
十世紀末、源信の出現により確立した念仏結社中心の天台浄土教が、院政期に入り貴族社会に遍満するとともに、貴族の個人的信仰は、かえって密教的修法へ傾いた。冥府・冥官の信仰が、その名をみれば、表面的には来世信仰のようでありながら、本質的には、陰陽道的信仰とも混淆し、現世の利益を願う星宿信仰と大差ないものであるのは、そうした院政期貴族社会仏教の性格を、最もよく示している(速見侑氏、「平安貴族社会と仏教」、吉川弘文館、1975年)
と、摂関体制確立以降の仏教の主流を浄土教とする日本仏教史の通説に異をとなえる。速見氏の説を端的に要約すれば、院政期の仏教界では、末法であるがゆえに専修念仏の易行を選ぶしかないという思想が生じたのと同様に、末法であるがゆえに密教の厳しい修行や、それに裏打ちされた高僧の験の意義が大きくクローズアップされたということになる。
 また黒田俊雄氏は、同様に密教が力を増した結果、院政期には「顕密体制」、いうなれば密教化した天台宗の本覚思想(本来的には、万物が覚りうるという思想)に基づく社会体制が確立されたと指摘する。
平安仏教の八宗なるものは、今日一般に理解されているように対等に対立的または排他的な関係のもとに併立していたのではなく、むしろある共通の基盤の上にゆるい競合的な秩序を形成していたものである、といわなければならない。(中略)、11世紀には顕密の一致・円融あるいは相互依存的な併存を最も妥当なものとみなす体制が確認されることになったといえる。このような顕密の併存体制ーー体制といっても法的あるいは行政的な制度ではなくイデオロギー的秩序というほどのものであるがーーを、小論では「顕密体制」と呼び、とくにその体制に内在する論理やそのような傾向の思想の性格をいうときには「顕密主義」という語を用いることにしたいとおもう。この体制においては、祈祷呪法的傾向を濃厚にもつ特色ある密教が基調的な位置を占め、諸宗はその上に、たとえば真言宗ならば空海の教判に依拠する教相と野沢両流(註3)以下の事相を内容として専ら真言密教の験を誇り、天台宗ならば円密一致の立場で天台の教相と観心および独特の事理の密教(台密)をその特色として掲げていた。」(黒田俊雄氏「中世における顕密体制の展開」、「日本中世の国家と宗教」所収、岩波書店、1975年;同論考はその後黒田俊雄著作集第二巻「顕密体制論」、法蔵館に所収)
 これは、日本の思想界革新の旗手であるかのようにいわれてきた浄土思想をいったん体制のなかに組み入れることによって、旧仏教対新仏教という対立構図そのものを止揚しようという大胆な説だ。

 両氏のいう十世紀末あるいは十一世紀というと、政治的には、藤原道長の権勢確立に続く摂関家の全盛時代から院政のはじまりまでを指す。この時代は、日本における浄土仏教の確立・展開期とされるわけだが、逆に密教を中心に浄土思想をも含む仏教の再編成が行われた時期であるとすると、和歌の世界は理解しやすくなる(註4)。
 しかしひとくちに密教といっても、宇宙論、身体論、言語論を統合したその教理は複雑をきわめ、一般的にはむしろシャーマニスティックな呪術的宗教というイメージが未だ強い。小論では、密教の教理についてたちいった説明を行う余裕がないが、この時代の社会秩序の基調と考えられる密教の祈祷呪法や験、あるいは密教独自の瑜伽行の瞑想(ヨーガ=相応一致)の一端を知るため、まず日本密教の原点に立つ空海の言葉をきいてみよう。
およそ瑜伽観行を修習する人はまさにすべからくつぶさに三密の行を修して五相成身(即身成仏をめざす秘密の観法)の義を証悟すべし。いふところの三密とは、一に身密とは契印を結んで聖衆を召請するが如き、これなり。二には語密とはひそかに真言を誦じて文句をして了了分明ならしめて謬誤なきが如きなり。三には意密とは瑜伽に住して自浄月の円満に相応し、菩提心を観ずるが如きなり(空海「秘蔵宝鑰)
 空海によって体系づけられた真言密教は、以上のように、「身口意」を動員した実践と結びついた独自の象徴主義(身体象徴主義)が大きな特徴であり、われわれの同時代人の言葉を借りてこれを再説すれば、次のようになる。
行者はまず曼荼羅に投華し、自分に対応する特定の一尊を儀礼的に確定する。ついで彼はにその尊の羯磨印(その尊に特有の動作・行為を象徴する手印)を結び、にその尊の法印(その尊の言説を示す特定の真言または種子<シラブル>)を称え、にその尊の三昧耶印(その尊の内面性を象徴する特定の事物・形象)を念想し、自己をその尊の一個の象徴へと再編成する。この象徴操作<シンボリズム>を三密加持または三密瑜伽と称するのであり、この自己を象徴化することによって、彼は<象徴はそれが象徴する対象<もの>と同じである>という密教の論理に従ってその一尊と(同一に)なる(津田真一氏「金剛頂経」解説、東京美術、1995年;ルビ(引用では<>で示した)は原文による。また引用に際して原文の傍点を下線に変更して表記した。)
 灌頂などの身体性をともなう儀式・行為によって人から人へ伝えられていくという性格をもつ密教の教理について、世俗人である筆者はくわしく語る資格を有しないが、以下、「投華」ということに関して、紙上の知識のおよぶ範囲で少し考えてみたい。

 津田氏からの引用の冒頭に出てきた「投華」または「抛花」とは、「灌頂の式場に敷かれた大曼荼羅の上に入門者が花を抛げ、その花が落ちた仏・菩薩をその入門者の有縁の尊とする」(金岡秀友編「空海辞典」、東京堂出版、1979年)ことだが、ここで投げられる花とは、入門者自身の象徴あるいは代理であって、投華とは結局、自分自身を曼荼羅のうえの仏・菩薩にむかって投げ出すことにほかならない。
 なにものかにむかってこのように自己を投げ出す行為のなかには大きな宗教性が含まれていると思うが、日本の仏教思想史では、自己を投げ出すというと、一般的には阿弥陀仏の誓願に対する投げ出しばかりが、「他力」として問題にされてきたように思われる。密教とはその原点において、自己を投げ出す宗教であるということをここでまず指摘しておきたい。
 そしてこの投げ出しの視点からすれば、密教では、有縁の尊、すなわち自己の信仰の核を定めるために自己を投げ出すのに対し、法然流の浄土教では、すでに定められた信仰の核である阿弥陀仏の誓願(教理)にたいし自己を投げる。つまり、密教の投げ出しは、なにであるかわからないものに自己の全存在を投げるのに対し、浄土教では、まず第一に、仏の慈悲があらかじめ準備した救済に自己を投げ入れるかどうかそのものが二者択一的であり、しかも入門者は、そのなかに自己を投げ入れるかどうか、時代性など一定の基準を考慮しながら、ある程度自分で判断することができる(註5)。
 こうしてみると、密教の投げは、浄土教に対しいかにも恣意的にみえる。しかしこの一見恣意的であるかにみえる行為が、実は意識下のもの(秘密)を顕在化させる必然的な行為であるとするのが、密教の論理性だと思う。すなわち、「投華」とは、特定の尊と新たに縁を結ぶための行為ではなく、投華以前からあった特定の尊との「縁」を明らかにする(確定する)ための行為ではないか。
 直接的に見えるものと見えるものを結びつけ、それによってできごとの原因・結果を説明するのが因果律だとすると、見えるものと見えないものを結びつけようとする密教的な論理は因果律に反したものでしかない。そしてこうした論理性がみえなくなってくると、密教は「呪術」や「魔術」と同一視されるようになる。しかしそれは、見えるものの解釈のみに専念する「近代的」視点の陥りやすい落とし穴ではないか。
 ところでここまでの叙述で、小論は、「投げ」とか「投げ出し」というあまりこなれているとはいいかねる言葉をあえて使用してきたのだが、この辺でそれらを「投企」と置き換えておこう。「投企」とはEntwurf(独)あるいはproject(英、仏)という言葉を訳した哲学用語だが、本来的には(前方に)投げること、そしてまた、なにごとかを企てることを、和歌の「掛詞」のように同時に指す。
現存在は、存在するかぎり、いつもすでに、そしていつになっても、さまざまな可能性からおのれを了解する。さらに、了解が投企という性格をそなえているということは、了解がみずから投企する目あてを、すなわちもろもろの可能性を、それとして主題的に把握していないということを意味する。このような主題的把握は、投企されたことがらからかえってその可能性の性格を奪いとり、それを既定の意味内容の段階へ引きさげてしまう。これに反して、投企は投げることにおいて可能性を可能性としておのれに先投し、どこまでも可能性として存在させるのである(M・ハイデガー「存在と時間」Sein und Zeit、1927年;細谷貞雄訳、理想社、1963年)
 西洋哲学が20世紀になってようやく問題にしだした、世界と人間との関係、人間が世界にむかって身を乗り出し自己の可能性を了解することの意義を、密教はその原点において問題にしていたといえる。

 まわり道をしたが、「金葉集」の項(準備中)の最後でみた、白河院、俊頼らが輔仁親王の歌や能因の「天の川苗代水にせきくだせ あま下ります神ならば神」の歌のなかにみた言葉の特殊なはたらきの一面も、少なくとも院政期に関するかぎり、
五大(五つの世界構成要素)にみな響きあり
十界(十の生の領域)に言語を具す
六塵(六つの認識対象)ことごとく文字なり
法身(宇宙の法としての仏の身体)はこれ実相なり (空海「声字実相義」)
と、存在論と言語哲学を渾然と一体化した密教思想との関連から考察されるべきだと思う。そして、密教思想と和歌との相関関係を肯定すれば、百首歌を歌曼荼羅とみ、掛詞の背景に本地垂迹説を成立させたのと同様の多義的な象徴主義の精神をみるようなことも可能になってくるのではないか。
 巨視的にみて、「古今集」時代には枠組が成立したにとどまり、自覚的表現手法が未だ確立されていなかった自動記述に対する新たな模索が始まったのが白河院政期であった。くりかえすようだが、それは、桜井好朗氏のいう空洞化した国家儀礼を反復していくしかない神話なき国家の上部構造とも一体化している。
王権ー国家の神話的構造がこのような方向にゆっくり変動してゆく一方で、<秩序>を目ざして人間社会を創造する力が、「宇宙論」を縮小したかたちで季節の循環として観念され、美的季節感を共有することで王と貴族の共同体が成立する。彼らの美意識を支えとして勅撰和歌集が生まれるのであって、それはかつて記紀神話が果たした役割りを代行する(桜井好朗氏「国家における儀礼と芸能」、「儀礼国家の解体」所収、吉川弘文館、1996年)
 したがって、組題百首の考案は、本来「文学」のなかにとどまる問題ではなく、空洞化していく王権ー国家の言語体系を支えるための方法論的成果である。
 しかし組題はあくまでも表現のための枠組であり、未だ表現そのものではない。「俊頼髄脳」の雑然とした内容をみると、この時代の試みは、新たな表現の模索にとどまったといえる。自動記述の自覚とそのための手法確立は、次の時代に登場する藤原俊成、定家の親子をまたなくてはならなかった。そして俊成、定家の時代は、文化を支える王朝の社会基盤そのものがさらに大きく動揺し、スタティックな身体象徴主義(自己象徴化)の実践が困難となる激動の時代であった。それだけに、時代のうねりを自己に引き受け、自己の身体をとおして時代を表現していくことが、歌人たちの無意識のうちに強く要請されたのである。
 ひるがえってみれば、勅撰集という世界的にもほとんど例をみない形態のアンソロジーほど、集団的無意識を盛り込むのにふさわしい装置はない。院政期の最後に登場する「新古今集」とは、言語を媒介にして時代と社会とを写しとる勅撰集という装置のなかでも最高の到達点であった。


 平成16年8月4日

  

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