「花には香り本には毒を――サド裁判・埴谷雄高・澁澤龍彦・道元を語る」註
註1)
現代思潮社の前に、彰考書院からサド選集が出版(1956年〜57年)された経緯を、「澁澤龍彦翻訳全集」(河出書房新社)の月報@に記された小笠原豊樹氏へのインタビューから補っておく(インタビュアー=出口裕弘氏)
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小笠原「彰考書院って、どういう本屋だったか、ご存じですか?」
出口「いや、ぼくは具体的には何も知りません。」
小笠原「藤岡という人がやっていた出版社で、小さな出版社だからたいして社員がいるわけじゃないけれども、その人は昔のアナーキストとつき合いのあった人です。たとえば平林たい子なんかと、かなり親しかったらしい。戦後有名になったのは、出版界で戦犯追求という動きがあったときです。「軍国主義政策に協力した出版界のボスを追放せよ」というようなことを言ってやったんですが、藤岡さんというのは先頭に立ってそれをガンガンやったというので有名な人なんです。出版界の昔の歴史なんか読むと出てきますけれども。戦前は印刷屋だったかな、製本屋だったかな、ちょっと忘れたけれども、戦後出版を始めて、アナーキストなのに「共産党宣言」とか出すわけね(笑)。何でも売れたんだよ、左翼の本は。そういう関係で、ぼくのマヤコフスキーも出してくれたんです。」
(中略)
小笠原「その弟(藤岡の次男)の代になった時に、「大学を出たばかりで何もわからないから、何かいい企画はないでしょうか」とぼくに訊くから、「澁澤という人がいるんだけれども、サドを真面目にやっている人なので、サドというのはご存じのようにああいう作家だから、どうも正統派扱いされなくて日本の研究者も不遇である。だからサドをやったらどう?」と言ったら、「やりましょう」というわけよ。そいつも共産党員だったのよ。ぼくは紹介しただけで、彼らが集まって三冊とか決めて、これ(彰考書院版)になったわけです。」(括弧内は引用者・如月による補足)
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小笠原、出口の両氏は、澁澤龍彦氏らとともに同人誌「ジャンル」を創刊している(1955年)。この彰考書院版サド選集に序文を執筆したのが三島由紀夫氏だというのもアナーキーでおもしろい。
註2)
刑法175条(猥褻文書頒布等) 「猥褻ノ文書、図画其他ノ物ヲ頒布若クハ販売シ又ハ公然之ヲ陳列シタル者ハ二年以下ノ懲役又ハ二百五十万円以下ノ罰金若クハ科料ニ処ス販売ノ目的ヲ以テ之ヲ所持シタル者亦同シ」
条文そのものは、その後次のように文語体に改められている。
「わいせつな文書、図画その他を頒布し、販売し、又は公然と陳列した者は、二年以下の懲役又は二百五十万円以下の罰金若しくは科料に処する。販売の目的でこれらの物を所持した者も、同様とする。」
註3)
現代思潮社発足にあたり、石井恭二氏がサドに着眼した経緯を、「澁澤龍彦翻訳全集」(河出書房新社)の月報Dに記された森本和夫氏へのインタビューから補っておく(インタビュアー=松山俊太郎氏)
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森本「現代思潮社発足に当たって、まずどういう本を出そうかということを相談されまして、ぼくの意見としては「どうせ本を出すのだから、悪い本を出せ」と言ったわけです。本というものは悪いものだ、と。その頃は別にバタイユの「文学と悪」が必ずしも念頭にあったわけではありませんーーチラッと念頭にあったかもしれませんーーけれども、本というものはただただどっぷり何かに巻き込まれてしまっているような順応主義的なものには価値がないんだ、というような考えをもっていました。
しかも、石井恭二が自分で出版社をつくるといった時には、ぼくは友人としては反対したんですよ。
しかし、彼は確固たる意志をもってやるというので、やるからにはそこらにないような、危険があるようなものを出したほうがいいと言ったんです。つまり当たり前のことを書いている本じゃないような、アッと言わせるような本、という意味で言ったわけですけれども、「たとえば?」というので、トロツキーの名前がいきなり出たかどうかは別として、共産党の関係がありまして、マルクス主義もいまの共産党のマルクス主義じゃつまらないから、それに対して、あえて言うならば闘っている本、そういう本とサドと二本だてでいこう、ということをぼくは言ったんです。」
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1958年、澁澤氏は朝日新聞に「サド復活について」という小文を執筆しているが(「澁澤龍彦全集1」所収、河出書房新社、1993年)、そのきっかけをつくったのも森本氏という。
森本氏は、府立十一中で石井氏と同級生。出口裕弘氏の一年上級にあたる。朝日新聞記者を経て後に東大教授となる。現代思潮社からデリダの「根源の彼方にーーグラマトロジーについて」(足立和浩氏訳)が刊行されたのも、森本氏の人脈による。
註4)
「澁澤龍彦翻訳全集」のなかで「わが生涯」の解説を担当した巖谷國士氏によれば、この翻訳には次のような意義があるという。
「澁澤龍彦は、自分の好きな作品しか翻訳しなかった仏文学者である。ほとんどの場合、翻訳の対象としてはすでに読んで好んでいたものをえらんでいたようで、未読の作品を単なる注文にこたえて訳すということは稀だった。トロツキーの「わが生涯」は後者の部類のように見えもするが、かならずしもそうではない。ふたたび浜田泰三氏(「わが生涯」の共訳者の一人)の証言によれば、彼はこの作品を読みたがっており、読んだうえで訳したがっていたらしい。「サド裁判」にいたる一連の動向がそのきっかけをつくった」(「澁澤龍彦翻訳全集6」解説、河出書房新社、1997年、括弧内は引用者・如月による補足)
この翻訳では、共訳者の林茂氏が途中で翻訳を中断し、その分の翻訳も澁澤氏がカヴァーしているが、その事情については、細註参照。
註5)
澁澤氏、出口氏が1928年生まれ、加賀乙彦氏は翌1929年生まれである。この世代は、10代後半で終戦を迎えているわけで、三島由紀夫氏ら終戦時に20歳を超え、戦争をある程度客観的にみていた世代とも、まだ10代前半で戦争に対する自分の見方ができていなかった世代とも違う、いわば自己形成の途中の状態で終戦を迎えていると思う。少なくとも加賀作品が中心主題の一つに据えているのは、1945年8月15日を境にした、そうしたアイデンティティーの喪失とそこからの新たな自己形成ではないか。
澁澤氏は、こうしたテーマを語ることなく亡くなったが、それは澁澤氏にアイデンティティーの危機がなかったということではあるまい。むしろそれが強烈であったがゆえに、敢えて語ることをしなかったとみることも可能だと思う。私が終戦直後の澁澤氏の人脈や行動に関心をもつ由縁である。さらにいえば、加賀作品等から澁澤氏ら同年代の人間の内面を照射することもある程度可能なのではないかと考える。
また、埴谷雄高氏と戦争体験および思想の時代性について、石井氏は次のように興味深い発言をしている。
「どうしても、あの世代(埴谷雄高の世代)は戦争体験がある。周りの人間は大量に死ぬ。それから埴谷さんには幼児体験もあります。大岡昇平にしても武田泰淳さんにしても、やはり時代の子でした。思想というのは時代を離れて、つまりシュールレアリスムというのはシュル(飛び上がる)レアリスムではないというのが私の考え方で、ブルトンはそうだったんです。この深部にのっているからシュールなので、より現実的なものが見られる。現実から離れてしまったら現実もへちまもありません。単なる観念のお祭りになって、夢を見るために夢を一所懸命見るというばかな作業がシュールレアリスムの中から出てくる。それに対してブルトンやアラゴンが反発するというようなことがあったわけです。」(「追悼 埴谷雄高、括弧内は引用者・如月による補足)
註6)
院政期(平安時代末期から鎌倉時代初期)にかけての日本の思想史分析において、浄土思想や末法思想の影響の大きさが指摘され続けてきたのには、実証研究の成果というだけでなく、「正統的」マルクス主義の階級闘争的史観が日本中世史に投影されてきたことの影響も大きいのではないか。すなわち、マルクス主義的な歴史家によって、この時代は「天皇・貴族」から「武士(在地領主)」へと権力の主体が移行する時期とみなされ、そのイデオロギー的な背景が「密教(=古代的・貴族的仏教)」から「浄土信仰(=中世的・民衆的仏教)」とされてきたように思う。
スターリン主義に意を唱えて現代思潮社を興した石井恭二氏がこうした図式による道元理解を受け入れないのは当然のことであるが、現在の中世史においては、中世を権力主体が移行する時期とする見方そのものがほぼ崩壊しているのではないか(小論「院の民衆への接近」参照)。中世史研究において、黒田俊雄氏がこうした動きに先鞭をつけた人物の一人であるのはいうまでもない。
なお、黒田氏の引用文中にみられる引用は、大屋徳城氏の「平安朝に於ける三大勢力の抗争と調和」(「日本仏教の研究」二、1929年)による。