2004年1月 パリ滞在記:その3  

1月18日(日)
 早く起き出してまずはドゥ・マゴに。この日はクロワッサンの注文にも成功する。なんのことはない。クロワッサンは1個から売っており、飲み物を注文するときに欲しい数を言えばよかったのだ。ドゥ・マゴのテラスから向かいのサンジェルマン・デ・プレ教会をみていると、8時半くらいから教会の背後の空が朝焼けでほんのりバラ色にそまりだし非常に美しい。
 ドゥ・マゴはさておき、日曜日のパリはショップもレストランも大半が休み。今日はパリの南端ヴァンヴののみの市に出かけ、その後車で郊外に出かけようと、大月さんが手ぐすねひいて待っている。
 私の方はというと、昨晩日本からのファックスが入り、四谷シモンのインタビュー原稿を校正して月曜までに返事をしなくてはならないので、気が気でない。ドゥ・マゴから戻るとすぐ(日本では日曜の午後)に日本テレビや企画会社に電話してみたのだがみんなお休み。あわてて人形専門誌「ドール・フォーラム・ジャパン」の小川千惠子編集長に電話を入れ、展覧会の様子の報告を兼ねて日本のメディアに連絡をとってもらう。仕事でパリに来ているという気分がひしひしとする。
 さて、今日は郊外の移動がメインなので、厳重な装備をして大月さんの到着を待つが、大月さんも寒がりの四谷シモンも意外な軽装。案の定、のみの市に着くと、二人とも寒い寒いを連発している。この日のみの市で一番元気だったのは荒木さんだろう。古いメカ系雑貨を売る店で懐中時計ににたおもしろい器具を見つけ出した。日本ではみたことがないが、よくみると時計ではなくて簡易アンペア計だという。いっぽう四谷シモンは、古生地や装飾品の店で造花のための芯を見つけた。けして高いものではないが、これも日本では手に入れにくいという。すぐに大月さんが値切りの交渉にはいる。とはいえこの日のパリはわれわれが到着してからもっとも寒く、みんなじっくり欲しいものを探すような雰囲気ではない。はやばやと市を切り上げ、日本人街に札幌ラーメンを食べに行くことにする。
 札幌ラーメン店では熱燗をのみながら桂さんをまじえた5人で戦略会議。大月さんの推薦はパリ南東のフォンテヌブローだが、ここで私は、自分一人でも西郊外のマルリ・ル・ロワへ行きたいと主張する。マルリ・ル・ロワは、現在翻訳中のガブリエル・ボノ・ド・マブリの書簡体政治作品『市民の権利・義務について』の舞台(マブリ当時の名は単にマルリ。マルリ・ル・ロワは「王のマルリ」というほどの意味で新しい地名だろう。以下ではマルリと呼ぶことにする)なので、ここはなんとしてもマルリに行って、マブリが散策したあとを実際に歩いてみたいのだ。するとみんなマルリでいいと意外とあっさり同調し、午後はマルリ行きに決定する。ラーメンを食べているうちに雲も切れ、郊外散策に絶好のひよりになってきた。
 マブリの作品にはマルリとパリの位置関係が書いてあり、それによればマルリからパリに来るにはヌイイをとおるとあるのだが、たまたま桂さんがヌイイに住んでいるので、まずはヌイイに行って桂さんの自動車を置き、そのうえで大月さんの車で全員マルリに行くことにする。パリからヌイイまでは桂さんの勝手知ったる道、スムーズに静かな郊外へ移動する。

マルリの城館跡からセーヌ方面の眺め
 しかしここからが大変。だれもマルリに行ったことがないので地図をたよりに右だ左だとデファンス地区、新凱旋門を越えていく。しばらくすると道はセーヌの下流にぶつかり、ここからしばらくセーヌ沿いに進むのだが、この辺の閑静な住宅は、古い建物がびっしりと建てこんだパリとは全然趣が違う。突然おとぎばなしの世界にまぎれこんだようだ。ナポレオンの居館マルメゾンを過ぎ、セーヌともわかれ、いよいよマルリ・ル・ロワの市街へ。ところがここからはほんとうに難しい。手元にはインターネットからプリント・アウトした大まかな地図しかないため、新興住宅街をなんどもぐるぐる回る。いらいらする四谷シモン。
 ともかく迷路を抜け出し、ここだここだと新たな道を進むが、めざす公園には一向に到着しない。最後に小さな教会横で車をとめて地元の人の教えを乞う。進むこと数分、生け垣のようなところに小さな分岐路がみえる。あったこれだ!駐車場に車をとめてまずは大月さん。「あ、ここだったら巖谷國士さんを連れて来たことがある!」あ〜あ、さきにそれを思い出してくれてたらよかったのに…。

城館跡の裏手は林を切り開いた庭園
 マルリに昔の城館は残っておらず、広大な庭園のあとは散策用の公園になっている。庭園そのものはヴェルサイユのように人工の限りをつくしたものではなく、森を切り開いてその一部を池と遊歩道にし、セーヌ沿いの高台にあるマルリの地形を利用してセーヌの向こう岸が一望できるようにしたもの。左右から森が迫ってくるなかでの遠望は格別だ。この光景をマブリも毎日のように眺めていたのであろう。公園のなかの立て札によれば、城館はナポレオン時代に取り壊されたという。おそらくは戦費調達のために石材として切り売りされたのであろう。基礎石に往事の城館がしのばれる。
 また庭園の池や噴水の水は、100メートル以上低いところを流れるセーヌ川からマルリ・マシーンと呼ばれた巨大なポンプによって汲み上げられていたもので、その水をヴェルサイユの庭園でも利用していたという。
 人工と自然がたくみに配置された壮大な庭園に、みんな思う存分くつろいでいる。
 マルリのあとは、近くのサンジェルマン・アン・レーの城館に行くこととし、方向転換。セーヌ川沿いの道にもどる車のなかから、だれかが水道橋のあとをみつける。マルリはやはり当時のフランスの造園技術のかぎりをつくした庭園だったのだと確信。
 サンジェルマン・アン・レーとマルリはすぐ目と鼻の先。ガイド・ブックによればここはもともとサンジェルマン・デ・プレ教会の領地で、サンジェルマン・アン・レーの地名は教会にちなむという。またここはルイ14世が生まれ育った土地でもあり、現在考古学博物館になっている城館の横に、庭園と自然の高台を利用したテラスがある。庭園はざっとみたところマルリより規模が小さく、より人工的だが、テラスからのながめは絶景だ。マルリでは森にさまたげられてパリの方角はみえなかったが、このテラスからはデファンス地区の高層ビルやエッフェル塔の先端が遠望できる。
 ここまで来たからには次にヴェルサイユにも行こう。城の中に入らなくても、外から眺めるだけでもおもしろいからと大月さんは車を飛ばす。もう一度マルリをとおり、少し日がかげってきた道を急ぐ。マルリからヴェルサイユへの道は文字通り一直線だが、このあたりのふわっとした柔らかさを感じさせる森の光景はほんとうにすばらしい。しばしの移動で今度はヴェルサイユ。こうして三つの城を次々に訪問すると、ヴェルサイユの壮大さはこれはこれで格別だ。
 夕闇のなかパリに戻る。しかしサービス精神旺盛な大月さん。今度はエッフェル塔をみにいこうとみんなを誘う。この冬、エッフェル塔は1時間に一度イルミネーションをともすサービスをはじめており、近くからみるとそれが一段ときれいだというのだ。かくて一同エッフェル塔のすぐそばのカフェに陣取る。待つことしばし、塔がちかちか光りだした。荒木さんと私はおのぼりさんの特権を発揮し、カフェから飛び出してそれを間近に見にいく。2、3分だろうか。エッフェル塔の上から下まで、白いフラッシュがちかちかと点滅する。パリにしてははでなような気もするが、メルヘンチックな光景だ。
 カフェでビールを飲んでいるうちに、ようやくお腹もすいてきた。この日フランス人の経営するレストランは大半が休みなので、夕食は初日に行ったソルボンヌの中華レストランでとることにする。レストランの近くで行き倒れの浮浪者をみつけ、手分けして救急車を呼ぶ。放っていたら凍死してしまったのではないか。突然パリの現実をみせつけられた感じだ。
 思わぬアクシデントでこちらの体もひえきってしまったが、中華で軽くお腹をふくらませ、ホテルに戻る。  
1月19日(月)
 パリの時間になれてきたのか、疲れていたのか、少しよく眠れるようになった。それでもじっくり寝ているのは難しい。今朝は四谷シモンもドゥ・マゴの朝食を試してみたいというので、荒木さんをおいてドゥ・マゴへ。無事カフェ・オ・レとクロワッサンをとっていたところに日本女性が二人入ってきたので、彼女たちにコーヒーのたのみ方をコーチ。ところがそこへまた大量の日本人がやってきた。どうやらドゥ・マゴを待ち合わせ場所にしているらしく、「オハヨウゴザイマス」と言いながら次々にやってきてはテラスを占領していく。すっかり興ざめしたわれわれは早々に退散。四谷シモンいわく、なにかの撮影キャラバンではないかという。
 以下、ホテルの前のパン屋PAULのウィンドーを見ての会話。
 シモン「あ、パンつくってる」
 如月「パンツなんか食わないでください!?」
 さてホテルに戻り、私は校正を仕上げて日本にファックス。これで月曜中という締め切りになんとか間に合った。
 この日は夕方の展覧会オープニングまで特に予定がないが、まず美術館に行って展示の仕上がりを確認し、その足で日本文化会館を表敬訪問することにする。移動は地下鉄だが、今日は最初の日とは逆の方向のバルベス・ロシュシュアール駅で降りる。バルベス・ロシュシュアールという駅は特になにかがあるというわけではなく、バルベス大通りとロシュシュアール大通りの交差点に位置する。日本でいえば京都の四条烏丸という感じの駅名だ。ただし四条烏丸のようなハイカラな場所ではなく、駅前にはタチという安売りショップがあり、雑然とした感じ。出口でサクレ・クール寺院への道をきき、それにしたがって交差点をわたる。タチのそばの電車道を直進して2番目の角を右に折れ、すぐに左に折れると突き当たりにアル・サン・ピエール美術館が、そしてその背後にサクレ・クール寺院がみえてくる。この道は安売りショップと生地屋、素材屋が混在。ある素材屋で四谷シモンはカラフルな蝶の飾りをみつけ、学校へのおみやげにちょうどよいと喜ぶ。

ベルメールのデッサンと並べられたシ作品
 展覧会はこの日が初日の予定だが、着いてみると、スタッフはみんなまだ最後の準備をしており、お客さんはいれていない。日本では考えられないペースだ。ただし四谷シモンの人形の周辺はさまざまなアーチストによる写真などがはられていちおう展示ができあがっている。「木枠で出来た少女1」の横は、われわれの希望どおりベルメールの写真とデッサンだが、シモンの人形との関係がわかりやすいよう、球体関節や人形の輪郭が明確なデッサンをすぐ横に配したという。彼らは彼らなりに、こちらに相当神経をつかってくれているのだ。
 ともかくポスターをもらってエッフェル塔のそばにある日本文化会館に向かう。
 バルベス・ロシュシュアール駅にひきかえし、サン・ミッシェル駅からパリ郊外への直通電車の地下鉄部分に乗り継ぐ。この乗り継ぎの仕方にちょっととまどったが、郊外電車の地下鉄部分も、パリ市内であれば普通の地下鉄の切符そのままで乗れるという。
 着いてみると日本文化会館は月曜は休館日。困ったなと思ったが、ガードマンにきくと図書館長の森村悦子さんは出勤しているというので、ともかく森村さんにご挨拶し、ポスターをおわたしする。
 これで午前の予定は終了、午後はともかくルーヴルに行くことにする。ただしちょうど昼時なので、ルーヴルに行く前にウィンドー・ショッピングと食事をすることとし、高級ブティックがならぶサントノーレ通り、マドレーヌ広場をぐるりとまわる。食事はマドレーヌ広場近くのカジュアルだけどちょっとしゃれた中華料理店。客が大勢はいっているのは評判がいい店だからなのだろう。大月さんがいないので注文が心配だったが、簡単な日本語メニューもあり、事なきをえる。帰るとき、親切にしてもらったボーイさんに「シェー・シェー・ニ、ムッシュー」と声をかける。アジア人同士、ささやかな連帯感の表明だ。ボーイさんもとても喜んでいる。
 ルーヴルの前では警察のローラー・スケート部隊とであった。渋滞が多いパリの街で現行犯的な事件を解決するには、これが一番効率がいいということらしい。

ハムラビ法典
 ルーヴルで、四谷シモンは前に来たときにみたメソポタミアの獣神の巨大な彫像を荒木さんにもみせたいという。まっすぐボルサバードの中庭と名付けられた小空間に向かうが、この彫像群はほんとうに圧巻だ。楔形文字の話などをしながらハムラビ法典の石柱をみ、そのかたわらのメソボタミアの印章のコレクションをみる。この印章、私は最初それと気づかなかったのだが、古代史マニアの荒木さんが、印鑑のような円柱の柱面に刻んであるのがそれで、粘土などでできた契約書のうえで円柱をくるっところがして刻印したのだと説明してくれる。言われて納得。長さ3cmほどの印章はすべて中央に穴が開けられて筒状になっており、刻印したあとは紐を通して体につけておいたのだという。
 そこからただちにエジプト美術のコーナーに向かう。以前はここで道に迷ってエジプト美術を半分しかみることができなかったのだが、ようやく念願の書記の像と対面。ノーブルな像にしばしみいる。
 みんな歩き疲れてきたし、ルーヴルの展示をいろいろみだしたらきりがないので、いったんホテルに戻る。
 夕方大月さんが迎えにきてくれ、大月さんの車でアル・サン・ピエール美術館のオープニング・パーティーへ。公式なレセプションは明日予定されており、今日はスタッフ、出展者等が中心の親睦会的なもよおし。みんな思い思いの席に陣取って、ワインを飲んだり軽食をつまんだりする。
 われわれが同席したのはスペイン、カタルーニャ出身の人形作家ミグェル・アマーテさんの席。アマーテさんの作品は展示されているすべての作品のなかでももっとも失礼な、いやエネルギッシュなもので、準備段階からこれはどんな人がつくったのだろうとみんなで噂していたのだ。実際にお会いすると本人も自作の人形そのままのエネルギッシュな人で、ファッションもとてもユニーク。展示している人形は70年代初期のもので、今日着てきたファッションもそのころのものをひっぱりだしてきたのだという。またアマーテさんは四谷シモンと同じ1944年生まれで、そのことを話題にすると、本人の方から私たちは申年同士ですねと、エトの話をしてきた。とにかく話し好きの人だ。
 そこへマルティーヌが割り込んで、今度はベルメールの写真やデッサンのコレクター、ジョゼフ・ノザルゼフスキーさんを紹介してくれる。ポーランド系の人で、こちらはスーツを着こなした紳士だ。四谷シモンが今回の展示のなかに1点だけまだみたことがない写真があったというと、「そうだろう、あれは印刷物で紹介されたことがないものだ」と自慢げ。ノザルゼフスキーさんとシモンは大月さんを介してベルメールのことなどいろいろ話し出す。どうやら、「もしベルメールに会ったらなんと言いたいか」「ベルメールがシモンの作品をみたらなんと言うだろうか」などと話しているらしい。ノザルゼフスキーさんはシモン作品がすっかり気に入った様子。
 となりのテーブルにはアメリカとヨーロッパをまたにかけて活躍するビリー・ボーイさんの共同制作者ララさん、アレックさんが陣取り、ビリー・ボーイ作品の日本代理人・渡辺純子さんに紹介してもらう。とても静かな人たちだ。
 そこへガリマール社のパトリシア・ゲドーができたてのカタログをもって到着。パトリシアに会うのはもちろん今日がはじめてだが、メールでいろいろやりとりしていたので、私に気がつくと向こうの方から飛びついてきた。外国人と挨拶するときに握手は当たり前と思っていたもののアンブラッセ(抱擁)初体験の私は、どう反応したらいいかわからずひたすらまごまご。パトリシアと大島和代さんが話しているところを写真にとろうとしたら、今度は、「どこでも写真をうつすなんて、やはりあなたも普通の日本人ね」といわれて、記念写真も断念。ちなみにマルティーヌとの記念写真もうつしていない。
 そのあともいろいろな作家、関係者、評論家などがつぎつぎにやってきて会場となった美術館のカフェテリアは大にぎわい。オープニングはいつはてるともなく続いているが、われわれは途中で失礼することにした。
 パーティーであまりなにも食べていない四谷シモンの希望は、やはり和食が食べたいということなので、美術館から日本人街の焼鳥屋へ直行。みんないろいろなものを注文し、ああだこうだと言いながら食べ始めたが、私は途中で居眠りをはじめてしまったらしい。この日の夕食のことはほとんどおぼえていない。みんな興奮と疲労をかかえてホテルにもどった。



2004年1月 パリ滞在記:その1 (1月15日&16日)

2004年1月 パリ滞在記:その2 (1月17日)

2004年1月 パリ滞在記:その4 (1月20日)

2004年1月 パリ滞在記:その5 (1月21日&22日)

2004年1月 パリ滞在記:その6 (1月23日&24日)

アル・サン・ピエール美術館の人形展(「四谷シモンーー人形愛」サイト内)

徘徊録 La Nomadologie