イスラム哲学における後期新プラトン主義の足跡
  ――ファーラービーによるプラトンとアリストテレスの調和論

al-khawarnaq
「ネオプラトニカーー新プラトン主義の影響史」所収、昭和堂、1998年

 al-khawarnaq氏の論考「イスラム哲学における後期新プラトン主義の足跡ーーファーラービーによるプラトンとアリストテレスの調和論」(「ネオプラトニカーー新プラトン主義の影響史」所収、昭和堂、1998年)を読んだ。ファーラービーはおろか、al-khawarnaq氏が論及する哲学者の著作の大半を読んでいないが、いささか感じるところがあったので、al-khawarnaq氏の論考を要約し、自由な感想を記してみたい。

 al-khawarnaq氏の論考に入る前に、予備知識として、「イスラーム辞典」(岩波書店)から、ファーラービー(870年頃〜950年)についての記述の冒頭部分を抜きだしておく。
 「”(アリストテレスに次ぐ)第二の師”と称される哲学者。中世ラテン世界ではアルファラビウスあるいはアヴェンナサルと呼ばれた。新プラトン主義の影響を受けた著作を書いているが、むしろ言語論と論理学、政治学に大きな関心を寄せていた。彼の個別的論点である知性論、流出論などはイブン・スィーナー思想の先駆と目されている」(仁子寿晴氏執筆)
 また、井筒俊彦氏によれば、ファーラービーは次のような状況の下で思索・著述を進めたとされる。
 「「第二の師」(al-mu'allim ath-thani)の名の下に広く思想界に知られているファーラービーは、本名をAbu Nasr Muhammad b. Muhammad b. Tarkhan b. Uzlagh al-Farabiといい、ファーラーブのワーシジという処に生れたトルコ系の人である。彼はバグダードに出て医学、その他の学を修め、後アレッポに行って有名なハマダーン朝の君主サイフ・ッ・ダウラ(Saif ad-Daulah)の愛顧を受けた。彼がサイフ・ッ・ダウラの保護の下に身を置いたということはかなり意味がある。それというのは丁度その頃シーア派の中に十二イマーム派が勃興して急に盛んになり、ファーラービーもその運動に関係があったと考えられるふしがあるからである。もっとも彼がシーア派に属していたかどうか正確には分からないが、バグダードを去ってアレッポに赴くことを決意するに至ったことは相当の理由があったに違いない。サイフ・ッ・ダウラはイマーム派の君主であって、ファーラービーを非常に優遇した。彼はイスラーム暦339年=西暦950年、80歳の高齢をもってダマスに死んだ」(井筒俊彦氏「イスラーム思想史ーー神学・神秘主義・哲学」、井筒俊彦著作集第五巻所収、中央公論社、1992年;なお、如月使用のPCソフトではアラビア語の正確な表記が不可能なため、欧文表記は一応の目安と理解して頂きたい)
 思想史的には、ファーラービーはイスラーム世界における最初の本格的アリストテレス註釈者と位置づけられ、井筒氏も、「アリストテレスの理解は彼に至ってキンディーより遙かに正確になった」(井筒俊彦氏、前掲書)としている。

 さて、al-khawarnaq氏の「イスラム哲学における後期新プラトン主義の足跡ーーファーラービーによるプラトンとアリストテレスの調和論」だが、全体は、次の7節に分けられている。

 1)はじめに
 2)プラトンとアリストテレスの調和論について
 3)著述方法における対立の調和
 4)視覚理論における調和
 5)世界の産出者に関する調和
 6)イデア論をめぐる対立の調和
 7)結語

 まず、「はじめに」の節で、ファーラービーに至るまでのイスラーム思想界の状況が簡単が概括され、論考執筆意図が次のように明らかにされる。
 「小論の目指すところは、イスラム哲学の実質的な創始者ファーラービーの一小冊「二人の哲学者・神的なプラトンとアリストテレスの主張の調和」を基にした、ファーラービーと特に後期新プラトン主義者との思想史上のより具体的なつながりの記述にある」(同論考)
 続く「プラトンとアリストテレスの調和論について」の節では、まず後期新プラトン主義者によるプラトンとアリストテレスの間の調和の主張が三種類に区別(省略)される。そのうえで、al-khawarnaq氏は、「当時の第一級の知識人であり、プラトン、アリストテレスの著作に通暁していた後期新プラトン主義者がなぜこのようなテーゼを掲げたのだろうか」(同論考)と自問し、そのこたえにつながるものとして次の二つの前提的事項を指摘する。
 a)「新プラトン主義者にとって注釈作成とは、すでにプラトンによって発見されたがミュートスやアレゴリーなどで隠蔽されたまま表現された真理を、白日のもとにさらす試みであった。注釈以外の彼らの作品も同じ意図で貫かれている。たとえば、プロクロスの「神学綱要」中のヌース理解はそのまま彼の「ティマイオス注解」の内に見出せる。そして新プラトン主義者は、アリストテレス自身も同じ目的で、すなわちプラトンの真意を解明する目的で、著作活動を行ったと、判断したのだろう」(同論考のなかで、Blumenthal説として紹介されている)
 b)「プラトンは身体と魂を同時に鍛えるために、教えながら散歩した。プラトンの後継者アリストテレスとクセノクラテスは「散歩する者(プラトン)の人々」と呼ばれ、アリストテレスはリュケイオンで、クセノクラテスはアカデメイアで教鞭をとった。リュケイオンで学ぶ者は、Lykeioi Peripatetikoiと、アカデメイアで学ぶ者は、Akademikoi Peripatetikoiと呼ばれたが、後に前者からは場所を示す単語が、後者からは「散歩する者たち」が消え、現行の呼称に落ち着いた」(同論考のなかで、シンプリキオス、アレクサンドリア学派による学派史理解として紹介されている)
 この節では、以上のような後期新プラトン主義の流れを受けて、ファーラービーはプラトンとアリストテレスは異なるという同時代の主張に反論するため「二人の哲学者・神的なプラトンとアリストテレスの主張の調和」を執筆した、とまとめられる。

 著述方法、視覚理論、世界の産出者、イデア論における調和については、結語のなかでal-khawarnaq氏自身が要約しているので、以下、その要約をそのまま抜き書きしておく。

 a)著述方法
プラトンによる真理を隠す著述方法と明確で客観的なアリストテレスの著述方法は、表面上対立を示すが、ファーラービーはアリストテレスの著作が実は多分に曖昧さを含む点を指摘し、二人の著述方法における対立を否定した。多くの後期新プラトン主義者も同じく、アリストテレスが意図的に曖昧な文体を使用したとの認識を示していた。
 b)視覚理論
偽シンプリキオスは、アリストテレスによるプラトンの視覚理論批判が実際は、ティマイオス本人の視覚理論に対する批判であることを主張し、二人の対立を回避した。一方ファーラービーは、視覚理論上の対立を次のように解消した。言語による視覚理論の説明はきわめて困難であるため、二人ともその完全な記述には至らなかった。二人の記述の表面上の対立は、いわば同一の現象に対する異なる記述の試みと見なせる。
 c)世界の産出者
アンモニオスもファーラービーもともに、アリストテレスの不動の動者を世界に存在を与える原因と見なすことによって、プラトンのデーミウールゴス的神と調和させた。作用因を、運動と存在を付与する原因とみなすアンモニオスの作用因解釈は後世の作用因理解に大きな影響を与えた。
 d)イデア論
アンモニオスもファーラービーも、イデアを神の思惟内容と見なすことによって、プラトンとアリストテレスのイデア論にまつわる表面的な対立を回避した。

 以上の調和論を、al-khawarnaq氏はファーラービーの「調和論」の一部分に光をあてただけとするが、同時にその「一部分」だけからも、ファーラービーが後期新プラトン主義者から影響を受けた事実、さらには扱われた問題とその解決方法までが、ある程度後期新プラトン主義者と共通していることが明らかであるとする。
 論考の最後で、al-khawarnaq氏は、ファーラービーが以上のような調和論を試みたことのイスラーム社会に即した一面を次のように指摘し、擱筆する。
 「この調和論は、それまで宗教の特権事項とされていた領域に合理性とともに介入した哲学を、保守的宗教層から弁護する試みであり、さらにはまた、合理性とは縁の薄かった世界に何とかそれを根付かせようとするファーラービーの格闘の痕跡であったと考えるべきであろう」(同論考)

 さて、al-khawarnaq氏の論考「イスラム哲学における後期新プラトン主義の足跡ーーファーラービーによるプラトンとアリストテレスの調和論」の要約は以上のようなものであるが、私がもっとも興味深く読んだのは、第3節「著述方法における対立の調和」である。
 この節は、大半がファーラービーや先行するシンプリキオスからの引用・紹介となるので、私もそれを孫引きして紹介してみたい。
 曰く、ファーラービーによると「かつてプラトンは、学問の内容を書き留めたり、優れた知者以外に知識を授与することを禁じていた。しかし、膨大な知識を自ら創出した後で、プラトンはその知識の忘却、再確認の難化に対する恐れに捕らわれた。そのためプラトンはそのような知識を得るに値する者のみが理解可能な象徴・記号を案出し、その象徴・記号を利用して著作活動を行った」(同論考)とされる。
 またシンプリキオスは次のように語った。「古人は知識を分りやすい表現で記すことを拒んだ。分りやすさは大衆を引き寄せ、大衆は知識の表面をなぞっただけであたかも知識を確実にものにしたかにような気分に浸ってしまうからである。ゆえに古人は知識を神話や象徴を用いて隠蔽した。ちょうど神殿において最も神聖なものが覆いで隠されているように。アリストテレスはしかし、古人の道をそのまま踏襲せず、あまりにも多様な解釈を許容してしまう危険性のため、神話や象徴の使用を避け、文体の曖昧さをもって代用した」
 プラトンやアリストテレスが、実際に以上のようなことを考えながら著作活動を行ったかはさておき、私には、このファーラービーやシンプリキオスのエクリチュール論はおもしろい。
 al-khawarnaq氏によれば、後期新プラトン主義者とファーラービーにこうした独自のアリストテレスの文体理解を可能にしたものとして、当時アリストテレスに帰せられていた次のような偽書簡(アレクサンダーへの手紙)の影響も指摘できるという。曰く、「あなたは聴講専門の授業について、(その)秘密を守らねばならないとお考えになって、私にお手紙を下さいました。聴講専門の授業は公開されているとともに公開されていません。それは、われわれのもとで学んだ者だけに理解されるものだからです」
 この節で展開される著述方法の比較に続く、視覚理論、世界の産出者、イデア論における調和の議論の紹介も意義あるものと考えるが、こうしたエクリチュール論の存在が紹介されたことに、私としてはal-khawarnaq氏の論考の大きな意義を見出したい。ただし、al-khawarnaq氏自身も指摘しているように、このプラトンとアリストテレスの著述方法における調和の指摘は、表面上対立している学説を象徴表現と具体的叙述の違いとして安易に調和させてしまうという意味では、哲学的に諸刃の刃であるともいえると思う。
 しかしそれも、プロティノスの「エンネアデス」を抜粋し註釈を加えたパラフレーズ集が「アリストテレスの神学」としてアリストテレスに帰せられ、ここからアリストテレスを解釈していくといったテクスト批判の制限のなかでは、やむを得ないことだったかもしれない。

 以上の主旨の書き込みを小掲示板に行ったおり、al-khawarnaq氏から次のようなコメントをいただいたので、紹介させていただく。

 「今現在その古代末期の情況に眼を配って感じていることなのですが、後期新プラトン主義者が著作活動を行った時期は、哲学史の中では沈滞期で、一方キリスト教思想史では最初の黄金期でした。キリスト教徒からは、哲学は対立する宗教思想のように映り、批判の対象でした。その中の有名な批判に、「哲学を代表する2人の人物プラトンとアリストテレスの主張には相対立するものがある。これは哲学が間違っている明らかな証拠である。一方キリスト教にはそのような主張の対立はない」というものがありました。
 そのキリスト教側からの批判を受けて、哲学側は「プラトンとアリストテレスに対立する主張はない」という反撃を出します。時を経るに連れ、両哲学者に対立の無いことを主張するのが、新プラトン主義者の学派の義務のようなものと化したようです。
 その新プラトン主義者の習慣が、イスラム期以降のファーラービーには、どうも歴史的文脈を離れた真実のように映ったのかもしれません。ただしファーラービーには、アリストテレスの哲学とプラトンの哲学を個別に紹介した作品もあり、私の論文で主軸に扱った著書をファーラービーのものではない、とする見解の存在も後に知りました。
 ただしファーラービーよりすこし前の世代のキンディーという学者は、プラトンとアリストテレスの哲学の基本的同一性を信じていた可能性が高いです。このような見解の発生の可能性は、アリストテレスの著作の難解さにも根を持っていたと思います。ギリシア語そのものでも難解なもの(あたらしい言葉遣いなど)を、まったく毛色の違う言葉であるアラビア語の訳で理解することの困難さは想像を絶するものがあります。」


参考
al-khawarnaq氏による解説ページ
http://homepage2.nifty.com/bet-aramaye/ma-kataba-hu.html


 平成15年5月23日

  

徘徊録 La Nomadologie