地中海 終末論の誘惑

蓮実重彦・山内昌之編
東京大学出版会、1996年

 この本は1995年11月に行われた「地中海」をテーマにした東京大学大学院総合文化研究科のシンポジウムの報告を中心にまとめられた選書。編者でもある山内昌之氏(中東イスラーム文化研究)のほか、13人の歴史学者、文学研究者らが原稿を寄せ、全体のまとめとして、巻末に編者の蓮実、山内両氏の対談が掲載されている。
 全体は大きく、キリスト教・ユダヤ教(古代〜中世)関連、イスラーム関連、西欧的観点(古代・近現代)にわけられ、それぞれ専門性の高い報告が行われている。

  タイトルにもあるように、各報告は<終末論>を軸に展開するが、まず第1章の聖書学者・大貫隆氏の報告「古代黙示文学の終末論――自然科学と終末予言」のなかで、<地中海>周辺に発生した思想のなかにギリシア・ローマ的な円環的時間意識に基づくものとユダヤ・キリスト・イスラームというセム的一神教に端的にあらわれる直線的な時間意識に基づくものがあることが指摘されたのち、全体は、終末論的、黙示録的世界観がユダヤ・キリスト・イスラームの世界の中でどう展開していったか中心に進められる。
 そうしたなかで、本書が重い雰囲気につつまれているのは、シンポジウムが行われた1995年、オウム教団による地下鉄サリン事件があったため。報告のなかでも、地域・時代の問題を超えてオウム的終末論にふれたものが多い。
 しかしこうした、いわば時事的な関心を離れ、各報告を読んでいくと、私などは、やはり、日本における終末論の典型的なものである<末法思想>との比較に思いがいく。つまり、本書を契機に、<末法思想>とは日本の平安末という地域・時代の制約のなかで生じた運動なのか、より普遍的なものなのか、両面から掘り下げて考えることができるのである。

 さて、地中海的な終末論というと、近いところでは西暦2000年期の終わり、また歴史的なものとしては「千年王国」運動などがキリスト教世界の<終末論>として有名だが、イスラーム圏にも同様な<終末論>が展開した時期(西暦1591年−2年は、イスラーム暦1000年にあたる)があったことを指摘する「イスラーム暦千年を迎えるオスマン社会」(鈴木董氏)、スペイン「イスラーム・スペインの終わらない終末――モリスコの予言とスペイン・キリスト教社会」(宮崎和夫氏)は、言及されることが少ないテーマなので興味深かった。なかでもイスラームを信奉するグラナダ王国崩壊後のスペインで、イスラームからキリスト教に転向したモリスコと呼ばれる人々を中心に「未来記」信仰が広まったという指摘は、日本中世の聖徳太子信仰の心性などと比較して考えるとおもしろいと思う。

 ところで、スペインからのイスラーム追放の問題、私はこれまで深く考えたことがなかったが、宮崎報告に加えて、巻末の対談で編者の山内昌之氏も言及しているので、やや長いが山内発言をひいておく。

「イベリア半島ではたとえば16世紀にユダヤ教徒もイスラーム教徒(ムスリム)もすべて追放される。改宗するか、あるいは異端審問を受けるか、あるいは国外追放ということで、完全にユダヤ教とイスラームの要素を切り捨ててしまう。にもかかわらず、イスラーム教徒であるというアイデンティティを隠したりして、モリスコ(キリスト教に改宗したイスラーム教徒の子孫)などという「隠れムスリム」のような存在が残ったりします。この人たちも17世紀の初頭になると追放され、常に、エスニック・クレンジングというある種の「宗教的な純化現象」の犠牲になるわけです。
 このキリスト教徒によるムスリムの土地の征服、モリスコの追放によるその土地の獲得というのは、無人の土地への入植ではなかったことが重要な点だと思うんです。むしろ、その土地に住んでいた人たちを駆逐するというプロセスですね。
 これは今日的な文脈でいうと、いわば開発という問題をめぐる、勝者と敗者の問題だといってもいいでしょう。現代資本主義においても、開発では勝者と敗者を生み出すわけで、この対立を文明的価値観の中でいえば、モリスコやムスリムという人びとはプロレタリアートになったわけですね。キリスト教徒、カトリックの領主たちは大地主になったりする。こういったキリスト教文明の限界、もっと強く言うと歪みのようなものを、18−19世紀のアメリカにも見ることができると思うんです。」(231−2ページ)

 また、これら<歴史的>観点からの報告とは別に、アンドレ・ブルトンを核に、1920年代以降のシュルレアリスム運動と地中海=東方=異域性の問題を取り上げたフランス文学者・鈴木雅雄氏の「東方よ、勝ち誇れる東方よ――シュルレアリスムと反=地中海の神話」も、現代と終末論との関係という視点から刺激的だった。

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 個々の報告の内容に深く入ることはできなかったが、以上、私的観点から特に印象的な報告のみ紹介した。各報告はかなり短いものなので、それぞれに性急な結論の提起を求めると失望が多いと思うが、参考文献も充実しており、問題提起の書として読めば、その価値は高い。
 そしてここでの問題提起には2つの方向性があるわけで、一つはもちろん「地中海文明とは何か」ということ。さまざまな時代、文化圏の研究者を集めた本書はまずそうした<地域性>を明らかにするという点で充実している。

 しかしやはり、本書の最大のおもしろさは現代と終末論の問題に正面から取り組もうとしているところだろう。
 最初に指摘したようにオウム教事件がそれに重要な影響を及ぼしているのは事実だが、本書はそれを超え、昨今の国際情勢に対する問題提起としても読むことができる。 たとえば巻末の対談のなかで、蓮実重彦氏は「湾岸戦争に出かける兵隊たちに、アメリカの大統領は「ゴッド・ブレス・ユー」と平気で言えるわけですね。(中略)アメリカ的なキリスト教のあり方とフランスにおけるキリスト教のあり方を見れば、アメリカのほうがむしろ土俗的なものをまだ引っぱっているような気がするんです。ほとんど中世的といってもいい」(232ページ)と、地中海文明の正統的な継承者を自認するアメリカ政治(文化)のあり方を批判したのち、「過程に耐えることが――過程というのは何かと何かのあいだにあることですね――非常に厳しいんで、結局のところすぐに結論を求めようとする。そして早く結論を求めたい気持ちが終末論になってしまうというのは、大変始末が悪いことです。地中海はやはり過程の場所であるからこそおもしろいといえるわけでしょう」(238ページ)と結ぶ。

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 参考までに、本書の内容を簡単に紹介しておく。

序章 歴史のなかの地中海(山内昌之)
 T 終末論と預言
第1章 古代黙示文学の終末論(大貫 隆)
第2章 フィオーレのヨアキムの千年王国説(池上俊一)
第3章 黙示録図像の変遷(小池寿子)
第4章 ビザンティン思想における終末論(秋山 学)
第5章 コロンブスと終末論(斎藤文子)
 U イスラームの鏡 第6章 イスラーム暦千年を迎えるオスマン社会(鈴木 董)
第7章 天路歴程譚の系譜(杉田英明)
第8章 イスラーム・スペインの終わらない終末(宮崎和夫)
 V 海からの光
第9章 この世は恥辱と悪徳に満ち満ちているか(本村凌一)
第10章 地中海の曙光(臼井隆一郎)
第11章 欲望の磁場(宮下志朗)
第12章 「東方」よ、勝ち誇れる「東方」よ(鈴木雅雄)
第13章 終末の太陽(石井洋二郎)
対談 現代日本の終末論と地中海(蓮実重彦/山内昌之)

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 「選書」というコンパクトなスタイルをとっているが、本書は今われわれが直面しているさまざまな重要な問題を考えるのに貴重な視点を数多くもりこんでいると思う。 (2002・7・27・up)

 

徘徊録 La Nomadologie