大胯びらき

ジャン・コクトー著
澁澤龍彦訳
河出文庫(河出書房新社)、2003年


Le Grand Ecart
Jean COCTEAU, 1923 


  これは、ジャン・コクトー(1889年−1963年)34歳の作品というより、澁澤龍彦の記念すべき翻訳デビュー作だ。
 話そのものは、コクトー自身を思わせる主人公ジャックのうぶな恋愛譚だが、全体の流れ(文体)はスムーズとはいえず、あえてさまざまなムラを残したところにコクトーの才を認めるべきであろう。
 たとえばプルーストを思わせる次のようなフレーズが、まるで話を中断するかのように、いわくありげに挿入される。
 「われわれの人生の地図は折りたたまれているので、中をつらぬく一本の大きな道は、われわれには見ることができない。だから、地図が開かれてゆくにつれて、いつも新しい小さな道が現れてくるような気がする。われわれはその都度道を選んでいるつもりなのだが、本当は選択の余地などあろうはずがないのである。」(本書23ページ)
 しかしだからといって、「大胯びらき」は古典的な教訓小説などではけしてない。
 本書で一番おもしろいのは、実は人を食ったような次のヴィクトル・ユゴーの詩への言及の部分ではないか(本書81〜3ページ)。
   
  ガルは王妃のおもいびと、武者修業とはあっぱれな、
  勇んで出で立つ闘技場、行けるはニームなるマーニュの塔

  Gall, amant de la reine, alla tour magnanime,
  Galamment, de l'arene a la Tour Magne, a Nime.
   
「それ、どういう意味なの?」
「ガルという名前の男がいたのさ、王妃の恋人だったんだ。武者修業というのは、長い旅…勇ましい旅のことさ。あっぱれというのは、騎士道的なこと。闘技場というのは、お母さんの扇子に描いてあるようなもの。マーニュの塔は、マーニュという名前の塔のこと。ニームは町(a Nimes, la ville)」
「町を賑やかにするの?(Anime la ville?)」
「ちがうよ。ニームだよ、ニームという町の名だよ」
「それで?」
「それでって、それだけさ」
「ひとを馬鹿にしてるわね、ヴィクトル・ユゴーって。こんな詩を書いたなんて」

 これだけでは日本の読者にはなんの話をしているのかチンプンカンプンだと思うが、ユゴーの詩は、字面は違っていても読むと全く同じになり(ガラマン・ドゥラレーヌ・アラトゥール・マニャニーム)、意味の区別ができなくなるのだ。
 このあたり、訳者・澁澤龍彦自身が表現の偶然性・無意味性を楽しんでいるのが、手にとるように伝わってくる。
 ちなみに「大胯びらき」とは、ダンスやバレエの専門用語で、胯が床につくまで両脚を広げること。同時に、少年時代から青年時代に飛び移ることをも指す。
 「誰でも、この危険な年齢の峠越えにあたって、子供っぽい衒気と、孤独な愛の不安と焦燥とから、ちょっぴり悲壮な、はた目には滑稽な、大胯びらきをした経験があるはずだろう。ほとんど傷つくためかのように、彼等は旅行を、恋愛を、病気をこころみる、そして死は、青春の峠越えがいちばん精力を汲みつくすところに、いつもきまってあらわれる<女の顔をした天使>である」(澁澤龍彦、「大胯びらき」あとがき)。コクトーについて解説するかのようにみせながら、ここで澁澤が解説しているのは、当時26歳の自分自身についてであろう。「翻訳」によって自己を表現しようとした澁澤龍彦の原点がここにある。

 なお、河出文庫版は、「大胯びらき」の他にコクトーの「美男薄情」「哀れな水夫」「オイディプース王」「未亡人学校」(いずれも澁澤龍彦訳)という劇場用の小作品4篇が合わせて収載され、コクトー入門として読むことも可能。

 

(2004・1・10)

徘徊録 La Nomadologie

「大胯びらき」のころ