法華経翻訳史について

 「法華経」については、インドでの成立史も重要だが、その後の中国、日本など東アジアでの受容史を考えると、法華経が中国語にどのように翻訳されたのかを知ることも大きなポイントとなる。法華経の中国語訳としては、竺法護の「正法華」(286年)、鳩摩羅什の「妙法蓮華経」(406年)、闍那崛多等の「添品妙法蓮華経」(601年)が現存するが(それぞれの訳出年代は、岩波文庫「法華経」の解題<岩本裕氏>による。以下の平川彰氏の説とは一致しない)、羅什による新しい翻訳がインドの新しい写本を採用しているというように単純には整理できないのである。
 以下、まず平川彰氏と望月良晃氏の対談集「法華経を読みとく」(春秋社、2000年)から、中国における法華経翻訳史に関する平川彰氏の発言を抜き出してみたい。

 「鳩摩羅什の法華経は正法華よりは翻訳された年代が120年も後なのです。405、6年に妙法蓮華経は翻訳されました。
 竺法護(239−316)は50年間翻訳を続け、たくさんの経典を翻訳しています。ただ彼の訳になる正法華経は翻訳がわかりにくいと言われ、昔の人は、法華経を研究するには主として羅什訳に依るのですが、同時に竺法護も見ながら研究していたのです。
 羅什訳は翻訳された年代は正法華より後だけれども、キジ(引用者註;[ジ]という文字[玄×2]がPCの通常変換では出てこないのでカタカナ表記した。キは亀の字。キジは西域諸国の一つ、クチャ。)の写本です。竺法護は名字に竺とつくごとく、天竺の人です。生まれは西域だったかもしれませんが、インド人をもって自認していたのです。ですから彼の持ってきた写本はインドのものではないかと思うのです。そのため成立が新しいわけです。新しく書き加えられているのです。竺法護訳の原本は、西暦250年か300年以前に西域に存在した写本だと思いますが、しかしインド伝来のものです。
 キジの写本は古く、このキジに伝えられていたサンスクリットのものを羅什が持ってきたのです。ですから持ってきた年代は竺法護より後ですが、写本の成立年代は竺法護の正法華より古かったのではないかと思います。ですから提婆達多品だけでなしに薬草喩品の半分もないのです。今でもないのです。
 羅什の妙法華では、薬草喩品は本文の方はありますけれど偈は欠けているでしょう。つまり薬草喩品は羅什訳に後から増補しなかったのです。加えなかったのですが、提婆達多品とか、あるいは本門の偈文とか、そういう重要なものは後から加えて、添品法華になったのです。しかし、今の羅什訳には添品法華にあってもないものもあるのです。足りない部分を後で全部補ったわけではないのです。ただし、現在の妙法華は羅什の訳そのままで伝わっているわけでもないのです。ですから、法華経を研究する人は、そういう分野をもう少ししっかりやって下さるとよいと思います。
 昔、大蔵経がはじめて出版されましたのは、990年頃でした。宋の時代です。その頃には添品法華(660年)も出ていました。しかし現在、中国には古い写本がありません。敦煌文書くらいしかないのですが(法華経の古い写本が敦煌にあるかどうか知りませんが)、そういうものを研究したら、550年頃の羅什訳の姿がわかるかもしれません。現在の羅什訳は、羅什の訳そのままではないのです。後で増補されています。」(平川彰氏、上掲書)

 引用が長くなったが、中国語訳の法華経のテクストを論じることの難しさの一端が、以上で理解していただけると思う。
 さて、法華経の中国語訳について語るとき、写本の系統以上に落とすことができないのは、羅什によるテクストの改変の問題である。次に、それが象徴的にあらわれている「十如是」について簡単にふれてみたい。
 「十如是」とは、羅什訳の「妙法蓮華経」方便品の冒頭近くに出てくる諸法実相、すなわち存在のありのままのすがたを理解するためのカテゴリーである。羅什の言葉をそのまま引けば、如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等となる。「如是」を冠したカテゴリーが10ならべられ、非常に明解である。
 これが中国仏教界では、「天台思想の極説とまでいわれる一念三千説を形成する重要な思想となり、十界互具思想の根拠ともなった十法でもあり、その総称である「諸法実相」は、「大智度論」の思想などを手がかりに、天台智の思想の中核をなす教理にまで体系づけられ、天台実相論の研究は、仏教学界の大きなテーマともなっているのである」(塩入良道氏「天台智の法華経観」、、「講座・大乗仏教4ーー法華思想」所収、春秋社、1983年)。これほど重要な十如是であるが、「この文は竺法護の「正法華経にも世親の「法華論」の漢訳二訳の拠る経にもなく、今日伝わっている梵本にもない文章で、「法華論」の「五何法」(何等法・云何法・何以法・何相法・何体法)や、「正法華経」や梵本の「五法」、さらに羅什訳法華経「薬草喩品」の五法などに対比されるが、周知のように羅什訳以外にはない」(塩入良道氏、上掲論文)のである。
 写本の系統が異なるため単純比較はできないが、参考までに岩波文庫の「法華経」日本語訳から、羅什の「妙法蓮華経」の訳とサンスクリット語テクストからの訳の相等部分を以下に掲げてみよう。
唯、仏と仏とのみ、乃ち能く諸法の実相を究め尽せばなり。謂う所は、諸法の是くの如きの相と、是くの如きの性と、是くの如きの体と、是くの如きの力と、是くの如きの作と、是くの如きの因と、是くの如きの縁と、是くの如きの果と、是くの如きの報と、是くの如きの本末究竟等となり。(坂本幸男氏訳)
如来こそ如来の教えを教示しよう。如来は個々の事象を知っており、如来こそ、あらゆる現象を教示することさえできるのだし、如来こそ、あらゆる現象を正に知っているのだ。すなわち、それらの現象が何であるか、それらの現象がどのようなものであるか、それらの現象がいかなるものであるか、それらの現象がいかなる特徴をもっているのか、それらの現象がいかなる本質を持つか、ということである。それらの現象が何であり、どのようなものであり、いかなるものに似ており、いかなる特徴があり、いかなる本質をもっているかということは、如来だけが知っているのだ。如来こそ、これらの諸現象の明白な目撃者なのだ。(岩本裕氏訳)
 繰り返しの有無といった文章構造上の問題とは別に、内容的な違いは明白だ。結局この十如是は、法華経の翻訳にあたって羅什が創出したカテゴリーだというのが、仏教教学の有力見解である。ただし、中国、日本の法華教学は、羅什訳そしてそれに基づく智の理論をベースにして展開してきており、「その意味で梵本になかった文にしても、他の法華経にないにせよ、またこの面から種々の疑点や批判はあるが、羅什訳のいわゆる「十如是」は、天台思想にとって重要な意味をもつ」(塩入良道氏、上掲論文)のである。

 以上、簡単ではあるが、法華経の中国語訳を考える際の最も基礎的な問題点として指摘しておきたい。

註) 「添品妙法蓮華経」は、「妙法蓮華経」の訳文に従いながら、「妙法華」に欠如した部分を補い、提婆達多品を見宝塔品の中に入れ、陀羅尼品と嘱累品の位置を変更している。 



「蓮と法華経」読解・註1