レンブラントの世紀ーー17世紀ネーデルラント文化の概観

ヨハン・ホイジンガ著
栗原福也訳
創文社、1968年


Nederland's beschaving in de zeventiende eeuw, een schets
Johan HUIZINGA, 1941 

 

 本書は、1932年にケルンで行われた講演をオランダ語に翻訳する際に、ホイジンガ自身が大幅に加筆し1941年にハーレムのティエーンク・ウィリンク書店から刊行されたもの。この年、オランダはナチス・ドイツによって占領されており、17世紀オランダの輝かしい歴史を懐古することで、不当な占領に抗議するという意図が感じられる著作である。とはいえ、邦訳で170ページ弱という記述は、文字どおり「文化の概観」を出るものではなく、ネーデルラント史(内容的にはオランダ史)についてのつっこんだ分析や論証を期待して読むとものたりない。
 本書の内容については、訳者あとがきのなかで栗原福也氏が要点よくまとめているので、まずはそれを紹介しておきたい。
 @「17世紀のオランダ文化は当時のヨーロッパ文化の一般的特徴とは全くかけ離れた独自の性格を有していた。かりに17世紀のヨーロッパ文化に固有の文化形式を「バロック」と呼ぶなら、オランダのそれは「市民的」と呼ぶことができる。(言うまでもなく、ここに「市民的」という語は、今日われわれが使用するような近代市民社会の成立によって初めて形成された市民を意味せず、中世都市の市民、もしくは中世都市的要素の濃厚な17世紀オランダ都市の市民を意味する。)市民的なオランダ文化の歴史的基礎条件は中世以来のネーデルラントにおいて多数の都市が発達し繁栄したという事実、しかもこれらの都市集団が強大な君主の統一的支配に服したのは極めて短期間に過ぎなかったという事実に求められる。この歴史的条件は、オランダ国民に非軍事的・非宮廷的性格を賦与し、一般市民と都市貴族の経済的政治的対立を融和させ、カルヴィニズムとレモンストランティズム(エラスムス的伝統)の一見鋭い宗教的・思想的対立を緩和して実質的な一致点に到達せしめた。このような社会的類型を示すオランダの国民性は素朴、倹約、清潔、きまじめ、散文的感覚のような諸特質となって文学に表現される。そして都市的・市民的なオランダ社会にとりわけふさわしい芸術であった油彩画のもつ特徴は日常的な事物の忠実な写生、技法へのひたすらな熟練であった。それはあの規範を厳守するきびしい線とフォルム、豪華、絢爛、荘重、威厳などのバロック的特徴とは全く異質のものであった。」(栗原氏)
 Aネーデルラント共和国は国家と国民の誕生するやたちどころに17世紀のヨーロッパにおける強国、商業的大勢力、文化的中心になったが、それは当時の西ヨーロッパ諸国に胎動しつつある近代的諸要素をいち早く展開させたことによって実現したのではなかった。それどころか、国家組織も経済制度も全く中世的原理に基づく旧式の体制であり、文化もまた中世以来発達した都市的基盤に規定されていた。すなわち、すべては極めて自然に中世的趨勢の中から発してその進路をとったに過ぎないのである。にもかかわらずオランダ国家と国民はそのような旧態依然たる国家と経済とを充分に機能させて当時のヨーロッパ世界において先頭をきって進むことができたし、その文化に特殊オランダ的な国民的性格を与えることに成功した。」(栗原氏)
 本書が取り上げるのは文化のさまざまな領域だが(ただしスピノザに代表される哲学の分野は意図的に省略されている)、このうち絵画についての記述のなかから、ホイジンガのオランダ文化観を具体的にひろってみよう。
 「17世紀オランダの油彩画における写実主義について論ずるのは至極当然のことだと言ってよいであろう。人は芸術における写実主義によって何を目ざしているのだろうか。それは諸事物の外貌を色彩と線においてできる限り事実と違わぬように再現することを志向することだろうか。しかしながら、思うに、そうした志向は決して何々主義ではなく、単に有能で誠実な手工芸の課題、つまりアングルが「芸術の良心」と呼んだところの問題に過ぎないのであって、あるいはエジプト、あるいはシナ、あるいは近代印象派というようにその成果は甚だ相違するに至ったとはいえ、すべての健康な芸術期はそのような志向を見失ったことがなかったのである。その相違はただ描写の真実性と忠実性のいずれが観念されていたか、また正確性と精密性のいずれが観念されていたかというにあった。これらの観念は相互に完全に一致してはいないからである。わが国の画家たち自身はこのような真実あるいは実在といった根本問題に関心を払わなかった。かれらはただひたすら描くだけで、諸事物の本性、実在あるいは本質に関しては一片の意見も表明しなかった。そうするにはかれらはあまりにも無学であり、天真爛漫であり、格式張ったところがなかったのである。換言すれば、これらひと握りの画家たちは手先の熟練をけた違いによく会得していたが、様式が何を意味するかは殆んど知らず、すでにかれらのうち最大の巨匠ヤン・ファン・エイクが「わがなしうる限り」という格言を選んでいたように、自己の最善を尽くして描いたのであった。それならば何かの拍子にかれらは「生」の「意味」を表現しようとしたであろうか。もしそう言いたければ、その通りと答えてもよいが、もともとかれらはそのようなことに心を煩わさなかったのである。かれらは生を幻想で装おうことは殆んどせず、実人生と同じように多くの神秘で包んだのであった。然り、かれらはみずからそのことを知らずして哲学的な意味でのリアリストであった。つまりかれらは、存在一般とあらゆる個別的事物との絶対的実在性を牢固として確信した、というすぐれた意味においてリアリストだったのである。そしてリアリストなる語はこのような意味に使用すべきものだ。リアリズムについても同様である。」(本書128〜130ページ)
 このように、「様式」概念の適用に慎重なホイジンガの視点からすれば、17世紀のオランダ絵画が「バロック」でありえないのは当然である。またオランダ絵画独自の意識された様式としてではないリアリズムの概念がより明確にされるのは、次のフェルメールについての記述においてである。
 フェルメールの描く「人物はみな日常的な現実から、言葉はもはや言葉にならず思考も形をなさぬような遙かな澄明と調和の領域へと拉し去られているように思われる。あたかも夢にみる思いがするほど、かれらの挙措は秘密をたたえているのである。リアリズムという言葉はここでは全く見当ちがいであろう。かれらはみな比類なく詩的な内容を与えられている。よく注意してみると、それらはまた決して17世紀頃のオランダ婦人ではなく、静寂と平和に満たされた憂愁の夢想界に住む人物なのである。かれらはまた当時の衣装ではなく、空想の衣服を着ける。それは青と黄の交響楽である。フェルメールは鮮やかで生き生きした赤をごく僅かしか使わない。以前、ウィーンにあるチェルニンのコレクションに入っていたあの成功を収めた素晴らしい作品、すなわち「画架の前の画家像」さえ、その色調は強くも派手でもない。多分大胆に聞えるだろうが私見によれば、フェルメールは最も神聖で極めて明確な出来事を描くまさにその時において、すなわち「エマオのキリスト」においてともかく期待するほど充分には描ききっていないと思われる。ここに物語られているのは福音の出来事ではない。主題はかれの色彩感覚をここで自由に働かせるための単なるきっかけに過ぎない。フェルメールは、一般的な傾向とかけ離れた諸特質を有していたにもかかわらず、いかなる主張も理念ももたず、また言葉の厳密な意味においては特定の様式をもたなかったということによって、依然として真のオランダ画家なのである。」(本書132〜3ページ)
 一方、訳者・栗原氏が本書の邦訳に際して表題に選んだレンブラントについて、ホイジンガは偉大さを強調するよりもその天才の限界に読者の注意をうながし、そこからオランダ文化の一般規定を抽出しようとする。すなわちそれは、「夢幻的世界に実質を与える」ことの失敗の実例であり、「オランダ的な現実」の優先であった。
 「冒涜のように聞こえるだろうが、「夜警図」においてわたくしは再び平静さの欠如とでも言うべきものを見出す。光線と色彩と驚嘆すべき工夫のかずかずにもかかわらず、レンブラントはかれが(実際に)描きえたよりも偉大なるなにものかをこの絵に意図していたのだという感じをわたくしは禁じえない。」「レンブラントはかつてかれの心に浮かんだもののうちで最大の作品を企て、そこにおいて自己の構想を完成した。それは荘重極まりない英雄的描写と、その当時にもそれ以前にも類をみない様式の偉大さとにおいて、あの市民軍団を凌駕したのである。しかるにアムステルダムのお偉方がこの絵に異議を唱え、この大作は完成されず、その主要部分の断片がストックホルムで発見された。かくして、天才の悲劇はいつものように冷酷無残にレンブラントにおいて立証されたのである。」(本書141〜2ページ)
 油彩画に代表される文化の最興隆期が極めて短く、18世紀には目にみえた衰退がはじまるということもオランダ文化の特徴である。したがって最後に、「ポール・アザールが極めて適切にもヨーロッパ意識の危機と名づけて特徴づけた1685年から1715年までの時期に、読むに堪えかつ人々に読まれてもきたような力強く気魄のこもった名文章を生み出すのを妨げたのは何だったであろうか。」(本書160ページ)とホイジンガは問う。そしてそれを、17世紀文化を支えた市民精神の変化に見出そうとする。意識されることのない様式に基づく文化は、市民精神が変化したとき、また意識されることのないうちに変容・衰退していく運命にあったのだろうか?
 ただホイジンガにあっては、その分析が次のように相対主義に傾き、具体性を欠いているという点は否定できない。
 「われわれは17世紀の尺度をもって18世紀を測ろうとするのをそのまま見過ごすわけにはゆかない。18世紀は自己の尺度で測られるべきである。オランダであると他の国であるとを問わず、18世紀を評定しようとする者は誰でもまずその世紀が達成した偉大で不滅なものの価値を認識しなければならない。たといそれらの達成が混乱した現代にとらわれている者には、今や遙かなる以前の時代の名残りと思われるような名前で呼ばれるにしてもである。かれは1700年代のあの退屈な合理主義、あまりにも分別くさい悟性を洗練された唯美主義や自己陶酔で思い上がったえせ哲学でもって評価するのではなく、17世紀のまだ曖昧で不明瞭な思考の中から生まれてきた人々にとっては、そのような合理主義が積極性をもち、歴史的に必要不可欠のものであったことを理解すべきである。そうすれば、われわれの観察するレンブラントの世紀の幕を閉じるあの衰退について、おそらくやや寛大な評定が与えられるであろう。」(本書166ページ)
 しかしホイジンガの記述に対する具体性の欠如の指摘は、もしかすると異文化に生きているわれわれの視点からのないものねだりであって、オランダ国民に向かって語りかけようとする本書刊行時のホイジンガには自明のことだったのかもしれない。

(2003・11・24)

ホイジンガの描くグロティウス像

徘徊録 La Nomadologie